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武士と開国(続)

著者名(日)

小池 喜明

雑誌名

井上円了センター年報

13

ページ

131-187

発行年

2004-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002756/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

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武士と開国︵続︶

小池喜明

㌻、奪ぎミ慕\ はじめに  本稿は前稿﹁武士と開国﹂︵﹁東洋大学人間科学総合研究所紀要﹂第二号、二〇〇四年︶ の論文としても成立し得るよう、敢えて重複を避けなかった。事情諒とせられたい。 の続編である。但し、単独 一  嘉永六年二八五三︶七月一日、徳川公儀は、前月六月三日浦賀へ来航したアメリカ合衆国使節ペリーの持参 した、アメリカ国書への対応を諸大名に諮った。  浦賀表え渡来之亜墨利加船より差出候書簡和解之写二冊相達候、此度之儀は国家之御一大事に有之、実に不 容易筋に候間、右書簡之趣意得と被遂熟覧、銘々存寄之品も有之候はゴ、仮令忌謹に触候ても不苦候間、柳心 底を不残十分に可被申聞候。 131 武」と開国(続)

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 此度亜墨利加船持参之書簡、於浦賀表請取候儀は、 申聞候事︵−︶。︵傍点、引用者、以下同様︶ 全く一時之権道に有之候間、右に不相泥、存寄之趣可被 132  右二段目文中コ時之権道﹂の語の背景については、浦賀奉行戸田伊豆守氏栄からの六月四日付老中宛﹁伺 書﹂のうちに探ることができる。  六月三日﹁未明﹂の異国船渡来について、浦賀奉行戸田伊豆守︵在浦賀︶から正式の第一報が﹁早船﹂で江戸 詰の浦賀奉行井戸鎮太郎に届けられたのが三日﹁夜四ッ時過﹂︵午後十時頃︶、井戸は即刻この御届書を老中阿部 伊勢守邸へ持参した︵七︶。そして翌四日、戸田伊豆守名による﹁異国船応接之義二付取計方奉伺候書付﹂が、 老中宛に上呈された。以下、﹁伺書﹂と略称する。  ﹁伺書﹂に曰く、﹁組之もの遣、御国法為申諭、仮令国王之書簡二ても、通信無之国々之書簡請取難申、且浦賀 表之儀は、外国応接之地二無之候間、長崎表え相廻候様、種々利解仕候処﹂、これに対しアメリカ側は、故国出 帆に際し﹁国王﹂より長崎廻航は不可、必らず江戸にて﹁書簡﹂相渡すべき旨厳命されているため、﹁此侭帰帆 仕候ては、使命を過候大罪を受候事故、此処承知致呉候様、落涙仕候迄之存切二て申聞候﹂。即ち、頑として承 知しない。当方としても、﹁国王之書簡受取候義ハ、国命二相背候事故﹂、江戸の上司に相談する要ありと主張し 漸く三、四日余の回答延期の了承を得たが、﹁此侭御差戻之御差図二相成候ハ・、即刻異変に罷成可申哉と心配 仕候間、得と御勘弁被為在、取計方早々被 仰出候様仕度候﹂。このままでは海上交通︵﹁通船﹂︶にも差支え、 いよいよ破談︵﹁手切﹂︶となっても警備不充分︵﹁御固方御手薄﹂︶で、﹁御外聞二相成候儀は相違無御座候、先此 段早々奉伺候以上﹂︵二]︶。

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 この﹁伺書﹂には戸田伊豆守と思われる人物による後日の付記があり、それによれば、この﹁伺書﹂は﹁浦賀 与力香山栄左衛門、同心組頭福西源兵衛両人二て、注進芳持参﹂し、これにもとづき直ちに﹁御評議﹂となった が﹁衆議区々こて難相決﹂かった。その際、自分は次のように﹁申立﹂てた。﹁大国之支那二ても、童に国を狭 められし程之国害︵﹁阿片煙騒乱之先躍﹂︶に立至り候、御国之儀ハ、環海之御国柄、若し外冠を引受候に至候て ハ、海岸之武備不完、不容易御国難﹂、したがって﹁此上御拒絶に相成候は﹀、如何様之不法に及ひ候哉も難計、 既に阿蘭陀本国よりの忠告等も、全く是等之時機之処置、只奮制に而巳泥み、一向に被相拒候はx、必永く御国 害を醸し候義ハ必定﹂、と。こうした経緯のうちに公儀﹁御評議﹂は、﹁一時之権策﹂としてアメリカ﹁国王之書 翰﹂の浦賀での受理に決した、というのである。  かくてペリー来航より三日後の六月六日、公儀は在府浦賀奉行井戸鎮太郎︵弘道︶を石見守に叙し︵﹁諸大夫被 仰付之﹂四九︶、老中牧野備前守忠雅から次の﹁覚書﹂を下達して浦賀へ派遣する。  書簡請取候様可被致候、尤取計等之儀は、委細口達之通相心得、両人 熟慮いたし、御国体をも不失、後患無之様、可被取計候事。︵二一︶ ︵井戸石見守、戸田伊豆守︶申合、得と 久里浜における米国国書受理が六月九日。右﹁覚書﹂中の﹁口達﹂・﹁得と熟慮﹂の語のうちに、﹁衆議区々﹂ の公儀首脳部から全権を希ねられた井戸・戸田両奉行の苦労のほどが偲ばれよう。  以上、米国国書受理に関する事実の経過をたどったが、そのうち、当初の浦賀奉行︵在浦賀︶戸田伊豆守より の﹁伺書﹂中には、客観性・正確性を旨とすべき公式文書にはいささか馴染み難いと考えられる点が見られた。 133 武士と開国(続)

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同書は米国側の立場を次のように説明する。かれらは﹁西洋諸国と相違仕候共和政治之国法は厳格二有之、御国 法之儀は厚相分り、其段は尤に承知仕候得共﹂、かれらにも﹁国王之書翰﹂を携えての﹁使命﹂あり、こうして 自国の﹁使命﹂と貴国︵日本︶の﹁御国法﹂との板挟みとなり、﹁落涙仕候迄之存切ニテ申聞候﹂、と。簡にして 要を得た説明といってよいが、﹁落涙﹂云々の語は異様の感を免れ得まい。仮にコ時之権策﹂としてではあれ、 米国国書受理の実現に傾斜する戸田の心情に由来する潤飾の辞と見てよいだろう。  戸田は公的な﹁伺書﹂において﹁御国法﹂と記していた鎖国令を、私的な付記においては﹁環海之御国柄﹂の ﹁奮制﹂と呼んでいる。それも、﹁只奮制に而巳泥み﹂という、その語感にはかなり厳しいものがある。髭が大 事か首が大事かという合理的な見識と言ってよい。もちろん﹁異変﹂、﹁手切﹂の危機を背景にしてのことである ︵2︶。戸田伊豆守の﹁伺書﹂はその公的・客観的意匠の裏に、国書受理に前向きの意志を秘めていたと考えてよい だろう。﹁一時之権策﹂二伺書﹂付記︶と﹁一時之権道﹂︵公儀諮詞書︶との関連には、否み難いものがある。  一方、六月六日浦賀に到着し、黒船や、九日の久里浜での国書受理の様を望見した吉田松陰は、その様子を肥        ママソ 後の宮部鼎蔵宛に書き送っている。﹁九日浦賀の隣津栗浜にて両奉行出張、夷の図書受取の次第僕細かに之れを        ワシントン         ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ      ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 見る。誰れか之れが為め泣憤せざらんや。かの話聖東国なるもの新造の随邦、乃ち堂々たる天朝を以て屈して之 れに下る、如何如何。唯だ待つ所は春秋冬間又来るよし、此の時こそ一当にて日本刀の切れ味を見せ度きものな り。此の度の事列藩の士及び策士論者、打払に決する者十に七八。臆、惜しいかな﹂︵3︶。﹁新造の随邦﹂米国と ﹁堂々たる天朝﹂日本という華夷思想的図式は、既にして、﹁環海之御国柄﹂の﹁隣国﹂米国という発想︵戸田︶ とは遠い。  今回こそ時機を失したが、次の米艦再航に際しては﹁一当にて日本刀の切れ味を見せ﹂て﹁打払﹂うべしとし 134

