「身体」への問い : カント超越論的身体論からヘーゲル頭蓋論へ
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(2) 2. ド城. d. どまるものであ る限界をあ ぶりだす (第一章 ) 。. と もに、. と. カント・ へ一 ゲル双方に共通の 関心事であ った「人間学」の「人相術,頭蓋論」を 橋. 頭伝に、 同じその身体論的問題に 対する へ一 ゲル哲学の概俳的配備を 明らかにすることを 通じて、 へ一 ゲル哲学が既に、 一一フーコ一の 言. う. で、. のもとに捉えなおそうと 試みているのであ ることを検証. 「身体」をその. 新たな認識論的論理構. 制. ような一一世界観上の 革新的な根本的転換を 経た 上. する (第二章 ) 。. 最初に筆者なりの 身体概俳について 述べでおく。 現代の現象学的身体論,に則るなら、 「身体」は、 もはや幾何学的. -. 物理学的に極めて 特定された、. 二次元空間として 遠近法的奥行きを 持っ空間図式中の、 それ自体は空間から 独立の実体的物質的存 在で、 且 つ 随意に操作 吋能 なひわ りる と 呼び習わされている. 「. 物 」なのではない。 むしろ「身体」は、. 通例「意識」. - 定のパースペク テ イヴを持った 視線の運動の 積分として、 そうした. 空間や奥行きを、種々新たに生み 出し得る起点であ り、また随意に動かすことのできる 領域であ る。 その概念的対照として、 それ自体は動くことなく 外的に操作. 吋能. な所謂「 物 」の概俳を派生し、 の. みならず身体の 運動の契機として「現在」とそれ 以外の時間区分を 生じ、 現実性 対する. 吋能 ,陸 ( 空間・存在 ). (空間・存在 ). に. の区分を生み 出す、 自分自身にとっての 世界存在の文字通りの 原点,、. さりながらまたその 中で身体的呼応を 契機として「他者」と 出会うことをも. 吋能. にする出発点、. そ. れが「身体」であ る、 と理解される。 当面そのように 理解される「身体」を 、 然し西洋哲学が 正規に概念化するには、 種々の思想的、 時代的制約が 存在した。 フーコーは、 周知の通りその 著『知の考古学』で 西洋精神史の 新たな時代区分を 提唱し、 中でも. 17世紀を起点、とする古典主義時代と. 18世紀末に始まるとされる 近代性の区分根拠を、. 「生物学」的 認. 識の確立とそれによる 世界観図式の 転換、 所謂 ェピ ステーヌの転換に 置いている。 フ一コ 一に拠れば、 リンネ植物学に 代表される古典主義時代の 博物学的世界認識が、 対象を外面 タソ什. の町 視 的な構造において 捉え、 それを表象の 空間に 払 いて「. 表. 」に分類するにとどまるのに 対し、. キュ ビエ の比較解剖学に 始まる 18世紀末以降の 近代の世界認識は、 吋視 的な器官の構造が 保障して いる眼に見えない 機能、 即ちその器官の 眼には見えない 日的としての 内的有機的統一 内的組織としてそれ 自体は見ることのできない 一個の「生命」. つまり. -一一 を 対象化するに 至る。。 逆に言. えば、 近代以前の西洋思想の 世界認識に放いては、その対象記述に 放いて生物学的な 概念 枠. --. 象の隠れた 兄 えない「生命」的機能統一を 明らかにするために、 日に見える形態以上にその 行動・行為・ 成長、 感性や自発性の 有無を問題にしていく. 認識. 観一. 対 メ、f 日的 や. がとられることはあ りえな. かったということになる。 フ一コ 一のこの指摘が 正鵠を得ているとすれば、 哲学的身体論の 歴史にも同様の 時代制約を見出 すことが. 吋能. なはずであ り、 殊にそれは、 哲学史上の新たな 時代区分の必要として、 9 世紀以降の神. 単 - 哲学 --自由学芸の思考の 伝統の解体と 再編を起点とする 近代自然科学の 創生発展の時代として ㈹ 14 世紀以降の西洋思想史に、 現代との分水嶺として「 1770 一 1820 」という一つの 画期をギ張する.
(3) 坂部. 3. 「身体」への. 問い. 恵の時代区分 5 に、 一個の傍証を 加えることにもなるはずであ る。. 以下、 第一章として、 カント哲学における「身体」の 扱いは如何なるものであ ったか、 また次章 でへ一 ゲル哲学に放いてはそれはどうであ ったかを順次検証していくこととする。. 第一章. カント哲学における 身体問題の時代制約. ヵ ント超越論哲学に 放いて、 「身体 (KOrper. ,. Leib. ) 」が持つ意味は、. その時々にあ って微妙、. 且 つ 困難なものであ り続けた。 生物学的関心としてはリンネを 筆頭に上げるカントだが ' 、 にも拘らずカント 哲学には、 身体論. と. してのまとまった 展開が見られないというのが 通常の理解であ る。 さりながら実際にはカントは、 その超越論哲学構想の 出発点に放いて「身体」に -. 左手」の関係. (所謂「鏡像現象」 ). 対して並々ならない 関心を寄せ続けていた ,. 「右手. を巡るその思索は、 その実、 後の超越論哲学の 方向を決めたと. いってよいものであ る。 「身体」の問題は、 結局カントの 哲学体系の内に l,分には捉えられ 得ず 、 か えってその体系の 限界を明らかにする 結果になったようにも 思える。. 第一節. カント義務倫理学における「身体」の. 位置. カント哲学が 身体論を欠く 理由としては、 例えば以下のものが 考えられる 第一に、 カントの哲学・ 倫理学が、 「意志の自立. (AutonomiedesWillens). ". 「人間が自分. 」. 自身に普遍的法則を 与えながら、 それに服従すること」, 一一 を 道徳の最高原理として、 その上 体であ る「人格」. としての自己と、 それ以外の「物件」としての 世界を常に同時に ア ・プリ オリ に. 構成 (konstruieren)しうる、 認識主観としての「超越論的統覚 (transzendentaleApperzeption) 」、 それを起点とする「形式 ニ 法則」主義的な 論理構 制 に収 飯 していった点であ る。 カント義務倫理学. に放いて、 「人格」とは、. 「その行為に. 対して責任を 帰することのできるギ 体」であ り,、「物件」と. は 、 「如何なる責任も 帰することのできないもの」であ る。。 明らかな通り、 く私 ) であ って「 物 」では. ない「身体」がこの「人格. -. 物件」の二分法のどこに 位置するかと 言えば、 いささか微妙であ る。. 批判 期 以降のカントが、 こうした一一. 「世界」を「人格」と「物件」の 集積と看 敵 す一一. 「. 形. 武二法則」主義的な 世界観を採るに 至った背景としては、 前 批判 期 1770 年代のハチソン、 シ ャフツ ベリ一流の 、 謂わば「質量」的な「道徳感情. 晩年 1797 年の丁人倫の 形而上学 「洗二法則. 学への信奉. コ. (sensusmoral 玉) 」に対する信奉の 断俳から、 その 最. における「法論」の「徳論」への 先買にまで至る、 一貫した自然科. (Gesetz) 」への信奉. が 窺える,。 。 「定書合法」. の格律が、 常に同時に普遍的立法の 原理として妥当し ぅる よ. 志の自律」の 倫理学においてカントは、 批判 期の. 「自由による. う. 行為せよ」 ". -一. --. 「汝の意志. を 基軸とする「 意. 因果性 (KausalitatduruchFreiheit) 」. 論を更に発展させて、 次のように述べている。. 「普遍的自由の 原理のもとで 何人の自由とも 必然的に調和する 相互 ばその法則概念の 構成、 即ち法則概念の ア. ・プリ オリ. 白り. 強制という法則は、 いわ. な純粋直観における 描出であ り、 それは 作. 用 反作用が同一であ るという法則のもとにおける 物体の自由な 運動の町 能 ,性 とのアナロジ 一に基 づいている」. ば.
