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平成19年度、日本文化履修コース(国語国文)卒業論文概要

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新潟大学人文学部

日本文化

(言語文化系)履修コース

2007 年度 卒業論文概要

橋本 瞳 鎌倉時代の長音表記について 1 沖本 千尋 富山方言における終助詞の研究 ―「ネ」/「ノ」、「ヤ」/「マ」、「ゼ」/「ジャ」の意味分析― 2 安藤 寛 紀貫之の研究 ―職業歌人としての表現― 3 栗林 麻理 歌人・伊勢の研究 4 武田 かほり 『讃岐典侍日記』の研究 ―長子が見つめたもの― 6 長谷川 梢 『建礼門院右京大夫集』の研究 8 吉荒 しのぶ タマの生命力 10 佐藤 邦宏 『太平記』における批評精神と叙述法 12 石崎 美央 「山月記の成立について」 14 岩崎 水青 西鶴武家物考―『武家義理物語』について― 15 小杉 美幸 移動動詞と共起する格成分の研究―[起点]と[状況]を中心に― 16 高橋 栄子 現代日本語における〈心理動詞〉についての研究 17

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鎌倉時代の長音表記について 橋本 瞳 〈論文の目的〉 私は今回、鎌倉時代の古文書について研究した。この時代を対象としたのは、平安時代 や室町時代など他の時代に比べその研究がまだあまりされていないため、新たな問題点が みえてくるのではないかという期待からである。調査テキストには、鎌倉時代という一つ の時代を総体的に把握できる『鎌倉遺文 古文書編』(以下『鎌倉遺文』と略記)を使用し た。また、仮名文書には様々な問題点があるが、その中でも鎌倉時代の仮名文書中に長音 の問題が見えることは早くから注目されていた。その結果、従来述べられている長音の特 徴や問題点と違う現象を発見できるのかということ等をみていく。 〈論文の概要〉 実際に『鎌倉遺文』の正編42巻中に収められている約3万3千通の書状を対象に調査 し、その中で長音と思われるものを抜き出した。そして前後の文脈や辞書、先行研究を用 いてそれぞれの仮名に漢字を宛て時代ごとに示し、そのひとつひとつについて当時の本来 の表記である「色葉字類抄」と照らし合わせ異なるものについて分析した。その結果三十 三個の異表記が見られたのだが、それを表記の混同、開合の混乱、オ段とウ段の拗長音の 錯綜、四つ仮名の混同、拗音の直音化表記の問題に分類し、それぞれについてどのような 混乱がおこっているのか分析した結果、主な問題点として4つのことが分かった。 1つ目は「譲渡」を「てうと」と表記したものである。これは、本来「イ段+ヤウ」の 語であるはずが、「エ段の仮名+ウ」で表記されるという仕方の開合の混乱と共に、タ行と サ行の混同の問題がみられた。 2つ目は、「ヒウエ(兵衛)」という表記についてである。「兵」は本来「ヒヤウ」と表 記されるはずの語であるため、本来「イ段の仮名+ヤウ」であるはずの語が「イ段+ウ」 で書かれている。これはオ段拗長音とウ段拗長音の表記交替の現象と考えられる。この「ヒ ウエ(兵衛)」は、本来「ヒヤウエ」であるため、開音からの変化であり、数少ない開音か らの交替現象の新たな一例といえるかもしれない。 3つ目は、天福2(1234)年に「しようもん(証文)」の例がみられたことである。 これは「基本的には本来イ段の仮名+ヨウからエ段の仮名+ウの方向でしか混乱をみられ ない」という説とは異なるものであり、全てがその傾向ではなかったことを示す証拠の例 の一つになるのでないかと考える。

