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「魂の原理」から「身体の原理」へ

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全文

(1)

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス :

「魂の原理」から「身体の原理」へ

著者 庭田 茂吉

雑誌名 同志社哲學年報

号 38

ページ 19‑39

発行年 2015‑09‑01

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016989

(2)

│﹁ 理﹂

﹁身 原理

││

デ カル トと レヴ ィナ スは 驚く ほど 似て いる

︒レ ヴ ィ ナス は

︑﹃ 省 察﹄ のデ カ ル ト が辿 っ た 道を 最 も 深い 意 味 で 継承 した と言 える かも しれ ない

︒し かし

︑こ の言 い方 は誤 解を 招き かね ない

︒両 者が

﹁驚 くほ ど似 てい る﹂ とい う言 い方 は一 般的 では ない し︑

﹁ 継承

﹂と いう 語に は曖 昧さ が 潜ん で い るか ら で あ る︒ 両者 は い かな る 点 で似 て い る のか

︒ま た︑ レヴ ィナ スは

︑﹃ 省 察﹄ のデ カル トの 何を どの よう な仕 方で

﹁継 承﹂ した のか

︒ と ころ で︑ レヴ ィナ スに おけ るデ カル ト の 影響 に 触 れる さ い︑

﹁ 第 三省 察

﹂の 神 の存 在 証 明の 問 題︑ す な わち

﹁無 限の 観念

﹂の 問題 に言 及す る場 合が ほと んど であ る︒ しか し︑ ここ では

︑そ れに 触れ ない

︒な ぜな ら︑ 両者 を繋 ぐも のと して

︑よ り根 本的 な問 題が ある から で あ る︒ 身体 の 問 題で あ る︒ こ の 観点 に 立 てば

︑﹁ 無 限 の観 念

﹂の 影 響 は限 定的 なも のに すぎ ない

︒ し か し︑ 身 体の 問 題 とい っ て も︑ 同 じく 少 し 説明 が 必 要で あ ろ う︒ 周 知の よ う に︑ デカ ル ト の 身 体 は 基 本 的 に は

﹁ 物体

﹂で ある

︒し かし

︑こ の見 解は

︑﹃ 省察

﹄に 限っ ても

︑単 純す ぎる

︒実 は﹃ 省察

﹄の デカ ルト には もう 一つ の身 体概 念が ある

︒し かも

︑こ の身 体概 念の 問題 は

︑﹃ 省 察﹄ に混 在 す る二 つ の 主 観性 の 問 題と 深 く 結び 付 い て いる

︒す

― 19 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

(3)

なわ ち︑

﹁ 心身 分離 の主 観性

﹂と

﹁心 身合 一 の主 観 性﹂ の 問題 で あ る︒ こ の問 題 は︑ 精 神と 身 体 との 区 別 と︑ 両 者の 合一 とに 起因 する

︒こ れら 二つ は︑ 精神 の純 粋悟 性の 立場 にた つ﹁ 魂の 原理

﹂と

︑精 神と 身体 との 合一 に基 づく

﹁身 体の 原理

﹂と 言い 換え るこ とも でき る

︒結 局 のと こ ろ︑

﹃ 省察

﹄の デ カ ル トは

﹁心 身 分 離の 主 観 性﹂ の考 え 方 を 取っ た︒ では

︑な ぜ︑ デカ ルト は﹁ 心身 合一 の主 観性

﹂の 立場 を取 らな かっ たの か︒ こ の 問 いの 検 討 から

︑デ カ ル ト にお け る もう 一 つ の近 代 の 形 が見 え て く る︒ そ れ は

﹁魂 の 原 理

﹂か ら

﹁身 体 の 原 理﹂ への 転換 とい う事 態で ある

︒し かし

︑こ の転 換は デカ ルト にあ って は垣 間見 られ たに すぎ ない

︒わ れわ れの 見る とこ ろ︑ レヴ ィナ スは

︑﹃ 省 察﹄ から およ そ三 百年 を隔 てて

︑﹃ 実存 から 実存 者へ

﹄に おい て︑ この 根本 的転 換を 試み た︒ 本稿 にお いて

︑デ カル トと レヴ ィナ スと を取 り上 げる 所以 であ る︒ も う一 つの 近代 の形 を探 る︑ この よう な転 換の 試み を追 跡す るた めに

︑ま ず︑ 両者 の﹁ 驚く ほど 似て いる

﹂事 態に 触れ る︒ ここ では

︑デ カル トが 懐疑 の果 てに 陥っ た﹁ 深淵

﹂と レヴ ィナ スが

﹁世 界な き実 存﹂ にお いて 見出 した

﹁あ る﹂ と の類 似 性 と︑ あの 二 つ の主 観 性 を めぐ る レ ヴィ ナ ス 的 な﹁ 継承

﹂の 仕 方 と が 問 題 に な る︒ 次 に︑

﹁第 二 省 察﹂ と﹁ 第六 省察

﹂に おい て︑

﹁ 心身 分離

﹂と

﹁心 身合 一﹂ の 問題 を 取 り上 げ

︑デ カ ル トに お け るも う 一 つの 身 体 概 念と

﹁ 心身 合一 の主 観性

﹂の 検討 を行 なう

︒そ して

︑最 後 に︑ レヴ ィ ナ スに お い て︑ そ の大 胆 な デカ ル ト 解釈 を 経 由 して 明ら かに なっ た︑

﹁ イポ スタ ーズ

﹂と 身体 の問 題 を取 り 上 げる

︒す な わ ち︑ レ ヴィ ナ ス 独自 の 身 体概 念 で あ る﹁ 定位 とし ての 身体

﹂を 取り 上げ

︑こ の﹁ 現在 の瞬 間の 出来 事﹂ であ る﹁ 身体

﹂の

﹁瞬 間﹂ の非 連続 の連 続を めぐ る問 題に 触れ る︒ 以 上の 検討 を通 して

︑デ カル トに おい て垣 間見 られ

︑レ ヴィ ナス が独 自の 仕方 で﹁ 継承

﹂し た︑ あり うべ きも う一 つ の近 代 の 形が 探 究 され

︑﹁ 魂 の 原 理﹂ から

﹁身 体 の 原理

﹂へ の 転 換の 一 端 が 明ら か に な る は ず で あ る

︒ち ょ う ど︑

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス ― 20 ―

(4)

ニー チェ が﹁ 大い なる 理性

﹂と して の身 体に つい て語 るこ とで

︑近 代を 超え よう とし たよ うに

︒ 一

デ カル トは

︑﹁ 第 二省 察﹂ の最 初に 言う よ うに

︑懐 疑 の 果て に 突 然﹁ 渦 巻く 深 淵﹂ へ と落 ち 込 む︒ この 懐 疑 は 感覚 への 懐疑 から 始ま り︑ 物体 的本 性一 般の それ を経 由し て︑ 最後 に﹁ 悪い 霊﹂ によ る︑ 私を 誤ら せよ うと して いる

