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五・一六世紀における流通・海運の変革東海地方港津遺跡の検討 尾野善裕
弓戸o国︿o巨江050﹃書⑫⇔■吟ユ庁已註05旬昌島冒曽ユ昌⑫学旬目題o昌暮声o昌巨嵩夢, O日Oo田⇔自﹃﹄碧旬良﹀ロ力古田島尾o﹃¶o認oD﹂90。巨⇔冒6ぎ昇巴自自o笹o目 は じめに 〇一五・一六世紀考古遺物の年代観と港津遺跡の廃絶・衰退時期 ② 港 津遺跡廃絶・衰退時期の歴史的状況 ③ 出土資料に見る一五・一六世紀の物流変革とその背景 ④ 中世海運における安濃津の位置づけをめぐって おわりに [論 文 要 旨] 近年、東日本の太平洋海運に関する研究では、明応七年︵一四九八︶に発生した地 考古資料から推測されるこれら一連の現象は、明応年間かそれを大きく遡らない時 震 が東海地方の港津に与えた影響の大きさが強調される傾向にある。しかし、その実 期に起きているとみられ、時期的な一致から考えると、陶磁器や土師器皿の大量消費 例とされてきた港津遺跡の年代について、改めて考古資料から検討してみると、廃 に現われている地域経済の変容は、もともと在京を原則としていた守護.守護代.奉 絶・衰退時期には微妙にずれがあることが判り、一時的な自然災害が港津の廃絶・衰 公衆などの在国化が大きく関わっている蓋然性が高い。 退 の 決定的な要因であったとは思われない。 応仁・文明の乱以降、明応の政変などを通して進行する守護・守護代・奉公衆など むしろ、一五世紀から一六世紀にかけて廃絶・衰退する港津が少なからず存在する の在国化が、東海地方のみに限られる現象ではないことを考えれば、同様の地域経済 ことは、物流の変化を反映したものではないかと考えられ、この時期の地域経済の変 の変容は、他地域の考古資料の分析からも確認できるのではないかと思われる。 容を具体的に確認できる現象として、遺跡から出土する陶磁器の絶対量が急激に増加 することが挙げられる。また、陶磁器消費の絶対量が急増するのと規を一にして、東 海地方各地で京都文化の影響を強く受けた土師器の皿が目立つ存在になるが、こうし た現象の背景には京都文化に慣れ親しんだ人々の地方下向と定住を想定できる。 35はじめに
近年、文献史学・考古学の双方から、中世東日本の太平洋沿岸におけ る海運・流通に関する研究が盛んである。中でも、明応七年︵一四九 八︶に発生した地震︵以下、明応地震と表記︶が太平洋海運に与えた影 響 の 大きさについては、多くの論者が指摘している︹阿部一九九九、 有光一九九五、伊藤一九九七a・一九九七b、加藤一九九九、峰岸 一 九 九五、矢田一九九六・一九九九︺。私自身、それらの先行研究に教 えられることが少なくなかったが、読了後、いくつかの疑問が湧いてき た。 その第一は、伊勢の大湊のように明応地震で甚大な被害を受けている ヘユ にも拘わらず、ごく短期間のうちに復興されている事例と、伊勢の安濃 津や遠江の橋本に関連すると目されている元島遺跡のように、明応地震 によって廃絶もしくは衰退したとされる事例の存在である。もし、その 港津が物流の拠点として重要な機能を果たしていたのだとすれば、速や かに復興されて然るべきなのであって、復興されていないとすれば、何 かそれを阻む要因が別に存在していたのではなかろうか。つまり、明応 地震は一つのきっかけではあったかもしれないが、港津が廃絶・衰退し へどザ て いく決定的理由ではないかもしれないという点である。 そして第二は、第一の疑問点とも関連するが、いくつかの港津で指摘 されている明応地震による廃絶もしくは衰退といった現象を、歴史的事 実 (史実︶として捉えて良いかどうかの問題である。実は、伊勢の安濃 津にしても遠江の橋本にしても、明応地震で壊滅的被害を受けたために 集落を移転させたという記事は、いずれも近世の文献にのみ認められる に 過ぎず、同時代史料で確認されていないという問題がある︹矢田一 九 九六︺。後世の地誌に、寛文二二年︵一六七三︶の洪水で壊滅したと 記されている草戸千軒町が、洪水以前に寂びれていたことを明らかにし た発掘調査の事例を挙げるまでもなく、後世の記事や伝聞を鵜呑みにで きないことは多言を要しないだろう。 したがって、今、明応地震による港津の廃絶・衰退を確認しようとす るならば、それは考古学的な発掘調査の成果に依拠せざるをえないと思 われるのだが、現在、考古学側から提示されている年代観はそれほど確 固たるものだろうか。もし、この点に問題があるとすれば、それを前提 とした立論は根底から揺らぐことにもなりかねない。それにも拘わらず 筆者は、最近知りえたいくつかの発掘調査成果から、現在流布している 遺物の年代観に疑問をもつに至った。そこで、以下では、まず第二の疑 問点について現在の筆者の見解を示し、次に可能な範囲で第一の疑問点 および関連する問題について考えてみたい。 〇一五・一六世紀考古遺物の年代観と港津遺跡の廃絶・衰退時期 未だ土器が存在していなかった旧石器︵先土器︶時代の遺跡は別にし て、一般的に日本の遺跡から最も多く出土する人工遺物は焼きものであ る。これは、破損した場合に新たな製品の原材料として再利用︵リサイ クル︶されることがほとんどない上に、土中でも腐らないという性質に 基づくと考えられるが、結果としてこの性質が遺跡の年代を考える上で 大きな効力を発揮する。これは、本稿で問題としている一五・一⊥ハ世紀 の遺跡の場合も同様で、明応地震による港津の廃絶・衰退例とされる安 濃 津 や 元島遺跡も、遺跡の年代は出土した焼きものから推測されている。 そして、両遺跡の廃絶年代を考える上で、共通して根拠とされているの が 瀬戸・美濃窯産の施紬陶器︵以下、瀬戸美濃陶器と略記︶である。 この時期の瀬戸美濃陶器の編年については、井上喜久男氏と藤澤良祐 氏による一連の研究︹井上 一九七六・一九八五・一九八七・一九八八・尾野善裕 [一五・一六世紀における流通・海運の変革] 一 九 九〇・一九九二、藤澤一九八六・一九九一a・一九九四・二〇〇一︺ があり、方法論の異なる両氏の編年観を単純に対比して並行関係を論ず ることはできないが、大きな変化の方向性についての認識は共通してお り、暦年代︵実年代︶観についても極端に大きな違いはないように見受 けられる。したがって、以下では安濃津や元島遺跡の発掘調査報告書 〔伊藤一九九七b、加藤一九九九︺でも用いられている藤沢氏の編年 によって記述を進めたい。 まず、藤沢氏による最新の研究成果によると、明応年間を前後する時 期の瀬戸美濃陶器の暦年代観は次の通りである︹藤澤二〇〇一.二〇 〇二︺。 古 瀬 戸後W期新段階:︵一四六〇年頃︶∼一四八〇年代 大窯第1段階:一四八〇年代∼一五三〇年前後 大窯第2段階:一五三〇年前後∼一五六〇年代 大窯第3段階:一五⊥ハ○年代∼一五九〇年代初頭 もっとも、この年代観は安濃津や元島遺跡の報告書刊行後に修正見解 として示されているものであるから、両遺跡の報告書刊行時点での藤沢 氏 の暦年代観についても確認しておくと、以下の通りである︹藤澤一 九九一a・一九九四︺。 古瀬戸後W期新段階:一四六〇年頃∼一四八五年頃 大窯第1段階:一四八五年頃∼一五二〇年頃 大窯第2段階:一五二〇年頃∼一五五五年頃 大窯第3段階:一五五五年頃∼一五九〇年頃 このように、暦年代観に微妙な差異はあるものの、明応地震が起きた