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て威勢を誇る青年︵二四歳︶松陰は、しかし他方、当時出色の兵学者佐久間象山の門下生として、書簡中でも頻 りに象山の言行に積極的に言及するとともに、右宮部宛の十日前︵六月六日︶の道家龍助︵長州藩の砲術家にして 友人。松陰にペリー艦隊浦賀入港の報を伝えた人物︶宛書簡では、次のように述べていた。﹁此の度の事中々容易に 相済み申し間敷く、執れ交兵に及ぶべきか。併し船も砲も敵せず、勝算甚だ少なく候。御奉行其の外下曽弥氏 ︵金三郎、砲術家。警固役として出張︶なども夷人に首を渡し候よりは切腹仕るべくとて、頻りに寺の掃除申付ら れ候﹂︵4︶。ここでの松陰はいかにも兵学の徒らしく、﹁打払﹂の﹁勝算﹂に否定的である。  浦賀到着当日の砲術家宛書簡では﹁勝算甚だ少なく候﹂という冷静な認識を示す一方、後日江戸から肥後の慷 慨家に宛てては﹁日本刀の切れ味を見せたき﹂という。この限り、ペリー来航当初における松陰の反応は、﹁仮 令ば彼が船に乗入、対談いたし候様に款待なし、船将︵ペリー︶を突殺し﹂︵﹁十条五事建議書﹂、二七二といっ た徳川斉昭や、﹁賊船尽く焼討に致し、賊船を皆殺﹂︵三三九︶といった公儀御家人︵無役︶らのそれと同質であ る。  いわゆる撰夷派のこれらの人々の所説の論理と心情、そしてその歴史的位置付けについては別途討究︵5︶する として、いま本稿が関心の対象とするのは、かれらとは対瞭的に開国への隆路を志向する武士たち、伝統的に ﹁変の役人﹂︵大道寺友山﹃武道初心集﹄︶たるを自負するかれらの、﹁変﹂事︵ペリー来航︶への対応である︵旦。  ﹁変の役人﹂たる武士たちは﹁変﹂︵﹁世の騒動﹂友山︶にいかに関わったか。いまの将軍・大名・武士たちはすべ て﹁変﹂を利しての人殺しの成上り、と喝破したのは賀茂眞淵︵﹃国意考﹄︶︵ア︶であった。乱世の武士たちの﹁変﹂ への関わりである。この乱世の武士たちが﹁天下国家ヲタモチテハ人君﹂となり、その﹁人君﹂を補佐する﹁役 人﹂となって近世﹁武家﹂が成立した、と言うのは荻生祖棟二太平策﹄︶︵8︶である。かくては馬上得たる﹁天下 135 武+と開国(続)

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国家﹂の﹁変﹂を未然に俳除し、その安寧と維持に努めることが近世武家たちの職責となろう。だが﹁変﹂とい えば農民一揆という程度の﹁昇平﹂期の、近世後期の武家たちの実態については、海保青陵の次のような認識こ そ傾聴に値しよう。  ﹁天子ハ天下ト云シロモノヲモチタル豪家也。諸侯ハ国ト云シロモノヲモチタル豪家也。コノシロモノヲ民ヘ カシツケテ、其利息ヲ喰フテヲル人也。卿大夫士ハ己レガ智力ヲ君ヘウリテ、其日雇賃銭ニテ喰フテオル人也。 雲助ガ一里カツギテ一里ダケノ賃ヲトリテ、餅ヲ得酒ヲ得ルニ何モチガイハナシ﹂︵﹃稽古談﹄︶︵旦。青陵の説にし たがえば、近世後期の武家たちのありようは地主・高利貸の手先︵番頭・丁稚︶に類するだろう。否、もしかれら 武家たちが、三天子・諸侯等の︶豪家﹂へ売るに値する﹁智力﹂を欠くならば、かれらはコ里カツギテ一里ダケ ノ賃ヲト﹂る﹁雲助﹂にも劣る﹁喰ツブシ﹂ということになる。かくて事態の﹁変﹂・﹁世の騒動﹂は、かれら武 家たちの﹁智力﹂の実効性、さらにはかれらの存在意義をすら検証する絶好の機会ということになる。  文脈的には青陵の論は、﹁カタク孔・孟ノ言ヲ準トシテ、棄利愛民ヲ宗旨トシタル﹂儒者の妄言に惑わされて、 ﹁棄利﹂を誇り顔に﹁愛民﹂を説く武士たちの﹁無学﹂を糾弾することにある。利を棄てて民が愛せるか、とい うのである。ここからも知られるように、﹁愛民﹂は﹁武家﹂の常套語であったはずである。たとえば寛延二年 二七四九︶四月、二本松藩五代︵丹羽家七代︶高寛は藩儒岩井田昨非に命じて居城通用門脇の自然石に次の四句 十六字を刻さしめ、朝夕そこを通る家臣一同への戒めとした。﹁爾俸爾禄 民膏民脂 下民易虐 上天難欺﹂ ︵10︶。また、米沢藩十代上杉治憲︵鷹山︶の周知の﹁伝国の詞﹂︵天明五年、一七八五︶に曰く、﹁国家人民の為 に立たる君にして、君の為に立たる国家人民には無レ之候﹂︹11︶、と。  まことに立派な責任倫理の自覚・表明といってよい。先の﹁棄利愛民﹂の語とそれを支える思想体系が、わが 136

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﹁武士﹂たちにとって木に竹を接ぐ体の輸入学問であったのに対し、後者の戒石銘および﹁伝国の詞﹂は、藩経 済の重度の窮迫を背景として土着の﹁武家﹂たちにより、主体的に紡ぎ出された自律的な責任倫理の一環であ る。そしてこれを系譜的に遡れば、かれらがみずからの職分を﹁三民の教化者﹂︵﹃山鹿語類﹄寛文三年、一六六 三︶として、乱世後の治世相応に合理的に自己定位し得たのも、この責任倫理の自覚とその達成を根拠としての ことにほかなるまい。かく三民の長としての権威と権限をみずからに付与し、封建社会体制を合理化した﹁武 家﹂が、己が﹁智力﹂︵青陵︶を傾け﹁変﹂に対処し、﹁天下国家﹂・﹁国家人民﹂の安寧とその維持の責務を負う ことは自明の道理だと言ってよい。こうして近世後期最大の﹁変﹂たるペリー来航を機として、かねて﹁侍畜 生﹂︵西鶴﹃武道伝来記﹄︶、﹁出家・侍・犬畜生﹂︵但諺︶と蔑称されていた、﹁お武家様﹂の﹁智力﹂のほどが問わ れることになる。  かく単純化し限定した視座からすれば、﹁勝算甚だ少なく候﹂︵12︶という実状認識をも顧みず、﹁彼が船に乗入  ⋮船将を突殺し﹂、三当にて日本刀の切れ味を見せたき﹂とか、事態不首尾の折には﹁奉行屋敷に火をかけ自 殺せられ﹂︵佐久間象山、注︵4︶参照︶て然るべし等の論旨は、狙練︵﹃太平策﹄︶の言を仮りれば、いかにも﹁賎 シキ昔ノ武士ノ名二拘パリ﹂たる心情倫理への傾斜の弊︵13︶を免れまい。その至高性・至純性の名のもとに、目的 のためにはいかなる手段も正当化する心情倫理の弊害である。敢えて普遍化すれば、こうした﹁打払﹂派の発想 は、対外的危機︵﹁変﹂︶を口実として、あるいはときにはみずからその﹁変﹂を招来し、﹁国体﹂・﹁国法﹂護持を 名目としてつねに﹁国家人民﹂を盾にとる武装集団一般の心理と行動の先縦と言ってよい。  そもそも米国艦隊の来航目的は国書の提出にあり、戦争にはない。米国は敵ではないとは、少なからぬ﹁上 書﹂の認めるところである︵14︶。﹁打払﹂派のみならず大方の人士が大砲積載の黒船の脅威に触れ、不遜な桐悔と 137 武士と開国(続)

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してその非を鳴らすが、突発的不祥事に備えての重装備は、とりわけこの時期の鎖国日本を訪れる、﹁国書﹂持 参の使節の常識であろう。既に無二念打払令の時期は去り、当時は薪水供与令下にある以上、問題は国書受理の 可否にではなく、国書の内容へのその後の対応にこそあろう。浦賀は不可、長崎へ廻れというのも、﹁誠に奮例 にもせよ、私の極にて、⋮⋮此国限の御法ハ格別、異国へ対し候事ハ、先方之様子二寄、夫々此方の手配りも替 り候事にて候﹂︵﹁山本元七郎上書﹂三四一︶としてこれを批判する﹁武家﹂の常識が、当時既に見られた。とすれ ば浦賀は不可、長崎へ廻れという程度なら未だしも、有無をいわせぬ﹁打払﹂の呼号とあっては﹁変﹂を好むも のと見られても止むを得まい。のちの会沢安の言を以てすれば、﹁容易二戦ヲ好ムベキ時二非ズ﹂ということに なる。  ﹃新論﹄における会沢安︵正志斎︶は醇乎たる撰夷論者であった。同書の成稿は文政八年、公刊は安政四年︵日       うれ 米和親条約の二ヶ月前︶だから、ペリー来航時にはもちろん撰夷論のはずである。周知の文章がある。﹁人に相皿 へしめんと欲せば、すなはちまさに示すに天下の大患を以てし、励すに胆を嘗め薪に坐するの誠を以てすべし﹂ ︵原漢文︶。﹁変﹂は﹁変﹂事へ、﹁変﹂事は﹁天下の大患﹂へと恣意的に誇大化される。心情倫理の悪弊である。 そして曰く、﹁朝野をして常に虜兵の境に在るがごとくなめしらば、すなわち国家の福なり﹂︵15︶︵同右︶。つねに ﹁天下の大患﹂を呼号し、国民の自由を完全に奪い耐乏を強いてこそ、﹁国家の福﹂という。ここには国民の禍、 民政への視点が全く欠けている。  この会沢が開国論に転じ、出色の論理を展開するのは﹃時務策﹄︵文久二年、一八六二︶においてである。時 に、八十一歳。因みに史書を漢文で著わすことの弊害を説いたものに先に新井白石、後に島田三郎が挙げられる が、その島田三郎﹃開国始未﹄に曰く、﹁漢文を以て之を綴るときハ文調の為に事実を忽にし甚きハ事実を文調 138