﹁仮 定﹂ へと 行き 着く

︒そ の結 果︑

﹁ 外的 事物

﹂に つい ては すべ て﹁ 夢の 幻影

﹂で しか なく

︑﹁ 私自 身﹂ につ いて は身 体も 感覚 器官 もな くた だそ れら をも って いる とい う﹁ 思い 込み

﹂が ある にす ぎな い︒ かく して デカ ルト は︑ 天も 地も 精神 も身 体も ない

︑私 は存 在し ない

︑と いう 否定 の 闇 へと 降 下 して い く︒ し か し︑ デカ ル ト は︑ この 懐 疑 から 一 転 し て︑

﹁ 私は ある

︑私 は存 在す る﹂ と言 う︒ 他方 レヴ ィナ スは

︑﹃ 実存 から 実存 者へ

﹄に おい て︑

﹁ 世界

﹂の 考察 から

︑﹁ 世界 なき 実存

﹂の 問題 へと 移行 する

︒い わゆ る︑ 主│ 客や 内│ 外の 差異 を包 含す る無 の場 所と して の﹁ ある

il y a

︶﹂ の 問題 であ る︒ デカ ルト は懐 疑の 果て に︑ この 無の 場所 とし ての

﹁深 淵﹂ に陥 った が︑ レヴ ィナ スは 面白 いこ とに

︑懐 疑も 使わ ず︑ また それ を無 の淵 とは 言わ ず︑ あえ て﹁ 不在 の現 前﹂ とし ての

﹁あ る﹂ と言 う︒ そし てこ こか ら存 在者 なき 存在 にお いて

︑存 在者 の誕 生を 問う

︒い わゆ る﹁ イポ スタ ーズ

﹂の 問題 であ る︒ よく 考え てみ ると

︑こ れは 大き な違 いな ので はな いか

︒ 確 かに

︑一 見す ると

︑﹃ 実 存か ら実 存者 へ﹄ に おけ る レ ヴィ ナ ス の﹁ 世 界な き 実 存﹂ の探 究 は︑ 奇 妙な 試 み に 思わ れる

︒と いう のも

︑レ ヴィ ナス はこ こで デカ ルト のよ うに

﹁懐 疑﹂ を用 いた わけ でも

︑フ ッサ ール のよ うに

﹁エ ポケ ー﹂ を行 使し たわ けで もな いか らで ある

︒し かし

︑デ カル トと レヴ ィナ スが 辿っ た道 は最 後に は一 つに なる はず であ

― 21 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

(5)

る︒ 証拠 を示 そう

︒レ ヴィ ナス は︑ 最初 の主 著

﹃全 体 性と 無 限﹄ に おい て 次 の よう に 述 べて い る︒

﹁ コギ ト は あ の夢 の反 復に 始ま りを もた らす わけ では ない

︒デ カル トの コギ トに は︑ 最初 の確 実性

︵し かし それ はデ カル トに とっ ては 神 の存 在 に 基づ い て のこ と で あ る︶ が︑ すな わ ち︑ そ れ自 身 に よ って 正 当 化さ れ る こと の な い 恣 意 的 な 停 止 が

︑あ

る︒ 対象 に関 する 懐疑 は懐 疑の 行使 その もの の明 証 性 を含 意 す る﹂

︒こ こ ま で はコ ギ ト の問 題 で ある

︒実 は わ れ われ の問 題は その 手前 にあ るの だが

︑レ ヴィ ナス の解 釈を もう 少し 見て みよ う︒ レヴ ィナ スの 指摘 を俟 つま でも なく

︑疑 うこ とは

︑た とえ すべ てを 疑う にし ても

︑た とえ 疑っ てい るこ とそ のこ とを 疑う とし ても

︑疑 うと いう 行為 その もの の不 可疑 性を 含む

︒デ カル トは ここ から

︑私 が思 って いる 限り で私 はあ る︑ へと 移行 する

︒し かし

︑デ カル トは

︑な ぜ︑ この

﹁最 初の 確実 性﹂ にお いて

︑懐 疑を 止め るこ とが でき たの か︒ そこ には 十分 な根 拠が ある のか

︒レ ヴィ ナス が﹁ 恣意 的な 停止

﹂と 言う 所以 であ る︒ レヴ ィナ スの 用意 した 答え は︑ デカ ルト が﹁ 無限 の観 念を もち

︑予 め否 定の

背後 にあ る肯 定の 回帰 を測 るこ と が でき た

﹂か ら であ る

︒す な わ ち︑ デカ ル ト のコ ギ ト︑ あ の﹁ 最初 の 確 実 性﹂ は︑

﹁ 無限 の観 念﹂ とい う他 者の 力に よっ て初 めて 可能 にな るの であ る︒ もし それ がな けれ ば︑

﹁私

﹂は いつ まで も懐 疑や 否定 の繰 り返 しを 続け るし かな い︒ レヴ ィナ スに よれ ば︑ それ ゆえ

︑﹁ 肯 定は 他者 から 到来 する

﹂の であ り︑

﹁他 者が 経験 の始 まり

﹂な ので ある

︒ し かし

︑先 に述 べた よう に︑ 今の われ われ にと って

︑問 題は この 手前 にあ る︒ すな わち

︑デ カル トが 懐疑 の果 てに 陥っ た︑

﹁ 渦巻 く深 淵﹂ にあ る︒ デカ ルト が言 う 否定 も 肯 定も 超 え た﹁ 深 淵﹂ とは ど の よう な も のか

︒こ こ で レ ヴィ ナス は︑ より 深い 水準 へと 向か う︑ この よう な肯 定│ 否定 の連 鎖を 超え た徹 底的 否定 の運 動に つい て︑ すな わち 方法 的懐 疑の 運動 につ いて

︑彼 自身 の﹁ ある

﹂の 概念 に引 き つ けて 次 の よう に 言 う︒

﹁ それ は 常 によ り 深 い深 淵 へ と 向か

う下 降の 運動 であ り︑ われ われ は別 のと ころ で︑ この 深淵 を︑ 肯定 と否 定と を超 えた

︑あ!! と 呼ん だの であ る﹂

︒﹁ 別

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス ― 22 ―

(6)

のと ころ

﹂と は︑

﹃ 実存 から 実存 者へ

﹄と

﹃時 間と 他 者﹄ の二 つ の 著作 を 指 す︒ デ カル ト が 懐疑 に よ って 巻 き 込 まれ たの は︑ 間違 いな く︑ この

﹁無 限の 否定 の 働 き﹂ であ り

︑﹁ 深 淵へ と 向 か う運 動

﹂な の であ る

︒か く して デ カ ル トは

﹁ 無の 淵﹂ へと 陥る こと にな った

︒ 今 問 題 は︑ デカ ル ト の﹁ 深淵

﹂と レ ヴ ィ ナ ス の﹁ あ る﹂ と で あ る︒ レ ヴ ィ ナ ス 自 身 は

︑明 ら か に

﹁深 淵

﹂と

﹁あ る﹂ とを 同じ もの と考 えて いる

︒そ れで は︑ これ 以降 の展 開に つい ては どう か︒ デカ ルト の場 合は

︑先 に触 れた よう に︑ 懐疑 の只 中に おい て︑ 一転 して あの

﹁最 初の 確実 性﹂

︑ すな わち

︑﹁ 私は ある

︑私 は存 在す る﹂ に移 行す る︒ レヴ ィナ スの 疑い はこ の点 にあ った

︒な ぜデ カル トは 懐疑 を止 める こと がで きた のか

︒そ れは

︑予 めデ カル トが

﹁無 限の 観念

﹂を 手に して いた から とい うの がレ ヴィ ナス の用 意し た回 答で ある

︒こ の点 につ いて は既 に述 べた

︒し かし

︑こ の同 じ問 いを レヴ ィナ スの 存在 者な き存 在で ある

﹁あ る﹂ に向 ける とど うな るか

︒レ ヴィ ナス は﹁ ある

﹂か らど のよ うに して 脱出 した のか

︒そ れも また

﹁恣 意的

﹂な ので はな いか

︒そ れを 問う ため には

︑存 在者 なき 存在 にお いて いか にし て存 在者 が誕 生す るか とい う﹁ イポ スタ ーズ

﹂の 問題 を取 り上 げる 必要 があ る︒ しか し︑ この 節で は︑ 最初 の目 論み 通り

︑﹁ 深 淵﹂ と﹁ ある

﹂と の類 似性 の指 摘に とど めて おく

︒﹁ イポ スタ ーズ

﹂の 問題 につ いて は第 三節 で取 り上 げる こと にす る︒ こ れと は別 に︑ もう 一つ の論 点︑

﹁ 心身 分離 の 主観 性

﹂と

﹁心 身 合一 の 主 観 性﹂ の対 立 の 問題 に 触 れな け れ ば なら ない

︒す なわ ち︑ レヴ ィナ スは どの よう にし てデ カル トの

﹁心 身分 離﹂ と﹁ 心身 合一

﹂の 対立 の問 題を 解こ うと した のか

︒デ カル トに おけ る二 つの 主観 性の 問題 その もの は次 節で 詳し く検 討す るが

︑実 はこ の問 題は

︑フ ッサ ール やハ イデ ガー に関 する 研究 とは 別に

︑レ ヴィ ナス の独 自の 哲学 の形 成の 起点 とな った もの であ る︒ なる ほど それ は直 接的 には ヒト ラー 主義 の哲 学と の対 決の 所産 であ るが