己
300 200 100 0 大窯第4段階 大窯第3段階 大 窯第2段階 大窯第−段階 古瀬芦後W期新段階 古瀬戸後W期古段階 古瀬戸後田期 古瀬戸後1・H期 古瀬戸中期 古瀬戸前期 元島遺跡出土瀬戸・美濃陶器時期別出土量図 (加藤1999より改変) 図1 曽 とされる明応七年︵一四九八︶が大窯第1段階に含まれていることは、 一貫して変わりがない。そして、安濃津では少量の大窯第1段階のもの を最後として、それ以降の段階の瀬戸美濃陶器が出土していないこと、 元島遺跡では大窯第2段階以降の瀬戸美濃陶器の出土量が激減している こと︵図1︶を根拠に、明応地震による集落の廃絶や衰退が論じられて いる︹伊藤一九九七a・一九九七b、加藤一九九九︺。これらの論旨 は極めて明快で、そこには一見何も問題はないように見受けられる。し かし、冒頭でも述べたように、筆者は論旨の前提となる瀬戸美濃陶器の 暦年代観自体に改めて検討すべき余地が残されているのではないかと考 えている。なぜそう考えるのか、次に根拠を示そう。 ①京都市山科区の山科本願寺跡から、法華宗徒による天文元年︵一五 三二︶の焼き討ちに関わると見られる焼土層が発見されており、そ の 焼 土層から出土した瀬戸美濃陶器が、古瀬戸後W期新段階のもの 37図2 山科本願寺跡出土瀬戸美濃陶器実測図(S=1 4)(永田・近藤1999より)
図3 城之内遺跡出土瀬戸美濃陶器実測図(S=1◆4)(内堀ほか2000より)
尾野善裕 [一五・一六世紀における流通・海運の変革] を一部含みつつも、大窯第1段階のものを主体としており、同第2 段階以降のものを含んでいないこと︵図2︶︹永田・近藤一九九九、 近 藤 一 九 九九︺。 ② 岐阜市の城之内遺跡から、天文四年︵一五三五︶に長良川の大洪水 で 廃 絶した枝広館︵美濃国守護土岐氏の居館︶と目される遺構が発 見されており、洪水によって廃絶したと見られる戦国時代の遺構か らは、山科本願寺と同様に、瀬戸美濃陶器は大窯第1段階までのも のしか出土しておらず、古瀬戸後W期新段階のものを一定量含んで いること︵図3︶︹内堀ほか二〇〇〇︺。 ③岐阜市の鷺山仙道遺跡は、永正六年二五〇九︶∼天文元年︵一五 三二︶まで美濃国の守護所であった福光城の城下町推定地であるが、 出土する瀬戸美濃陶器は古瀬戸後W期新段階のものを主体としてお り、大窯第1段階のものは少量含まれているに過ぎないこと︵図 4︶︹高木ほか二〇〇二︺。 即ち、①・②の事例からは、一五三〇年代前半が大窯第1段階に含ま れるであろうことと、古瀬戸後W期新段階と大窯第1段階の境が一五三 〇年を大きく遡らないであろうこと、③の事例からは、古瀬戸後W期新 段階と大窯第1段階の境が一五〇九∼]五三二年の間でも後半側である 蓋 然 性 が高いこと、以上を結論として導き出すことができる。 もっとも、このように考える場合には、従来大窯製品と目されてきた 永正九年︵一五一二︶・永正一三年︵一五一六︶の刻銘をもつ瀬戸美濃 陶器の鉄紬四耳壼︵前者は東京国立博物館蔵、後者は国立歴史民俗博物 館蔵︶の存在が問題として残る。しかし、類品は古瀬戸後W期に編年さ れる菊畑窯や五釜窯︵いずれも愛知県瀬戸市︶からも少なからず出土し ており、必ずしも大窯第1段階を一六世紀第1四半期に遡らせて考える 根 拠とはなりえない。むしろ、これらの鉄紬四耳壼が大窯製品と目され てきた背景に、大窯第1段階の開始を一五世紀末にまで遡らせて考える 編年観があるのではないかと思われる。 また、前記①∼③の事例が指し示しているのは、いずれも瀬戸美濃陶 器 が 廃棄された年代であって、生産年代がそれよりも若干遡る蓋然性が 高いことは充分に考慮されてよい。しかし、この点を考慮に入れたとし ても、消費遺跡においては、一六世紀の第1四半期は未だ古瀬戸後W期 新 段階が主体的な存在であり、大窯第1段階はむしろ一六世紀第2四半 期に相当すると考えられるのではなかろうか。つまり、少量とはいえど も安濃津で大窯第1段階の瀬戸美濃陶器が出土している事実は、明応地 震以後も永正・大永年間︵一五〇四∼一五二八︶頃までは集落が存在し て いたことを示すものと評価できよう。また、元島遺跡で見られる大窯 第2段階以降の瀬戸美濃陶器の出土量が少ないという現象も、弘治・永 禄年間︵一五五五∼一五七〇︶頃に集落が衰退し始めることを示してい るのであって、いずれも明応地震との直接的な関連を見出すことは難し い の ではないかと思われる。
②
港津遺跡廃絶・衰退時期の歴史的状況
さて、前段での検討で、安濃津や元島遺跡の廃絶・衰退が一六世紀代 に起きた現象であるらしいことが判ったが、明応地震が直接的な原因で ないとすれば、これらの遺跡の廃絶・衰退要因は↓体何に求めることが できるだろうか。そもそも、安濃津では大窯第1段階までの瀬戸美濃陶 器しか出土していないのに対して、元島遺跡では量を減少させながらも、 大窯第2段階以降の瀬戸美濃陶器︵瀬戸美濃陶器の技術を導入して焼か れた初山・志戸呂窯製品を含む︶が一定量認められることを考えれば、 両者の廃絶・衰退要因が同じであるという保証もない。 したがって、本来ならばまず個別の遺跡に即して、その廃絶・衰退要 因が探られる必要があるが、個々の港津に関する中世の文献資料︵史 39料︶はごく限られており、既に述べたように、安濃津についても橋本に つ い ても、同時代史料の中に廃絶・衰退要因を明記したものは全く知ら れ て いない。加えて、考古学的な発掘調査によっても、津波・洪水など の明確な自然災害の痕跡が見出されておらず、時期別の出土遺物量から 盛衰を現象として捉えうるに過ぎない以上、港津の廃絶・衰退要因を個 別の遺跡に即して明らかにする作業は困難を極める。そこで、次に一 五・一六世紀の東海地方における海運を取り巻く大きな状況に目を転じ て、その中に安濃津や元島遺跡の廃絶・衰退要因を見出すことができな い かを考えてみたい。 既に文献史学は、安濃津が面する伊勢湾の場合、一五世紀後葉の文明 年間︵一四六九∼一四八七︶に、守護や有力国人の関与の下に海関であ る﹁警固﹂が乱立する状況にあり、伊勢神宮とりわけ外宮がその停止に 奔走していたこと、一六世紀初頭には、北畠氏被官の愛洲氏による大湊 出兵の動き︵永正六年:一五〇九︶や、国人の長野氏による桑名占領 (永正八年:一五一一︶など、守護・国人が流通拠点としての港津支配 に積極的に介入しようとする動きがあったことを明らかにしている︹飯 田一九八八・一九九六、稲本一九九二︺。