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に譲るに至ることあり⋮⋮歴史の変じて一種の小説となれることを覚らざるなり﹂︵博文社刊︶、と。この弊害の とりわけ顕著なのが、幕末期の穰夷論・排邪論である。﹃新論﹄はもちろん漢文、対するに﹃時務策﹄は和文で記 されている。  外国ヲ一切二拒絶トイフコト、⋮⋮此一事ノミヲ守ラントシテ、国ノ存亡ヲ論ゼズ、其他ヲ顧ズ、偏二固ク          ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   シ   ヘ   ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ 執リ守ラント云ハ、一偏ノ論ナルベシ、⋮⋮時勢ヲ料ラズシテ、寛永以前ノ政令ヲモ考ヘズ、其以後ノ時変ヲ モ察セズシテハ、明識トハ云難カルベシ。  小壮ノ論ハ、義二当テハ国家ノ存亡ハ論ズルニ足ラズ、唯其義ヲ行フベシナド﹀、唱ルモノモアランカ、 ⋮⋮民命ヲ論ゼズナドイフコトモ、大義二当テハサルコトナキニモ非ズ。当今ノ世モ、戦フベキ時二臨テハ戦 フテ当然ナレドモ、容易二戦ヲ好ムベキ時二非ルコト前二論ズルガ如シ。戦フベキ時二非シテ強テ戦テ人ヲ殺 ントスルハ、不仁モ亦甚シ。海内ノ百姓︵人民︶皆升平ノ徳沢ヲ蒙リ、其生ヲ安ジテ世ヲ渡ルハ、天下ノ至慶 ナリ。然ヲ今、軽易二事ヲ生ジテコレヲ兵火二苦マシメントスルハ何ノ心ゾヤ。︵16︶  情理兼備した、憂国至誠の論と評すべきだろう。先ず会沢は、﹁天朝﹂・﹁東照宮﹂︵家康︶の絶対性を介して、 寛永の鎖国令を相対化する。﹁寛永ノ良法トイヘドモ、其本ハ天朝ノ制ニモ非ズ、又東照宮ノ制ニモ非ズ、寛永 中二時宜ヲ謀テ設給ヒシ法﹂にすぎず、と。尊王敬幕を藩是とする、水戸の論客らしい巧みな論法である。そし てこの相対化された鎖国令を絶対的な﹁国ノ存亡﹂と対置し、両者を計量比較して、擁夷打払の論を﹁一偏ノ 論﹂として一蹴する。時代の推移二時勢﹂︶、環境の変化︵﹁其以後ノ時変﹂︶への洞察を欠くこれらの論は、﹁明識 139 武士と開国(続)

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トハ云難カルベシ﹂、と言うのである。ここで会沢の言う﹁明識﹂こそ、われわれが﹁武家﹂の良識と呼ぶもの にほかならない。  戦うべき時か、戦うべからざる時かの判断を担うのが﹁明識﹂であり、それを欠くとき、﹁武家﹂は己の責任 倫理を全うできない。責任とは、﹁国ノ存亡﹂、実質的には﹁民命﹂にたいするそれである。﹁国ノ存亡﹂といえ ば、いかにも事大・王義的かつ抽象的である。﹁民命﹂といってはじめて、事態は現実的になろう。﹁戦フベキトキ ニ非シテ強テ戦テ人ヲ殺ントスルハ、不仁モ亦甚シ﹂。こうして﹁仁﹂もまた、はじめて現実的となる。一般に 撰夷論の論理的中核は、﹁義﹂におかれる。それ故かれら撰夷派は、﹁変﹂を誇大化し﹁義﹂の危機を訴へ、﹁大 義﹂を高唱する。かっての、﹃新論﹄段階における会沢自身がそうであったように、である。だが、いま、﹃時務 策﹄に於いて彼は、その﹁義﹂・﹁大義﹂に﹁民命﹂保全の﹁仁﹂を厳しく対峙させる。﹁戦ヲ好﹂み、﹁強テ戦テ 人ヲ殺﹂すべき時に非ず、との﹁明識﹂によってである。  ﹃時務策﹄における開国論への転向の背景として、水戸藩内における彼の政治的立場の変移が指摘されている ︵瀬谷義彦氏︶。周知のように安政五年二八五八︶八月の戊午の密勅問題をめぐる水戸藩内部の対立は、水戸尊 撰派分裂の直接の動因となり、鎮派の立場の会沢は激派の人々と厳しく対立した。右文中で﹁小壮ノ論﹂として 触れられている﹁一偏ノ論﹂は、かれら激派の・王張そのものといってよい。そして激派の中心人物の一人高橋多 一郎がかっては会沢や﹃新論﹄に深く傾倒していた事実を勘案すれば、激派との対立抗争の渦中から生まれた ﹃時務策﹄の中には、かっての﹃新論﹄段階における自身の思想的立場への自省の念が込められていたと見られ よう。端的にそれは、﹁武家﹂の責任倫理の欠如の自覚であり、その自覚の結晶が﹁仁﹂・﹁民命﹂への視点にほか ならない。かかる経緯で到達された﹁仁﹂・﹁民命﹂への配慮なればこそ、ペリー来航九年後の﹃時務策﹄である 140

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にもかかわらず、なおその論旨が、当時の﹁武家﹂の責任倫理の所在とありようを判断する際の、有力な指標た り得るのである。  ペリー来航という﹁変﹂事に際会した﹁武家﹂たちは、かねてからの庶民との契約︵コニ民ノ教化者﹂.﹁変の役 人﹂︶に沿って、己が﹁智力﹂からいかなる﹁明識﹂を産み、その﹁明識﹂をいかなる﹁謀﹂へと昇化させたの か。次章以下の論述の、主として関わるところである。  ﹁謀﹂の語の多用とその国際外交場裡への有機的活用の事例としては、既述︵前稿﹁武士と開国﹂︶の山本元七 郎と、後述の向山源太夫との、それぞれの﹁上書﹂が挙げられる。本稿における﹁謀﹂の語への関心も、かれら 両人に触発されてのものである。だが翻えって、わが封建の歴史を顧みれば、﹁謀﹂に無縁の武将.﹁武士﹂はい まい。そうした中で最も象徴的な例として考えられるのが、頼山陽︵﹃日本政記﹄︶が承久の乱を論じて、﹁その挙 の如きは、則ち非ならざるなり。⋮⋮王師、東藩を滅ぼすは、唯この時を然りとなす。︵しかし︶この時に当り、 朝廷をして智謀の士あらしめば、その話旨を改め、関東を滅ぼすと日はずして、源氏を復すと日﹂︵日本思想大系 49、三〇七頁。原漢文、以下同︶ふべし、﹁故に吾れ上皇︵後鳥羽︶を以て、志ありて謀なしとなすなり﹂と断じ た、周知の文脈中のものである。﹁志﹂と、﹁智力﹂︵青陵︶・﹁明識﹂︵会沢︶・﹁謀﹂との有機的相関が必然的に要 請される、現実政治のメカニズムに他ならない。  そして﹁武士﹂たちは、この﹁謀﹂・﹁智謀﹂を﹁武略﹂と誇称した。﹁仏の嘘を方便といい、武士の嘘を武略 といふ﹂︵伝、明智光秀︶との語中の戦国臭を倫理的に昇化した用法の一例が、文久二年生まれの森鴎外の﹃栗山 大膳﹄のうちに見られる。周知の黒田騒動に材をとったこの作品で、鴎外は、新規成上りの寵臣の祓雇により危 殆に瀕した藩と二代藩主黒田忠之を救うべく図られた、譜代家老栗山大膳利章︵または利亮︶による回天の﹁謀﹂ 141 武士と開国(続)