︑こ の対 決か らレ ヴィ ナス が導 き出 した のは ヨー ロッ パ近 代の

﹁理

― 23 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

(7)

性主 義﹂ のも つ致 命的 な欠 陥で ある

︒し かも

︑こ の発 見は レヴ ィナ スに それ 以上 のも のを もた らし た︒ とり わけ

︑近 代の 哲学 にお ける 身体 の問 題の 重要 性の 発見

︑す なわ ち︑ デカ ルト にお ける

﹁心 身合 一の 主観 性﹂ の可 能性 を探 ると いう 試み であ る︒ この 身体 の問 題の 発見 こそ

︑文 字通 りレ ヴィ ナス 自身 の生 存を かけ た哲 学の 問題 とな った もの では なか った か︒

﹁ヒ トラ ー主 義哲 学に 関す る若 干の 考察

﹂に おい て︑ レヴ ィ ナス が 最 初に 試 み た のは ヒ ト ラー の 思 想に お い て 何が 問題 にな って いる かを

︑西 洋近 代文 明へ の哲 学的

︑思 想的 挑戦 とし て最 も深 いと ころ で真 剣に 受け 止め るこ とで あっ た︒ 一九 三四 年の 段階 での この よう な試 みは

︑き わめ てラ ディ カル のも ので ある

︒結 局︑ レヴ ィナ スは ヒト ラー の思

想に

﹁基 礎的 諸感 情の 覚醒

﹂を 見る

︒こ れは

︑レ ヴィ ナ ス の定 義 に よれ ば

︑﹁ 現 実 の総 体 と 自分 自 身 の運 命 に 直 面し

たと きに とる 魂の 最初 の態 度﹂ であ る︒ 戦争 の予 兆の 中で

︑ま だ二 十代 後半 に過 ぎな かっ た︑ レヴ ィナ スが 未来 の自 分の 哲学 的使 命を 賭け て︑ 全面 的対 決に 及ん だの はも ちろ んそ の出 自の 問題 もあ るだ ろう

︒し かし

︑そ れだ けで はな い︒ レヴ ィナ スか ら見 て︑ その 当時 のそ れと 対立 する 思想 的潮 流の ほと んど がこ のよ うな 最も 深い とこ ろで 人間 の生 を支 配す る︑ いわ ば本 能的

︑非 合理 的な

︑生 命的 反応 を取 るに 足ら ない もの とし て無 視し てい た点 も見 逃せ ない だろ う︒ しか し︑ この 言い 方は 誤解 を招 きか ねな い︒ われ われ は基 礎的 感情 なり 態度 なり を単 に非 理性 的な もの とは 考え てい ない から であ る︒ それ らは むし ろわ れわ れの 理性 的な もの を養 って いる もの なの では ない のか

︒レ ヴィ ナス もま た︑ 言い 方は 異な るが

︑そ のよ うに 考え

︑自 分の 課題 へと 向か う︒ レヴ ィナ スの 課題 とは

︑ヒ トラ ー主 義の 哲学 と対 立す る︑ この 当時 の思 想的 潮流

︑例 えば

︑キ リス ト教 やリ ベラ リズ ムや マル クス 主義 など を取 り上 げ︑ これ らの 思想 を可 能に して いる

﹁源 泉や 直観 や本 源的 規定

﹂に まで 遡り

︑そ れら の拠 って 立つ 場所 その もの を明 らか にす るこ とで ある

︒結 論だ け言 うと

︑レ ヴィ ナス が﹁ 共通 の根

﹂と して 取り 出し てき たの は﹁ 身体

﹂で ある

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス ― 24 ―

(8)

た だし ここ で注 意す べき は︑ この

﹁共 通の 根﹂ とし ての 身体 は︑ ヒト ラー 主義 哲学 その もの を含 めて あら ゆる 思想 やわ れわ れの 生を

︑そ の根 底で 本源 的に 規定 す る もの で あ ると い う 点 であ る

︒で は︑

﹁ 身体

﹂と い う こと で 何 が 問題 なの か︒ それ は精 神が 身体 へと

﹁鎖 でつ な が れて あ る こと

﹂で あ る︒ レ ヴ ィナ ス は 精神 の 側 から 見 て

︑﹁ 鎖﹂ の 比喩 を用 いて いる が︑ われ われ の言 葉で いえ ば︑ それ は﹁ 心身 合一

﹂の 問題 であ る︒ レヴ ィナ スか ら見 ると

︑近 代の 哲学 的︑ 政治 的思 想の いず れも が︑

﹁ 具体 的野 蛮の 世界 と避 け るこ と の でき な い 歴 史の 外 部 に︑ 精神 の 究 極の 基 底 を 置い た

﹂ ので ある

︒ま さし くこ こに 問題 があ る︒ もち ろん 例外 はあ る︒ レヴ ィナ スは

﹁具 体的 野蛮 の世 界﹂ と﹁ 歴史 の内 部﹂ に深 く身 を置 いた

︑マ ルク スの 思想 を唯 一の 例外 とし て高 く評 価す るが

︑そ れで もマ ルク スそ れ自 身の 中に も理 性主 義的 残滓 を認 めざ るを えな い︒ そ れで は︑ この

﹁鎖

﹂の 問題 の中 心に ある もの とは 何か

︒そ れは

﹁わ れわ れの 身体 の経 験﹂ であ る︒ レヴ ィナ スに よれ ば︑ この 経験 の前 では

︑も はや 心身 分離 も心 身二 元論 も問 題に なら ない

︒そ れゆ え︑ 新た な哲 学の 出発 点は この 身体 の経 験に ある

︒で は︑ 身体 の経 験か ら始 める こと は何 を意 味す るの か︒ 西洋 の近 代思 想が 見逃 して きた のは

﹁わ

れわ れの 身体 とわ れわ れ自 身と の同 一性 の感 情﹂ であ るか ら︑ まず はこ の﹁ 同一 性の 感情

﹂を 明ら かに する こと であ る︒ しか し︑ それ では

︑西 洋の 近代 思想 と言 うと き︑ レヴ ィナ スは デカ ルト につ いて どの よう に考 えて いた のだ ろう か︒ こ の論 文に おい て具 体的 な言 及は 見ら れな いが

︑精 神と 身体 の関 係を 問う にあ たっ て︑ 近世 近代 の哲 学的 思惟 を問 題に する さい

︑デ カル トの 二つ の主 観性 の問 題が 念頭 にな かっ たは ずは ない

︒言 及が ない のは

︑お そら くユ ダヤ

キ リス ト教 やリ べラ リズ ムや 人種 差別 主義 を取 り扱 う文 脈上

︑触 れる 必要 がな かっ たか らで ある

︒言 うま でも なく

︑レ ヴィ ナス は西 洋近 代哲 学全 体を 相手 取っ てい たわ けで はな い︒ しか し︑ われ われ から 見て

︑純 粋に 哲学 的問 題に 限定

― 25 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

(9)

すれ ば︑ レヴ ィナ スの この

﹁鎖

﹂の 考え 方に 賭け られ てい たも のと は︑ デカ ルト のも う一 つの 身体 概念 によ る﹁ 心身 合一 の主 観性

﹂の 可能 性の 問題 その もの であ った と思 われ る︒ もち ろん

︑わ れわ れは

︑デ カル トの

﹁心 身合 一﹂ の考 え方 でレ ヴィ ナス の戦 いが 可能 にな った 言い たい わけ では ない

︒し かし

︑デ カル トの 二つ の主 観性 につ いて の検 討は もう 一つ の近 代の 形の 可能 性を 垣間 見せ てく れる はず であ る︒ 二

以 上の よう に︑

﹁ 驚く ほど

﹂か どう かは 別に し ても

︑デ カ ル トと レ ヴ ィ ナス が

﹁似 て いる

﹂こ と の 一端 は 明 ら かに なっ たの では ない か︒ 出発 点と して の無 の﹁ 深淵

﹂と

﹁あ る﹂ との 類似 性︑ また 示唆 的に では ある が︑ デカ ルト にお ける

﹁心 身分 離﹂ と﹁ 心身 合一

﹂を めぐ る問 題︑ とり わけ 身体 の問 題︑ すな わち

﹁心 身合 一﹂ の問 題が レヴ ィナ スの 独自 の哲 学の 始ま りに あっ たの では ない かと いう 点は とり わけ 重要 であ る︒ と ころ で︑