そして、戦国時代と呼ばれ て いる一五世紀末から一六世紀中頃には、東海地方においても、守護・ 守護代・国人をはじめとする諸勢力の激しい角逐があったに違いないこ とを考えれば、彼らが実力で支配しようとした港津の盛衰が、これら諸 ハヨ 勢力の対立・抗争と無縁であったとは考えにくい。そうだとすれば、そ れ ぞ れ の置かれている政治的・社会的状況の違いに起因して、各港津の 廃絶・衰退時期が異なることは充分に考えられるのであって、共に明応 地 震 で 大 被害を受けたとされる安濃津や元島遺跡が、微妙に時期を違え て廃絶・衰退することにも一定の合理的な説明が可能になると思われる。 もちろん、以上述べてきたことは、当時の港津をめぐる諸状況の中で、 そのように考えることもできるという解釈の一例を示したに過ぎないの であって、論証としては著しく不充分であることを否めない。しかしな がら、一五・一六世紀の東海地方における物流の変革は、数少ない文献 資料から垣間見られるに過ぎないのではなく、考古資料からも充分に窺 い知ることができるのではないかと思われる。
③
出土資料に見る一五・一六世紀の物流変革とその背景
近年、東海地方でも中・近世遺跡の発掘調査事例は飛躍的に増加して いるが、中でも城館跡をはじめとする一五・一六世紀の遺跡の調査例が 多いことは、特に目を惹く。いま、ここで膨大な量に及ぶ個別遺跡の調 査成果の詳細に触れている余裕はないが、多くの調査事例を通覧して気 付くことは、藤澤氏による瀬戸美濃陶器編年の古瀬戸後W期古段階から 同新段階にかけて、爆発的とも形容しうるほどに出土陶磁器の量が増加 していることである。もちろん、個々の遺跡の盛衰には、それぞれ個別 の事情が少なからず反映されているはずであり、同時期に類似の現象が 起きているからといって、その要因が同一であるという保証もないのだ が、無関係と考えるには、この時期に陶磁器消費量の急増する遺跡は余 りにも多いのではないかと思われる。 こうした印象は、古瀬戸後W期新段階に始まる中世城館が多いことに ハるザ も起因しているが、本稿で度々採り上げてきた元島遺跡にも共通して認 められる現象である︵図1︶。また、一二・二二世紀以降継続的に集落 が営まれていたことが確認されている名古屋城三の丸遺跡の第六・七次 調 査 地点︵名古屋市︶でも、古瀬戸後W期を境として、廃棄されている 瀬戸美濃陶器の量が急激に増加している︵図5︶。つまり、この時期に おける瀬戸美濃陶器消費量の急増は、単に新たな消費地の出現を意味す るにとどまらず、既存の消費地にも共通する現象と捉えることができる。 さらに、古瀬戸後W期新段階に続く大窯第1段階に、瀬戸・美濃窯での尾野善裕 [一五・一六世紀における流通・海運の変革O 「 片8◎ 60 40 20 大窯第3段階 大 窯第2段階 大窯第1段階 古瀬戸後W期 古瀬戸後氾期 古瀬戸後E期 古 瀬 戸後−期 0 図5 名古屋城三の丸遺跡第6・7次調査地点出 瀬戸美濃陶器時期別出土量図 陶器生産が、窪窯から大窯に転換していることは、こうした需要の増大 に対応する生産体制の変革と捉えることができよう。 それでは、こうした現象は暦年代としてはいつ頃に起きたことで、そ の 背景にはいかなる要因が考えられるであろうか。既に述べたように、 一 六 世 紀第1四半期に消費地で主体的な存在であった瀬戸美濃陶器は、 古瀬戸後W期新段階のものと考えられ、生産年代が若千遡るであろうこ とを考慮に入れたとしても、同段階の始まりが明応年間︵一四九二∼一 五〇、︶を大きく遡るとは考えにくい。つまり、多くの遺跡に見られる 陶磁器消費量の爆発的な増大は、明応年間を前後する時期に始まってい る蓋然性が高く、これは応仁・文明の乱以降、明応の政変︵一四九三 年︶を含めた政治的動向の中で、守護・守護代・奉公衆らの在国化が進 行し、彼らの領国・所領経営が強化された時期に当たるのではなかろう か。 即ち、これら]連の政治的・社会的な動向の中で地域経済が活性化し、 消費物資の絶対量が増大した結果、多くの遺跡において陶磁器消費量が 劇的に増加した可能性を、ここでは指摘しておきたい。消費の絶対量が 増加するには、前提条件として生産地と消費地を繋ぐ物流が盛んになっ て いる必要があり、物流の一端を担う水運がその重要性を増したであろ うことも想像に難くない。そして、こうした歴史的文脈の中で考えるな らば、先に挙げた永正六年︵一五〇九︶の愛洲氏大湊出兵の動きや、永 正 八年︵一五一一︶の長野氏による桑名占領といった事件も、守護や国 人層の領国・所領経営強化の動きの一環として理解しやすいのではない かと思われる。 もっとも、時期的な一致を挙げるだけでは状況証拠に過ぎないのであ って、それだけでは地域における消費経済の高まりと、守護や国人層の 動向を結び付けて理解することの決定的な根拠とはなりえない。しかし、 両者の関わりを推測させる材料は、決して瀬戸美濃陶器の生産・消費状 況 に 限 定されるわけではない。 既 に度々触れてきたように、古瀬戸後W期新段階から生活遺跡に廃棄 される陶磁器量が劇的に増加するが、この時期の遺跡・遺構から特徴的 に出土する遺物に土師器皿がある。膝下に瀬戸・美濃・常滑といった大 窯業地を擁している東海地方では、古代・申世を通して陶器︵須恵器を 含む︶が出土食器の主体的存在であり、もともと土師器㎜の消費量は決 して多くはないのだが、瀬戸美濃陶器と規を一にして出土量が急増する 事実は注目に値しよう。 特に、伊勢・美濃・東三河・西遠江では非ロクロ成形のものが、尾張・ 西 三河・東遠江ではロクロ成形のものが卓越するなど、土師器皿は地域 ごとに様相が大きく異なっており︹尾野一九九七︺、基本的に旧国単位 未満の小地域内で生産・流通したものと考えられるにも拘わらず、地域 の 枠を越えて京都の土師器皿が模倣されていることは無視できない︵図 6︶。こうした現象の背景には、京都の土師器皿文化に慣れ親しんだ 41
京都(非ロクロ) 美濃(非ロクロ} イ弄勢(ヲFロクロ) 尾張(ロクロ) 東三河(非ロクロ) 西遠江(非ロクロ) 東遠江(ロクロ) 京 都:高速鉄道鳥丸線内遺跡(京都市) 美 濃:鷺山仙道遺跡(岐阜市〉 伊 勢:桑部城跡(桑名市) 尾 張:名古屋城三の丸遺跡(名古屋市) 東三河:吉田城跡(豊橋市) 西遠江:城ノ前遺跡(新居町) 東遠江:伊平遺跡(菊川町) 図6 15世紀末∼16世紀前葉ころの東海地方各地の土師器皿比較図(S=1:4) (大矢ほか1981、高木ほか2002、斉藤・水谷1996、尾野ほか1995、赤木ほか 1994、岡本1989、塚本ほか1995より一部改変)
