• 検索結果がありません。

総合農政期の香川の農村と農業-香川大学学術情報リポジトリ

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "総合農政期の香川の農村と農業-香川大学学術情報リポジトリ"

Copied!
51
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

香 川 大 学 経 済 論 叢 第 72巻 第 2号 1999年9月 85-135

総合農政期の香川の農村と農業

唯 之

はじめにー総合農政の登場 拙稿「基本法農政の展開と香川県農業J('香川 大学経済論議』第 72巻第 1号, 1999年,以下,前稿という)で詳しくみたように,基本 法農政が謡う農工聞の所得均衡は昭和

4

0

年代のはじめに早くも実現したが,そ の実現はじつは兼業化の進展によってもたらされたものであって,自立的経営 を行う規模の大きな農家群が育ったからではなかった。自立的経営農家が育つ ことによって農業構造が改善されることこそ基本法農政が最終目標としたとこ ろであり,大量の国家資金を注入して全国的規模で実施された農業構造改善事 業も自立経営農家育成のためのハード面での整備であったが,しかし,自立経 営農家は育たなかった。『農家経済調査~ (農林省)によれば,昭和

3

5

→昭和

4

5

年度の間,自立経営農家が総農家,農業粗生産額,耕地面積に占める割合は, それぞれ,ふ

6

6

,,

6%

2

3

25%

2

4

18%

へと推移した。これでは到底, 自立経営の順調な形成をいうことは困難であろう。 とはいえ,農業が自立的産業として発展していくためには,やはり日本農業 の零細経営構造そのものを改善するほかに途がない。しかも昭和

4

0

年代に入っ て貿易の自由化がさらに進展して農産物輸入が急増し,日本の食糧自給率は穀 物ベースでいうと昭和

3

5

年の

83%

から昭和

4

5

年には

46%

に急低落した。日本 の食糧安全保障を危ぶ、む声が生まれたのは,昭和

4

0

年代のはじめのことであ る。農政サイドにとって自給率がこれ以上低下することをおしとどめるために も,農業の構造改善はいっそう必要であった。 さらに,日本農業をとりかこむ次のような新しい状況が昭和

4

0

年代に現出し

(2)

た。その第1はコメ過剰の発生であり,第2は農地価格の急騰である。いずれ についてもその経緯やこれに関連して展開した農業施策については後述する が,第

1

のコメ過剰は天候に恵まれたなどといった偶発的事情によるものなど で は も ち ろ ん な し 昭 和20年代後半の食糧増産時代以来,着実に形成されてき た稲作の生産力上昇にもとづく生産増と高度経済成長下で進行した食生活の向 上と洋風化による需要減,この二つのいわば構造的要因によってもたらされた ものであったがゆえに,そしてまた問題のコメが日本の農業と農家経済の根幹 をなす作物であったがゆえに,こののち長く政府はその対策 その具体的施 策が「生産調整政策」という名の減反政策であった一一ーに苦慮しつづけること になる。 第2の地価高騰は都市化の進行によってもたらされたものだが,地価が高騰 すれば経営規模拡大を志向する農家の土地集積が困難となるだけでなく,農産 物輸入が急増して農業収益が低下傾向にあるいま,高地価では農業経営そのも のが採算ペースに合わなくなる。それどころか,農地価格が高騰して農地の資 産価値が高まれば,農家は農地を保有しつづけて売ろうとはしないであろう。 基本法農政が眼目とする自立経営の育成は農地が流動化することが大前提であ るのに,そもそも農地が流動化しないという,基本法農政にとってはまことに 深刻な状況が,昭和40年代に入って形成されつつあったのである。 昭和40年代はじめ,農政サイドから「総合農政」が提唱された。いうところ の総合農政とは,以上のような日本農業をとりかこむ新たな状況を踏まえるな らば,農政はこれから,農家の生産から生活にまたがり,個別経営から集団・ 地域組織にまたがり,さらには生産から加工・流通にまたがる施策として総合 的に行われなければならず,しかも今日の農業問題が現実に農政固有の領域を 超えて他の政策分野と関連するに至った以上,農政はその関連する政策分野と 提携しつつ展開されなければならない。このようにすることによって,構造政 策を基軸とする基本法農政の理念をあらためて期そうというのが総合農政で あった。その意味で総合農政は基本法農政の手直しを図ったものであったとい えよう。

(3)

395 総合農政期の香川の農村と農業 -8界一 ところで,戦前の日本の「むら」は,階級構造としては地主制社会であった が,同時に共同体的組織でもあった。近代村落社会における地主制的構造は農 地改革によって消滅したが,村落の共同体的構造は農地改革後も存続した。そ れは当然のことであって,水田一枚一枚が水でつながっている日本の水田農業 では,村人たちが共同して管理にあたらなければその生産的機能を維持するこ とができない。その意味において稲作を中心とする日本の農業はむらぐるみ, 地域ぐるみで支えられてきたのであった。現在,全国のむら,地域において混 住化が急速に進行している。香川県の場合,昭和

3

5

年には

1

集落当たり平均で

67%

であった農家率は昭和

5

5

年には

38%

へと急減した。むらといいながら,そ の住民の半数以上は非農家なのである。そしてさらに,半数以下の農家自体も その大半は農業生産から後退しつつある兼業農家である。このまま兼業化と混 住化が進めば,地域の農業は崩壊しかねない。総合農政期のこの時期に「地域 農政」や「地域農業J,さらには「村おこし」が提唱された理由はここにあった。 それだけではなく,大規模経営創出のための構造政策を推進するためには地域 ぐるみの話し合いと合意形成による農地利用の調整が必要だし,さらにまた生 産調整政策を効果的かつ円滑に実施するためには地域ぐるみでの集団的対応が 必要なことも地域農政が提唱された理由として指摘することができるであろ う。 しかしそれでは一体,国家的規模で実施された農業構造改善事業にもかかわ らず自立経営農家が一握りにすぎなくなった厳しい現実を前にして,誰が地域 農政を担うというのか。そこで登場したのが中核農家であった。この期に農政 サイドから“日本農業の担い手"として提唱され,これからの日本農政の新し い戦略目標となった中核農家とは,

1

6

歳以上

6

0

歳未満の男子で,自家農業に従 事する日数が

l

年のうち

1

5

0

日以上にのぽる男子基幹農業専従者のいる農家の ことである。中核農家という発想、が登場したのは昭和 48年の「農業白書」であ るが,その 48年白書によると日本の中核農家は昭和 47年現在,わが国農業の 生産の

65%

を担い農家のほぽ

3

割を占める。この中核農家が自立経営農家に代 わり日本農業の中心的担い手となってこれからの地域農業,さらには日本農業

(4)

を支えることが期待された。 総合農政期の香川の農業構造改善事業 香川県の第二次農業構造改善事業 第一次農業構造改善事業(以下,一次構 という)のあとをうけ,その反省と経験のもとに第二次農業構造改善事業(以下, 二次構という)が昭和45年からスタートした。高度経済成長を背景にその波に のって開始された一次構に対し,二次構は,高度経済成長そのものがかえって 農業の近代化を阻害するようになるという状況一一兼業化の進行,新規就業農 業者の激減,基幹的農業従事者にまでおよぶ、離農,地価の高騰や無秩序な農地 開発,さらには農民の生産意欲を大きく減退させたコメの生産調整等々一ーの もとでのスタートとなった。そのうえに二次構にとって都合の悪かったことは, 昭和48年10月にアラブ産油諸国のOPEC(石油輸出国機構)による原油輸出の 禁止ーいわゆる石油ショックが勃発したことであり,そのため二次構も一時そ のテンポを遅らさざるをえなくなった。石油ショックは石油化学工業や石油精 製工業を中心とする工業生産だけでなく,農業にも一一一施設園芸をはじめ農 薬・化学肥料にいたるまでその生産は石油消費のうえに成り立つ一一深刻な衝 撃をあたえたからである。香川県の二次構も石油ショックのやわらいだ昭和

