『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 抄録 『釈摩訶衍論』は修行論として、 止観の法門を重視する論を展開する。修行者にとって魔事は克服すべき課題であり、 『釈摩訶衍論』の論主にとっても念頭から離れることはなかった。 「広釈魔事対治門」では、魔・外道・鬼・神の四種の 仮人について詳細な考証が施されている。 中でも修行者を迷わせる外道に多方面からの検討がみられる。 『大乗起信論』 の 注 釈 書 で あ る 元 暁 の『 起 信 論 疏 』 に は、 諸 魔 を 天 魔、 鬼 を 堆 つい 愓 ちょう 鬼 き 、 神 を 精 しょう 媚 み 神 しん と す る。 法 蔵 の『 大 乗 起 信 論 義 記 』 は元暁の解釈を引き継ぐ姿勢を窺わせる。報告では、止観の修行に注目した『釈摩訶衍論』の論主の趣旨に迫ることに した。 一、問題の所在 二、善根力の五具(事) 三、仮人としての魔・外道・鬼・神 四、元暁の『起信論疏』に説かれる堆惕鬼・精媚神と対治、そして『釈論』 五、魔・外道・鬼・神と六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天) =< 顕示所作業用門 > 六、外道の諸相(天像・菩薩像・如来像)= < 別相所作業用門 >
『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について
︱︱ 「広釈魔事対治門」を中心として ︱︱中
村
本
然
智山学報第六十七輯 七、天像・菩薩像・如来像の正邪 八、外道所説の陀羅尼・六波羅蜜行・涅槃= < 出現言説乱識門 > 九、外道の三昧と真の三昧(真如三昧) 十、元暁の九種の心住の階梯と空海の十住心の階梯 十一、 『秘密曼荼羅十住心論』 ・『秘蔵宝鑰』にみる外道 十二、まとめ
一、問題の所在
『釈摩訶衍論』 (後に『釈論』と略す)は修行論として、止観の法門を重視する論を展開する。取り分け修行者にとっ て魔事は克服すべき課題として、 論主にとっても念頭から離れることはなかった。 「広釈魔事対治門」には、 魔・外道・ 鬼・神の四種の仮人について詳細な考証が施されると共に、特に修行者を迷わせる外道に多方面からの検討が試みられ ている。 『大乗起信論』 (後に『起信論』と略す)の注釈書である元暁( 617-686 )の『起信論疏』 ① には、 諸魔を天魔、 鬼 を 堆 愓 鬼、 神 を 精 媚 神 と す る。 法 蔵( 643-712 ) の『 大 乗 起 信 論 義 記 』( 後 に 義 記 と 略 す ) ② は 元 暁 の 解 釈 を 引 き 継 ぐ 姿勢を窺わせる。報告では、止観の修行に注目した『釈論』の論主の趣旨に迫ることにしたい。二、善根力の五具(事)
『釈論』 所説の 「広釈魔事対治門」 は、 第一略説略示総持門・第二広説広示散剖門に開かれる。第一略説略示総持門は、 ㈠衆生勝劣不同門・㈡能作障事仮人門・㈢顕示所作業用門・㈣顕示対治行法門・㈤因治之力得益門の五門から構成され ている ➂ 。 ㈠ 衆 生 勝 劣 不 同 門 に は、 因 縁 具 足 の 衆 生 と 因 縁 闕 欠 の 衆 生 を 明 示 し、 『 起 信 論 』 に い う 衆 生 に 備 わ る「 善 根 力 」 の 内『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 実を補完している。即ち衆生は①信具 (深く愛楽する) 、②人具 (能く守護する) 、 ➂ 法具 (能く正邪の区別を通達する) 、 ④ 時 具( 応 に 随 う て 当 た る )、 ⑤ 性 具( 真 性 具 有 ) を 具 足 す る。 因 縁 闕 欠 の 衆 生 と は 前 の 四 事( 具 ) を 闕 す る 衆 生 の こ とである。 『釈論』 は衆生は本より真性を有しているが、 信具等を欠落することによって迷いから離れられないと論じる。 このように善根力の具体的な提示が『釈論』の特徴となっている。同時に論主は衆生本具の真性を鮮明にすることにつ とめている。 因縁具足の衆生について、宥快( 1345-1416 )は『釈摩訶衍論鈔』に 「 一 者 信 具。 深 愛 楽 故 文 。 是 れ は 初 め に 信 心 具 足 を 明 か す。 信 は 深 忍 楽 欲 の 義 な る 故 に。 <中 略 >二 者 人 具 等 文 。 是 れ は 善 知 識 の 人、 行 者 を 守 護 す る 意 な り。 < 中 略 > 三 者 法 具 等 文 。 是 れ は 聖 教 を 鏡 と し て 邪 を 破 し 正 を 顕 わ す 義 な り。 <中略 >四者時具 等文 。一義に云わく。 教法流布の時を指す。 <中略 >五者性具 等文 。是れは真如仏性を具足する義なり」 ④ とし、①信具とは信心具足すること、②人具とは善知識が修行者を守護すること、 ➂ 法具とは聖教を規範とし、破邪顕 正すること、④時具とは真の教法が流布すること、⑤性具とは、真如仏性を具有することに解する。
三、仮人としての魔・外道・鬼・神
㈡能作障事仮人門では、衆生に四事を喪わせ、修行を妨げる仮人として、魔・外道・鬼・神の四種を開設する。魔と 及び外道に関して、魔は悪事を作さしめ、外道は善事を捨てさせると識別する。また鬼と神については、身体を障礙さ せるのを鬼とし、心を障わせるのを神と区別する。 「 次 に 能 作 障 事 仮 人 門 を 説 か ん。 障 を 作 す 仮 人、 無 量 な る こ と 有 り と 雖 も 而 も 四 を 出 で ず。 云 何 が 四 と 為 る。 一 に は魔、二には外道、三には鬼、四には神なり。是れを名づけて四と為す。言う所の魔とは、四種の大魔と三万二千 の眷属の魔衆となり。外道と言うは九十六種の諸の大外道と九万三千の眷属の外道となり。言う所の鬼とは十種の智山学報第六十七輯 大鬼と五万一千三百二種の諸の眷属の鬼となり。言う所の神とは十五の大神と五万一千三百二種の諸の眷属の神と なり。是くの如くの諸類は、一切皆悉く正教を礙乱して非道に向かわしむるが故に邪道と名づく。魔及び外道の名 義差別は出現経の中に分明に説くが故に。且らく略して釈せず。鬼及び神の事は出現経の中に分明なること無き故 に、更に釈を造作して綱要を略説すべし。 」 ⑤ 魔には煩悩魔・陰魔・死魔・他化自在天魔の四大魔と三万二千の眷属がある。外道には九十六種の大外道と九万三千 の眷属。鬼には十種の大鬼と五万千三百二種の鬼、神には十五種の大神と五万千三百二種の神を存在を謳う。鬼と神に 関 し て は、 『 出 現 経 』 に は 分 明 で は な い。 そ の た め『 釈 論 』 は 自 ら の 解 釈 で 補 う こ と に な り、 こ こ に 論 主 の 意 図 が 凝 縮 されている。 『釈論』は十種の鬼について、次のように述べる。 「 十 鬼 と 言 う は、 名 字 云 何。 一 に は 遮 毗 多 提 鬼。 二 に は 伊 伽 羅 尸 鬼。 三 に は 伊 提 伽 帝 鬼。 四 に は 婆 那 鍵 多 鬼。 五 に は爾羅爾梨提鬼。 六には班尼陀鬼。 七には阿阿彌鬼。 八には闍佉婆尼鬼。 九には多阿多伊多鬼。 十には 搥 つい
愓