・尾野善裕 [一五・一六世紀における流通・海運の変革] 人 々 の 地方下向があったと考えられ、当該期の美濃の土師器皿について 考察した井川祥子氏は、足利義視父子や応仁の乱を避けた文化人の美濃 下向との関連性を示唆している︹井川一九九七︺。ただ、土師器皿に見 られる京都文化志向が美濃地域に限られる現象でないことを考えれば、 それらの諸要因に加えて、もともと在京を原則としていた守護・守護 代・奉公衆らが在国化する動きの中にも要因の一端を見出すことができ るのではないかと思われる。 以上、一五世紀から一六世紀代にかけての物流の変革現象と港津の盛 衰を、一時的な自然災害によるものとするよりは、むしろ当時の政治 的・社会的情勢に要因を求めるべきであることを述べてきた。そして、 一 例として守護・守護代や国人ら地域勢力による領国・所領経営との関 連を指摘したが、もとより筆者もそれで全てが説明できると考えている 訳 ではない。先に述べたように、大量消費型の社会を実現させるために は、生産地と消費地を繋ぐ物流の活発化が必要であり、脇田晴子氏ら文 献史学者が指摘するように、物流が盛んになる背景には、それを可能と する商業資本の成長もあるだろう︹脇田一九九三︺。ただし、モノから 歴史を考える考古学の立場からは、結果としての現象は把握できても、 前 提条件としての資本の蓄積といった、形に残らない事象を明らかにす ることは極めて困難である。したがって、誠に残念ではあるが、この点 についての解明は、他分野での研究の進展に期待することとし、ここで は現象面の指摘にとどめておくこととしたい。
④
中世海運における安濃津の位置づけをめぐつて
さて、冒頭で掲げた二つの疑問については、以上でおおよその見通し を示すことができたと考えるが、依然として筆者の中にくすぶる疑問は、 中世の安濃津がどれほどの港であったかである。近年の研究の中には、 明応地震以前に安濃津が果たしていた役割を非常に高く評価し、﹁伊勢 から東側の一番大きな湊﹂で、﹁太平洋海運の中心であった﹂とする論 考まである︹矢田一九九九a︺。そして、交易拠点としての安濃津の重 要 性 が 説 か れる際に、頻繁に引き合いに出されるのが常滑焼の流通であ る︹伊藤一九九七a・一九九七b・一九九八b・一九九九・二〇〇〇、 矢田一九九八・一九九九a・一九九九b・二〇〇こ。 確 かに、既に多くの先学が指摘しているように、中世の常滑焼の壷・ 甕 が 列島のかなり広い範囲にわたって流通していることは、紛れもない 事実である。したがって、安濃津がその流通の最大拠点であったとすれ ば、伊勢以東の最大の港津、あるいは太平洋海運の中心という評価もあ ながち的外れではないのかもしれない。しかし、安濃津が広域流通品と しての常滑焼の集散地であったことは、一体何によって証明されるだろ うか。筆者の見るところ、先行研究で示されている論点は、次の二点に 集約できると思われる。 ①安濃津の発掘調査で、︿山茶碗﹀と通称される一三世紀頃の尾張地 域産無粕陶器が多数出土しており、その大半が未使用で、焼成時に 融着してしまった不良品まで含んでいることから、﹁生産地で選別 され、完成品として出荷されたのではなく、生産地では何の調整も されず∼重ね焼きをした窯詰め状態のまま∼まさに十把一絡の状態 で安濃津へと運ばれてきたことを示している﹂とする。そして、尾 張 地 域産の陶器が全国へ拡散︵流通︶していることを考慮して、陶 器 の集荷地であることが確認された安濃津に、太平洋海運の拠点的 な役割を想定する︹伊藤一九九七a・一九九七b・一九九八b・一 九九九、矢田一九九八・一九九九a・一九九九b・二〇〇こ。 ②﹃平家物語﹄の中に見られる平忠盛を椰楡する言葉﹁伊勢平氏はす がめなりけり﹂を、﹁伊勢瓶子は素甕︵瓶︶なりけり﹂の意に解釈 し、中世前期の伊勢では瓶子や素甕︵瓶︶に相当する焼きものが生 43産されてないことを根拠に、尾張産の瀬戸焼の瓶子や常滑焼の三筋 壷・広口瓶・鳶口瓶などが伊勢を集荷地として流通していたため、 伊勢瓶子と呼ばれたとする。その上で、伊勢平氏の基盤が安濃津の 位置する安濃郡や隣接する一志郡にあり、古代以来京都・安濃津間 の交通路が整っていたことを挙げて、伊勢瓶子の集荷地を安濃津で あるとする︹伊藤一九九九・二〇〇〇、矢田二〇〇一︺。 確かに、その形質から判断して、①で根拠とされた尾張地域産の︿山 茶碗﹀が常滑︵知多半島︶製である蓋然性は充分にあり、明確な使用痕 ハら 跡が認められるものが非常に少ないことも事実である。しかし、報告書 にも記載があるように、融着してしまった不良品といっても、﹁指に力 を込めれば難なく剥がせることができる程度﹂のものに過ぎず、これを もって生産地での選別がなかったとまで言い切ることは難しいのではな かろうか。現に、常滑を含めて尾張地域で多数発掘調査されている︿山 茶碗﹀の窯跡では、不良品捨て場である灰原から、一〇個以上の︿山茶 碗﹀が融着してしまって、叩き割りでもしない限り分離できないような 状態で出土することは、決して珍しいことではない。つまり、陶器は何 の 選別もされずに出荷されているわけではなく、融着していても難なく 剥がすことができる程度には、生産地で選別が行われていたと考えるべ きだろう。 もっとも、生産地である程度の選別が行われていることが確認できる からといって、それだけで安濃津が常滑焼の集散地であったことが否定 されるわけではない。しかし、使用痕跡が確認できない陶器とされてい るもののほとんどが、小型の碗としての︿山茶碗﹀であることは見逃せ ない。なぜなら、尾張地域産の︿山茶碗﹀の基本的な流通圏は、生産地 の 尾 張を中心として、せいぜい隣国の美濃・伊勢・三河の一部までに過 ぎないからである。 もちろん、核となる流通範囲が東海地方に限られてはいても、それ以 外の地域からの出土例が皆無というわけではなく、︿山茶碗﹀は近江や 京都・鎌倉からもしばしば出土することが知られている。しかし、京都 や 鎌倉で出土する︿山茶碗﹀は、その地域の全出土陶磁器の一%にも満 たない量に過ぎず、商品として流通していたと考えるには無理があろう。 交易を生業とする人々が行き交う際に、商品を運搬していたのは当然で あるが、付随して商品の容器や彼ら自身の生活必需品が運ばれていたこ とは想像に難くない。つまり、遠隔地で出土する︿山茶碗﹀の多くは、 それ自体が商品として流通したものではなく、付随的な物資の動きとし て 捉えられるべきものではなかろうか。 さらに、少ないながらも京都で出土する︿山茶碗﹀の多くが、中世前 期には尾張地域産のもので占められているのに対して、中世後期になる と東美濃地域産のものに取って代わられていることにも留意しておきた 〔 ◎。というのも、東美濃地域産の︿山茶碗﹀が伊勢地域から出土するこ とは非常に珍しく、その基本的な流通圏は、美濃と尾張北部域といった 東海地方北部に著しく偏っているからである。この事実は、稀に京都で 出土する︿山茶碗﹀が、海路伊勢を経由して運ばれてきたものであるよ りは、美濃の隣国・近江を経由して陸路搬入されたものであることを暗 示していると思われる。したがって、これらの点を考え併せるならば、 使 用 痕 跡 の 乏しい︿山茶碗﹀が安濃津で大量に出土しているという事実 からは、安濃津が近隣の小地域に対する物資集散地であるとは言いえて も、太平洋海運の拠点という評価を下すことは難しいであろう。 また、②の論点についても、﹁すがめ﹂を素甕︵瓶︶すなわち素焼き の甕︵瓶︶と解するのであれば、施粕陶器である瀬戸焼の瓶子が伊勢瓶 子と呼ばれていたとは考えがたい。また、瀬戸焼の瓶子の生産開始が、 一 二 世紀末を遡るとは考えられないにもかかわらず︹藤澤一九九五︺、 平忠盛が﹁伊勢平氏はすがめなりけり﹂と椰楡されたのが天承元年二 二二こであることからすれば、伊勢瓶子の実体を瀬戸焼と見なすこと