(4) 4. ド. 4成. 一 -. 見られるとおり、 カント義務倫理学における「自由」とは、 「法則」的「因果性」に 従 り、 それに従. う. 限りでの共同、 ならびにその 協働の対象となる 限りでの仙. その対象なのであ り、 「超越論的統覚」により「構成」される「人格. -. -. 「人格」、 仙. う. -. 自由であ 「物件」が. 物件」世界もまたその 限りに. 払 いてのみの対象なのであ る。. その限り、 少なくともカントの 哲学・倫理学的概俳 構 制からは、. 「人格 -. 物件」という 法論的二元. 論 一一延いては、 そのアナロジ 一の 箱 型とされた自然科学的な「主観 - 客観」二元論. 一 図式. には収まりきれない「身体」の、 その概念的対象化は 期待されるべくも 無い。 さりながら然しカントは 一一その法論へのこだわりがハチソン・シャフ. 論から始まっていたよ. う. に一一上に見たような. 質的「身体」の. ツ ベリ一の「道徳感情」. 論理的締め出しを 余儀ないものとす. る批判 期 以降のその哲学的論理構 制 にもかかわらず、 「身体」に対する 特有のこだわりを 終生 - 貫し ライト. ファーデン. て 持ち続けていたのであ り、 しかもそのこだわりが、 超越論哲学に 対して重要な 導きの. したばかりでなく、 身体論的に見ても 興味深い「鏡像現象」へのこだわりであ. 糸. を為. ったことを、 次に確認、. しておきたい。. 超越論哲学構想、と「身体」のリアリテイー. 第二節. 批判期の画期であ るとカント自身が 書簡で語っている 1769/1770年 3 の直前にあ たる 1768年、 ント は. ニ. 空間における 方位の区別の 第一根拠について 凹を発表して、 ニュ一トン力学的な「絶対空. 間」の実在を 証明しょうと 試みた。 原理. コ. カ. が、. 次いでそのわずか 2 年後、 今度は『 吋感界と 可想界の形式と. (1770) で一転その「絶対空間」の「実在性」をカントは 否定する。 この僅か. の原因を巡っては、 既に様々な解釈がなされてきたが. 円. 2. 年の間の変化. ここで改めて、 その意味を、. 「身体. (KO 叩 er)」に対するカント 特有の関心という 視角から検証し 直しておきたい。 ,慣性の法則から絶対空間の実在性を 論証する数学者オイラ 一の『時間と 空間に関する 反省 (1748) " に 触発されて書かれた『空間における 方位の区別の 第一根拠について』. コ. (1768 、 以下『 方. 位 』と略称 ) で、 ニュ一トンの「絶対空間」を 主題化したカントは 次のように述べる。. 「絶対空間は. 一切の物質の 存在から独立であ って、 それ自身、 物質合成の可能性の 第一根拠として、 自身の実在 ,性を有する」. (Ⅱ. 378) 。 その証明がⅠ方位』執筆の 目標であ. る. (Ibid,)。. 注目したいのは、 カントがそのニュ 一トン的な「絶対空間」の 実在性の証明に 際して、 リアリテ ィ 一の根拠として「身体」を. 持ち出す点であ る。 そのことに焦点を 絞って、 T 方位』の内容を 続けて. 兄 ろ。 先ず「方位」の 確定から立論するカントは、 一一 以前の自身の 立場、 ライプニッツ 的空間論 " の. 否定から始めて 一一- 「最も抽象的な 意味では、 方位は空間内の 或る物の他の 物に対する関係に 存す. るのではなく」、 まだ「位置」の 概念でしかな い その関係を超えて、 「これらの位置の 体系の絶対 手 雨空間に対する 関係に. (方位は. コ. 存する」. (Ⅱ. 377) と主張する。. 「絶対空間」との 関係に後ってはじめて 諸々の「位置の 体系」が「方位」として 確定されるとい ラカントの議論は 、 逆に言えば、 「方位」のリアリティーが 確実であ れば、 それらの位置の 体系の実. 在性に見合った「絶対空間」の 実在性が証明される、 そういう論理構成のもとにあ る。 カントは、 証明のポイントであ るその「方位」のリアリティー、 換言すれば「位置の 体系」のリ アリティーを、 身体感覚のリアリティ 一に求める。.
(5) 問い. 「身体」への. 5. 「われわれは、 われわれの外部に 存在しているものの 一切な、 それらがわれわれ 自身に対して 関係する限りに 払 いてのみ感官を 通して知るのだから、 われわれがこれらの 互いに交差する 切断 面 ( 垂直面と水平面. コ. のわれわれの 身体に対する 関係から、 空間における 方位という概念を 産出. (U@378). すべき最初の 根拠を手に入れるとしても、 少しも不思議ではない」 このときカントは、 オイラ一に触発されて、 カント白身の 言葉で言. いわゆる「鏡像現象」の 存在に注目していた。. 「石巻き ね. う. 「不一致対象 物. 」. (Ⅱ. 382) 、. じと左巻きねじ」「赤道に 関して対称的な. 二つの球面三角形」等、 自然界に見られる 種々の鏡像を 例示した上でカントがとりわけ 強調するの は 身体的な鏡像の 例、 「左手と右手」であ. る. (Ibid.)。. もし仮に「空間」がライプニッツ 派のギ張するように「ただ 物質が相互に 並列している 諸部分の 外的関係」においてのみ 認められるとするなら、 「右手と左手におけるすべての. 現実の空間」も 、. こ. 「. (n383L 。 だが、 「手は右手も 左手もその諸部分. の手が占有する 空間においてのみあ る」ことになる. 相互の関係はまったく い かなる区別もな い ので、 この手はそのような 特性に関してまったく 不定と なる。 す な れ ち 、 人体のどちら 側にも適合するということになるだろうが、 それは不可能であ. る」. (Ibid.)。 それがカントの 主張であ る。 隣接する近傍諸部分に 対し、 吋能. 「裏返し」であ. る点を除けばそれぞれまったく 同じ関係を辿ることが. な鏡像としての「左手と 右手」の存在は、 その区別を可能化する 最終根拠としての 絶対基準系. の 存在を幾何学的に 要請する。 然し、 留意すべきは、 ただそれだけのことならば、 後にカント白身 がそ. う. 主張している よう に、 基準系は観俳的、 理念的な「覚的存在」でド 介なのであ る。 が、 この. とき カントがそれ 以上に「絶対空間」. 一一. 「絶対的なもの」. したのは、 それが「身体」の「内的」リアリティー. と ぶ% んこ. 一一の「実在」までも 殊更に主張. する特段のリアリティーとして 感じられ. ていたからに 他ならないだろう。 「立体の性質中に、 ただ絶対かっ 根源空間だけに 関係する区別が 見出され ぅる. 」. における鏡像の 存在は、 それぞれ空間に 位置を占める 物体が、 その内部で、 一一 あ れば、 「身体」内部のその 疑いようのない「感じ. (Ge 伍 1)」・実在感があ るからこそ. (Ibid.)。 自然界 「右手、 左手」で (Ⅱ. 380). 墓. 単糸としての「絶対空間」との 対応関係もまたなければならず、 それは実在しなければならない、 そ ラカントはこのとき 確信していたのであ る。. そのような格段の「身体」内部的なリアリティーをもつ 実在する鏡像現象をもとにカントは、 基 準 系 、 す な れ ち 「絶対空間」の「実在」を 要請するのであ り、 その立場から 理論上、 「空間」を物質 に 対する外在的関係、. 包括的空間とみなすことによる 論理的無限後退化を 防ぐために、 必然的にそ. れは「内的区別」でなければならない、 と主張するのであ. る. (Ⅱ. 382)0. 先回りしていえば 然し、 本稿が問題にしたい「身体」論プロパ 一の展開が、 その概念的準備ととも にカントの俳頭に 少しでもあ ったならば、 こだわりは、. それが「空間. -. 「鏡像現象」を. 起点とする「身体」内部の「感覚」へのこの. 物体」規定の 問題だからこそ、 文字通りその「身体」感覚の 次元に立ち返. って、 「空間 - 物体」「空間 - 時間」の二元論的概俳枠に 固定的にとらわれずに、 寧ろそうした 概念 規. 定 が総てそこから 生じるような、 「世界」の構成全体と 連動した「身体」の「運動」の 認識論的問題 後の「図式論」「構想力」理論に 連なる世界の 構成の問題一一 に カントを駆り 立てずには お かなかったと 考えられる。 然しそれは周知の 通り、 近代自然科学的二元論的世界観の 範型であ る 二.