ち ょ う 鬼なり。 是れを名づけて十と為す。是くの如くの十鬼の用、各云何。若し第一の鬼は或いは昼の境を作し、或いは夜の境を 作し、或いは日月及び星宿の境を作し、或いは節の境を作し、応さに随うて変転す。若し第二の鬼は種種の香味と 種種の衣具と種種の草木との境を作して、応さに随うて変転す。若し第三の鬼は地水火風の境を作して、応さに随 うて変転す。 若し第四の鬼は飛騰境を作して、 応さに随うて無礙なり。 若し第五の鬼は諸の根識閉開の境を作して、 応さに随うて無礙なり。若し第六の鬼は六親眷属の亦有亦無の境を作して、応さに随うて無礙なり。若し第七の鬼 は老少の境を作して、応さに随うて無礙なり。若し第八の鬼は有智無智の境を作して、応さに随うて無礙なり。若 し第九の鬼は無有の境を作して、応さに随うて無礙なり。若し第十の鬼は蝎蝿蟻龍虎狼師子の種種の音声等の境界 を作して、応さに随うて無礙なり。是れを名づけて因と為す。是くの如くの諸用は各何の力に因りてか、而も成就 することを得る。各三事に因りて而も成就することを得。云何が三と為る。一には師、二には教、三には習なり。『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 師は謂わく教人、教は謂わく所学、習は謂わく宿熏なり。是れを名づけて三と為す。是くの如くの十鬼は恒に一切 の時に相い捨離せず。倶行倶転して障礙の事を作す。用の名字は増に従えて建立す。第一の称の如し。 」 ⑥ 初めに遮 毗 多提鬼は昼や夜の世界を境涯とし、日月及び星宿などを演出する。また春夏秋冬などの季節を自らの心境 として変転せしめる。第二の伊伽羅尸鬼は多様な香りや味わい、種種の衣具や様々な草木の相を現じて変転させる。三 番目の伊提伽帝鬼は地・水・火・風の境界を造作して変転せしめる。続く第四の婆那鍵多鬼は飛騰の境地を自由無礙に 行う。第五の爾羅爾梨提鬼は眼耳鼻舌身意などの六根や六識を自在に開閉せしめ操る。六つめの班尼陀鬼は、父母兄弟 妻子などの六親の眷属を自由無礙に生じたり滅したりする。七の阿阿彌鬼は老少即ち老人や幼児の境を無礙自在に演じ る。 第 八 の 闍 佉 婆 尼 鬼 は 有 智 < 智 者 > や 無 智 < 愚 者 > の 境 地 を 自 在 に な さ し め る。 九 の 多 阿 多 伊 多 鬼 は 諸 法 の 空 無 ま た は 空 有 の 境 涯 を 現 出 せ し め る。 最 後 に 十 の 搥 愓 鬼 は 蝎 < さ そ り >・ 蝿・ 蟻・ 龍・ 虎・ 狼・ 師 子 な ど の 種 種 の 音 声 等 を 無 礙 になさしめる。これらの十種の鬼は、あらゆる時や状況において相い離れることなく、倶行倶転して障礙をなす。それ らの作用は教人である師、所学の教、宿熏の習の三事によって成就せしめると説明する。 十五種の神について『釈論』は左記のように紹介する。 「 十 五 の 神 と は 名 字 云 何。 一 に は 筏 羅 羅 鍵 多 提 神。 二 に は 阿 只 陀 彌 梨 尼 神。 三 に は 補 多 帝 陀 訶 訶 婆 神。 四 に は 闍 毗 摩只尼神。五には那多婆奢神。六には多多地地神。七には阿里摩羅神。八には尸刄尼帝婆竭那神。九には班彌陀羅 鄔 多提神。 十には 唵唵 吟吟神。 十一には阿阿訶帝神。 十二には修利彌尼神。 十三には頭頭牛頭神。 十四には婆鳩神。 十 五 に は 精 し ょう 媚 み 神。 是 れ を 十 五 と 名 づ く。 此 の 十 五 の 神 の 用、 各 云 何。 若 し 第 一 の 神 は 聡 明 の 境 を 作 し、 若 し 第 二 の神は闇鈍の境を作し、若し第三の神は楽有光明の境界を作し、若し第四の神は楽空光明の境界を作し、若し第五 の神は浮散の境を作し、若し第六の神は専注の境を作し、若し第七の神は悪空善有の境界を作し、若し第八の神は 一 切 覚 者 の 境 界 を 作 し、 若 し 第 九 の 神 は 我 覚 他 惑 の 境 界 を 作 し、 第 十 の 神 は 具 さ に 修 行 せ ざ る の 境 界 を 作 し、 第 十一の神は無の無境を作し、第十二の神は速かに進退するの境界を作し、第十三の神は移転の境を作し、第十四の
智山学報第六十七輯 神は堅固の境を作し、第十五の神は応時の境を作し、是くの如くの十五の大神王は恒に一切の時に相い捨離せず。 倶行倶転して而も礙事を作して、行者を悩乱す。 」 ⑦ 第一の筏羅羅鍵多提神は聡明の境地を演じる。二の阿只陀彌梨尼神は闇鈍の境界を作す。三の補多帝陀訶訶婆神は光 明の世界を楽しませ、好ましめる。四の闍 毗 摩只尼神は楽空光明の境界を作し、光明の空なる世界を楽しませる。五の 那多婆奢神は散漫なる状況にならしめ、 六の多多地地神は専注の境地を現出させる。 七の阿里摩羅神は空実の相を厭い、 実有の相を善とする。八の尸刄尼帝婆竭那神はあらゆる覚者の境界を演出する。九の班彌陀羅 鄔 多提神は我覚他惑即ち 自らは悟りの境地を提示し、他者は惑乱ならしめる。十の唵唵吟吟神は懈怠の境地を顕示して、修行や精進しようとし ない。十一の阿阿訶帝神は無の無境を作させしめる。十二の修利彌尼神は速かに進退する境界即ち素早く精進すると共 に速やかに懈怠ならしめる。十三の頭頭牛頭神は移転の境を作すとある。即ち一定の境地に住することなく移り変わる 心境を示す。十四の婆鳩神は頑なに堅固の境地に住する。十五の精媚神は応時の境とされるように、時節や状況に応じ て変化する。このように十五種の神は、あらゆる時に相い捨離することなく、倶行倶転して障碍を生じ、修行者を悩乱 せしめるのである。
四、元暁の『起信論疏』に説かれる
堆惕
鬼・
精媚
神と対治、そして『釈論』
『釈論』が開示する十種の鬼や十五種にも及ぶ神の中で、 搥(堆) 愓鬼並びに精媚神については、 元暁の『起信論疏』 に注釈が施されている。「
堆
惕
鬼
は、
或
い
は
虫
蝎
の
如
く
に
し
て。
人
の
頭
面
を
縁
じ
て。
攅
刺
し
て
た り。
或
い
は
復
た
人
の
兩
掖
の
下
を撃
攊
し。
或いは乍ちに人を抱持して。
或いは言説音聲喧喧として。
及び諸獸之形を作して。
異相にして
一に非ず。
來りて行者を悩ますれば。
則ち應に目を閉じ一心に憶して是くの如くの言を作すべし。
我今を
識れり。
汝は是れ此の閻浮提の中に火臭香を食する偸臘吉支なり。
即ち汝を見る。
汝は破戒の種を喜ぶ。
『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村)
我今持戒して。
終に汝を畏れず。
若し出家の人は。
應に戒律を誦ずべし。
若しは在家の人は。
應に菩薩戒
本を誦ずべし。若しは三歸五戒等を誦ずべし。鬼便ち却行匍匐し出ん也。
精媚神とは。謂わく十二時の狩の。能く變化して、
種種形色を作し、
或は少男女の相を作し。或いは老宿
之形。
及び可畏の身等を作し。
一に非ず。
衆多にして。
行者を惱亂し。
其れ人の悩ませんと欲するに。
各、
當に其時に当たって來たる。
若し其の多くは寅時に於いて來たる者は。
必ず是れ虎
兕
等なり。
多く卯の時
に於いて來たる者は。
必ず是れ兔
獐
等なり。
乃至多く丑の時に於いて來たる者は。
必ず是れ牛類等なり。
行者、
恒に此の時を用いて。則ち其の狩の精媚を知りぬ。其の名字を説きて呵嘖せば。即ち當に謝滅すべ
し。此等皆、禪經に廣く説ける如し。上來略説魔事對治。
」
⑧ 元 暁 に よ る と堆
惕
鬼
は、
虫
蝎
の
よ
う
で
あ
り、
時
に
人
の
頭
や
顔
面
に
群
が
り
刺
し、
腋
の
下
を
撃
ち、
人
を
抱
え
持
つ
こ
と
を
す
る。
ま
た
言
説
や
音
声
が
喧
し
く、
様
々
な
野
獣
の
形
相
と
な
っ
て
異
相
を
呈
し
て、
修
行
者
を
悩
乱
せ
し
め
る。
こ
の
堆
惕
鬼
に
対
し
て
は、
眼
を
閉
じ
て
心
を
乱
さ
れ
る
こ
と
な
く、
次
の
よ
う
な
言
葉
を
唱
え
る
べ
き
と
い
う。
我(
私
)
は
よ
く
領
解
し
て
い
る。
堆
惕
鬼
よ、
汝
は
閻
浮
提
の
中
に
あ
っ
て、
火
臭
香
を
食
す
る
偸
臘
吉
支
で
あ
り、
破
戒
を
喜
び
と
し
て
い
る。
と
こ
ろ
で
我
は
戒
を
保
っ
て
い
る
の
で
汝
を
畏
れ
る
こ
と
は
な
い。
出
家
の
者
は
戒
律
を
誦
じ、
在
家
の
者
は
菩
薩
戒
本
を
誦
じ、
仏
法
僧
の
三
宝
に
帰
依
し
不
殺
生
等
の
五
戒
を
唱
え
る
べ
き
で
あ
る。
す
る
と
た
ち
ど
こ
ろ
に
堆
惕
鬼
は
退
却することになろう。
また精媚神については、十二時に、しばしば様々な形相に変化して修行者を悩乱させる。例えば若い男女に変貌し、 時に老人の姿となり、或いは恐ろしい身体となり、決して一相であることはない。その多くは寅の刻(午前四時)には虎