﹁ 第二 省察

﹂に おい て︑ デカ ル トは 無 の 淵か ら 一 転 して

﹁私 は あ る︑ 私は 存 在 する

﹂に 移 行 す るが

︑そ の経 緯に つい ては ここ では 触れ ない

︒今 のわ れわ れに とっ ては

︑も っと 重要 な問 題が ある

︒と いう のも

︑デ カル トが 一方 で身 体と 感覚 器官 を否 定し

︑同 時に 他方 でそ れな し に は私 は 存 在し え な い と述 べ て いる か ら であ る

︒も ち ろ ん︑ 最後 には 無限 の否 定の 前で すべ て否 定さ れる こと にな るの だが

︑こ れは 一体 どう いう こと だろ うか

︒デ カル トは コギ トの 発見 以降

︑﹁ 必 然的 に存 在す る私

﹂の 問題 を取 り上 げ︑ ま ず自 然 に 導か れ て 自 分の 意 識 に浮 か ん でき た も の の検 討を 行う

︒﹁ 私

﹂と は何 か︒

﹁私

﹂と は︑ 顔や 手や 腕を もち

︑こ れら の諸 部分 から なる

﹁機 械﹂ をも つも ので ある

︒ま た︑

﹁ 栄養 をと り︑ 歩き

︑感 覚し

︑思 考す る﹂ と ころ の も ので あ る︒ し か し︑ 後者 に つ いて は

︑そ の 働き の 源 泉 は物

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス ― 26 ―

(10)

体︵ 身体

︶に では なく

︑精 神に ある

︒そ こで デカ ルト は︑ 物体

︵身 体︶ の本 性の 検討 から 始め

︑精 神の 本性 の解 明へ と向 かう

︒で は︑ 物体

︵身 体︶ とは 何か

︒ デ カル トの 定義 によ れば

︑そ れは

﹁形

﹂に よ っ て限 定 さ れ︑

﹁場 所

﹂に よ っ て囲 ま れ︑ 他 の物 体 を 排除 す る よ うな 仕方 で空 間を 充た すも ので あり

︑し かも 視覚 や触 覚を 初め 五感 によ って 知覚 され るも の︑ 自ら 動く もの では なく

︑他 の もの に よ って 動 か され る も の であ る

︒要 す るに

︑自 己 を 動 かす 力 や 感覚 す る 力や 思 考 す る力 を も たな い も の で あ る︒ とい うの も︑ これ らの 力は 物体 の本 性に 属し てい ない から であ る︒ とこ ろが

︑こ のす ぐ後 で︑ デカ ルト は奇 妙な こと を言 う︒

⁝⁝ それ どこ ろか

︑私 はむ しろ

︑こ のよ うな 力 が或 る 種 の物 体 に お いて 見 出 され る こ とに 驚 い た ので

ある

﹂︒ 言 うま でも なく

︑﹁ 或 る種 の物 体﹂ とは 私の 身体 以 外に は 考 えら れ な い︒ 驚 くべ き こ とに

︑こ こ で デカ ル ト は 身体 が自 己を 動か す能 力を もち

︑感 覚す る能 力や 思考 する 能力 をも つと 言っ てい るの であ る︒ これ はい わゆ る﹁ 物体 とし ての 身体

﹂︑

﹁ 対象 とし ての 身体

﹂︑ と はま った く異 な る身 体 の 考え 方 で あ る︒ しか し

︑こ の もう 一 つ の身 体 は 一 瞬現 われ

︑す ぐに 消え てし まう

︒で は︑ それ はど こへ 行っ てし まっ たの か︒ それ は懐 疑に よっ て排 除さ れて しま うも のな のか

︒ こ こで 注意 しな けれ ばな らな いの は︑ われ われ は依 然と して

﹁悪 い霊

﹂の 呪縛 の下 にあ ると いう 点で ある

︒こ の点 を考 慮す ると

︑先 の﹁ 必然 的に 存在 する 私﹂ とは 何か とい う問 題は どう なる だろ うか

︒言 うま でも なく

︑物 体の 本性 に 属 す も の は﹁ 私﹂ の も の で は な い

︒ま た

︑精 神 の 本 性 に 属 す も の で も

︑栄 養 摂 取 や 歩 く こ と や 感 覚 す る こ と は

﹁ 私﹂ のも ので はな い︒ なぜ なら

︑こ れら は 身体 な し には 不 可 能 であ り

︑懐 疑 が続 い て いる 限 り︑ 物 体︵ 身 体︶ は存 在 しな い か らで あ る︒ そ れで は

︑精 神 の 本性 に 帰 属す る も の のう ち

︑何 が 残っ た の か

︒﹁ 考 え る こ と

﹂だ け で あ る︒

― 27 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

(11)

そ れゆ え

︑﹁ 必 然的 に 存 在す る 私

﹂と は﹁ 考 える と こ ろの も の 以 外 の も の で は な い﹂

︒ す な わ ち︑

﹁私

﹂と は︑ 精 神︑ 魂︑ 知性

︑理 性で ある

︒ そ うで あれ ば︑ あの

︑も う一 つの 身体 は完 全に 排除 され てし まっ たと いう こと にな るの だろ うか

︒さ らに デカ ルト は︑ こ の後

︑﹁ 想 像 力﹂ によ る

﹁私 と は何 か

﹂の 検 討 を続 け

︑あ の 有名 な 定 式 に 到 る

︒デ カ ル ト は 次 の よ う に 言 う︒

﹁ しか しそ れで は私 とは 何か

︒考 える とこ ろの もの であ る︒ それ では 考え ると ころ のも のと は何 か︒ すな わち

︑疑 い︑

理解 し︑ 肯定 し︑ 否定 し︑ 意志 し︑ 意志 しな い

︑想 像 し︑ 感覚 す る とこ ろ の も ので あ る﹂

︒ ここ で 注 目し て 欲 し いの は︑

﹁ 考 え る と こ ろ の も の

res cogitans

︶﹂ と い う 言 い 方 で あ る︒ 後 に 触 れ る よ う に

︑レ ヴ ィ ナ ス は こ の

﹁も の

chose

︶﹂ と いう 語に 独自 の解 釈を 加え

︑そ こか ら身 体の 問題 を導 き出 すこ とに なる か ら であ る

︒こ の 点を 踏 ま え て︑ あ の問 い を もう 一 度 問う と

︑確 か に もう 一 つ の身 体 概 念 は﹁ 第二 省 察﹂ に おい て は 消え て し ま う が

︑後 に 見 る よ う に︑ それ は﹁ 第六 省察

﹂に おい て別 の仕 方で 残り 続け てい るの であ る︒ こ こで デカ ルト にお ける 二つ の主 観性 の 問 題に 触 れ ると

︑﹁ 私 と は 考え る と ころ の も ので あ る﹂ と い う﹁ 私﹂ の主 観性 は︑ 物体 から 区別 され た精 神

︑す な わち

﹁心 身 分 離の 主 観 性﹂ で ある

︒言 う ま でも な く︑

﹁ 第二 省 察﹂ で の デカ ルト の試 みは

︑精 神と 物体

︵身 体︶ との 実在 的区 別︑ すな わち

﹁心 身分 離﹂ を行 なう こと にあ った

︒な るほ ど︑ この 原則 を徹 底す れば

︑﹁ 心 身分 離の 主観 性﹂ しか 残ら ない

︒し かし

︑デ カル トに はも う一 つの 主観 性が ある

︒す なわ ち︑

﹁ 心身 合一 の主 観性

﹂で ある

︒今 度は

︑﹁ 第六 省察

﹂に おい て︑

﹁ 心身 合一

﹂の 問題 を問 う必 要が ある

﹁第 六省 察﹂ では

︑い わゆ る物 体の 存在 証明 の問 題 と︑

﹁ 第二 省 察﹂ に おい て こ こ まで わ れ われ が 取 り上 げ て き た︑ 精神 と身 体と の実 在的 区別 の問 題が 再度 検討 に付 され る︒ デカ ルト の議 論を 順番 に辿 り直 すと 次の よう にな る︒ 物質 的事 物は

