‑ ア ル トー に お け る経 験 の論 理 と情動 性 ‑
高 橋 純
アル トーが その演劇構想 の 中心 に据 え た 「 残 酷
cruaut6」の観念 甚 表 現 行 為 の根 本動 因 と しての情 動性
affectivit6と して捉 え な おす こ とが で き た わ けだが ,これ は ,彼 において ,演劇 とい う個別 の表現 の ジャンルのオ リジナ ル と して選 ばれ た ものではな く,実 は彼が当初 か ら自己の生の根 拠 に直観 して いた いわば存在論的要諦 なのだ 。ただ しアル トーが ,言語 によ って実体化 され た存在 の抽象的規定を信 じないか らとい って ,彼 が情 動
affectを言 語 あ る い は表現一般 か ら独立 したポ ジテ ィヴな実体 と見 な して いるわ けで はない。存在
etre
とい う言葉が一般 に諸事象の背後 にある根拠 を表 わ し,自己同一 的で あ るばか りで な く自己原因的 に常 に同一 な観念 や法則 や人格 といった何 ものかを 表 わすの に対 して ,情動 とはそのよ うな不変の実体ではな く,絶 えず変化す る 生成 の状能 と して しか捉 え られ ない もので ある。 この生成 を引き起す ものを彼
は生 の力 と呼ぶのだが ,この力 につ いて もまた ,生物学 的 に考 え られ た もので あれ物理学的 に考 え られた もので あれ ,唯一同一の本質で くくられ る原 ‑力な どが存在 す るわけで はな くて ,必ずや複数 の矛盾 的 ・相反 的話力の括抗 と均衡 を通 して しか何 らかの事象 と して現実化す る ことはあ りえない。 アル トーが執 勘 に生 とい う言葉 を語 る時 ,同 じ執扮 さで その相反者で ある死が強迫 的 につ き
ま とうのはそのためで ある。生 と死 は相矛盾す る力の謂 で あ り,生 の側 か らの み見 られた事象や存在 などは ,矛盾 的諸力の葛藤を通 じての生成 とい う事態 を 無視 した抽象的概念 にす ぎない。生が確 た る既成 の現実で な く,そ こか らの分 離を意識せずにい られないアル トーにとって は,その分離 を引 き起 す もの こそ ,
〔 1
0
1 〕102
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生 の 相 反 者 で
あ る 死 の 現 実 性 に他 な らな いが ,
だか ら と い って 今度 は死 を 実 体
的 .に所 有 で きう る な ど と い う こ とは な い。 死
もまた生 の 相 反 者 と して しか 存 在
しな い の だ 。こ う した生 と死 の せ め ぎ あ いの
感 覚を こそ彼 は情 動 の 実 質 と直 観
し ,その演劇 構想 にお いて は いか に も暗 示 的 な
「残酷 cruaute」 と い う名 で これ
を指 示 したの だ
。 『シ ュ ール レア リス ム革 命 』
(第 2号 ) に掲 載 され た あ るア ン ケー トへの回答 に, 生 と死 の 矛 盾 的諸 力 の 葛
藤 を通 して の情 動 の生成 に対す る 認識 が窺 え る。
「 人 は生 き, 人 は死ぬ。 これ に関 して意志の領分は ど うな って いるのか 7人 は夢見 るよ うに自殺す るよ うだ。 この問 いは道徳 的 な もので はないが ,自殺 は 果 た して一 つの解決で あ るか ?」 この問 いに対す るアル トーの回答が以下で あ
る。
「 否 ,自殺 とはなお仮説 であ る
。私 は現実の他 のすべてに対す るの と同様 に 自殺 を疑 う権利 を主張す る。 卜 ‑・ 〕誰 にで も手 の届 くいわゆ る生活 を疑 う ので はな く、事物 と行為 と現実の内的動揺 と感覚性 を とことん疑 ってみ るべ
きだ。私 は流星 に も似 た思考す る綱 の感性 で 自分が結 ばれて いないよ うな も のは一切信 じない。 〔‑‑・ 〕神経哀弱の人間の 自殺 な ど何の表象的価値 もない が ,自分の 自殺 を ,つま りその物質 的状況や驚異 的 ともい うべ き決行の瞬間 を完壁 に規定 しきった人間の精神状態 は違 う
。私 は事物 の何 た るかを知 らな い し,人間の状態 な ど一切知 らない。私 は恐ろ しく生 に苦 しんで いる
。私が 達す ることので きる状態が ないのだO そ して ご く確実 な ことに私 はず っと以 前 か ら死 んで いる。私 はすで に自殺 して いるのだ。つま り私 は自殺 させ られ
●●●●
たのだ。だが諸君はどう思 う,以前の死 というやつを ,我 々に道 を引 き返 させ るような死 というやつを ,ただ し道を引き返す とい って も死 の側 にで はな く, 生存 の反対側 になのだ。 そんな死 だけが私 にとって価値 あ るものだ。私 は死
●●●●●●●
への欲求 な ど感 じは しない ,私が感 じる欲求 は ,存在 しない● こと,ア ン トナ
ン ・アル トーよ りはるか に脆弱 なアル ト‑の 自我 な どとい う愚劣 と譲位 と放
棄 と愚鈍 な出会 いに他 な らぬそんな気慰 みの中に決 して転 落 しない ことなの
だ。 さまよい歩 くこの片輪者の 自我 は ,奴 自身が唾 を吐 きかけた自分の亡霊 を時 には押 しつけに くる
。この 自我 はまさに足 を引 きず り,虚像 で しかない
くせに,あ りもしないはずなのに現実の中 にやは りまた して も見 つか るのだ。
人間の決定的かつ本質的 な弱点であるそ うした自分の弱 さを彼 の よ うに感 じ た者 は一人 もいない。破壊す る こと,存在 しない こと
。」1)この一見 して いか に も錯雑 な言述 が主張 して いる ことは実 は単純 なのだ。生 も死 も個 別的 にそれ 自体 と して現実 た りうる実体 など持 ち合せて いない。そ し て死 それ 自体 の体験 が不可能 で あるの とまった く同様 に,生 の只中にあ りなが
らも実 は生 それ 自体の体験 もまた死 の可能性 を排除 しては不可能 なのだ。 とこ ろが、生の側 に身を置 く限 りすべての事象 も行為 もそ して 自分の 自我 ら. ,それ以 外O‑ ものではありえなか った現実 として与 え られ る。意志 は このよ うな受動的 に 構 成 され た現実 に しか対面 しないのだ。 目撃が十全 に主体的行動 た りうるな ら ば ,それはこうした現実 か らの積極的脱 出であ りうるだろ うが ,自我 さえ もが , 与え られ た現実‑の同意 の形態で しか ないな らば ,自発 的 な死 もまたあ りえな い。 「以前 の死」 とは生の側‑追放 されて いる ことを意味す る。だが死 もまた 生 か らの追放 に しかす ぎない。 アル トーの言 う 「 存在 しない こと」 とい う欲求 は死 の側 にではな く生存の反対側 に達す る欲求である
。これ は言葉 の戯れでは ない。生 の現実が ( 生 の側か ら)概念 的 に個定 され るな らば ,その時は死 もま た同様である。 「 生の反対側
」とはそ うした概念的固定化 を逸れ た生の外部性 なのだ。そ して これ は概念 と しての言葉 に対す る外在性 と しての情動の位置す る地点 である。 アル トーにとっては生 も死 もその地点 に触 れ る力の流れである ことによ って初めて現実 とな りうるのだ。そ うでなければ , 「 生 とは,事物の 外見 の読 み取 りやす さに対す る妥協 と,精神の中での事物 の結 びつ きに対す る 妥協 と して しか 〔アル トーには〕感 じられない
。」 2)1
) Artaud,0.C L pp.317‑318・2)Ibid.p・312・