5

0

年代前半に集中的に実施された。 さて i第二次農業構造改善事業促進対策要綱J(昭和44年)によると,二次構 は i経営の規模拡大および生産の組織化を通ずる農業経営構造の改善を推進」 する構想のもとに i自立経営等規模の大きし生産性の高い農業経営を育成し, これらの経営が地域農業の中核的な地位を占める農業構造の実現」を目標とし てすすめられることになった。こうした二次構の事業上の特徴は,農業生産の 組織化をめざす大型農業近代化施設の補助金の比重をますとともに,その組織 の中核となる個別自立経営育成のために手厚い資金手当てをもって農地の流動 化をはかるという点にあった。農地流動化に関していえば,二次構であらたに 設けられた農業経営整備事業がこれにあたる。しかし,農業経営整備事業は昭 和40年代の後半以降,とくに田中角栄内閣の「列島改造計画」で燃え上がった

(5)

397 総合農政期の香川の農村と農業 -89ー 土地投機のブームのなかで異常に急騰する高地価が壁になって進展せず,香川 県でも農業経営整備事業をとりあげた地区はほとんどなかった。 二次構は全国1,986地区において総事業費約6,544億円を投じて実施され た。香川県は25地区で実施,事業費の総額はおよそ90億7,000万円であった。 その内訳をみると,土地基盤整備事業が 28億 2,000万円,近代化施設整備事業 はそのほぽ2倍の55倍、1,000万円となっている。1地区当たりの平均事業費は

3

6

,000万円で,当初計画より

1

億円近く上回っているが,これは先に指摘 した石油ショックによる建設材料費などの高騰が原因であった。 二次構実施の状況 それでは香川県ではどのような内容の事業が実施され たか。以下,昭和45年実施の高瀬町二ノ宮地区,昭和49年実施の塩江町安原 地区,昭和 51年度実施の牟礼町原地区および高瀬町上麻地区,以上 4つの地区 の構改事業を紹介しよう。 (イ)山間丘陵地帯の高瀬町二ノ宮地区ではその立地条件を生かした近代的な 集団茶園の造成が事業の中心におかれた。農地造成改良事業と農地の交換 分合事業を実施して多数のスプリンクラーを設置した大規模な茶園の造成 を行う一方,関係農家の共同防除体制を確立すべく二ノ宮地区茶園共同防 除組合がつくられた。この茶園造成にあわせて,集荷加工施設として緑茶 加工施設と茶業センターも建設された。集荷加工にあたるのは,高瀬茶業 組合である。 (ロ)安原地区のカーネーション団地は5haの広大な敷地に6棟のガラス温室 を建設して年間300万本ものカーネーションを栽培する。事業主体は香花 園とよばれる農事組合法人で,関係農家は 6戸,ただしいずれの農家も高 松市中央農協の組合員であり,安原地区からは遠く離れた地区外の農家で ある。あえて地区外の安原地区が団地の敷地に選定されたのは当地区が過 疎地でまとまった敷地が取得しやすしまた夏場の花き栽培管理が高冷地 の当地区では容易との判断からであった。香花園のカーネーションの作型 はさし芽を6月におこなう冬切り型で 5月の「母の日」に出荷の最盛期 を迎える。出荷先はほとんどが京阪神地方であった。

(6)

(ハ)高松市に近い原地区がめざした都市近郊型の農業は,キュウリの周年栽 培とその主産地化であった。キュウリ栽培に力を注ぐため,牟礼土地改良 区が事業主体となって39haの水田の区画整理を行うとともに,トラク ター・コンノてイン・田植機などの農業機械を購入して協業体制をつくり, コメ作りの省力化をはかった。園芸施設としては

2

0

棟のビニールハウスの ほか,育苗[ハウスと集出荷場がそれぞれ

1

棟建設されている。そしてコメ 作りには原農業生産組合が,またキュウリ栽培には原園芸組合がそれぞれ あたることになった。 (ニ)高瀬町の上麻地区では14棟の豚舎建設を中心に関連の諸施設を整備し て生産性の高い繁殖・肥育一貫経営の養豚団地が造成された。経営の方式 は7農家の協業で,緑カ丘産業(農事組合法人)を設立し,種豚 530頭,肉 用の豚3,000頭を飼育する。関係の 7農家は養豚のほか,コメとミカン, タケノコをつくる複合経営農家である。 香川県の二次構は昭和56年にすべて完了した。その実施状況をみると,25の 実施地区のうちその半分の

1

2

地区が三豊地域に集中しており,そのうえ,計画 地区のうち南川・阿讃山麓・安原の3地区は同じ塩江町に,また尾賀瀬・北地 下・川上の3地区も同じ財団町に含まれるなど,一次構に比べて実施地区のか たよった改善事業となった。高度経済成長の波に洗われて農業集落の空洞化が すすんだ都市近郊の農村地帯などのように事業に対してあまり熱心でない地域 と,純農村などの熱心な地域との違いが明らかになり,それがこのような実施 地域のかたよりとなってあらわれたのであろう。なお,二次構が重点をおいた 大型近代施設の導入は,多くの農民による組織的な利用が前提となっており, したがって大型近代施設の導入を契機にしてさまざまな形態の農業生産組織が つくられた。既出の緑カ丘産業や香花園,二ノ宮地区茶園共同防除組合なども そうした農業生産組織であった。 新農業構造改善事業 一次構,二次構につづく新農業構造改善事業は昭和 53年に発足した。 5カ年を 1期として前期対策と後期対策からなる新農業構造 改善事業は前期,後期を通じ,中核農家を育成して農業構造の改善を図るとい

(7)

399 総合農政期の香川の農村と農業 -91ー う構造政策の立場を堅持しつつも地域というものを重視し,農業集落を基礎に 地域ぐるみで中核農家を基軸とする農業の組織化や農用地の利用増進などを進 めるべく施策を展開していこうというころに,先行する構改事業とは異なる新 しい特徴があった。水田利用再編事業の開始を眼前に控えた農政当局の,減反 政策としては一層本格化した当事業を地域全体の合意形成のもとに順調に進め ていきたいという強い意志がこうした農政展開の背景にあったといえよう。そ してさらに農村部の生活環境の整備を図っていこうとした点も,新農業構造改 善事業のもうひとつの新しい特徴であった。都市に通勤するサラリーマンや労 働者が農業集落に数多く住みつくようになってその生活環境の立ち遅れが目立 つようになる一方,この混住化の進行とともに農業集落の自治的機能が急速に 失われつつある今日的状況に対処するための措置であり対策であった。 新農業構造改善事業を事業内容からみると, 2~3 集落を対象とする地区再 編農業構造改善事業,旧町村程度の地域を対象とする農村地域農業構造改善事 業,広域農業構造改善事業,それに特定地区農業構造改善事業の

4

種類の事業 が設けられた。これら

4

種類の事業のうちその中心的事業となる地区再編農業 構造改善事業については,これを地域ぐるみで推進するための「作付栽培協定」 が農政側から提唱された。ここでいう作付栽培協定とは,市町や農協,土地改 良区などの支援のもと,-関係農家の話し合いを通じて,土地を遊ばせず,農畜 産物を少しでも安く計画的に生産し,そして兼業農家の安定にも結び付け,集 落(地区)農家みんなが楽しい生活をするためにはどのようにしたらよいかJ(r農 業香川134巻6号に掲載の「新農業構造改善事業で取り組む村づくりJ13 P)について, その基本計画を集落レベルで自主的に決定し実践することをいう。そしてその 中軸に位置するのが中核農家であった。いわば昭和

5

0

年代版村づくり計画とで もいうべきこの作付栽培協定を通じて農民の連帯感を醸成し,ひいては地域農 業の衰退傾向に歯止めをかけたいという農政当局の意図をそこにくみとること ができょう。 新農業構造改善事業の実施状況はどうであったか。 まず,前期対策では,地区再編農業構造改善事業は寒川町石田西地区など26