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富山方言における終助詞の研究 ―「ネ」/「ノ」、「ヤ」/「マ」、「ゼ」/「ジャ」の意味分析― 沖本 千尋 〈論文の目的〉 富山方言における終助詞はどのような意味や機能を持っているのか。これを解明するこ とが、本論文の主たる目的である。 本論文では、富山方言でよく使用される終助詞の中の「ネ」、「ノ」、「ヤ」、「マ」、「ゼ」、 「ジャ」を取り上げている。これらの終助詞について研究した理由として、富山方言でよ く使用される終助詞であるということのほかに、「ネ」と「ノ」、「ヤ」と「マ」、「ゼ」と「ジャ」 はそれぞれ使用される文の形式が似ているため、どのような違いがあるのかわかりづらい ということが挙げられる。 そこで、富山方言の終助詞「ネ/ノ」、「ヤ/マ」、「ゼ/ジャ」についての意味を分析し、 比較することで、それぞれの終助詞の意味や用法の違いについて考えた。 〈論文の概要〉 終助詞「ネ」は共通語の「ね(え)」に近く、文の内容を何かと一致させながら聞き手に示す ときに用いられる。聞き手の知識・意向との一致を問う用法や、話して自身の記憶や結論 との一致を示す用法、聞き手に対して「…という思いをさせて申し訳なかった」という気 持ちを表わす用法などがある。終助詞「ノ」は共通語の「な(あ)」に近く、基本的には独話で 用いられ、感情などを話し手自身があらためて確認するときに用いられる。 終助詞「ヤ」は、話す内容がまだ起こる前に、話し手の以降を聞き手に伝えるという状況 で用いられる終助詞である。また、終助詞「マ」は、もうすでに起こったこと、起こってい ることに対して、話し手が自分の意向を聞き手に示す場合に用いられる終助詞である。 「ヤ」と「マ」の用法の違いは、話し手の話す内容がまだ起っていないことに対しての意向を 示す場合に用いるか、すでに起こった、起っていることに対しての意向を示す場合に用い るかということである。 終助詞「ゼ」は、すでに認識している情報と現実の状況との摩擦の認識という心的態度を 表す。終助詞「ジャ」は、話し手のそれまでの認識を現実の状況から見直し、改めるという 意味・機能を持つ終助詞である。「ゼ」と「ジャ」はどちらもすでに認識している情報と現実 の状況との差について作用する終助詞であるが、「ゼ」の場合はその差を認識するに留まっ ており、「ジャ」の場合はその差を認識し、それまでの認識を改めるというところまでが意 味・機能として存在する。それが、この2つの終助詞の違いである。

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紀貫之の研究 ―職業歌人としての表現― 安藤寛 〈論文の目的〉 紀貫之は平安時代前期、『古今集』時代の歌人である。人に依頼されて詠んだ歌が多い職 業歌人であり、自分の思いを詠んだ歌よりも、依頼主を満足させることを目的とした歌を 多く詠んだといわれている。貫之の個人的な思いを詠んだ歌は、『土佐日記』などの中にあ るといわれているが、そちらよりも職業歌人としての一面に注目し、どのような工夫をし て依頼主を満足させていたのかを見ていくことを目的とした。職業歌人としての作品のお もなものは屏風歌である。よって貫之の屏風歌が多く収められている『貫之集』を中心に 詳しく分析した。 〈論文の概要〉 第一章では、貫之が後世の人たちにどのように受け止められていたのかを見ていった。 その際、勅撰集における入集状況の変化と、歌論における貫之に関する記述をとりあげた。 勅撰集における入集状況は、そのままその歌人に対する評価を表す。三代集まで非常に多 くの歌を採られており、全体としては四季の歌が多いことなどをまとめた。 第二章では、『貫之集』の約六割を占める屏風歌について考察した。屏風歌は屏風絵と照 応し、おもしろみを生み出すものでなければならなかった。そのような効果をあげるため に、貫之が多くとった方法として、音を詠みこんでいる歌と、時間を詠みこんでいる歌を 第一節でとりあげた。音を詠みこんだ歌は、絵では表現できない音を、屏風絵から浮き上 がらせるという効果をあげているだけでなく、画中人物の思いを鑑賞者に強く伝える効果 もあげていた。時間を詠みこんだ屏風歌は、一瞬の風景を切り取って描かれた屏風絵には たらきかけ、その絵の世界を広げる、というはたらきをしていた。第二節では人物に焦点 をあてた屏風歌をとりあげ、そのような歌は、いかにも画中人物が詠んだように見えるよ うな方法で作られていることを見た。 第三章では、屏風歌に限らず、貫之の和歌の表現で、特徴的なものをとりあげた。その ひとつは、一首の中に二つのイメージが重なり合うように詠まれている歌である。もうひ とつは、「鶯」と「青柳」という二つの景物を取り合わせて詠んでいるものである。これに ついては『万葉集』時代から、貫之に至るまでの歌とも比較した。