︑純 粋数 学の 対象 であ る限 り︑ 確か に存 在す る︒ なぜ なら

︑純 粋悟 性に よっ て明 晰判 明に 認識 され るか らで

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス ― 28 ―

(12)

ある

︒で は他 の物 質的 事物 につ いて はど うか

︒デ カル トは ここ で想 像力 を持 ち出 す︒ 想像 力と は物 質的 なも のに 関わ る能 力で ある が︑ それ によ れば やは り物 質的 事物 は存 在す るよ うに 見え る︒ しか しこ こに 問題 があ る︒ 想像 の働 きと 悟性 のそ れと は異 なる から であ る︒ 悟性 の場 合に は︑ 精神 は自 己を 自己 自身 に関 係さ せる のに 対し て︑ 他方 想像 力に おい ては

︑精 神は 自己 を自 己以 外の もの に向 ける

︒す なわ ち︑ 想像 力は

︑物 体に おい て︑ 思考 され

︑ま た感 覚に よっ て知 覚さ れた

︑観 念に 対応 する 何も のか を直 観す る︒ しか し︑ 想像 力の 場合

︑こ の何 もの かの 存在 につ いて は﹁ 蓋然 的﹂ なも ので しか ない

︒さ らに デカ ルト は色 や音 や味 や 苦 痛に つ い て取 り 上 げ て︑ 感覚 の 問 題の 捉 え 直し を 行 な う︒ 今度 は︑ 私は

﹁或 る特 別な 権利 をも って 私の も の﹂ と 言い う る よう な 身 体 をも つ

︒し か し︑ 感覚 の 捉 え直 し の 結 果︑ 以下 のこ とが 判明 する

︒私 の本 性は

﹁考 える

﹂と いう こと にあ り︑ 身体 をも ちそ れと 緊密 に結 合し ては いる が︑ 私自 身は

﹁考 える とこ ろの もの

﹂で ある こと には 変わ りは ない

︒ま た︑ 悟性 の働 きと 想像 や感 覚の それ とは 異な るも ので ある

︒そ うで あれ ば︑ どこ にも

﹁心 身合 一の 主観 性﹂ の介 在す る余 地は ない

︒ し かし

︑こ れで 終わ りで はな い︒ 最後 にデ カル トは

︑能 動と 受動 の関 係を 取り 上げ

︑私 の中 には

﹁或 る種 の受 動的

能力

︑す なわ ち感 覚的 能力

︑詳 しく 言え ば︑ 感覚 的事 物の 観念 を受 け取 り認 識す る受 動的 能力

﹂が ある と言 う︒ とこ ろで

︑こ のよ うな

﹁受 動﹂ があ るた めに は︑ 当然

﹁能 動﹂ がな けれ ばな らな い︒ しか し︑

﹁ 能動

﹂は 私の 中に はな い︒ それ は私 以外 のも の︑ すな わち 物体 にあ る︒ した がっ て︑ 物体 は︑ 私の 中に 感覚 的事 物の 観念 を産 出し

︑実 現す ると ころ のも ので ある

︒こ こか らデ カル トは

︑神 は欺 瞞者 では あり えな いと いう こと を使 って

︑物 質的 事物 は存 在す ると 言う

︒こ れが いわ ゆる 物体 の存 在証 明で ある

︒た だし 注意 しな けれ ばな らな いの は︑ この 議論 は先 の﹁ 心身 分離

﹂に 帰着 する それ とは 同じ では ない とい う点 であ る︒ 以 上の よう な物 体の 能動 によ る精 神の 受動 が成 り立 つた めに は︑ 私が 身体 をも ち︑ それ と緊 密に 合一 した

︑心 身の

― 29 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

(13)

合一 体で なけ れば なら ない はず であ る︒ もっ と言 えば

︑デ カル トの 言う よう に︑ 私が 身体 とし て諸 々の 物体 の間 にあ って さま ざま な影 響に さら され てい るか らこ そ︑ それ が可 能に なる はず であ る︒ 言い 換え れば

︑私 が﹁ 心身 合一 の主 観性

﹂で ある から こそ

︑能 動と 受動 の関 係が 成り 立つ ので はな いか

︒そ うで あれ ば︑ ここ でデ カル トは

﹁心 身分 離の 主観 性﹂ から

﹁心 身合 一の 主観 性﹂ への 転換 をは か っ たと い う こと で あ ろ うか

︒し か し︑ 事 態は そ う 単純 で は な い︒ その 後デ カル トは

﹁自 然の 教え

﹂に つい て見 直し をし たう えで

︑二 つの 主観 性の 間を 動揺 し︑ 最後 には 再度

﹁心 身分 離の 主観 性﹂ へと 行き 着く

︒で は︑ なぜ

︑デ カル トは

﹁心 身合 一の 主観 性﹂ を取 らな かっ たの か︒ デ カル トは この よう な感 覚や 自然 の教 えの 見直 しの 過程 にお いて

︑そ こに もな にが しか の真 理が 含ま れて いる こと を認 める

︒こ れは

﹁第 二省 察﹂ にお ける

﹁自 然の 導き

﹂に よる

︑あ の驚 くべ き発 見︑ 自己 を動 かし

︑感 覚や 思考 の能 力を もつ

﹁或 る種 の物 体﹂ の発 見と 軌を 一に する もの であ る︒ かく して われ われ は一 旦懐 疑の 罠に かか り排 除さ れた かの よう に見 えた

︑あ のも う一 つの 身体 概念 と再 会す るこ とに なっ た︒ デカ ルト は次 のよ うに 言う

︒私 は身 体に 密接 に結 合し

︑一 体化 して いる

︒飢 えや 渇き や痛 みな どの 感覚 によ る心 身合 一は

︑船 と水 夫と の関 係の よう な外 在的 関係 では なく

︑精 神と 身体 との 内在 的合 一を あら わし てい る︒ この よう な合 一は

︑私 が私 の身 体で ある から こそ

︑あ るい はむ しろ 私が

﹁身 体と 精神 とか ら合 成さ れて いる 限り にお ける 私全 体﹂ であ るか らこ そ︑ 可能 にな る︒ しか し︑ デカ ルト によ れば

︑こ の主 観性 には 限界 があ る︒ それ は快 苦や 飢え や苦 痛な どの よう な感 覚的 事例 に関 して は有 効で ある とし ても

︑物 体的 事物 の真 理を 認識 する とい った 場合 には

︑わ れわ れは 依然 とし て純 粋悟 性の 作用 に︑ すな わち 精神 の作 用に

︑依 拠せ ざる をえ ない から であ る︒ 一 体何 が問 題だ った のだ ろう か︒ 二つ あ る︒ 一 つは

︑﹁ 心 身 合一 の 主 観 性﹂ にお い て︑ デ カル ト は 感覚 や 知 覚 の問 題と 悟性 や知 性の それ との 統合 を目 指す べき だっ たの では ない か︒ もう 一つ は︑ デカ ルト には 例え ば道 徳の 問題 が示

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス ― 30 ―

(14)

すよ うに

︑テ オー リア とプ ラク シス との 対立 があ り︑ 二つ の主 観性 の統 一の 道が 予め 閉ざ され てい たと いう こと であ る︒ 厳密 な意 味で の﹁ 心身 の合 一﹂ の考 え方 は本 質的 には