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を、﹁武略﹂と称した。﹁︵大膳は︶此取計は憧ながら武略の一端かと存ずると云ふのである。役人席には感動の 色が見えた﹂二選集﹂五、二一七頁︶。  以上、﹁謀﹂・﹁武略﹂が﹁武士﹂の常態たることの の伝統の活用如何が問われる所以である。 一端に触れた。﹁武士﹂の子孫たる﹁武家﹂たちによる、こ 142 二  石見守に任ぜられ浦賀へ赴任した江戸詰浦賀奉行井戸銭太郎弘道は先の戸田伊豆守よりの伺書に続いて、直ち に六月、老中宛﹁上申書﹂︵二五三︶を上呈した。その冒頭に﹁戸田伊豆守心付申上候書付︵すなわち先の﹁伺 書﹂︶、右ハ出張之節大意申合候事故、此外別段存附候儀も無御座候共﹂とあるから、戸田の﹁伺書﹂が少くとも 井戸との﹁合意﹂のもとに記されたものであり、今回の﹁上申書﹂の論旨もその延長線上にあることが知られ る。この上申書は日付を欠くが、内容的には久里浜での米国国書受理後の、ペリー再来時の対応を問うもので、 日本側からの返書のありようにも踏みこんだ意見が開陳されている。  この﹁上申書﹂の視座は、先の﹁伺書﹂付記中の﹁環海之御国柄﹂の語の含意が﹁僅二太平海を隔候のみ二 て、隣境同様﹂の関係と敷術され、﹁外国諸蕃とても、強て戦争を好候儀ハ有之間敷﹂、﹁親厚致度意ハ相違も有 之間敷﹂と述べられていることに端的に示されていよう。それ故、諸侯・諸士からの上書中のかなり多くのもの が非礼.侮辱と言挙げする米艦の内海測量の件にも、﹁御返翰護送之為大艦相増渡来、其節船繋宜敷場所相求候 為﹂と冷静に対応している。そしてさらに、米艦は﹁内海未開之斜路迄乗込﹂というにおいては、相手の操艦術 への賞讃かと見紛おう。少くとも﹁敵将を突殺し﹂︵徳川斉昭︶という情念の介在からは程遠いようである。

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 かかる視座からすれば、﹁此度使節を以書翰差上候処、一向二御取合無之、御答之次第二依て、忽ち事もつれ に相成﹂、よって﹁厳格之御取計ハ、却て無謀浅智﹂と断ずる所以も納得できよう。それにしても公儀上層部に おける﹁衆議区々﹂︵﹁伺書﹂付記︶という情況に徴すれば、一奉行の身で﹁無謀浅智﹂とはよくも言ったもので ある。現場責任者としての彼が当面とりわけ危惧するのは、ペリー艦隊自体よりは、﹁諸藩御警衛向一時之客気﹂ の動向、即ち日本側警備陣の暴発への危惧である。かれらの﹁麓忽﹂な行動が先方の口実となり、﹁落度を此方 えあづけ﹂られ﹁此方之落度﹂とされるような事態は絶対に避けねばならぬ。けだし、﹁天保度清国阿片一件之 如き、是非顛頭仕候儀二御座候﹂、すなわち清国では一寸した落度を口実に﹁是﹂と﹁非﹂が逆転され、ついに 英国の餌食とされたのだから、と。  阿片戦争にふれる上書は少しとしないが、そのほとんどすべての関心は英国の軍事的脅威と横暴に向けられて いる。また右の﹁落度﹂の論に聞わっていえば、﹁大義﹂の有無を判断基準とする﹁有名之軍﹂・﹁無名之軍﹂とい う範晴に拠る論も、開国派・壌夷派の別なく見られ、必ずしも珍らしいものではない。しかし、たとえば後論で 言及する中島三郎助の父清司︵もと浦賀奉行所筆頭与力︶の﹁愚意上書﹂︵いわゆる﹁弘化上書﹂︶中の、次のよう な認識となると、その数は限られてこよう。﹁異国船渡来之節、無二念打払候儀ハ後患ヲ取候形ニテ、御為不宜 哉二奉存候。蛮夷二於モ無名之軍ハ不仕由及承候処、異船無趣意討払候テハ当方ヨリ無名之軍仕掛候二相当リ、 先方ハ事ヲ好候儀ユへ、被討払候ヲ名義二仕、再ヒ数艘之軍船相催、渡来可仕哉ト奉存候﹂︹17︶。アヘン戦争終結 後四年の弘化三年二八四七︶七月、その年の長崎・浦賀への﹁異国船⋮⋮数艘渡来﹂という事態を踏まえて、 文政無二念打払令の復活を憂えての公儀宛上書冒頭の一節である。あたかも九年後のペリー来航事件を的確に予 見していたかのような状況設定と鋭角的な論法は刮目に値するが、注目すべきは、﹁是非顛頭﹂警戒論の原型と 143 武士と開国(続}

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もいうべきその発想である。とすればこの発想は、浦賀奉行所伝来の国防論の一環と見られよう。  井戸石見守は、西欧列強の軍事的脅威への関心に偏る他の論者たちとは異なり、この言掛り的な﹁是非顛頭﹂ の論理に注目し、かれら列強の外交戦略のしたたかさに警鐘を鳴らす。﹁深遠之御賢慮﹂を旨として﹁無謀浅智﹂ の決断・振舞をつつしみ、ひたすら﹁御忍耐﹂を、というのである。卓抜な外交感覚といってよい︵18︶。その感覚 のほどは友好国オランダへの警戒にも、その片隣をのぞかせている。オランダの意見を徴するのも一法だが、       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ ﹁阿蘭陀迫も、当時ハ同類同様二て、御油断は不相成﹂という。アメリカとの共謀︵﹁内応﹂︶を疑いながらも、 安易にオランダを仲介役に仕立てようという他律的な案︵たとえば、七月二十二日﹁三奉行上申書﹂、三〇三︶との 位相の差異は明らかである。井戸のオランダ観には、オランダだから安心、アメリカだから不安という硬直した 思考は見られない。動態的・戦略的な武士伝統の反応と言ってよい。  アメリカも必ずしも信用できぬ、とも井戸はいう。所期の目的が達せられぬときはコ旦ハ殺伐之所行二及 ひ、然る後所願を相遂度存念二も可有之哉、何分底意之深浅ハ不測候得共﹂、たしかに疑念なしとはしないが、        ママ  いまの自分は﹁︵米国の︶親厚致度意ハ相違も有之間敷﹂と見る、と言い切る。そしてこの断言に次いで彼は、        ヘ へ       ママ       ヘ ヘ ヘ ヘ へ 次のような覚悟の語を披歴する。﹁万]此上彼方之不法落度有之、再応相答候ても不取敢候ハ﹀、是非も無之、 不得止事手切及異変候とも、御国内之人心上下一致仕候ハ﹀、元々彼方之不法落度より事起り、不得止事及異変 候事故、勝敗利鈍ハ素より天二任せ可申儀と奉存候﹂。﹁是非も無之﹂とか﹁不得止事﹂の語のルフランの含意す るところは重い。日・米双方が﹁無謀浅智﹂にはしらず、外交的努力を尽して﹁落度﹂に配慮した挙句の﹁異変﹂ とあれば、いまさら是非に及ばず、止むを得ぬこととして死力を尽すのみ、という﹁武家﹂の覚悟である。﹁賎 シキ昔ノ武士ノ名二拘パリ﹂︵﹃太平策﹄︶、性急に﹁打払﹂を呼号する自称志士たちとの距離はもちろんのこと、 144

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資長補短の論に拠り西洋科学技術の導入を急務とし、﹁天地公共之道理﹂等の語を以て事態を早急に合理化する 洋学者たちの動態的開国論とも異質の、﹁武家﹂の志、公儀官僚の開国の論理である。  かくては当然ながら井戸の外交的配慮は、米国国書にたいする日本側の返翰内容への要望にも及ぶことにな る。右に見た﹁上申書﹂の趣旨の論理的帰結としてである。いまより半年後に返翰受理のため再来するという米 国使節は、﹁今般願之趣箇條之内、何と欺御許容之廉無之候ては、承引仕間敷哉に奉存候﹂、と。米国からの、和 親交易・漂流民救助・石炭食料の購入等の要望のうちのいくつかには応じぬときは、それは﹁此方之落度﹂と見 なされ、先方に﹁手切﹂・﹁異変﹂の口実を与えるのではないかとの趣旨である。アヘン戦争を他山の石、前車の 轍としての、﹁是非顛頭﹂外交への警戒である。右の言につづけて彼は、今回のごとき好意的措置はアメリカ一 国に限り、他国には認めぬ所存と付言しているが、この付言はあるいは﹁衆議区々﹂で腰の定まらぬ公儀中枢説 得のための便法ではないかと思わせるのが、以下に論ずる浦賀奉行所筆頭与力中島三郎助の上書内容である。中 島の上書は、米国の要望事項のほぼすべての承認と、同様の措置を諸外国へも適用すべきことを主張しているか らである。浦賀奉行所幹部の伝統は、どうやら、﹁是非顛頭﹂論理への着眼に尽きるものではないらしい。  ﹁異国船渡来之儀二付御警衛筋愚意申上候書付﹂︵丑、八月︶︵19︶と題する、中島三郎助二八二一ー六九︶のいわ ゆる﹁嘉永上書﹂から感取される第一印象は、事態への切迫感と焦燥感である。切迫感は米国使節およびその艦 隊への対応の最前線に立つ実務責任者という職分の自覚に由来しようし、焦燥感は当該事態への相も変らぬ公儀 の優柔不断・無為無策への焦立ちに由来しよう。﹁上書﹂冒頭、中島は、今にいたってもなお文政無二念打払令へ の復帰を策す公儀の外交姿勢への警戒心もあらわに、その趣意を端的に表明する。﹁文政之度二被為復打払之儀、 御奇策にも可有御座哉ト奉存候得共、当節御警衛之姿ニテハ容易二打払之御処置も如何可有御座﹂。﹁打払﹂など 145 武}と開国(続)