(6) ド 切こ. 6. -一. ュ 一トン力学の 哲学化から出発したカント 哲学にとっては、 まだあ まりに本質的な、 すべてを振り. 出しから再構築せねばならない 抜本的転換であ るには遠いなかった。 話を戻せば、 ニュ一トン的な「絶対空間」の 実在性の証明をより 身近なリアリティ 一であ る「 身 体 」の「幾何学的構造」に 対応させて - 一 限定して一一立論するカントの 以上の議論は、 出発. 点としての「身体」のリアリティー、 その「感じ. (Gefiil) 」から「絶対空間」「絶対的なもの」の. 実. 在性を導くものであ った。 その限り、 「世界」の一切がそこから 展開するこのカントの「身体」論 一 は 、 「構想力」の「図式化」理論にも. 「超越論的身体」論 ". 一. 発 G するものとして、 「絶対的. なもの」から「超越論的理俳」へのカント 哲学のその後の 転回に 掩 いて、 まさに超越論哲学の 核心 に 位置して、 その転換を直接左右した 吋能 ,陛をf-分考慮されるべきものであ る。. 先に述べたよ. う. に、 二年後の口寸感 界と吋想 外の形式と原理』. (1770年、 以下、 形式と原理 コと ニ. 略称 ) でカントは「絶対空間」の 実在性を一転否定し、 「空間」は新たに「直観の 形式」という カン ト. 哲学独白の定義のもとに 規定しなおされる。 批判哲学の画期として 以降一貫するこの 周知の定義. によれば、 「空間」は概俳ではなく「純粋直観」であ. り、 客観の側にではなく. 主観の側に属する「 図. 八 (Schema) 」であ る (11402f.)。. 「空間」の概俳は、 「覚的知覚そのものの 町龍佳」であ って、 観 」であ るとカントは 言 手や 、 向かい合. う. のみ認められ ぅる. う. 取り出せない」「純粋 直. (Ibid.)。 「完全に同一同等であ りながら合致しない 立体. 二つの半球の 球面三角形 」. 「感官からは. 左手と右. の相互にあ る「差異」は 、 「あ る純粋直観によって. (Ibid.)。 「空間は何か 客観的なものでも 実在的なものでもなく、 実体でも通有. 性でもなく、 関係でもない。 そうではなく、 空間はギ観的で 観念的なものであ り、 何であ れ外的に 感覚された一切のものを 同位的に秩序付けるために、 心の木性から 確固たる法則によって 現れるい わば図式であ る」 (Ibid.)。 見. られるとおり. 「感覚からは. 取り出されず」とも「覚的知覚そのものの 町な目,性の前提」として、. 「覚的に感覚された 一切のものを 同位的に秩序付ける」「図式」、 という「空間」規定への 新たな 洞 察 をもとにカントは、 「絶対空間」の 実在性を否定する。 「相互に関係するいかなる 存在者も欠く 真 の無限の諸関係の 押 造 」であ るような「絶対空間」は 、 故に最早「虚構」であ り、 「御伽噺の世界に 属する」. (Ⅱ. 404) 、 そ ラカントは言い 切る。. 確かに「絶対空間」の「実在性」は 否定されているのだが、 然し注目すべきは、 依然「左手と 右 手 」等の「鏡像現象」の 事実自体は疑われていないということであ. ティ一の「. 吋能 性の前提」として「空間」が「主観」の. り、 「感官」に訴えるそのリアリ. 側の「心の木性から 出現する図式」に 転換. された点だけの 変化であ るという点であ る。 つまり、 カントのこのときの 立論は、 依然、 主観の側の「身体」に「感じる」. リアリテイーを 起. 点、 としているのであ り、 その点からみれば、 「絶対空間」の「実在性」の 主張と否定というこの 僅か 二 年の間の劇 自り 転換も、 カントにとってはきわめて 連続的なものだったということが 理解されよう " 。. 転換の間を通じてカントの 思考の重心はあ. きらかに「主観」の. 側にあ り、 「身体」に「感じる」その. リアリティーへの 確信には揺るぎないものがあ った。 だからこそカントはそこを 拠点として、 既に 1764 年に『自然神学と 道徳の原則の 判明性 コで 「直観」とみなしていた「空間」を 、 にもかかわらず T 方位』で敢えてまた、. 幾何学的知見の 援用に 悼 んでその「実在性」の 証明を模索するという 冒険に.
(7) 7. 「身体」への. 問い. 打って出たのであ る。 「絶対空間」の 実在証明の断俳に 代えて「直観の 形式」と再定義された 新たな「空間」理論は 、 『純粋理性 批半 M. (1781 、 以下『牝牛山. と 略称 ). (1786 、. に継承され、 『自然哲学の 形而上学的原理』. 以下『原理』と 略称 ) で「理俳」として 完成される。 そこでは一見すると 最早幾何学的な 身体の アリティ一一一す な れ ち 先の「超越論的身体論」. に押し出されてくるよ. う. り. 一一 は 影を潜め、 代わって力学的議論が 前面. に見える。. 「絶対空間は、 したがってそれ 自身は無であ り、 なんら客体ではなく、 私が与えられた 空間を 越えて無限にまで 拡大するところの、 各々別の空間を 意味するに過ぎない。 それは相対空間を 包 み 込み、 その中で私が 相対空間を運動しているものと 想定し. ぅ. るような空間であ. る」. (rV481f.). 「かくて、 絶対空間は、 現実的客観についての 概念として必要なのではなく、 そのうちのすべ ての運動を相対的とみなす 規則として役立つべき 理念として必要なのであ 見られるとおり、 「直観の形式」と. 再定義された「空間」が、. (IV560). る」. 一貫して「それ 自身は無」であ. ると. される基本的論点には 変化はない。 変化は、 『方位』では「絶対空間」に 求められた基準系の 要請が 身体感覚的な 鏡像現象を根拠とする 幾何学的なものであ ったのに対し、 ここではそれが 運動する相 対空間を基礎付ける「規則」として 力学的に要請される「理俳」に ニ批平山「超越論的弁証論」によれば、. 「理俳」は「感官に 払 いてはこれに 一致する対象の 与えら. れることのできない 必然的な理性概念」であ 制限」 (A326 B382) な. 「極大概俳」. 取って代わられている 点であ る。. り. (A327B383)、 「相対的」に 対する 対 概念としての「 無. (A330 B386) 、 その限り相対的なものに 対する「基準 (Kanon). 」. (A334f. B3g1f.) としての「絶対的」 (A324 B380) 概念とされている。 「相対的」に 対する「絶対的」という 概念と一体の「理俳」の 力学的イメージのもとに 発想 t れている。 その限り、. 概念は、. T 牡羊捌. でも『原理. T 方位』の幾何学的身体イメージは. コ. 同様、. 確かに一掃. され、 「超越論哲学」の 進展とともに、 転回の基盤を 果たした身体的リアリティーももはや 払拭され たよ. う. に見える。 が 、 果たしてそうであ ろうか。. 確かに、 カントによる「超越論的」. 「私は、 諸対象にではなく、 諸対象. という概念の 定義. を 認識するわれわれの 仕方に、 この認識が ア ・プリ オリ に可能なはずであ る限りに 放 いて、 一般的に 携わるすべての 認識を超越論的と 呼ぶ」 (B25) 一一 からして「超越論哲学」には、. 一の展開はもとより、. 「空間」内の「方位」、. 「位置の体系」に. 「身体」論プロパ. 直接対応し得る 様な「身体」の 目に見え. るリアリティーが 登場しうる理論的局面も 最早存在しないように 思われるかもしれない。 が 、 あ らためて、 カントの思考形成を. T 方位』以双にさかのぼって、. そのニュ一トン ノ] 学 志向に. 即して辿り直してみるなら、 後景に退いたかに 見える身体的リアリティーが、 それ自体理論化され るには至らずともそれでも 依然カントの 基本的確信として、. 「超越論哲学」の. 根幹で脈打ち 続けてい. ることが見て 取れる。 とともにそのことが、 カント超越論哲学の 本質的志向を 背後から決定付け、. その体系を種々の 点で、以降のドイツ 観念論哲学の 諸体系と区別させるものになっているのであ る。. 第三節 超越論哲学の 木質と「 力 」のリアリティー 「絶対空 制. 「絶対的なもの」と「身体」との 幾何学的形態を 通じた内的対応関係を 実感させる「鏡. 像 現象」について、 カントは、 批判 期 以降一一 即ち幾何学的空間論から 力学的空間論への 転換 以.