(8)

地区,農村地域農業構造改善事業は善通寺市善通寺北部地区など 12地区で実施 された。投ぜ、られた事業費は事業全体で 161億 2.600万円で,その内訳をみる と,土地基盤整備が 87億 5,100万円と事業費の過半の 54ゅ3%を占め,これに 38 億 5,400万円, 23..9%の環境施設がつづく。区画整理が行われて様相が一変し た綾上町境場地区や三野町久保谷地区の水田,巨大な

4

本の円柱をもっ引田町 相生地区の穀類等乾燥貯蔵施設,有線テレビ施設を備えた寒川町寒川地区の農 村情報連絡施設,大野原町大野原中央地区の近代的な農業者トレーニングセン ターなどはいずれも,この新農業構造改善事業によって誕生したものである。 次に後期対策の場合,地区再編農業構造改善事業は坂出昭和府中地区など 11 地区,農村地域農業構造改善事業は高瀬町麻地区など7地区で実施された。投 ぜられた事業費は全体で 88億 1,100万円で,その内訳は,土地基盤整備 31億 3,800万円,環境施設 21億 9,200万円,近代化施設 17億 7,000万円などであっ た。香川県農林水産部の作成になる『新農業構造改善事業後期対策の歩み』の 見聞きに掲載されている琴南町中適地区の区画整理地,高瀬町麻地区の農道, 塩江町塩江北部地区の濯概排水,志度町大串地区のワイン工場,引田町・白鳥 町東讃地区のカントリーエレベーター,高松市高松南部地区の育苗施設,大川 町大川地区の農村景観活用交流施設等々は,この新農業構造改善事業後期対策 によって実現したものである。 新農業構造改善事業はすべての事業を平成

5

年に完了した。地域情報の流れ る有線テレビの施設や自然体験を学ぶ学習センター,あるいは農村地域の住民 たちの交歓の場である研修休養施設・運動広場など,これまで日本の農村,香 川の農村にはなかった新しい施設は新農業構造改善事業がもたらしたひとつの 成果であった。しかし土地基盤を整備し農業施設を建設することによって農業 構造を改善しようという構改事業本来の目的を達成するには,新農業構造改善 事業をとりかこむ日本,香川の農業の現実はあまりにもきびしかったといわな ければならない。『新農業構造改善事業後期対策の歩み~ (香川県農林水産部,平成 9年)も,担い手の育成確保について r県下総体に,新規就業者の減少に歯止 めがかからず,担い手の高齢化・婦女子化や兼業化が進行していることから,

(9)

401 総合農政期の香川の農村と農業 -93 今後もさらに担い手の不足する状況は持続するものと見込まれ,均衡ある地域 農業の確立という視点、から事業実施地区においても優れた担い手の育成確保な ど農業生産条件の改善に努めるなどして,生産性の高い水田農業を確立するこ とが課題である。」と述べているように,地域農業を支えるべき中核農家は香川 の農村でも育たなかった。昭和

5

0

年段階では総農家の

1

6

.

.

2

%

1

2

0

8

8

戸を かぞえた香川の中核農家であったが,平成

2

年には

5

1

3

0

戸へと急減している (前稿『基本法農政の展開と香川県農業』に掲載の表5参照)。

新たな土地利用政策の展開と農地問題 「都市計画法」と「農振法」 高度経済成長と都市化の進展による農地の転 用と潰廃は,昭和

4

0

年代後半になると減反政策が行われていっそう拍車がかか り,大量の農地が日本の農村から消滅した。昭和

3

5

年から昭和

4

5

年の

1

0

年間 で

2

8

h

a

消滅した農地は,さらにその後,同じペースでへりつづけ,平成

2

年 までにさらに

5

5

万haが消滅し,結局,この

3

0

年間で

8

3

万haもの農地が日本の 大地から姿を消した。

8

3

万haといえば,昭和

3

5

年当時の香川の農地面積の

1

5

倍の広さである。その香川の農村でもやはり,昭和

4

0

年代以降,耕地の拡張を 大きく上回って農地の潰廃が進行したことはさきにみた(前稿表8参照)。 ところで日本の農村地帯では,今日でこそ,圃場整備事業が進んで整然とし た大きな区画の圃場が広くみられるようになったが,基本法農政展開の当時は, 農家は農地を各所に分散して所有し,その零細な耕地片が所有者を異にしつつ 相互に入り交じって存在するというありさまであった。日本農業の特徴といわ れるこのような零細分散錯圃制のもとで農地の転用と改廃が進めば,それは虫 喰い的にならざるをえないし,事実,高度経済成長期に進行した農地転用は農 業生産条件を悪化させる点においても,そしてまた田園の景観を損なう点にお いても,目に余るほど無秩序なものであった。それはまた,都市サイドにおい ては市街地がスプロール的に広がって無秩序な市街地開発が進み,そのために 道路や排水路,公園緑地などの公共投資の計画的実施がむつかしくなって,そ の結果,通勤や物流などの面で都市機能が低下して生活環境が悪化した。かく

(10)

してこの総合農政の時期,農政サイド・都市サイド双方から,国土を計画的に 利用・調整するための法制度が整備されることとなった。 まず,昭和43年に都市サイドから新「都市計画法J (大正8年制定の旧「都市計 画法」は廃止)が制定された(昭和44年施行)0r農林漁業との健全な調和を図りつ つ,健康でー文化的な都市生活及び機能的な都市活動を確保すべきことならびに このためには,適正な制限のもとに土地の合理的な利用が図られることJ(第2 条)を理念として制定された都市計画法のもとで,一体の都市として総合的に都 市化を図るべき「都市計画区域」がさだめられた。線引きされた都市計画区域 はさらに,今後10年間に積極的に都市施設を整備して市街化を促進する「市街 化区域」と,市街化を抑制して農地の農業的利用の確保を図る「市街化調整区 域」に区分された。都市計画区域に指定された市町数は首都圏や近畿圏の巨大 都市圏を中心に全国で831,香川県では高松市,坂出市,丸亀市,牟礼同,それ に宇多津町の3市2町が都市計画区域に指定された。これら 3市2岡全体の都 市計画区域は2万8,384haで,その 29%にあたる 8,024haが市街化区域であっ た(表1)。ちなみに,県当局はこれら 3市 2町をひとつの都市計画区域一香川 中央都市計画区域にまとめ,そのなかに用途別地域を設定したのであるが,香 川県におげる都市の整備はこののち,高松,坂出,丸亀の

3

つの商圏を臨海産 業道路でむすび,その北側臨海部に工業地域を,沿道に商業地域と準工業地帯, 南側に住宅地域を配置するというこの基本的枠組みのもとで進められることと なる。 さて,都市計画法にもとづいて区分された市街化区域,そのなかに存在する 表1 都市計画法による線引きと面積(香川県) 都市計画区域 市街化区域 市街化調整区域 区域面積 28,384 8.024 20,360 (単位:ha) うち農地面積 10,006 3.180 6,826 注)香川県都市計画課調査(昭和46年現在)

(11)