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「 私 が 自殺 す る と した ら,それ は 自己破壊 の ためで はな く,自分を作 り直す ためだ ろ う. 自殺 は私 に と って は ,暴 力的 に自分 右再征服 す るため の ,自分 の存在 の 中 に乱暴 に侵 入す るための , 「 神
」の不確 実 な先行 の先 を越 してや るための一手段 にす ぎな い。 自殺 によ って私 は 自然 の 中 に 自分の 目論見 を入 り込 ませ ,初 めて事物 に 自分 の意志 の形 態 を付与 す るのだ。私 は 自分 の 自我 とか くも折 合 いの悪 い 自分の器 官 に対 す る条件 付 けか ら身 を振 りほ ど く。私 た と って生 とは もはや ,私 が思考 すべ く押 しつ け られ た ものだ けを思考 す る よ うな馬鹿 げた偶 然 な どで はな い。」
生 とは 「諸事象 の還 元 不可能 な交差 点
」 31・で あ り、情 動 とは そ う した事 象 を成立 させ る諸 力 の矛盾衝 突 の‑状態 なので あ って ,その情 動 の状態 な くして 主観 も客観 もあ らか じめ存在す るわけではな い。 ただ ,生 を存在 あ るいは肯 定 と し、死 を非存在 あ るいは否 定 と して措 定す る論理 的二 分法 に従 って は じめて , 自己同一 的 な存在 の本質 を発想 す る ことが可能 にな るにす ぎない。 アル トーが
「 誰 にで も手 の届 く生 活 」 と呼ぶ もの は ,そ う した論理 的価 値 の一 つの選択 に 基 づ く生 の現実 の概念 的一面化 の ことで あ る
。彼 は生 につ いての その よ うな抽 象化 にニ ヒ リズ ムを見 て とって これ を斥 け る
。生 を あ たか もそれ 自体 で存 在 す る本質 で あ るか の よ うに肯 定 す る態度 の 中 には実 は特定 の形 而上学 的 な価値 ‑ の妥 協 が あ り,相反 的 な諸 力 ( 死 )の葛藤 を通■ じて の生成 で あ る生 の現実 に対 す る否認 が隠 れ て い る。
「なぜ な ら生 とは何 ら解 決 で はな く,選択 され ,同意 され ,規定 され た
いか
な る存在 も持 ち併 せ て は いな いか らだ。生 とは相 反す る欲 望 や力や細 々 と し
た矛盾の連鎖で しかな く,それ らは忌 まわ しい偶 然 の状 況 に応 じて達成 され る
こと もあれ ば中途 で だめ にな る こと もあ る
。悪 は天 才や狂気 の よ うに各 人の
中 に不均等 に しこまれ て い る。悪 と同様 に善 も状 況 の中か ら,多少 と も活 動
す る酵母 か ら生 れ た もの なの だ。被 造物 と して生 き る ことは確 か におぞ ま し
3)Ibid.
,p.1313・い し,とことん規定 されて しまった 自分の存在 の偶 々にまで ,め ったに考 え
●●●●●●
られ もしない支脈 に至 るまで 自分を感 じて しま うの はおぞま しい ことだ。つ まるところ我 々はただ突 っ立 っている木 にす ぎない し, しか も我が種族 の系 統樹 の ど こかの枝 のつけ根 あた りに,私が いっか 自殺 す ることまで もう書 き 込 まれ ている ことだ って大 いにあ りうるのだ
。」4)実体的 に考 えられた生‑の妥協 は一つの決定論への従属 に他 な らな い。それ に対 して死 は 「自分を作 り直す ための
」「自分の存在 の中に乱暴 に侵 入す るた めの 」 そ して 「 神の不確実 な先行の先 を越 してや るための」手段 と考 え られは す るが ,生の条件付 けを全面 的 G , こ被 った状況での死 の選択 など実の ところ生の 只 中での偶然 の‑状況で しか な く,それ 自体が また して も生 の外的規定 を受 け 入れ る ことで しかない。だか ら 「自殺 の 自由 とい う観念 自体が切 られた木 のよ うにぶ っ倒れてしまう。 私は自分の自殺の時間 も場所 も状況 も創造 しは しない。自 殺 の思想 をで っち上 げ もしない。 自殺 さえ 自分か ら奪 われて いるよ うに感 じる のだろ うか
。」5)これが ,アル トーが生 と死 を固定的 に分離す る思考 を拒否 す る 理 由 となるのだ。 そ してまた ,そのよ うな思考 を促す言語を拒 ませ る理 由で も ある。存在 と非存在 ,肯定 と否 定の静的な二項対立 によ って抽象的概念 を提示 す る ことに終始す る言語表現 は,矛盾 的諸 力の葛藤 と緊張 か ら生 成 す る情 動 に到達す る ことはで きない。
「 私 は生 を感 じなか った。どんな精神的理念 の盾環 も私 に とっては滴れ た流 れの よ うな ものだ った。私 に とって生 はオ ブジェや形式で はなか ったのだ 。 生 は私 に とって響嶋の連鎖 と化 していた。 しか しその響 嶋は空回 りした り, 全然回 らなか った りで ,私の裡 ではあ りうべ き≪構造
sch色mes≫のよ うな も のではあ ったが ,自分の意志で定着 させ ることはで きなか ったのだ。 〔‑・ ‑ 〕 私 は死 ぬ こともで きず ,生 きることもで きず ,生死 いずれかを欲 しないで も
4)Zbid5)Ibid.
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・い られ ない。そ してすべての人間は私 と同様 なのだ
.」 6)アル トーの存在論的直観 は哲学的 ・概念 的思考 に赴 くことはない。それは単 に言語を信 じないか らとい うのではない。言語を放棄 す るのではな く,む しろ それを別 の タイプの思考 の手段 に しよ うとす るため に,論理 と意味をイメー ジ の力で大幅 に分節変換 して しま うか らなのだ。生 と死 は肯定 と否定の静的な対 立 と してではな く,同値 の力 ,互換的な力の顕在化 と して ,一つの生 の情動的 状態 を生成す る力動的作用の中で遭遇す る,それぞれ に現実性 を帯 びた もの と
なる。
「 私 は死 を ,我が身 に押 し寄せ る激流のよ うに ,想像で きぬ力を秘 めた雷光 の瞬時の跳躍 のよ うに感 じている。私 は死 を ,甘美で ,渦巻 く迷路 に満 ちた ものの・ よ うに感 じて いる
。その中の ど こに私の存在 の思考 が まざれて いるの だろ うか。/だが ここに突然 「 神
」が ,ヒ首 のよ うに,鋭 い光 の鎌 のよ うに 現われ る. 。私 は進んで生か ら身を分 った。 自分の運命 を遡行 しよ うと したの だ っ た
。」 7)生 と死 の分離が言語 による存在論的抽象化 にす ぎないと指摘 した ところで , それだけで その分離 した現実 を逸れ られ るわけではない。生 と死 の同時存在 と い う観念 もまた一つの言語的抽象 にす ぎないのだO いずれ もが ,われわれの存 在論的思考 を支配す る 「‑者」や 「自己原因
」(「神
」)のオ ブセ ッシ ョンの裡 にあ るのだ。そ して このオ ブセ ッシ ョンはいずれの場合 に も言語が表象す る意 味 ( 概念 )の問題 と して絶 えずつ きま とう。 「 神」 はあたか も言葉の創造者 と して ,言語 の論理 に真 と偽 を振 り分 ける究極の メタ論理 と して立 ち現 われ る
0アル トーの情動 もまた表現 を求め るので あ り,表現 を得 る限 りにおいて しか情 動の経験 も経験 として定着 され ることはない。アル ト‑における表現の模索 は ,
6)Ibid,p.314.