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歌人・伊勢の研究 栗林 麻理 伊勢は三代集で女性として一番入集しており、有名な歌人である。また、伊勢の歌をま とめた『伊勢集』の冒頭部分は物語とも日記とも呼ばれることがあり、実に興味深いまと めかたがなされている。伊勢という人物が送った人生は翻弄されたものであったが、それ をのりこえて生きた女性であった。伊勢の歌には人生の壁ののりこえ方とでもいうべき方 法が書かれていると思い、それをさぐろうとしたのが本稿である。 第一章では、伊勢が後世の人々に語られてきたのかということを知るために、説話・物 語・評論など八つの書物の伊勢が登場する場面から考えられる伊勢像をさぐり、伊勢がど のようにとらえられてきたのかということを考えた。 第二章は歌人としての伊勢を調べた。第一節では、伊勢の一三代集までの勅撰集の入集 数とどの部立に入っているのかということを調べ、表にまとめた。特に入集数の多い、三 代集までについて歌を詳しくみて、伊勢の歌のどのような歌が評価を受けていたのかとい うことを調べた。第二節では、歌学書・歌論書という歌を詠むときの手引きになる書物に 伊勢のどのような歌が評価されていたのかということを一〇の歌論書・歌学書から調べた。 第三節では、歌を詠む公式な場である歌合に女性としてはじめて参加した伊勢の歌合せの 参加数と歌を、また歌人の力量によって、依頼される歌の数が決まる屏風歌を調べ、伊勢 が生きていた当時どのように評価されていたのかということを調べた。伊勢は公的な場面 で高い評価を受けており、まさに有名歌人であった。さらに、伊勢には私的な思いを詠ん だ歌も評価を受けており、伊勢には公的な場で歌を詠む、私的な思いを歌に詠むという二 つの面があり、それぞれの歌の世界はまるで二人の人物のように異なっているものであっ た。 第三章では第二章であきらかにした伊勢の二つの面の私的な面にさらにせまるため、『伊 勢集』を詳しくみた。第一節の(一)では、『伊勢集』の冒頭部分のまとまた人物を、三人称、 虚構、一番付き合いの長かった敦慶親王について書いていない、別の人の歌はあるのに伊 勢の歌ない部分があるなどを考察し、後人説を否定し、伊勢本人であると考えた。(二)は、 伊勢がどのような思いで『伊勢集』をまとめたのか、ということをあきらかにするために、 伊勢集をさらに詳しくみるとともに、伊勢がお仕えしていた温子にもその目を広げ、伊勢 と温子との関係、さらに歴史事実も考えあわせて、『伊勢集』をまとめた目的を考えた。第 二章では、伊勢の私的な思いである恋に焦点をあてた。(一)は伊勢と藤原仲平との恋、(二) 伊勢と宇多天皇との恋、(三)伊勢と敦慶親王との恋、(四)は伊勢の恋の歌のなかでも独詠歌 と思われるものをとりあげ、伊勢が何に苦しんでいたのかということをあきらかにした。 伊勢は相手によって、歌いあげるものがかわっており、伊勢がそれぞれの相手と同じよう な恋はせず、三人三様の恋をしており、それは伊勢のおかれた立場や相手の身分にふさわ

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しいものであった。しかし、冷静に己をみつめている姿勢は変わることなく、また独詠歌 にはその姿勢が強く表れていた。伊勢は歌うことにより、己をみつめ、人生をのりこえて いたのである。