403 総合農政期の香川の農村と農業 -95ー 全国 30万7,000a,香川 13,180haの農地は積極的にその転用を促して都市的用 途に振り向けなければならない。新都市計画法が制定された同じ年の昭和 43年 に,市街化区域内の農地転用には農業地域におけるようなきびしい知事の許可 を要せず届け出だけでよしとする農地法の改正が行われたのは,そのための政 策的措置であった。このように市街化区域で積極的に農地転用が図られること となれば,市街化区域の農地価格は当然上昇するであろう。香川県においても, 時期は少しあとになるが昭和 52年 6月 1日の毎日新聞が「値上がり目立つ都市 計画区域内農地」と題する記事で香川の市街化区域の昭和 51年度農地売買価格 が線引き対象外区域の農地価格より 3~5 倍も高くなったことを報じており, 需要熱の高まった市街化区域でのさかんな農地転用の進行がうかがわれる。 市街化区域内の農地転用促進にかかわってさらにもう一点指摘しておきたい ことは,市街化区域内にある農地の課税についてである。もし市街化区域内の 農地に対し宅地並みに,農業生産所得の倍近くにもなる高額の固定資産税など を課せば,農地の宅地化は確実に促進されるであろうが都市農業は壊滅的な打 撃を受けるであろう。国会審議の段階では農地に宅地並みに課税することなど はしないということで都市計画法は成立したのであるが,同法成立後,税制調 査会から宅地並み課税の答申が行われ,政府当局も急騰する地価を抑制する手 段として宅地の大量供給が必要だとの立場から方針を転換したのであった。し かし,こうした政府当局の方針転換に対し都市農民が猛反発する一方一一一ここ 香川の地でも高松市栗林農協などが宅地並み課税に反対運動を起こしたことを 昭和

4

5

7

7

日の四国新聞は報じている一一,新鮮な野菜を日常的に大量に 供給しかっ都市環境の保全機能をも担う都市農業の存続をもとめる一般世論が にわかに高まるなか,市街化区域内の農地については結局,資産価値としては 宅地並みに評価はするが課税は農地並みという妥協的な課税方式に落ち着いた のであった。 他方,都市計画法に遅れること l年,昭和 44年に「農村地域における農業地 域の保全と農業振興施策の計画的推進を目的」として「農振法J (農業振興地域の 獲備に関する法律)が制定された。新都市計画法を「都市サイドの領土i宣言

J

とい

(12)

うならば,-農政の領土宣言」ともいうべきこの農振法においては,都市計画法 で都市計画区域が指定されたように,一体的に農業の振興を図るべき農業振興 地域が指定され,そして農業振興地域のなかに農用地などとして利用すべき農 用地区域が設定された。今後,基盤整備事業などの農業生産にかかわる近代化 事業は,この「農地のなかの農地」である農用地区域において重点的に実施さ れ,農産物の集出荷に必要な施設や生活環境施設などは農用地区域以外の農業 振興地域で整備されることとなる。ちなみに香川県では昭和

5

1

年現在,直島町 を除く 42市町の全域または一部が農業振興地域に指定されていて,その面積は

1

5

3

4

9

3

h

a

,農用地区域の面積は

3

9

2

7

7h

a

である(表2。) ところで都市計画法や農振法によって行われた線引きは,農地価格の動向に どのように影響したであろうか。農振法による線引きは,香川の農地価格の安 定にも一定の効果を発揮したようで,この点,-四国新聞J(昭和49年 6月5日) も「昨年夏ごろまでは一部で列島改造計画に伴う思惑含み転用もあったようだ。 だが,秋以降は農振法による線引き,金融引き締めのほか,農家の農地に対す る考え方が変わったことなどから下降をたどっている。従って農地の価格も落 ち着いたようだ」と報じた。このように農用地区域で地価が抑制されてその沈 静化がみられる一方,市街化区域では農地価格は先に指摘したように高騰傾向 にあり,また,市街化調整区域でも市街化区域で吐き出された農地の代替取得 が市街化調整区域に向けて行われたために価格は上昇した。このようにして土 地価格は市街化区域,同調整区域,農用地区域で

3

層のはっきりした格差が形 成されることになる。昭和

5

0

年時点における香川県での区域別にみた農地転用 価格を,図 1に示しておこう。 表2 農振法による線引きと面積(香川県) (単位:ha) 区域面積

農地面積 農業振興地域 153,493 45,583 農用地区域 39,277 37,263 注)香川県農政課調査(昭和

5

1

年現在)

(13)

405 総合農政期の香川の農村と農業 -97 都市計画法や農振法による線引きの結果,区域別に違った農地価格の動向が みられるようになったとはいえ,農地価格そのものは全体としてみれば昭和

4

0

年代以降,急騰しつづけた。農地価格の急騰は農家経営にどのような影響を与 えたか,このことを次に考察しよう。 急騰する地価と農家経営 前稿に掲載の図3にみるとおり,香川の農村地 域の水田価格は昭和

3

5

年の農地価格

2

6

1

0

0

0

円が昭和

5

0

年には

1

8

5

万円 へと

7

倍も急騰,そして昭和

5

0

年代以降も農地の価格は上昇しつづけ,昭和

6

0

年になると

3

6

3

2

0

0

0

円に達した。昭和

3

5

年に対し,じつに

1

4

倍以上の高 さである。農地価格の急騰は農地の資産価値を高めることによって農家の農地 保有志向を強め,結果として,大量の零細規模の農家を農村にとどめたことに ついては前稿で述べた。そして兼業農家が零細な農地を所有したまま農村にと どまる“兼業農家の滞留"の内実が農地を資産として所有しつづけるが耕作に は関心のない“土地持ち労働者"の大量形成であったことについても,すでに 述べた。安定的兼業(恒常的職員勤務と恒常的賃労働)に従事するII兼農家を土地持 ち労働者とするならば,昭和

4

0

年代以降ふえつづけた土地持ち労働者は,昭和 (千円) 80 60 50 40 30 20 10

図1 区域別にみた転用価格(昭和 50年度県平均) .¥73

.

65 市街化区域 回 42 36

、・一一一一

__32

/

-

-

-

1

4

市街化調整区域 農用地区域 資料) r回畑売買価格に関する調査結果(昭和50年度)J (香川県農業会議) 注)転用は,住宅用。

(14)

5

0

年段階になると全国ではおよそ全農家の

4

割,香川県では

5

割に達した。さ らに香川県における次の事実も指摘しておこう。すなわち,

0

.

.

5

ha未満の零細農 家についてその所得構造の推移を示した前稿の表gによれば,昭和

5

0

年時点で 表の農外余剰欄がプラスに転じ農外家計充足率が

100%

を超えた。ということ はつまり,昭和田年には農外所得は家計費をつぐなってなお余りがでるほどに 高まり, 0れ5ha未満農家にとってその生活レベルを維持するのにもはや農業か らの追加所得は必要でなくなったということである。 零細農家の資産保有意識を高めた地価の急騰は,ひるがえって経営規模拡大 を志向する農家に対しては自作地購入による規模拡大を困難にした。みずから 所有する大型の農用機械をフルに稼働させるべく経営規模の拡大を切望してい るにもかかわらず,そのような高い価格で購入したら採算ベースに合わないか ら,結局,農地の購入は断念せざるをえないということである。こころみに地 価(水田価格)に対する農業収益(稲作剰余)の割合,つまり稲作の利回りを計算 すれば,地価が高騰する以前の昭和30年代半ばの時期ではそれは

5%

を上回っ ていたのに,急激な地価高騰を経験した昭和

5

0

年代になると

2%

以下に低下し ※ た。昭和

5

0

年代当時の定期預金利子が

3.5%

程度だから,この時期にあらたに 農地を購入しての農業経営はもはや採算が合わなくなってしまっている。宅地 なり工場敷地に転用されることを前提として農地の売買が行われる結果,農地 価格が農業収益で規定される枠を超えて高騰することを「農地の土地価格佑」 というが,香川県の農地価格も総じて非農業の土地需要から規制される土地価 格になってしまっているといえよう。後出の図2 (103P)にみるように,香川 の「自作地有償所有権移転」が昭和

3

5

年以降急速に低下していった背景には, 農地を手放そうとしない土地持ち労働者の形成という事情にくわえて,昭和40 年以降における農地価格の急騰一一土地価格化の急速な進行があったからであ る。 ※ 稲作における一つの事例として,農業の利回り (10a当たり)=稲作剰余(組収益ー費 用)/地価を,昭和38年と昭和 53年について計算すれば, 昭和38年:7..3%= 4万 979円(組収益)-2万 3,142円(費用)/24万 5,700円(地価) 昭和53年:L9%=15万 8,480円(粗収益)-11万 4,229円(費用)/231万円(地価)