(8) 8. 成. ド勃. 1770 年. 降 も一貫して T 空間の方向を. T 形式と原理』. (Ⅱ. 一. 403) 、 1782 年『プロレゴ ー メナ』. (Ⅷ 134f.)、. 定めるとはどういうことか』. 1787 年日自然哲学の 形而上学原理. 以下口原理 コと 略称 ) でその同じ証明を 繰り返している。 たそのこだわりは、 一一 い 内容であ. (1V286)、 1786 年 コ. (1V483f. 対するカントの 終生一貫し. 「鏡像現象」に. たとえそれがカント 哲学そのままの 概念 構制 では決して理論化され えな. っても一一さながらそれがカント 木人の経験の 根幹に位置する 身体的実感であ. ったこ. とを窺わせる。 その傍証として、 幾何学を通じての 概念化を断俳せざるをえなくされた「身体的リアリテイー」 の実感が、 力学の 吋能. ブ イールドに据え 直されて、 F 原理 コ 「第一部門. にする空間の 幾何学、 圧純粋理性批判. 空間学 Phoronomie. 」. ( 運動を. カテゴリ一表、 量 (外延量 ) に対応 ) に受け継がれた 可. ロ. 能性を挙げることができる。 無論然し 、 既に見たとおり 1770 年の. T 形式と原理 コ. で、 「絶対空間」の「実在性」が「直観の 形式」. へ 後退せざるを 得なかったことを 皮切りに、 批判哲学の展開に 伴い、 その「身体」的リアリティー の 内容も一一殊に「内的関係」というその. 規定を巡っては、 「絶対的なもの」の 断俳から「超越論. 的 理念」へと批判哲学が 深化するに従って 一一. 自 ずと切り詰められざるを. 得なかった。 カント 哲. 単 に於ける書かれざる 身体論の帰趨を 明らかにする 為に、 その経緯を見届けておく。 そもそもカントの 哲学は、 矛盾律を絶対原則として 形式的整合性を 追求するあ まり、 極度の 観念性、 実在乖離に陥っていた. Ch. ヴ オルフの一般存在論一一. 「可能的なものが 存在であ る」 ". 一一に対する 批判から出発した 時点で実在志向的だった。 1755 年の『形而上学的認識原理の. 新解明』. ではカントは、 クルージ ウス が主張していた「実在根拠」説の 側に与する。 20. 同年、 ニュ一トン理論に 即して展開されたニ 天界一般の自然史と 理論 して「 重ノJ の中心」を想定したニュ 一トン四を承けてカントは、. コ. では、 絶対空間の中心と. より具体的に 宇宙の中心を 太陽で. あ ると主張している (1 327) 。. 「絶対空間」のリアリティーは、 ニュ一トンその 人にあ っては「電力」の 実在にあ ったが、. 「隠れ. た 力 」との批判を 招いたその概念的不定性に 代えで 22、 それより判明な 具体的「太陽」を 絶対空間. の中心、 宇宙の中心、 とカントは主張したのであ る。 その延長上にオイラ 一に触発された 1768 年の F 方位山執筆があ. 証明され. ぅ. り、. 「絶対空間」の. 具体的実在性が 実在的な身体的形態の 幾何学的認識根拠として. ると考えられたのだった。. 問題はその後の 展開であ る。 『方位山構想以双の 1765 年、 ランベルト宛書簡でカントは『自然哲学の 形而上学的原理 コめ 構想 ほ ついて述べ (XS3L 、. 了. 自然神学と道徳の 原則の判明性 ロ (1761)で展開した実在原理論を 端緒に 、. 感性的認識が 叡智的認識を 侵犯しないための「予備 学 propaedeutica 性的認識と叡智的認識との 区別を説く学」. 」. (D441) 、. 一一即ち「感. (fmm395) 一一 の 必要性を表明していた。. にも拘らずカントは、 批判 期 に算入される. T 形式と原理 コ. (1770) で、 前節で見たよ. 間 」の実在性を 否定したものの、 純粋知性に拠る「叡智 界 mundusinte. Ⅱめ bilis. 的物日体昇一一の 認識は疑わず、 「叡智界の形式」として「客観的原因」性、 体の結合を成立させる 原因」性を認めている. (Ⅱ. 」. う. に「絶対空 形而上学. 即ち「存在 物 それ. 自. 398)。 「感性界」と「 可想界」とは「対象が 精神の. 性質において 二重の仕方で 現出する」区別であ るとされ (fmm387ff.) 、 「空間」「時間」は 既に純粋な. 「直観の形式」とされていたにも 拘らず. (Ⅱ. 399)、 「実体性」・「因果性」等の、 きわめて力学主義的、.
(9) 「身体」への. 問い. 9. 力学世界観的な 基本的諸概念については、 それを実在的「 吋想界 」そのものの 実相とする 構制を カ ントは譲らず、 「諸実体の普遍的交互作用」としての「物理的 [力学的 ] 影響による」「実在的・ 物理 的 調和」. ( 5. 22,. Ⅱ. 409) を認め続けている。. 「身体」直結の「絶対空間」の 実在性が断俳されたにもかかわらず、 なお力学. 白. 0 世界の「実在性」. は 一向疑われていない。 何故か。 そもそも考えてみれば、カントの「独断の 半睡」を断ち 切ったヒュームの 因果律批判とは (W240) 、. ニュ一トン的な 力学現象の理解であ る、 物体から物体への 実体的・自己同一的な「 播という見方に 対し、 「内在的なもの」とみなされてきた「. 力 」存在の内的伝. 力 」は実は観察者が 慣習的信念に. 基づき. 「覚的関係」の 想定に基づき 結合しただけのものに 過ぎない、 と批判する意味を 有していた " 。 実. 在すると思われてきた「内在的」. な. 「. 力 」の存在、. その「感覚」は、 だから虚構だったということ. カントが衝撃を. になる。. 受けたのはおそらくこの 点であ る。. 確信することのできた「. と. レ. ラ. のも、 その身体感覚を 通じてカント. 力 」のリアリテイーは、 一一先の鏡像の. スり. ;. 幾何学的リアリティ 一同様、 或い. 譲ることのできない 永年,慣れ親しんできた 実感だったであ ろうからであ る。. はそれ以上に. 学生時代以来ニュ 一トン力学を 学んできたカントはⅠ. 1755 年の『天界の 一般自然史と 理論』の. 副題を「ニュ 一トンの諸原則に 従って論じられた 全宇宙の基本構造と 力学的起源についての 試論」 としている。 その中で ヵント は、 力 」の定義について、 「質量を結合せしめた 最初のモチ - フ、 物 「. 質 に本質 りに内在し 、 従って自然が 最初に発動する 際のその運動の 最初の原因にふさわし い 」、 曲. 体の全運動の 源泉」としての「引力」が「. 力 」の本質であ. 「天. り、 それが「全宇宙」の「力学的原理」、. (1340L 。. 即ち「 力 」の定義であ るとしている. 即ち ヵント は、 ニュ一トンの「引力 一 斥力」概俳を「全宇宙」の「運動」の 根本原因としている のみならず、 後述するように、 「運動」は「物質」の 存在そのものの 原因だから 一. のだが、. 一・「物質」的なこの「世界」そのものが. 存在するという「経験的」実感、 そのリアリティーそのも. の む カントはそこで 語っているのであ る。. 後の『自然哲学の 形而上学的原理. コ. (1786) で、 カントは次のように 言 う 。. 「覚官の対象となるべき 何らかのものの 根本規定は運動でなければならなかった。 というのは、 運動によってのみ 外官は刺激されるからであ る。 悟性もまた物質の 性質に属する 物質の他のすべ ての述語を、 運動に帰着せしめる。 かくて自然科学は 全くの純粋運動論か 応用運動論かであ る」。. (IV476) 「覚官」を刺激し. ぅ. るもの. 一 即ち「身体」に. 感じられるリアリティ 一の原因. だけであ る、 そうカントは 言う。 「物質の性質」もまた「運動」に. -@. は 「運動」. 帰着せしめられるのだから、 運 「. 勒 するものとは、 空間に放いて 経験によってのみ 見出せるもの、 つまり経験的所与 (Datum) でな ければならない」. (A4l B58) 。. カントに言わせれば、 「経験可能なもの」とは「覚官」を「刺激」 「. ノ. J. 」. しぅる. 「運動」. すなれ ち. であ る。 「物質」の内在的本質であ る「物質の性質」もまたすべて「運動」から 説明さ. れるのだから、 カントにあ っては「物質」、 即ち「経験的世界」が「存在」することの 本質は「運動」 なのであ る。.