と
水
牛
等
の
姿
を
と
り、
卯
の
時
( 午 前 六 時 )に
は
兔
獐
等
に
な
り、
丑
の
時
刻
( 午 前 二 時 )に
は
牛
類
に
変
容
す
る。
修行者が何の時であるかを把握することにより、
精媚神の形相を知ることができるので、 その名字の所以を解いて、 叱咤するように言い聞かせて退散させることである。尚、森田龍僊氏は『釈摩訶衍論之研究』で、十の 搥 愓鬼・十五の智山学報第六十七輯 精媚神については『治禅病秘要法』や『摩訶止観』に散見すると指摘する。 ⑨ 『起信論疏』には
堆惕鬼・
精媚神の紹介に先立って、諸魔鬼神を追い遣る方法を詳述する。
「
次
に
對
治
を
明
す。
若
し
能
く
思
惟
前
の
諸
塵
の
如
き
は。
唯
だ
是
れ
自
心
の
分
別
の
所
作
な
り。
自
心
之
外
に。
別
に
塵相無しと思惟して。
能く是の念を作せば。
境相即ち滅す。
是れ通じて諸魔鬼神を遣る之法を明かす。
別
門にして言わば。各、
別法有り。謂わく諸魔を治すとは、
當さに大乘の諸の治魔の呪を誦じ咀して之れを
念誦すべし。
」
⑩ と論じ、様々に去来する想いは、ひと重に自心の分別の顕れであり、自心を離れて諸塵の相は無いと思念するならば、 諸の境涯は忽ち消失する。これこそが諸の魔・鬼神を遣る方法である。また別門として、大乗仏教に説かれる種々の治 魔の呪文を誦じ、咀嚼して念誦すべきである、と呪文による対治の法について言及している。 さて『釈論』である。魔・外道・鬼・神の四種仮人による障碍について、随順随転対治・相逆相違対治・倶行対治・ 倶非対治による対治を提案する。 「 是 く の 如 く の 四 障、 当 さ に 云 何 が 対 治 す べ き。 此 の 中 の 対 治 に 即 ち 四 種 有 り。 云 何 が 四 と 為 る。 一 に は 随 順 随 転 対治。二には相逆相違対治。三には倶行対治。四には倶非対治なり。 随順随転対治と言うは即ち是れ無礙自在対治なり。 所謂若し彼の外人、 是くの如くの事を作して行者の心を乱さば、 所乱の行者即ち是の念を作すべし。無始従り来、此の事是くの如くなれども終いに破せざる事なり。所以何となれ ば、是くの如くの諸見は本有本覚の自家の実徳にして過患に非ざるが故に。若し是の解を作せば、諸の邪見の類、 伏従して化の如し。所以何となれば、見の増損に随うて無漏の性徳、亦た大小なるが故に。是れを随順随転対治と 名づく。 相逆相違対治と言うは則ち是れ簡択別相対治なり。 所謂若し彼の外人、 是くの如くの事を作して行者の心を乱さば、 所乱の行者則ち方便を求めて逆廻し違移し相反し相違して、簡択せしむるが故に。是れを相逆相違対治と名づく。『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 倶行対治と言うは即ち是れ具足倶転対治なり。所謂一時に逆と順との二の治を具足して離れずして転ずるが故に。 是れを名づけて倶行対治の相と為す。 倶非対治と言うは即ち是れ無念無依の対治なり。所謂一切の法に於いて所念有ること無く、所慮有ること無く、所 着有ること無く、所求有ること無し。其の心、寂静にして無住に住するが故に。是れを名づけて倶非対治の相と為 す。 是くの如く対治の相は、 後の文中に於いて説相明かなるが故に。 此の決択の中には略去すまくのみ。 本の如し。 即ち諸魔外道鬼神の為と云うが故に。 」 ⑪ 中 国 遼 代 の 学 僧 で あ る 通 法( 1062-1099 頃 ) の『 釈 摩 訶 衍 論 賛 玄 疏 』( 後 に『 通 法 疏 』 と 略 す ) に は、 ま ず 随 転 対 治 に ついて、外道による過患の法もすべて本覚の性徳と了解して対処する。二の相逆相違対治では、外道の所現を外道は正 とし、我(自身)は邪と判ず。即ち日光が出ることにより、霜が消失するように闇は滅する。三つめの倶行対治とは、 まず前に慈心をもって徳とし、後に智心をもって失と観想する。つまり慈心と智心を逆観・順観によって同時に観想す る。そして四の 俱 非対治とは一切法において所念なく所慮なく執着なく所求もない寂静なる無住に住することを論じて いる。 ⑫ 宥快の『釈摩訶衍論鈔』には、左記のような理解を示す。 「 第 一 は 本 覚。 第 二 は 始 覚。 第 三 は 始 本 不 二。 第 四 は 所 入 の 一 心 に 約 す と 分 別 す。 一 義 に は 第 四 の 倶 非 対 治 は 真 如 門なるべしと義を取る。 」 ⑬ 要するに、随順随転対治は本覚門の対治、相逆相違対治は始覚門の対治、倶行対治は始本不二門の対治にして、これ ら三つはともに生滅門の対治であり、倶非対治は真如門の対治法である。 森 田 龍 僊 氏 は 四 種 の 対 治 に つ い て、 普 観( 宋 代、 生 没 年 不 詳 ) の『 釈 摩 訶 衍 論 記 』( 後 に『 普 観 記 』 と 略 す ) を 参 考 に解釈を施こしている ⑭ 。はじめに随順随転対治について 「怨親平等、 魔仏一如とてらし、 本覚心中の功徳宝と観ずる。または無礙自在対治といひ、 即ち本覚門の見地に立っ
智山学報第六十七輯 て妄即真と大観する慈心対治これであり」 ⑮ と釈明する。続く相逆相違対治は 「 始 覚 智 に よ っ て 邪 正 を 分 別 し、 偏 著 の 念 を 制 し て 中 道 の 正 見 に 住 す る を い ふ。 故 に ま た は こ れ を 簡 択 別 相 対 治 と いひ、即ち前の慈心対治に対する智心対治である。 」 ⑯ とする。また倶行対治は 「 こ れ は 前 の 二 法 を 併 用 す る 慈 智 平 等 の 対 治 法 に し て、 又 は 具 足 倶 転 対 治 と も い ふ。 即 ち 内 心 は 平 等 の 大 慈 に 住 し つつ外相は毅然たる降伏的の態度にいづるのであり」 ⑰ と述べる。第四の倶非対治に関しては 「 こ れ は 順 逆 得 失 を 離 れ、 差 別 平 等 を 泯 ず る 無 念 寂 静 の 対 治 法 な る が 故 に、 又 は 無 念 無 依 対 治 と も 名 づ け、 こ れ 即 ち最上乗の対治法である。 」 ⑱ と解説している。さて『普観記』には 「初無礙自在対治。此れ慈を以て順認、功徳となす、是の故に名づけて随順随転と為す。 〈中略〉揀択別相対治。此 れ智を以て過失を作す想いを拒み、従順ならすべからざるが故に反違と言う。三具足倶転対治。此れ慈智平等を以 て順違同時得失一味を観察するが故に。四無念無依対治。此れ既に無念なり。 」 ⑲ と言及している。随順随転対治を無礙自在対治と別称し、慈の心によって対処すべきという。二つ目の相逆相違対治を 揀択別相対治と別称し、智慧によって過患の法に対処すべきと説く。さらに倶行対治を具足倶転対治と称し、慈心と智 心の平等一如によって対処すべきとする。そして倶非対治を無念無依対治と別称し無念を観想することと釈明する。
五、魔・外道・鬼・神と六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人・天)
=<
顕示所作業用門
>
