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Vol.68 , No.2(2020)075児玉 瑛子「漢訳『廻諍論』の六句議論解釈――梵本における第2句の問題点をめぐって――」

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Academic year: 2021

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(1)

印度學佛敎學硏究第68巻第2号 令和2年3月 (125) ― 982 ―

漢訳『 諍論』の六句議論解釈

―梵本における第

2

句の問題点をめぐって―

児 玉 瑛 子

1

.問題の所在

六句議論(ṣaṭkoṭiko vādaḥ)は,龍樹(Nāgārjuna, ca. 150–250)に帰される『 諍論』

Skt. Vigrahavyāvartanī, Tib. rTsod pa bzlog pa)第2偈 にあらわれる実在論者の空性批判

である.六句議論に先行する第1–2偈で示される(1)空なるものは自性を否定で きない,(2)言明に自性がある場合,一切が空であるのに対し言明だけ空でない ことになる,という矛盾を前提に展開される. この六句議論研究に関する問題点は,テキストの問題と解釈の問題に大別する ことができる.その詳細は既に前稿(児玉2019)で論じたが,強調すべきは,解 釈の問題を扱う先行研究において,テキストの問題が十分に検討されていないと いう点である1).そこで前稿では,梵本の読解に基づいて六句議論の構成を考察

し,Johnston & Kunst校訂本(1948–1951, 以下JK本)による第2句の訂正を不要であ

ると指摘した.本稿では,JK本が訂正の根拠とする漢訳の六句議論を取り上げ, 梵本の六句議論との論脈上の異同を明らかにする.これにより,JK本による訂 正の是非について更なる検討を行いたい. 2

.梵本における六句議論

まず梵本における六句議論の構成について,その要点を確認しておこう2).下 線で示した箇所が,JK本の訂正箇所と対応する.筆者は当該箇所を写本に従っ て理解している. (1)一切が空ならば言明も空であり,「一切は空である」という否定は妥当で ない.(2)「一切は空である」という否定が妥当ならば,言明も空であり否定が できない.(3)一切が空で言明が空でないならば,言明は一切に含まれず喩例と の相違になる.(4)言明が一切に含まれて,一切が空ならば,言明は空であり否 定ができない.(5)言明が空で否定もあるならば,空なるものが因果効力をもつ

(2)

(126) ― 981 ― 漢訳『 諍論』の六句議論解釈(児 玉) ことになるが,それは認められない.(6)一切が空で因果効力をもたないならば, 空なる言明は自性を否定できない. 山口1950, 7–9が指摘する通り,六句議論は肯定と否定の対句で構成されると 考えることができる.第1–2句では,「一切は空である」という否定が妥当か否 か,といった文の妥当性の観点から,肯定と否定いずれの場合も空なる言明は否 定ができないことが示されている.同様に,第3–4句は言明が一切に含まれるか 否か,という遍充関係のような論理的レベルから,また第5–6句は空なるものが 因果効力をもつか否か,という存在論的なレベルから,それぞれ肯定と否定の対 句が構成されている.そして,これら3組いずれも,前の句の帰結に対して後の 句が反対の内容を条件節としている点が指摘できる. 一方JK本では,漢訳に従って第2句を以下のように訂正し,その帰結を「空 でない」とする.

upapannaś cet punaḥ śūnyāḥ sarvabhāvā iti pratiṣedhas, tena tvadvacanam apy aśūnyam, aśūnyatvād3) anena pratiṣedho nupapannaḥ.

【訳:】しかし,もし「一切のものは空である」という否定が妥当であるならば,したがっ て,あなたの言明も空でない.空でないから,これ(言明)による否定は妥当でない. これに基づけば,第2句では「空でない」という理由から「否定できない」と いう結論が導出されてしまう.よって,冒頭で述べた(1)空なるものは自性を 否定できない,という六句議論の前提と矛盾する結果になる.「否定ができるな らば空ではない」という論点は,第5–6句で述べられる因果効力をめぐる議論を 先取りしているといえるのではないだろうか. 3

.漢訳における六句議論

上記,JK本の訂正の根拠となった漢訳は,六句議論をどのように理解し,翻 訳しているのであろうか.ここでは問題となる第2句も含め,漢訳の六句議論全 体の論脈を確認していきたい4).なお,句の番号は筆者による補いである. T1631, 15c4–15: (1)汝説一切諸法皆空,則語亦空.何以故,言語亦是一切法故.言語若空, 則不能遮.彼若遮言一切法空,則不相応.(2)又若相応言語能遮一切法体,一切法空語則 不空.(語若不空遮一切法則不相応.(3)若諸法空言語不空,語何所遮.又)5)若此語入一 切中喩不相当.(4)若彼言語是一切者,一切既空,言語亦空.若言語空,則不能遮.(5) 若語言空(諸法亦空)6),以空能遮諸法令空,如是,則空亦是7)因縁.是則不可.(6)又若

(3)