(10) 10. ド城. --. 「物質とは空間を 充当する限りにおける 運動するものであ る。 空間を充当するとは、 自らの運 動によって一定の 空間へ侵入しようとする 一切の運動に、 抵抗することであ る。 充当されていな. (IV@496). い 空間は虚空間であ る」. ここで言われている「抵抗力」、 「物質の種別」. とされた「引力. 一一. 「個体性」. 一一を成立させる 物質存在の第一原因、 「根底の力」、. - 片 ノJ 」であ るのに他ならない (Vgl. W. カントは「小町人性」概俳の. ㎞a れ. bewegende. つまり「斥力」 (Vgl. IV 536) とは、 「動力学に対する 総註 」で. 観念性を嫌いあ くまで「覚官」に 訴える実在的「起動. 「引力 - 斥力」は、 『原理』「 第 - 部門 う. 」. 」. 498) 。. ) 」として「引力 - 斥力」を定義しているが. おいて運動するものをい. 「根源力. 空間学 Phoronomie. ノ. J ( die. (1V497) 、 「運動の原因」としての. 」の「第一定義. 物質とは空間に. (1V480) に照らして、 まさに「物質」を 意味するのに 他ならない。. 要するにカントは、 ニュ一トンが 試みて果たせなかった 全宇宙の力学 り存在証明、 自然が存在す 由. る 事実の力学的原因解明を、. 「覚官」を「刺激」する「運動」、 即ち「引力. -. 斥力」のリアリティー. を端緒として、 『原理』第二部門「動力学」、 即ち「物質論」を 中心に 、 極めて忠実に 再構築してい るのであ る。 カントは言う。 「われわれは 世界と自然という 二つの表現を 持っているが、 両者はしばしば 混同される。 世界 というのは、 あ らゆる現象の 数学的総体を 意味する。 ・…‥だが同じ 世界が動力学的全体とみなさ れる限り、 自然とよばれるのであ. ただそうであ るからこそ、 的 ジレンマに、 カントは. (A418@ B445). る」. 「実感」があ. りながら、 その内容を理性的には 規定できないという 論理. 自ら構想する 批判哲学によって. 追い詰められていった。. 先に見たような「超越論的」という 概念の定義や「理俳」の 定義に照らして、. 「経験の町. 能 性の. 制約に関わる」とされる 超越論哲学は、 一方「経験一般の 吋 能 性の制約が同時に 経験の対象の 町時 性の制約であ る」と主張されねばならないものであ 実在乖離的な Ch. ヴォル フ の一般存在論、 く. 、 その「限界ならびに 完成として. 「. り. (Alll,A158/B197). 、 先述の極度に 観念的、. 吋能 的なものが存在であ る」 、 とは異質のものであ るべ. (超越論哲学が. コ. 到達すべき最高の 点」としての「自然」、. そのものの町 能 性の探求」がギ 張されねばならないものであ った (Vgl.Prolegomena. S. 「自然 36 、 W. 313L 。 その際の 、 譲ることのできないリアリティーとして、 「覚官」に感じられる「 力 」の実在を ヵ ント は手放すわけにはいかなかったのであ る。 そ. う. 考えるとき、 『純粋理性 批半 りで 執抑に 固執される一一 「根木 刀 」概俳の「統制的使用」も. る. 「超越論哲学」の 概念規定を自ら 破. 理解される。. 剛 ヒ、ド l」』「超越論的原理論」末尾にわざわざ「超越論的弁証論 ・. 付録」と銘打ってカントは、. 「. 純. 粋 理性の理念の 統制的使用について」述べている。 超越論哲学の 本務は経験の 吋 能 性の確定であ る とは言え、 然し事実上「多様な 力を体系的に 表象しょうとする」 力 (Grundkra. れ). 際 、 少なくとも問題となる「根本. の理念」 ( A648f. B676f.) が、 理性の「統制的使用」として、 限定的にでも「要. 請」されるのでなければ、 世界は唯の「寄せ 集め (Aggregat)」に過ぎなくなってしまう. (A645B677L 。. 「そうしたものが 実在するかどうか 論理学はもとより 決して突き止めることはできない」が. (A649. 冊 77) 、 「事実、 力による体系的統一が 客観そのものに 付随するものとして ア ・プリ オリ に必然的で.
(11) 11. 「身体」への 問い. あ ると想定する. 理性の超越論的原理が 前提されない 限り、 理性の論理的原理が 如何にして生じ. か見極めることはできない」. ぅ. る. (A650 B678L 。. 見 られる通り、 カントは批判 期 に至って 猶 、 客観的世界の 実在的真理性. 即ちその「実在性」. の リアリティー 感一一 を 限定的にではあ れ前提 し 続けている。 が、 それが批判哲学の 概念 り制約 由. 「統制的使用」というところにまで. により. 追いこまれていることが 本稿での問題であ る。 更に言え. ば、 それが特殊「力学的」であ ることは、 「諸知覚の連結の 必然性」を考察する「経験の (. 第二類推」. B219) で、 「純粋悟性概俳」にのみ 帰される「綜合的統一の 必然性」が無条件に「因果」連関の. 事実性に帰せしられめてしまうこと. に 従わせる」. 要素. (. B234). 一一. 「諸現象の継続を 、 従ってすべての 変化を因果性の 法則. 一一等の構制からあ きらかであ る。 元来「因果性」概俳は、 存在 観 的には. ギ 義を前提として、. 要素相互の一方向一義必然的連関,性のみを想定する極めて 特殊な概念 構制. に 他ならない。 然しそれがカント 超越論哲学を 一貫して、 客観実在世界の 事実法則として、. 「要請」. され続けることになるのであ る。 疑いようのない「身体のリアリティー」から 出発して、 カント超越論哲学は、 ニュートシ力学の. 哲学的基礎付けと 相即に展開された 批判哲学の進展により、 出発点の「身体的実在感覚」を「根本 力 」の「統制的使用」という 処にまできりつめられねばならなかったと 見 ることができる。 以上見たように、 カントは、 その哲学的営為の 核心部分において、 インプリシットながら 終生 -貫 して「身体」的「感覚」のリアリテイ ノ. 一一一- 即ち幾何学的「鏡像現象」、 力学的「根木刀」、 叫. J 一席 ノ J 」感覚一一 に 固執し続けていた。 にも拘らず、 その正規の体系内的概俳化、 理論化は 、. その力学的体系に 留まる限り果せなかった。 それが問題であ る。 以下、 章を改め、 へ一 ゲル哲学との 対照を試みることで、 カント哲学に 身体論を阻んだ 原因が 、 -. フ 一コ 一の言. 第二章. う一 認識論的時代制約、世界観的時代限界に 他ならなかったことを 検証する。. へ一 ゲル哲学における 身体論の概俳配備. 第一章で瞥見したよ. う. に、 「身体」に関する 問題系を巡っては、 カント哲学を 一貫してカント 自身. の 身体的リアリティ 一に対する並々ならない 関心が確認されるにもかかわらず、 その概念化理論化. には. 幾何学的空間論から ノ J 学的空間論へのシフトが 行われたにもかかわらず、 却ってそれに. より. 至らなかったという 複雑な事情が 介在した。. 本章では、 その原因として、 ニュ一トン的な 幾何学的 ト. 哲学内部に、 身体論に必須の「行為」論を、 「時間. -. -. 力学的世界観を 基本的概念 枠 とする カン. 空間」との連動に 遡って理論化しうるだけの. 概念的配備が 欠けていたことを 指摘したい。 傍証として、 カント、 へ一 ゲルいずれの 哲学においても 主題化され、 人間をその自由な「行為」 を 通じて自己形成するものとして. とりわけ「人相術・ 骨相術」. 一. 対象化する「人間学」の 構想に注目し、 その比較対照を 通じて、 「人間の内面を 外面から認識する 方法」. の 論理的内実の 対. 照 によって、 「行為」を巡る 身体論的な概俳配備の 上で、 カントとへ 一 ゲルの間に如何なる 理論的 径. 庭 が存在するかを 解明したい。.
