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000法政多摩論集32巻 表紙1

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̶武蔵野会を中心として̶

岩 橋 清 美

はじめに  本論文は、武蔵野会の活動を中心に、1920 年代の多摩地域における郷土史運動 について述べるものである。  武蔵野会は大正 5 年(1916)、人類学者で考古学者・民族学者でもあった鳥居龍 蔵が東京市公園課職員井下清等とともに設立した郷土史団体である。その機関誌 『武蔵野』の刊行は、戦後、武蔵野文化協会に引き継がれ今日に至っている。現在 の同会の研究対象は、武蔵野を越え関東一円にまで広がっており、会員は研究者 から地域史愛好家まで幅広い。  近年、多摩地域では、自治体史編纂事業、自治体が主催する市民大学や講座を 契機に多くの郷土史サークルが生まれ、これらに参加した市民が、精力的に博物 館活動や文化財保存活動を展開している。市民団体による地域史料の発掘・解読・ 刊行は、多摩地域の地域史研究の基盤にもなっている。こうした市民の地域史へ の関心の高さには、1920 年代の郷土史運動によって創られた「伝統」の影響も少 なからずあるのではないかと思われる。  本稿では、多摩地域に様々な郷土史団体ができはじめる昭和五年(1930)頃ま でを主たる分析対象として、武蔵野会の活動の特質と、同会が他の郷土史団体に 与えた影響について考察する。  当該期の郷土史研究について、若井敏明氏は、1910 年代以降アカデミー史家は 国民思想の善導に資するという観点から、歴史知識や歴史趣味の普及に取り組み、 その一方で地方民に史料の採集という形での郷土史研究を期待していたと論じて いる。(1)武蔵野会の活動を見る限り、初発的には若井氏の指摘通りであると言える。 しかし、設立から 10 年程の間にアカデミー史家が想定していた以上に活動が拡大

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した意義について考えることは、当該期の郷土史運動を理解する上で必要であろ う。  また、当該期の史蹟保存については、高木博志氏が史蹟名勝天然紀念物保存法 の制定過程と地域における動向を検討している。(2)そのなかで総力戦体制に対応 する社会を作り出すために、国家ナショナリズムと地域アイデンティティーが重 層的に進行したことが論じられている。さらに、アカデミズムと地域との関係に ついては、斎藤智志氏が黒板勝美の見解が地域に広く受容され、郷土史の裾野を 拡げたことを指摘している。(3)この両者の見解は武蔵野会の活動を理解する上で 重要な指摘である。たしかに、20 世紀初頭にアカデミズム史学が成立すると、郷 土史団体は、近代的知を地域に定着させる媒介項として機能した。しかし、郷土 史団体は、それに一方的に取りこまれていくだけだったのであろうか。本論文では、 武蔵野会発足から最初の 10 年に分析を特定し、その活動の特色と他の郷土史団体 に与えた影響を考えてみたい。分析対象を最初の 10 年に特定したのは、その頃か ら多摩地域で郷土史団体設立の気運が高まったからである。  1 武蔵野会の設立の経緯  多摩地域における先駆的な郷土史団体である武蔵野会は、大正 5 年(1916)に 東京帝国大学講師鳥居龍蔵らによってに創立された。そもそもの始まりは東京市 役所公園課の井下清が芝公園掃除中に丸山の小古墳から埴輪を発見したことによ る。(4)井下がこれを東京帝国大学人類学教室に持ち込んだところ、鳥居が大野雲 外氏他 4 名と現地調査を行った。この埴輪については、鳥居龍蔵が『武蔵野』創 刊号に「芝公園発見二個の埴輪土偶」という小文で紹介している。この埴輪の調 査を機に、井下と鳥居は親交を深め、仕事の余暇に調査を行う目的で会を発足さ せた。このとき、会に集まった者が桑原準策(白木屋)・福良虎雄(東京日日新聞社)、 山岡超舟(朝報社)等 6 名である。彼らは写真師を同行して、西向観音の古墳や 赤坂山王台の瓢形古墳をはじめ、小石川・上野公園等の古墳を見学し写真に収めた。  翌 6 年(1917)、正式に会を発足させたが、幹事 18 名に対して会員が 11 名とい う状況だった。発会を記念して府中で講演会が開催されたが、参加者を増やすた

