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大 正 期 神 戸 市 に お け る 柳 谷 観 音 の 信 仰 と 布 教

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(1)

大 正 期 神 戸 市 に お け る 柳 谷 観 音 の 信 仰 と 布 教

│ 熊 沢寛 道 の 活動 を 中 心と し て

││

生 嶋 輝 美

は じ め に

京都 府長 岡京 市浄 土谷 の立 願山 楊谷 寺は

︑寺 号よ りも

﹁柳 谷観 音﹂ の通 称で 広く 知ら れる

︒平 安時 代初 期開 創と さ れ

︑近 世初 期に は浄 土宗 西山 派粟 生光 明寺 の末 寺と なっ た︒ 本尊 千手 観音 およ び眼 病治 癒に 効験 があ ると いう 霊水 へ の 信仰 によ り︑ 近世 には 皇室 の崇 敬を も得 てい る︒ しか し︑ 山中 にあ って 檀家 を持 たな い楊 谷寺 の発 展は

︑早 い時 期 か ら庶 民が 結成 した 信仰 団体

﹁講

﹂に よっ て支 えら れて いた

︒ 明治 中期 から 大正 期に は︑ 従来 の開 帳や 講へ の仏 体︵ 本尊 の模 像︶ 貸し 出し のほ か︑ 講の 活動 に支 えら れた 楊谷 寺 に よ る 布教 も 広 範囲 に 行 われ た

︒こ れ は 日下 俊 隆︵ 明 治二 年 生 まれ

が住 職 だ っ た時 期 に 含ま れ る︒ 大 正十 三 年 再 版 の

﹃楊 谷 寺誌

には

︑こ の 時 期︑ 大阪 と 北 海 道旭 川 に 別院

︑神 戸 に 説教 所

︑東 京

・敦 賀・ 宇 治 に 出 張 所 が 開 設 さ れ たこ とが 記さ れて いる

︒ しか しこ れら とは 別に

︑大 正期 の神 戸市 には

﹁別 院﹂ が存 在し たこ とが

﹃楊 谷寺 文書

﹄に 見え る︒ この 別院 の設 立

― 509 ―

(2)

者 は︑ のち に後 南朝 の正 統性 を主 張し

︑熊 沢天 皇と して 一時 世間 の耳 目を 集め た熊 沢寛 道︵ 明治 二十 二〜 昭和 四十 一 年

︶で あ る

︒従 来 熊 沢 に つ い て は︑ 西 山 派 の 学 校 を 出 て 神 戸 で 説 教 所 を 開 き

︑布 教 活 動 を し た 経 歴 は 知 ら れ て い た

︒し かし 熊沢 寛道 とい えば どう して も取 り上 げら れる のは 後年 の自 称天 皇 と し ての 側 面 で︑ 信仰 圏 を 精力 的 に 拡 大 して いた 楊谷 寺の 布教 活動 にた ずさ わっ てい たこ とは 忘れ 去ら れて いる に等 しい

︒ま た︑ 熊沢 が活 動し た時 期︑ 神 戸 市で 楊谷 寺が どの よう な布 教活 動を 構想 し展 開し てい たの か︑ 具体 的に 述べ たも のは 見当 たら ない

︒そ こで 本稿 で は

︑ま ず大 正期 神戸 市に おけ る柳 谷観 音の 信 仰の 状 況 と布 教 活 動を 概 観 し︑ つ ぎに 冗 長 とな る が︑

﹃ 楊谷 寺 文 書﹄ に ま とま って 残っ てい る熊 沢寛 道の 全書 簡を 引用 しつ つ彼 の活 動を 辿る こと とす る

︒ 一︑

大 正 期神 戸 市 にお け る 信仰 組 織 現在

の神 戸市 には 柳谷 観音 の講 や布 教組 織は 存在 しな い

︑大 正四 年の

﹃楊 谷寺 誌原 稿﹄

に はい ず れ も兵 庫 の 信 栄 講・ 兵庫 講・ 道成 講が 記載 され てい る︒ この 兵庫 は﹁ 兵庫 県﹂ の意 では なく

︑当 時の 神戸 市に おい て神 戸と とも に 中 心を 成す

︑地 区と して の兵 庫で ある

︒こ れが 大正 十三 年の 再版

﹃楊 谷寺 誌﹄ にな ると

︑三 講に 加え て兵 庫の 一心 講

・ 念力 講︑ 神戸 の柳 谷講

・信 説講

︑直 轄 兵神 観 音 講︵ 所在 地 名 なし

︶︑ 下 山 手 通六 丁 目︵ 神 戸︶ の兵 神 説 教所 の 存 在 が 記さ れる

︒兵 神説 教所 は︑ 大正 十一 年二 月以 来の 直轄 兵神 観音 講の 多大 なる 尽力 によ り︑ 同十 二年 五月 に堂 舎を 建 立 し説 教所 の公 認を 得て 常在 教師 を派 遣し たも のだ とい う︒ わず か十 年の 間に 講は 倍増 し︑ 楊谷 寺直 轄の 講と 説教 所 が 設置 され てい るこ とか らは

︑楊 谷寺 がこ の時 期︑ 神戸 市に おけ る布 教活 動を 積極 的に 進め てい たこ とが 窺え る︒ 右の 講の うち

︑道 成講 は明 治四 十四 年に 結成 され た︒ 前年 から 毎月 有志 者が 集ま り回 向し てい たが

︑参 加者 が増 加

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 510 ―

(3)

し たた め︑ 十箇 条の 講則 を定 めて 楊谷 寺に 届け 出︑ 名称 を道 成講 とし た︒ 講則 では

︑毎 月十 七日 に講 元か 講員 自宅 に 安 置し た柳 谷観 音を 回向 する こと

︑毎 回積 立金 をし て銀 行に 預金 し︑ 年一 回講 員全 員で 楊谷 寺に 参詣 する こと

︑講 員 死 亡の さい は講 員若 干名 が葬 式に 立ち 会う こと

︑な どが 取り 決め られ てい る︒ 他の 観音 講と の衝 突を 一切 避け るこ と も 定め られ てい るが

︑こ の条 目か らは

︑類 似の 講の 存在 とそ れと の間 に摩 擦が あっ たこ とが 推測 でき よう

︒ま た︑ 講 則 を楊 谷寺 に届 け出

︑講 則に 柳谷 本寺 の法 則・ 指揮 命令 を遵 守す るこ とを 定め てお り︑ 任意 の信 仰団 体と いっ ても 楊 谷 寺 へ の 帰 属 意 識 は 強 か っ た も の と 推 測 さ れ る

︒結 成 段 階 で は 講 元 と 世 話 人 数 人 を 合 わ せ

︑講 員 三 十 人 余 で あ っ た

︒講 元の 職業 は按 摩で ある

︒ ここ から 大正 四年 に分 離し たの が兵 庫念 力講 であ る︒ 道成 講で 講元 に次 ぐ講 長を つと めて いた 江見 十一 を中 心と し て 結成 し︑ 十五 箇条 から 成る 講則 を定 めて いる

︒講 元は なく 講長

・会 計・ 幹事

・世 話人 総代

・世 話人 を置 き︑ 毎月 十 九 日に 講を 開い て読 経念 仏し

︑毎 年四 月に 楊谷 寺へ 団参

︵団 体参 詣︶ する こと

︑毎 月五 銭を 講費 とし て徴 収し 八銭 を 団 参旅 費と して 積み 立て るこ と︑ 講毎 に三 十分 以上 の説 教か 仏教 講演 を行 うこ とな どが 取り 決め られ た︒ 講長 は高 田 徳 松で ある が︑ 実質 的に は幹 事の 一人 であ る江 見 が念 力 講 を取 り 仕 切っ て い た らし い

