51 2,630 : 2L5 2,514 : 19..4 52 2,600 : 21 5 2,764 : 21 2 53 4,130 : 39 1 5.705 : 43 8 55 5,660 : 53.5 6.905 : 58..5
名 称 期 間
稲作転換政策|昭 46~50
水 田 総 合 利 用 対 策
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昭51・521 期|昭 53~55
* 田 利 用 再 編 対 策
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水国営農活性化対策|平 5~7
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資料) ,平成8年度新生産調整推進対策の実施状況・平成9年度生産調整推進対策の推進方 向J(香川県,平成9)
都道府県→市町村→集落というルートがとられた。戦前来,日本農村における 地域の基礎単位であった集落の共同体的性格が生産調整政策の場合も利用され たわけであるが,しかし,総合農政期のこの時期,専業農家と兼業農家への階 層分解がいちじるしく進んでその共同体的性格を急速に失いつつあった集落に とって減反面積を個別農家へ割り当てる作業は決して安易なことではなく,こ こ香川の地でも行政と農家の板挟みになって自殺者の出たことを地元新聞は報 じた。
生産調整政策はじまる 米生産調整対策という名称で生産調整が本格的に
433 総合農政期の香川の農村と農業 125 はじまった昭和45年度の生産調整の目標は100万t,米生産調整対策につづく 稲作転換政策の前半にあたる昭和 46~48 年度にはその倍の 200 万 t を超える 高い水準に設定された。200万t以上という生産調整数量は,面積にすれば当時 の水田面積の2割近くに達する広大さである。政府指定倉庫に収容することが できないまでに大量に累積した政府持ち越し米,さらには農林予算が組めない ほどまでに巨大化した食管赤字という現実を前に,農政当局にとっては何はと もあれ,伺としてでも米供給量を削減させなければならぬという切迫した思い から,このような広大な生産調整面積が設定されたのであった。そして生産者 米価もこの時期,コメ需給均衡を目指すべく,消費者物価指数をかなり下回っ て設定された。高度経済成長期のあの高米価政策から一転したきびしい低米価 政策が,この時期に登場したのであった。
さて,この時期,香川の生産調整はどうであったか。
生産調整1年目の昭和45年,政府がたてた減産の目標数量100万tのうち,
香川県に割り当てられた数量は1万1,300t。面積にすれば県下の総水田面積 の約8 %にあたる 2,770haの水田が減反となる。生産調整の実施にあたって,
香川県米生産調整審議会は昭和44年度の収穫と昭和43年以前の過去3年間の 政府買入数量を勘案しつつ,県下の43の市町に対し減産目標量を示した(昭和 45年2月9日)。高松市の2,217
t
の減産量を最高に,以下,丸亀市の670t
,三 木問の573t,観音寺市の557t,善通寺市の483tがつづく。減産量の最低は直島町の3..6tであった。
減反にはコメも何もつくらずに水田を遊ばせておく「休耕田」と,コメ以外 の作物をつくる「転作」とのこつの態様が認められ,減反に応じる農家に対し ては生産調整奨励金が手渡された。もともと減反は法律にもとづく強制ではな いから,収益の安定したコメの減産を農民の自発的協力だげで実現することは むつかしい。全国農民のはげしい反ばつが予想されたコメの減反措置が結果に おいては政府のたてた目標どおりに,年によってはその目標を上回って達成さ れた理由の一つは,この生産調整奨励金という名の補助金の交付であった。生 産奨励金の額は10a当たりおよそ3..5万円(香川県平均3ι万円)で,これは米
作の収益のほぼ6割にあたる。
全国に渦巻く農民の不満と不平の中ではじまったコメの減反措置であった が,その結果は目標数量を大きく上回る 139万tの減反となった。 39%もの目 標超過達成である。香川県の場合,全国平均をやや下回るものの, 130%という 高い達成率であった。そして達成面積3,610haの転作内容をみると,休耕が 2,040 haで,転作は1,539haである。「米がつくれないなら,いっそ田んぽに雑 草をはびこらせて奨励金をもらえばよい」というのが香川農民の大方の対応で あった。全国的にはこの傾向はもう少し強く,休耕78%という割合であった。
生産調整2年目の昭和46年,香川県の目標数量は2万7,400tで,昭和45年 に比べ2..4倍の大幅増となった(面積にすれば45年度の2,770haに対して6,600ha)。 香川県の減産率は全国平均より高いが,これは,昭和46年から都道府県割当量 決定の基準として将来の農業の地域分担の軽重を示す農業生産の地域指標があ たらしく採択され,香川県は減産率の高い都市近郊地域に区分されたからであ る。転作が困難な水田単作地帯の東北地方などは農業指標が高く減産率は低い。
なお昭和46年度から,単純休耕と転作の聞に奨励金の格差がつけられることと なった。休耕に対する奨励金はまったくの不生産的支出であるうえ,たんに休 耕するだけでは減産の目的を達成しにくいとの判断にもとづく処置である。
減反実施の3年目(昭和47年),減産の目標総量は前年度に比し215
万
tと全 体で15万