顕示所作業用門は、総相門と別相門(=別相所作業用門)に大別して論述される。総相門はさらに総相所作業用門・『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 通達対治行法門に開かれる。ともあれ二種の観点から包括的に魔・外道・鬼・神を扱う。 まず総相所作業用門では、 四種仮人である魔・外道・鬼・神が関わる階層についての論究がみられる。 鬼や神は地獄・ 餓鬼・畜生・阿修羅の四種道の相をそれぞれ造作して行者を悩乱せしめ、魔は天道の様相を造作するという。また外道 は六道中の人間界の形相を演出して修行者を惑乱せしめる。 続く通達対治行法門では、六道輪廻に導く魔・外道・鬼・神に対する対応として、あらゆるものは心の本源である真 如そのものであり平等であると観念し瞑想することが強調される。 「 次 に 通 達 対 治 行 法 門 を 説 か ん。 謂 わ く 衆 生 有 り て、 是 く の 如 く の 観 を 作 す。 一 切 の 諸 法 は 唯 一 心 量 に し て 心 外 の 法無し。已に外の法無ければ、豈に一心の法と一心の法と障礙の事を作し、亦た一心の法と一心の法と解脱の事を 作さんや。障礙有ること無く、 解脱有ること無き、 一心の法は一即ち是れ心、 心即ち是れ一なり。一に別の心無く、 心に別の一無し。一に法界を摂し、心に法界を摂す。無量無辺の妄想の境界、寂静にして起すること無く、中中に して相を離れたり。 一切の諸法は平等一味にして一相無相なり。 一種の光明を作す。 心地の海には風風永く止んで、 波波尽く住まる。是れを通達対治の相と名づく。所以何となれば一切の行者、若し此の対治門に帰せざれば、以て 邪道を摧き謬執を伏すること無きが故に。 」 ⑳ 外道の幻術に惑乱されないように、次のように観想を修すことを示唆する。諸法は唯一なる心量の顕れであり、心の 外に別の法は存在しない。心外無諸法であるから、どうして一心の法に障礙や解脱の状況が生じることがあろうか。一 心の法は本より障礙や解脱の相から離れており、一なる心であり、法界そのものである。従って無量無辺の妄想の境界 も本来寂静にして起滅することはなく、あらゆる相を離れている。一切の諸法は平等にして一味であり、一相にして無 相である。一種の光明を生じることである。心の本源の海には無明の風は永く止んで波立つことはない。あらゆる修行 者がこのような境地に達するならば、邪道は砕かれ、殊更に誤謬や執着を克服することもない。
智山学報第六十七輯
六、外道の諸相(天像・菩薩像・如来像)=
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別相所作業用門
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別相所作業用門は、特に人間界を混乱せしめる外道の所業とそれに対する対処法を詳述する。別相門は、⑴出現人相 令信門・⑵出現言説乱識門・⑶得三世智惑人門・⑷不離世間縛纏門・⑸心性無常生乱門・⑹令得邪定非真門・⑺勧請行 者 離 邪 門・ ⑻ 簡 択 真 偽 令 了 門 に 開 か れ る ㉑ 。 ま ず ⑴ 出 現 人 相 令 信 門 は、 外 道 が A 天( 人 ) 像・ B 菩 薩( 人 ) 像・ C 如 来 (人)像の三種の相を現出して修行者を幻惑させることを明かす。外道は、 天・菩薩・如来の三種の像を造作する際に、 六 種 の 門 < 方 法・ 手 段 > を 用 い る。 六 種 の 門 と は 1 造 像 門・ 2 祷 祀 門・ 3 神 咒 門・ 4 誦 経 門・ 5 阿 呼 門・ 6 勧 請 門 で あ る。造像門は、天・菩薩・如来の何れかの像を用いて、時処に随い諸像を造作する。祷祀門では、天・菩薩・如来それ ぞれ種種の飲食とあらゆる衆生の身命の祀事を行う。神咒門とは、天・菩薩・如来それぞれの像に随い、処に応じて陀 羅尼を誦じる。誦経門とは、 『八陀多経』 等の諸経を読誦する。阿呼門とは、 天・菩薩・如来それぞれの所作に応じて 「阿 呼阿」という言語を依用し、他の言語を用いない。勧請門とは、天・菩薩・如来等は自らが信奉する世尊、例えば大自 在天や梵天などに向かって神力を勧請することが論じられる。 ㉒ A外道の天像(造作天像差別門)から検証することにしたい。 1造像門。 まず天像の造作には、 ➀ 頭②面③眼④耳⑤鼻⑥舌⑦身⑧手⑨足を陀羅尼呪を誦じて造像し、続いて⑩心識を備えるた め の 陀 羅 尼 を 誦 じ て か ら、 掲 那 羅 字 輪 を 布 置 し て 観 想 す る こ と が 記 載 さ れ る。 天 像 の 造 作 は、 ③ 眼 の 像 か ら 始 め ら れ ⑨足の造作まで、いずれの場合も神咒一万八千遍を誦じることが説かれる。 「造像と言うは、 其の相云何。且らく天像を作す時の中には、 当さに如何んがすべきや。謂わく頭、 面、 眼、 耳、 鼻、 舌、身、手、足の此の九種の処の中に、各各に一万八千遍陀羅尼咒を誦じて此の処を成立す。 」 ㉓ まず③眼像を造作するには、『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 「 遮 阿 那 尸 帝 筏 鄔 多 阿 阪 婆 阿 阪 叉 婆 帝 跋 逃 帝 多 陀 陀 那 尸 婆 尸 叉 那 鄔 咤 鄔 堺 尸 囉 囉 囉 囉 囉 囉 囉 囉 囉 諾 諾 諾 諾 諾 諾 諾 諾 諾跋多跋多帝佉只囉迦結那囉囉佉只那遮尸阿阿帝加加加加遮跋尸毘鍵毘鍵尸那叉娑娑娑鍵跋帝阿多那尸阿多那尸跋 多那尸跋多那尸 訶娑訶伊多利利娑梨帝遮遮遮遮遮伊伊伊伊伊多多多多多尸尸尸尸 阪阪阪阪阪 嵐嵐嵐嵐帝帝帝帝那 尸那阿伊阿伊跋陀帝跋多提多多跋多提娑婆阿呵訶 」 ㉔ の神咒を一万八千遍を誦じる。念誦が調えば、眼の像は清浄に具さに成じて精動して、眼根も転じて更にますます明利 となる。 次に④耳の像の造作である。耳の像を造作するには 「 唵 嚤 娑 只 伊 那 唵 嚤 娑 只 伊 多 跋 陀 陀 提 鄔 提 鄔 阿 那 掲 囉 堨 那 那 那 囉 囉 那 那 囉 阿 阿 阿 阿 阿 阿 阿 阿 阿 阿 呵 呵 呵 呵 呵 呵 呵 呵 呵 遮 遮 遮 遮 遮 遮 遮 遮 遮 遮 陀 陀 陀 陀 陀 陀 陀 陀 陀 只 只 只 只 只 只 只 只 帝 帝 帝 帝 帝 帝 帝 哪 哪 哪 哪 哪 哪 哪 陀 陀咜 陀陀 鄔 哆提 鄔 哆提跋陀 鄔 多提毘 娑 嚤 阿咹陀婆 堨 那那那尸娑婆訶阿呵」 ㉕ という神咒を一万八千遍を誦じる。念誦が終了すれば、耳の像は清浄に具さに成じて開動して、転た明利となる。 続いて⑤鼻の像の造作には、 「 婆 抧 囉 囉 帝 阿 摩 陀 阪 嵐 婆 阿 尸 提 抧 鄔 堨 哪 尸 呼 呼 呼 呼 呼 呵 毘 遮 鍵 那 尸 提 樓 摩 摩 尸 摩 囉 鄔 遮 哪 薩 婆 提 梨 帝 鄔 陀 尸 堨 坦 哆 陀 毘 尸 那 遮 呵 帝 阿 呵 阿 呼 那 囉 那 囉 尸 抧 阿 婆 叉 叉 叉 叉 叉 叉 叉 叉 叉 叉 婆 叉 阿 陀 哆 伊 那 嘶 嘶 嘶 嘶 嘶 嘶 嘶 嘶 嘶 嘶 嘶 嘶 鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 鍵 呵 呵 婆 婆 婆 婆 阿 呵 訶 抧 摩 抧 阿 枳 阿 尸 帝 鍵 婆 闍 闍 闍 闍 娑 跋 尸 吐 吐 娑 婆訶阿呵」 ㉖ と い う 神 咒 を 一 万 八 千 遍 を 誦 じ る 。念 誦 し 終 わ れ ば 、鼻 の 像 は 清 浄 に 具 さ に 成 じ て 随 動 し 、導 転 し て よ り 一 層 明 利 と な る 。 ⑥舌の像を造作についても同様に、左記の神咒を一万八千遍誦じる。 「 阿 摩 阿 伊 㖡 佉 那 尸 帝 提 跋 多 提 阿 抧 婆 哆 哆 摩 陀 哆 阿 囉 帝 哪 鄔 婆 哪 鄔 哪 鄔 尸 鄔 鄔 抧 跋 伊 坦 提 阿 抧 阿 抧 尼 毘 奢 鄔 抧 哪 肴 肴肴肴 哪舒帝鄔舒 帝陀哆抧槃哆抧尸呵 㖡 摩闍阿哆帝 堨那呵婆那呵鄔尸帝迦毘提那阿抧 陀摩那尸摩那尸闍抧闍抧毘闍