︒高 田 は明 治 五 年︵ 一 八七 二

︶ 生 まれ の麺 類商 で︑ 人格

・財 産と もに 相当 なも のと 衆人 の認 める 人物 であ り︑ 市内 寺院 教会 の世 話係 をい くつ もし て い たと いう

︒江 見は 安政 六年

︵一 八五 九︶ 生ま れで 漢学 や仏 教教 理の 素養 があ り︑ 当時 は工 場事 務員 と親 族経 営会 社 の 事務 員を 兼業 する 会社 員で あっ た︒ 大正 二年 に楊 谷寺 から 道成 講に 下付 され た本 尊千 手観 音の 模像 は道 成講 に残 し た ため

︑念 力講 は新 たに 制作 され た千 手観 音三 尊の 模像 を楊 谷寺 から 借用 し て 礼 拝対 象 と して い る

︒ 道 成講 か ら 分 離 した 当時 の講 員は 七十 から 百三 十人 と︑ 書類 によ って 幅が ある

︒ こ の念 力 講 が神 戸 市 所在 の ほ か の講 と 異 なる の は︑ 大 正 七年 五 月 に兵 庫 県 知事 に 認 可 され 説 教 所と な っ た 点 で あ

― 511 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

(4)

︒当 初は 教務 所設 立を 目指 した もの の︑ 知事 の注 意を 受け て説 教所 に変 更し て認 可申 請し なお して いる

︒教 務所 は 法 務所

・講 社事 務所 の類 で教 宗派 の事 務を 取り 扱う もの であ るの に対 し︑ 説教 所は おそ らく 教会 所と 同じ で︑ 布教 伝 道 をな すも ので ある

︒教 務所 設立 は最 初︑ 大正 六年 十一 月に 高 田

・江 見 を﹁ 業務 担 当 者﹂ とし て 申 請し た が

︑こ の 時 は認 可さ れて いな い︒ 翌大 正七 年一 月に は担 任教 師を 西山 派中 僧正

・楊 谷寺 住職 日下 俊隆

︑常 在教 師を 西山 派凝 講 補

・楊 谷寺 派出 僧横 江瑞 善と して 加え 申請 し︑ この 後の 経緯 には 詳ら かで ない 部分 もあ るが

︑前 述の 知事 の注 意を 経 て

︑説 教所 とし て五 月に 認可 され た︒ 教務 所・ 説教 所の 認可 申請 には 宗派 管長

︵光 明寺 住職

︶の 副書 が必 要と いう こ と もあ り︑ 正式 には

﹁浄 土宗 西山 派念 力講 説教 所﹂ で登 録さ れ て いた

︵住 所 印 は﹁ 柳谷 観 音 念力 講 説 教 所﹂

︶︒ 念 力 講 事務 所と 同じ 神戸 市兵 庫西 柳原 町の 借家

︵六 畳二 間・ 三畳 二間

︑中 庭つ き︶ を所 在地 とし

︑江 見十 一は 信徒 総代 兼 借 地借 家人 とし て署 名す る︒ なお

︑念 力講 は大 正六 年十 一月 の教 務所 設 立 願書 提 出 時に は 講 員三 百 人

だ っ た が︑ 説 教 所設 立初 年度 の大 正七 年末 の段 階で は信 徒戸 数五 百戸

︑信 徒五 百十 八人 と兵 庫県 知事 に報 告し てい る

︒ 二︑

神 戸 市内 別 院 設置 計 画

│熊 沢 寛 道の 登 場

│ 実は

楊谷 寺で は︑ 念力 講教 務所 の設 立を 申請 した 段階 で︑ 将来 的に 神戸 市に 別院 を設 立す るこ とを 考え てい たら し い

︒こ れは 大正 七年 一月 に日 下俊 隆を 筆頭 とし て県 に 提出 し た 申請 書 添 付の 陳 述 書 に︑ 毎月 講 員 から 五 銭 を 徴収 し

︑ こ れか ら経 費を 引い た分 は﹁ 将来 楊谷 寺ノ 別院 ヲ神 戸市 ニ建 築ス ルノ 資金 ニ貯 蓄ス

﹂と ある こと から 分か る︒ しか し そ れは 抹消 され て﹁ 維持 財産 トシ テ確 実ナ ル銀 行ニ 預入 ス﹂ と書 き直 され て お り

︑ 同 年四 月 に 提出 さ れ た説 教 所 設 立 願書 にも 訂正 後の 文言 が踏 襲さ れて いる

︒ち なみ に大 正六 年に は北 海道 旭川 の 楊 谷 寺別 院 が 興隆 寺 の 寺号 を 公 称

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 512 ―

(5)

し てお り

︑ 大正 四年 に奥 の院 を建 立し た直 後の この 時期

︑楊 谷寺 の布 教活 動は 北 と 西 での 進 展 が目 指 さ れて い た と 考 えら れる

︒ 次に 別院 設立 の話 が見 える のは 大正 八年 九月 のこ とで ある

︒念 力講 説教 所の 江見 が日 下名 義で 作成 し︑ 日下 に送 付 し てき た﹁ 別院 設置 趣意 書﹂ の案 がそ れで ある

︵ 以下

︑引 用史 料に は読 点を 付し

︑単 なる 書き 損じ の文 字は 抹消 して 注記 しな い︒

︶ 別

院設 置趣 意書 神 戸市 ハ年 々人 口増 殖シ 柳谷 観音 信者 及講 員モ 益々 増加 シ︑ 尚ホ 発展 ノ余 地モ 拡大 ナル ニ反 シ︑ 奉仏 場所 ノ狭 隘 ナ ルハ 甚ダ 遺憾 トス ル所 ナリ

︑殊 ニ近 年土 地価 格非 常ニ 奔騰

︑随 テ借 家ノ 賃貸 モ之 レニ 伴ヒ 幸ヒ 奉仏 適当 ノ場 所

モ 終ニ 他ニ 奪ハ ルヽ 等ノ 向キ 有之

︑斯 クテ ハ信 迎上 益々 悪影 響ヲ 蒙ル 次第 ニ付

︑之 レガ 永遠 安全 ニ信 迎ヲ 求メ ン ト スル ニハ

︑各 信者 及各 講連 盟事 業ト シテ

︑市 内適 当ノ 場所 ニ別 院ヲ 設置 スル ノ外

︑他 ニ策 ナシ ト信 ズ︑ 幸ニ 各 位 此意 ヲ諒 トシ

︑御 賛助 アラ ンコ トヲ 御参 考ノ 為メ

︑別 紙別 院略 則案 ヲ添 付ス 大 正八 年九 月

楊 谷寺 住職

日 下俊 隆 近

年の 神戸 市の 人口 増加 に伴 う土 地・ 賃貸 住宅 の価 格高 騰が 奉仏 場所 の確 保を 危う くし てい ると し︑ 信者

・各 講の 連 盟 事業 とし ての 別院 設置

︑つ まり は別 院の 建設 が提 唱さ れて いる

︒ち なみ に神 戸市 は︑ この 翌年 大正 九年 十月 一日 の 第 一回 国 勢 調 査に お い て東 京 市・ 大 阪市 に 次 い で人 口 第 三位 と な る大 都 市 で ある

︒﹁ 楊 谷 寺別 院 設 置略 則 案

に は

― 513 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

(6)

市 内各 講に 下付 され た本 尊分 身︵ 模像

︶は 一時 別院 に返 付す るこ と︑ 市内 各講 の名 称は その まま で念 力講 説教 所は 説 教 所の 三字 を削 るこ と︑ 各講 内で 葬式

・仏 事を 営む 時は 必ず 別院 僧侶 を招 待す るこ と︑ 各講 で徴 収し てき た講 金は 全 廃 し︑ 各講 より 従来 楊谷 寺に 納め てき た冥 加金 は別 に納 付方 法を 設け るこ と︑ など が示 され てい る︒ 江見 は別 院建 設 の ため に大 規模 な頼 母子 講を 組織 し財 源を 確保 する つも りだ った らし いが

!