(15)

407 総合農政期の香川の農村と農業 -99-ただし,農地価格は「田畑売買に関する調査結果J(香川県農業会議),農業収益につい ては「米生産費調査J(農水省)の数値をとった。 昭和 45年農地法改正 農家の減少が緩慢で兼業化の進行が顕著であった こと,このことが基本法農政最大の誤算であったが,この誤算にさらに農地価 格の急騰という予期せざる事態がかさなったために,一方では土地持ち労働者 の大群が形成されて農地が売られなくなり,他方,農地を集積して規模拡大を 志向する農家にとっては高地価のために農地購入が困難となり,両者相まって 自作地売買はそのうごきが止まって閉塞状態に陥った。これでは構造改善は進 まない。基本法農政が手直しされ総合農政が登場したゆえんであるが,それで はこの総合農政期,農地流動化のためにどのような対策が講じられたであろう か。 その最初の対策が,昭和 45年の農地法改正であった。賃貸借の奨励,借地拡 大のためにとられた改正は多岐にわたるが,その主な改正点は以下のようで あった。 まず第 Iは農地取得下限面積の引き上げである。従来, 30aの土地を所有し ておれば新たな土地の取得が可能であったが,改正後は農地を取得したのち, その経営面積が

5

0

a

以上でなければ新たに取得できなくなった。香川県の場 合,農地法で定められた下限面積は,香川の農家が全国と比べてその経営規模 が零細なことから,本土

2

0

a,島艇部

1

0

aであったが,今回の改正でもこの 点とさらに地域の事情も考慮して,その下限面積は綾上町などの

5

0

a

から小豆 島など島腕部の

2

0

aまで, 20~50 aの

4

段階が設定された。 このように農地取得下限面積を引き上げれば,零細農家の農地取得が抑制さ れ,その分,規模拡大を志向する農家への農地移動が促進されるであろうとい うのがこの改正のねらいであるが,そのために経営規模上限の規定も廃止され た。ちなみに,農地法が定めた経営規模の上限は全国平均が3ha,香川県は1“8

a

であった。 第

2

点は小作地所有制限が緩和されたことである。従来,一定の制限内一一台: 国1ha,香川県60a-ーで小作地を所有できるのは在村地主にかぎられ,不在

(16)

地主が小作地を所有することは一切認めていなかったが,農業をやめて離村し ようとする者がその農地を

1

0

年以上所有しておればこの離村離農者はその息 子の代まで在村地主と同じように当該農地を小作地として所有することがこの 改正で認められることとなった。このことによって離農を希望する農家が農地 を手放すことなく離村して他産業に就業することができ,そうなればその分, 貸しに出る農地がふえるであろうということをねらって行われた改正であっ 7ヂ

"

.

.

第3点は,賃借権の解約や更新拒絶などに関わる規制が緩和されたことであ る。これまで地主が賃借権を解約したり契約の更新を拒絶するときには知事の 許可が必要であったが,地主,小作相互の合意のもとに成立した解約や契約期 間

1

0

年以上の賃貸借の更新拒絶のケースは許可不要となった。“一度小作に出 したら土地は帰ってこない"と言われるほどに強く保護されていた耕作権もこ の点で弱められ,そこから農地が流動化するであろうことが期待された。 第

4

点は,統制小作料制度の廃止である。従来,小作料は農地一筆ごとに定 まっていてその額は地主が固定資産税も払えないほどに低く押さえられていた が,今回の改正ではこの統制小作料を廃止,代わって標準小作料が定められた。 今後新しく契約される賃貸借の小作料は標準小作料を基準としつつ,地主,小 作の契約当事者間で自由に定められることになる。標準小作料はおよそ統制小 作料のおよそ

3

倍の水準に設定された。香川県の場合,高松市を例にとると, 昭和

4

6

年度の上田の標準小作料(10a当たり)はおよそ

1

5

0

0

0

円で,収穫量 になおせばその20%程度が小作料となる。 今回の改正によって,以上のほかに,農地移動を規模拡大に結びつけていく ための公益法人(都道府県農業公社)による農地保有合理化事業や農協による経営 受託事業も新規に行われることとなったが,香川県の場合,前者については, 国営農地開発事業として昭和

4

6

年度から開発調査がはじまった阿讃山地開発 事業とタイアップしつつ,その造成農地の所有権者と農家の間に立って賃貸借 斡旋と権利調整を行うために,香川県農業開発公社(理事長・香川県知事)が昭和 49年に設立され,後者の農協による経営受託事業については,昭和49年度には

(17)

409 総合農政期の香川の農村と農業 -JOJー 綾歌南部,高松南部,大内,観音寺の

4

つの農協で実施,その受託面積が約

5

0

0

h

a

であったことを(昭和

5

0

5

2

0

日の日本経済新聞記事から),ここに指摘してお こう。 農用地利用増進事業の開始 以上のように昭和

4

5

年に農地法は賃貸借関 係を拡大させる方向で大きく改正されたのであるが,その効果があってか,農 地法による賃貸借設定面積は全国レベルでは昭和

4

5

1

8

2

9

haから昭和

5

0

5

8

8

5

h

a

に,香川県では昭和

4

6

2

2

.

.

6h

a

から昭和

5

0

3

7

.

.

3

haへと増大した。 しかしこのように増大したとはいえ,流動化した農地面積は全国でも香川県で もまことに微々たるものであって構造政策による経営規模拡大に役だ、ったなど とは到底いえる状況ではない。農地法は改正されたが小作地の耕作権保護とい う農地法本来の性格は改正後もゆるぎなししたがって,“いったん貸したら農 地は返ってこないヘ“返してもらいたいなら高い離作料を払わなければならな い"という懸念が払拭されない以上,改正農地法のもとでも農地の賃貸借は進 まない。しかし農村の現実はというと,広範に請負耕作が展開する状況にあっ た。農地法によれば賃借権が生じることを避けての請負耕作なのであるが,し かし請負耕作といっても農作業のすべてを請け負うことになれば,明らかにこ れは農地の賃貸借であって,したがって農地法によらない賃貸借である以上, これは農地法上の「ヤミ小作」に他ならない。 農地制度上の脱法行為ともいうべき請負耕作が農村に広く進行している状況 を農政側としてはもはや放置しているわけにはいかず,それどころか,このよ うに現実に進行している農地流動化の動きを経営規模拡大による構造改善につ なげるような新たな制度上の手段を講じなければならない。それが昭和

5

0

年に 農振法を改正して開始された「農用地利用増進事業」であった。同事業のもと での賃貸借は「利用権」と呼ばれ,その設定には農地法の許可を必要とせず, しかも期限がきたら賃貸借の権利は自動的に終了する。このように農用地利用 増進事業は農地法が規定する賃貸借の規制にはかからない,いわば農地法のバ イパスとしての農地流動化策なのであるが,この事業を利用することで貸し手 の農家は安心して農地を貸しに出すであろうというのが,農政サイドの意図し

(18)

410 期待するところであった。なお,これまで,農地流動化を実際に進めていく際, その手法は,農地法はもちろん,農地保有合理化法人の農地保有合理化促進事 業や農協の経営受委託事業においても,一筆ごとの農地,個別の農家を対象に 進められたのであったが,農用地利用増進事業は市町村を事業主体として地域 ごとに集団的に行われるようになったこと,さらに利用権の設定はその対象を 農業振興地域内の農用地区域の農地に限定されたことを, ここに注記しておこ