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『讃岐典侍日記』の研究 ―長子が見つめたもの― 武田かほり 『讃岐典侍日記』は堀河天皇の死を書き綴った日記である。典侍という役職の女房が作 者であるが、女性が天皇の死を書くということはこれまでになかったことである。これま でにない、天皇の死という特殊な事件を日記に書いたのはなぜか、それをとおして作者長 子が見つめていたものは何かについて考えていきたいと思い、とりあげた。 第一章では、日記が書かれた時代と作者藤原長子をとりまく人々について見ていった。 長子・堀河天皇が生きていたのは平安時代の末期である。時代は平安時代から中世へと移 っていく過渡期である。白河院によって院政が始められ、藤原摂関体制は崩れていったた め、内裏では院が絶大な権力を誇るようになった。長子の一族は院に伺候した院の近臣と して寵愛をうけ、一族の女性は天皇家の乳母に選ばれるなど天皇家と深い関係をもってい た。長子の堀河天皇への出仕もその縁である。堀河天皇は院から独立して政治をしようと 努め、その天皇の側近くに長子は仕えていた。また、長子の一族は父や姉を始めとして和 歌的・文学的な才能があり、長子は教養豊かな環境で育ったと思われる。 第二章では、長子が見つめていたものを日記中の長子の自己認識から考えていった。日 記には「われ」という長子の一人称が多く見られ、この日記の特徴の一つともいえる。こ れは、おもに対人関係に用いられ、上巻では堀河天皇の乳母と、下巻では鳥羽天皇に仕え ている女房と自分とを対比させて他人と自分とを差違化している。天皇をとりまく女房た ちの集団があり、その中で自分は他人とどう違ったかということを表している。大勢の女 房・乳母たちがいる中、「添ひ臥し」や「まもり」などの看病をとおして、長子と天皇は言 葉のいらない二人だけの関係を築いた。長子は乳母たちに比べて身分も地位も低かったが、 天皇をよく見る者として天皇に信用された。長子は天皇の死を描きながらも、乳母でもな く高い身分にあるのでもないが、自分が天皇の死を記録する資格をもっている人物である ことをも述べているのである。 第三章では、結びと序文、追記から日記を書いた動機や目的を考えていった。序文に「書 きなどせんにまぎれなどやするとて書きたることなれど」とあり、日記を書くことで天皇 を失った悲しみを紛らわそうとしたと日記執筆の動機を述べている。しかし、この日記が 書かれたのはそのためだけではない。結びには、この日記に書いたことは法門に関するこ とも含めて、すべて天皇が語ったことであるから「もどくべからず」といっており、主情 的ではない、天皇の死という公的な事件の記録として書いたことをはっきり述べている。 上巻には発病から死にいたるまでの天皇の様子を、下巻には長子が再出仕した後に回想 した、ともに過ごした日々の天皇御在世の思い出を書いたことで天皇を日記という作品の 中に再現・再創造したのである。それは天皇の死を遠ざけないようにすることであり、書 くことによって天皇を永遠化させることでもあった。その中に「私」というものはなく、

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長子は堀河天皇だけを見つめ続けた。つまり、この日記はどこまでも天皇のために書かれ たものなのであり、天皇の死を公的な記録として作品にしたものなのである。

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『建礼門院右京大夫集』の研究 長谷川梢 『建礼門院右京大夫集』は、高倉天皇の中宮徳子に仕え、平家と源氏の争いで恋人・平 資盛を亡くした女性が、晩年に自らの人生を振り返ってまとめた家集である。私は、「死な れた者」である右京大夫が、その後の人生をどんな思いで生きたのか、自分の人生をどう 受け止めていたのかを知りたいと思い、右京大夫の、過去に向き合いながら生きる姿勢を 考察した。 第一章では、右京大夫の人生の軌跡を整理した。第一節では、能書家であり、和歌・箏・ 古典の教養を持った父・伊行と、楽人大神基政の女で、箏や笛を得意とした母・夕霧に注 目し、右京大夫が育った環境を確認した。 さらに第二節では、平資盛と藤原隆信という二人の男性との恋の様子、その違いを考察 した。さらに源平の争乱と、それを経て一途に資盛への思いを貫き続ける右京大夫の歩ん だ人生を概観した。 第二章では、右京大夫が過去の悲しみとどのように向き合って生きたのかを、主に詞書 の記述から考えていった。第一節では、過去の助動詞「き」が作品中で多用されているこ とに注目した。同じく過去の助動詞である「けり」との意味の比較や、この二つの助動詞 の使用頻度の推移から、右京大夫が「き」を用いたのは、過去の出来事を客観的に過去と して見つめ、現在いる自分とはかけ離れた過去として受け止めて書いた、少なくとも書こ うとしたからである、と考えた。 第二節では、序と跋の部分、特に「我が目ひとつに見む」という言葉に焦点を当てた。 この言葉は、自分以外の何者も、この家集に記した自分の人生を理解することはできない、 という右京大夫の孤独の心を示しているように思われる。ほかに共感してくれる人はいな い、それでも書かずにはいられない、という意識があるのではないだろうか。 第三節では、右京大夫の「ためしなし」という思いについて考えた。この言葉には、現 在と過去、二つの時の比較が存在する。しかし右京大夫は、単純に現在と過去の比較では なく、同じ悲しみを味わった、同じ時に生きる人と自分を比較する際に「ためしなし」を 用いている。右京大夫は同じ体験を共有する人がいて、自分もその多くの人たちの中の一 人だということは理解していても、やはり悲しみは自分だけの特別のものであり、誰とも 共有できないのだ、と考える。これは、第二節で考察した「我が目ひとつに見む」の思いと 共通している。しかしこの孤独は、自分だけが本当に愛された存在であったという自信が あったからこその、別れの悲しみと孤独であったと考えられる。 第三章では、『右京大夫集』中の歌で、風景に重ねて心情を詠っていると思われる「な がめ」の歌をとりあげた。第一節では右京大夫の「ながめ」の歌を全体的に見てゆき、作 品前半では「待つ恋」の「ながめ」だったのが、作品後半には、「待つ」ことがなくなった