翌 月 に は うま く い って い な いこ と を 日 下 に報 告し てい る"

︒ とこ ろが 日下 は江 見・ 念力 講説 教所 とは 別の ルー トで の別 院設 立を 考え てい たの であ る︒ 頼母 子講 の不 調を 伝え た わ ずか 五日 後の 江見 から 日下 への 書簡

#

には

︑熊 沢寛 道が 神戸 市で の別 院設 置活 動を 始め てい るこ とが 見え てい る︒ 拝

啓 如仰 秋冷 之候

︑益 御壮 健之 段︑ 奉慶 賀候

︑扨

︑熊 沢氏 布引 下付 近ニ 貴山 ノ別 院設 置御 計画 ニ付 テハ

︑当 所 利 益又 ハ不 利益 等ノ 意見 御問 合之 趣︑ 敬承 仕候

︑右 別院 ノ設 置ハ 大ニ 賛同 スル 処ニ 御座 候得 共︑ 別院 トス レバ 神 戸 市 ニ 一ケ 所 ヨ リ出 来 不 申︑ 然 ルト キ ハ 神戸 ノ 極 東ニ 別 院 ア リテ 西 部 ヲモ 支 配 スル ハ 不 便 ニ モ ア リ︑ 信 者 モ 迷

迷 ヲ 感ス ル訳 ニ付

︑此 際 ハ 説教 所 名 義ノ 下 ニ 設 置御 計 画 セラ レ テ ハ如 何 カ

︑而 シ テ設 置 セ ラレ タ ル 暁ニ ハ 東 西 説 教所 ノ盛 衰ヲ 見テ 亦適 当ノ 場所 ニ別 院ヲ 設置 シテ

︑両 説教 所ヲ 廃合 スル 方穏 当ト 思考 仕候 間︑ 右愚 見ヲ 付シ 御 返 事申 上候

敬 具

十 月十 二日

念 力講 説教 所内

江見 十一 日 下俊 隆師 様 神

戸市 の極 東と され る布 引下 付近 に熊 沢が 別院 を設 置す る計 画が あり

︑そ れに つい て日 下が 江見 に意 見を 求め たこ と

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 514 ―

(7)

が 分か る︒ 江見 は︑ はじ めは

︵神 戸市 西部 の念 力講 説教 所と 同じ く︶ 説教 所と して 開始 し︑ その 後の 状況 を見 て両 説 教 所廃 合の うえ 別院 を設 置し ては どう かと 返答 して いる

︒ 神戸 市の 別院 に関 する 熊沢 寛道 自身 の書 簡は

︑右 と同 じ大 正八 年十 月か ら︑ 大正 九年 六月 頃ま での もの が残 る︒ す べ て楊 谷寺 宛で 封書

・葉 書十 五通

︑他 に 名 刺一 枚 が あり

︵表 1︶

︑ その 全 部 が﹁ 大 正八 年 十 月起

神 戸 兵 庫説 教 所 信 書 袋 教務 執事 用﹂ と表 書き され た袋 に︑ 念力 講説 教所 設立 関係 文書

︵一 部を 除く

︶と とも に入 れら れて いる

︒初 見 の 大正 八年 十月 十五 日付 書簡 は二 通あ る︒ 当時 楊 谷寺 に 掛 錫し て お り以 前 か ら 親し く し てい た 長 崎 老僧

︵梁 瑞

︶と

︑ 楊 谷寺 方丈

︵住 職日 下俊 隆︶ 宛の もの であ る︒

﹇史 料1

此 頃中 御山 に御 邪間 致し て居 まし た時 は折 々御 高見 を承 り︑ 不肖 の進 路の 上に 多大 なる 参考 を得 た事 を喜 ひ︑ 其

は 深謝 致し 居り まし た︑ 御覧 に入 れま した 如く

︑来 迎寺 より は彼 の如 き手 紙に て︑ 私も 帰神 早々 一応 の御 詫ひ を な し今 後の 御引 立を 御願 ひ致 し置 きて 辞し まし た︑ 一時 住所 定ま らさ る私 は昼 夜兼 行で 進路 に向 ひ奮 進致 して 居 ま す

︑勿 論 此度 は 全 く私 一 個 と して も 死 活問 題 で あり

︑御 山 に 対 して も 亦 大切 な る 事業 で あ り ま す か ら︑ 万 事

遺 算 なく 進む 可く 献 身 的て 御 座 い舛

︑目 下 之 所 は第 一 に 住所 問 題 です が

︑近 日 中 に共 に 御 喜び 下 さ る事 の 出 来 る 吉報 を御 目に 懸け る事 が必 すや 到来 し実 現致 す事 と信 じま す︑ 御山 八田

・野 口両 師及 一切 の方 々に よろ しく 御 伝 言を 願ひ ます

︑御 免を 十 月十 五日

熊沢 寛道 長 崎老 僧前

― 515 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

(8)

1 『楊谷寺文書』に見える熊沢寛道書簡等一覧

形状等 封書 ペン書き

封書(封 筒なし)

ペン書き 封書 ペン書き 封書 墨書

封書 墨書

封書 墨書

葉書 墨書 封書 墨書

葉書 墨書 封書 墨書 葉書 墨書 封書 墨書 葉書 ペン書き 封書 ペン書き 葉書 ペン書き 名刺

「目録」は『楊谷寺文書』の目録番号、「年月日」欄の( )は消印・内容によるもの。

「差出」「宛先」欄の( )は封筒からの情報。

「差出」欄の【 】は印文、『 』は住所印からの情報。

宛先 長崎老僧(「楊谷寺 方 丈」宛→3-77 ものか)

方丈

(楊谷寺)方丈

(楊谷寺)方丈

(楊谷寺)長崎老僧

上様(楊谷寺執事)

楊谷寺執事

(楊谷寺)方丈

楊谷寺執事

(楊谷寺)方丈

楊谷寺執事

(楊谷寺)方丈

楊谷寺執事

(楊谷寺)方丈

楊谷寺執事

差出

熊沢寛道(兵庫会下山善光寺別院 内 熊沢寛道)

寛道

熊沢寛道(兵庫会下山公園善光寺 内 熊沢)

熊沢(神戸市東雲通6丁目14 9 熊 沢 寛 道【柳 谷 観 音 兵 神 別 院】)

熊沢(神戸市東雲通6丁目14 9 柳谷兵神別院【柳谷観音兵神 別院】)

熊沢寛道(神戸東雲通6丁目柳谷 兵神別院 熊沢寛道【柳谷観音兵 神別院】)

東雲通6丁目 柳谷兵神別院【柳 谷観音兵神別院】

熊沢寛道(神戸東雲通6丁目 柳 谷別院 熊沢寛道【柳谷観音兵神 別院】)

神戸市東雲通6丁目 柳谷兵神別 院【柳谷観音兵神別院】

熊沢寛道(『柳谷観世音別院主任 熊沢寛道 神戸市東雲通6丁目』)

『柳谷観世音別院主任熊沢寛道 神戸市東雲通6丁目』

熊沢寛道(『柳谷観世音別院主任 熊沢寛道 神戸市東雲通6丁目』)

神戸熊沢寛道

熊沢寛道(『柳谷観世音別院主任 熊沢寛道 神戸市東雲通6丁目』)

神戸市生田神社東門 豊田内 熊 沢寛道

神 戸 市 東 雲 通6丁 目149 谷兵神別院主任 熊沢寛道 年月日

(大正8年)10月15日

(大正8年)10月15日

(大正8年)10月18日

大正8年11月7

(大正8年)11月11日

(大正8年)12月2

(大正8年12月11日)

(大正8年)12月18日

(大正8年12月22日)

(大正9年)3月22日

(大正93月31日)

(大正9年)44

(大正9年)5月12日

(大正9年)5月18日

(大正965日以 前)