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めに大國魂神社宮司猿渡盛厚が奔走するという一幕もあった。その後、会員の志 村綱平の尽力により会誌第一号を刊行した。その中で鳥居は武蔵野会設立の目的 について以下のように述べている。(5) 本会は玆に『武蔵野』第一号を発行する事となりました。(中略) 本会の目的は規則に書いてあります如く、専はら武蔵野に於ける自然と人文 とを学び、また、武蔵野に於ける趣味を養はんとするのであつて、要は各方 面の人々が寄り集まつて是等の目的を達せんとするのであります。(中略) 本会は単に狭き一種の専門家の会合ではない。広く武蔵野を中心として各方 面より研究的に、将た趣味的にこれを究め味はんと欲するのであります。さ れば何人と云へども苟しくも武蔵野に興味と同情ある者なれば来つて会員た る事が出来ます。本会の所謂武蔵野は限られた狭い意味の一小武蔵野ではな い。即ち多摩川の南岸の地方一帯から秩父山麓にかけた広い台地、荒川(隅 田川)・中川・江戸川の諸流域の低地から下総の台地までも包含して居る、是 等の地方は今や台地、低地武蔵野として呼んでも差支はない、 は江戸の当 時に於いてもこの広義な名称を用ひた人も敢えて少なく無い。而して是等一 帯の土地は其地質学的に地理学的に将た諸種の人文科学上から同一に認む可 き性質を有して居ります。本会はたゞにこの広義の武蔵野を自然・人文の上 から究め味はふ而已ならず、尚ほ比較の必要だにあらば、更に其附近の地方 を加えても差し支ない、即ち彼の吾妻と云ひ、関東と云ふ名称も時としては 我が会の用ひんとする目的の範囲であります。  鳥居は、会の目的に、武蔵における自然と人文を区別無く扱い、専門性を追求 するだけではなく、趣味的に学ぶことを掲げている。その理由として、「武蔵野」 といわれる地域が多摩川南岸から秩父山麓、隅田川・中川・江戸川から下総へと 続く地域も含む、広大な地域であるためと述べている。  武蔵野会が発足した大正 5 年(1916)頃は、地方改良運動の影響もあり、郷土 史運動が活発化し、各地で郡史・村史の編纂が始まり、多くの郷土史家が出現し た時期でもある。鳥居はこうした状況に目を向け、地域社会で育ち始めてきた郷 土史家を取り込み、その上で彼らを地域に拡散させようとした。そのためにも分 野を問わず、専門家・非専門家を区別しないことが重要だったのである。

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 2 武蔵野会の活動  武蔵野会は鳥居を会長とし、幹事長 1 名と幹事数名が運営にあたった。入会は 会員の紹介によるものとし、会員には正会員・普通会員・特別会員があった。特 別会員は評議員会の推薦によって選出された。会費は会員の種別によって異なり、 正会員は 3 円、普通会員は 1 円を納入した。管見の限りでは、発足当時の役員構 成は不明であるが、大正 8 年度(1919)の幹事長は鳥居、幹事は井下清他 4 名で、 評議員が 30 名ほどいた。評議員は鳥居や井下、福良といった創立メンバーを中心 に、法学者尾佐竹猛、西洋史学者今井登志喜、東洋比較言語学者中島利一郎、民 俗学者山中笑、東京市役所で『東京市史稿』を編纂していた塚越芳太郎といった 多分野わたる学識者、東京市助役中鉢美明等役人、猿渡盛厚等地域名望家層から なる。武蔵野を自然・人文の両分野から趣味的に研究するという当会の目的を反 映したメンバーになっている。  会の活動は大きく分けて、①会誌の発行、②巡見と談話会・講演会、③資料展 覧会となる。以下に、それぞれについて述べていこう。 (1)会誌の発行  会誌『武蔵野』は会員の相互の研究発表の場であり、会の活動を発信する場で あった。大正 8 年(1919)は 3・5・12 月に刊行されていたが、第 2 巻 1 号から年 四回発行に定め、大正 12 年(1923)からは月刊となった。例えば、創刊号をみる と、「武蔵国分寺遺跡考」(沼田頼輔)・「芝公園発見二個の埴輪土偶」(鳥居龍蔵)、 「武蔵野の漂泊民族」(近藤春夫)、「武蔵野に於ける先住民の遺跡」(大野雲助)、「武 蔵野の村落」(小田内通敏)、「江戸時代の名木」(本間鶴水)といった構成になっ ており、考古・歴史・民俗・自然の各分野から論文を集めている。  会誌では特集号が企画されることもあり、第 2 巻第 2 号は江戸、第 4 巻第 2・3 号は川越、第 5 巻第 2 号は向島、第 6 巻第 1 号は足柄、第 7 巻第 5・6 号は御嶽を 特集している。特集号は、研究旅行で訪れた地域に関する論考を掲載することが 多かったが、「向島号」のように、東京市の都市計画との関連で特集を企画するこ ともあった。大正 8 年(1919)公布の都市計画法・市街地建築物法により大正 10 年(1921)に第一期都市計画道路改修が決定し着工された。当初、深川地域には、