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事実上不可能というのに、まだそんな﹁奇策﹂を妄想しているのか、という中島の瞑志の坤きが聞こえてきそう な文章である。  無理もないことで、文政令への復帰の懸念はすでに六年以前に中島の父清司が﹁弘化上書﹂︵前出︶中で表明 していたことだからである。その間公儀は荏再、無為無策、それどころか中島三郎助はこの十年後の文久三年 二八六一三にも﹁打払﹂反対の上書︵いわゆる﹁文久上書﹂︶を呈する羽目になる。前年の撰夷の勅書に唯々 諾々と盲従しかねぬ公儀を製肘すべく、である。﹁文久上書﹂に曰く、﹁今般撰夷之 御勅謎相下候趣承知仕候二 付、浅識管見之儀申上候ハ其罪千死恐催之至奉存候得共、心付候儀不申上候テハ不忠之至ト、微衷之愚意左奉申 上候﹂。父の﹁弘化上書﹂からだけでも十七年間、﹁千死恐耀﹂とは必ずしも儀礼上の潤飾の辞に止まるまい。決 死の諌言の趣といってよい。  因みに、父祖以来の徳川公儀への恩についての三郎助の語を知らぬではないが、公儀首脳部の無能無策に翻弄 された彼の壮年期に思いをいたせば、五稜郭︵ときに箱館奉行並。奉行は永井尚志︶での父子三名の壮烈な最期に いたる後年の彼の思想と行動を、徳川公儀に殉じたものと見るロマン主義的な遺臣観には、にわかに賛同し難 い。この点、同じく徳川公儀奉公人の最下層から累進し、江戸開城前夜の病床での自裁という最期により象徴化 される川路聖誤の場合とは、少しく事情を異にすると考えられる。後考を侯ちたい。  伊豆下田時代からの与力職の家に生まれ、砲術家としても知られた中島三郎助の経歴は、当時の対外問題の関 係者中では異彩をはなっている。天保六年二八三五︶与力見習として浦賀奉行所に出仕した中島は、二年目の 同八年には日本人漂流民を護送してきたアメリカ商船モリソン号の砲撃︵文政無二念打払令に則る︶に参加︵十七 歳︶、弘化二年二八四五︶には、同じく日本人漂流民を護送してきたアメリカ捕鯨船マンハッタン号と接衝︵天 146

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保薪水供与令に則る︶し、翌三年には父清司と共に、ペリー艦隊の先遣隊ともいうべく日本の通商意志の確認の ため来航した、東インド艦隊司令官ビッドルとの交渉にあたり、さらに嘉永二年二八四九︶のイギリス測量船 マリーナ号の来航に際しては、船大工と共に同船に乗込み船内を実測している。そしてペリー艦隊来航に際して 通辞堀達之助を連れて同艦隊に赴き、同使節団と接衝した最初の日本人となったことは周知のことである。加え て父清司の事蹟、同所与力香山栄左衛門との関係︵妻同志が姉妹︶等々の人脈に思いを致せば、当時異色の外国 知識、外交経験と評してよいだろう。  その中島﹁嘉永上書﹂が﹁軍艦御製造﹂・﹁炮台御造立﹂、諸国海岸への大名の配置替へと﹁農兵﹂制度等の海防 政策、その具体的強化に触れているのは当然であろう。しかし彼が単なる奉行所与力・技術者に止まらぬ見識の ほどを示すのは、﹁上書﹂五項目中の大半を﹁打払﹂不可の対外政策の原理的討究にあてていることである。判 断基準は、会沢安と同じく﹁仁﹂。﹁先年中御打払被遊候儀御妙策杯と申世評も御座候哉二承及候得共、打払御停 止二相成候儀ハ却テ此上も無御座御仁政と奉存候﹂とは、その端的表明である。文政無二念打払の発令時は中島 五歳、天保薪水供与令発令時は二二歳、それが三三歳の今︵嘉永六年︶また文政打払令への回帰の気運を危惧し ての上書である。  ところで﹁仁政﹂の語は、すでに父清司の﹁弘化上書﹂︵20︶中に見えている。﹁兎角渡来異国船ハ、相願候薪水         ヘ ヘ へ      サトシ  食料等ハ被下置、御仁政ヲ相示、再渡不仕様二申諭、退帆被 仰付候方可然哉﹂。これは随分と妙な文章に見え よう。当時︵弘化三年、↓八四七︶は、十七年間続いた打払令が薪水給与令に改められてわずか五年後のことで あり、薪水給与は浦賀奉行所の当然の職務のはずである。本来ならば、薪水給与の﹁御仁政﹂への要望などはあ り得まい。すなわちこの段階ですでに中島清司は、文政打払令への復帰を真剣に危惧しているのである。﹁万一 147 武士と開国(続〉

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文政度 御趣意へ被為復、異国船無二念討払候様之被 仰出ニモ可相成哉二付、乍恐奉愚察候二付、存寄左二奉 申上候﹂。﹁弘化上書﹂冒頭の趣意説明である。中島清司らの現場担当者が直面し翻弄されていたのは、公儀の無 原則無定見に由る、朝令暮改の現実であった。  中島清司の論旨が公儀への桐喝の気配に傾くのも、この限り理由のないことではない。もし﹁討払﹂というこ とになれば、相手は﹁数百艘之軍船ニテ襲来、日本四面何国之海岸﹂からも上陸するが、その際に﹁船人トモ悉 討砕、一人モ不洩、必勝之御備﹂が現在の日本にありや、と。﹁必定討止候ニハ、堅固之軍船数艘用意被 仰付、 其船拾町程モ相進、追討仕候外有御座間敷候。台場之儀ハ、其場所着岸上陸ヲ防候迄之儀ト奉存候﹂。因みに右 文中の﹁台場﹂への消極的評価は、佐久間象山﹃省讐録﹄︵安政元年稿︶中の周知の主張二全集﹂一ー十二︶と同 質のものである。象山は清の魏源﹃聖武記﹄と自説との暗合に触れた際、ただしとして、﹁海防﹂︵砲台︶に拠る 魏源に対し﹁海戦﹂︵﹁磁・艦﹂︶を優先させる自説の先見性を誇るが、該事態ははるか以前から、現場では常識で あった。思想家の先見性の評価の難かしいところである。  他方象山は、右文中で中島清司が公儀桐喝の手段とする﹁堅固之軍船数艘用意﹂といういじましさとは異質 の、堂々たる﹁洋製之大舶四、五十艘﹂建造案と﹁水軍﹂︵海軍︶構想を、﹁海防に関する藩主宛上書﹂︵天保十三 年十↓月︶中で展開している。もちろん、撰夷のためである。そしてこの建造案の障害となる慶長十四年二六 〇九︶の公儀による大船建造禁止令について、象山は言う。﹁天下之為に立てさせられ候御法を、天下の為めに 改めさせられ候に、何の御憎か御座候べき。平常の事は平常の法に従ひ、非常の際は非常之制を用い候事、和漢 古今之通義と奉存候﹂︵同右ニノ三六︶。こうした透徹した論理とその大上段の展開を、奉行所与力に期待し難い こともまた事実である。けだし佐久間象山とは、かっての門弟吉田松陰密航事件に連坐、下獄した際、北町奉行 148

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      サトヒロ 井戸対馬守︵覚弘︶の説く、﹁非常の大変とても法例は法例なり﹂という法理にたいし、﹁かかる非常の節にも、 法は法、例は例と被仰儀に御座候へば、]も二も無之、私国禁を犯すこと明なり﹂︵日本思想大系54﹃吉田松陰﹄ 一六四頁︶と言い切った武士、語の全き意味における志士だったからである。だが象山がその論理必然性に導か れて、開国論への転向を原理的に表明するのは、かなり後の文久二年二八六二︶のことである。  中島三郎助﹁嘉永上書﹂は、父清司以来の﹁仁政﹂の語を中核にすえ、公儀説得に﹁仁義﹂論を以てする。三 郎助が剣法・砲術に秀いでていたことは周知のことであるが︵思うに、これが函館での彼の運命の遠因︶、論もまた 巧みである。けだし、天・仁・義等の超越概念に拠ることは、古来、為政者批判に不可欠の王道である。  漂民護送等仕渡来候船を御打払二相成候テハ、乍恐、御不仁之御所置ト奉存候。尤、先年文政之度にハ彼此          きつと      ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 乱妨等仕候得共、急度何国之船とも難相分、此已後共諸州モ広大之儀二御座候得ハ、仁義を専ト仕候聖賢国之       トテ         ヘ ヘ ヘ ヘ へ 船モ渡来可も難計、其節ハ異船ト見受候迎打払候得ハ御不仁之至ト奉存候。⋮⋮渡来之船二全害意を含、不法 之所為仕候ハ格別、仮令獣畜ニテも無罪之者打榔仕候ハ不法之輩之所為カト奉存候。尚此上度々渡来仕候とも 厚御仁政を被為施候ハ、彼等二おゐても容易二争端を発候事ハ出来申間敷、⋮⋮格別之不法等不仕候ハ﹀打払 等之御沙汰二不被及方御為筋と奉存候。  本稿冒頭で記したように、この上書はペリー持参の米国国書への対応を群臣に諮る公儀の諮詞に応じたもので あり、その公儀は、﹁仮令忌諒に触候ても不苦候間、柳心底を不残十分に可被申聞候﹂と述べていた。この限り いかなる意見も許される道理だが、それにしても右の論旨は刮目に値しよう。﹁打払﹂政策に限るとはいえ、右 149武]と開国㈱