(大正8年11月6日〜

96月初旬)

目録

[史料番号]

3-61

[史料1]

3-77

[史料2]

3-62

[史料3]

3-63

[史料4]

3-64

[史料5]

3-65

[史料6]

3-66

[史料7]

3-67

[史料8]

3-68

3-69

[史料9]

3-70

[史料10]

3-71

[史料11]

3-73

[史料12]

3-74

[史料13]

3-75 3-78

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 516 ―

(9)

こ のと き熊 沢寛 道は 三十 一歳

︑進 路未 定の 青年 僧で あっ た︒ 彼の 本家 筋で 養父 の大 然は 生活 も顧 みず 南北 朝史 を正 す 活 動に 没頭 し︑ 明治 末か ら大 正は じめ にか けて 二度

︑南 朝と 熊沢 家の 血筋 の正 統性 の公 認を 得る ため 上奏 請願 をし て い る︒ 大然 が大 正四 年に 死ん だと き寛 道は 光明 寺内 にあ った 西山 派専 門学 寮の 学生 で︑ その 後一 時神 戸で 布教 師を し た

︑と いう のが 一般 に知 られ た経 歴で ある

︒熊 沢家 の宗 旨は 代々 浄土 宗西 山 派 だ った

!

︒学 寮 時 代に 日 下 俊隆 と の 接 点 があ った 可能 性は 高い と思 われ る︒ 大正 六年 の年 末に は︑ 寛道 はお そ ら く 楊谷 寺 に いた

"

︒な お

︑注 目 すべ き こ と に

︑神 戸で 別院 設立 活動 をは じめ たこ の大 正八 年︑ 六月 に寛 道は 熊沢 家の 家督 を相 続し たこ とを 上奏 して いる

#

︒ 十月 の段 階で 熊沢 は神 戸で の住 所が 決ま って おら ず︑ 兵庫 の会 下山 善光 寺別 院内 に止 宿し てい た︒ この 善光 寺別 院 は 大正 六年 に開 創し たば かり であ る$

︒ 前と 次に あげ る十 月十 五日 付の 二通 の 書 簡 に別 院 設 立の 語 は 見え な い が︑ 楊 谷 寺に とっ て大 切な 事業 つま り別 院設 立を 自己 の﹁ 死活 問題

﹂と 表現 し︑ 見い だし た進 路に 邁進 しよ うと する 意気 を 示 して いる

︒こ れに 対し て次 の日 下宛 の書 簡か らは

︑経 済的 な問 題以 外に も︑ 別院 設立 の前 には きわ めて 複雑 な人 間 関 係が 横た わっ てい たこ とが 窺い 知れ る︒

﹇史 料2

﹈ 謹 啓 先日 は微 意を 御容 れ下 され

︑御 厚志 奉深 謝候

︑贈 物は 着神 早々 尊命 之如 く配 達仕

︑彼 の来 迎寺 之方 は御 詫 び 致し たる も︑ 結局 小衲 之住 所を 確定 せさ る可 らさ る立 場と 相成

︑日 夜兼 行仕 り居 り候

︑執 筆之 時も 無之 為め に

御 無信 致し 候段

︑一 重に 御海 容下 され 度候

︑扨 て昨 日も 新川 の青 木氏 を訪 問し て尊 意を 伝へ

︑氏 の意 見を 聞き た

る に︑ 吉川 氏と の間 に於 ける 調訂 之光 明あ る如 く確 信し 候へ ば︑ 及は すな から 観音 様の 御徳 を損 ねざ る様

︑其 労 を 執る 考へ に御 座候 間︑ 左様 御了 解下 され 度候

︑一 方江 見氏 之事 は同 家へ 参上 して

︑二 三の 世話 方と 小生 の事 に

― 517 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

(10)

就 き協 議せ られ

﹁た る﹂

︑ 其趣 きを 御山 へ通 知な され た る 由も 承 り 候へ 共

︑左 程 御 懸念 下 さ る事 も な きか と 存 じ 居 り︑ 全て 御山 に関 係あ る講 中一 切の 事は 直に 小生 の死 活問 題と なり たる 今後 は︑ 万事 身を 以て 事に 当る 覚悟 に

候 へば

︑御 安堵 なし 下さ れ度 候︑ 然れ 共︑ 茲に 御承 知置 き願 度き 事は

︑藤 本師 が恰 も御 山と 切る に切 れな い関 係 あ るか 如く 装ひ

︑柳 谷一 切の 事は 私が 依頼 を受 け居 る等 と以 前よ り自 称せ られ 居り たる 由︑ 昨夜 も或 る人 より 伝 聞 し︑ 勿論 私と 致し ても 先日 迄で 御山 と何 等の 関係 ある かと 思い 様に

︑藤 本師 が御 山に 接近

︵外 面︶ 致し 居る か の 様の 言動 なき にし もあ らず

︑か るが 故に 江見 氏す らも 小生 が面 談し たる 際︑ 藤本 さん とも 一応 相談 して 云云 と 申 され たれ ば︑ 藤本 師は 御山 に対 し別 段の 深き 関係 ある 人に あら ず云 云と 申上 げた く存 した るも

︑御 山の 方よ り 御 一信 を願 ふ考 へに て︑ 其時 聞き 流し に致 し候

︑有 態に 申せ ば︑ 藤本 師も 目下 之処 なれ ば御 山の 講を 利用 して 自

利 を計 り居 らる ゝは 自明 にて

︑此 際純 柳谷 標旁 して 柳谷 の講 を統 一し

︑か ゝれ ば内 心或 は喜 ばす かと 存し 居り 候 へ ば︑ 初

最 に御 山よ り藤 本は 関係 なく

︑此 度柳 谷と して は 不 肖を 遣 し たれ ば と の 御玉 章 を 関係 者 亦 は各 有 力 に

対 し御 一報 下さ れ置 き度 く︑ 左す れは 私と して 今後 に所 する 好便 利は 明か なる 事に 候︑ 終り 臨み 旬日 を出 てす し て 好便 を便 せら るゝ 事と 努力 仕り 居り 候 敬具 十 月十 五日

寛道 方 丈様 文中

︑新 川の 青木 とは

︑当 時神 戸市 最大 のス ラム とし て知 られ てい た神 戸新 川地 区に おい て﹁ 柳谷 講﹂ を主 宰し た 人 物︑ 吉川 は神 戸の 信説 講︵ 深切 講・ 親説 講︶ 主宰 者で ある

︒こ の二 人の あい だに は軋 轢が あっ たら しく

︑熊 沢は 自 身 住所 不定 の状 態な がら

︑日 下の 意を 受け て調 停し よう とし てい る︒ また 江見 のも とへ も向 かい

︑別 院設 立に つい て

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 518 ―

(11)

相 談し たの であ ろう

︒熊 沢自 身は

﹁此 際純 柳谷 標旁 して 柳谷 の講 を統 一﹂ する こと もあ りえ ると 考え たよ うだ が︑ と り あえ ずは 既設 の神 戸地 区所 在の 講お よび 神戸 市内 唯一 の説 教所 の主 宰者 と何 らか の調 整を 行お うと して いた 形跡 を 見 て取 れる

︒藤 本と いう 僧侶 の実 態は よく 分か らな い︒ 江見 も︑ 頼母 子組 織を 日下 に表 明し たさ い︑ 藤本 も大 頼母 子 を 組織 しよ うと して いる が︑ 彼の ため に柳 谷の 範囲 を犯 され ては 迷惑 千万

︑と 藤本 を警 戒し てい る︒ しか しの ち大 正 十 三年 に念 力講 説教 所を 楊谷 寺兵 庫教 会所 に名 称変 更し たさ いに は︑ この 藤 本 宛 に知 事 の 許可 が 下 りて い る#