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新道建設予定はなかったが、東京市の新設道路との関係で三路線が計画され、こ れによって三囲神社一帯が開発されることになった。この計画に対し、黒板勝美 が会誌に「隅田川沿岸の保勝」という一文を寄せ、ロンドンを事例に三囲神社を 中心とする水の公園づくりを提案している。幸田露伴も「新計画旧事物」の中で 史蹟を利用した都市計画の必要性を説いている。(6)  会誌では彙報欄の充実にも力を入れており、会員の著作物の紹介、東京府・東 京市の史蹟保存の取り組み、各地域の史蹟保存運動を紹介している。特徴は、官 民両方の活動情報を提供し、それに対する評価を読者に委ねていた点にある。  また、史料の所在をめぐって会員同士が情報を交換する場にもなっていた。例 えば森銑三が勘定奉行根岸鎮衛の資料情報の提供を呼びかけたところ、根岸の子 孫と称する会員が誌上に所蔵資料を紹介したこと等がその一例である。(7) (2)研究旅行と談話会・講演会  武蔵野会の活動のなかで、定期的に行っているものに、研究旅行と談話会・講 演会がある。実地調査を重視する同会では、研究旅行は欠くことができない活動 であった。第 1 会回の研究旅行は大正 5 年(1916)8 月 19 日・20 日に行われ、府中・ 飯能・川越をまわる旅行であった。参加者は鳥居・井下のほか大野雲外(東京帝 国大学人類学教室)・佐藤醇吉(洋画家)・安部叔吾(東京府古蹟調査係)等 13 名 であった。その様子を会誌から見てみよう。(8)  一行は東京から汽車に乗り国分寺で下車すると、そこから徒歩で府中の大國魂 神社にむかった。同社宮司猿渡盛厚と地元青年会の案内で小雨の中、天神山に登 り山上から国分尼寺の遺跡を眺めた。続いて、分倍河原の古戦場跡を見学し、府 中の高安寺では畠山重忠の菩提を弔うために建立された阿弥陀仏を拝観した。そ の後、馬車で国分寺に向かい、伽藍跡・古瓦を見て回り、一行は偶然にも石鏃と 石 を発見した。この日は飯能まで行き、旅館湊屋に宿泊した。翌日、飯能を出 発して秩父へ向かい、高麗神社参拝ののち、入間から川越に入り、徳川家光手植 えの垂桜等を見て帰途についた。旅行では地元の郷土史家や青年団の協力を得て いるが、こうした動向はその後の研究旅行でも見られる。協力者を募ることで、 会員相互の交流や資料調査にとどまらず、広く武蔵野会の活動を地元の人に知っ てもらう契機になっていたと考えられる。

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 第 2 回は大正 7 年(1918)7 月に開催され、王子・赤羽方面を散策している。 彙報を見る限りでは、大正 8 年(1919)になるとかなり軌道にのってきたようで、 6 回開催されているが、同 9(1920)・10 年(1921)は各 3 回と回数が減っている。 その後、関東大震災の影響もあり低迷するも、昭和 3 年(1928)には 9 回行われた。 参加人数も増加し、大正 8・9 年頃は平均 50 名前後が参加していた。  談話会・講演会は、鳥居をはじめ、会員が研究成果を報告する場であった。談 話会はほぼ月 1 回都市部で行われ、本郷の清林寺での開催が多かった。講演会と 比べると、規模が小さい内輪の会といった印象である。講演会は広く一般に開か れた事業として行われ、ほぼ毎回、鳥居が講演者になっている。大正末年頃より 鳥居が満州の調査で多忙を極めるようになると、会員や他分野の研究者を講師に 迎えている。開催場所は日比谷・上野・麻布など都市部が多いが、川越・所沢・ 保土ケ谷等の地方開催もある。地方開催の場合は、研究旅行や会誌の特集号と結 びつけ関連事業として行われたようである。研究旅行・談話会・講演会といった 会の活動は、会と市民を結びつけるものであり、その成果は会誌を通して、広く 発信された。 (3)資料展覧会  武蔵野会は大正 8 年(1919)8 月 26 日・27 日に上野広小路松坂屋呉服店 3 階に おいて第 1 回江戸研究資料展覧会を開催した。江戸研究資料展覧会とは、江戸時 代以来の考証家や好古家による集古会や物産会を継承・発展させる目的で始めら れたイベントである。年 1 回の開催をめざしていたようだが、管見の限りでは、 大正 12 年(1923)6 月 23・24 日に深川史料展覧会、大正 12 年 5 月 22 日に本所郷 土資料展覧会、昭和 4 年(1929)1 月 20 ∼ 28 日に武蔵野今昔展覧会が開催され ているのみである。ここでは、展示資料の内容がわかる第 1 回江戸研究資料展覧 会と武蔵野今昔展覧会を取り上げてみたい。 a第 1 回江戸研究資料展覧会  この展覧会では資料を五つのコーナーにわけて展示した。その分類は、①下谷 を中心とした江戸の地誌、②武蔵野に関するもの、③武蔵野の名家に関するもの、 ④上野不忍をはじめ江戸名所に関するもの、⑤当日の講演に関する参考書である。  会場には内務省・東京府・東京市をはじめ、植物病理学者白井光太郎、建築家