尾野善裕 [一五・一六世紀における流通・海運の変革] には、やはり否定的にならざるをえない。 では、伊勢瓶子は常滑焼なのであろうか。原則として人工的に粕薬が 施されることのない常滑焼の場合、とりあえず素甕︵瓶︶としての必要 条件は満たしている。しかし、常滑窯の鳶口瓶は、専ら↓三世紀代に焼 か れ て いる器形であり︹中野一九九四︺、これを伊勢瓶子と考えた場合 には、瀬戸焼の瓶子と同様に年代的な齪齢が生じる。また、三筋壼や広 口 瓶については、これらを﹁瓶子﹂と呼ぶには口が広すぎるきらいがあ り︵図7︶、やはり伊勢瓶子にはふさわしくないのではないかと思われ る。 このように、伊勢瓶子を瀬戸焼・常滑焼のいずれとすることにも問題 があるのだが、この点を踏まえた上で、改めて﹁伊勢平氏はすがめなり けり﹂の意味するところを考えてみよう。まず、﹁伊勢平氏﹂が伊勢瓶 子にかけられていることは、﹃平家物語﹄自体に﹁いせの國に住國ふ アね か・りしかば、其國のうつはものに事よせて、伊勢平氏とそ申ける。﹂ とあることからも間違いない。ただし、問題の﹁伊勢平氏はすがめなり けり﹂が、忠盛の破格の出世を憎む殿上人らによって、田舎者を椰楡す る言葉として発せられていることには注意が必要である。 なぜなら、一般論として椰楡の言葉というのは、えてして実態からは 乖 離しているものであり、伊勢瓶子を実在する何かに結び付けない解釈 も充分に成り立つと考えられるからである。つまり、﹁伊勢平氏はすが めなりけり﹂という言葉は、﹁伊勢は、素焼きの焼きものを酒徳利に使 っ て いる︵ほど田舎だ︶﹂という田舎者を嘲弄する意味に解することが でき、あるいは﹁すがめ﹂が酢甕にかけられていると考えるならぱ 「 伊勢の︵国は田舎なので、酒も酢みたいに不味く︶酒徳利はまるで酢 の 入 れものだ﹂という解釈も可能なのであって、いずれにしても、﹁い せ の國に住國ふか﹂い忠盛を椰楡する言葉として、前後の文脈との整合 性も高いのではなかろうか。このように、②の論点については多様な解 5)(中野1994より改変) 図7 常滑焼の広ロ瓶・三筋壼実測図(S=1 釈 が 可能である以上、①の論点共々、安濃津が広域流通品としての常滑 焼 の集散地であったことの決定的根拠とは評価できないと思われる。 さて常滑焼の流通の他に、安濃津が栄えていた港町であったことを示 す根拠としては、次の史料が挙げられている︹伊藤一九九七a・一九 九 七b・一九九八b・一九九九︺。 ③﹁後聞、伊勢國阿乃津民戸地震之間、為大波浪多以破損云々、凡諸 國有此如事、近代以來地震未有如此例也﹂︵﹃中右記﹄永長元年︿↓ 〇 九六﹀一二月九日条︶ ④ 「 太神宮神主帖 諸国往反津泊預 45
欲 被 任先例、無事煩、令往反当宮御領安濃津御厨刀祢中臣国行等状 右 得 彼国行解状禰、当宮御領神人等、依無指寄作田畠、往反諸国、 成交易之計、到供祭之勤、成世途之支者、承前之例也、因之、往反 渡海之間、自往難無事煩、近年以降、背先例、致其妨之条、大愁也、 然則、任先跡、無事煩、欲被令往反渡海之条、帖送如件、神威無止、 先 跡有限、何与寛優放、以帖 建久七年四月十五日 大内人荒木田 祢 宜 荒木田神主在判﹂︵﹃神宮雑書﹄︶ ⑤ 「その夜はあの・津につきぬ。念佛の導場にやとる。こ・はこの國 のうちの一都會にて、封彊もひろく、家のかすもおほくて、いとみ ところあり。﹂︵﹃耕雲紀行﹄応永二一五年九月二二日条︶ ⑥ 「 此十六日に思い立ぬ。雲出川阿野の津のあなた。︵中略︶此津十 鹸年以來荒野となりて。四五千軒の家堂塔跡のみ。﹂︵﹃宗長手記﹄ 大永二年八月一六日条︶ しかし、史料③・⑤・⑥から判ることは、安濃津が伊勢国内でも繁栄 していた港町の一つであることに過ぎず、史料④も、安濃津神人が他国 と交易を営んでいたことを示してはいても、それがどこまでの範囲なの かを明示してはいない。したがって、安濃津神人が交易をしていた主要 な相手国は、尾張地域産の︿山茶碗﹀の搬入に示されるような、伊勢湾 岸・三河湾岸の諸国︵尾張・三河・志摩︶や、木曽三川を伝って容易に 遡 上 できる美濃であったと考えることも充分に可能である。つまり、現 在手にすることができる史・資料から言えることは、安濃津が中世にお い て 伊 勢湾岸では比較的規模の大きな港町の一つであったことと、その 住人によって近隣諸国との交易が行われていたことまでであり、より以 上 の 位置づけは過大評価となってしまうおそれがあるのではなかろうか。 では、安濃津ではないかもしれないとして、広く列島各地に流通して いる常滑焼は、↓体どこを経由して運ばれていったのだろうか。今のと ころ、この問題を解明する決定的証拠を見出すことはできていないが、 陸路での京滋方面への運搬であれば、安濃津を含めて中・北伊勢地域の 港 町 にはいずれも可能性があり、東日本の太平洋岸への出荷であれば、 綿貫友子氏らが指摘しているように︹綿貫一九九五︺、やはり伊勢の大 湊 である蓋然性が高いのではないかと筆者は考えている。 もちろん、大湊を常滑焼の集散地とは考えがたいという矢田俊文氏の 論考︹矢田一九九五︺の存在は承知しており、氏が常滑焼の主要な出 荷先を考える際に、史料として示された﹃寛文村々覚書﹄に記されてい るのは、桑名・四日市・白子といったいずれも中・北伊勢地域の港津ば かりである。しかし、常滑焼の中・北伊勢地域への出荷が、京滋方面や 東日本への広域流通品であるのか、地元で消費される物資であるのかを 明確にしなければ、常滑焼の遠隔地交易の拠点が中・北伊勢にあったこ との根拠にはならないだろう。遺跡からの出土品を見る限り、常滑焼は 中・近世を通して伊勢湾岸地域へ供給されている一方で、一六世紀以降 遠隔地への流通量は急速に減少するように見受けられることを考えれ バリ ば、﹃寛文村々覚書﹄に記されている出荷先は、中・北伊勢地域で消費 される常滑焼の集散地であった蓋然性が高いのではなかろうか。 また、矢田氏は伊勢地域における産地別の︿山茶碗﹀消費状況にも注 目し、﹁中・北伊勢が圧倒している尾張産の碗の出土状況からみて、知 多半島から壷・甕は北・中伊勢には搬入されなくて、南伊勢の大湊に搬 入されているとは考えがたい。﹂とされている。確かに、常滑焼の壼・ 甕が、遠隔地に運ばれるだけでなく、地元でも消費される物資であるこ とを考えれば、小廻船で常滑︵知多半島︶から中・北伊勢地域へ常滑焼 が 運 ば れ て いた可能性は非常に高いといえよう。現に、中・北伊勢地域 の中世遺跡からも常滑焼の壼・甕は少なからず出土している。しかしな がら、東海地方内部の小地域内での流通と、関東方面との交易は本質的 に別問題であり、東海地方を基本的な流通圏とする︿山茶碗﹀の分布を