︒大 正 八 年段 階の 楊谷 寺に おけ るポ ジシ ョン は熊 沢・ 江見 から 見て も不 明な がら

︑神 戸市 にお いて 柳谷 観音 に関 わる 活動 を し てい たも のと 見ら れる

︒ 熊沢 は﹁ 此度 柳谷 とし ては 不肖 を遣 した れば

﹂と

︑楊 谷 寺住 職 の 意向 に よ り神 戸 に 派 遣さ れ た 形だ と し て いる が

︑ そ れは 別院 建設 の場 所や 資金 を確 保す る以 前に

︑活 動の 拠点 とす る自 己の 住居 を自 力で 確保 する とこ ろか ら開 始さ れ た ので ある

︒し かし さし あた って の活 動資 金の 工面 もさ すが に自 分一 人で は難 しか った よう で︑ ひさ しぶ りの 手紙 を 日 下・ 長崎 に書 いた わず か三 日後 には

︑日 下に 金銭 の融 通を 願い 出た こと が分 かる

﹇史 料3

﹈ 前 略 此頃 は大 金之 御融 通を 御願 申上

︑恐 縮な から 何卒 御聞 き容 れ下 され 度︑ 一重 に懇 願し 奉り 候︑ 当市 の発 展 は 実 に

!

"

非 常 な る勢 に て︑ 現 在に て も 二 千戸 の 住 宅不 足 の 由︑ 市 の徴 査 員 か申 さ れ

︑此 上 市 電 延 長 に 着 手 せ は

︑思 ひ半 ばに 過く る所 にて

︑如 何に 新築 を策 すと も︑ 制限 ある 大工 能力 の事 とて

︑市 民の 住宅 難は 誠に 明々 の 事 に候

︑去 りと て近 年中 続け る好 景気 の後 期 に際 し

︑是 れ を失 は む か︑ 向ふ 十 年 間 は又 策 の 出ず る 所 を 知ら ず

恰 も弾 丸を 消費 せる 田師 の大 鹿を ハ通 過せ るを 見て 空し く銃 を疑 する の状 に御 座候 へば

︑何 卒

!

"

愚 見を 御了 察

― 519 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

(12)

の 上︑ 速か に御 願ひ 申上 候 頓首

十 九十 八日

熊沢 寛道 方 丈様 大

正七

・八 年の 神戸 市は 空前 の大 戦景 気に 沸き

︑急 激な 人口 流入 によ り住 宅不 足・ 賃貸 料騰 貴が 深刻 であ った

︒そ し て 熊沢 の感 じた とお り︑ 大正 八年 は好 景気 の最 高潮 に達 した 年だ った ので あ る#

︒熊 沢 は発 展 中 の神 戸 市 に別 院 を 建 設 する のは 今し かな く︑ この 絶好 機を 逃す こと はで きな い︑ と熱 弁を ふる って いる

︒ なお 日下 は︑ 別院 建設 への 協力 につ いて

︑念 力講 説教 所に 働き かけ を続 けて いた

︒し かし 江見 は別 院設 置の 趣旨 に は 賛同 する が︑ 頼母 子講 も寄 附金 集め もう まく いか ない 現在

︑楊 谷寺 が一 時出 金す るな らま だし も︑ 講中 心の 運動 は 時 機で はな い︑ と日 下に 返答 して いる

$

︒高 田徳 松も 江見 と同 じ頃

︑資 金の めど が つ か ない の で 別院 を 神 戸市 で 建 設 す る見 込み はな い︑ と書 き送 って いる

%

︒日 下は 資金 面で も︑ 現地 の講 が主 体と な っ て の別 院 建 設を 望 ん でい た と 見 ら れる

︒ 一方 の熊 沢は

︑大 正八 年十 一月 六日 に神 戸市 東雲 通六 丁目 に居 を構 え︑ 翌日 その こと を日 下に 伝え てい る︒

﹇史 料4

﹈ 前 略 其後 重ね

! "

種々 御配 慮を 忝な く致 し奉 深謝 候︑ 陳れ ば過 日御 話申 上た る寺 の都 合の 出来 る迄 て︑ 表記 之 所 に一 時仮 住仕 り︑ 漸く 昨日 移居 仕り たる 次第 にて

︑其 場所 は吉 川氏 の東 北約 二丁 程に て候

︑何 卒今 後の 処御 引 立 て被 下度

︑伏 して 御願 申上 候︑ 猶ほ 長崎 御老 僧様 にも 別し て宜 敷御 伝声 願上 候 敬具

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 520 ―

(13)

大 正八 年十 一月 七日

熊沢 拝 方 丈殿 こ

の仮 住ま いは 後述 のよ うに 借家 の二 階を 間借 りし たも ので あっ た︒ 吉川 の信 説講 所在 地か らは 二丁

︑青 木の 柳谷 講 所 在地 から は三 丁︵ 後掲

﹇史 料7

﹈︶ と

︑既 設の 講と は非 常に 近接 して いる

︒﹃ 楊谷 寺文 書﹄ に見 える 熊沢 寛道 の神 戸 市 での 活動 は︑ この 東雲 通六 丁目 の仮 住ま いを 核と して 展開 され るこ とと なる

︒ なお ここ で注 目す べき は︑ この 書簡 の封 筒の 差出 には

︑熊 沢寛 道の 名と とも に﹁ 柳谷 観音 兵神 別院

﹂の 印が 捺さ れ て いる こと であ る︒ 独自 の建 屋も なく

︑何 らの 公的 手続 きを した 形跡 もな い︒ にも かか わら ず﹁ 別院

﹂を 自称 し︑ そ の のち も別 院を 名乗 り続 ける ので ある

︒ 当面 の活 動拠 点と なっ た東 雲通 六丁 目の 借家 を選 んだ のは

︑次 の書 簡に よる と地 理的 な特 性を 考慮 した 結果 であ っ た

﹇ ︒ 史 料5

﹈ 拝 復 七日 出之 貴墨

︑正 に昨 夕拝 誦︑ 御深 切な る御 注告

︑実 に多 謝申 上候

︑江 見氏 之人 格に 就て は︑ 実は 既に 已 に 先輩 より 明鏡 に対 する が如 く聞 き及 び︑ 尚ほ 市の 事情 を愚 察す るも

︑当 地近 旁な らさ る可 らさ るを 知り

︑不 肖 と して 最初 より 此の 地方 を選 び居 り候

︑過 日御 面談 之砌 申上 けた る如 く︑ 当市 に於 ける 講に 経験 ある 俗人 は︑ 常 に 講を 種に

○○ の○ に当 て居 る奸 人の 多き 有様 にて

︑言 行不 一致 は時 代の 通弊

︑実 に慨 嘆之 至に 御座 候︑ 見聞 す ら く︑ 実な らば 念力 講頼 母講 は大 いに 其数 出来 居る 由︑ 御遠 方な る御 山へ は不 明に 候︑ 小生 元よ り他 力的 を選 び

― 521 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

(14)

候 へ共

︑又 自力 の必 要を 決し て忘 却せ ず︑ 故に 当 地は 東 へ も西 へ も 共に 十 四 五 丁隔 て ざ れは 鎮 西︵ 浄 土 とて は

の 寺も なく

︑南 北に は皆 無に て︑ 今迄 では 葬式 屋の 胸に て﹁ 近き

﹂真 言︑ 真宗

︑禅 宗等 に依 頼し たる 由︑ 左す れ は 地点 とし ては 浄土 に最 も相 応敷 く︑ 且つ 観音 菩 薩の 御 加 護を 戴 き︑ 必 す死 地 に 一 生を 切 り 開く 覚 悟 に 御座 候

︑ 失 礼な から 何卒 方丈 前に 宜敷 御鶴 声下 され 度︑ 我か 進路 に於 ける 障害 物あ るは 必然 にて

︑取 り除 ける は除 き︑ 除

け さる 時は 粉

!