7
)Ibid,pp.3131314.意味の根源 と して言葉 を通 して現われ る 「 神」を拒否 す る別 な論理の直感 に導 かれているのだ。そ こで彼 は意味 に対す る不信 と,言語の破壊への欲求 (いず れ もが 「 神」への呪誼 と重 な り合 う) を繰 り返 し表 明す る
。「 私 が 「 善
」も
「 悪」 も信 じないのは ,私がか くも破壊の欲求 にか られているのは ,理性で もっ て私 が捉 え られ るよ うな原理の次元 に何 も存在 しないの は,原理 自体 が私の肉 の裡 に存在 しているか らこそだ
。」8)肉の裡 に存在 す る原理 こそ ,アル トーにとっ ては,概念 を表象 ( 再現 )す る論理の言語で はな く,生成す る情動 を構造化す
る ( 表現‑ と導 び く)別 な論理を秘 めた言語の萌芽 であ り,彼が 「 生か ら分離 され ない表現
」と呼んだ ものの予兆であ る。
「 私は破壊す る, なぜな ら私の中で理性か ら生れるものは何 ら確 たるものがない か らだ。私 は もう自分の骨髄 に達す る刺戟 の確か さ しか信て はお らず ,自分 の理性 に訴 え るものな ど信 じてはいない。私 は神経 の領域 の中にあ る階層 を 見 つけたのだ。今や何 に明証性 を認 め るべ きか判 るよ うな気が して いる
。私 に とっては ,純粋 な肉の領域 にある明証性が存在す るのであ り,それは理性 の明証性 とは何 の関係 もない ものだ。理性 と心の永遠 の葛藤 は私の肉の裡で 裁決 され るが ,ただ しその内 には神経 が駆 け巡 って いる。測 り難 い情動の領 域 のなかで ,私 の神経が導 いたイメー ジは最 も高度 な知性 の形 を取 る
。私は そ こか らその知性 的な性格 を奪 うことを拒 む。 こうして私 は概念 の形成 に立 ち会 うのだ。概念 はその うちに事物の閃光 を伴 い,その閃光 は創造の響 きを
●●
たてて迫 って くる
。どんなイメージも,それが同時 に 「認識」でないな らば , それがその実体 と同時 にその明噺 さを伴 っていないな らば私 を満足 させ は、 し ない。論証的理性 に疲れた私 の精神 は ,新 たな絶対的引力の歯車装置の中に 呑み込 まれ たい と思 って いる。 それは私 に とって至高の再組織化 のよ うな も のだ。それ に与か って いるのは 「 非 論理
」の法 則 のみで あ り,そ こで こそ
「 意味」の発見が達成 され るのだ。〔‑‑弓 この 「 意味
」は精神 によ る精神 自 身の征服であり,理性 によっては還元不可能 な ものだ とはいえ ,それは実在す
8)1bid,p.354.
) 08
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●●●●●●●●●・ ●●●
在す る
。ただ し精神の内部 にのみだ。 それが カオ スの秩序であ り,知性であ り,意味なのだ。 しか しその カオ スを 「 意味
」はその もの として受容せず , それを解釈す る
。そ してそれを解釈す る ことによ って ,それを失 う。「 意 味」
は 「 非論理 」 の論理である。それがすべてだ。私の明噺 な非 理性 は カオ スを 恐 れは しない
。」9)アル トーが理性 と肉 とい う言葉で対立 させ るのは論理 ( 言語)の存在 と不在
+L ●●●●●● な ま
ではな く,論理 と非論理の論理であ る
。人間の経験 に ,論理的経験 と生 の経験 との区別 があ るわけで はない。そ して ,彼が生 と言語の帝離 を嘆 き,生か ら分 離 した言語表現 を斥 けよ うとす るのは,言語 あ るいは論理 を放棄 して生 を選択 す る (ことがで きる) とい う信念 によ って動機づ け られているわけではない。
実状 はむ しろ逆であ り,彼 はひたす らある種の言語 の可能性 を信 じ,その言語 を現実化 したい と望 んで いるのだ。彼 に とって思考 とは ,分節言語 による概念 操作であ る以前 G となによ りもまず ,生の経験 の プ ロセスその ものであ り,そ れ
自体 が構造を秘 めた運動 と して把握 されて いる
。「 私 は ,愚か者だ ,思考 の抑圧 と,思考 の崎形化 のために。舌 が麻捧 して し テ ノ レ ま ったために,私 はか らっばだ。 〔・ ‑‑〕思考 のため に私が選ぶすべての用
ム ●●
語 は,私 にとって ,この テルムとい う語本来の ,限界 とい う意味で使 われて いる。それ らは真の結末であ り,私の精神 的な 〔 空 自原文のまま〕の帰結点 , 私がおのれの思考 を従 わせて きたあ らゆ る状態 の帰結点で ある。私 は ,私の
●●●●●
用語 によ ってた しか に局限 されて いる。私が私の用語 によ って局限 されて い るとい うのは ,私 には ,それ らの用語が ,私の思考 の中で ,有効 に働 いて る とは認 め られ ないか らであ る
。私 は,私の用語 によ って ,つま り一連 の結末 によ って ,まさ しく麻捧 させ られて いる
。そ して ,このよ うな瞬間 に ,私 の
●●●●
思考が いか に他の場所 にあ って も,私 に出来 るのは,おのれの思考 に これ ら
の用語を通過 させることだけだ。それ らの用語が いか に思考 自体 と矛盾 した ,
9)Zbid
,pp.3541355・平行的な,あいまいな ものであ って もそ うなので あ って ,そ うしなければ , 私 は,. このよ うな思考 の瞬間 において歩 みを とどめて しま うこと樗なる
.」10)アル トーが 自分の ( 詩的)表現 は自分の生 の断 ち屑 で しかない とい った言 い 方をす るのは,そ うした表現が , ( 生 の力 の発 現で あ る)思 考 の過程 が外部 (「 事物 の外見的な読 み取 りやす さ
」)との妥協 によ って 自 らを局 限 した とと ろに しか成立 しないと考 え られ るか らであ る
。さ しあた りの ところは ,それが 思考 が表現 に至 るために不可避 の成行 きで あ り、限界で もあ るの だが (「そ う
しなければ,私 は, このよ うな思考 の瞬 間 に歩 み を とどめて しま う ことにな る
」),実 は,その限界 ( 表現 され る経験の限界)は外的現実 に内在す る客観的 法則 によ って課 されてあ るので はな く,ま さに言葉 その ものが経験 の テル ムと
して ,うま り経験 を表現すべ き用語であ ると同時 にそれを制 限す る限界 として 立 ちはだか って いるとい う事実 によ って招来 されているのだ。過程 と しての思 考 が限界 または結末 としての用語 によ って 自己を表現 しなければな らない とい う必然 において、表現 とは常 に一種の思考の抑圧 と崎形化 に他 な らない。そ し てその ことが経験 と表現 とを原理的 に漸近線 的な (不)一致の状態 に とどめ る のだ。 アル トーが斥 けよ うとす る 「事物 の外見的な読 み取 りやす さ」 とは,経 験 と しての生 の構造の表 出などではな く,概念的な符牒 と しての用語 によ って 局限 された経験的所与 の表層構造 にす ぎない。生 の経験 を こうした用請 ( 概念 と して甲言葉 ) に縮約 して しま うことを ,アル トーは 「 妥協 」 と して排す るわ けで ある。彼 に とって ,生の本来的な現実 とは思考 と して生 き られ た経験 に他 な らず ,思考であるか ぎ りそれ は一つの論理的経験 でなけれ ばな らないはずの ものだ。そ して アル トーが 「意味 とは非論理 の論理 である 」 と言 った時 ,それ は生の経験の隠れた論理構造 を指 して いたのだ。
「 論理的所与の隠れ た構造 とは ,経験 の構造 それ 自体 の謂 であ る‑ だが こ