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伊東忠太、随筆家三田村鳶魚他会員 28 名の所蔵品が展示された。なかでも興味深 いのは建築家フランク・ロイド・ライトの出品資料である。ライトはフェノロサ とも親交があったとも言われるが、最初に浮世絵鑑賞の手ほどきをうけたのは旧 佐賀藩士でニューヨーク起立工商会社に勤めていた執行弘道であった。この展覧 会でライトが出品した浮世絵は 56 点に及び、主として広重・国芳・北斎の江戸名 所絵である。(9)広重の作品には「隅田川八景今江夕照」・「高輪の月」・「神田明神 境内雪晴之図」等、国芳の作品には、「洲崎初日の出」、北斉の作品には「従千住 花街眺望の不二」・「御殿山の不二」・「五百羅漢寺さゞゐ」等が含まれていた。  東京府が出品した『新編江戸志』・『江戸雀』・『御府内備考』等の地誌類の多く は江戸幕府昌平坂学問所内地誌調所旧蔵史料で、明治初年に東京府が引き継いだ ものである。(10)これらの江戸地誌では「下谷」の記述部分が展示された。  白井光太郎は江戸時代の種芸書である染井伊兵衛『広益地錦抄』・岩崎常正『草 木育種』等を出品していた。全体として個人の出品には絵図類が多い傾向にある ため際立った存在であると言えよう。出品目録にはないが、当日、寛永寺から下 谷関係資料として寛永寺の絵図・天海版の蔵経等が閲覧に供せられた。この展覧 会のテーマは、武蔵野と下谷の比較にあり、地誌と絵図類を中心に都市部と市街 地の景観を展示している。テーマがはっきりしている点が、江戸時代の耽奇会に 代表されるような参加者が自由に珍品・奇物を持ちよって品評を行う会と大きく 異なるところである。  また、講演会も企画され、山中笑が「千社札の話」、白井光太郎が「江戸の本草 学と種芸」、三田村鳶魚が「元禄の奢侈罪」、伊東忠太が「江戸時代の建築」とい う論題で講演を行った。(11) b武蔵野今昔展覧会  武蔵野今昔展覧会は、昭和 4 年(1929)1 月 20 日から 28 日まで三越において 開催された。この展覧会は武蔵野会の企画ではあるが、費用面では、会場を提供 した三越をはじめ、八王子織物同業組合・武蔵野鉄道株式会社・京王電気軌道株 式会社・目黒蒲田電車会社・青梅鉄道株式会社・玉川電気鉄道株式会社・豊島園 の支援をうけている。多摩と都市を結ぶ鉄道、多摩地域の地場産業による地域文 化の支援は当該期における新動向である。地域経済との密接な関係は、郷土史が

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地域の発展に不可欠な存在になっていたことを示している。  武蔵野今昔展覧会の展示資料は「出品目録」により概要を窺うことができる。 展示の構成は明確にしえないが、おそらく「出品目録」にあるように所蔵者ごと に展示されたと考えられる。出品者は大きくわけて、官庁・博物館・大学・企業・ 郷土史団体・寺社・個人からなり、その所在地は東京府内に限らず、埼玉県川越・ 大宮、 城県笠間町といった周辺地域も含まれている。それでは、主な出品者・ 展示資料についてみてみよう。(12) ①官庁  東京府農会:武蔵野における蔬菜の産地明細図・統計他  東京市公園課:品川第三台場実測図・江川太郎左衛門肖像額他  文 部省史蹟名勝天然紀念物保存協会:武蔵野における国宝一覧表・武蔵野にお ける史蹟一覧表他  川越市史編纂所:「松平大和守御代々記」・「多濃武の雁」他 ②博物館・図書館  東京帝室博物館:吉見村横穴の写真他  東京博物館:上野公園貝塚発掘品(かき・はまぐり)他  川越図書館:「川越松山之記」・「喜多院及東照宮図」他 ③大学・学校  國學院大學考古学研究所:石器・土偶  東京高等師範学校歴史研究室:板碑  武蔵高等学校:武蔵に棲む昆虫・武蔵植物目録・武蔵野の代表的植物腊葉他  東京美術学校:喜多院職人尽模写 ④企業  三 越:「有史以前住民の生活」・「日本武尊の東征」・「在原業平東下」・「太田道灌 の江戸城における詠歌」をテーマにしたジオラマ  京王電気鉄道株式会社:沿線案内額面  東京朝日新聞社:空中写真(立川・日本橋・神宮)・連光寺写真 ⑤郷土史団体  武蔵野会:吉見横穴第百六号実測図・西ヶ原貝塚図・東京近郊における貝塚分 布図他

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 八 王子市史談会:国学三大人図・落合直澄和歌(以上、八木多次郎所蔵)、恩方 村心源院境内図(心源院蔵)、塩野適斎筆跡・「横山根源記」(津戸六郎右衛門 所蔵)、松原庵星布筆蹟(森田真之助所蔵)、千人隊遺物陣笠(和田政子所蔵)、 千人隊遺物馬乗袴他(伊藤直吉所蔵)、谷合南涯書(谷間弥七所蔵)  川越史談会:「川越素麺」・「武州川越仙波由来其他見聞記」他 ⑥寺社   普済寺:六面幢・板碑・六面幢写真  大國魂神社:武蔵鎧・武蔵総社御祭礼図・近藤勇所持の刀他  亀戸神社:桃山時代文台、節分使用衣装他  浅草寺:猿若勘三郎奉納額、桃柳軒玉山奉納雛額、「浅草寺縁起」  谷保天満宮:後宇田天皇勅額  高麗神社:観音懸仏・文明十七年鰐口・大般若経巻他  其角堂:榎本其角木像厨子附、其角筆俳諧五ケ条他 ⑦個人(主として多摩地域)   天野佐一郎(八王子市):塩野適斎書簡・下原鍛冶広重太刀  薄井金治郎(八王子市):行光太刀・武蔵太郎安国太刀  八木隆太郎(八王子市):千人組番組合図・千人組組頭指物並同心指物雛形他  本橋寛一(霞村):石 ・板碑拓本  稲葉庫太(青梅町):旧青梅縞  宮川隆司(調布町):近藤勇書簡・近藤勇建白書・土方歳三書簡  石 井正義(狛江村):「武蔵多摩郡百草松蓮寺の記」・「武蔵滝山古城図」・「武州 八王子古城図」 他    川 崎平右衛門(多摩村):孝子碑文并蜀山の文・川崎平右衛門画像・元文元年の 栗・蕎麦・鳩麦他  浅田力造(神代村):太政官公札・奉行公札  関 根貞蔵(小宮村):関根伝次郎翁画像・「永代橋架直内訳帳」・「上納木一件書留」・ 「江戸七十五橋見積書」他  鈴木半之丞(八王子市):千人隊遺物(火事羽織・陣羽織・火事袴・陣笠・火事用鎌)  横川重之(元八王子町):武蔵名勝図会稿本