して

︑菩 薩の 御徳 を衆 人に 喜ば しむ る決 心に 候間

︑御 安心 下さ れ度 候 早々

十 一月 十一 日

熊 沢拝 長 崎御 老僧 前 二 伸 御下 人に 命じ 下さ れて

︑大 正三 年よ り以 前︑ 数年 間に て︑ 神戸 市よ り御 参籠 せし 人々 の住 所氏 名︑ 御 一 報願 上候

不 二 現

状で は浄 土宗 寺院 空白 地帯 のこ の地 区こ そが 別院 設置 にふ さわ しい のだ とい う︒ 当時 の神 戸市 にお いて は︑ 浄土 宗 の 寺院 数は 真宗

・禅 宗と 並ん で多 い︒ しか し浄 土宗 寺院 は兵 庫地 区に 偏在 し︑ 熊沢 が言 う通 り︑ 神戸 地区 には 少な か っ た︒ 仏道 教会 にい たっ ては

︑念 力講 説教 所の ある 兵庫 地区 にし かな かっ た︵

﹃ 神戸 市統 計書

﹄︶

︒ 当初 計画 の布 引下 から は少 し南 に寄 るが 信説 講・ 柳谷 講か ら近 いの は︑ 将来 的に 両講 を吸 収す ると いう 意図 があ っ た か ら かも し れ ない

︒そ れ に し ても

﹁必 す 死 地に 一 生 を切 り 開 く 覚悟

﹂﹁ 我 か 進路 に 於 ける 障 害 物 あ る は 必 然 に て

取 り除 ける は除 き︑ 除け さる 時は 粉

!

して

﹂と は︑ 熊沢 にと って の別 院建 設は 単な る信 仰の 発露 でな く︑ 一生 の転 機

・ 人生 の一 大事 であ った よう であ る︒ 悲壮 感さ え感 じる とと もに

︑弁 舌の 巧み さを 見る こと がで きる

︒ま た一 方で 江 見 や念 力講 の人 々ら が実 施し てい た頼 母子 講に は少 なか らぬ 不信 感を 抱い てい たこ とが 窺え る︒

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 522 ―

(15)

三︑

﹁ 柳 谷観 音 兵 神別 院 主 任﹂ 熊 沢 寛道 の 活 動 住所

が確 定し てわ ずか 十日 ほど 後に なる と︑ 熊沢 の神 戸市 での 布教 活動 が具 体化 して くる

﹇史 料6

﹈ 拝 啓 昨今 御山 之寒 気も さこ そと 御察 し申 上け

︑御 一山 御各 位様 之御 健か にあ られ かし と奉 祈居 候︑ 陳れ ば此 頃 は 布教 の事 を御 願申 上恐 縮之 次第 にて

︑残 念に も此 程重 松師 より 播州 に先 約候 由を 以て 断ら れ候 へば

︑兎 やと せ む 角 や せむ と 存 じ︑ 目下 の 場 合︑ 名 僧を 御 願 ひ仕 る は 或は 失 礼 か と存 じ

︑旧 友 之情 義 を 以て 出 演 を 依 頼 仕 り 居 候

︑仏 力之 御擁 護に 預り

︑当 所も 実に 好都 合に のみ 進運 し︑ 或る 人の 勧め に依 り︑ 先月 十五 六日 頃よ り柳 谷観 音 講 を組 織仕 り候 てよ り︑ 目下 小生 の手 元に ても 五十 名の 講員 を漸 々得

︑此 中講 員勧 誘の 世話 なし 下さ るゝ 人々 十 九 名程 へ講 員の 住所 氏名 録を 託し 有り 候間

︑本 年中 には 壱百 弱の 講員 は出 来る 事と 存じ 居り

︑何 分に も大 節季 を

目 前 に 扣へ た る 今日

︑余 日 も 無 之候 故

︑当 年 は明 春 之 戦闘 順 備 を 完成 し 置 き︑ 愈々 春 暖 と も 相 成 候 は ゞ︑ 正 に

! "

活 躍可 仕︑ 連日 其下 運動 に余 念無 之︑ 来る 寒中 を利 用し

︑昼 は未 だ柳 谷観 音様 に縁 なき 而も 大発 展中 にて 有 望 なる 或る 地方 に菩 薩の 御徳 を広 め度 く存 じ︑ 其地 人と 結縁 之為 寒行 仕り

︑夜 は亦 神戸 市一 円を 夜念 仏可 仕決 心 致 し候

︑連 日小 生の 運動 には 家人 も実 に驚 き居 り候 へ共

︑自 己と して は些 の苦 痛を 感ぜ ず︑ 返而 益々 勇を 鼓し 快

活 致し 居り 候︑ 是れ も皆 御山 菩薩 の御 陰と 日夜 忝謝 仕︑ 歓喜 的生 活を 営み 候︑ 然れ ども 永遠 なる 彼岸 に到 達仕 る に は幾 多波 浪或 は怒 濤な きを 保し 難く 候へ 共︑ 初一 念を 貫く は小 生の 愚性 にて 候︑ 敬上 慈下 其節 を守 り︑ 慈を 万

― 523 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

(16)

人 に伝 へて も□ 隙害 あら ば︑ 除じ 難き は時 機相 応 之手 段 に 依り 突 進 仕る 心 底 に 候︑ 兎に 角 小 生の 考 へ と して は

︑ 観 音 菩 薩の 御 徳 を弘 め さ し て頂 き

︑我 派 とし て

︑否

︑我 山 とし て

︑東 洋 第 一の 良 港 を有 し 日 進 月 歩 の 大 発 展 し つ ゝあ る神 戸市 に寺 院な きを 遺憾 と存 じ︑ 仏 力加 護 の 下に

︑微 志 を 具体 化 し 候 なら ば

︑何 卒 御引 立 て 下 され 度

︑ 尚 ほ本 月十 七日 午後 一時 より 当所 初回 の講 を開 催可 仕候 事な れば

︑御 多忙 中誠 に申 兼ね 候へ 共︑ 長崎 御老 僧様 に 御 出張 願ふ 事は 叶は ず候 や︑ 前述 之如 き有 様に て︑ 明春 初陣 之高 名を 博さ む為 めに

︑本 年中 に一 度会 合打 合せ の 必 要を 感じ

︑初 開之 事な れは 特に 十七 日を 選び 候次 第︑ 幸に 小生 之微 衷を 御了 解下 され

︑何 卒御 出神 願上 度︑ 伏 し て御 待ち 申上 候︑ 万一 御都 合悪 しき 節は 何卒 御一 報煩 し度 候 恐惶 謹言

十 二月 二日

熊沢 寛道 上 様 十

一月 十五

・六 日頃 から は﹁ 柳谷 観音 講﹂ を組 織し て半 月で 五十 人ほ どの 講員 を得

︑さ らに 年内 には 百人 に増 やせ る だ ろう とい う︒ また 講員 勧誘 をし てく れる 世話 人も 十九 人で きた とす る︒ さき の十 一月 十一 日付 書簡 の二 伸で

︑こ こ 五 年ほ どの 間に 楊谷 寺に 参籠 した 人の 名簿 を送 るよ う依 頼し てい るが

︑初 めは 柳谷 観音 を信 仰す る人 々の もと を訪 ね 歩 いた ので はな いだ ろう か︒ 十二 月十 七日 の柳 谷観 音講 の初 回開 催に あた って は︑ 旧友 の長 崎老 僧に 出演 を依 頼し て い る︒ 講を 開い て説 教や 仏教 講演 を聞 き︑ おそ らく 掛け 金を 徴収 する ので あろ うこ の方 式は

︑道 成講 や念 力講 など

︑一 般 信 者が 運営 した 既設 の講 と変 わら ない

︒た だ講 則を 作っ た形 跡も ない ので

︑僧 侶と して の熊 沢一 人が 運営 し︑ 別院 と 自 称し ては いる が実 質は 別院 建設 を目 的と した 講だ った と思 われ る︒

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 524 ―

(17)

また 家人

!