(12) 12. ド城. 第一節. カント. F. 人間学 ]. 「人相術」の. 一. 論理限界. 周知のとおりカントは、 二 f-年を越す講義をもとに 晩年『実用的見地における 人間学』 L1798 、 以. 下『人間学』と 略称 ) を纏めている。 その第一部「人間学的な 教訓論」の副題は「人間の 内面およ び 外面を認識する 方法について」であ り、 第二部「人間学的な ,性格論」の副題は「人間の 内面を外 面から認識する 方法について」であ る。. 指摘されているように、. 「人間学」という. 呼称が専ら「自然が 人間をどんなものにしようとしてい. るか」を扱う 生理学の意味で 用いられていた 時代に お 、 カントのもくろみは、 「人間が自由に 行為す る 存在者として、. 自分自身をどんなものにしょうとし、 或いはすることができ、 またすべきか」に. ついて探求する 実践を核心としていた. (VII1lgL。 書名に付された「実用的見地」についてカントは. 上述のような 方法論を軸に、 人間とは「文化を 通して自己を 目標に教育していく」「地上に. 、. 生存する. 理性的生物」であ ると自己認識すること、 その立場から、 世界を単に知識として 持っだけでなく、 実 際に「世界市民」として 実践できるための 視点であ る (Vullgf.)と説明している。 然しながら、 と 伝記、. 「人間」を形成する「内面」「覚面」の. 影響を広範に 扱. う. とする『人間学』で、. 「世界史. 戯曲や小説」は「補強材料にはなるが、 必ずしも原資料にはならない」とカントは 言. その理由は、. T 批半り. 「観俳論論駁」でも 述べられていたよらに. (B274f.). 能 な「内面の経験」に 対し、 それに対応する「覚的」 な 現実的「真実」、 えに、 であ. る. う. 。. 、 「誇張」することも 吋. 「自然」との. 関係が不定であ るの. (Vnl21)o. ここに問題があ る。. 「内面」と「覚面」の. 関係から「人間」を. 探求しょうとする. T 人間学』に 払 いて、. カントの俳頭にあ った学問 観 ・真理 観 がいかなるものであ ったかが問われねばならない。 そしてそ れが、 果たしてこのとき. 一一. 「人間」についての 溢れる経験知を 学問化しようとする 一一 カン. トの 野心的目論見によく 応え得る学問観になりえていたか、 それが問題であ る。. 1781 年. T 批判 コ. 「純粋理性の 建築 術 」ではカントは「人間学」を、 予備 学 としての「純粋理性批判」. に 対する実質的部門、 即ち 巾 然の形而上学」・「人倫の 形而上学」のうち、 前者の応用部門、 「経験的 自然学」の「付属物」に 配当している (A849B877L。 ところがそれが 1786 年『人倫の形而上学の 基礎付 け 』では、 「人倫の形而上学」の 経験的応用部門「実践的人間学」に 変更され (1V388f.) 、 では、 人間理性の究極目的を 追求する「世界概俳」の 哲学の四つの 領野 「道徳学 」、 第二「宗教」. 『論理学』. 第一「形而上学」、 第二. の第四「人間学」に 位置づけられるに 至る。 しかもこのときカントに. よれば、 「根本的には、 以上の四つの 領野 のすべてが人間学に 算入され ぅる 」と言われるのであ. る (Ⅸ. 24f.)" 「人間学」の 位置づけを格段に 高めて行ったカントのこうした 変化の原因は、. 「歴史」の位置づけ. の 変化に求めることができる。 Ⅰ人間学. コ. T 第二部』「 E. されている @ 人間」の. 人類の性格」でカントは、. 「歴史」が「超感性的道徳原理」と「感性」に. 「構想 ノ J 」を介してその 二 つが 切り結ぶ一一真の「人間的現実の. 動か. 世界」で. あ ることを認めている (Vu324f.) 。 とは言え然し、 「構想 ノ J 」を含む「意識」構造の 超越論的問題. 場面で、 「歴史の真実」について 正規に立論できるだけの 理論的準備がカント 超越論哲学にあ ったか、 問題はその点にあ る。 言い換えれば、 カントの意識論が、 「私の存在」を、 叡知的に意識するだけの. 形式的な「純粋統覚」. (B157) と、感性的存在として「内的感官」に 於い て時間の内に「自分」を 経験する「経験的統覚」、.
(13) 13. 問い. 「身体」への. 並びに「覚的感官」の 刺激を通じて 空間の内で現象世界を 認識する意識 (B274) と説明するもので あ. るとき、 この意識構造論に 掩 いて、. を 介して時間的・. 「覚的感官」の. 偶然的刺激を 端緒に「構想 J 」による「図式化」 ノ. 空間的に構成される「歴史」の 真偽が果して 学的に判別され. ぅ. るのか、 それが問題. なのであ る。 先に見たように、 ヵ ント超越論哲学のリアリティーは、 「存在」の木質であ. る「運動」「 力 」が「覚官」. を刺激する事実の 上に構成されており、 そのニュ一トン 力学的発想に 基づく、 諸現象を統一する「 超 戯論的理念」も、 外在的・実在的「根本 カ 」概俳の「統制的使用」と 規定されているのであ った。 即ち、 ここ「意識」論にあ. っても、 現象の多様を「私」という 一個の統一に 喬す 真理基準は、 それ 故 「超越論的. 統覚」として、 経験の覚から 外在的、 超越論的に商されねばならないのであ り、 それ以外の真理基準 は用意されてはいないと 言. う. ことができる。. 問題は「歴史」という. 時間化・空間化された「経験」内部. での真理基準・ 学的基準であ り、 その超越論哲学内部への 整合的配備、 であ る。 結論先取的に 言え ば 、 物理的叡智 界 との対応説的な. ノ. J 学モヂル の真理 親 しか持ち合わせないカント 超越論哲学には、. その「歴史」的「経験」世界内部での 学的真理基準の 確立の理論的 「第二部」「. A. 個人の性格」「人相術について」冒頭、. 「これ ( 人相術 コは 人間の目に見える. れ 内面を判定する 術であ. 吋能 ,性が欠けているのであ る。. カントは次のように 述べる。. 姿形から、 つまり概念から、 人間の性分であ れ心構えであ. る」. 先述の『人間学』「第一部」「第二部」全体の. 副題、 「人間の内面および 外面を認識する 方法について」 、. 「人間の内面を 外面から認識する 方法について」. 一一つまり『人間学』全体の. 七題一一. 廿. @@t @、 し @@@. れほど適合的な 研究領域もなかなかで、 然し、 カントの分析は 全くあ っけないものでしかなく、 そ の結論も、 ゲーテならずとも 落 8H,させられる浅薄なものでしかな い 2。 。. 「頭の骨そのもの、 つまり顔の格好の 基礎をなしている 頭蓋骨の形に 関していえば、. どち. らかといえば 実用的人間学よりも 自然地理学の 領分であ る。. 鼻の上に瘤があ るのは皮肉屋の 目印なのだろうか、. とか一中国人は 下顎が上顎より 少し出. ているといわれるが、 こうした顔の 形の特性から 彼らが頑固であ ることが分かるのかどうか、 或. いはアメリカ・インディアンの 顔で目に付くところは 額の両側にまで 髪の毛が密生している 点で あ るが、. これは天性の 精神薄弱を示す 証拠であ ろうか、 等々は当てにならない 解釈をいくらでも. 許す単なる臆断に 過ぎない。. (VD299). 」. カントは「人相術」の 真偽の判定に、. 「自然 (地理 ). 学的」な物理的客観性との 対応性という 基準. か あ げていない。 超越論哲学が 結局その真理論として 一一 もかかわらず. 演 経論」の度重なる 改訂に. 物理的自然との 客観的対応関係を 不可欠とする 自然科学的・ニュ 一トン力学的. 真理論の枠組みにとどまる じる「覚面」「内面」の. 「超越論的. し. 限り、. 相互作用は、. ンノJ 学的な擬似問題でしかあ. 当時の「人相術」「骨相術」が 扱おうとした「人間」の「身体」上で 「経験世界」内部」にしか. 対応物を持たない 非物理学的・ 非ニュー. 生 ト. りえず、 カントの関心は、 それゆえ即座に「歴史」の 極限に要請される. 「理俳」的な「人類の 普遍的形式」へと 移行されるのであ. る. (明. 人類の性格」 Vm32lff.)。. 時 あ たかもヨーロッパでナショナリスティックなものへの 願望が強まっており、 自民族の優越性.