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は優柔不断な公儀の姿勢への完壁な異議申立である。ペリー再航の際の対応がかりに﹁打払﹂と決すれば、それ は﹁仁義﹂にもとる﹁御不仁之御処置﹂・﹁不法之輩之所為﹂と断じて揮らないのである。理念において然るのみ ならず、現実においても、その帰するところは﹁御国体﹂の危機として﹁御為筋﹂宜しからずというのだから、 事理間全するところなしと言ってよい。  思うに、右の論の眼目は﹁仁義﹂の高唱にある。かって南北両朝が並立しその正閏を争ったとき、﹃神皇正統 記﹄・﹃太平記﹄・﹃梅松論﹄等の史書が歴史的判断の視座に据えたのは、﹁天﹂であった。この超越者を介してはじ めて歴史の傭鰍は可能になり、それぞれの歴史的判断を合理化し得たのである。﹁仁義﹂もまた、徳川公儀とそ の社会が二百数十年の永きにわたりお題目として唱えつづけてきた、政治・倫理上至高の理念である。中島三郎 助は、これを視座の中核に据えた。この超越的視座は、その超越性の然らしむうところ現実政権たる徳川公儀の 備敵とその相対化を可能にすることになる。三郎助﹁嘉永上書﹂における﹁皇朝﹂の語の頻出は、その必然的結 果である。それは、単なる徳川公儀を超える日本国の謂であり、尊王思想などとは全く無縁のものと見てよい。  ﹁皇国﹂は﹁仁義﹂の総本山、﹁君子国﹂といったのは先に触れた大橋訥蓄である。これに対し、中島三郎助は ﹁皇朝﹂の﹁君子国﹂からの転落、否、﹁獣畜﹂にすら劣る野蛮国への可能性を警告している。また、﹁我国の万 国に勝れ世界にて君子国とも称せらる﹀は、天地の心を体し仁義を重んずるを以て也﹂︵﹃夷虜応接大意﹄︶と高唱 する横井小楠は、﹁有道の国は通信を許し、︵仁義なき︶無道の国は拒絶する﹂こと、これわが﹁国是﹂なりとし た。これに対し三郎助は、﹁仁義を専ト仕候聖賢国﹂無きにしもあらず、という。﹃夷虜応接大意﹄の翌年、小楠 が開国論に転じた所以である。ただしここでの訥蓄・小楠・三郎助の比較が、三者の異国船体験の絶対的差異を 棚上げしての、論理上のものであることは断わるまでもない。 150

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 ﹁仁義﹂・﹁皇朝﹂相手では、公儀とて表立っての答め立ては出来まい。三郎助が設定し立脚したのは、公儀奉公 人・奉行所与力としての職分にももとらず、それでいてかつ﹁心底を不残十分に﹂開陳し得るに足る視座であっ た。そしてその視座は志に裏打ちされていた。慶応四年二八六八︶八月︵九月八日、明治と改元︶、榎本武揚等 と開陽丸で東京︵七月、江戸を改める︶脱出、明治二年官軍に抗して戦死。共に、二も二も無之、私国禁を犯 す﹂︵象山︶体の、﹁国法﹂に抗して﹁国禁﹂をおかす志である。  当七月中ハ長崎表工も魯西亜船渡来、⋮⋮都テ何国工被対候とも穏当之御取扱を以交易等御許容御座候方可 然哉ト奉存候。  皇朝ハ万物富饒之御国柄ニテ、此上御交易等無御座方御為筋トハ奉存候得共、餓り御国法を被為重、却テ御 国体にも相拘り候様相成候テハ恐多儀ト奉存候。⋮⋮不足を補、鯨れるを省候ハ交易にも可有御座哉、此上諸 国ト御交易之被為開、四五年も被試候テ、弥御国益にも相成不申候ハ・其節御停止可被遊、若当時御免無御座 候ハ﹀彼等内心不平を抱き、如何様之所為可仕哉も難計奉存候。何分御気長之御取扱を以、一時御国法相立不 申候ニテ御威光にも相障可申様被思召候とも、永世不朽之御奇策肝要之儀ト奉存候。  先の一文中には﹁漂民護送﹂云々の語が見えたが、中島三郎助にとって難破船・漂流民救助、薪水給与はもは や自明のこと、彼の論はさらに、国書問題の本丸というべき﹁交易﹂許容、しかもアメリカ一国に止まらず﹁都 テ何国工被対候とも﹂交易許容という聞かれた地平に及んでいる。そして短兵急にはしらず、﹁御気長之御所 置﹂・﹁御気長之御取扱﹂こそ﹁御国益﹂にかない、公儀にとっても﹁御為筋﹂、と説く。戸田伊豆守︵﹁奮制二而巳 151 武士ご開国〔続}

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泥ミ﹂︶.井戸石見守︵﹁御忍耐﹂︶と続く浦賀奉行所の立論趣旨の、委曲を尽した総括である。二時御国法﹂の語 と﹁永世不朽之御奇策﹂の語、時弊即応的な法の一時性と﹁国体﹂の永遠性を対比する歴史観といい、さらに は、﹁一時﹂・﹁四五年﹂の交易の試行︵これは米国国書中の要請︶提案に見られる柔軟性・現実性など、それぞれ個 別的には他の上書中にも散見するが、それらを﹁仁義﹂理念で一括りにした理論構成は出色である。  ところで既述のように、ここで中島三郎助が直面した﹁御国法﹂の壁とは、すでに七年前の﹁弘化上書﹂にお いて父清司の前に立ち塞がっていたものと全く同質のものであった。天保薪水給与令の文政無二念打払令への復 帰の可能性である。それは必ずしも米国国書問題、ペリー再航を直接契機とするものではなく、すでに七年以上 前から取沙汰されていた事態であった。文政打払令公布の経緯については、後年田辺太一が次のように回顧して いる。﹁文政八年に打払の旧に復せしは、水野出羽守が君寵を檀にして威権を弄し、⋮⋮文恭公︵十一代家斉︶の 末年、枇政漸く行はる﹀時代なれば、徒に太平を粧ひ、無事を喜ぶの意に出でしは、論を挨たず﹂︵前掲書十頁。 しいな 枇とはよく実らない米。名ばかりで実がともなわぬ意︶。﹁御国法﹂の恣意的制定の実態である。こうした理解は田 辺太一ひとりのみに止まらず、当時の旗本御家人層の一部にも見られ、したがってかれらは易々と﹁御国法﹂の 壁を乗り越えている︵たとえば﹁向山源太夫上書﹂二二三・﹁山本元七郎上書﹂三四↓︶。それだけになおさら、かれ らとは立場を異にする、﹁威権を弄し、⋮⋮徒に太平を粧ひ、無事を喜ぶ﹂勢力による巻返し、策謀のほども想 像に難くない。﹁御国法﹂遵守の義務を負う公儀役人中島三郎助の苦衷である。  いま、公儀への不信感と状況の切迫感の間で身を焦がす中島三郎助が、その職掌上の制約から内に秘めたであ ろう心情の代弁者を他にもとめれば、その適任者の一人として、たとえば古賀謹一郎を挙げ得よう。公儀儒者古 賀謹一郎︵茶渓︶の論︵21︶は、例の公儀諮詞の常套句﹁仮令忌謹に触候ても不苦﹂云々の御墨付を冒頭に掲げ、そ 152