れを ,悟性 を支配 し,締 めつ け,歪 曲す る経験論の構造 や古典的論理の構造
10)Zbid,p/116̲りβ
人 文研
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と混同 してはならない。論理 な くして経験 はな く,経験 な くして論理 はない。
もっと言 い切 って しまえば ,論理 とは経験で あ り,さ らに論理的経験 なので あ って ,つま りはそれが経験 それ 自体 なのであ る
。」 11)「 私 に欠 けて いるのは ,語 と,私の諸状態の毎分時 との一 致 で あ る
。」12Iこ の一致の不在 の理 由は,言語 と経験 は本質的 に異 な るとい った事 に由来す るの ではない。そ もそ もそ う した本質論的差異 自体があ る種の先 入主 に基づ くもの なのだ。基本的 な問題 は ,論理的経験 と,通常の言 語の運用 を規定 して いる先 験 的論理 とが ,それぞれ異質 な論理構造 に支え られて いる点 にあ る。そ こで , 単 な る記号 の運用規則で はない,経験 における純粋 に論理的な もの とはいかな
るものかを問 い直 してみ る必要があ る。
一般 的通念 によれば言語 には二種類の構造が考 え られ る
。あ るいはその二種 の構造の混清 であ る。言語学者 に とっては ,言語記号 は他 のあ らゆ る記号 との
シ 占 フ イ ェ
差位 によ って しか意味を保 持 しない。記号 はその意 味す るもの と自律 的で無媒 介的 な関係 を持 ってはお らず ,コンテ クス トによ って意味を規定 され るばか り
シ ニフ イ アン
で な く,ある時代 における‑国語を規定す るすべての能記の総体 によ って ,そ の記号が何 を語 るかはいわば強制 的 に決定 され るのだ。一つの記号 は、他 のす べての記号 との関係 においてのみ ,世界 とその体験 をいか に切 り取 るかが決 め られ るのであ り,従 って思考 の構造 は言語の構造 に完全 に従属す る
。意味的経 験 とは言語の経験を除 いて はあ りえず ,経験 の限界 とは言語の限界である
。思 考 の主導権 は もっぱ ら存在 を切 り取 る記号の体系 にあ り,語 る主体 は この体系
に同一化 した意識 において しか成立 しない
。これ に対 して ,宗教 的領域 においてはま った くこれ と異 なる記号 の構造が見 出 され る。 そ こにおいて は ,各 々の記号 は相互の差位 において意味作用を持つ ので はな く,また各 々の記号 の うちに内属す る意味が存在す るわけで もな く, すべての記号がある不可視 の超越的な真理の比愉形象 と見倣 され ,直接把握不
ll) S. Lupasco
,
LogiqLLe etCOnt,・adiction,
(P・U・F・) 1947, p・ Ⅹvii・1・2)Artaud,op.ciL.p.118・
可能 な原型か ら写 し取 られた無 限の コ ピーである とされ るのであ る。そのよ う な記号 は ,水平方行 に並置 された他 の記号 との差位 を通 じてある ことを言 わん
として いるので はな く,一個' の起源への深 い帰属 によ って語 るのだ。記号 は特 定の意味を指示 して いるのではな く,垂 直方向 に深層 に向 って段 階づ け られた 比愉形象の連鎖 と して ,原初 の単一 な真理の来歴のみを語 っているのだ。
これ ら二種類の記号の体形 において ,真理 とは常 に記号 の表面 か らは しりぞ いてあ る起源 と して語 られ るか ,あるいはその記号の表面 を背後 か ら支え るも のであ りなが らけ っ してその もの 自体 と して語 られ ることがない。つま り,こ れ らの体系の内部 に身を置 く時 ,われわれの思考 はあ らか じめ方向づ け られて いiのであ り,われわれの意味的経験 は これ らの体系 によ ってすで に先取 りさ れて いるか ,あるいは無化 されて しま って いるので ある
。事実われわれ は,い ずれの体系の中にあ って も,記号の交換 について語 ることはで きて も (ある. い は語 ることが記号 の交換であ る),意味的体験 を語 る ( 記 号 を創 る) こ とは不 可能 にな って いる。 この ことは,いずれ もの体系がわれわれの経験 の構造 その もので はな く,一 つの抽象化であること, ・そ してまたその抽象化 を支える論理 ( 形而上学 )が存在 す るのだが ,それもまた意味的経験 の論理 その もので はな い ことを示 している
。アル トーにとってはまさに この抽象化 され た生 とい うも のが耐 え難 いのだ。
「 神 は私 を不条理 なまで に弄 んで くれ た。奴 は私を生 きた まま否 定 の空虚 の 中 に,私 自信 に対す る執蜘 な否認 の空虚の中に押 し止 めて きた。奴 は私の中 にあ る思考す る生 の ,知覚 された生 の持つほんのわずかな衝動 まで も破壊 し て しま ったのだ。奴 は私をただ歩 くだけの 自動人形 に して しま った。だがそ の人形 は,自分の鹿意識状態 との断絶 を感 じ取 らず にいないだろ う
.」13)そ して彼 にとってあ りうべ き表現 とは,そ うした抽象的体系内部での概念的
13)Ibid,p.314.112 人 文 研 究 第
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思考 のオ ー トマチスムに身 を委 ね ることとは正反対 の ,経験 的所与を直接表 出 す る ことであ った
。「イメージの一段 と高め られた領域 には ,いわゆ る錯覚 ,つま り物質 的錯誤 とい った ものは存在 しない。 いわんや認識の錯覚 は存在 しない。だが さ らに それ に もま して ,新 たな認識 の感覚 は生 の現実の只 中に下降す ることがで き る し,またそ うしなければな らないのだ./生の真実 は物質 由衝動性 の中に あ る。人間の精神 は諸概念 の只 中で病 んでいる。 その精神 に自己満足 を求 め るな。ただ ,平静 た る こと,ついに自分の居場所 を見 出 した と信 じることを 求めよ。 とはいえ 「狂人」のみが ひ とり平静 なのだ
。」14)※
認識 とは,言葉 によ って現実を切 り取 り,存在 を把握す るところに成立す る ものであ り,古典的論理によればその真理基準 は無矛盾性 ( 第三項排除の原理 ) で ある。存在 と非存在 ,肯定 と否定 とい う基本的分割 を通 して古典的論理 は矛 盾を排除する。だがその論理は本当は二値論理ではない。真 ・偽 ,善 ・悪 ,美 ・ 髄 とい う二つの論理値が そ こにあるのではな く,真 ・善 ・美を決 める一つの究 極 の価値があ らか じめ存在 し,それ以外 の ものは論理的逸脱 ,心理学的欠陥 ,
そ して形而上学的 には,その断言 を発す る主体の不完全 さまたは有限 な本性
に起因す る誤謬であ り,偽 ・悪 ・醜 はその もの と して は存在 を持 たないとされ る ので あ る。従 って偽 の中に陥 る ことは論理 その ものを担造す る ことに等 しい。
無矛盾であ る こと, これが経験 と実在 に矛盾 しない充足的真理の基準で ある
。真理 は存在 の側 にあ り,誤謬 はすべて非存在 である。 そ して その真理 は無矛盾 なる命題を通 して言語的認識が可能 とな る
.しか しこの無矛盾性 とい う公理 は いか に して基礎づ け られ るのか。 そ こに一つの メタ論理があるのだ。
例 えば矛盾す る二つの命題
(「この液体 は百度で沸騰す る」 と 「この液体 は 百度 で沸騰 しない
」)の真 ・偽 は論理外 的経験 によ って判定 され るのではな い。
1 4 ) I bi d .