も驚 く活 動ぶ りだ った が熊 沢本 人は 苦痛 に思 わな いと いい

︑別 院建 設 に 向 けて 意 気 揚々 た る 様子 が 窺 え る

︒た だ﹁ 永遠 なる 彼岸 に到 達仕 るに は幾 多波 浪或 は怒 濤な きを 保し 難く 候へ 共︑ 初一 念を 貫く は小 生の 愚性

﹂と 目 標 実現 の途 上に は障 壁が ある こと を重 々承 知し て おり

︑﹁ 隙 害 あら ば

︑除 じ 難き は 時 機 相応 之 手 段に 依 り 突進 仕 る 心 底

﹂と

︑多 少の 強引 な手 法も 辞さ ない とい う決 意も 持っ てい る︒ そこ には

︑西 山光 明寺 派︵ 我派

︶と して

︑と いう よ り 楊 谷 寺︵ 我山

︶と し て︑

﹁ 東洋 第 一 の 良港 を 有 し日 進 月 歩の 大 発 展 しつ ゝ あ る神 戸 市 に 寺 院 な き を 遺 憾﹂ に 思 い

︑ や はり 今し かな い︑ とい う焦 燥に 駆ら れた 熊沢 の 姿が あ る︒ し かし こ の 熱に 冒 さ れ たか の よ うな 早 急 な 活動 も

︑﹁ 明

春 之戦 闘順 備﹂

﹁ 明春 初陣 之高 名﹂ のた めと 書く よう に︑ 熊沢 には 別院 建設 の地 なら しだ った ので ある

︒ ちな みに 長崎 老僧 の出 演依 頼は 楊谷 寺に 聞き 入れ られ た︒ 楊谷 寺執 事宛 の大 正八 年十 二月 十一 日消 印葉 書に

︑熊 沢 は 次の よう に書 いて いる

﹇史 料7

﹈ 拝 復 来る 十七 日に は御 遠路 之処

︑態 々御 出張 被下 候御 趣︑ 有難 存奉 り候

︑布 教師 は岸 深円 君に 御座 候︑ 万事 不 自 由勝 ちな れと も︑ 将来 に大 なる 目的 を置 き︑ 近く は歩 一歩 つゝ

︑小 生満 身之 努力 を致 し︑ 十七 日も 出来 得る 限

盛 大に 厳供 仕り 度︑ 就て は七 条︵ 金襴 入︶ 及モ ース を御 参上 願度

︑当 所に は只 一人 分よ り無 之︑ 右御 願申 上候 早 々

当 所は 吉川 氏を 東北 に登 る二 丁程

︑青 木氏 より は北 へ三 丁程 布

教師 も別 に依 頼し てお いた らし いが

︑や はり 法衣 は自 分の もの しか 常備 して いな かっ たよ うで ある

︒ さて

︑次 にあ げる のは 初回 の講 終了 後に 住職 日下 に宛 てた 礼状 であ る︒

― 525 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

(18)

﹇史 料8

﹈ 粛 啓 寒気 漸々 厳敷 相成 申候 処︑ 方丈 様を 初め 御一 山各 位様 には 益々 御安 泰之 御由

︑奉 賀上 候︑ 陳れ は︑ 昨日 は 御 遠路 之所 なる にも 微意 を御 許容 之上

︑御 老僧 様を 御発 遣に 預り

︑奉 万謝 候︑ 以御 陰幸 にも 無事 に終 了︑ 喜ひ 居 り 候へ 共︑ 何分 にも 年末 の事 とて 今一 つ参 詣者 之 尠な か り しは 誠 に 遺憾 に て

︑小 生 の徳 力 之 足ら さ る 所 と信 じ

︑ 愈 々益 々大 奮闘 致す 可く

︑是 れか 為め

︑来 月六 日の 寒の 入り より は午 前中 に法 要を 了し 置き

︑午 後早 々よ り住 吉 御 影地 方へ 寒行 に巡 り︑ 夕影 帰宅

︑夕 食を 喰ひ 早々 神戸 市中 を巡 行致 す可 く︑ 尚ほ 微力 のあ らむ 限り を尽 し︑ 講 員 を募 り︑ 近き 将来 には 観音 菩薩 の御 徳を 広く 讃へ 申上 度く

︑日 夜に 祈り 居候

︑幸 にも 熱心 なる 讃成 者有 之︑ 万 端 順風 に帆 を孕 ます 如く 進行 仕り

︑喜 ひ居 候︑ 猶ほ 御老 僧様 に御 依頼 申置 候御 水を 何卒 一月 上旬 中ま でに 受納 仕 り 度︑ 一般 信者 に左 様申 居候

︑一 月六 日御 法類 講に 不肖 末席 を穢 し度 く候 へ共

︑当 日は 寒の 入り にて 残念 なが ら 他 出致 し兼 ね候 間︑ 悪し から ず︑ 何卒 皆様 に宜 敷御 鶴声 願上 度候

︑時 下厳 寒に 向ひ 候へ ば随 分御 身御 大切 に祈 上 候 謹 言

十 二月 十八 日

熊沢 寛道 方 丈様 講

は無 事に 終わ った もの の︑ 熊沢 が期 待し たほ どの 盛会 では なか った とい う︒ しか し熊 沢は めげ ない

︒開 講前 の書 簡 に もあ るよ うに

︑年 明け の寒 の入 りか らは 午前 中に 別院 での 法要

︑午 後は 住吉

・御 影な ど神 戸地 区よ り東

︑当 時は 神 戸 市に 入っ てい なか った 地域 の信 者開 拓の ため 寒行 に赴 き︑ 夕食 後は 神戸 市中 順行

︑と 一日 を信 仰・ 布教 活動 に充 て る つ も りだ と し てい る

︒熊 沢 の 活動 に 賛 同 す る 人 々 も 順 調 に 増 え た ら し い

︒お そ ら く 次 回 の 講 の た め に だ ろ う が

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 526 ―

(19)

﹁御 水﹂ を送 るよ う依 頼も して い る︒

﹁御 水

﹂と は﹁ 御 香水

﹂﹁ 御 洪 水﹂ など と も 書 かれ

︑眼 病 平 癒に 効 験 があ る と さ れ る楊 谷寺 の霊 水で ある

!

︒寒 行の ため に年 明け の楊 谷寺 にお ける 法類 講も 欠席 する と伝 えて いる

︒ 大正 八年 の年 末"

以 降︑ 寒行 に励 むと 宣言 して いた 期間 を挟 み︑ 翌九 年三 月途 中 ま で の熊 沢 の 動向 は 知 るこ と が で き ない

︒し かし 次に 熊沢 が住 職日 下に 出し た書 簡か らは

︑こ の間 に問 題が 発生 した こと が窺 える

﹇史 料9

拝 復 只今 は何 等の 意な るか は不 存候 へ共

︑御 注

#

被下

︑厚 く謝 奉り 候︑ 御文 中︑ 僧呂 とし ての 本分 とか 威信 を 以 てと か等 の文 字あ り︑ 之に 就き 火煙 の譬 より 察 すれ ば

︑已 に 既に 小 生 が自 己 の 本 分を 忘 却 した る 行 動 をな し

或 は画 策致 し居 るや に御 思考 之由

︑誠 に遺 憾千 万︑ 奸策 邪智 之輩

︑小 生を して 無辜 の罪 に陥 入れ んと して の法 略 を 御過 信遊 ばす を︑ 且は 無念 に存 し且 つは 自の 不徳 を悔 ゆる 次第 に候

︑開 教之 困難 は愚 説を また ず︑ 宗祖 大師 す ら 彼之 如し

︑故 にい わん や小 衲に 於て おや

︑時 代の 相違 あり て流 罪之 身辺 に迫 らざ るを 僅に 安堵 せる のみ

︑幸 に よ く御 三思 を願 ふ︑ 此度 出神 した る事 や︑ 小生 に取 りて は実 に必 死的 にて

︑唯 精進 発展 之道 を画 する のみ

︑今 は 他 人奸 奴之 悪言 を耳 にし 躊躇 する の隙 を有 せず

︑此 大決 心あ るか 故に

︑已 に三 百何 十円 と云 ふ︑ 小生 にし ては 実

に 尠な から ざる 畜財 を投 じて 人気 を集 める に務 め居 り候 へば

︑大 智略 先進 者よ り講 の発 展即 ち菩 薩の 御徳 を広 む

る 良法

方に 就て は学 ひつ ゝあ り︑ 尚ほ 大 いに 労 ば んと す る 処 なる も

︑我 一 身上 の 行 動に 就 きは

︑出 神 以 来︑ 一 度 の疾 しき 事を 為し たる 覚え 更に 有之 候は ず︑ 何と なら ば︑ 分限 を覚 知し 居る のみ なら ず︑ 自己 直接 に大 影響 す