﹁行 為﹂ の問 題へ の道 を開 くべ きも ので あり

︑そ れは また 哲学 の問 題を プラ クシ スか ら始 めて 一か ら作 り直 す作 業へ と行 き着 くは ずの もの であ る︒ この 作業 は行 為に おけ る自 己覚 知と われ われ が生 きて 死ん でい く具 体的 な生 活世 界と を開 き︑ 生命 と物 質と の統 一が はか られ るも う一 つの 近代 を準 備す る道 を開 くこ とに なっ たの では ない か︒ こ れは ない もの ねだ りな のだ ろう か︒ そう は思 わな い︒ しか し︑ 知性 主義 の限 界を 突破 し︑ 狭い 意味 での 理論 と実 践 の対 立 を 乗り 越 え︑ 生 命と 物 質 と の本 質 的 統一 を は か るに は

︑こ れ らの 対 立 をそ の 内 部 に包 み 込 む真 の 意 味 で の

﹁ 行為

﹂や

﹁プ ラク シス

﹂の 哲学 が創 造さ れな けれ ばな らな い︒ その ため には

︑何 より もま ず身 体の 問題 を掘 り下 げ︑ そこ から

﹁魂 の原 理﹂ から

﹁身 体の 原理

﹂へ の転 換を はか る必 要が ある

︒今 見た よう に︑ この 道は

﹃省 察﹄ のデ カル トに あっ ては 一瞬 開か れ︑ すぐ さま 閉じ ら れ てし ま っ た︒ もち ろ ん︑ 言 う まで も な く︑

﹃省 察

﹄の デ カル ト が す べて

では ない

︒例 えば

﹃情 念論

﹄の デカ ルト であ れ ば︑

﹁ 心身 合 一 の主 観 性﹂ の 別 の可 能 性 が見 ら れ るは ず で あ る︒ しか し︑ それ は本 稿の 主旨 を超 えた 問題 であ る︒ そ れで は︑ レヴ ィナ スの 場合 は︑ どう だろ う か︒ 二 つの 主 観 性の 本 源 的 統一 が は から れ

︑本 当 の意 味 で の﹁ 行 為﹂ や﹁ プラ クシ ス﹂ の哲 学へ の道 は開 かれ たの だろ うか

︒す なわ ち︑ 明晰 判明 を旨 とす る純 粋悟 性の 立場 にた つ﹁ 魂の 原理

﹂か ら心 身合 一の 行為 の立 場に たつ

﹁身 体の 原理

﹂へ の転 換が はか られ たの だろ うか

︒レ ヴィ ナス の身 体の 問題 に移 ろう

― 31 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

(15)

三 レ

ヴィ ナス は﹁ 世界 なき 実存

﹂に おい て︑ 次の よう に 言 う︒

﹁わ れ わ れは 世 界 と の関 係 に おい て 自 分た ち を 世 界か

ら切 り離 すこ とが でき る﹂

︒ 懐疑 もエ ポケ ーも 使わ ず に︑ どう や っ て世 界 か ら 離脱 す る のか

︒ま た こ の世 界 か ら の離 脱は どこ へ向 かう のか

︒デ カル トな らば

︑懐 疑 に よっ て 無 の淵 へ と 落 ちて い く︒ し かし

︑レ ヴ ィ ナス は

︑﹁ エ キ ゾチ スム

﹂に よっ て︑ 無な らぬ

︑不 在の 現前 とし ての

﹁あ る﹂ の沈 黙の ざわ めき へと 向か う︒ 既に 見た よう に︑ レヴ ィナ ス自 身の 言葉 によ れば

︑﹁ 深 淵﹂ と﹁ ある

﹂と は同 じも ので ある

︒し かし

︑そ れは 本当 だろ うか

︒ 世 界に おい て︑ われ われ は多 くの 事物 や対 象に 関わ っ て いる

︒事 物 や 対象 は 意 味 を与 え ら れ一 つ の 内面 に 準 拠 し︑

﹁ 実用 の歯 車﹂ の中 に組 み込 まれ て いる

︒こ の 世 界に あ っ て は︑ 真の 意 味 での

﹁他 性

﹂は な い︒ しか し

︑こ こ で レヴ ィ ナス は あ の﹁ エキ ゾ チ スム

﹂と い う 概 念を 使 っ て︑ この 世 界 に も﹁ 驚 き﹂ や﹁ 異 他 的 な も の

﹂が 潜 ん で い る と 言 う︒ そ して

︑そ の こ とを 最 も よく 教 え る のが 芸 術 であ る

︒芸 術 の 働き は

﹁対 象 その も の の 代 わ り に

︑対 象 の イ メ ー ジ﹂ を与 える こと にあ るが

︑こ のよ うな イメ ージ によ って 可能 にな る世 界と の間 接的 関係 が﹁ エキ ゾチ スム

﹂に ほか なら ない

︒﹁ エ キゾ チス ム﹂ は対 象を 世界 の﹁ 外﹂ に 連れ 出 す︒ そ の結 果

︑対 象 は 自然 的 所 有や 内 面 への 準 拠 か ら切 り離 され

︑世 界の 外の 存在 とな る︒ それ はも はや 対象 では なく

︑他 者で ある

︒ さ ら に レヴ ィ ナ スは き わ め て重 要 な 指摘 を 行 なう

︒芸 術 の 教 えは そ れ だけ で は なく

︑知 覚 と 感 覚と の 区 別 を 教 え る︒ 知 覚の 示 す﹁ 外 在性

﹂は 本 質 的な も の と は言 え な い︒ なぜ な ら︑ そ れ は﹁ 内 面 性﹂ へ の 準 拠 に よ る 外 在 性 で あ り︑ 世界 の﹁ 外﹂ をも たら すわ けで はな いか らで あ る︒ 他 方感 覚 は︑ 主 観に 帰 属 す るも の で も知 覚 の 素材 で も な い︒

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス ― 32 ―

(16)

それ は主

│客 や内

│外 の区 別を もた ない

﹁エ レメ ント とい う非 人称 性﹂ への 還帰 であ る︒ すな わち

︑事 物そ のも のの

﹁ 物質 性﹂ への 還帰 であ る︒ レヴ ィナ スは 次の よう に言 う︒

﹁存 在の 物質 性の 発見 は新 しい 質の 発見 では なく

︑存 在の 形の ない うご めき の発 見で ある

︒存 在が 既に われ われ の﹃ 内部

﹄に 依拠 して いる 形の 明る みの 背後 にお いて

││ 物質

はあ!! の 事実 その もの であ る﹂

︒ で は︑

﹁ ある

﹂と は何 か︒ なぜ レヴ ィナ スは そ れを デ カ ルト の よ う に﹁ 無﹂ と言 わ な いの か

︒レ ヴ ィナ ス は 第 二節

﹁ 実存 者な き実 存﹂ の始 まり の文 章で 次の よう に言 う︒

﹁あ らゆ る存 在者 が︑ すな わち 事物 も人 も無 へと 帰し たと 想像

して みよ う﹂

︒ 確か に懐 疑で はな く想 像で はあ るが

︑﹁ 無﹂ は出 てく る︒ レヴ ィナ スは この

﹁無

﹂に

﹁実 存の 無名 の流 れ﹂ を見 る︒ この

﹁無

﹂に あっ ては

︑主 客や 内外 の区 別は ない が︑ 間違 いな くそ れら の差 異化 を含 み込 む出 来事 が起 こっ てい る︒ この 出来 事と は何 か︒ それ は主 語や 実詞 とは 関係 がな い︒ それ は﹁ 担い 手を もた ない