,pp.3 5 6 1 3 5 7・
一方が真 な らば他方 は偽 である とす る無矛盾性 の要請 に従 うだけなのだ。前者 を真であ るとす るな ら,後者 は必然 的 に偽 である。実 は真 に論理的 に基礎づ け
られて いるのは後者のみであ る。前者 の真 は経験 に照 らして認め られたので は な く,無矛盾性 の要請 に従 って仮 定 された もので しかない。 そ こにはあ らか じ め一元論的な究極 の真が前提 されて いるのだ。判断の真理値 に関 して は論理 と 経験 を分離す ることは不可能 ではないに して も極 めて困難 で ある
。知覚的経験
と しての現実 を基準系 とす ることは実 は論理を放棄す る ことで もな く,何 らか の論理外的裁定 に従 うことで もない。 それ は恐 ら くは必然 的な ものか ら仮説 的 な もの に移行す ることであ るのだが ,ただ し論理的 な ものか ら逃れ る ことであ るどころか ,よ り一層論理 に合致す るためであると言 え る。そ して ,古典 的論 理 にお いて ,知覚 的経験 の舞 台で ある現実 を基準系 に据 え るとい う時 ,それは その現実が無矛盾性 の公理 を裏切 らない自己同一的 な実在 に根 ざ した もので あ るとい う仮説 を勇 と して立てて いやのであ る。つま り古典 的論理 の究極 に措定 され る一元論的な真 とは,無矛盾性 の公理 に背 かないよ うに要請 された仮説 で
しか ないのだ。
本質 的 に一元論 的な古典的論理 は経験 を超越 した実在 に仕 える ものであ り , 従 って一 つの形而上学 を前提 して いる。存在 と非存在 ,肯定 と否定 とい う対立 において ,存在 は肯定 によ って認識 され るとい う一元論が それで ある。あ らゆ る現実存在 e xi s t e nc e は,いか に多様 か つ外 面 的 で あ ろ うと も,自己同一 的 に不変 な存在 台 t r e を起源 とす る属性 または存在様式であるとされ る
Oそ れ と同時 に,存在 の反定立で ある非存在 non‑ e t r e は永遠 に存続す る必 然性 を持 たぬ もの ,いか に して も現実存在 しえぬ もの とされ る。 そ してすべての知 覚 的 ・概念的な認識事実 は,存在 または非存在 とい う二つの概念 クラスに分類 され , これ を踏 えて人間的生 の ( 政治的 ,倫理的 ,さ らには宗教 的 な)意味 と 価値 が導 き出 され て きたわ けであ る。科学 に しろ哲学 に しろ,世界 は不変項の 上 に しか成立 しないとい うのが古典 的論理を支配的な もの た らしめて きた信念
なのだ. '
こうしたメ タ論理 に論理一般 の名を冠せ る時 ,言語 は存在 を切 り取 る概念 と
) ) 4 人 文 研 究 第
74輯
して固定 化 され る ことにな る。 それ と共 に ,可変 的 な感覚 の領域 にお いて不変 の存在 概念 に達 しえ な い もの は存在 につ いての思考 か ら排 除 されてゆ く。 そ し て諸 々の存在 論的形 而上 学 は ,概念 を出発点 に置 いて ,知性 が恒 久的かつ 自己 同一 的 と判 断 した もの に基 づ いて構築 され る ことにな る
。存在 論 的思 考 が現実
●●●●
の多様性 の背 後 に認識 させ る と称す る自己同一的 な存在 とは実 は この存在概念 に他 な らな い。 だが これ は もはや経験 的所与 の論理 に対応 して は いな いので あ る
。 15)純粋 な論理値 が論理外 的現実 を基準 に して成立す る もので はな く,肯 定 と否 ・ 定 の相反性 にお け る一方 の顕在 化 と,その顕在 化 自体 が 引 き起 す他方 の潜在 化
( 両者 同時 の顕在 化 あ るいは潜在化 が あ る と した ら,それ は論理 的経験 その も のを廃棄 して しま うだ ろ う) によ って初 めて可能 とな るよ うに , この認識 の原 理 はわれわれ の概念 的認識 の 中 に も絶 えず働 いて い る。概念 とは ,それ を指示 す る言葉 によ って固定 され る静 的 な意 味 な どで はな い。 この上 な く具体 的で も あ る と同時 に抽 象 的で もあ るわれわれ の意識 に と って現実存在 す る ものは常 に 必 ず その概 念 が有す る二方 向 の対 立 的定位 の何 らか の矛盾 的混合状 態 と して あ る。 これが概念 の外延 と内包 と呼 ばれ る もので あ り, これ な くして は概念 自体 が現実存在 しないはずである。木 という言 葉 は ,その概 念 の異質化作 用 ( 外 延 ) を極限に押 し進めれば無限 に多様な個体 に到着 し,逆 にその同質化 作用 (内包 ) の極 限 にお いて は究極 の‑者 的木 に至 る
。実 際 に木 が対象 と して現実存在 す る ため には , これ ら二 つの対 立す る作 用 の均衡 ( 二 つの方 向の顕在 化 と潜在 化 の
15)
自然科学の領域では今世紀 に入 って、物質の究極要素の探究 に概念 と論理の激変を
引き起 こしたのが‑イゼ ンベルグの不確定性関係であった。それによれば、形態 と
運動 という基本的な物理量 ,つまり時空座標 ( 位置)と運動量 ( 速度)の両者が厳
密に同時に顕在化することは本質的に不可能であり、現実存在する物質 とは、完全
に顕在化 しきることのないエネルギーの‑状態 と見徹 される。とはいえ、その物質
状態を生み出すエネルギーもまた、顕在化と潜在化の抗争状態そのものにおいてBi ' ・
成するものであ り、絶対的な顕在性および同一性 としての存在概念に対応するもの
ではない。こうした経験的現実を前 にして定言的判断が もはや持ちこたえ られない
ような場合、そこで論理が崩壊 して しまうように見えるとしても、実はその論理を
方向づけ、締めつけているメタロジック ( 形而上学)がその限界を露軍 してい8̲ の
である。論理的経験 と論理の理論はまった く別物なのだ。
均衡 )が不可欠であ り,いずれか一方のみが絶対的 に顕在 化 ( 従 って 他方が絶 対的 に潜在化 ) して しま うな らば , 無限の差異化 あるいは無限の同質 化の故 に, 世界 の知覚 も対象 も表象 も成立不可能 にな って しま うはずである。概念 は認識 過程 における生成であ り,自己原因的かつ同一 な存在 を指示す る固定 した実体
などではないのだ。
「 要す るに概念 とは ,現実存在 の ,知蔦 の ,記憶 の ,あ るいは想像 力の所与 を もた らす基本的 メカニズムであるところの ,末梢神経 の生理的刺戟 と大脳 皮質 レベルでの内的刺戟 の いずれ が 引 き金 にな って い るにせ よ ,中枢 神 経
●●●●●
系 の懐 で生成 された もので あ るわ けで ,それ 自体が相 関関係的 エネルギー装 置 なので ある。 この相 関関係性 には同質性 と異質性 の矛盾相反 が伴 い,また その結果 と して ,本質 的 に相関的 なそれ らの相互の顕在 化 と潜在化 を招来 す る力動的可能性 も含 まれて いるのである
。〔‑‑‑〕つま りこれ は,まさに論 理性 の核心 において ,存在概念 が妥 当 しない基盤 ‑ 原子物理学 の量子 に も
●●
比せ られ る概念 とい う一種 の思考 の量子‑ に突 き当 るとい うことなので あ る
。」16)●● ●●●●
生 の経 験 を概 念 の形 成 と して捉 え .厚 着 した存在概 念 か ら出発 して 生 を 思考す る ことをひたす ら拒否す るアル トーに とっての 「 意 味の論理」 とは以上 の よ うな ものであろ う。なぜ な ら意味 は,言葉 が表象す る概念 なので はな く, 意味の経験 として しか存在 しないか らで ある
。意 味の経験 は概念 を形成す るが , 概念 はこの経験の解釈 なのであ り,それを生 み出 した意味 ( 経験 )を含 まない。