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孤独の「ながめ」へと変化していったことがわかった。 第二節では、「ながめ」の歌の中でも特に月の歌について考察した。家集の前半部では、 単純に月の美しさを詠う歌もあるのだが、後半部の資盛死後の歌では、月は辛い過去を「思 ひいでよ」と呼びかけるばかりの存在である。しかし、たとえ苦しくても資盛のことを思 い続けることで、資盛との愛は消えずに永遠のものとなる。「思い出す」ことで最後まで悲 しみから抜け出せなかった右京大夫だったが、「思い出す」ことこそが、資盛のそばにいる ことであり、右京大夫にとっては慰めにも、また「生きること」そのものにもなったので はないだろうか。

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タマの生命力 吉荒しのぶ 目的 古事記の上巻「日子穂々手見命と鵜葺草葺不合命」の場面(「トヨタマビメとホヲリの 物語」と称した)を考察した時、この場面に「タマ」という訓みを含む言葉が八種類出て きた。この場面は海神の宮が舞台である。八種類とは、「豊玉毘売命、玉依毘売命、玉器、 御頸の璵、塩盈珠、塩乾珠、赤玉、白玉」である。トヨタマビメとホヲリの物語にある八 つのタマからは、タマが含まれる言葉や名前がもつ、意味や力を感じた。これを初めに「生 命力」と称した。 このような経緯で、海神の宮以外の場面も含め、タマという訓みを含む言葉を総合的に 見渡し、古事記における「タマの生命力」を、論理的に証明しようと考えた。 結果 内容に合う形で最終的に題名をつけることができるとすれば、「生命力という緒で連ね ることができなかったタマ」である。つまりこの論文では、色々なタマがどのように「生 命力」でつながるのか、を論理的に述べることができなかった。 扱ったタマは以下の通りである。 イザナキとイザナミがオノゴロ島を作った時に使用した「天の沼矛」。 三貴士が成った時、イザナキが喜び、御頸珠の玉の緒をゆらかした時の「もゆらに」。 アマテラスが、スサノヲを負かすために装備した「八尺の勾璁の五百津の御すまるの珠」。 スサノオが誓約でタマを振り濯いだ時の「ぬなとももゆらに」。 スサノヲを起こした「天の沼琴」。 神々への御馳走の調理を任された「櫛八玉神」。 ホヲリと「トヨタマビメ」の物語。 アマテラスの「御魂」。 トヨタマビメの妹「タマヨリビメ」。 三輪山の神に通われた「イクタマヨリビメ」。 海神の宮に着いた時の、ホヲリの「御頸の璵を解き、口に含みて其の玉器に唾き入れき。 是に、其の璵、器に著きて、婢、璵を離つこと得ず」という行動。 山幸ホヲリが海神から得た「塩盈珠・塩乾珠」。 トヨタマビメの歌「赤玉は 緒さへ光れど 白玉の 君が装し 貴くありけり」。 軽太子が軽大郎女を歌った「真玉なす 吾が思ふ妹」。 タカヒメが兄アヂシキタカヒコネの御名を明かそうと歌った「項がせる 玉の御統 御 統に 足玉はや」。 アメノヒボコが妻にした「赤き玉」。アメノヒボコが渡来の際に持参した「玉津宝」。 ヌナカワヒメがヤチヒコに歌った「真玉手 玉手」。 沙本毘売の、腐らせた「玉の緒」。 反正天皇として天下を治めた水歯別命の歯の美しさは「珠に貫けるが如し」。 大楯連に殺された女鳥王の「玉鈕」。