︑無 名の 行為 その もの

﹂と いう 性格 をも ち︑ 無の 底で 起こ っ て いる

﹁焼 尽

﹂で あ る︒ レヴ ィ ナ ス は︑ この 存 在 の非 人 称 的で 消 し 難 い︑ 無名 の﹁ 焼尽

﹂の 出来 事を

﹁あ る﹂ と呼 び︑ さら にそ れを その 人称 性形 態へ の拒 否に おい て﹁ 存在 一般

﹂と も言 い換 える

︒ こ のよ うに

﹁あ る﹂ は﹁ 無﹂ なの であ る︒ レヴ ィナ スも また 無へ と落 ちて いく が︑ ただ 注意 すべ きは

︑こ の﹁ 何も ない

﹂が 純粋 な無 では ない とい う点 であ る︒ それ ゆえ

︑そ れは

﹁不 在の 現前

﹂と 言わ れる こと にな る︒ この 後レ ヴィ ナス は︑ この

﹁あ る﹂ から

︑す なわ ちこ の﹁ 存在 者な き存 在﹂ から

︑い かに して 存在 者が 誕生 する かと いう 問題 へと 向か う︒ 細か い議 論は 省略 する が︑ 結局 それ は﹁ 存在 の永 遠そ のも の﹂ であ り︑

﹁ 実存 の無 名の 流れ

﹂で ある

﹁あ る﹂ にお いて

︑﹁ 現 在の 瞬間

﹂が いか にし て生 じる かと いう 問 題に 帰 着 する

︒こ の 転 換 の出 来 事 にお い て 最も 重 要 な 概念 が﹁ 定 位︵

position

︶﹂ と し て の身 体 で ある

︒﹁ 定 位﹂ と はレ ヴ ィ ナ ス独 自 の 身体 概 念 で あ る が

︑そ れ は

﹁あ る

﹂を 場

― 33 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

(17)

所や 位置 に限 定す るこ とで ある

︒そ れゆ え︑ この

﹁定 位と して の身 体﹂ は︑ 無名 の実 存の 流れ であ る﹁ ある

﹂に

﹁停 止﹂ や﹁ 中断

﹂を もた らし

︑存 在と 存在 者と の結 合を 生み 出す

︒そ の意 味で

︑こ の定 位の 出来 事と して の身 体は

﹁現 在と して の瞬 間の 出来 事﹂ にほ かな らな い︒ デカ ルト の場 合は

︑無 の淵 から 最初 の確 実性 への 転換 は疑 いそ のも のの 不 可疑 性 に 基づ く も ので あ る が︑ 既 に見 た よ うに

︑懐 疑 の 停 止は

﹁無 限 の 観念

﹂と い う 他性 の 力 に よ る も の で あ っ た︒ レヴ ィナ スの 場合 は︑ 永遠 の今 たる

﹁あ る﹂ に停 止や 中断 をも たら すの は﹁ 定位 とし ての 身体

﹂な ので ある

︒し かし

︑た とえ 身体 が﹁ 現在 の瞬 間の 出来 事﹂ であ ると して も︑ 定位 とし ての 身体 だけ で存 在者 なき 存在 から 存在 者へ の転 換︑ すな わち

﹁イ ポス ター ズ﹂ は可 能な のだ ろう か︒ この 問題 を解 く手 がか りは

︑デ カル トや マル ブラ ンシ ュの 連続 創造 説に ある

︒し かし

︑そ の前 に触 れて おか なけ れば なら ない こと があ る︒ レ ヴィ ナス は﹁ 定位 とし ての 身体

﹂と いう 考え 方を どこ から 手に 入れ たの だろ うか

︒わ れわ れは

︑そ の起 源は デカ ルト の﹁ 私と は考 える とこ ろの もの であ る﹂ とい う定 義に ある と考 え る︒ レ ヴィ ナ ス が﹁ もの

chose

︶﹂ と い う 言い 方に 注意 を促 して いる こと を忘 れる わけ には いか ない

︒レ ヴィ ナス によ れば

︑デ カル トの 懐疑 によ って 排除 され たの は﹁ 対象 とし ての 身体

﹂で しか ない

︒で は︑ 生き 残っ た身 体と は何 か︒ これ を解 く鍵 は﹁ コギ ト﹂ にあ る︒ レヴ ィナ スの 解釈 では

︑デ カル トの コギ トの 最も 深い 教え は︑

﹁ 思考 を実 体と して

︑自 己を 措定 する 何も のか とし て﹂ 発見 し︑

﹁ 思考 は出 発点 をも つ﹂ と考 えた 点に ある

︒実 はこ こに 懐 疑を 逃 れ た身 体 が 潜 んで い る︒ そ れは レ ヴ ィナ ス に よ って

﹁ 意識 の局 所化

﹂と も言 い換 えら れる が︑ 要 する に

︑思 考 する こ と は︑ 身 体と い う 出発 点 な しに は

︑す な わ ち︑ 身体 とい う条 件や 土台 や場 所な しに は︑ 不可 能な ので ある

︒で は︑ なぜ

︑思 考の 出発 点で ある この 身体 は懐 疑の 手に かか らな いの か︒ なぜ なら

︑こ の出 発点 は︑ 疑っ てい るそ の最 中に おい ても

︑そ の懐 疑そ のも のの 支え にな って いる もの だ から で あ る︒ つま り

︑も ち ろん 疑 う こ とも 例 外 では な い が︑ こ の出 発 点 と し て の 或 る 種 の

﹁物 体

﹂と し て の

﹁も

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス ― 34 ―

(18)

の﹂

︑ すな わち

﹁身 体﹂ がな けれ ば︑ 思考 する こと それ 自 体が 成 り 立た な い と いう こ と であ る

︒こ の レヴ ィ ナ ス 独自 のコ ギト 解釈 から

︑デ カル トの

︑あ の︑ 自己 を動 かし

︑感 覚し

︑思 考す る能 力を もつ

﹁或 る種 の物 体﹂ とし ての 身体 に戻 ると

︑様 相は 一変 する

︒ 確 かに この デカ ルト の身 体は

︑一 旦懐 疑の 手に かか って 排除 され たよ うに 見え る︒ しか し︑ それ はあ くま でも 精神 から 区別 され た身 体で あっ て︑

﹁ 心身 の分 離﹂ の原 理 を前 提 と した 場 合 に 限ら れ る︒ で は︑ そこ に 異 なる 原 理 で ある

﹁ 心身 の合 一﹂ を置 くと どう なる か︒ その 場合 で も︑ この 身 体 は排 除 さ れ てし ま う のだ ろ う か︒ もち ろ ん︑ そ う では ない

︒今 度は

︑こ のも う一 つの 身体 概念 は心 身の 合一 体と して 特別 な意 味を もつ

︒そ れこ そ︑ われ われ が言 う﹁ 心身 合一 の主 観性

﹂に ほか なら ない

︒た だ注 意す べき は︑ これ はそ のま まレ ヴィ ナス の﹁ 定位 とし ての 身体

﹂と 同じ もの であ ると いう ので はな い︒ とい うの も︑ レヴ ィナ スの 身体 概念 は単 に﹁ 心身 合一 の主 観性

﹂に 尽き てし まう わけ では ない から であ る︒ むし ろレ ヴィ ナス の狙 いは

︑こ のも う一 つの デカ ルト の原 理に 従っ て︑ 彼独 自の

﹁心 身合 一﹂ の哲 学の 形成 にあ った

︒す なわ ち︑

﹁ 定位 とし ての 身体

﹂と いう 概念 によ って

︑﹁ 心身 合一

﹂の 問題 を︑ デカ ルト には 思い もよ らな かっ た︑ 存在 者な き存 在に おけ る存 在者 の誕 生の 問題 とし て︑ 要す るに

﹁イ ポス ター ズ﹂ の問 題と して 徹底 化す る試 みを 出発 点と する 哲学 の形 成で ある

︒実 は︑ レヴ ィナ スと デカ ルト の違 いは もう 一つ ある

︒デ カル トの

﹁深 淵﹂ は終 始人 称的 次元 にあ り︑ レヴ ィナ スの

﹁あ る﹂ のよ うに 非人 称的 次元 にあ るわ けで はな いと いう 点で ある

︒そ れゆ え︑

﹁ 心身 合一 の主 観性

﹂を めぐ る問 題や 身体 の問 題 の違 い も︑ こ の二 つ の 次 元の 違 い に起 因 す ると こ ろ が 大き い︒ こ こで あの

﹁現 在の 瞬間 の出 来事

﹂と して の身 体の 問題 にも どろ う︒ この 出来 事に つい てレ ヴィ ナス は次 のよ うに 言う

︒﹁ 自 分自 身に よっ て存 在す るこ と︒ 瞬間 が存 在 する こ の よう な 仕 方︑ そ れが 現 在 であ る と いう こ と で ある

︒現

― 35 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

(19)