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れを盾にとっての﹁上書﹂であるだけに、歯に衣着せず少しの容赦もなく公儀の失態の様を別扶し、嘲笑してい る。胸のすく快論と言ってよい。﹁アメリカ船より相願候、口本海測量之儀、並に以後異国船取扱振等之儀、存 付候趣も可有之候間、忌講に触候儀等有之候共不苦候間、御為筋と存込候趣意、十分取調早々可申上旨、林大学 頭を以て御渡相成候、御書取之趣奉畏候﹂。  右文中の﹁アメリカ船より相願﹂の語から知られるように、この古賀﹁上書﹂は、安政二年アメリカ太平洋測 量探検遠征隊ヴィンセンズ号︵船長ジョン・ロジャーズ大尉︶が来航し、﹁日本海測旦里之儀﹂を要請した件に関わっ てのものである。安政二年といえば、本稿が対象とする嘉永六年︵ペリー来航・米国国書問題︶の二年後のことで あるが、この際この時間のずれは当面、問題にならない。事態の本質は、先の﹁上申書﹂で井戸石見守が触れて いた沿海測量問題であり、この二年間この問題についての公儀の対応にいささかの進展もない以上、古賀と井 戸・中島とは全く同位相の事態に翻弄されていたことになるからである。  因みに、古賀への公儀からのこの意見具申命令は林大学頭から伝達されている。このことについて田辺太一は ﹁儒者は、林大学頭支配にして、老中には直轄せず﹂と注記しているが、古賀がわざわざ﹁林大学頭を以て 云々﹂と記した点については、あるいはすでにこの冒頭部分において、時宜に外れた公儀の官僚主義・事大・王義 ︵22︶への皮肉をこめていたと見られなくもない。なにしろ古賀﹁⊥書﹂の内容は﹁御書取之趣奉畏候﹂などとい う殊勝な言辞、恐縮の様とは程遠い激烈さに満ちているからである。皮肉といえば、右に続く﹁愚昧之至、⋮⋮ 再応勘考相加候得共、何分目前之良策に乏敷﹂の語こそ、まさにそれに相応しい。田辺太]はこの﹁目前之良 策﹂の五文字に丸印を付した上で、注記する。﹁目前之良策は、当時政府の聞かんことを欲するものにして、即 ち永世の長計に非ず﹂。多分、この皮肉は公儀中枢に通じまい。世官世族、家門中心にかためられた公儀積年の 153 武土と開国(続)

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弊害の結果であり、中島三郎助・古賀らの前に立ち塞がった巨大な壁である。        マサル  古賀謹一郎二八一六ー八四︶、名は増、儒官古賀個庵の子、茶渓・謹堂と号す。儒官となり、洋学をも兼修、 右﹁上書﹂の翌々安政四年、蕃書調所創設とともに頭取となる。のち、目付・大坂町奉行を歴任、維新後、明治 政府よりの要請あるも辞して応ぜず、市に隠れる。  古賀の﹁上書﹂内容に検すると、アメリカ測量船からの要請にたいして、どうやら公儀中枢に﹁御国禁﹂だの ﹁条約外の事﹂だのと難癖をつけては愚図る輩が居たらしい。古賀は言う、現在世界の学術の大勢は﹁両極氷海 の地をも探索ゆきとどき、すでにアメリカよりも五そう仕出し候よしに御座候﹂、とすれば、すでに和親条約を 結んだ友好国の沿海測量を希望する位は当然のことである。そもそも難破船救助の約束︵和親条約︶をしておき ながら船舶の安全航海に不可欠の測量を許さぬとは﹁首尾相応不仕﹂、否それどころかそれは、アメリカ側から ﹁彼国︵米国︶の船舶難破を座視候残暴の所行﹂と見なされる惧れが十分にある。﹁きっと御差留︵拒絶・打払︶ の御手段あらせられ候はば、格別﹂だが、アメリカ側が怒り出してから承知というのでは、日本は金輪際なめら れる。自分の見るところ、アメリカがこれから持出すであろう案件には﹁使節御目見﹂︵翌々年十月のハリス登城 を予見︶等があるが、日本が武力脅迫に弱いと見抜けば、相手は図にのるが、それでもよいのか、と。この筋道 立った道理と桐喝には流石の公儀中枢も屈したかに思うが、事態は然らず、田辺太一の言に由れば、﹁かくのご ときの講議も、かの因循楡安の輩の耳に入る能はず﹂。浦賀奉行所与力の正論に耳を傾けなかったのも、敢えて 異とするには足りない惨状である。 154

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三  米国国書への対応を論じて、西洋外交術のしたたかさを﹁是非顛頭﹂の論理として表象し、これに警鐘を鳴ら し、ひたすら﹁御忍耐﹂をと説いていた浦賀奉行井戸石見守︵鎮太郎︶の見識については、前節で触れた。だが その際、彼は同時に次のような﹁武家﹂の覚悟を披涯してもいた。﹁万一此上﹂、さらにアメリカ側の﹁不法落 度﹂あり、これを答めても応じぬときは、﹁是非も無之、不得止﹂戦端を開く、と。﹁万一此上﹂の不祥事にたい する井戸のこの覚悟は、﹁仁義﹂論に拠る中島三郎助とて同様である。否、およそ開国容認の﹁武家﹂一般に通 底する心情と覚悟と言ってよい。﹁無道の国﹂とは通信せず、という横井小楠の論理である。  浦賀奉行・与力といった特殊な職掌と、それに由る知識と経験とは無縁の、開国容認派の一般﹁武家﹂の心理 と覚悟を示す端的事例ともいうべきものが、﹁遠藤寛上書﹂︵三四二︶である。たとえば向山源太夫・勝麟太郎の 場合にはその﹁上書﹂末尾にそれぞれ、﹁小普請組 大久保筑前守支配﹂・﹁小普請組 松平美作守支配﹂とあるの に対し、遠藤寛についてはこの種の記載を欠き、また山本元七郎については旗本・御家人に関わる諸種の事典類 にその記載があるのに対し、これも見当らない。﹃大日本古文書﹄も、﹁幕臣︵?︶﹂としている。  いま﹁是非顛頭﹂の論理に関わって言えば、それ自体は洋の東西、古今を通じての外交戦術の一環であり、当 時の西洋列強の専有物でもない。もちろんわが﹁武士﹂社会においては、戦国期以来かねてお馴染の手法であ る。だから、﹁偽謀﹂︵コニ奉行上申書﹂三〇三︶を危惧するよりは、﹁謀﹂が必要だ、と遠藤寛は言う。﹁謀疎なれ ば必敗る、彼を知我を知りて後勝全ふすへし﹂という彼の語自体は陳腐な常套句だが、﹁両之﹂︵孫子︶・﹁伐謀﹂ ︵司馬法︶に通じる兵学的発想である。﹁武士﹂の復権と言ってよい。この﹁謀﹂の語を頻用してペリー艦隊四隻 の軍艦の買取案を主張した、山本元七郎の動態的論理については前稿で論じたが、山本の論理を兵学的戦術とす 155 武iと開国(続)

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れば、これから見る遠藤のそれは兵学的戦略と称すべきだろう。 い責任倫理要請の大原則に発するからである。 けだしそれは、公儀外交への次のような格調高 156  外夷を御するの処置、第 我 国政事之得失、国内の虚実、時勢の難易、彼我巧拙之弁を深く謀、熟知 ・⋮:、廟堂之議は、予め時処位を能察し、衆議を詳にし、偏固の見を捨、至当之策を定めらるへし、謀疎なれ ば必敗る、彼を知我を知りて後勝全ふすへし。  遠藤はこの大原則から時下の事勢を分析し、撰夷の論に与する能わず、と結論する。曰く、﹁神国武国﹂と唱 え、文政無二念打払令への早急の復帰︵﹁打払は国法成は速に帰るへし﹂︶に逸り、われに﹁大和魂﹂あり﹁勝敗は 運によるへし、若打負は、国と共に存亡を共にすへし﹂等の論は、﹁武断に失すといふへきか﹂、と。﹁打払﹂説 などは武断論者の無責任な世迷言だとし、次に、その根拠を列挙する。  一、﹁外国﹂︵と彼は記す︶は大艦巨砲を備え海戦に習熟しているが、﹁我二:::戦艦は壱艦も無之、大硲は只海 岸に備ふ而巳﹂。二、洋上に漂う船には当方の砲弾は当り難く、対するに先方からの砲弾は﹁人家なり地方成、 いつれにか中らさるはなし﹂。三、﹁都下之人情を熟察致し候に、僅に四艘之船渡来致し候に、人心之淘々たる大 方ならす、此上勝敗は兎も角も、浦賀港二て、一発も彼より放候へは、其騒擾思いやられ候﹂。四、この機会を 利しての﹁悪徒﹂の﹁乱妨狼籍﹂の危惧。五、﹁浦賀港に戦艦拾艘も来り候ハ﹀、奥羽北越九州辺三四五艘ツ︾ も出没致し候得は、国中是か為に奔命に疲れ候而巳﹂。六、﹁浦賀沖にて我運送之船を打砕き、奪掠致し候は、都 下之人民皆餓死するの外は無御座候。さればこそ蕃山子も申せし如く、今北狭来なバ、彼と合戦迄二及ばず、内