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根臣が心を奪われ、悪人になった原因となる「玉縵」。

なお、タマの意味としては、主に「魂・神霊」「美麗・美称」「真珠」の三種類が取り出 せた。

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『太平記』における批評精神と叙述法 佐藤邦宏 〈論文の目的〉 『太平記』は、十四世紀の鎌倉末期から南北朝期にかけての戦乱、いわゆる「南北朝の 動乱」という混沌とした時代を描いた軍記物語である。この作品で印象的であると感じた のは、本文中に見られる批評叙述の多さであった。批評を行う〈主体〉だけを見ても、〈語 り手〉・〈不特定多数の者〉・〈特定の登場人物〉と三つのパターンがあり、批評の方法も、 それらの批評を行う〈主体〉が自身の言葉で批評するものや、故事を引用することで作中 の事件を例証するものとさまざまであった。そして特に、異なる〈主体〉からの批評が並 列的に叙述され、しかも両者の批評の主張が異なる時、『太平記』の批評は複雑なものにな っていると考えた。 本稿では、このような「異なる〈主体〉からの批評が並列的に叙述される批評叙述」を 検討材料として、そこから『太平記』作者の批評精神を解明することを目的とした。 〈論文の概要〉 第一章では、『太平記』(流布本)の本文に見られる批評叙述から、〈語り手〉と〈不特 定多数の者〉による批評の関係と、〈語り手〉と〈特定の登場人物〉による批評の関係とを 検討し、それぞれで両者の批評関係を調べた。検討の結果、両者の批評は同じものである ことや補足関係にあることが多かったが、稀に両者の批評の主張が異なる場合もあること が分かった。このような、作品内で主張の異なる二つの批評が並列的に述べられる場合、 物語としてはまとまりに欠ける。しかし、そのような叙述が為される箇所にこそ検討すべ き問題があると思われた。また、考察を通して『太平記』に見られる批評の構造を図式化 した。加えて、『平家物語』(覚一本)の批評叙述と『太平記』の批評叙述とを比較し、『太 平記』に見られるような文学的に整理されていないと感じる批評叙述は、『平家物語』には ほとんど見られないことを明らかにした。 第一章の考察の中で、『太平記』全体の中で「観応の擾乱」事件(足利政権内部での権 力闘争を指す)を描いた記事のみに、〈語り手〉と〈特定の登場人物〉による批評が並列的 に述べられるが、両者の批評が一致しないという特殊な批評叙述がみられることが分かっ た。しかも、それらの叙述には全て足利直義が関与していた。具体的には、「妙吉侍者が足 利直義に、秦の悪心趙高の故事を引き、高兄弟を批判するが、〈語り手〉はこれこそが怨霊 の計画の始まりであると批評を加える叙述」( 卷第二十六「妙吉侍者事付秦始皇帝事」)な どである。 そこで第二章では、『太平記』における「観応の擾乱」事件の記述を概観し、その記事 に見られる足利直義に関しての描写を検討した上で、先に挙げた「観応の擾乱」事件のみ

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に見える特殊な批評叙述についての考察を行った。結果として、『太平記』作者は足利直義 に対して批判的な批評を叙述することを避けようとする配慮が見られることが分かり、最 初は「欲心」を持たない人物として造型した足利直義が「観応の擾乱」事件を起すための 設定として、〈語り手〉と〈特定の登場人物〉による批評が並列的に述べられるが、両者の 批評が一致しないという特殊な批評叙述が行われたのではないかと思われた。

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「山月記の成立について」 石崎美央 『山月記』の李徴は様々な問題を抱えている。彼は己の詩作への気持ちから人間の姿を 捨て虎になった。しかし、彼は虎になってからさえも妻子と詩作との間で悩んでいた。『山 月記』という作品をその成立を考察することで、『山月記』という作品・李徴の性格をみて いき、李徴の存在を明らかにしていくことにした。 第一章では『山月記』と原典素材である『人虎伝』を比較しながら考察した。様々な相 違点があったが、その中でも李徴の身分が『人虎伝』では皇族の子であったのに対し、『山 月記』ではそのような設定はない。また虎になった理由が『人虎伝』では因果応報的な理 由があげられているのに対し、『山月記』では様々な捉え方ができる。李徴の性格は作者で ある中島敦の創作の部分が大きいことが分かった。 第二章では『山月記』を『古譚』の中の一作品としてみることで、『古譚』の中の『山月 記』の役割を考察した。『古譚』は不思議な物語のまとまりであり、その4作品の主人公た ちを比較検討することで、様々な共通点が浮かび上がってきた。まず主人公たちは皆不幸 な人生の終わり方をしている。そのほとんどが周囲の人間とのかかわりに問題があり、そ れゆえに不幸にあっているのではないかと感じた。また主人公たちは言葉・詩に深く関係 した存在でもあった。『山月記』と同様に詩人をテーマに扱った『狐憑』では主人公は最後 に詩人であったと明記されているが、李徴においてはそのような記述はなかった。『古譚』 において、『山月記』は他のどの作品よりも詩というものにこだわっている。詩人になりた がっていた李徴をあえて詩人にはせず、最も言葉から遠い存在である虎にすることでより 詩・言葉を読者に印象付けたのではないだろうか。 第三章では『山月記』や『古譚』の先行研究をあげて検討した。『山月記』の李徴の変身 の理由は多くの研究者から己の妻子よりも詩行を優先させたためであり、それは李徴の人 間性のかけるところによるものだといわれているが果たしてそうなのだろうか。『古譚』の 中の作品として『山月記』を考察していくと、李徴やその他の主人公の周囲には必ず誰か 主人公と親しい仲の人間の影がある。『古譚』の中に見られるその影とその影に対する主人 公たちの思いから考えると、変身の理由を李徴の人間性の欠如と決めるのは難しいように 考えた。『山月記』は様々な解釈ができる作品である。しかし、『古譚』という一連の作品 の中で読み解いていくと共通したテーマが根底に流れていることが分かる。またその差異 を検討していくことで作品それぞれの個性が見えてくる。『山月記』からは詩人になれなか った男の心の内を告白することで詩に対する元来人間が持っていた詩・言葉に対する畏 怖・尊敬の念があらわされていたのではないだろうか。虎への変身は詩にとらわれていた 李徴に詩を己の中に再認識させる目的があったと考えられるのかもしれない。