智山学報第六十七輯 抧娑 婆訶阿呵。 」 ㉗ 若し此の神咒を誦じ調えば、舌の像は清浄に具さに成じて了動し、業転じて更にますます明利となる。 次に⑦身の像の造作についてである。 「 佉 阿 伊 帝 阿 迦 伊 阿 迦 伊 婆 婆 毘 婆 婆 婆 婆 婆 提 舒 鄔 嚤 舒 鄔 跋 哆 阿 跋 陀 婆 堨 那 訶 伊 訶 伊 訶 訶 訶 訶 伊 咇 鄔 帝 嚤 那 尸 剖 帝 哆 佉枳 鄔帝 笹錯 婆 笹錯 阿 尼婆婆阿 尼闍訶嚤闍訶婆帝堨 那尸堨那尸阿 帝阿 囉娑婆阿訶阿阿阿 阿呵 。」 ㉘ この神咒を一万八千遍を誦じれば、身の像は清浄に具さに成じて四方によく造作して、面を変現させることになる。 続く⑧手の像の造作である。左記の呪文を一万八千遍念誦することが求められる。 「 掩 嚤 鄔 㖡 帝 阿 㖡 阿 曼 哆 鄔 哪 婆 帝 毘 哪 尸 舒 囀 婆 迦 囉 鄔 訶 陀 刷 尸 摩 尸 尸 尸 尸 枳 咇 帝 婆 毘 嚤 阿 毘 嚤 訶 鍵 跋 帝鄔哆那婆 那娑婆阿訶阿呵 」 ㉙ 神咒を一万八千遍を誦じれば、手の像は清浄に具さに成じて指は圓かにして爪も具すことになる。 ⑨足の像を造作するには、以下の神呪を一万八千遍念誦することとある。 柯伊 伊 囉帝婆囉帝鍵那鍵那鳩摩鳩帝鳩 跋帝阿只娑阿只婆呵那呵那娑婆訶阿阿訶呵」 ㉚ 神咒を恙なく誦じ了れば、足の像は清浄に具さに成じて指も圓かに爪も具備することになる。 天像を造作するには、 ➀ 頭②面③眼④耳⑤鼻⑥舌⑦身⑧手⑨足など九種の像を造るための神呪を、③眼からはじめ④ 耳⑤鼻⑥舌⑦身⑧手⑨足に至るまで、それぞれに一万八千遍を誦じ、その後に ➀ 頭と②面に同様の神呪を誦じる作法が 記されている。 「若し頭・面を造作せんと為る時の中には其の次第の如く、 初の二の神咒、 初を以て後と為し、 後を以て初と為して、 逆に次第に一万八千遍を誦じ已訖れば、即ち頭面の像、清浄に具さに成じて好妙相好なり。 」 ㉛ つまり頭・面の像を造作するために、③眼の像と④耳の像を造作する時に依用した神呪を前後入れ替えて念誦すべき ことが示される。 ➀ 頭には④耳像造作の呪文、②面には③眼像造作の神呪が用いられる。頭・面・眼などの九種の諸根
『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) がすべて調った後に、 ➉ 心識を付すための輪呪を一万八千四百五十遍唱えることになる。心識には方寸(心・胸)の中 に 堨 那羅字輪を布置することが明記されている。 「若し種種の根、 造作し已訖れば、 即ち輪咒を須いて心識を付せしむ。謂わく方寸の所の中に、 標 堨 那羅字輪を付す。 即ち咒を誦じて言わく 撮撮撮撮 撮撮撮撮撮撮撮撮撮撮撮撮撮撮 於呼反 捌捌捌捌捌捌捌捌捌捌捌捌捌捌捌捌捌捌 那闇反 伊因反 錆錆錆錆錆錆錆錆錆錆錆錆錆錆錆錆錆錆 毘入反 娑婆阿訶阿呵 若し此の神咒一万八千四百五十遍を誦じ已訖れば、即ち心量具して了せざる所無し。 」 ㉜ 2祷祀門は、造作した天像の有効期間を延長するために設けられている。後述する神呪門によって像(天像)として は円満具備することになる。効力は七日とされ、この日数を十七日、百七日、或いは千日に延ばすための方法が祷祀門 である。 「 祷 祀 門 と は、 其 の 相 云 何。 謂 わ く 像 を 造 り 已 ん ぬ れ ば、 彼 の 像 の 前 の 中 に 種 種 の 供 を 以 て 而 も 祀 事 を 作 す。 祀 事 已に訖んぬれば、則ち彼の面像喜楽し受用す。受用已に訖りて、即ち人告げて言わく、一日、二日、三日、四日、 五日、六日、七日、及び一百日、乃至千万億日の中に我が身心を住めて、汝が所楽に随い汝が所求に随うて、随順 して逆らわじと。今此の事を以て門の要と為す。 」 ㉝ 祷祀門の祭祀が行使され、 天像は喜楽してその旨(期限延長)を受用する。それを受けて天像は衆生に対して、 一日、 二日、三日、四日、五日、六日、七日、及び一百日、乃至千万億日の間、天像である身心を住めて、衆生の所楽や所求 に随順して決して違逆することはないと告げることになる。 3神咒門。この門は天人像の居住を勝妙なる荘厳具によって装飾するためと、天像の往来が障礙なく自在に行われる
智山学報第六十七輯 ために設けられる。荘厳具を造作するには、左記の神呪を二万三千遍を誦ずることが要請される。 「若し天荘厳の具を作さんが為には即ち咒を誦じて言わく、 唵嚤 帝 哆闍毘那阿呵尸鍵鄔嚤迦尸帝 佉尸陀叉羅阿嚤伊嚤伊嚤 㖡 鄔呵那鄔呵訶 鄔呵訶鄔訶那 鮫鮫鮫鮫鮫鮫鮫鮫鮫 鮫鮫 阻立 反 跋阿跋阿阿阿阿阿阿跋摩尸 語巾 反 娑婆訶阿阿訶呵。 」 ㉞ 神咒二万三千遍を誦ずることによって、忽ちに時に応じて種種の妙なる天の荘厳具が悉く出現する。調い終わると、 当処に随うて身分の中に周遍して荘厳されるとある。次に天像の往来が差し障りなく自由になされるための神呪は 「若し自在に往来せんと欲うが為には即ち咒を誦じて言わく、 阿 婆 婆 婆 梨 那 囉 阿 囉 阿 帝 鳩 那 尸 呵 陀 喃 阿 伊 阿 喃 阿 伊 耶 阿 阿 喃 阿 喃 阿 阿 阿 阿 耶 婆 婆 阿 喃 阿 耶 尸 那 尸 那 尸那 尸那哆陀帝 堨 囉 堨 囉婆 堨 那陀陀帝哆哆提揭揭那娑婆訶阿阿訶呵」 ㉟ と説かれ、神咒二万一千遍を誦じれば、所造の天像の往来は言うまでもなく、飛び騰ることなど、時や場所、求めや楽 しみに随い、障礙なく自在となる。 4誦経門は、天像の威徳力を倍増するために、 『八陀多経』 『魔頭陀経』 『婆 鄔 舎経』等の経典の読誦を奨めている。 「 威 徳 力 を 増 せ し め ん が 為 の 故 に。 此 の 事、 云 何。 彼 の 仏 弟 子、 種 種 門 を 以 て 対 治 す る 時 の 中 に、 若 し 此 の 誦 経 門 を須いざれば力、対し難きが故に。若し是くの如くならば何等の経をか誦する。謂わく八陀多経、魔頭陀経、婆 鄔 舎経等なり。此等の経を誦じて以て対門と為す。 」 ㊱ 注 目 す べ き は、 仏 弟 子 が 様 々 な 方 法 に よ っ て、 外 道 造 作 の 天 像 を 対 治 し よ う と 務 め る こ と の 対 抗 手 段 と し て『 八 陀 多 経』等を提示する点にある。
『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 5阿呼門。阿呼門とは文字通り阿を呼ぶ門であり、あらゆる事を成就せしめる「阿呼阿」を唱えることである。事の 成就は「阿呼門」以外の言説では叶えられないと明言する。 「 次 に 阿 呼 門 を 説 か ん。 何 の 義 を 以 て の 故 に か、 此 の 門 を 建 立 す る。 謂 わ く 能 く 事 を 成 ず る に は 要 な る 言 説 な る が 故に。此の義、云何。若し事を成ぜんが為には、余の言説を須いれば即ち成就せず。若し事を成ずる時に是くの如 くの説を作して、阿呼阿と呼べば即便ち成就す。所以何となれば不共の説なるが故に。此の義を以ての故に阿呼門 を立つ。 」 ㊲ 因みに阿呼門所説の「阿呼阿」は他の教理に散見しない不共の説と言い放っている。 6勧請門とは、崇拝の想いを尽くすための門である。 「 次 に 勧 請 門 を 説 か ん。 何 の 義 を 以 て の 故 に か、 此 の 門 を 建 立 す る。 礼 を 作 さ ん が 為 の 故 に。 此 の 義、 云 何。 為 す 所有らんが為には、自の上人を仰いで更に勧請するが故に。此の義を以ての故に勧請門を立つ。 」 ㊳ 文中の「自」について、宥快は『釈摩訶衍論鈔』にて 「 意 は 外 道 所 尊 の 天 等 に 於 い て 礼 敬 を 作 し 彼 を 勧 請 す と 見 た り。 普 観 は 上 の 心 識 造 作 の 文 に 付 い て 自 在 天 等、 暫 く 来たりて棲 杔 すと釈する等の意なり」 ㊴ と釈し、外道が尊信してやまない自在天などを勧請して暫く止住してもらうことと言葉を添えている。 B外道の菩薩像(造作菩薩形相門) 造作菩薩形相門も造作天像差別門と同様に、1造像門・2祷祀門・3神咒門・4誦経門・5阿呼門・6勧請門の六門 から構成される。この内、造像門と誦経門の二門は内容を異にし、残る四門は同質であるという。 「 已 に 造 作 天 像 差 別 門 を 説 き つ 。 次 に 造 作 菩 薩 形 相 門 を 説 か ん 。 此 の 門 の 中 に 就 い て 亦 た 六 門 を 具 す 。 然 れ ど も 通 と 及 び 別 と 差 別 な る ま く の み 。 通 は 謂 わ く 祷 祀 門 、 神 咒 門 、 阿 呼 門 、 勧 請 門 な り 。 別 は 謂 わ く 造 像 門 、 誦 経 門 な り 。」 ㊵