この経験 はイメ‑ ジとしてのみ持続す る
。イメ‑ジはあ らゆる解釈 を こえて , その解釈 に全面的 に還元 され ることな く,ひたす ら体験 され るだ けの もの と し て存在 す る ものだか らであ る
dすで に引用 したアル トーの 「理論
」の核心を再 度 見 てみ よ う。
16)S. Lupasco
,
Qu'est‑ce qu'une stTuCtuT・e?(Christian Bourgois) 1967,
p.87・I16 人 文 研 究 第74輯
「 測 りがたい情動の領域の中で ,私の神経 によ って導 びかれ た イメージは もっ とも高度 な知性 の形 を取 る
。私 はそ こか らその知性 的な性格 を取 り去 る こと を拒絶す る。 こうして ,私 は概念 の形成 に立 ち会 うのだ。概念 はその うちに 事物 の閃光 を伴 い,その閃光 は創 造の響 きをたてて私 に迫 って くる
。どんな
●
●イメージも,それが同時 に 「 認識
」で なければ ,それが その実体 と同時 にそ の明噺 さを伴 わなければ ,私 を満足 させ ない。論証的理性 に疲れキ私の精神 は,新 しい絶対的な引力の歯車装置の なか に呑 み込 まれたい と思 っている0 それ は私 にとって至高 の再組織化 のよ うな ものだ。 それ に与か って いるのは
「 非論理」の法則のみで あ り,そ こで こそ 「 意味」の発見が達成 され るのだ 。
〔 ・ ‑‑ 〕この 「 意味 」は精神 によ る精神 自身の征服 であ り ,理性 によ って. 還
●●●●●●●●●●●●
元不可能 な ものだ とはいえ , それは実在す る。ただ し精神 の内部 にのみだ。そ れが カオスの秩序 であ り,知性 で あ り,意 味 なの だ。 しか しその カオ スを
「 意味 」はその もの と しては受容せず ,それを解釈 す る。そ してそれを解釈 す る 午とによ って ,それ を失 う。 「 意味」 とは 「 非論理」の論理である
O」●● ●
アル トーの この理論 にお いて存在 と生 とい う用語 はその位層が逆転 され る
。生 は存在 の上 にその‑様態 と して成立 して いるのではな く,存在 ( 概念 ) こそ が生の抽象であ り,認識の限界であ り, 「 理性で もって捉 え られ る原理 の次元
」に属す るにす ぎない もめ なのだo そ して また ,生が力 と して捉え られ るのは ,
それが反対物 と しての死 と静的 に対立す るもの と してで はな く,両者の顕在化
と潜在化 の運動 の相反的矛盾が引 き起 こす緊張 と均衡 の状態 と して ,いわ ば一
種の エネルギ‑過程 と見倣 されて いるふ らで あ る
。それ故 にアル ト‑が存在概
念 を超 えた彼方 に生 を経験 しこれを認識 しよ うとす る時 ,それ は必ず とい って
よいはど切迫 した死 の接近 と重 な り合 うのだ。 その状態 こそ ,生 と死 の双方が
同時的 に顕在化 しよ うとす る 「カオ スの秩序
」なので ある. アル ト‑の著書 の
一 つが 『芸術 と死
』(
1929)と題 されて いる ことはこ こう した カオ スの経 験 と
無 関係 で はない。
「 或 る種の不安 の只 中 にあ って ,なん らかの夢の奥底 にあ って ,精神の秩序 においては何 もの もそれ と融合 しえぬ破壊 的で不可思議 な感覚 としての死 を , 知 らなか った者が いるだろ うか ?耐 えよ うのな
いふ いごによって動か されて で もいるよ うに波動 しなが ら人び とに迫 り人び とを膨 らませ る不安 のあのあ らゆ る ものを吸 い上 げ る高 ま りを ,すで に知 ってお られ るにちが いない。不 安 は ,接近 し,そのたび ごとに,もっと大 き くな って ,もっと重 い もっと充 満 した もの とな って遠 ざか る。 これ は,その膨張 と力 との限界 に達 し,それ に もかかわ らず なおそれを超 えて進 まねばな らぬ肉体 それ 自体 なのであ る
。これ は ,魂 の うえに置かれ た一種の吸玉であ って ,その鋭 い刺激 は,感覚界 のぎりぎりの先端 まで ,まるで硫酸 のよ うに しみ とお るのだ。そ して ,魂 は , おのれを打 ち砕 く手段 を さえ所有 して いない。なぜな ら, この膨張 その もの が いっわ り, であるか らだ.死 は,それ ほど安 く満足 させ られは しない。肉体
●●●●●●●●●●●●●●●●
的秩序 における このよ うな膨張 は,生 きた肉体の ひろが り全体の うえで精神 を とらえ るはず の或 る収縮 の逆 の イメー ジとも言 うべ き ものである
.」.17iこの よ うな感 覚的 な死の イメー ジの描写 と共 に,この一文の注 と して付 され た文章で は死 の顕在化の契機が次のよ うに把握 されて いる
。「 私 は断言す る‑ そ して私は ,死 は精神の領域 の外 にはな く,或 る境界の
なか にあ って ,或 る種の感受性 によ って認識 し接近 しうるものだ とい う観念
に しがみついている
。/書かれた事物 の秩序のなかで . 秩序づ け られた明確 な
知覚 の領域 を捨 て去 るい っさいの もの , 一さまざまな外観 の逆転破壊 を作 り出
し,精神が生 み出す さまざまな イメージの相関的な位置 についての何 らかの
疑 いを導入 しよ うとす るいっさいの もの ,噴 出す る思考 の力を こわす ことな
しに混乱 を引 き起す い っさいの もの , くつがえ され た思考 に,さらに大 きな
真理性 とはげ しさとを持 った姿 を与 え る ことによ って ,事物の関係 を逆転 さ
せ る一切の もの ,こうい うい っさいの ものは,死 にひ とつの出 口を与え ,わ
17)Artaud, op.c i
a,p.147.[ 粟津則雄訳 ]
118 人 文 研 究 第74
輯
れ われを ,死 が その ただなかで表現 され る精神 の よ り精錬 され た諸状態 とか かわ らせ るのだ
。」18)存在概念 を支え る一元論的 メタ論理の彼方 で ,アル トーの生 とは ,死 ( 非存 荏 ) と対立 す る存在 なので はな く,む しろ肉体 と精神 とい う現実存在 を生 み 出 す非存在 で あ る。生 もまた死 と同様 に , それ 自身で 自己同一 的 な存在 論的性格 を 帯 びた実体 などではな くて ,常 に相互 の顕在化 と潜在 化 の度 合 と してのみ発現 す る過程で しか ないか らであ る。彼 は真正の意 味的経験 の表現 を求 めて存在概
●●●●
念 よ りも更 に深 く生 (と死 )の カオ スの中 に下降 したのだ。 そ こには存在概念 が妥 当す るよ うな経験対象が見 出 され な い
19 ) . これが アル トーに と っての現実
●●●
●的 な死 の経験 で あ り,彼 が 「以前 の死」
,「 死 の側 で はな く,生存 の反対側
」と 呼 んだ状態 に他 な らない。
「そ して ご く確実 な ことに私 はず っと以前 か ら死 んで いる。私 はすで に 自殺 して いるのだ。す なわ ち私 は 自殺 させ られ たの だ 。 だが 諸君 は ど う思 う ,
●●●●
以前 の死 とい うやつを ,我 々に道 を引 き返 させ るよ うな死 とい うやつを。 た だ しを引 き返 す とい って も亮 の側 にで はな く,生存 の反対側 になのだ。 そん な死 だ けが私 にとって価値 あ るものだ
。」アル トーが 「生存 の向 う側 」 と呼ぶ 「 以前 の死
」の地点で は言葉 の意 味が解 体す る。一 つの メタ論理 によ る規定 を通 じて固定 され え た概念 が相反 的矛盾 に
よ って拡散 して しま うか らで あ る。存在概念 G t基づ く認識 は 「事物 の外見 の読 み取 りやす さ
」に 対す る妥協 (メタ論理 によ る解釈 )で しか な く,矛盾 的話 力
18)Iaid.,p.151.