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西鶴武家物考―『武家義理物語』について― 岩崎水青 〈論文の目的〉 浮世草子『武家義理物語』は、西鶴武家物〔貞享五年(一六八八)刊。大本六冊〕の第 二作目である。義理や一分のために命を賭ける武士達の物語を集めたものである。この『武 家義理物語』は、「義理」と題している割に、「義理」の話が少なく、谷脇理史氏も、「『武 家義理物語』が「義理物語」らしく仕立てた作品であることはもはや定論となっている」 と述べている。さらに、犠牲を払ってまでも「義理」を守ろうとする武士を、批判・揶揄 的な視点で描いているとの見解を示している。しかし、私はその見解に疑問を覚えた。本 文中に「まことに人間の義理程かなしき物はなし」という記述があるためである。この言 葉からは、武士のはかなさ・むなしさといったものを表現しようという西鶴の意識が感じ られた。そこを出発点に、『武家義理物語』を執筆するにあたって、西鶴は何を伝えようと したのかを中心に考察した。 〈論文の概要〉 第一章では、当時の武士像をまとめ、西鶴が武士をどのような存在として捉えていたか を見た。そこで、西鶴の描く武士には、世間一般的な人が抱くような、極めて人間的な感 情が表現されていることがわかった。第二章では、「是非もなき義理」「義理にせめられ」 といった「義理」の行為が自ら望んだものではないことを示す心情表現に着目して、『武家 義理物語』における「義理」は、強制的に武士がなすべきものとして捉えられていると考 えた。さらに、好転する話の結末にも注目して、「義理」の行為によって自己犠牲を強いら れた武士への救済措置と捉え、西鶴の武士への同情的視線も見られると考えた。第三章で は、第一章第二章をふまえたうえで、典拠との比較という観点から考察した。最後に第四 章では武士だけでなく人間存在そのものへの西鶴の考えを追った。 以上のことから、西鶴が『武家義理物語』で描こうとしたものは、武士の「義理」では なく、むしろその「義理」によって苦しんだり悲しんだりする、登場人物たちの心情や行 動であったのだと結論付けた。「義理」に迫られるという状況に陥ったことで、発生する人 間の感情やそれに伴う行為を、西鶴はより多くの読者層が共感できるように、人間的感情 に忠実に表現していたのである。