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⑧その他  日本保勝協会:写真(利根川・奥多摩・妙義山・ の湖・赤城山・奥日光)  本展覧会と大正 8 年(1919)の江戸研究資料展覧会との大きな差異は、出品者 が広がったことにある。大学・図書館・博物館・企業が加わり、市民参加も大幅 に増加し、郷土史の担い手や支援者の裾野が拡大している。大正 8 年(1919)の 段階では多摩地域の出品者は東京市内と比して非常に少なかった。これに対し、 本会では、八王子を中心に青梅・調布・狛江の資料所蔵者が多数、参加している。 この背景には、地元の郷土史家や武蔵野会会員の努力もさることながら、八王子 史談会という郷土史団体が設立された影響が大きい。そして、出品資料を見ると、 八王子千人同心・新 組・新田開発という現在に通じる多摩地域史のテーマとイ メージが創られつつあることが看取できる。大正 8 年(1919)から約 10 年の間に 郷土史研究が大学・博物館・図書館等を取り込みながら、地域の課題になっていっ たことを示している。その地域の課題に鉄道関連の企業が参加し、観光と結びつ いて史跡名勝保存の広報がなされていったのである。  また、多摩地域における昭和初年の郷土史の隆盛に武蔵御陵(多摩陵)影響が 大きかったことは否定できない。武蔵御陵参拝者が増加し、鉄道の需要も高まっ て周辺地域の名所をあわせて巡るハイキングコースも出来上がった。しかし、出 品資料を見る限り、近代天皇制に取り込まれるというよりは、地域の個性の発見 へと向かっていったと考えられる。例えば、小宮村の関根氏が出品した資料は材 木流通に関する古文書で、八王子の材木が江戸の橋梁に使われていたことを示す ものである。林業という八王子の主要産業に関する貴重な史料であり、現在の多 摩地域研究においても注目されている。昭和期に入り、郷土史研究は地域の発展 とあいまって多くの市民参加を得ながら、新たな段階に入ったのである。  さらに、展示技術という点では三越が提供したジオラマが注目される。原資料 を展示するだけではなく、そこから知り得る前近代の武蔵野の姿を模型で示した ことは、来場者の地域史に対する想像力をかき立て、理解を促すものである。現 在でいうところの資料を分析したパネルも展示されており、展示技術においても 10 年程の間に大きな進展があったことが窺える。

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 3 郷土史運動と地域政策-史蹟保存運動と帝都復興-  武蔵野会は、人文系と自然系を合わせた団体として趣味的に交流する会として 発足したが、前述のように実際の活動は多方面にわたり、地域の課題にも積極的 に取り組んでいた。とくに、同会が史蹟保存活動の一環として都市政策に様々な 提言をしていたことは興味深い。創立メンバーに井下清が参画していたように、 会員には東京府・東京市の職員も多く、会誌にはそうした人達の意見も載せられ ている。それは一面では、自治体の政策の下支えになっているとも言えるが、関 東大震災後の帝都復興政策においては、東京市が十分に配慮できていない部分を 鋭く指摘している。ここでは、同会の史蹟保存運動を震災復興政策との関係から 見ていきたい。  関東大震災は、大正 12 年(1923)9 月 1 日午前 11 時 58 分、相模トラフと呼ば れる海構沿いのプレートの境界で発生した広範囲な断層のズレによって発生した マグネチュード 7.9 とされる巨大地震である。東京市の死者・行方不明者は 6 万 人強、住家被害 16 万棟強で、地震後の火災が被害をより一層大きなものにした。  9 月 21 日、帝都復興審議会が発足し、復興省の設置や復興経費・土地整理につ いて審議が始められた。研究史に明らかなように、予算上の問題から、復興事業 は当初計画の大規模な縮小を余儀なくされ、街路建設計画を中心とした事業になっ てしまった。(13)  武蔵野会では、会誌に黒板勝美「帝都復興と史蹟保存」・井下清「史蹟保存と公 園計画」を掲載し、さらに「帝都復興に際し史蹟名勝天然紀念物保存に関する建 議書」を提出した。(14)以下ではまず、黒板勝美の意見から見てみよう。  黒板勝美は、冒頭で東京府・東京市の文化財行政に対し、「頗る冷淡」・「殆ど無 関心」という痛烈な批判を加えている。当時、東京府・東京市では、ようやく史 蹟名勝の調査・保存に対する法整備が整い、6 ∼ 70 箇所の史蹟の仮指定、そのう ち 45 箇所の史蹟指定がなされ、史蹟名勝保存が緒についたという状況であった。 黒板は一部の市民の無関心と批判は、確実に大震災後の史蹟保存に悪影響を及ぼ していると述べ、史蹟保存を方法論から考え直す必要があると主張した。黒板の 考える史蹟保存とは史蹟の現状保存である。復興計画では、道路建設等のインフ ラ整備が優先され、それに伴う史蹟の移転・消滅への配慮が全くないことを批判