智山学報第六十七輯 それでは造作天像差別門と事情の異なる1造像門に触れることにしよう。造作菩薩形相門の造像は①頭像から始まっ て い る。 頭 像 造 作 の 神 呪 は「 哆 哆 哆 哆 呵 哆 哆 哆 帝 婆 婆 婆 婆 伊 婆 婆 婆 帝 叉 娑 叉 娑 囉 帝 皿 皿 皿 皿 皿 皿 皿 皿 嚤 呵 帝 娑 婆 訶 阿 阿 訶 呵 」 ㊶ と さ れ、 こ の 神 咒 を 八 千 四 百 五 十 遍 を 誦 じ る な ら ば、 頭 の 像 を 具 足 し 成 立 す る。 次 に ② 面 の 像 を 造 作 す る た め の 神 咒 で あ る。 神 咒「 㕧 哪 鄔 婆 帝 呵 呵 呵 呵 三 三 三 三 嚤 佉 㖡 鳩 駄 尸 陀 帝 摩 呵 阿 摩 呵 咇 鄔 帝 娑 婆 訶 阿 阿 訶 呵 」 ㊷ を 三 千 七 百 遍 誦 じ る な ら ば、 面 の 像 を 具 足 す る。 三 番 目 は ③ 眼 の 像 の 造 作 で あ る。 「 駄 跋 尸 哪 嚤 尼 佉 娑 纂 帝 遮 闍 哆 毘 阿 嚤 尸 陀 嚤 尸 陀 尼 迦 迦 僧 佉 訶 婆 尼 娑 婆 訶 阿 阿 訶 呵 」 ㊸。 こ の 神 咒 を 八 千 四 百 五 十 遍 を 誦 じ る こ と に よ っ て 眼 の 像を具足し成立させることになる。④耳の像は「阿 嚤嚤 伊 嚤嚤 婆 嚤嚤 哆 嚤嚤 鍵鳩提迦鳩帝毘那尸迦迦迦迦迦迦娑婆訶阿 阿 訶 呵 」 ㊹ の 神 呪 を 六 万 一 千 遍 を 唱 え る こ と に よ っ て、 耳 の 像 を 具 足 し 成 立 す る。 ⑤ 鼻 の 造 作 に は「 婆 婆 婆 婆 毘 婆 婆 婆 婆 帝 鍵 那 尸 娑 婆 訶 阿 阿 訶 呵 」 ㊺ の 神 咒 を 十 万 八 千 遍 を 誦 じ、 ⑥ 舌 の 像 に は、 「 暫 帝 暫 帝 皿 帝 皿 帝 那 陀 那 陀 鄔 提 鄔 提 娑 婆 訶 阿 阿 訶 呵 」 ㊻ の 神 呪 を 五 万 七 千 遍 を 誦 じ る と 舌 が 具 足 し 成 就 す る。 ま た ⑦ 身 の 像 を 造 作 し よ う と す る な ら ば「 纂 毘 提 纂 毘 提 哆 哆 纂 毘 提 那 囉 尸 帝 娑 婆 訶 阿 阿 訶 呵 」 ㊼ と い う 神 咒 を 十 万 四 千 遍 を 誦 じ る こ と が 明 か さ れ る。 続 く ⑧ 手 の 像 を 造 作 す る た め の 神 呪 は「 咤 提 咤 提 喃 帝 喃 帝 陀 陀 那 那 娑 婆 訶 阿 阿 訶 呵 」 ㊽ で あ り、 こ の 神 咒 を 八 万 一 千 遍 誦 じ る こ とが述べられる。第九番目に足の像の造作である。同様に「 残 吱 陀 残 吱 陀 佉枳囉 嚤 呵尼咤喃 尸囉 囉囉囉囉娑婆訶阿阿 訶呵」 ㊾ の神呪を三万二千一百遍を誦じることが示される。 このように菩薩形相の造像は、天像の造像の場合と異なり、①頭や②面の造作から始められ、③眼④耳⑤鼻⑥舌⑦身 ⑧手⑨足の九種が造られる。また諸根を造作する際の陀羅尼の唱える数に相違がある。ともあれ九種の像の造作後に、 心識を付す順序になっている。因みに心中に 堨 那羅字輪を布置する作法は同じであるが、陀羅尼や遍数が異なる。 「 仔仔仔仔仔仔仔仔仔仔 仔仔仔仔仔 隠天 反 試試試試試試試試試試試試試試試 於阿 反 諮諮諮諮諮諮諮諮諮諮諮諮諮諮諮 弗入 反
『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍侍 去 言反 娑婆訶阿阿訶呵。 」 ㊿ 神咒二万三千遍を誦じることを通じて、心識を具して了せざる所がなくなるとする 。 二つ目に造作天像差別門と異質とされるのは、4誦経門である。この門には菩薩像の威徳力を増し、仏弟子の対治に 対処するための経典として『 毗 舎闍尼経』 『阿佉多陀経』 『優婆羅尸経』 『提叉佉羅経』等の経典が列挙されている。 ◯ 51 C外道の如来像(造作如来形像門) 第三の造作如来形像門と造作菩薩形像門との違いは、1造像門にある。九種像の造作に関しては「前の説の如く」と あ る。 前 と は 直 前 の 造 作 菩 薩 形 像 門 の こ と を 指 し 示 す が、 造 像 に 際 し て「 那 那 阿 那 羅 婆 婆 哆 帝 鳩 奢 陀 尼 嚤 呵 尸 咤 娑 闍 尼 枳 陀 帝 哆 帝 鄔 提 陀 陀 帝 叉 婆 尼 」 な る 陀 羅 尼 を 付 け 加 え る こ と、 さ ら に 心 識 を 付 す 折 に は 如 来 形 像 の 造 作 の た め に 陀 羅 尼 一 万 八 千 遍 を 念 誦 す る こ と が 加 味 さ れ て い る。 堨 那 羅 字 輪 を 布 置 す る 作 法 に 関 し て の 消 息 は 散 見 し な い が、 造作菩薩形像門と同様と推測される。 「 造 像 門 と は 其 の 相、 云 何 ん。 謂 わ く 前 の 説 の 如 く、 九 処 の 咒 の 中 に 其 の 次 第 の 如 く、 各 一 句 を 加 う。 若 し 心 を 付 する咒は各別なりまくのみ。加する所の句とは、其の相云何。咒に言わく、 那那阿那羅婆婆 哆帝鳩奢陀尼 嚤 呵尸咤 闍尼 抧 陀帝 哆帝 咇 鄔 提陀陀帝叉婆尼 心を付する咒、其の相云何。咒に言わく、 柴柴柴柴柴柴柴柴柴柴柴柴柴柴柴 伊入 反 式式式式式式式式式式式式式式式 阿 含 反 写写写写写写写写写写写写写写写 只允 反 車車車車車車車車車車車車車車車 伊允 反 若し此の神咒一万八千遍を誦じ已訖れば、即ち心識具して了せざる所無し。 」 ◯ 52
智山学報第六十七輯
七、天像・菩薩像・如来像の正邪
A天像の正邪(対治天像除遣門) これまで外道が演出する天像・菩薩像・如来像に関する紹介を行った。これら三種の像との関連で仏道修行中に生起 す る 課 題 は、 修 行 中 の 心 境 及 び 宗 教 体 験 と し て 遭 遇 す る 天・ 菩 薩・ 如 来 の 正 邪 の 識 別 で あ る。 『 釈 論 』 に は、 天 像・ 菩 薩 像・ 如 来 像 の 正 邪 に つ い て 詳 細 な る 検 討 を 行 う 姿 勢 が 窺 え る。 『 釈 論 』 の 論 主 に と っ て も 仏 道 修 行 の 困 難 さ と 共 に、 修 行 を 翻 弄 す る 多 様 な 誘 惑 は 自 ら の 課 題 と な っ て い た こ と が 推 測 さ れ る。 『 釈 論 』 に 少 な か ら ず 影 響 を 与 え て い た こ と が推測される元暁の『起信論疏』には「菩薩像等の境界」とか「邪正を判ぜん」などという表現がみられる。 「問う。菩薩の像等の境界を見るに、 或いは宿世の善根に因りて発する所なり。云何が簡別して其の邪正を判ぜん。 解 し て 云 わ く。 実 に 是 の 事 有 ら ば、 慎 ま ず ん ば あ る べ か ら ず。 然 る 所 以 は、 若 し 諸 魔 の 所 為 の 相 を 見 て、 是 れ 善 相なりと謂ひて心を悦ばしめて取著するときは則ち此の邪僻に因りて病を得て狂を発せん。若し善根所発の境を得 て、是れ魔事なりと謂ひて心に疑いて捨離せば、即ち善利を退失して、終に進趣無し。而も其の邪正、実に取別し 難きが故に、三法を以て之れを験して知るべし。 」 ◯ 53 菩薩の像などの映し出す境界を鑑みるに、過去世の善根が深く関与するものと考えられるが、菩薩像等の正邪はどの ように峻別するのであろうか、という問いが起されている。元暁は、質疑者の正鵠を得た疑義について敬意を表明した 後に、以下のように答弁する。様々な魔の所業をみて善相と受け取り心を悦ばせ執着する時には、邪な僻によって病い を誘発することになる。また善根による境涯を魔事と誤り、善相の境地を捨離すれば、善なる利益は失われる。斯様に 諸魔の境地の邪正は分別しにくいので、①「以定研磨」②「依本修治」③「智慧観察」なる三種の方法によって判別す べきと示唆する。 『起信論疏』には、まず①「以定研磨」について 「 何 事 を か 三 と 為 す る。 一 に は 定 を 以 て 研 磨 し、 二 に は 本 に 依 り て 修 治 し、 三 に は 智 慧 を も っ て 観 察 せ り。 経 に 言『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) うが如し。真金を知らんと欲せば、之れを試せよ。謂わく焼と打と磨となり。