れ ば︑ 他人 の忠 告を また ざる 所に て︑

﹁ 忽ち

﹂禍 罪の 至 る を了 知 す る故 に 候

︑物 質 之高 価 な る事 日 本 第一 な る 都 会 に而 も望 を有 し︑ 力戦 奮闘 せる 者に 候事 を 御熟 考 下 さら ば

︑佞 人 の誹 謗 も 等

何 真 価 なき 事 と 存せ ら れ 候︑ 御

― 527 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

(20)

召 しに 依り 来る 二十 六日 午前 中に 御山 へ参 拝可 致候 間︑ 万難 操返 へ︑ 方丈 様及 御老 僧様 には 御在 山願 上候

早 々

三 月廿 二日

熊 沢寛 道 御 方丈 様 喬木 風多 し 日

頃の 活動 につ いて

︑何 者か が日 下に 讒言 し︑ それ を日 下が 信じ て自 分に 忠告 して きた とい うの であ る︒ この 件は 熊 沢 を楊 谷寺 に召 喚し て事 情を 聞き ただ そう とす るほ ど︑ 日下 にと って は見 過ご しに でき ない こと だっ たが

︑熊 沢本 人 に は僧 侶と して の本 分を 逸脱 した 覚え はま った くな いと いう

︒ど ころ か末 尾に

﹁喬 木風 多し

﹂と 書き

︑こ れは 周囲 の 妬 みだ と言 い切 って いる

︒ また この 書簡 から は︑ 熊沢 の布 教と は︑ 彼個 人 の私 財 三 百数 十 円 を︑ 当時

﹁物 質 之 高 価な る 事 日本 第 一 な る都 会

﹂ 神 戸市 での 活動 に費 やし て信 者を 増や す︑ とい う一 見無 謀な もの だっ たこ とが 窺え る︒ しか しこ れも 熊沢 本人 にと っ て は﹁ 此度 出神 した る事 や︑ 小生 に取 りて は実 に必 死的 にて

︑唯 精進 発展 之道 を画 する のみ

﹂と

︑や はり 個人 とし て の 画期 であ ると 繰り 返し 述べ てい る︒ そし て熊 沢は

﹁開 教之 困難 は愚 説を また ず︑ 宗祖 大師 すら 彼之 如し

︑故 にい わ ん や小 衲に 於て おや

︑時 代の 相違 あり て流 罪之 身辺 に迫 らざ るを 僅に 安堵 せる のみ

﹂と

︑自 分の 境遇 を宗 祖法 然の 法 難 に準 える ので ある

︒こ のあ たり から は︑ 周囲 の雑 音を 意に 介さ ず一 つの こと に猛 進す る性 格を 見て 取れ るの では な い か

︒ち な みに

︑こ の 書 簡以 降

︑熊 沢 は﹁ 柳 谷観 世 音 別院 主 任﹂ と いう 肩 書 の 住所 印 を 封筒 に 捺 す よ う に な っ て い る!

と ︒ も かく も︑ 日下 に呼 び出 され て楊 谷寺 に行 った 前後 は︑ 熊沢 にと って 前途 に暗 雲が 立ち こめ た時 期だ った

︒大 正

大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教 ― 528 ―

(21)

九 年三 月三 十一 日消 印の 楊谷 寺執 事宛 葉書 によ ると

︑留 守中 に別 院の 世話 役の 中心 人物 を鉄 道事 故で 喪っ てい る︒

﹇史 10料

前 略 此頃 は御 邪間 致し 候︑ 小生 廿八 日早 朝帰 宅仕 たる 所︑ 当別 院と して 第一 の世 話人 中江 吉松 氏︑ 廿七 日午 前 九 時頃

︑石 炭運 搬上 にて 相生 橋浜 側の 鉄道 線附 近通 行之 折︑ 過て 無惨 の横 死を なし

︑小 生の 帰宅 を待 ち受 け居 り 候 由な れは

︑即 刻彼 家に 出頭 し︑ 昨日 午後 四時 半出 棺︑ 昨夜 九時 頃一 度帰 宅仕 り︑ 一夜 不眠 之労 を慰 し︑ 只今 よ り 再び 中江 宅へ 罷出 候︑ 斯く 突如 なる 不幸 に遭 遇し

︑非 常な る迷 惑を 感じ 候へ 共︑ 予定 通漸 進可 仕候 間︑ 参詣 之 折 は万 事宜 敷御 願申 上候

︑事 情此 之如 くに 候へ ば︑ 青木 氏へ 対す る協 議も 三四 日以 後な らて は運 び兼 ね︑ 兎や 角 致 し居 間に

︑深 切講 の参 詣致 さる ゝ事 と相 成可 申候 間︑ 其折 には 小生 の方 の講 と合 同之 意を 御諷 詞下 され ては 如 何 の 者 に候 や

︑吉 川 氏等 之 意 向 に依 れ は︑ 御 山に て 青 木に の み 考 慮居 ら る ゝ様 の 時 は︑ 本山 光 明 寺 の 光 明 講 と し

︑若 し是 れを 本山 にて 閊の 時は

︑能 勢の 妙見 講と 成す との 決心 にて

︑是 れか 為め

︑来 月は 特に 吉川 源八 氏参 詣 致 すと 廿八 日朝 の話 にて 候 早々 史

10料 と次 の史 11料 を見 ると

︑三 月末 の楊 谷寺 行き のさ いは

︑讒 言の 釈明 だけ でな く︑ 青木 の柳 谷講

・吉 川の 信説 講 間 の軋 轢に つい て︑ ある いは 神戸 地区 諸講 の合 併に つい ても 相談 した と推 測さ れる

﹇史 11料

﹈ 拝 呈 通日 に渉 る雨 天に て鬱 陶敷 のみ なら ず︑ 運動 上不 便尠 から す︑ 困却 仕居 候︑ 陳れ ば中 江氏 死去 以来 多忙 を

― 529 ― 大正期神戸市における柳谷観音の信仰と布教

表 1 『楊谷寺文書』に見える熊沢寛道書簡等一覧 形状等 封書 ペン書き 封書(封 筒なし) ペン書き 封書 ペン書き 封書 墨書 封書 墨書 封書 墨書 葉書 墨書 封書 墨書 葉書 墨書 封書 墨書 葉書 墨書 封書 墨書 葉書 ペン書き 封書 ペン書き 葉書 ペン書き 名刺 「目録」は『楊谷寺文書』の目録番号、「年月日」欄の( )は消印・内容によるもの。 「差出」「宛先」欄の( )は封筒からの情報。 「差出」欄の【 】は印文、『 』は住所印からの情報。 宛先 長崎老僧(「楊谷寺方 丈」宛→3-77 の

参照

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