19)
ミクロ物理学において、量子のレベルまで下降すると、もはや本来哲学のものであっ
た存在概念の流用が妥当でな くなってしまう基盤に突き当る。科学はもっぱら現実
存在について しか語 りえない。そして量子が持つ矛盾的性格は、認識主体の意識に
対 して現実存在するものと、存在論的意味での存在するものとの混同をもはや許 さ
ない。メタ論理に依存 した存在思考にもそれと同様の用語の混同と限界があるのだC
の プ ロセ ス と しての経験 その もので はな いのだ。 メ タ論理 は ,それが措定 す る 存在 概 念 の外 で は崩壊 して しま う。 しか しその ことは ,論理 的経験 が消滅 す る ことを意 味 して は いな い。逆 にそ こにお いて こそ ,メ タ論 理 的 なあ る種 の形 而 上学 の影 響 か ら解 放 され た ,純粋 に論理 的 な ものが悟性 の基盤 と して明 らか に なるのだ。それは ,論理値 と してはまった く同等 な肯 定 ( 顕在 化 ) と否 定 ( 潜在 化 )の相牢矛盾 という経験の力動的機制 その もので あ り,それ こそが アル トーの 言 う生 の力で あ ったのだ。 その経験 は概念 の外部 にあり ,従 って ( 認識主体 の
エグ ジスタ ンス
意識 に と って現実存在 とは概 念 と しての現実存在 で な けれ ば な らな い以上 )意 識 の内面性 には属 さな い。 つ ま り,純粋 に論理 的 な もの ( 肯 定 と否 定 の同値 の
エ グ ジ ス テ
括抗 ) は ,意 識 に対 して概 念 を現 実存在 させ る力動性 と して ,常 に当の概念 の 外 に隠 れ て い る経験 の構造 なあ る。
論理 は認識主体 あるいは客体 に内在す る もので はな い。逆 に主体 や客体 の方 こ そが経験の関数的産物 として ,論理 に依存 して成立 した もの に他 な らない。 それ 故 に ,純粋 論理 的 な プ ロセス と して あ る経験 の中で は ,実在 と非 実在 ,認識 と 非 一認識 は論理 の プ ロセ ス 自体 に属 す る もの と して現 われ て くるので あ り,す べて の意 味的経験 が生成 す る関数 的現象 と して捉 え られ るので あ る。 アル トー にとって思考す ることは ,停止 した経験 の残樺 で しか な い概念 を再 現 ( 表象 )す る ことで はな く,概念 の生 成 す るプ ロセ スを経験 す る ことで なけれ ばな らず , それ こそが 純 粋 に論 理 的 な 「全 を思 惟 Tout e ‑ Pe ns 6 e
」なの だ った
20)。 そ の 思惟 にお いて は ,言 葉 は肯 定 と否 定 の 力動 的作用 の関数 と化 して ,相 矛盾 す る 二様 の価値 を帯 び る。
「 存在 の洞窟 を出 よ。来 たれ 。精神 の息 は精神 の外 に吹 きわ た って いる。諸
20)M
・ブランショが言い当てたように、アル トーにとって思考することは、常にまえ
もって、未だ思考 しえていないことになるのはこのためである。そ してこれが 「 本
質的で もあ ると同時 に束の間 の もので もある思考 の腐蝕
」(a CI
.p.35)の実感なのだ。これを病的な異常 と呼ぶ ことは可能かも知れないがーただ しその異
常 さは、それな しではいわゆる正常な概念的考が成立 しえない本源的経験のあ りの
ままの姿である
.M.Blanchot,Liure丘ueniT
・,(Gallimard)pp.45‑52参照。
120 人 文 研 究 第74
輯
君 の 住 処 を 棄 て る時 が 来 た の
だ。「全 き思 惟 」 に身 を 委 ね る が い い
。「 驚異 」は精神の根 に隠れて いる
O/我 々は精神 q )中か ら踏 み出 した
.頭の 中か ら外 にたのだ。 イデー,碍理 ,秩序 ,( 大文字 の)真理 ,理性 ,そん な ものはすべて死の虚無 に くれてや る。論理 に御用心 ,諸君 ,諸君 の論理 に御 用心 ,論理に対す る我 々の憎悪が我 々を ど こまでつれてゆ くか判 りは しない
0/生をいわゆるその現実的な相貌の下に定着 しうるのは,生の迂 回によ って , つま り,精神 に対 して強要 された拘禁状態 によ ってで しかない。 しか し本 当 の現実 はその相貌 の下 にあ りは しないのだ
。」21)彼の思考はもはや言葉を ,思考 自身を定着すべ き意味 として把握 しない。彼の 意識 にとって ,純粋な論理的経験を方向づ ける記号で しかないのだ (アル トーが
「 非論理の論理」と呼んだ意味の経験のメカニズム こそが純粋 な論理 の力動性 で 工 ‑ ・ ト ル ある) O言葉が提示す るとされ る概念 ( 意味 )は自己同一的 ・自己原因的な存在
エグジスタンス
ではな く, 意識 に対 して構成 された もので しかない現実存在 ( 顕在化作用 と潜在 化作用の均衡点)なのだ。アル トーの思考 は ,概念 を イメー ジと同等 に生成す る
もの として しか認めない。そ してその生成 は純粋 な現在 時の経験 と して しかあ り えない。彼 にとっての思考 とは ,このプロセスとしての純粋 な論理的経験 と合致 する表現を見出す行為であ り,さらに言えば ,その経験 を生 み出す新 たな表現の 創造行為 なのだ
。それが 「 生 と遊離 して いない作品
」のあ り方でな くてはな ら
ない。ただ しその経験 は ,概念 の表象 と交換の手段 と しての言語体系の外部 に 絶 えず逃れて しま う獣 の ごとき ものであ る。「 精神 の無媒 介 的 な う ごめ きの 中
●●●●●●
には多形 に光輝 や く獣 たちが入 り込んで いる。知覚 され は しない思考 して いる このきらめ く塵の群は自らの内部か ら引き出 した法則従 って整然 と並ぶのだ。透
●●●●●
明な理性 の ,そ して踏破 され た意識や理性 の外縁 に
。」 22)アル トーの言説 における言葉 は常 に概念 の内 と外 の境界 に置かれて ,概念 自 体を支えて いる相反 的な力動性 を体 して いる故 に,矛盾 した正反対の価値 を持
2
1
)Artand,op.cit.,p.328.22)Iaid..p.356̲
つ。その分裂のはざまを通 して ,メタ論理の概念が沈黙 た ところか ら,論理的 経験 ( 還元不可能 な矛盾 を本性 とす る)が語 り出す 。
「 我 々を裁 くものは精神 に生れ っ きの ものではない ,ただ し,我 々が生 きた い と望んで いるあの精神 ,そ して我 々か ら見れば諸君が精神 と称す るものの 外 にあるあの精神 に生 れつ きの もので はない。精神 の唖然 とす るばか りの愚 劣 さに我 々を しぼ りつ ける鎖 にや た ら注 意 を向 けて は な らな い
。我 々は新 しい獣 をつか まえた。天 は我 々の不条理 な態度 に応 えて くれ る。諸 々の問 い に背 を向 けそ しま う諸君 の習性が続 こうとも,あ る 日天が開かれ ,諸君 の愚 劣 な闇取 引きの どまん中 に新 たな言語か出現す る妨 げにな りは しない。諸君 の愚劣 な思考 の闇取 引 きの どまん中にだ。
「思考
」の中 には記号が ある。不条理 と死 を季 む我 々の態度 は,もっとも す ぐれた受容性の態度 で ある。以後通行不可能 となる現実の割れ 目を通 して , 進 んで垂 女の神秘 をま とった世界が語 るのだ
。」23)しか し,そ うで あるとして も,一体何 が語 られ る ことになるのだろ うか。概 念 と しての言葉が崩壊 した後 になお も執劫 に表現を求 め る不変の実体が現前す るめだろ うか。 そんな もの は もはや存在 は しない と言 うな らば ,い ったい何が 人類史 において も個人史 にお いて も,表現を求めて存在概念 を支 えて きたのだ ろ うか。 ここにおいて こそ思考 の メカニズムにおける決定 的な逆転が生 じてい るのだ。生 の経験 とその表現 は自己同一的 ・自己原因的 な存在概念 の開展では な く,逆 に経験の プ ロセスにおける関数 として概念 が生成 され るのだ とた ら, それ を産 出 しうる動因があ るはずなのだ。 その動因 と呼 び うるものが ,唯一情 動性
affectivit6なのであ る。
存在概念 とは何か と言 えば ,それは ,概念一般が秘めている相反性 ( 顕在化 と潜在化の矛盾的力動性 )の一方q) 項であ る同質化作用の極限 として思考 され た 現実存在である.あ らゆる多数多様性が混然一体 と化す 「単一性
」もし くは 「同
23)Ibid,pp.328‑329.
