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女医史 : 〔上古より第十九世紀初期に至る〕

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課編者のごとば

アメ・リカ留學中Dr・K. C・Hurd−Meadの“AH:istory of Women in Medicine, 1938”が出版されたことを耳ew York TimesのSunday EditionめBook Reviewで 知った。批評は大へんほめて書いてあった。そこで批の書を繕いた所,これまで出版さ れたV・つれの女讐史より優れて居る様に感じた。油送のものでは M・61anie Lipinska め佛語の女馨史が最良であるが,此の書はそれより’もすぐれて居る様に思へる。. 著者Dr. Meadは嘗て本校を参観し,余とは面識の弓柄でもあるので,本校教授 蟻部精一氏に委囑し;その三三を乞ふた。私もその諜の責に任すること勿論である。 此の繹丈が多少とも本邦女欝界の進展に寄與することが出來得れば,余の望外の幸 である。 吉 岡 博 人

女 讐 史

〔上古より第十九世紀初期に至る〕 K.C. Hurd−Mead M. D.著: 緒 言 Emersonの言葉に「歴史は完全なる記録にのみ生存す,而じて歴史中の人物は, その時代の雰園氣を呼吸せざる可からすuとあるカ㍉かxる叙蓮は声來馨術に關係せ る女盤の境遇には適合せらるべくも無かったのが愚憾である。 女警に關する記録は,古來頗る不完全なものであった。其の理由の一つは,古來の 記録に女警の名前が欲けて居るのは,筆耕者な)i itは印刷者の過失に因って,女性名 を男性名に誤記叉は誤植したことが稀れでは無かったのに録因すると思はれる。たと へば,名前の語尾のa(女性の記號である)をe又はus(いつれも男性の記號)に 一一第 10 巻278∼

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吉岡=女 讐 史 59 握き替へれば,忽ち欝肇史上に女欝が男讐であったことに成ってしまうからである。 第+}世紀の女讐Trotulaを或る不注意な鴇字生が誤;記したが爲めに, Osler氏が言 ったやうに「それが爲め彼女の就職を妨たげたばカSbか,女留の正膿までも奪って仕 舞つた」と言ふやうな二三も存するのである。Egyptの女王HatshepsetはObelisk や殿堂の彫刻には,男性としか考へられて居なV・のも其の一例である。 叙上の事實は,只記録に回しての誤りに過ぎないが,吾kは其れ以上の難關に直面 して居たのである。凡そ女子に回する事と君へば,とかく本來の研究資料を改憂した の叉は曲解したりする悪弊が古來存在して居た。併し長年の,カ>Nる弊風にも拘はら す;女讐に關する記録が斯ぐも現存して居るのを見れば,如何に女馨の事業が偉大な 、物であったかを立誰するに足るものと考へられる6 女讐の事業の偉大さを立誰する記録は多k存在するが,これは回米の大囲書館を長 年渉猿して初めて獲得されたものである。今日諮問馨として,矯風會員として,或は 雫和論者として杜會事業ゐ第一線に立つ婦人を見て,奇異の感を抱く人ありとすれ ば,これは大なる誤りと言ふべきである。古二女子が,fO・ xる方面に活動して, しか も外観を街ふが如き風が無かったことは,歴然として歴史に存して居る。但し三三は 職箏の記録のみ多く,男子が優勢の位置を占めて居るやうに見ゆるが,何も歴史家が 好んで女子を卑下したと言ふのでは無く,寧ろ女子の事業を錯賞する考へが乏しかつ 友と言ふに過ぎないのである。 女旧史を著はすと言ふ事は,元來大それた仕事なのである。個人の傳記を一つ著は すのでさへ大仕事である。吾が國の詩人Walt Whitmanの詩に 名ある傳記を緬とV・て,・ v・つも・【ンに思、β隊やう, これカミ傳言己と呼はりょうか, まことの事は現はれす。 たとへば,わしの死んだ後, わしの引子を書くとせぱ, わしさへも忘れた事柄を, 他人の知らう筈は無し。 と物された通り,凡そ歴史と言ふものは,其の時代々々の環境に讃者を案内するので .一第 10 巻279一