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している。現状を維持した保存こそが史蹟の文化財として価値を保つことである という思想は現在にも通じるものである。黒板は具体的な保存対象として、増上 寺の歴代徳川将軍の御霊屋、旧大名屋敷の門などをあげ、法律上別個に扱われる、 古社寺保存法と史蹟名勝天然紀念物保存法を、一体のものと捉え、両者を援用し て修復・保存にあたる必要性を述べている。また、従来の古社寺保存法では建物 の修理は可能でも防災措置には不十分であることも指摘している。  これに対し、井下清は東京市職員の立場から、史蹟保存の必要性を認めながらも、 完全な現状保存は不可能であること、公園を利用した史蹟保存も必要でないかと 述べた。(15)両者の意見は、会誌上で真っ向から対立するが、武蔵野会は学識経験 者と東京市の両者の立場の発言を掲載し、読者にその判断を委ね、その上で会と しての意見も提示した。以下に武蔵野会の「帝都復興に際し史蹟名勝天然紀念物 保存に関する建議書」を紹介しよう。(16)  この建議書は武蔵野会代表鳥居龍蔵の名前で、大正 13 年(1924)2 月帝都復興 院総裁内務大臣水野錬太郎に提出された。建白書では、まず、復興計画のなかに 史蹟保存を入れる必要を述べた上で、10 項目にわたる具体策を提示した。  ①史蹟の現状維持には、史蹟周辺の環境も考慮すること。  ② 永久に保存する場合には周辺の土地も合わせて保存し、それが不可能な場合、 公園地の利用もやむを得ない。  ③貝塚又は遺跡含有層は公園地にして保存し、樹木で囲み説明板を建てること。  ④由緒ある寺社の防火対策をたてること。  ⑤保存すべき墳墓は景観を配慮して残し、付近の墳墓をその りに移転する。  ⑥ 著名な事件・人物の家屋は保存を必要とするが、不可能な場合は標識のみを 建てる。  ⑦名園は復旧保存し、当初の姿を復原すべきである。  ⑧道路・橋梁などの史蹟については標識を建てる。  ⑨ 老樹・名木のうち保持し得るものは、付近の土地をふくめて保存し、完全な る保存が難しい場合は代樹を植える。  ⑩史蹟の説明板は一定とするも状況に応じて素材などを工夫する。  これらの内容からわかることは、史蹟そのものを単純に保護しても意味がなく、 景観保存が必要であるということである。しかしながら、それが出来ない場合の

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代替措置も考えられている。さらに、①について、現状保存を優先したため、住 宅地の中に史蹟がひっそりあるような状況になってしまっては、真の保存にはな らないとも述べている。  武蔵野会の主張は、基本的には黒板の保存論を基盤としつつ、井下の意見も取 り入れ、両者の折衷案を試みている。アカデミック偏重にならずに、主要部分の みを取り込み、そこに地域の意向を付け加えた点に郷土史団体としての武蔵野会 の特徴がある。  4 郷土史運動の広がり-多麻史談会を中心として-  多摩地域では、武蔵野会の影響をうけて、大正 11 年(1922)に天野佐一郎(東 京府立第二商業高校教諭)等を中心とした八王子史談会、猿渡盛章(大國魂神社 神主)を中心とする府中史談会、昭和 8 年(1933)には多麻史談会、昭和 12 年(1937) には西多摩郡史談会が発足した。これらの研究会の創設に関わった人々はいずれ も武蔵野会の会員であった。こうした郷土史団体の設立は、武蔵野会を媒介して 郷土史運動が地域に定着・拡大していく様子を示している。  ここでは多麻史談会(後の東京史談会)を事例に、武蔵野会から派生した郷土 史団体の具体相をみていく。(17)多麻史談会は三多摩と、その周辺の郷土研究を目 的として発足した。同会では会長を置かず、その代わりに、都市部で活動する在 京幹事と多摩地域で活動する郷土幹事を置いた。  郷土幹事は猿渡盛厚・天野佐一郎・斎藤宗志郎・石井正義が、在京幹事は菊池 山哉(東京市役所公園課職員)他 4 名がつとめた。年会費は一円で、会員は年 4 回発行される雑誌『多麻史談』に投稿することができた。会の主な活動は、武蔵 野会を模して会誌の発行、談話会・研究旅行の開催であった。会誌『多麻史談』 の編集は菊池を中心に進められた。会誌の題字は猿渡盛章によるもので、毎号の 表紙の絵は、「八王子車人形」(宮尾しげを画)、「多麻川布晒し」(中村岳陵画)等 の多摩地域の文化を表わすモチーフが採用された。  創刊号には、次のような天野の「発刊の辞」がある。(18) 我が多摩三郡は古来地理的に歴史的に、地質的にも気象的にも将又経済的に