行人も亦た爾なり。別識すべきこと 難し。若し之れを別たんと欲せば、亦た須らく三つを以て試すべし。 一には則ち当に与に共事せり。共事せんに知らずんば当に与に久しく共処すべし。共処して知られずんば智慧を以 て観察せり。今此の意を藉りて以て邪正を験せむ。 謂わく、定中に境相発する時の如きは、邪正了し難ければ、当に深く定に入りて心、彼の境の中に於いて取らず捨 てず、但し平等定に住すべし。若し是れ善根の所発ならば定力、逾よ深く、彌よ発せり。若し魔の所為ならば久し からずして自ら滅せり。 」 ◯ 54 と 明 か す。 玉 城 康 四 郎 氏 は 元 暁 の 注 釈 に 注 目 し、 「 元 暁 は、 三 つ の 方 法 に よ っ て 験 證 す べ き こ と を 記 し て お り、 法 蔵 も そのままの説を継いでいる。 」 ◯ 55と言葉を重ね、 「以定研磨」について次のように解説する。 「 一 は「 以 定 研 磨 」 で あ る。 三 昧 中 の 様 相 に つ い て 邪 正 を 区 別 し が た い と き は、 深 く 三 昧 に 入 り、 取 ら ず 捨 て ず、 平等に住すべきである。もしそれが善であれば、三昧力はますます深まり、善もいよいよ現われる。もしそれが魔 の所為であれば、やがて消滅するという。 」 ◯ 56 次に②「依本修治」について『起信論疏』には、 「 第 二 に 本 に 依 り て 修 治 す と は、 且 ら く 本 と は 不 浄 観 禅 を 修 す る が 如 き は、 今 は 則 ち 本 に 依 り て 不 浄 観 を 修 せ ん。 若し是くの如く修せんに境界増明ならば則ち偽に非じ。若し本を以て修治せんに漸漸に壊滅せば、当に知るべし、 是れ邪なり。 」 ◯ 57 と述べる。玉城康四郎氏は 「 二 は「 依 本 修 治 」 で あ る。 本 に 依 っ て 不 浄 観 を 修 す る と き、 そ の 境 界 が 明 か に な れ ば 偽 で は な い。 次 第 に 消 滅 す れば邪であるという。本というのは真如を指しているのであろうか。 」 ◯ 58 と解析する。三つ目の「智慧観察」について『起信論疏』には
智山学報第六十七輯 「 第 三 に 智 慧 を も っ て 観 察 す と は、 所 発 の 相 を 観 じ 根 源 を 推 験 す る に 生 処 を 見 ず。 深 く 空 寂 の 心 を 知 り 住 著 せ ず ん ば、邪は当に自滅すべく、正は当に自ら現ずべし。真金を焼くに其の光色あるが如く、若し是れ偽なるも亦た爾な り。此の中の定を磨に譬え、本は打の如く猶し、智慧をもって観察するは火を以て焼くに類す。此の三験を以て邪 正を知るべきなり。 」 ◯ 59 とし、玉城康四郎氏も左記の様に綴っている。 「 三 は「 智 慧 観 察 」 で あ る。 三 昧 の 様 相 の、 そ の 根 源 を 推 験 し、 生 処 を 見 ず、 空 寂 を 知 っ て 心 に 住 著 し な け れ ば、 邪はおのずから滅し、正はおのずから現われるという。以上のとおりであるが、これを真金を造るのに譬えられて い る。 す な わ ち、 一 は 磨、 二 は 打、 三 は 焼 に、 そ れ ぞ れ 譬 え ら れ る と い う。 〈 中 略 〉 こ こ に 強 調 し た い の は、 自 己 発動を転換せしめ、自己存在を包括するところの統括体そのもの、いいかえれば真如自体の発動であり、自己存在 への真如の包括的根源からの顕現である。 」 ◯ 60 『 釈 論 』 に 影 響 を 与 え た と 推 測 さ れ る 元 暁 の『 起 信 論 疏 』 に つ い て 顧 み た。 こ れ よ り『 釈 論 』 が 論 じ る「 能 治 」 に つ いて検証することにしたい。 まず天像に関する正邪の差別と対治である。能治について『釈論』は①咒知根壊不壊門・②厳具圓珠有無門・③身光 眼入不入門・④頭髪末結不結門・⑤雙背無所取着門・⑥倶取摂不除遣門に開いた考証を試みている。 「 次 に 能 治 を 説 か ん。 若 し 清 妙 の 天 子 天 女 の 像、 行 者 の 所 に 来 到 せ ん 時、 邪 正 の 差 別、 云 何 が 知 る や。 此 れ は 何 か ん疑う所ぞ。雑乱に由るが故に。此の義、云何。謂わく無量光明契経の中に是くの如くの説を作す。若し修行者、 其の心清浄なれば無量無辺の諸の天子、無量無辺の諸の天女、種種の妙花を雨ふらし、種種の所有の名香を焼き、 種種の微妙の妓楽を出現し、種種の勝妙の荘厳の具を開布して、甚だ愛楽すべき貌にして行者の所に来到して行者 を供養す。所以何となれば、其の法を重ずるが故なり。 」 ◯ 61 清浄にして圓妙なる天子や天女が、 修行者の御許に到来する場合について、 『釈論』 が典拠とする 『無量光明契経』 には、
『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 修行者の心が清浄であるならば、無量無辺の天子や天女は種々の妙花を雨降らし、種々の名香を振り撒き、微妙の妙楽 を出現させ、様々な荘厳の品々を顕わして修行者を供養するであろう。問題は外道が造作した天像が修行者に親近する 時の対応であり、外道の幻術による天像との正邪の見極めである。 「 彼 の 外 道 の 人、 亦 た 天 像 を 作 し て 行 者 の 所 に 来 到 す る こ と 前 の 如 く し て 異 な る こ と は 無 く ば、 其 の 邪 正 の 差 別、 了知すべきこと難きが故に。此の疑を解釈するに則ち六門有り。云何が六と為る。一には咒知根壊不壊門。二には 厳具圓珠有無門。三には身光眼入不入門。四には頭髪末結不結門。五には雙背無所取着門。六には倶取摂不除遣門 なり。是れを名づけて六と為す。 」 ◯ 62 外道による天像の疑念を吹き払うための措置は六門によって講じられる。 第一の咒知根壊不壊門には、対治のための内呪と外呪による判別がみられる。 「 咒 を 誦 す る 形 相、 其 の 相 云 何。 謂 わ く 二 意 有 る が 故 に。 云 何 が 二 と 為 る。 一 に は 外 咒 を 誦 す る が 故 に。 二 に は 内 咒を誦するが故に。外咒を誦する時、若し真実の天は増減異無し。若し虚偽の天は其の諸根の相、漸漸に増長す。 神咒を誦する相、其の次第の如く数量を超えず。如如に誦するが故に。之れを以て別と為す。 内咒と言うは、其の相云何。謂わく且らく眼、咒するときは即ち咒を誦じて言わく、 纂 跮哆嚤呵鳩尸帝迦那毘只帝 哆尼嘶鄔婆咇陀尼婆 纂 奢毘阿那帝阿枳尼阿枳尼陀陀帝娑婆呵帝嚤呵娑婆訶帝娑婆呵 若し此の神咒三七遍を誦ずれば眼根壊失して、皆所有無し。所余の諸処にも各神咒有り。而れども要無きが故に略 去して釈せず。已に咒知根壊不壊門を説きつ。 」 ◯ 63 まず外呪を誦じた場合に、もし真実の天ならば諸根が増減することはない。もし虚偽の天であれば諸根は次第に増長 するという。次に内呪二十一遍を誦じれば、真実の天像ではない外道が現出した天像の眼根は壊失することになる。耳 根・鼻根等にも特有の神呪の存在を提示する。森田龍僊氏が『釈摩訶衍論之研究』で指摘するのは仏法の真呪について である。