tへりながら,温暖な気候の香川県はコメ以外の転作が容易との農林 省の判断から,昭和47年香川県産米減産量は前年度と閉じ2
万7,400tの割当 てとなった。この年の香川県の減反は前年の不作がひびき,目標数量達成率を 10%近く割った。とくに高松市や丸亀市,善通寺市などの都市近郊地域の減反 は大幅にダウンし,達成率は85%にとどまった。以上が昭和45年から3カ年にわたる香川の減反のありさまであるが,この3 年間,法的強制力をともなわない減反であるにもかかわらず,おおかたの農家 が減反に協力する姿勢であった。全国的には減反達成率は香川よりさらに高い。
そのような高い減反達成率を実現できたのは,何よりもまず,食管制に対する 農家の強い危機意識であった。減反に応じなければ食管制度そのものが崩壊す
435 総合農政期の香川の農村と農業 127‑
るかもしれないという切迫した気持が農民を減反に追いたてたのである。昭和 44年の自主流通米制度の導入によって食管制は,事実上白,コメの全面管理から 部分管理に変質し,また昭和46年からは「予約限度制」が採用されて政府が無 制限に米を買い入れることはなくなったが,しかし食管制そのものはやはり,
農産物価格が不安定に推移するなかにあって,稲作農家に安定的所得を保障す るただ一つの制度であった。しかしながら,食管赤字の累積が顕著になる昭和 40年代中ごろ以降,その食管制の廃止を求める声が財界やジャーナリズムを中 心に急速に高まりつつあった。そして政府も農協も,‑米過剰が解消しないなら 食管制存続はあやうい,食管を守るためには何としても減反を成功させなけれ ばならない」と,減反政策のすみやかな実施を農民に訴えたのである。昭和46 年3月,香川県議会が「…0・もとより稲作は日本農業の基本でもあり,かつ総 合農政の推進がいまだ軌道にのっていない今日,食管制度が崩壊すれば,農業 所得の安定に甚大な影響を与えるのみでなく,わが国農業の将来に対する農民 の希望を無惨に打ちくだくという結果を招来するであろう。よって本会議は,
わが国農業の発展と,本県農民の生活安定のため,政府に対し,食管制度を堅 持する中で強力なる農業政策実行を要望するものである」との意見書を政府に 提出したのは,右のような状況のなかであった。
水田利用再編対策の登場 稲作転換政策が開始されて 3年目の昭和 48年, ソ連の大凶作に端を発した世界的食糧危機が勃発した。アメリカ政府がいわゆ るニクソン声明というかたちで緊急の農産物輸出禁止の非常措置をとったのは 同年6月のことであり,これが直接の契機となって日本では「食糧安保論」が 真剣に議論された。そして圏内のコメ事情はといえば,消費量がここ数年横ば い傾向にあり,しかも政府手持ちの古米在庫もようやく底をつきはじめるとい
う状況にあった。ここに至って政策当局はもはや大幅な生産調整の必要なしと の判断から,生産調整の緩和に踏み切ったのであった。昭和
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2
分の1
以下へと大幅に引き下げられた。これまで きびしく抑制されていた米価も消費者物価指数の上昇率を上回るほどにはげしい騰勢に転じた。
だがしかし昭和50年代にはいると,生産調整を緩和したことが結果として過 剰要因の拡大をもたらしコメ過剰はふたたびより深刻なかたちで再現した。農 林水産省の試算によれば,昭和53年度の国民のコメ需要1,170万tに対し潜在 生産力は1,340万 t。もし生産調整がおこなわれないなら 170万 tものコメ過 剰が発生する。これに対し国民
1
人当たりコメの年間消費量はふたたび減少が 目立つようになるとともに,今後とも減少が予想、される。事実,昭和49年度米 穀年度末に62万トンにまで縮小した政府古米は昭和50年代に入ってから急速 にふくれあがり,昭和55年度には過去最高であった昭和45年の720万 tにせ まる 670万トンに達した。第二次コメ過剰の出現である。このような現実を前にして農政当局は,コメ過剰問題は臨時の緊急避難的性 格が強かった昭和40年代の開始期とは違って,日本の経済と農業の構造に深く かかわる構造的問題であるだけでなく,その解決に長い歳月を必要とするであ
ろう,というきびしいものへとその認識を根本的に改めることを余儀なくされ たのであった。かくして昭和53年から向こう 10カ年にわたって水田利用再編 対策が実施されることとなる。生産調整は強化され,生産調整数量は大幅に引 きあげられた。水田利用再編対策最終年度の昭和61年度に示された目標面積 60万haはじつにわが国水田総面積の4分のlにあたる。そしてこの時期,昭和 48年度から昭和50年度にかけて一時急騰した生産者米価も一転して消費者物 価指数を下回る 1~2% という超低水準に抑制された。
水田利用再編対策は,その名称のとおり,たんにコメをへらすだけでなく,
昭和30年以降低下の一途をたどっている食用農産物の自給率(昭和45年現在の 自給率:ダイズ4%・小麦9%)のこれ以上の低下を抑えるためにコメから畑作物へ の転作を誘導して水田利用再編・作物再編をはかろうというねらいがあった。
これを生産調整における生産政策というならば,この生産対策を効果あらしめ るために,昭和49年度からはじまった単純休耕に対する奨励金廃止の処置,な らびに水田総合利用対策の初年度である昭和51年から登場したところの,政策 的にその増産が望ましい作物とそうでない作物の聞に奨励金の格差をもうける