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移動動詞と共起する格成分の研究―[起点]と[状況]を中心に― 小杉美幸 〈第1章〉 [起点]を表す格助詞として「を」と「から」がある。本章の目的は、[起点]の「を」 と「から」がどのように使い分けられているのかを明らかにすること、[起点]を表す「か ら」には異なる2種類があるということを示すことの2点である。 本章1~2節では、[起点]のヲ格標示に課される制約について検討した。その結果、[起 点]を表す「を」は離脱動詞としか共起しないということが分かった。続く3節では、[起 点]の「を」と「から」が表す意味の違いと、その違いによって生じる制約について考察 した。[起点]の「を」が「存在」→「不在」という変化を表すのに対し、「から」は前接 する名詞の境界を指定する。そのため、[起点]の「を」は存在可能な場所を表す名詞以外 をマークすることができないが、「から」は場所名詞以外にも人やものを表す名詞をマーク できる。4節では、2種類のカラ格句の特徴と、両者の共起条件について考察した。 (1) その選手は、A地点からずっと、コースからはずれている。 移動動詞と共起するカラ格句の中には、移動が始まる地点((1)では「A地点」)をマー クする[出発点]と、移動主体がそれまで存在した場所((1)では「コース」)をマークす るもの[起点]がある。両者の共起は、①当該の文が、「離脱」の後に継続的移動または何 らかの状態が続くことを表すこと、②[起点]となる場所は経路的な名詞、[出発点]とな る場所は経路上の一地点を示すものであること、という2条件を満たす場合に可能となる。 〈第2章〉 本章の目的は、[状況]を表すヲ格句(「状況補語」と呼ばれる)を2種類に分け、それ ぞれの特徴と連続性を考えることである。また、「状況補語」と「移動補語」の連続性につ いても考察していく。 [状況]を表すヲ格句の中には、移動主体が移動する空間を表すもの(例文(2))と、 逆接的な働きをするもの(例文(3))がある。本稿では、前者の意味役割を[空間]、後者 の意味役割を[逆接的状況]と呼んだ。 (2) 桜吹雪の中を道を歩いた。 (3) 花子は周囲の反対の中を太郎と結婚した。 この2つは①移動を含意する動詞と共起する、②「中を」が「厳しい自然現象」を表す ものである、という2つの条件を満たす文を通じて連続している。 また、(2)のような[空間]を表す状況補語は、移動補語とは別物であるが、両者の間 に連続性も認められるという結論に至った。本稿では、両者は、①移動を含意する動詞と 共起すること、②「中を」が「厳しい自然現象」を表すものである、という2条件を満た す文を通じて連続していると考える。

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現代日本語における〈心理動詞〉についての研究 高橋栄子 〈論文の目的〉 〈心理動詞〉とは、「人の内的事象」を捉える動詞である。本論文の目的は、〈心理動詞〉 を「格」・「形態」・「アスペクト」の点から考察し、先行研究よりも、より〈心理動詞〉の 枠組みをはっきりさせるというものである。 〈論文の概要〉 第1章では、先行研究の紹介と問題点の指摘を行い、本論文での考察内容を具体的に述 べた。 第2章では、本論文で考察対象とした〈心理動詞〉全てを、「感情的心理動詞」・「思考的 心理動詞」・「知覚感覚的心理動詞」の3つの群に分け、〈心理動詞〉の範囲を明らかにした。 〈心理動詞〉とは、「人の内的事象」を捉える動詞であると冒頭で述べたが、「人の内的 事象」とは、具体的に「感情・思考・知覚感覚」が主な要素であると考える。故に、「感情 的心理動詞」・「思考的心理動詞」・「知覚感覚的心理動詞」の3つの群に分かれるのだと、 考えられる。 第3章では、〈心理動詞〉の「格」について考察を行った。〈心理動詞〉は一般的に、ニ 格をとるもの(ニ格型心理動詞)、ヲ格をとるもの(ヲ格型心理動詞)、ニ格とヲ格両方を とるもの(両用型心理動詞)があるとされている。本章では格助詞「デ格」も加えて、よ り細かな分類を行った。分類した結果、「ニ格およびデ格型心理動詞」が一番多く分類され た。また、「デ格」のみしかとれない〈心理動詞〉がいくつかある事が分かった。これは、 今までの先行研究では言われていなかった事なので、「デ格」のみしかとれない〈心理動詞〉 があるという事は、新たな発見になったと思われる。 第4章では、〈心理動詞〉の「形態」について考察を行った。主な内容としては、「対応 する形容詞の有無」についてと、「〈心理動詞〉の受け身化」についての2点である。考察 した結果、「対応する形容詞の有無」については、先行研究で「ヲ格型心理動詞の多くは形 容詞と派生する」と述べられていたが、形容詞と対応しないヲ格型心理動詞が多数存在し ている事、また「~する」という様な〈心理動詞〉はほとんどが対応する形容詞が存在し ない事などが分かり、先行研究よりも具体的に述べる事ができた。また、「〈心理動詞〉の

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があるという事や、10 種類全てのテストと結び付く事ができなかった〈心理動詞〉がいく つかある事などが分かり、大変興味深い結果となった。

参照

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