尾野善裕 [一五・一六世紀における流通・海運の変革] もって、広域流通品としての常滑焼の壷・甕の集荷地を論ずることには 疑問が残る。 むしろ、大湊の位置する南伊勢地域にも、一定量の尾張産︿山茶碗﹀ を出土する遺跡が少なからず存在することを考えれば、知多半島から大 湊へ向けて常滑焼が出荷されていたと考えても何ら問題はあるまい。ま た、平泉での大量出土が示しているように、東海地方から東日本へ運ば れ て いる陶器の中に、かなりの量の渥美焼が含まれている事実︹八重樫 一 九 九五︺は、伊勢湾と東国を繋ぐ海路のあり方を考える上で非常に示 唆的である。なぜなら、伊勢湾の湾口部近くに位置する渥美窯から、東 日本方面へ陶器を出荷するに際して、わざわざ湾奥部の安濃津へ一旦集 積したと考えるよりは、やはり湾口部にほど近い大湊へ出荷するほうが、 遥 かに合理的ではないかと思われるからである︵図8︶。安濃津の位置 する中伊勢地域や北伊勢地域に、︿山茶碗﹀を含めて渥美窯の製品があ まり流通していないことも、安濃津を関東方面へ出荷される陶器の集散 地とは評価しにくい理由の↓つである。 これらの点に加え、現時点で文献史学側から関東への渡海が確認され て いる廻船の根拠地が、大湊・阿久志といったいずれも南伊勢から志摩 にかけての港津であることからすれば︹稲本一九九二、綿貫一九八九、 宇佐見一九九七︺、伊勢湾と関東を結ぶ海運の伊勢湾側の中心は、やは り大湊から志摩一帯の地域と考えるべきではないかと思われる。もちろ ん、安濃津を根拠地とする船舶の関東への渡航が全くなかったとまで主 ヨ 張するものではないが、港津としての安濃津の機能は、基本的に伊勢 湾・三河湾内を往来する小廻船の発着地であり、関東への渡海船の基地 としての比重は、大湊一帯と較べて相対的に低かったのではなかろうか。
おわりに
忽
図8 伊勢湾岸の港津位置図(S=1:1200,000) 本稿では、一五・一六世紀といった戦国時代の遺跡を考える際に、し ばしば年代の根拠とされている瀬戸美濃陶器の編年について検討した結 果、現在流布している年代観よりも実際の年代がやや降るのではないか と考えた。そして、従来明応地震の影響の大きさが強調される傾向にあ った東海地方港津の実際の衰退・廃絶時期が、]六世紀代に降る蓋然性 が高いことを論じ、港津衰退の背景に一五世紀から一六世紀にかけての 流 通 経 済 の変容と、地域権力の流通への介入を想定した。 また、本稿で検討の対象として採り上げたのは東海地方の港津に限ら れるが、この時期の社会変動が単に東海地方の枠内にとどまるものでな いことを考えれば、同様の現象は他地域でも確認できる可能性が高いと 思われる。既に、文献史学側からは、大永年間に宮市での津料徴収を逃 れるために、廻船が三田尻に廻送される現象が起きていたことが指摘さ れ て おり︹鈴木一九八〇︺、安濃津の場合も文明五年︵一四七三︶に海 47関としての﹁警固﹂が新たに設置されていることを思えば、宮市と同様 に廻船の寄港が忌避され、港津機能が低下していった可能性も否定はで きない。もっとも、乏しい資・史料からこれ以上の推論を試みることは、 単なる憶測となりかねず、やはり新たな資・史料の発掘に期待したいと ころである。 ただ、一時的な自然災害を港津廃絶・衰退の決定的要因と考えにくい ことは、繰り返し本稿で論じてきたとおりであり、後世の伝聞記事が全 くの虚構ではないにせよ、断片的事実を綴って語られる物語全体の信懸 性に対しては、充分に注意が必要であることが再確認できたのではない かと思う。 本稿作成にいたる課程で、井川祥子・伊藤裕偉・宇佐見隆之・内堀信 雄・加藤理文・斉藤理・高木晃・永田宗秀・楢崎彰一・羽田聡・畑中英 二 ・ 平尾政幸・藤澤良祐・水橋公恵・森泰通・吉川義彦︵五〇音順︶の 各氏からご教示を頂戴すると同時に、資料の実見・文献検索にご高配を 賜った。特に、瀬戸美濃陶器の暦年代観については、岐阜市の発掘調査 成果に基づく内堀氏の意見に、京都の発掘調査成果を加味して成稿した。 また、二〇〇二年一二月一日に開催された﹁守護所シンポジウム@岐 阜﹂準備研究会の際に、藤澤氏・伊藤氏にも臨席いただいて、この問題 について意見を交換する機会に恵まれた。諸氏の学恩に深謝する。 註 (1︶ 明応地震で大湊が甚大な被害を受けたことは、﹃内宮子良館記﹄に﹁今度大地 震ノ高監二。大湊ニハ家千軒絵。人五千人計流死ト云々。其外伊勢島間二。彼 是一万人計モ流死也。明応七年戊午八月廿二日ノ事也﹂︵﹃続群書類従 第一輯 下﹄による︶とあることから明らかである。その一方で、永正六年︵一五〇九︶ に愛洲氏発向の風聞を受けて、大湊が礼銭百貫文を支払っていること︹稲本 一九九二︺は、一六世紀初頭の大湊が相当の経済的復興を遂げていたことを雄 弁に物語っていよう。 (2︶ この点については、既に小島道裕氏も指摘している︹小島 二〇〇二︺。 (3︶ 本稿冒頭で述べたように、安濃津廃絶の要因を明応地震に求めるのが近年の 研究動向であるが、三浦圭一氏は安濃津荒廃の要因を関胤盛と宮原盛高の抗争 とし︹三浦 一九七六︺、小島道裕氏は流通の変化を重視している︹小島 二〇 〇二︺。また、明応地震の直接的影響を重視する峰岸純夫氏や伊藤裕偉氏も、 ﹁十五・十六世紀を境とする伊勢∼関東の太平洋水運の断絶状況は、︵中略︶伊勢 大神宮権力の衰退、北条氏の伊豆制圧、鎌倉府体制の崩壊そして各地の戦国大 名による領国・領海の確保と争覇などが絡み合って進行していったと推測﹂︹峰 岸 一九九九︺、あるいは﹁安濃津が京都を中核とした物流網を支える一部分と すれば、その求心力低下による衰退も考慮されるべき﹂︹伊藤 一九九七a︺と しており、いずれも港津が衰退・廃絶する要因を、それ取り巻く社会的な状況の 中にも見出そうとする視点として評価されよう。 (4︶ 例えば、尾張地域では沓掛城︵豊明市︶・岩崎城︵日進市︶などが挙げられる ほか、清洲城下町遺跡でも古瀬戸後W期から出土遺物量が急増することが判っ ている︹藤澤 一九九]b︺。また、尾張地域以外では、三河地域の福谷城︵三 好町︶・吉田城︵豊橋市︶・田原城︵田原町︶、伊勢地域の桑部城︵桑名市︶など を挙げることができる。 (5︶ 伊藤裕偉氏のご配慮で実見の機会を得た。 (6︶ 筆者自身の印象によるが、京都で永年にわたって発掘調査に従事しておられ る平尾政幸氏からも同様の印象をお持ちである旨、ご教示いただいた。 (7︶ 引用文は、﹃日本古典文学大系32 平家物語上﹄︵岩波書店︶による (8︶ ﹃日本古典文学大系32 平家物語上﹄︵岩波書店︶の注釈は、﹁すがめ﹂が酢 瓶にかけられているとする。 (9︶ 現在の埼玉県域では、一六世紀になると常滑焼の搬入量が急激に減少するこ とが指摘されている︹浅野晴樹 一九九五︺。 (10︶ 例えば、王寺遺跡・鴻ノ木遺跡︵以上、松阪市︶・本郷遺跡︵明和町︶・蚊山遺 跡 左郡地区︵玉城町︶・安養寺跡︵二見町︶などが挙げられる︹前川 一九九四︺。 (11︶ もっとも、関東方面へ輸送することが予定されている陶器を、いちいち大湊 や安濃津へ集積しなければならない必然性があるかどうかも問題であり、大湊 や 安濃津を根拠地とする船舶が、生産地の最寄りの港津で荷︵陶器︶を積み込 み、直接関東を目指した可能性も否定できないのではなかろうか。ただし、こ う考える場合には、安濃津も大湊も関東方面へ流通する陶器の集散地とは言え ないことになろう。 (12︶ ﹃中右記﹄永久六年︵]=八︶正月廿九日条から、安濃津神人が前遠江守源
[一五・一六世紀における流通・海運の変革]……尾野善裕 基 経を訴えていたことが知られており、これが交易ないし輸送に起因する事件 とみられることから、安濃津を基地とする廻船の活動範囲は遠州灘を含んでい たと考えられ︹綿貫 一九九八︺、関東にまで及んでいた可能性も否定はできな い。 引用・参考文献 赤木剛ほか 一九九四 ﹃豊橋市埋蔵文化財調査報告書第21集 吉田城趾︵1︶﹄ 豊 橋市教育委員会・豊橋遺跡調査会 浅 野晴樹 一九九五 ﹁東国の常滑焼の出土状況﹂﹃常滑焼と中世社会﹄小学館 阿部浩一 一九九九 ﹁中世浜名湖水運と地域社会﹂﹃中世のみちと物流﹄山川出 版 社 有光友學 一九九五 ﹁陸海交通と伝馬制﹂﹃静岡県史 通史編2 中世﹄静岡県 飯 田良一 一九八八 ﹁文明年間における伊勢湾の警固と廻船﹂﹃三重県史研究﹄ 第4号三重県 飯田良一 一九九六 ﹁伊勢海の海上交通と海の関所﹂﹃四日市市史 第十六巻 通史編 古代・中世﹄四日市市 井川祥子 一九九七 ﹁15世紀後半から16世紀前葉の土師器皿ー中濃地域を中心 としてi﹂﹃美濃の考古学﹄第2号 美濃の考古学刊行会 伊 藤裕偉 一九九七a﹁中世の港湾都市・安濃津に関する覚書﹂﹃ふびと﹄第49号 三 重 大学歴史研究会 伊藤裕偉 一九九七b﹁安濃津に関する基礎検討﹂﹃安濃津﹄三重県埋蔵文化財セ ンター 伊藤裕偉 一九九八a﹁安濃津研究の現状と課題﹂﹃≦o 巨。・9蔓﹄<o↑〇 三重歴 史文化研究会 伊藤裕偉 一九九八b﹁安濃津とはどんな港町だったのか﹂﹃津のほん別冊 安濃 津 港 研究﹄津のほんの会 伊藤裕偉 一九九九 ﹁安濃津の成立とその中世的展開﹂﹃日本史研究﹄第四四八 号 日本史研究会 伊藤裕偉 二〇〇〇 ﹁中世安濃津の交通路と物流﹂﹃織豊期の政治構造﹄吉川弘 文館 稲 本 紀 昭 一九八九 ﹃日本三津に関する史料の研究﹄津市 稲本紀昭 一九九二 ﹁伊勢・志摩の交通と交易﹂﹃海と列島文化 第8巻 伊勢 と熊野の海﹄小学館 井上喜久男 一九七六 ﹁編年表﹂﹃美濃の古陶﹄光琳社出版 井上喜久男 一九八五 ﹁近世城館跡の陶磁ノート︵1︶﹂﹃愛知県陶磁資料館研 究 紀要﹄4 愛知県陶磁資料館 井上喜久男 一九八七 ﹁瀬戸・美濃窯の近世への変容について﹂﹃貿易陶磁研 究﹄第7号 日本貿易陶磁研究会 井 上 喜久男 一九八八 ﹁美濃窯の研究︵一︶−十五∼十六世紀の陶器生産ー﹂ 『東洋陶磁﹄第十五・十六号 東洋陶磁学会 井上喜久男 一九九〇 ﹁尾張陶磁︵1︶ー近世初期の瀬戸物生産ー﹂﹃愛知県陶 磁資料館研究紀要﹄9 愛知県陶磁資料館 井上喜久男 一九九二 ﹃尾張陶磁﹄ニュー・サイエンス社 宇佐見隆之 一九九七 ﹁中世の太平洋海運と湊船ー﹃武蔵国品河湊船帳﹄の再検 討ー﹂﹃古文書研究﹄44・45号 内堀信雄ほか 二〇〇〇 ﹃城之内遺跡︵第2分冊ご 岐阜市教育委員会 大矢義明ほか 一九八一 ﹃京都市高速鉄道■丸線内遺跡調査年報﹄H 京都市 高速鉄道烏丸線内遺跡調査会 岡本 聡 一九八九 ﹃城ノ前遺跡発掘調査報告書﹄浜名郡新居町教育委員会 尾野善裕ほか 一九九五 ﹃名古屋城三の丸遺跡第6・7次発掘調査報告書﹄名 古 屋市教育委員会 尾野善裕 一九九七 ﹁中世食器の地域性 東海・濃飛﹂﹃国立歴史民俗博物館研 究報告﹄第71集 国立歴史民俗博物館 加藤理文 一九九九 ﹁総括及び考察﹂﹃元島遺跡1︵遺物・考察編11中世ー︶﹄ 財団法人静岡県埋蔵文化財研究所 小島道裕 二〇〇二 ﹁都市の場・地域と流通・消費﹂﹃国立歴史民俗博物館研究 報告﹄第92集 国立歴史民俗博物館 近 藤和子 一九九九 ﹁山科本願寺H﹂﹃平成9年度 京都市埋蔵文化財調査概要﹄ 財団法人京都市埋蔵文化財研究所 斉藤 理・水谷芳春 一九九六 ﹃桑名市文化財調査報告 4 桑部城跡第1次 発 掘 調 査 報 告書﹄桑名市教育委員会 桜井英二 二〇〇二 ﹁中世の商品市場﹂﹃新体系日本史12 流通経済史﹄山川出 版 社 鈴木敦子 一九八〇 ﹁中世後期における地域経済圏の構造﹂﹃歴史学研究﹄別冊 特集︵﹁九八〇年度歴史学研究会大会報告︶ 青木書店 高木 晃ほか 二〇〇二 ﹃鷺山仙道遺跡︵1次調査ご岐阜市文化振興事業団 塚 本和弘ほか 一九九五 ﹃横地城南遺跡群発掘調査報告書﹄静岡県菊川町教育 委員会 49
永田宗秀・近藤和子 一九九九 ﹁山科本願寺1﹂﹃平成9年度 京都市埋蔵文化 財 調 査 概要﹄財団法人京都市埋蔵文化財研究所 中野晴久 一九九四 ﹁赤羽・中野﹁生産地における編年について﹂﹃全国シンポ ジウム﹁中世常滑焼をおって﹂資料集﹄日本福祉大学知多半島総合研究所 前川嘉宏 一九九四 ﹁三重県における山茶碗の出土状況﹂﹃三重県埋蔵文化財セ ン ター研究紀要﹄第3号 三重県埋蔵文化財センター 藤澤良祐 一九八六 ﹁瀬戸大窯発掘調査報告﹂﹃瀬戸市歴史民俗資料館研究紀 要﹄V 瀬戸市歴史民俗資料館 藤澤良祐 一九九.a ﹁瀬戸古窯趾群nー占瀬戸後期様式の編年ー﹂﹃瀬戸市歴 史民俗資料館研究紀要﹄X 瀬戸市歴史民俗資料館 藤澤良祐 一九九一b ﹁城館出土の瀬戸・美濃大窯製品﹂﹃中世の城と考古学﹄ 新人物往来社 藤澤良祐 一九九四 ﹃瀬戸市史 陶磁史篇四﹄瀬戸市 藤澤良祐 一九九五 ﹁瀬戸古窯趾群皿ー古瀬戸前期様式の編年ー﹂﹃︵財︶瀬戸 市埋蔵文化財センター研究紀要﹄第3輯 ︵財︶瀬戸市埋蔵文化財センター 藤澤良祐 二〇〇一 ﹁瀬戸・美濃大窯製品の生産と流通ー研究の現状と課題ー﹂ ﹃財団法人 瀬戸市埋蔵文化財センター設立10周年記念﹁瀬戸大窯とその時代﹂ シンポジウム・講演会 戦国・織豊期の陶磁器流通と瀬戸・美濃大窯製品ー東ア ジア的視野から1資料集﹄財団法人瀬戸市埋蔵文化財センター 藤澤良祐 一.