在は 歴史 を知 らな い︒ 現在 にお いて

︑時 間あ るい は永 遠の 無限 性は 中断 され 再開 され る︒ 現在 はそ れゆ え︑ そこ で存

在 一般 が あ るだ け で はな く

︑一 つ の 存在

︑一 つ の 主体 も ま た ある よ う な︑ 存在 に お ける 一 状 況 で あ る﹂

︒要 す る に︑ 瞬間 の出 来事 は︑ 身体 は︑

﹁ ある

﹂と して の﹁ 存在 一般

﹂だ けで はな く︑ 一つ の主 体︑

﹁イ ポス ター ズ﹂ によ って 出現 する 存在 者︑ の両 方に 関わ って いる とい う こ とで あ る︒ ま た︑ 現在 に お い て︑

﹁時 間 あ るい は 永 遠の 無 限 性﹂ が 中断 され 再開 され ると いう こと であ る︒ 前者 は

︑言 う まで も な く︑

﹁定 位 と し ての 身 体﹂ の 概念 の 関 わる 問 題 で ある

︒要 す るに

︑﹁ イ ポ スタ ー ズ﹂ と 身体 と の 関 係の 問 題 であ る が︑ こ の点 に つ い ては 既 に 触 れ た

︒そ れ ゆ え

︑後 者 の 問 題︑ 中断 と再 開の 問題 を取 り上 げよ う︒ 現 在と して の瞬 間は 自己 以外 の何 もの にも 準拠 しな い︒ すな わち

︑自 己自 身か ら出 て来 る︒ また それ は自 己消 失を 含む

︒瞬 間は 自己 自身 から 生ま れ消 失す る︒ それ ゆえ

︑瞬 間は 持続 も連 続性 もも たな い︒ とこ ろで

︑な るほ ど瞬 間瞬 間は その つど 消滅 する が︑ それ はま たそ のつ ど復 活す る︒ その 意味 で︑ 身体 であ ると ころ の現 在と して の瞬 間瞬 間は 非連 続性 と連 続性 とか らな る︒ 問題 はこ の事 態を どの よう に理 解す るか であ る︒ ここ でデ カル トや マル ブラ ンシ ュの 連続 創造 の考 え方 に触 れて おこ う

︒デ カ ルト は

︑﹁ 第 三省 察

﹂の 中 で﹁ 無 限の 観 念﹂ に よる 証 明 の後

︑二 つ 目 の 神の 存在 証明 を行 なう

︒こ の証 明は 原因 を探 って いっ て︑ 神の 存在 に到 達す ると いう もの であ る︒ すな わち

︑今

﹁私

﹂は この よう に存 在し てい ると 仮定 でき る︒ しか し

︑こ の 仮定 か ら︑

﹁ 私﹂ の存 在 の 作 者に つ い てこ れ 以 上追 求 す る 必要 はな いの だろ うか

︒そ うで はな い︒ とい うの も

︑﹁ 私﹂ の 一生 の 全 時間 は 無 数 に分 割 可 能で あ り︑ し かも 各 部 分 は他 の部 分に 依存 しな い以 上︑ 次の こと が帰 結す るか ら で ある

︒デ カ ル トは 次 の よ うに 言 う︒

﹁ 私が す ぐ 前に 存 在 し たと いう こと から

︑今 私が 存在 しな けれ ばな らな いと いう こと には なら ない

︒私 が存 在す るた めに は︑ 或る 原因 が私 をこ

の瞬 間に いわ ばも う一 度創 造す ると いう こと

︑言 い 換 えれ ば

︑私 を 保存 す る と いう こ と がな け れ ばな ら な い﹂

︒ デカ

もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス ― 36 ―

(20)

ルト は続 いて 創造 と保 存と が同 一の 事態 であ る点 を 強 調し

︑さ ら に 問う

︒﹁ 私 は 現 に存 在 す ると こ ろ のこ の 私 を すぐ

後で また 存在 せし める よう な或 る力 をも って いる だろ うか

﹂︒ も ちら ん︑

﹁私

﹂に はな い︒ こ の問 いは 重要 であ る︒ レヴ ィナ スの 瞬間 の問 題も また ここ にあ る︒ ただ デカ ルト の議 論は 終始

﹁現 象的 次元

﹂に ある が︑ レヴ ィナ スの 場合 は︑ この 次元 を離 れて

︑非 人称 的な 無名 の存 在の 流れ であ る﹁ ある

﹂の 次元 へ移 行し

︑デ カル トの 言う

﹁私

﹂を

﹁瞬 間﹂ に置 き換 える 必要 があ る︒ デカ ルト の答 えは

﹁私

﹂に はそ のよ うな 力は ない とい うも ので あり

︑そ れゆ え﹁ 或る 原因

﹂が 連続 的 に 創造 し な い限 り

︑﹁ 私﹂ は 存 在し な い︒ で は︑ レヴ ィ ナ スは ど う 考 えた のか

︒レ ヴィ ナス はそ こに

﹁瞬 間そ のも のに 内在 する ドラ マ﹂ や﹁ 実存 を求 める 戦い

﹂を 見て 取り

︑彼 自身 が与 えた 瞬 間の 定 義︑

﹁ どこ か か ら出 発 す る とい う の では な い 自己 へ の 到 来の 運 動﹂ の 中に 答 え を探 る

︒こ の 定 義 に よ れ ば︑ 今の 瞬間 はそ れに 先立 つ或 る瞬 間か ら始 まる ので はな く︑ それ 自身 から

︑す なわ ち︑ 或る 瞬間 の消 滅か ら始 まる とい うこ とに なる

︒そ れゆ え︑ レヴ ィナ スの 場 合 でも

︑瞬 間 の 連続 性 は な い︒

﹁私

﹂と 同 様 に︑ 瞬間 に は 次の 瞬 間 を 存在 せし める よう な﹁ 力﹂ は ない

︒つ ま り︑

﹁ 私﹂ とは デ カ ルト の 言 う﹁ 精 神﹂ であ る が︑ レ ヴィ ナ ス の考 え る

﹁瞬 間﹂

︑ すな わち

﹁身 体﹂ もま た連 続性 をも たな いと いう こ と であ る

︒わ れ われ は こ こ から 再 び 瞬間 に お ける

﹁超 越 的 関 係﹂ に戻 るこ とに なる のだ ろう か︒ そう では ない

︒ レ ヴィ ナス は次 のよ うに 言う

︒﹁ 創 造主 によ る創 造 の神 秘 と は別 な と こ ろに

︑す な わ ち創 造 の 瞬間 に お い て︑ 被造

物の 時間 のす べて の神 秘が ある

﹂︒ で は︑

﹁創 造の 瞬間

﹂に おい て何 が起 こっ てい るの か︒ それ は︑ 瞬間 それ 自体 にお いて

︑瞬 間の 消滅

︑す なわ ち﹁ 死﹂ と︑ 瞬間 の現 前︑ すな わち

﹁復 活﹂ が同 時に 起こ って いる とい うこ とで ある

︒こ の逆 説的 事態 をど のよ うに 考え るべ きか

︒レ ヴ ィ ナス が 繰 り返 す よ う に︑ 瞬間 の 本 質は

﹁立 ち 止 まる こ と

﹂︑ つ まり 無名 の実 存の 流れ の 中 断や 停 止 にあ る

︒し か し︑ こ こに は

﹁死

﹂は あ って も

︑ま だ﹁ 復 活﹂ はな い

︒﹁ 復 活﹂ は どこ

― 37 ― もう一つの近代、あるいはデカルトとレヴィナス

参照

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