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も、自然と人文との関係が密接で、所謂地人相関の理が一貫して行はれてゐる。 今日の如く南北西に分かれたのは明治十二年以来の事で、昔は多摩一郡で、 植田孟縉の『武蔵名勝図会』多摩郡の部は、即ち今の三多摩以東野方、世田ヶ 谷まで及んでゐるが、大體三多摩の史蹟名勝を録したもので、吾人は此意味 からも三多摩は相互の郷土であるという信念があるので、多摩人は互いに何 事にも精神的結合を主とすべく、必しも今の行政区画に拘泥する必要はない と思ふ。 今日郷土研究の意味は頗る広義に唱えられ、地理的観察や歴史的研究のみで なく、社会的調査殊に経済生活及産業等に関する考察といふやうに多方面に 及び、随つて吾人の史的研究も文書典籍にのみ拠らず、地上土中の史蹟遺物 にまで力を注ぐやうになり、口碑伝説習俗等にも耳を傾けるやうになり、更 に地形風土が及ぼして然らしめてゐる生活様式をも考へるようになつて来た。 今や最近十数年来、我国に於ける郷土研究の進歩は著しいもので、我が三多 摩にも到る処熱心なる研究者の輩出を見るやうになり、之が団体もあるので あるが、今日まで其の連絡の機関もなく、又研究発表の機会もなかつた不便 を痛感して、玆に同人相謀り多麻史談会を起こし「多摩麻史談」創刊すること になった。  天野は「発刊の辞」の中で、①現行の行政区域を越え、三多摩を一体と考えて 研究対象とすること、②地理学や歴史学(文献史学)だけではなく、「土中地上の 史蹟遺物」を対象として、考古学・民俗学的成果を取り入れた研究を行うこと、 ③多麻史談会が多摩地域の郷土史家の相互交流の場であることを主張している。 とくに、②については武蔵野会の発会の趣旨とも共通する。また、天野が植田孟 縉『武蔵名勝図会』を事例に、行政区域に拘泥しない多摩地域全体の研究の必要 性を、説明しているのも興味深い。江戸時代の地誌が郷土史研究の先駆的研究と して再定義されたと言えよう。  同会発会の背景には、当時の郷土史研究の手法の変化も看取できる。多麻史談 会は郷土史研究が文献資料に限らず、考古の出土品や伝説・習俗を対象とするよ うになった動向にも注目していた。このことは、同会が神社仏閣の絵馬・氏神の 伝説・雨乞いや盆踊り等の年中行事、方言等研究対象としている点にも示されて いる。

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 同会の戦前の活動として特筆すべきものに小河内ダムの建設に伴う景観・史蹟 保存運動があげられる。(19)小河内ダム建設は東京の水道源水の確保を目的に計画 されたものである。昭和 7 年(1932)、東京市議会の議決に基づいて建設申請がな され、同 13 年(1938)に着工した。しかし、戦争の激化に伴い工事は一時中断し、 同 23 年(1948)に再開、同 32 年(1957)に竣工した。  この計画が東京市議会で可決されると、建設予定地にあたる小河内村は反対運 動を展開した。当初の計画では、村の中心部は水没するものの、 莱島一帯と鶴 ノ湯温泉は存続することになっており、この点で東京市と村民との合意が成立し ていた。しかし、現地調査の結果から当初の建設予定地が地質学上、危険である ことから建設地が下流に設定され、一村が水没することになったのである。  多麻史談会では、これをうけて会誌『多麻史談』において小河内特集を企画し た。(20)特集では、小河内村の歴史・考古・伝説・獅子舞・民家を紹介している。  また、本誌には時事新報社社長武藤山治が東京市に提出した意見書に対する同 市の回答書が掲載されている。(21)これによれば、東京市はダム建設にあたり、① 奥多摩渓谷の景色を写真あるいは絵巻物として記録する、②特殊な民家を写真と 実測によって保存する、③神社・寺院・墓地の移転を考慮する、④建造物以外の 郷土史蹟をできるだけ現状のまま保存する、⑤小河内温泉の保存を考慮する、⑥ 金御嶽神社の神像の保存、⑦小河内村史の編纂、の 7 項目の実施を確約している。 多麻史談会も「小河内問題に対する意見」として、①ダム建設地を当初計画の場 所にすること、②当初の建設地が危険であれば、さらに上流に予定地を設定する ことの 2 点を主張し、ダム建設反対の立場をとった。(22)  さらに、多麻史談会は昭和 8 年(1933)11 月 18 日、第 2 回見学会を小河内村 で開催した。見学会では、獅子舞・車人形・神楽・鹿島踊・影絵といった郷土芸 能の観賞、金御嶽神社・普門寺の視察等を行った。  なお、この見学会の様子を掲載した会誌はこれまでの最高発刊部数を記録した。 多麻史談会は、ダム建設に反対する会員の活動も積極的に支援した。同会会員斎 藤宗志郎は西多摩郡史談会会長として「小河内村史蹟名勝保存に関する陳情書」 を東京市に提出し、郷土資料保存のために「小河内村懐古記念館」の設立を要求 したが、多麻史談会では、この陳情書を会誌に掲載した。こうした地域の要求の 一部は実現し、昭和 13 年(1938)、東京市から『小河内貯水池郷土小誌』が刊行