○〇二 ﹁瀬戸・美濃大窯編年の再検討﹂﹃︵財︶瀬戸市埋蔵文化財 セ ンター研究紀要﹄第10輯 財団法入瀬戸市埋蔵文化財センター 三浦圭一 一九七六 ﹁戦国期の交易と交通﹂﹃岩波講座日本歴史8 中世4﹄岩 波書店 峰岸純夫 、九九五 ﹁中世東国水運史研究の現状と問題点﹂﹃中世東国の物流と 都市﹄山川出版社 矢田俊文 一九九六 ﹁明応地震と港湾都市﹂﹃日本史研究﹄第四=.号 日本史 研究会 矢田俊文 一九九八 ﹁明応地震と太平洋海運﹂﹃民衆史研究﹄第五十五号 民衆 史研究会 矢出俊文 一九九九a ﹁安濃津と太平洋海運﹂﹃安濃津物語実行委員会一九九八 年度事業報告書﹄津のほんの会 矢田俊文 一九九九b ﹁中世水運と物資流通システム﹂﹃日本史研究﹄第四四八 号 日本史研究会 八 重 樫忠郎 一九九五 ﹁奥州平泉にみる常滑焼﹂﹃常滑焼と中世社会﹄小学館 脇田晴子 一九九一、一 ﹃大系日本の歴史7 戦国大名﹄小学館 綿貫友子 一九八九 間取引の一側面ー﹂ 綿貫友子 、九九二. 校倉書房 綿貫友子 一九九八 「 『武蔵国品河湊船帳﹄をめぐつてー中世関東における隔地 『史艸﹄第30号 「 尾張・参河と中世海運﹂﹃知多半島の歴史と現在﹄㎞5 『中世東国の太平洋海運﹄東京大学出版会 (京都国立博物館学芸課、国立歴史民俗博物館共同研究員︶ (二 〇 〇 三年四月二八日受理、二〇〇三年七月一八日審査終了︶
The Evolution of the Distribution and Marine Transportation in 15th−16th Century Japan:AStudy of Port Sites in theτbkai Region ONo Ybshihiro The Evolution of the Distribution and Marine Transportation in 15th−16th Century Japan:AStudy of Port Sites in the Tokai Region ONo Ybshihiro In recent years, research related to marine transportation along the Pac血c coast of eastern Japan has emphasized the detrimental impact of the 1498 earthquake on ports in the Tbkai region. Anots11(in presen仁day Mie Prefecture)and Motojima(in Sh㎞oka Prefecture), which nourished during the 15th and 16th centuries, are two examples of port sites that are often cited. However, further archaeological inves6ga60n on the age of these and other sites has revealed gaps in the periods in which these ports declined and disappeared, suggesting that a single natural disaster was not the decisive factor in their decline. Rather, the existence and later disapPearance of several such ports reflect changes in transportation and distribution. The quan6ty of ceramic ware, dated to the 15th to 16th centuries, which far outnumbers those of earlier periods, excavated from port sites throughout the Tbkai region, supports the idea of regional economic transformation. Moreover, a close examination of the rapid increase in ceramic use in these areas reveals the conspicuous presence of H司iware, which was strongly influenced by Kyot(卜style ceramics,㎞these areas, implying migration and settlement to the regions by people who were acquainted with Kyoto culture. Archaeological data suggest that this series of phenomena occurred around the Meio era(1492− 1501).The exodus to the outlying provinces by military governors, acting−military governors and private guards, who had primarily resided in the capital, during this period influenced the transformation of regional economies manifested by the large−scale consumption of ceramic ware, particularly Hali ware. The migration by the military governors and private guards that occurred during the political changes that took place in the Meio era fbllowing the wars and disturbances of the Onin and Bunmei eras was not restricted to the Tokai region. Accordingly, we can expect that archaeological studies of other regions will also con丘rm the existence of similar cases of regional eCOnOmiC tranSfOrmatiOn. 51