-香川大学経済論叢 -102 香川県は農地利用増進事業を推進させるべく r新しい村づくり,人づくり」 を謡って昭和

5

2

年に開始した「土也域農政推進事業」の一環に同事業を組み込ん だ。地域農政推進事業を実施するにあたって市岡レベノレでは,市町議会,農業 委員会,土地改良区,農協,農業者代表などを構成メンバーとし市町長を会長 とするところの「市町推進協議会」が組織され,そのもとに「集落検討会」が このような地域をあげての実施体制のもと 集落ごとに設置されたのであるが, で農地流動化一農地有効利用問題も集落全体,地域全体の問題として取り組ま れ推進されることとなったのである。さらに,昭和 54年には地域農政推進事業 を拡充するかたちで「農用地高度利用促進事業」が発足した。同事業は農業委 員会のメンパーが地域の農家を直接訪問して農地の貸手を探す活動を展開する 一方,貸手農家に対しては奨励補助金を交付し, 核農家の規模拡大と農用地の有効利用を促進しようというもので,奨励補助金 を受けるためには,設定した利用権はその存続期間が

3

年以上の賃貸借である もって地域農業を担うべき中 ことなどの条件を満たす必要があった。ちなみに交付される奨励補助金(農地 10 a 当たり)は賃貸借期聞が 3~6 年未満の場合は 1 万円, 6年以上ならば 2万円 香川県同様,全国各地においても農用地利用増進事業に対する地域ぐるみの 取り組みが行われた。その成果があってか,全国レベルで、の利用権設定面積は 昭和

5

2

年末

1

1

1

3

1

haに対し昭和

5

5

年末の

4

7

5

2

1

haと急速に伸びる状 況にあった。このような動向を踏まえつつ,農政当局は昭和

5

5

年,農用地利用 増進事業のさらなる拡大と充実を図るべく農振法とは独立に「農用地利用増進 であった。

(19)

103 ?去」を制定した。いまここに改めて,昭和 50年代以降,香川県で農地の権利移 動面積がどう推移していったかを,農地法と農用地利用増進法を合わせ,確認 しておこう。図 2によれば,昭和 50年代に入ると,面積が急減しつつあった自 作地所有権移転に代わって,農地法が改正されたことを契機に賃借権の設定面 総合農政期の香川の農村と農業 411 さらには利用増進事業の展開のもとで利用権設定の面積が増大し て全体としてみれば農地権利移動面積は増大に向かっている。しかし農地法改 正によって増大した賃貸借設定面積も農地利用増進事業による利用権設定面積 積が増大し, 香川県における農地の権利移動函積の推移(フロー) 図2 (ha) 農用地利用増進法 503..0 (農地法) 賃借権設定13..7 利用権設定476.8 6504 同 様 ⋮ m M m 抗 議 ⋮ m 税 制 吋 僚 抑 制 線 機 関 際 際 隣 関 臨 際 際 際 機 関 附 653..3 521 1 498 0 700 600 500 400 300 200 自作地有償所有権 移転 26..2 (農地法) 自作地有償所有権 移転 61 1 100 7 資料)昭和35

40年は r香川県農地法施行五十年史J( 原 資 料 は 農 地 年 報J),昭 和46年以降は,農水省「農地の移動J,r農地の移動と転用」。 注)権利移動面積には,経営規模拡大に直接結びつかない小地所有権移転,自作地 無{質所有権移転,賃貸借の移転などは含まない。 平2 60 55 50 46 40 日 召35

(20)

も面積そのものとしては昭和

6

0

年時点で両者合わせてわずか

4

7

0h

a

でトある。こ れは香川県の総農地面積のわずか

1%

にすぎず,これでもって農地の流動化が 進んだなどとは到底いえないだろう。全国も香川県とほぼ同じような状況に あった。次々と打ち出される農政サイドからの農地対策にもかかわらず,この ように農地の流動化が進まなかったのは概括的にいえば,農業をめぐる条件が 悪化するもとで,兼業化がさらに深まって大半の農家が農地を貸しに出すこと にまで後ろ向きになるほどに生産意欲を喪失していく一方,経営規模拡大に意 欲的な専業的農家の成長もはかばかしくなかったからである。農業の衰退基調 が明らかとなった昭和

6

0

年代から平成時代に入ると,香川県では権利移動によ る農地面積は頭打ちから減少へと向かっていったことは図にみるとおりであ る。 節を改めて次に,この総合農政の時期,香川の農家と農業構造はどう変わっ ていったかを考察しよう。 一 総合農政期の香川の農家と農業構造 一ーさらに進む兼業化と労働力の劣弱化一一 農業労働力流出と兼業深化 昭和

3

0

年代初頭に始まった高度経済成長は 昭和

4

8

1

0

月に勃発したオイノレショック一一一原油価格が一挙に

4

倍にも急騰 するというーーによってついに終意し,以降,日本経済は低成長時代へ移行す る。しかし高度経済成長期のときのような勢いはなくなったとはいえ,低成長 時代に入っても労働市場は重工業部門を中心に拡大しつづけており,農村内部 では減反による農民の生産意欲の減退,米価抑制や農産物輸入増大のもとでの 農業経営の悪化,さらには農業機械化の進展などによって農業労働力が農外に 排出される傾向が強まり,こうした農村内外の事情がかさなって昭和

4

0

年代後 半以降も農家戸数の減少と兼業深化が進行する。 香川県では農家戸数は昭和

4

5

年の

7

8

9

6

1

戸が昭和

6

0

年には

6

万 7

1

9

8

戸へと

15%

へった。同じ期間,農業就業人口は昭和

4

5

1

3

6

9

4

6

人が昭和

6

0

9

6

1

人へと,農家戸数減少のテンポを上回って

34%

もへった。農業就

(21)

413 総合農政期の香川の農村と農業 105 業人口が全就業者のなかで占める割合は,昭和45年の 23..7%から昭和 60年に は7.1%へと急減した。農家構成はといえば,昭和 50年に 9.6%と底をついた 専業農家は,以後,高齢専業農家(農業専従者が 65歳以上)の増大によって,昭和 60年には 121%と若干ふえる傾向すらみせた。兼業の深まりは,昭和 45"-'60年 の問,第一種兼業農家が急減 (297%→13.4%)し,第二種兼業農家が急増(574 →74 5%)するかたちで進行した。昭和60年には 7割以上の香川の農家が農外 所得を主とする第二種兼業農家で占められ,この第二種兼業農家に第一種兼業 農家をあわせた兼業農家全体の8割が恒常的勤務の雇用兼業という状況になっ た(前稿に掲載の表2,5, 6, 10参照)。 担い手のいなくなる農家 高度成長期の昭和30年代から 40年代前半にか けて,香川の農家の労働力は年々劣弱化していったが,この総合農政期の昭和 40年代後半から昭和 50年代にかけて農業労働力の劣弱化はさらにすすむ。基 幹的農業従事者についてそのありさまを,表 3によって確認しよう。 まず, 0..3 ha未満農家の場合,昭和35年段階では必ずl人はいた基幹的農業 従者は昭和45年には 10戸のうち 7戸までが 1人もいなくなり,その後もさら にへりつづけた。昭和60年段階に至って増加に転じているが,しかしこれは, これまで勤めていた会社を定年などでしりぞいて農業に専念するようになった 老人専業農家が増加したからであった。また,昭和40年段階ではまだ基幹的農 業従事者が1戸に 1人はいた 0..3"-'0ド5ha農家も,昭和45年になると 10戸に 2 戸の農家が基幹的農業従事者のいない農家となり,昭和55年には 10戸のうち 6戸がそのような農家となった。そして昭和55年段階でなお, 1人以上の基幹 的農業従事者をもっ農家は, 1"-'L5ha以上の農家だけとなった。 このように各階層ともその中心的な担い手を失いつつあるが,さらに具体的 に,表4によって以下の(イ)から(ニ)の4つのタイプの農家について,昭 和45年から昭和 55年に至る経過のなかで考察しよう。表の専従者とは 150日 以上農業に従事している人のことを,補助者とは60"-'149日の農業従事者のこ とをさしている。したがって,専従者も補助者もいない農家というのは,年間 60日未満という短時間農業就業者,片手間で農業している者の農業労働力だけ

(22)

表3 基幹的農業従事者の推移(農家1戸当たり) (単位:人) 昭35 40 45 50 55 60 平 均 1..94 1.49 1.16 0.79

I

O~

I

0.63

o

3ha未 満 1.06

[

L

i

l

l

E

o

.