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60 吉ee ==女 讐 史 無ければ効果は薄いのである。而して其の時代々々g)環境たるや,幾百年も経過した 後に於ては,記録,物語り等,各種の断片を綜合して描爲されなければ成らぬ。これ :を行ふに當っても,女子ρ事業に關する事柄は,須らく女子の手に依って行はるべき であって,男子はその適切なる評慣鑑定を,女子に一歩譲らざるを得なV・と信ずるの である。 Garrison氏の 「讐碧玉」の如き袖珍本を著はす場合ζは,簡潔な語で総て記事を 正確にするを要するのであるが,軍に簡潔且つ正確のみでは未だ足らない。書中の人 物が躍如として居ることが必要なのである。例へば、.GarrisonがWil】iam Harveyを 評して「彼が一度,筆を執れば,恰かも不断に蓮動す為機械㊧やうである」と言ひ, 叉は「その高潮の域に際するや,彼は殆んど瞼一つをも動かさなv・Jと言ったやうな 筆法は共の人となり.を錨刑する上に於て,これ以上の明快さを望み得な.い底の物であ .る。 元四女子は平素多忙なるが孕めに,自己の事柄を獲表するひまが少なv・。寧ろその 事業が慣値ある物であれば有る程,.焚表の機會が少なV・のである。かのBoswellが: Johnson博士をかついで宣傳に努めたやうに,女子にもBoswell式の宣傳家が多数1 に在って欲しいのである。 Howard KeIly博士が其4)著「米國早耳僻典,i(1928年)刺⊂・讐師を同書に馬韓: する標準資格として,次の如き問ひを#$げて居る。 1.當贈呈は他人の:爲めに何を爲せしか。 2.彼は馨學及び馬術に如何に題号したりや。 3.彼は人を教へたる事ありゃ,何か著作したる事ありゃ,何か器械を護明したる 事ありゃ。 4.彼は何か祉會的に奉仕したる事ありゃ。 女讐の事業を画工する上に於て,上述の問ひ程,適切な問ひは無いと思ふ。古童女 蟹は,「各々其の一生の事業として,この大目的自口ち「一切に奉仕する」と言ふ仕事に 遮蔑し來つたのであ之。女警は皆他人の爲めに蓋し,同情心に厚く,且つ教育者でも あ砂,實験家でもあり,不屈の働らき者であったQ「Osler’記念書」中にC・ N・一 B‘ CamacがWilliam Oslerを評して「Osler程,その時代の人kから愛敬された讐者 はない。これは氏の馬匹墨黒にのみ因るに非ずして,氏の理想,主義,行爲の然らし むる塵であって,此の徳は氏の波後,永遠に存績して氏の弟子に再現されたものであ る」と述べた。而して,この儘の言葉が正に以て,古來の女讐の殆んど全部に適用さ 一第 10 餐き2SO一

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吉岡=女 {馨 史 6登

れて差支へないと言へるのである。

1890.年にJohns、 Hopkins H:ospitalの皮學無上で, . osler,’Welch, KelIyの三氏

が,・讐肇皮研究の丈化的鮮魚に就て熱心の鯨窮私に渤めて「讐學護聖典に於ける女 留の位置」と言ふ問題を研究しては如何ですとの事であった。漸う言ふ研究は未だに 着手した入は絶無でもあり,又この問題に關する報告資料が,讐樹皮に掲載された事

も頗る稀1”t 7kのであった。翌1891年Mary Putnam Jacobi博士力㍉米國女磐に關 する簡軍ながら鮮明なる記録を即けにされた事もあり,叉Mrs. Edna Dow Cheney