122 人 文 研 究 第
7 4 輯
‑性
」と. して立て られた ,概念 の同一化的外延 の顕在化の極限なのだ。だが実 は これはあ りえない。なぜ な ら,その極限 においては ,あまねき同一化の極 に おいて ,当の概念 自体 も消滅 して しま うはずだか らだ。それ は ,生 の絶対 的な 顕在化 としての浬磐であると同時に死の絶対的 な顕在化 と しての無差別的混沌 に 等 しい。 この不可能 な二つの極限の間 にあ って この両極の概念 を生 み出 しうる 経験 の所与が唯一情動性 なのである.
( 存在概念 も含めて)・ 概念 とは論理的経験 の プロセスにおける肯定 と否定の 関数 的状態 と して本質的 に相関的性質 を持 つ もので あ るが ,これ に対 して ,経 験おける情動 ( 苦痛 ,喜 び ,快 ,不快 )の発現形態 はま った く非相関的であ り,
自己充足的であ ろ。情動的経験 は ,(その経験の只 中 にあ って みれ ば ) それ 自 身以外 の もの に関係づ けて も決 して規定 されえない。情動 はただ純粋 な強度 と して発現す るのみなのだ。例 ば ,苦痛 とい う情動 は ,一見す ると,身体の部位 に局 限 され るよ うに見 え る し,ま. た,生物学的 に神経 中枢 との関連で規定 され るよ うに も見 えはす るが ,苦痛 の状態であれ喜悦の状態であれ ,実際 には情動 性 その ものの本性 はそれ ら諸 々の ( 物質的 な)随伴 現象や因果関係 とは何 ら本 質的な関係を持 ってはいない。 それはただ 「 痛 い
」「 快 い」等 とい う状態 と して 発現す るか ,あるいは発現 しないかのどち らかで しか ない。 そ して痛みは快感 と の相関で痛 み と して発現す るわけではな く,ま った く自己充足 的に強度 と して 体験 され るのみであ る。
情動 は, この上 な く激烈 な ものか らま った く漠 たる気 分 といった状態 におよ
ぶ無限に変化す る度合で ,あ らゆ る経験 の中に浸透 しているものであ りなが ら,
それ 自体 と して表現す る ことがで きない。た とえ身振 りや言葉 ,さらには叫び
で表わそ うとして も,身振 りや言葉 は,身体的行為が生み出 した ( 物理的な )
現実存在 に還元 され るものであ って ,それ らが表わそ うとす る内容 ( 情動 )そ
の もの とは無関係 なのだ。表現や規定 は必ず関係や基準系を前提 しなければ不
可能なのだが ,情動性 はそうした関係や基準系 を一切逃れて しま う
。一般的な印
象 としては ,苦痛 と快感は対立の関係 に置かれ るよ うに思 われがちだが ,それは
言葉の概念の レベルでの ことにすぎず ,た とえば苦痛 は様 々な手段 (それ 自体情
動性 とは関係 ない ものだ)で消滅 させ ,快感 は増大 させ るよ うに対処す る以外 何 もで きないのである。そ し七 また , 苦痛や快感 は ,瞬時 に消 え るものであれ , 長時間持続す る ものであれ ,それが真実の経験かまたは錯覚 にす ぎなか とい っ た判断を逃れて ,ただ ひたす ら存在す るだけの ものであ る。 それ 自体 としての 情動的状態 は実質 的 に二元性 を持 たず ,対立 も矛盾 も一切持 たぬ まま出現す る
のだ 。 ●
概念 的 に把握 され うる ものがす べて論理的経験 の プ ロセスにお ける関数 的現
●
象で あ るの に対 して ,自己充足 的存在論 的性格 を認 め られ るものがあ るとした 工 ‑ト 八
ら,それが唯一 この情動性 なので ある。情動的状態 はただひたす ら存在す るだ けで ,何 も意味せず ,意味す る ことがで きない。純粋 な強度 の経験 として しか 存在 しないか らだ。 しか し,そ うした情動性の存在論 的性格の中 に こそ,初め
て ,知 的直観 の対象 と しての物 自体が発想可能 なのであ り,また ,宗教的 には 霊魂 の世界 とい った もの も想像可能 となるのだ
24)Oただ し,この地点で ,情動 性が根本的実在 か ら生 じるものか , それ とも情動性が存在 論 的性格 を示 して い るだ けなのか とい うことを性急 に断定 しよ うとす ると, これ また再度 メタ論理 的 な形而上学 の中に踏 み込んで しま うことになるだろ う
。エ ‑ト ル エ ‑ト ル
「 存在 が本質 的 には唯一 の情動 的な もの に限 られ るな らば ,また ,存在 の概 念 も辞項 も情動的所与 にしか適用 しえず適用 してほな らないので あ るな らば
,エ ート ル‑
この概念や辞項 が
,「 存在 〔 神
〕」 に帰 され る通常 の形 而上 学 的意 味 で の何 エ ート ル
らかの全知全能の精神 的実在 を意味す る ことは もはや ない。/存在 の概念 と エ ‑ト ル
辞項が起因す るのか情動性 なので あ って ,情動性 の根源が存在 の中にあるの で はない。だが これは我 々の知 るところで はないので あ る
。」25)ただ ,‑ ここで認識すべ き ことは ,言語一般が ,その運用 において最 も根本的 エ ‑ ト
ノレな要素 として 「 存在す る
」(ある) とい う動詞 を含 んでお り,これを用 いず には言
24)カ ン ト 『 霊視者 の夢 』参照 。
25)S.Lupasco.op.cit・,pp.106‑107・