3~0. 5 1 42 1 18

o

5~0. 7 2..23 171 1. 31

o

7~ 1 0 2..63 2.16 180

LO~l 5 3.00 2..53 2 25 1 75 1 46 1 42 1.5~2.. 。 3..19 2..88 2..60 2..13 1..91 190 2 0~2.5 3..30 2.86 2..83 2..40 2.17 2.05 2 5~ 3 0 3 63 308 2 75 2..41 2..23 2.31 3..0~5 “ O 3..00 3.06 2 81 2 57 2..38 5..0ha以上 100 2..74 2..44 2..56 2..62 3..07 例 外 規 定

o

92 101 1..22 1. 59 156 資料)各年センサス 注)香川県の場合.3..0~5..0 加層では昭和 35 年段階において .5..0ha以上層では昭和45年 まで,農家数が10戸を苦手jっていて標本数がきわめて少ない。これら農家数に対応する 表中の数値については,この点に注意されたい。 で農業を営んでいる農家だということである。 (イ)まず,.世帯主と後継ぎが専従」の農家である。戦前来,日本の典型的な 農家といえば,父親と長男が中心的な働き手となって一家の農業をささえ ている家父長制的家族経営がイメージされるが,.世帯主と後継ぎ専従」の いる農家とはまさにそのような農家として理解していいであろう。こうし た農家は規模の小さな経営では昭和45年の時点、ではすでに皆無といって いいほどに姿を消した。それでも 2ha以上の農家になるとまだ3分の1ほ どがそういう農家であった。しかし10年後の昭和 55年には急減してい る。 (ロ)つぎに「男世帯主と女一人以上が専従」という農家である。これは夫婦 2人の労働力で自家農業を行っている農家をイメージしていいであろう。 「世帯主と後継ぎが専従」の農家の伝統的家父長制的家族経営に対し,夫 婦2人で営む農業はさしずめ近代的家族経営の農家といえよう。表にみる

(23)

415 総合農政期の香川の農村と農業 -107二一 表4 階層別にみた専従者・補助者の構成(昭45・55) (単位:%) 専 従 者 な し で 女の専従者一人で 男世帯主と女一人 世帯主と後継ぎが 補助者もいない 男の補助者なし 以 上 が 専 従 専 従 昭和45: 55 昭和45: 55 昭和45: 55 8sf口45: 55

..3ha未 満 61. 6 71 3 7.1 3.3 2..0 15

0..2

o

3~0 5 26..2 47 1 12..7 4..9 10..2 5..9 0.4 0..3

o

5~1 0 6..5 24 0 8.5 5..8 32..6 18..2 3..3 12 1..O~ 1 5 1 1 7..6 3..1 5..2 48..3 37..2 12..1 4 1 1 5~2 0 1 2 2..7 14 2.7 47..9 46..9 22..1 8..2 2..0~2 5 12 2..5 2.6 41 3 512 32..9 13..9 2.5~3 0 3.3 18 16 0.9 36..9 49.5 36..1 15..9 3..0~5 0

..7 1 3 27..8 50..0 35 4 20.2 5 Oha以 上 22..2 22..2 12..5 44..4 25.0 計 25..3 : 410 4..7 13..2 1.3 資料)各年センサス 注)計は例外規定農家をふくむ。 とおり,昭和 45~55 年段階における香川の 1ha以上農家はほぼその半分が こうした夫婦労働力によってささえられた農家であった。同表をさらに詳 しくみると,昭和 45~55 年の間, 1~L5ha を境にそれより規模の小さな 農家は比率をさげ,それより規模の大きな農家は比率をあげている。小さ な農家が比率をさげているのは,夫の労働力ないしは妻の労働力(あるいは 2人とも)を専従者として確保することができずに労働力構成がより低いレ ベルへ落ちていったためであるし,規模の大きな農家が比率をあげている のは,たとえば,さきの「世帯主と後継ぎが専従」の農家で後継ぎが農外 に就業し,代わりにこれまで補助者などの地位にあった世帯員の婦人が専 従者として働くようになったなど,労働力構成のより高い農家がこのレベ ルに落ちてきたためであろう。いずれのケースも兼業深化の過程でおこっ た現象であった。 (ハ)昭和

4

0

年前後の時期,非農業部門に夫が就業したため一家の農業をささ えるのが婦人だけの労働力となってしまった農家のことをカアチャン農家

(24)

と呼んだが I女の専従者一人で男の補助者なし」という農家がさしずめこ れにあたる。戦前来,農業労働力といえばその中核は屈強な青壮年の男子 労働力であって,婦人労働力は補助的役割を担うものでしかなかった。そ の婦人労働力が農業生産の主役として登場するようになったのがこの時期 であった。昭和

4

5

年当時,香川県ではほぽ

1

0

戸に

1

戸以上の農家がこう した農家であった。このタイプの農家も昭和 45~55 年の間, 1~L5ha を 境にそれより規模の小さな農家では比率がさがり,それより規模の大きな 農家でトは比率があがっている。 (ニ)農業労働力の劣弱化がもっとも進んでいるのが I専従者なしで補助者も いない」農家である。農家としてはもはや体をなしていない農家といって いいだろう。当然のことであるがこうした農家は経営規模が零細な層にな るほどその割合が高く,かつ昭和 45~55 年の間,その割合は顕著に高まっ た。昭和

5

5

年段階では, 0 刷 3~0 叶 5ha農家の場合,ほぽその 5 割がそういう 脆弱な労働力で農業を営んでいる農家であり,

0

.

.

3h

a

未満農家になると,

7

割以上がそういう農家になってしまっている。 昭和

4

5

年から昭和

5

5

年に至る聞の,専従者・補助者の構成のありかたで区 分した

4

つのタイプの農家の動向を総括していえば,おなじタイプの農家間で は規模が小さくなるほど労働力の劣弱化がすすむ一方,異なったタイプの農家 間ではより充実した労働力を保有するタイプの農家がより劣弱な労働力しかも たない農家へと移行したといえよう一一ーいずれのタイプの農家も階層を問わず 兼業深化という波に洗われる以上,当然のことではあるが一一。 進む農業労働力の高齢化 高度経済成長期,香川県農家の農業労働力の高 齢化が進んだことは前稿で詳述した。総合農政期のこの時期,高齢化はさらに 進行した。 図3は,香川県における農業就業人口が昭和

4

0

年以降どのように推移して いったか,そのありさまを年齢階層別に示したものである。この表でまず最初 に注意しておくべきことは,昭和

4

0

年段階における,

3

0

歳台を境としたそれよ り下の

2

0

歳台とそれより上の

4

0

歳台・

5

0

歳台との就業人口の格差一一後者の

(25)

417 総合農政期の香川の農村と農業 10 9-3万人余に対し前者の1万人余という人数上の大きな格差の存在である。 なぜ,こうした大きな格差が存在するのか。それは,高度経済成長のもとで 拡大する労働市場とのかかわりが20歳台と 30歳台以上,とりわけ40歳・50歳 台とでFは根本的に異なっていたからである。すなわち,高度経済成長が本格化 した昭和30年代の時期,昭和40年段階の20歳台は高校や中学などの新規学卒 者であってまさに日本の企業がきそって雇用しようとした若年労働力であっ た。だが, 40歳台と 50歳台は昭和30年代はそれぞれ30歳台, 40歳台であっ (人) 160,000 140,000 120,000 100,000 80,000 60,000 40,000 20,000