も「看護婦」に就て画筆された事もある。1900年にはParisのMelanie Lipinskaは 「一般女轡」に關する書を公けにした。1907年にはM.Adelaide Nuttingと Lavinia L. Dockの合著として立派な「看護史.!が溶けにされ,又1922年には Louisa“fartindaleが紅潮な「女讐皮」を磯表した。、同書の雀宋には大戦中・の英國の 女馨,女外科讐,及び放射線學者,病理學者等をも網羅してある。ヒ よ それ以來,著名な女馨に製する,或は女欝の執筆した專問論文や自叙傳や報告等が 次汝と焚表された。併し其の多くは一般公衆には入手し難V・形式のもの計りである。 1890年から1925年までと言ふものは,診療と,讐業に關黙しての耳蝉事業とに忙 殺されて,僅かに著作の材料を蒐集する飴暇が存するのみであった。1925年に漸く 診療を止めて,それからニケ年闇は英町早書館に腰を落付けて調査に波頭し,Greek, Latin及び他の外國語の原書を渉猟し且つ多くの絶版書を漁って,女騨こ關する記事 を調査した。この資料に加ふるに次の物を以てした。 (1)餅米の多くの郊野館で見た古文書・(2)Frk洲, Zジ」曳並vaアフリカへの研究移 行,(3).多数の著名な女讐との置潮なる通信書等がそれである。 此の書は私の著作の第一巷であって,望むらくは引績き其の第二巻を公けにして, 豫定の完壁を期し度V・のである。第一雀は上古よ)1 ilt’9十九世紀の初期に亘り,第二雀 は現代に及ぼし度V・考へである。 私が多年苦心した此の著作に写して,同業者並びに他業者の男女多藪の方々から御 援助を賜はつたことを厚く感謝申上げる次第です。援助して下さった老鶯の御名前を 一三列陣するのも飴り煩雑ですから,これは省かせて戴きまして,特に下記の方・々だ けに改めて御事を申上げることN致します。「馨學皮年表」肚のPaul:B・耳oeber氏・ Medical Life就のVictor Robinson氏, Isis就のGeorge Sarton氏(同紙に襲表さ れた論丈の一部を韓載する承諾を得たので),Pennsylvania女讐專校のProceedings 誌の編輯者諸君,Library of British Museumの當局者,種:々便宜を與へられた多敷 一第 10 巻281一

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・62 省岡;:女 讐 四蜘

の圖書館當局,私の夫William E・Mead敏授,米國女讐の親友たるHoward Kelly 榑:士,種凌の黙に於て指導を賜はのたる〉’frs. Mary R. B’e’ardl特に當書禺版に關し て諸般ゐ注意を賜はりたるFree面nt Rider博士,批評的敏示を賜はりたるAdolph 蕊ulf博士,索引製作に助力されたMiss Fl・rence Huxley.

〔1937年7月1日、Co卿eticut州Haddam tcて Kate Can1坤ell:H“rd一耳ea“記す〕 目

;第」章 第一節 第二節 、第1三、節 ;第四節

第E「節

第六節

第七節

第八節

第兆節

上古の女心

原始馨構に於ける女讐 Egyptの女讐 琴・b・eW・と其の女鰐 GrcelS戯話時代の背景・ GreeCeの讐學傳1説 GreeCeの女義’ Romeの女直 紀元第一世祀頃 紀元第二世紀頃 ;第:=章 第一一節 第二節 第三節 第四節 第;五節 第六節 申世紀初期の女轡 紀元第一,二世紀の讐術 紀元第三,四世紀の讐術 第五世紀 第六世紀の讐術 第七第八第九世1紀 第十第十一世紀 第三章 第一節 第二、節 第三節 第四節

第匠節

第六節

第七節

Salerno學瀕i:Trotu】a Salerno市と其の初期史 Salerno市と其の教育法 Salerno市と其の教師及び丈士 Trotulaと其の著作 Trotulaの刊行物 Trotulaの三業詳録 R噌m・nA・nit・tis S・t・rnit・nUmの詩歌資料 一一第110 巻282一一

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吉ca =[女 讐 史 63 第四章

第一節

第=:節 第三節

第四節

第E節

第六節

第七節

第八節

第九節

第十節

第十二世紀の女欝 第十二世紀の生活歌態 讐學教育と讐術に關する法律 第十二世紀に於ける女子の家庭生活 十字軍と病院 第十二世紀に於ける猫太及び7:ラビヤの女馨 信院生活と第十こ世紀の貴族女讐 著=名なる尼院長と皇院 Saint Hildegard of Bingen 第十二堆紀の光明面 第十二世紀と男警 第五章 第一節

第二節

第i≡…節 第四節 第五節 第六節 第七節 第八節 第九節 第十節

第十三世紀

第十三世紀の証會生活 第十三世紀に於ける讐學教育 第十三世紀の佛蘭西女讐 第十三世紀と鰍洲の安静 第十三世紀の物語y及び詩歌に現はれたる女讐. 第十三世紀の病院と看護嬬 第十三世紀の男讐 第十三世紀の治療法 第十三世紀の外科術 第十三世紀とその結論 第六章 第一節 第.二節