(127) ― 980 ― 漢訳『 諍論』の六句議論解釈(児 玉) 汝畏喩不相応一切法空8)能作因縁,如是,空語則不能遮一切自体. 【訳:】(1)[もし]あなたが,一切の諸々のものはみな空であると説くならば,言明もま た空である.なぜならば,言明もまた一切のものであるから.もし言明が空ならば,否定 することはできない.もし否定して「一切は空である」というならば,妥当ではない.(2) またもし妥当であって,言明が一切のものの実体を否定するなら,一切のものが空であっ ても,言明は空ではない.もし言明が空でなく,一切のものを否定するならば,妥当しな い.(3)もし諸々のものが空で言明が空でないならば,言明によって何が否定されるのか. またもしこの言明が一切に含まれるならば,喩例と一致しない.(4)もしその言明が一切 ならば,一切は既に空なのだから,言明もまた空であろう.もし言明が空ならば,否定す ることはできない.(5)もし言明が空で諸々のものも空であり,空をもって諸々のものを 否定し,空ならしめるならば,空でありかつ原因である.しかし,これはありえない.(6) またもしあなたが喩例との不一致をおそれて,一切のものは空であり原因となると説くな らば,空なる言明は一切の自性を否定することができない. まず第1–2句では,否定が妥当か否かという観点からの対句は成立している が,前述の通り第2句の帰結が「空でない」となっている.続いて第3句は,梵 本にはない補いがなされているほか,内容として2つの文に分かれている.この 点に関して,梵本の六句議論との差異が指摘できよう.次に,第4句では言明が 一切に含まれるか否かについて,第3句と同じ「言明が一切である」ということ を条件節に置いており,第3–4句は肯定と否定の対にはならない.同様に,第 5–6句いずれも,空なるものが「原因である/原因となる」という肯定文になっ ており,肯定と否定の対にはなっていない.  漢訳の六句議論についてまとめると,梵本との差異として(1)第3句が2つの 内容の文に分かれていること,(2)第1–2句は肯定と否定の対句になっているも のの,第3–6句は,すべて肯定文を条件節に置く句のみで構成される,という2 点が指摘できる.以上のことから,梵本の六句議論は現行のテキストにおいて, その論脈を保たれずに漢訳されているといえるだろう.  4

.結論

以上,『 諍論』六句議論におけるテキストの問題について述べてきた.漢訳 の六句議論は,第2句だけではなく,全体の論脈からして梵本の六句議論とは異 なった解釈をしていることが明らかとなった.その中で,第2句の一部だけを漢 訳から梵本の六句議論に適用することは困難である.よって,漢訳を根拠とする JK本の訂正は適切ではなく,JK本に基づいた既往の六句議論研究もまた再検討 されなければならない. 

(4)

(128) ― 979 ― 漢訳『 諍論』の六句議論解釈(児 玉) 1)JK本の問題点については,米澤(1991)も論じている.しかし,六句議論とニヤーヤ 学派のṣaṭpakṣīとの比較を行う梶山(1984),原田(1976)や,『方便心論』との比較を行 う石飛(2006)はJK本に従っており,当該箇所の訂正については論じられていない.    2)六句議論全文の原文および検討結果の詳細は,児玉2019, 183–178を参照されたい.    3)MS(1b6) tvadvacanaśūnyatvāt.   4)漢訳『 諍論』には多くの問題点があり,宮元 校訂本(1999)は多数の訂正や補いを行っている.ただし,本稿では宮元校訂本による訂 正は 記するにとどめ,大正新修大蔵経に基づいて読解する.   5)訳者の付加であ るとして除かれる(宮元1999, 76, 13).   6)同上(宮元1999, 76, 16).   7)能作 を補う(宮元1999, 76, 16).   8)不を補う(宮元1999, 76, 17). 〈一次文献〉

Vigrahavyāvartanī-vṛtti). Johnston and Kunst 1948–1951を参照.写本:『チベット・ウメ字転 写梵文写本集成影印版』大正大学.

『 諍論』1巻,龍樹菩 造,後魏三蔵毘目智仙共瞿曇流支訳.大正新脩大蔵経第32巻, no. 1631; 宮元1999を参照.

〈二次文献〉

Johnston, Edward Hamilton and Kunst, Arnold. 1948–1951. The Vigrahavyāvartanī of Nāgārjuna with the author s commentary. Mélanges chinois et bouddhiques 9: 99–152.

石飛道子2006『龍樹造「方便心論」の研究』山喜房佛書林.

梶山雄一1984「仏教知識論の形成」『認識論と論理学』講座大乗仏教9,春秋社,1–101. 児玉瑛子2019「『 諍論』六句議論における問題点」『大正大学大学院研究論集』43: 188–

167.

原田覚1976「Ṣaṭkotiko vādaḥとṢaṭpakṣīkathā」『印度学仏教学研究』24(2): 63–67. 宮元啓一1999「新校訂本漢訳『 諍論』」『国学院大学紀要』37: 73–100. 山口益1950「 諍論の 釈的研究(一)」『密教文化』8: 1–17.

米澤嘉康1991「『 諍論』のテクストについて」『印度学仏教学研究』40(1): 412–410. 〈キーワード〉 Vigrahavyāvartanī, 諍論,ṣaṭkoṭiko vādaḥ, Nāgārjuna

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