智山学報第六十七輯 「 そ の 第 一 は 誦 呪 に よ っ て こ れ を 知 る こ と。 試 み に か の 造 像 所 用 の 邪 呪 を 誦 ず る に あ た っ て、 諸 根 増 長 す る は 偽 天 であり、 変化なきは真天である。又仏法の真呪を誦ずるに、 諸根減損するは偽天であり、 変化なきは真天である。 」 ◯ 64 二番目の厳具圓珠有無門には、真実の天は荘厳具に十種の圓珠を有しており、虚偽の天には圓珠は存在しない。 「 次 に 厳 具 圓 珠 有 無 門 を 説 か ん。 其 の 相、 云 何。 謂 わ く 若 し 真 実 の 天 は、 其 の 荘 厳 の 具 の 中 に 十 の 圓 珠 有 り。 若 し 虚偽の天は、其の荘厳の具の中に此の珠無きが故に。之れを以て別と為す。 」 ◯ 65 次に③身光眼入不入門である。修行者が眼を閉じる時に、真実の天はその身が光明に輝いて眼の中に入り、虚偽の天 は光明が入ることはないという。 「 次 に 身 光 眼 入 不 入 門 を 説 か ん。 其 の 相、 云 何。 謂 わ く 且 ら く 彼 の 行 者、 目 を 閉 づ る 時 の 中 に、 若 し 真 実 の 天 は 其 の身光明、眼の内に入る。若し虚偽の天は眼の内に入らず。 」 ◯ 66 『釈摩訶衍論之研究』 にも身光眼入不入門は光明の入不による判別であり、 「目を閉づるに光明透入するは真天であり、 しからざるは偽天である。 」 ◯ 67としている。 ④頭髪末結不結門では、真実の天は頭髪の両方の端を結ぶことができるのに対して、虚偽の天は常に解けて結ばれる ことはない。 「 次 に 頭 髪 末 結 不 結 門 を 説 か ん。 其 の 相、 云 何。 謂 わ く 髪 相 を 見 る に、 若 し 真 実 の 天 は 両 つ の 末、 相 い 結 べ り。 若 し虚偽の天は両の末、互いに解けり。之れを以て別と為す。 」 ◯ 68 森田氏は「その第四は髪端を見てこれを知ること。それがもし辮髪となれるは真天であり、両分して解けたるは偽天 である。 」 ◯ 69と解説する。 ⑤雙背無所取着門には、真実の天・虚偽の天に関わらず、すべては自らの心の所現と観じて執着の想いを生じること のないようにと戒めている。
『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 「 次 に 雙 背 無 所 取 著 門 を 説 か ん。 其 の 相、 云 何。 謂 わ く 若 し は 真 実 の 天 に も あ れ、 若 し は 虚 偽 の 天 に も あ れ、 唯 し 自の妄心の現量の境界なり。其の実、有ること無しと観じて所著無きが故に。之れを以て治と為す。 」 ◯ 70 『通法疏』 には 「若し実若し虚、 皆是れ自己の妄心の分量、 顕現境界なり。行者爾の時取らず真偽、 皆実に非ざるが故に、 之 れ を 以 て 治 と 為 す 」 ◯ 71と い い、 実 或 い は 虚 は す べ て 自 己 の 妄 心 の 量 に 応 じ て 顕 現 す る 境 界 で あ る。 修 行 者 は 真 偽 を 詮 索することなく、すべて真実ではないと知ることを能治としている。 雙背無所取著門においては、真実の天・虚偽の天に関わらず、自心の妄想を起因とするが、続く⑥倶取摂不除遣門で は、 真 実 の 天・ 虚 偽 の 天 と も に、 真 如 そ の も の を 本 質 と し、 真 如 の 所 現 と 捉 え る 理 解 を 示 し て い る。 『 釈 論 』 に し ば し ばみられる特有の表現でもある。 「 次 に 倶 取 摂 不 除 遣 門 を 説 か ん。 其 の 相、 云 何。 謂 わ く 若 し は 真 実 の 天 に も あ れ、 若 し は 虚 偽 の 天 に も あ れ、 皆 一 真如なり。皆一法身なり。別異有ること無しと観じて、断除せざるが故に。之れを以て治と為す。 」 ◯ 72 宥快は『釈摩訶衍論鈔』において、六門の中に初の四門は所治を、後の二門は能治を明かすとみる。特に⑤雙背無所 取著門と⑥倶取摂不除遣門の二門は遮情と表徳の不同と捉え、⑤は真と偽と倶に否定し執著しない、⑥は真偽倶に摂取 して肯定する視点 ◯ 73と釈す。また一義として 「 一 義 に 云 わ く。 第 五、 生 滅 の 観 を 明 か し、 第 六 は 真 如 門 の 観 を 明 か す。 其 の 故 は 修 行 信 心 分 は 真 生 二 門 に 通 ず、 随うて第五真偽倶に妄心の境涯と遣りて、取著無し。是れ生滅真妄相反の義なり。第六は真妄倶に真如なり。是れ 真如の独孤自立の義なり。 」 ◯ 74 とし、第五は生滅門により、第六は真如門による理解を示唆している。 B菩薩像の正邪(対治菩薩除遣門) 菩 薩 形 像 に 関 す る 正 邪 の 区 別 と 対 治 を 究 明 す る 対 治 菩 薩 形 像 門 は、 ① 誦 咒 了 知 邪 正 門 と ② 智 慧 観 察 無 着 門 に 開 か れ
智山学報第六十七輯 る。前者では陀羅尼を八百十遍誦じて、木や石のように変異もなく動ずることがなければ外道の菩薩とし、後者では智 慧によって諸法の空・無相の理を観察して執着のない菩薩を真実と俊別する。 「誦咒門と言うは、其の相云何。謂わく且く心を咒するときは、即ち咒を誦じて言わく、 纂 阿哆舸毘提 嚤鳩帝婆尼婆婆尼嘶咇帝闍那那 尸鄔嚤阿只陀阿只陀沙婆呵 若し此の神咒八百十遍を誦じ已訖れば、則ち彼の菩薩、漠漠として動ぜず。譬えば木石の如し。之れを以て治と為 す。一切の根及び荘厳の具の中に各神咒等の多種の門有り。而れども要無きが故に。略して而も説かず。已に誦咒 了知邪正門を説きつ。芬次に智慧観察無有門を説かん。其の相、云何。謂わく智慧を以て諸法の空無相の理を観察 して執着無きが故に。 」 ◯ 75 宥快は『釈摩訶衍論鈔』において「真実の菩薩は呪を誦する時、漠漠不動の義、有るべからず。 」 ◯ 76と紹介する。 C如来像の正邪(対治如来除遣門) 如 来 形 像 に 関 す る 正 邪 の 区 別 ・ 対 治 も 菩 薩 形 像 と 同 様 に 、① 誦 咒 了 知 邪 正 門 と ② 智 慧 観 察 無 着 門 の 二 門 で 構 成 さ れ る 。 「 次 に 対 治 如 来 形 像 門 を 説 か ん。 其 の 相、 云 何。 此 の 門 の 中 に 就 い て 亦 た 二 門 を 具 す。 名、 前 の 説 の 如 し。 神 咒 門 と言うは、其の相云何。謂わく且らく光明を咒するときは即ち咒を誦じて言わく、 哆跮 纂 唵那羅帝岑枳羅 㕧 馱尸闍鍵尼婆鍵尼嚤那耶鄔婆 帝闍嚤羅娑婆呵 若し此の神咒四百遍を誦すれば、若し実の如来ならば其の身の光明則ち損減せず。若し偽の如来ならば其の身の光 明則便ち損減して闇の色を作す。之れを以て別と為す。 」 ◯ 77 神呪門(①誦咒了知邪正門のことか)は光明の陀羅尼を四百遍誦じて、身体の光明に損減のない如来が真の如来であ り、 虚偽の如来は光明が損減し闇を呈するようになる。 『釈摩訶衍論之研究』も「仏ならば呪光明呪を四百徧誦ずれば、 偽は闇色に変じ、真はもとのままである。 」と解説する。 ◯ 78
『釈摩訶衍論』所説の魔・外道・鬼・神について(中村) 第二の智慧観察無着門では、外道があらゆる種類の異形を現じて、修行者のもとに到来して惑乱させるという。 「 彼 の 第 二 の 門 は、 前 に 説 く 所 を 観 じ て 審 か に 思 惟 す べ し。 外 道 の 人 有 り て、 一 切 種 種 の 異 類 を 造 作 し て、 行 者 の 所に来到して行者の心を乱さば、爾の時に当さに各何等の咒を誦すべきや。 」 ◯ 79 『 釈 論 』 の 論 主 は『 如 来 総 持 法 蔵 因 縁 契 経 』 を 典 拠 と し て、 諸 仏 無 尽 蔵 無 礙 自 在 印 陀 羅 網 随 順 随 転 総 持 大 陀 羅 尼 法 門 による神呪を八千七百五十一遍唱えるならば、速やかに一切の邪な類は退散し悩乱できなくなると陳べている。 「 如 来 総 持 法 蔵 因 縁 契 経 の 中 に 説 く 所 の 神 咒 大 陀 羅 尼 な り。 <中 略 > 如 来、 則 ち 文 殊 師 利 に 告 げ て 言 た ま わ く、 深 法 門 有 り。 能 善 く 通 じ て 一 切 の 邪 道 を 治 す。 所 謂 諸 仏 無 尽 蔵 無 礙 自 在 印 陀 羅 網 随 順 随 転 総 持 大 陀 羅 尼 法 門 な り。 < 中 略 > 是に於いて世尊、即ち咒を誦じて言たまわく、 怛 咥 那 羅 尸 伽 諾 鄔 帝 哆 娑 毘 提 阿 呵 陀 尼 婆 伽 婆 尸 帝 駄 駄 鄔 嚤 闍 那 筏 尼 帝 伽 怛 尼 娑 哆 鳩 那 婆 提 娑 呵 嚤 伊 婆哆尼毘舒訶 鄔 佉哆陀尼 提叉阿 鍵那尸娑婆呵 若し此の神咒八千七百五十一遍を誦じ已訖れば、其の所応に随うて、一切の邪類、皆悉く退失して悩乱すること能 わざるが故に。 」 ◯ 80