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された。昭和 29 ∼ 30 年度(1954 ∼ 55)には、文化財総合調査が行われ、民俗資 料は「小河内の生活用具コレクション」として東京都郷土資料の認定を受けた。 斎藤氏が要求した記念館の設立は、昭和 53 年(1978)にいたってようやく奥多摩 郷土資料館として実現された。  おわりに  雑 ではあるが、武蔵野会とそこから派生した多麻史談会の活動を通して 1920 年代の多摩地域の郷土史運動を概観した。  多摩地域において、武蔵野会の存在は、今に続く市民の地域史運動の原点になっ ていることは間違いない。武蔵野会設立当時、東京府・東京市の職員が多いなか、 徐々に市民が参加していったのは、江戸時代以来のこの地の風土があったからだ と言える。18 世紀世紀半ば以降、多摩地域では地域に対する関心が高まり、地域 や村の歴史が記されるようになった。江戸幕府による『新編武蔵風土記稿』や植 田孟縉による『武蔵名勝図会』は近代以降、地域史の基本史料として利用され、 会誌『武蔵野』の論文にも多々、引用された。そして植田孟縉は郷土史研究の先 駆的な存在となっていた。こうした歴史的経緯が、多摩地域の人々が武蔵野会に 参加するにいたる土壌になったと考えられる。アカデミー史学が 20 世紀初頭に成 立すると、郷土史団体は近代的知を地域社会に定着させる媒介項として機能した。  その後、東京の都市整備とあいまって、多摩地域が東京近郊の観光地となると、 観光と郷土史が結びつき、郷土史への関心も高まった。会の活動においても、こ の影響は大きく、会誌においても多摩地域の論文が増えており、調査旅行も企画 された。  また、武蔵野会の活動は、郷土史の裾野を広げただけではない。鳥居は設立当 初、趣味的な団体として位置づけていたが、会誌上では東京府・東京市の文化財 行政の取り組みを紹介し、会員や学識経験者の史蹟保存に関する意見、他の郷土 史団体の活動を発信しつづけた。都市計画が進む中で、江戸情緒あふれる「深川」 の消滅を危惧し、会誌で深川特集を組み黒板勝美の論考を載せているのもその一 例である。同会の地域政策に対する関心が最も高まったのが関東大震災後の復興

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事業のさなかであった。地域が再生されるなかで失われつつある史蹟、インフラ 整備の前で消滅を余儀なくされる史蹟に対して保護を訴えたことは、復興計画が 見落としたものを指摘し、一石を投じた言えよう。同会では会誌上に復興に対す る学識経験者と行政の両方の意見を紹介すると同時に、両者の意見を反映した実 現可能な意見書を提示した。ここに武蔵野会の活動の到達点を見ることができる。 当該期の郷土史運動の研究は、これまで近代天皇制との関係、あるいはアカデミ ズムとの関係で論じられてきた。近代天皇制やアカデミー史学に取り込まれ、新 たな価値が生まれることで、それまでの地域の個性が失われたことが指摘されて いる(23)。1920 年代の武蔵野会の活動を見る限り、両者の影響を受けつつも、その どちらとも距離を保ち、状況に応じて取り込みながら活動を続けていた点を見逃 がすことはできない。そこには、郷土史は地域住民によって担われるものであり、 地域住民にとって最も重要なことを主張していくという地域主義があった。そし て、それこそが鳥居の言う「趣味的な」研究だったのである。武蔵野会が創り出 した多摩の歴史像は、同会をめぐる社会的諸関係の産物であり、その形成過程を 明らかにすることは、実定化された地域史を脱構築していく指針たりえると言え よう。 註 ( 1 )若井敏明「皇国史観と郷土史研究」(『ヒストリア』第 178 号、2002 年) ( 2 )高木博志『近代天皇制の文化史的研究』(校倉書房、1997 年)、同『近代天皇 制と古都』(岩波書店、2006 年)。 ( 3 )斎藤智志『近代日本の史蹟保存事業とアカデミズム』(法政大学出版部、 2015 年)。 ( 4 )『武蔵野』第 8 巻第 2 号(1926 年)。 ( 5 )『武蔵野』創刊号(1918 年)。 ( 6 )『武蔵野」第 5 巻第 2 号(1922 年)。 ( 7 )『武蔵野』第 10 巻第 3 号(1935 年)、『武蔵野』第 10 巻第 5 号(1927 年)。 ( 8 )『武蔵野』創刊号(1918 年)。 ( 9 )『武蔵野』第 2 巻第 3 号(1919 年)。

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(10)拙稿「東京府における旧幕府関係史料類の収集・管理について」(『中央史学』 第 34 号、2013 年)。 (11)『武蔵野』第 2 巻第 3 号(1919 年)。 (12)『武蔵野』第 13 巻第 5・6 号(1929 年)。 (13)北原糸子『関東大震災の社会史』(毎日新聞出版、2011 年) (14)∼(16)『武蔵野』第 7 号第 1 巻(1924 年)。 (17)多麻市談会の活動については、拙著『近世日本の歴史意識と情報空間』(名 著出版、2010 年)を参照。 (18)『多麻史談』創刊号(1933 年)。  (19)小河内ダムの建設経緯については、東京都教育委員会編『東京都文化財調査 報告書第四集 小河内の文化財調査報告』第一分冊(1957 年)および (17) 拙著に詳しい。 (20)∼(22)『多麻史談』第 2 巻第 2 号。 (23) (3)に同じ。

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