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虚にして人心散する事あらん﹂。七、﹁今之諸候一国之人数を出して、其兵根あらん事は、二十侯二一二侯も稀成 るへし﹂という、大名・﹁武家﹂の経済的窮迫。  すべて肯繁に中っている。このうち数箇条を挙げての上書は珍らしくないが、これほど列挙しての統 的な論 となると他に類例は少ない。だが就中見事なのは、﹁武家困窮﹂と世情不安の相関を論じた次の]文である。  ︵諸侯困窮に加えて黒船騒動による米価高騰で浪人町人僧侶等︶忽ち餓死に及なん、其時は世間騒敷、諸人うは       ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ   ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ     アラン       ママ  気になり、虚説のみ多ければ、無事之時の飢饅之如く、居なから餓死する者ハ少からん、横行すべし、軍法は 歴々之浪人なぞ大将に取立て、いか様成事をせんも難計、先に外夷あり、路次に飢あり、兎にも角にも進退極 りたると思ハx、下二はぬけぬけに逃るへし、恥を思いて止るも、馬取もなく、鎚持具足持もなく、己と馬と 計り有るとも、飢て用に立へからず、国に帰りて重て用意せんより外之事あらし、五拾人百人之走り人ならば        ヘ ヘ ヘ へ  ママ  ヘ ヘ ヘ ヘ ヘ へ 社法度も行はめ、一国之者逃帰りたるは、如何ともする事なからん、彼等は鹸義なき道理あり、強て法を立 むとせは、国中一揆起り、乱に乱を重ぬへし、一旦は武命の重き、人数を出すとも、重て出す事能はじ、夫に        ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    ヘ    へ 又見ごり︵見懲り?︶する人も有るへし、扶持米なし路銀なしといはx、公儀二も強く下知し玉ふ事叶ふま ヘ      ヘ   ヘ   ヘ   へ し、是より武威軽く成、其弊二乗し、外夷大に侵す事有へし、若彼侵す事を得すして帰りたりとも、跡は戦国 ヘ    ヘ   ヘ   ヘ    ヘ        ヘ    ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヘ    ヘ       ヘ   ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   へ と成へきか、公儀に向て敵する人ハなくとも、根尽力尽て、是非なく下知二随ハず、上より下知し玉ふ事不叶 して、諸国我々持の街二成へし、此外いかやうの変あらんも知るへからす、此難を思候ハ﹀、予備の事肝要た       ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ   ヘ    ヘ        ヘ   ヘ   ヘ   ヘ    ヘ   ヘ   へ るヘシ、右等をてり合せ考候へは、手荒き御処置ハ、当時の場所二ては、却て宜かる間敷と存奉候。 157 武士と開国(続}

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 見事なはずである。先に見た﹁内虚にして人心散す﹂、右文中の﹁先に外夷あり、路次に飢あり﹂等の秀逸な 惹句から知られるように、この一文は全文、能⋮沢蕃山﹃大学或問﹄͡23︶からの引用である。儒教の経書﹃大学﹄に 擬して書名とした﹃大学或問﹄︵貞享四年、一六八七。九月三十日元禄と改元︶は、蕃山六十九歳の折の公儀への上 申意見書﹁廿一ヶ条﹂と認められているもので、﹃経済弁﹄等の名により知られている近世経世済民論の古典で ある。周知のように蕃山は、この﹁廿一ヶ条﹂の内容が公儀の忌謹に触れて古河へ幽閉されることになる。右の 一文の論調には、幽閉また止むなしと思わせる厳しさが看取されよう。  この蕃山﹃大学或問﹄中の一文を、ほぼ一字一句違えずに引用したのが、右の一文である。もちろん、時代 的・内容的にそぐわぬ部分は割愛されているが、末尾の﹁右等﹂以下の一句を除いて、文章は蕃山その人のもの である。流暢な文体、卓抜な警句、鋭角的な論理も蕃山特有のものである。﹁遠藤上書﹂には典拠は全く記され ていないから、﹃大日本古文書﹄の編者たちもこの事実に気付かなかったのは当然だが、原典と照合すれば右編 者たちが﹁誤脱アラン﹂とか﹁ママ﹂と記した部分、あるいは遠藤自身の誤記も明らかとなる。先ず、蕃山の原 典では、﹁北秋﹂とは蒙古族や満州族の中国への侵冠を指す。﹁諸国我々持の街﹂は﹁漸︵キザシ︶﹂の誤記。﹁横 行すへし﹂の箇処は、その上部に、﹁みな強盗と成て、少きは五十人百人、多きは五百人千人組て﹂の文が脱落 している。﹁公方﹂の語が﹁公儀﹂に改められている。﹁軍法は﹂は﹁軍法者﹂が正しく、編集者の誤読、あるい は書き手遠藤の不用意。  しかし、遠藤寛は﹁蕃山子の申せし如く﹂として右の一文を記しているのだから、この事態は、蕃山﹃大和西 銘﹄が張横渠の﹃西銘﹄に依拠して、人間発生前の天地の様相を記している︵24︶事態と本質的には変らない。ま して﹁上書﹂という性格に徴すれば、典拠名を挙げることなど全く必要ない道理である。それよりも、遠藤が蕃 158

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山の論を活用・援用して、﹁手荒き御処置ハ、当時の場所二ては、却て宜かる間敷﹂と結論し、打払不可の論を原 理的に展開していることにこそ注目すべきであろう。蕃山の時処位論︵これとても元来は、蕃山の師中江藤樹の論︶ に即すれば、ここで遠藤が言う﹁当時﹂とは時、﹁場所﹂とは処、そして﹁公儀﹂︵位︶への政治責任の要請を意 味しよう。蕃山説の援用・活用と記した所以であり、右の一文の趣旨を遠藤寛自身のものと認めるに吝かではな い。そもそも当時の御家人層の知的水準︵﹃幕末百話﹄・﹃旧事諮問録﹄他︶に徴すれば、蕃山の経世論に目を通し ているだけでも出色と言えよう。  周知のように、本多利明はみずから体験した天明大飢饅の惨状を﹃西域物語﹄︵中巻︶のうちに記録している。 その実状は、酸鼻を極める。しかし、能⋮沢蕃山の語を仮りて遠藤が言うところによれば、ペリー来航・米国国書 問題に関わる今回の﹁外患﹂から予想される飢饅は、そうした平時のものとは様相を異にし、﹁居なから餓死す る者は少からん﹂、蜂起し反逆する、﹁先に外夷あり、路次に飢あり﹂、と。外患と内憂の有機的連関である。江 戸で食えぬとあれば、﹁武家﹂といえども﹁下二はぬけぬけに逃るへし﹂。この指摘は、たとえば次のような事実 と符合している。  豊後日出城・王木下主計頭の﹁御国抱え足軽﹂二十八人が・王家を退散し、細川家へ雇用を申し出た、というので ある。ペリー来航に際し国元から呼寄せられたかれらが手当を要求したところ、藩当局は、すでに﹁異船退帆﹂ のため次の米船渡来の折に支払うといい、今回のペリー再航の際改めて請求すると、手当は出せぬが刀一腰つつ 貸し与えるという。足軽たちが、借物では万一の折に働けぬから頂戴したいというと、拒否された。かくてかれ らは﹁御奉公難相勤﹂といって退散、細川家を頼った。細川家ではこれを了承し、木下家の了解のもとにこの件 を公儀へ届けると、﹁御主人を見放相出て候義、⋮⋮重き御仕置相成候規定﹂の旨を町奉行より告げられ、困惑 159 武士と開国(続}

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した細川家が足軽たちに相談すると、二十八人のうち二名は納得し帰藩に同意したが、残る二十六人は納得せず 一同切腹を申し出たという︵﹁嘉永安政文書抜葦﹂︶︵25︶。  ﹁武家困窮﹂の挙句、その社会に生じた寒々とした君臣関係の実態である。この逸話のうち、現在のわれわれ の文脈上関心が持たれるのは、重器の﹁規定﹂を示すだけの町奉行所の対応と、その﹁規定﹂を肯んじぬ足軽た ちの態度である。君臣間の倫理の破綻に法を以て介入するのが公儀封建体制の体質だが、この場合、法は執行さ れてもいないし遵奉されてもいない。まさか町奉行所が﹁彼等は鹸義なき道理あり﹂といったとも思えぬが、遠 藤の指摘する﹁扶持米なし路銀なしといは﹀、公儀二も強く下知し玉ふ事叶ふまし﹂という事態と、符節を合わ せたようによく似ている。  かれらとて一旦は﹁恥を思ひて止まるも﹂、﹁鹸義なき道理﹂の趣くまま、﹁公儀に向て敵する人ハなくとも、  ⋮是非なく下知二随ハず﹂。こういう手合が五十人百人なら法を以ての対処も出来ようが、﹁一国之者﹂すべて の逃散となったらどうするか。敢えて法に訴えれば、﹁国中一揆発り、乱に乱を重ぬへし﹂。﹁一旦は武命之重き﹂ 使命感から出兵する藩兵も、﹁道理﹂を前にしては腰が引け、﹁公儀﹂また強く下知すること能はず。かかる窮状 と混乱こそ﹁外夷﹂の乗ずるところ、否、﹁外夷﹂の侵入なくとも、流言輩語のみにより諸藩疲労困懲し各領国 は疲弊、一揆の続発と合わせて、諸国無法無秩序︵﹁我々持﹂︶の﹁戦国﹂的状況へと逆戻りするだろう、と遠藤 は言うのである。  ここまで辿ってみて明らかなように、驚くべきは、四代将軍家綱の寛文末期から五代綱吉初期の貞享期の社会 状況を対象としていた蕃山の論が、一世紀半以上後のペリー来航時状況にほぼそのまま妥当してしまうというこ とである。遠藤が蕃山の論に想到し、全文引用の挙に出たのも、肯けよう。蕃山が公儀宛上申を意図して、時務 160

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