(14) Ⅰ. 4. ト,めこ. を 担保する「アーリア 幻想」を鼓吹するものとして. 一. 喧しかった当時の「人相術」「骨相学」に 対 し" 、 -. 足 飛びに「世界市民」としての「人類」の「形式的普遍性」を. 問題にしたカントの 時代超越的な 先見を評. 価することもできよう。 が然し実際は、 カント哲学においてはそれしか 4 館ではなかったのであ り、 「人間学」全体の. 七題に関わる「人相術」のその 自ら重要と認めた 分野に立ち入って 吟味するための. 方法論的真理基準をカントは、 超越論哲学の 原理的制約の 点から持ち合わせていなかった、. という. のが実相なのであ る。. 第二節. 下精神現象学田「理性」「骨相術・. 人相術」. この問題に関する へ一 ゲルのアプローチと 比較するとき、 カント超越論哲学の 限界が更に明らか. になる。 へ一 ゲルが. ニ. 精神現象学 コ (1807 、 以下『現象学』と 略称 ) で、 その「意識の 経験」の過程に、 カ. ントがオミットした「戯曲や. 小説」「世界史」等を. 配していることはよく 知られている。 故にその際の. へ一 ゲルの問題も、 論理必然的にそのような 多様な経験の 寄せ集めが「 学 」たり. ぅ. るか、 という問題. に収 敏し、 その処理を巡って へ一 ゲルは新たな 認識論、 真理論、 論理学を用意し 、 即ち弁証法哲学 でこれに応じたのであ った。 だが、 その問題が へ一 ゲル弁証法哲学にとってもクルーシ ャか なもの であ ったことは、 それが「理性」の 章一一殊に「人相術・ 骨相学」一一 の 肥厚化を招き、 挙句は書. 名の「意識の 経験の学」からの「精神の 現象学」の変更を 余儀なくさせ、 遂には 「. ェ ンチュク ロペ ディー」「第二部. 精神西学」「第一部門. T 現象学 コ. そのものの. 人間学」への 発展的吸収、 解消に及ん. だ事実が示唆していよう 28。. 先ず、 『現象学』「意識」の 章 、. 「. カと 悟性」で へ一 ゲルは 、 ヵ ント哲学的な「超越論的理俳」の 実相. を批判的に明らかにしていく。 「超越論的」とされる 概念 構 制の実際は、 「悟性」が「もの. (初 -. 者). 」. の 内外に「普遍的なもの」として「超感性的」 な巾 なるもの」の「自立」存在を「思 い こんでしまう」こ とにあ るとへ 一 ゲルは批判する (1l1122ff.)。 カントその人は 少なくとも二形式と 原理口を最後に「 超. 感性的」なものの 彼岸的実体化には、 日常的には批判的なのだが、 本稿が明らかにしたとおり、 官」を「刺激」する「運動」を. 物質」「存在」の. 「覚. 木質とするその 体系上のリアリティ 一の基準は 、 末だ 客. 観 的実在を超感性的なものとして 実体視する構図を 免れていないものであ る。 へ一 ゲルの批判は 正 確にそこに照準されていた。. 「超越論的」という 概念でカントが 守ろ. う. とした世界観のもともとの 墓木構図がそのようなもの. であ るとき、 あ らためて「意識の 中にない何ものも 経験されない」 ゥァ タイル. 9. 7. からは、 本来「判断 三 根源 観 - 客観」「能動. -. ( Ⅲ 118). というへ 一 ゲルの立場. タイ ンン. -. 分割」四により 同時相即に生じた 筈の二元一一. 「形式 - 質料」「 主. 受動」「原因 - 結果」等一一の 間に、 カントの場合一方向的な「支配」の 関係、. 即ち「因果関係」が 想定されてしまっている 点 30 に問題の核心があ. った。 我若 うの 「. く我 ソヒ イ. Ⅰ. と物. 自体」にまで 極限化された「超感性的なもの」の、 感 ,性的なもの」に対する因果論的「支配」関係、 「. それが問題なのであ るⅡ。 へ一 ゲルのこの批判白 9 スタンスから、 カントが『人間学』で 採り上げた「人相術」を. 再考すれば、. 先ずその「内的」「覚的」の 区別、 およびその区別に 立脚した真理観、 が問題であ り、 更にそこに無 批判に想定される 因果関係一一即ち 力学的世界観一一. が 問題化されざるを. 得ない。. すべてが「意識」の 内に 於 いて在り、 真理基準と看 徴 されるような「覚的なもの」の 一切が認め られないとき、 「精神」と「身体」との 自然科学的な 概念的区別自体が 問題化する。 その二元論的 区.
(15) 「身体」への. 問い. 15. 分を脱却して 考えるとき、 「精神」が「身体」に 結果を及ぼし. ぅる 原因であ. るならば「精神」も「そ. れ自体身体的たらざるを 得ず」、 その逆の「有機体」として「生けるもの」であ 仲酌」でなければならない、 とへ 一 ゲルは言. う. る「頭蓋」もまた「 精. (111248L。. このへ 一 ゲルの立場からするとき、悟性常識的な 区別の固定化から 出ない自然科学的態度よりも、 「精神は骨であ る」と結論付けられるような「頭蓋論」の 方が当面よほど 弁証法哲学的であ. る. (Ⅲ. 256) 。 というのも、 確かに「精神」の 無限な「諸性質の 群」に対して「観察」的立場から「頭蓋の 隆起」「窪み」といった「諸表象」を 個々に割り当てるのは、 「イスラエルの 子孫一人一人」に「海 辺の砂」を割り 当てること同様に「全く. ( Ⅲ 252f.)。. 偶然的」でしかない. その中で、 とりわけ「 精. 神は骨であ る」「自己はモノであ る」等の頭蓋論的判断は「最悪の 段階」だが、 それ故に却って「 転 回は必至」であ るとへ 一 ゲルは言 「判断であ. り. う. 。 なぜなら、 それらの判断は 明らかに自己矛盾的であ り、 つま. っても、 おのれ自身を 止揚 否定 ) く. する判断」. であ るが故に「その 本質は無限」だから、 であ. 一. る. 一一即ち「矛盾」、 つまり徹底懐疑 -. (111252f.)。 要するに、 どんな学的基準もあ. えない一一故にカントの 超越論哲学では 議論にできなかった. 一. り. 「頭蓋論」の 内容が 、 へ一ゲ. ル 弁証法哲学ではその 学的無根拠性ゆえに 先ずは転回の 端緒として位置づけられる。. 「転回」は、 「頭蓋」という「死せるもの」を 扱っていた「観察する 理性」から、 「理性的な自 己 意識のおのれ. 学. 自身を介する. 一一即ち「経験」的「歴史」世界内部の. 現実化」. 実践哲学、 社会哲. へ向けて果たされる。 「人相術」は「生けるもの」としての「精神」の「行為」を. 対象化す. る。. 外 化」という図式を 排する へ一 ゲル的立場では、 「為す働きそのもの」であ. 「内なるもの」の「. 「精神」は、 「個体」を「個体」たらしめるものであ. ると同時に、 相即に「自身を 変転の場面の 為す. (u1233L。 「内なるもの 自身が送りでて、 外 化と内なるもの. がままに委ねる」、 そういう存在であ. る. との間に何の 対立も残っていない」、. というその立場では (Ibid.)、 「為されてしまったこと」. ての「言葉や 労働」 ヴエ ルク. る」. (111235) と同様「身体といえども. とし. 自身によって 作り出された 白身の表現」「実行」タート. 「作品。」なのに他ならない (111233L。 かくして、 へ一 ゲル弁証法哲学を 通じて「人相術」は 一一その「表現」としての「身体」を めて. 含. 時間・空間の 只中の、 カント超越論哲学が 表明しながら 取り込めなかった「人間の 現実. 的世界」としての「歴史」 配備を得たことになる。. く. あ. n324f,) のうねりの中に、 ようやく正規に 捉えなおされるその 概念的. らためて、 そこでの真偽決定は 間主観的な「承認」に 委ねられ、. の 結果は「作品」としてその. 間主観的な場にさらされねばならない。 それ故、. 自体は真理価を 持たない、 「事柄そのもの. (. 「行為」. 「為されたこと」それ 一 @ タ. dieSacheselbSt) 」としての「無限」であ. る. (T243) 。. 以下次節では、 最後に、 特殊身体論的なへ 一 ゲルのその「人相術一頭蓋論」の 理論展開に概念的 枠 組みを提供することとなった「行為」論を. 瞥見し、 そのへ 一 ゲル哲学固有の 体系的展開と 意義を確認、. しておくこととする。. 第三節. へ一 ゲル. 丁. 精神現象学 ]. 「行為する理性」. 『精神現象学』執筆中の 構成変更の原因として、原稿料の問題等覚在的な 理由が挙げられる 一方、 理性の章後半以降の 著しい肥厚の 直接的思想的事情を 考えることができる。 然もそれが、 へ一 ゲル. 自身に抵抗無く 受け入れられるような 思想的変転では 必ずしもなくて、 とりわけそれがフーコーを.