図3 年齢別農業就業人口の推移(香川県) 41, 688 31,678 31.102 30,831 11,529 6,654 昭和40 資料)各年センサス 41,701 21,529

\~46643

r

骨 19,269

I ¥

10,762 9,240 }

40~49

6,931 7,321 30~39 歳 5.789 3,164 ;-20~29 歳 昭和50 昭和60 \16~19 歳 2,164

(26)

たから日本企業の終身雇用制・年功序列型賃金体系に適合せず,したがって彼 らは非農業部門へ就業する機会を得ないまま,農村にとどまって農業に従事す るしかなかった世代であった。もちろん彼らもこののち,いっそう拡大する労 働市場のもとで非農業部門へ吸収されていくのだが,出発点でのこうした違い が,昭和40年段階の20歳台と 40歳台・50歳台との就業人口数に上述のような 格差を生じさせたのである。 ということであれば次に, 40歳台と 50歳台が3万人余とほぽ同数であるこ とも理解できるであろう。逆算すれば昭和40年の40歳台は大正生まれ,そし て50歳台は明治末 大正はじめの生まれであって,彼らが農業に就業した時期 は戦前昭和の時期であった。戦前,日本の農家戸数が550万戸と固定的であっ たように,香川の農家戸数も 9万戸と固定的であった。ということは,その固 定的な数の農家から,年々,ほぽ同数の新規農業就業者が供給されたというこ とであって,それならば年齢層は違っていても就業人口に大きな差はでてこな い。かつて昭和初年の時期に10代であった昭和40年段階の50歳台と昭和10 年代の時期におなじく 10代であった同じく昭和40年段階の40歳台がほぼ同 数なのは,こうした事情のためである。 昭和40年段階での農業就業人口の年齢構成上の特徴を以上のように確認し たうえで,同表を概観してとくに注目すべきことは, 16---19歳台の若年労働力 の急減である。とくに昭和50年から昭和60年の10年聞はじつに67%もの減 少であった。若年労働力が減少していけば, 20---29歳台の青年労働力もやがて 減少していく。青年労働力の減少は兼業化と脱農でさらに拍車がかかる。昭和 50年代の16---19歳は10年後の昭和60年代には26---29歳である。ところが, 表では昭和60年の20---29歳人口は昭和50年の 16---19歳人口より少ない。昭 和60年の20---29歳人口は昭和50年の 16---19歳人口だけでなく昭和51年以 降昭和56年までの新規就農者を含んでいてなお昭和50年の 16---19歳入口よ り少ないのだから,いかにはげしく兼業化が進行したかということが了解でき ょう。 表によれば昭和40---50年の間, 30歳台や40歳台の壮年の農業就業人口の減

(27)

419 総合農政期の香川の農村と農業 111 少もいちじるしい。

1

0

年後の昭和

5

0

年に

4

0

歳台となる昭和

4

0

年の

3

0

歳台 は,その

1

0

年聞に

3

8

3

1

人から

1

9

2

6

9

人へと

1

2

0

0

0

人近くもへり (率にして

38%

減),同じく

1

0

年後の昭和

5

0

年に

5

0

歳台となる昭和

4

0

年の

4

0

歳台は

3

1

1

0

2

人から

2

1

5

2

9

人へと

1

万人近くも減っている(率にして

31%

減)。年齢から考えて,その大半は兼業化による減少であろう。しかし昭和 50~60 年になると若年労働力は別にして兼業化のテンポはゆるみ,したがって 兼業化による減少は各年齢層ともみられなくなった。兼業化の対象となるべき 労働力がほぼ底をつくほどまでに,そこまで兼業化が進んだということであろ う。 高齢者のうごきはどうか。昭和

5

0

年の

6

0

歳以上の農業就業人口は昭和

4

0

年 と比較しでほぼ同数であり,昭和

6

0

年には増加すらしている。これは,これま で農外に就業していた世帯員や兼業を主としていた世帯員たちが,高齢ゆえの 病気や死亡による減少をカバーするほどに数多く,農業就業人口として農業の 現場にカムバックしてきたからであった。 昭和 40~60 年の 20 年間における年齢層別にみた香川の農業就業人口のうご きはあらまし以上のように,一方における若年・青年労働力の激減と壮年労働 力の減少,そして他方における高齢者の漸増であった。結果として農業就業人 口の高齢化が急速にすすんだ。表によれば,昭和

4

0

年時点、で

27%

であった高齢 者の割合は昭和

6

0

年には

52%

へと高まった。昭和

6

0

年段階の香川の農村は, 農業就業人口の

2

人に

1

人が

6

0

歳以上の高齢者という高齢化社会になってし まった。 稲作機械化一貫体系の確立 昭和

4

0

年代から昭和

5

0

年代の香川の農村に おいて労働力を一層弱体化させながらふえつづける兼業農家がなお農業をつづ けることができたその背景には,高度経済成長期にひきつづく機械化の進展が あった。 昭和

4

0

年代後半に入ると,小型トラクターにかわってパインダーや田植機が 急速に香川の農村に普及し,昭和

5

0

年代にはさらに乗用トラクターや自脱コン パインが急増した(前稿掲載の図4参照)。これら小型トラクター・コンパイン・

(28)

パインダー・田植機について,昭和45"'55年における所有台数・利用農家率を しめした表5によれば,昭和45年段階ですでに

7

割近い農家に普及していた耕 転機・トラクターは昭和55年になると,農家1戸が1台を所有するまでに普及 し,昭和45年段階では普及しはじめたばかりであった動力田植機もその後の 10年間でほぼ 2戸に 1戸の農家が所有するまでに普及した。高価な自脱型コン ノてインは田植機ほど急速な普及ではないが,自脱型コンパインより普及が早 かったパインダーを合わせると,昭和田年段階で10戸に 6台以上は普及して いることになる。利用農家率をみると,昭和55年段階では耕転機・トラクター もパイン夕、一・コンパインもほぼ

90%

に,動力田植機は

70%

にそれぞれ達し, 表示はしていないが乾燥機も

50%

を上回った。このような普及・利用状況から すれば,田植えから耕転,脱穀・調整にいたる体系的機械の一貫利用体制が昭 和

5

0

年代後半にほぼ完成したといえるであろう。 とはいえ,農機具の普及・利用状況は経営規模階層によって異なる。それを 示した表

6

をみて気がつく点は,普及台数,利用農家率ともに

0

.

.

5

'

"1

h

a

層を境 表5 香川県における農業機械普及の状況 (1) 100戸当たり所有台数 (単位:台) 耕転機・ トラクター 自 脱 型 コンノTイン 動力田植機│パインダー O K V F -n υ 一 ハ U 一 p b nHVιq 、 υ ? の 、 υ 一 一 の L R υ -q d e p o q J -a A を -η r u 一作 0 ・ 4 ‘ -7

8

6 -" . " ハ Hv-nhv-η'z

2

4

J

AB-phv 一 R U

。 。 一 の

L

1 A ︽ h U 苧 n x u -A H V 一一 T ム ー 5

O

5 A 処 -F D -F D 刀 口 一 一 ロ μ 一 一 (2) 利用農家率 耕転機・ トラクター (単位:%) 自 脱 型 コンノてイン 動力回植機│パインダー 日 召45I 87.8 1 4 7..6 0..1 50 I 85..6 42 5 51 5 8..9 55 I 86..4 69.. 8 54 6 34 . 9 . 資料)各年センサス

参照

Outline

関連したドキュメント

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

  BCI は脳から得られる情報を利用して,思考によりコ

学校に行けない子どもたちの学習をどう保障す

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

このような情念の側面を取り扱わないことには それなりの理由がある。しかし、リードもまた

自閉症の人達は、「~かもしれ ない 」という予測を立てて行動 することが難しく、これから起 こる事も予測出来ず 不安で混乱

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場