(16) 16. ド城. 一. 噌矢 として思想史的に 指摘されているような 時代を画する 認識論上の一大転換一一 エピ ステーヌ であ る場合、 たとえそれが へ一 ゲルであ っても当人自身がその 扱いに 俊巡 した 吋能. 一の転換. 性 もまた大いにあ り得ると言えよう。 そのことが、 『精神現象学. コ. のその後の体系上の 取り扱いを大. きく動揺させ、 ついにはその 体系からの 放 側を決意させるに 至った. る「絶対知」、 及びそれに立脚した『大論理学』の. 即ち『精神現象学 コめ到. 構想全体までを 激しく揺さぶった. Ⅰプ. 能 性もまた考えられ 得るのであ る。 以下、 前節で分析した「観察する 理性」に続く、 その構成変更の 鍵 輪 をなしたと考えられる「行. 為する理性」の 概要を辿る。. 丁. 精神現象学』「行為する 理性」で展開される「行為 (Tat)」論は、 従来の近代的 ギ体 概念 -- 即. ち第一章で瞥見したカント 哲学・倫理学を 典型とする、 自然科学のアナロジーとして 力学的世界観 に 立脚する全き「自発性」概俳、 原子論的近代自己概俳一一. に 対する へ一 ゲルの、. 判を踏まえた 抜本的な異議申し 立てとして構想、 されている。 その限り. T 精神現象学コ. 「. 力 」概俳の批 め そこまでの. 部分が近代の 自然科学に結実する 世界認識のあ り方に対しての 抜本的批判であ り、 それ以降の部分 がその代案としての 個体性概念の 更新を含む新たな 世界観の困難を 極めた彫琢の 試みであ ると解釈 される。 そのような 傭 轍を介して見るとき、 先ず 咲 って「理性」の 車前半の「観察する 理性」の章が 既に 、. それまでの叙述の 展開と比較して 少なからず奇異な 印象を与える。 内容上極めて 特殊となることを 敢えて辞さず へ一 ゲルが当時最新の 自然科学的トピックスであ る「人相術」「頭蓋論」に. 立ち入り、. しかもそれらに 多大の頁を割いて 批判的詳述を 行っているからであ る 3,。. 然しその「頭蓋論」は、. 『. m ぎ 神現象学』全体の 構想にとって. 決して エヒ ノード的なものではなかっ. た 。 そこから「絶対知」論で 伸び繰り返される「精神は 骨であ る」との エ ピバラフが引きだされる. 以上、 むしろそれは『精神現象学』構想成立にとって 内容上の鍵 輪 をなしていると 兄なければなら ない。 即ちそこに、 そのときへ 一 ゲルが敢えて 破格の扱いまでして「人相術」「頭蓋論」を. ばならなかった 積極的な理由があ るのであ り、 さりながらそれが. T 精神現象学 コ. 導入せね. 全体の構想そのも. のを大きく揺さぶる 決定的なギ題であ った。能 ,陸がけ 度され得るのであ る。 Ⅰ. 「人相術」「頭蓋論」に. 続く「理性」の 章 後半部「行為する 理性」で へ一 ゲルは、. 為 」への転回を ェ クスプリシットに 設定し、. 「行為. 「観察」から「. 行. (Tat)」論を新たに 展開する。 「観察」から「行. 為」へのこの 転回の ェ クスプリシットな 表明は、 概念史的に見て 特に注目されるべきものだが、 へ 一 ゲルは 言. 「個人は自分の 行為によって 自分を、 存在する現実という 普遍的な境 位 のうちに、 ないしは 寧 ろそのような 境位 として定立するのであ って 、 彼の行為は‥・ 普遍的な秩序の 価値を持つべきも のなのであ る。. ・. , ・というのも、 行為するとは、 自分の本質を 自由な現実として 定立するという、. 即ち、 現実を自分の 木質として承認するという 意味を持っているからであ. る」. (ffl@ 277f). 「行為はそれ 自身に於てその 真理であ り現実であ って、 個体性を表わすこと、 あ るいは言い表 すことが行為にとっての 即かつ対日的な 目的であ. る」. (Ⅲ. 292f). 「行為」を通じて 初めて人間存在がその「存在」を「現実」に 持ち、 「真理」を「現実」にもっ. こ.
(17) 「身体」への. 問い. 7. Ⅰ. とになるのであ る。 へ一 ゲルの考える「現実」はそこで 表明されている「存在する 現実という普遍 的 境位 」に「自分を. 置くこと」、. そのように「現実」を「自分の. 本質」として. 自ら「承認する」こと、. 以外からは始まらない。 換言すれば、 「行為する理性」の 章 以前に展開された 意識のどの 境位に 於ても、 実は「存在」も「 現 実 」も認識論的に 末だ適切には 語られ得たことにはならないのであ った。 それがここでの 肝要であ る。 即ち、. 七一客二元論的対立構図にとどまる「観察」されただけの. 「見るもの」と「見られるもの」の. 対象一一近代自然科学的世界観における「. 物 」一一 であ るこれまでの 意識の諸対象に 対し、. へ一. ゲルはここで、 そうした従来の 世界観図式の 不 l-分さを主張しているのであ り、 それに立脚する 限 り. 「存在」も「真理」も. 軸とする相互承認. 由り. 未だ充分に捉えられず、 「目的 - 手段」関係の「自由」 な 設定に基づく「行為」を 基 境位 にそれらを置きなおして、 改めてそれらを 認識しなおす 必要があ るとへ 一. ゲルは主張しているのであ る。 例えば「鏡像現象」であ れば、. 「庄一石」の 逆転が問題になる「見かけ」上の. 問題の真の解決のために. は 、 「見かけ」上の 左右逆転を生み 出している幾何学的世界観それ 自体を問題化し、 その「観察」的 空 間 概念・対象概念の. 限界を根本的に 批判した. ぅ. えで、 それに代えて、. 「身体」的「行為」の. 階に定位しなおして、 空間論一時間論を 含めてその全体を 改めて構想、し 直し、. 関わりの段. 「身体」それ. 自体も含. めて全体を「作品」として 相互承認の境 位 とするような、 新たな認識が 必要であ る、という訳であ る。 その観点からこれまでの 意識の諸対象はことごとく 批判的に認識しなおされねばならない。 そうした新たな「行為」論的世界観図式に. 立脚し直してこれまでの『. 精ヰ申現象学 =. 意識の経験㈹ 学コ. 全体の構想を 振り返るなら、 冒頭の「感覚的確信」の 章は 、 最も単純な直木対象を 取り上げて感覚 の 絶対性を現実存在の 基礎に据えようとする 感覚ギ義的立場を 反駁するものであ り、 その世界観図. 式それ自体を「行為」の 現場から認識論的に 批判的に捉え 直すことで、 感覚主義的に 語られる事態が 如実には最も 普遍的な観念と 最も具体的な 現実的対象との 未 だ 不. 合でしかない 事実が浮き彫りにされる。. 続く. 「知覚 (Wahrnehmen). Ⅱ公 な、. 「統一」を欠いた 矛盾的結. 」の章では、 同様、 客観的初任. を 「真理 (wahr) 」、 現実存在として「受け 取る (nehmen) 」立場がその「統一」を 説明しえな い. 概念上の不登底、 「矛盾」ゆえに 斥けられねばならない。 「. カと 悟性」では、 その「 統 - 」を説明するべく. もの」. 一一即ち「物自体」、. 「根本則」. 「現象」の背後、 即ち「彼岸」に「普遍的な. を 要請する 二ュ 一トン・カント 的な近代自然科学的. 二 力学的世界観の 二世界 説的 想定が批判され、 その本質であ る「 力 」概俳の存在様態としての「内. なるもの」の「 外 化」という概俳上の 矛盾を橋 頭褒に 、 それらの「普遍的概俳」、. 「超感覚的なもの」. の形而上学的内実が 実はすべて此岸的な「行為」連関の 投影でしかなく、形而上学的実体はその 象に由来し、 現象から派生する」. 実「現. (ID 118) 虚構、 つまり此岸的構成体であ るにすぎない 概念上の矛. 盾 が別 快 されていた。 その点、 他者を自己として 知るに至った「自己意識」ですらまだその 本来の「現実」「存在」に 値 しないものと 見なされるのであ り、 というのも「自己意識」の 章で明言されていたよ 己 意識」は「承認、されたものとしてのみ 存在する」. (Ⅲ. う. に、 本来「. 自. 145) のだが、 その「承認」が 相互に充然 は. 展開される 境位 としての「行為する 理性」の場に 至って初めてそれが 真に「存在する 現実としての 普遍. 由. りな境位. 」と呼ばれるに 値することとなるからであ る。. それ 故 「行為する理性」の 認識論的転回に 侯 って『精神現象学』はそれまでの. 全展開を転覆する。.
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