第三節

第四節

第置節

第六節

第七節

第八節

第九節

第十四世紀

第十四世紀と職雫及び傳染病 毒十四世紀の家庭生活 Chaucer,:Boccaccio,其他の丈士と讐學 第十四世紀に於ける馨學雰園氣 第十四世紀に於ける英國の女讐 第十四世紀に於ける佛蘭西の女讐 第+四世紀に於ける英佛以外の掌馨 第十四世紀に於ける産婆 第十四世紀の男讐 ・第七章 第一節 第二節 第三節 第十五世紀の女盛 丈化上の背景 第十五世紀の疫病 第十五世紀の教育 一・一一?10 名き2S3一一

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唱4 吉岡昌女 醤 ・史

第四節

第E節

第六節

第七節

第八幽

幽九節

第十節

義十一節 .第八葦 第一節 第二節 第三節 第四節 第五節 第六節 第七節 第八節 第九節 第十面 識十五世紀に於ける物語申の女馨 第十五世紀の著名なる:女醤 産婆及び其の敏科書 論特技一Pediatrics 女讐の病院 高貴の婦人と讐謡 曲十五世紀の外科弓術 Med,cal lncunabula

第十六世紀

3第九章 第一節 第二節 第三節 第四節 第五節 】第六節 第七節 第八節 第魚島 第十節 第十一節 嘗世紀の特徴一鞭藝復興と宗教改革 第十六世紀に:於ける衛生 Elizaもeth時i代の英醜女{馨 第十六世紀に於ける英國以外の歓捉 第十六世紀の修道院 第十六世紀の産婆 第十六世紀の瞬温 温十六世紀の讐砒 素十六世紀のMateria Medica ■t第十六世紀の結論 第十七世紀の女署 第十七世紀の概観 英國に於ける女子産科讐 磨師としての英國婦人 アメリカ殖民地に於ける女讐と産婆 第+七世紀に於ける佛蘭西の女讐 第+七四弓に於ける猫逸の女讐 第十七世紀に於ける英働蜀以外の女讐 第十七倣紀の男讐 第十七世紀の外科署 第十七世紀の:Pharmacopoeia. 結 論 第十章 第十八世紀の女瀦 1第一節 第・昌節 「第三節 第.

l節

第十八世紀の3il化 第十八世紀に於ける産婆術と署術 天然痘と他の疫病 第十八世紀に於ける英國女馨 一第10巻284一一

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吉附講女 讐 史 65

第五節

第六節

第七節

第八節

第九節

.第十節 藪i好者とヲβ三者 米墨初期の女馨 第十八世紀に於ける佛蘭西の一法 第十八世紀k於ける獅逸の女讐 第十八世紀に於ける月一猫以外の女欝 第十八世紀と署術の概況

第一章上古の女讐

第一節 原始書術に於ける女鶴 V・やしくも知識階級の入であったならば,EveがAdamの肋骨一本から作られた 芝言ふやうな四馬は,とっくの昔に信じなく成ってしまっては居るが,併しEveが .(女性が)Adamから(男性から、引立して,女性 こ相満せる何か早筆的の役割を演 じたいと決心して以來,今Bまで飴り長年月は経過して居ないのである。Eveが作ら れた時に,未來の人間出生の元素と成るため,二億個の卵子を備へて居たと言ふが如 選俗信仰は,多くの宗教的濁断詮と共に,今日では全然放棄されてしまった。併し:男 女には或る原形質的細胞の相異があって,その細胞の無限の増殖や分化の結果とし て,男女の能力の上に非常なる相異を起すものであると言ふ事は,相判翼面目に信ぜ ちれて居る。人類の原始時代から手工がおほいに重要硯されて,就中女子は家庭に在 って手細工にいそしみ,そして自分の家入や隣人の爲めに奉仕をした。叉同情心や利 他心の嚢展と共に宗教的本能が芽生えて來て,天地間に善璽や悪塞が存在するやうに .考へ出して來た。この境涯から一歩進むと,悪神を和らげ善神に訴ると言ふ仕事を司 どる曾侶僑尼の職業が出現するのである。男子は山野に出でx食を求め,女子は家に .在って老幼の世話を爲し,衣服食物の調理にいそしんだ。人類進化論は現在,原始的 生活を螢んで居る螢族から演繹されて居る。これ等の螢族は吾等の組先が昔演じたと 同じことを現在行なって居るのである。彼等は石器時代の食人種と同じ生活をなし, 庶物を崇死し,悪魔を信じ,野獣の心臓を食ふ如く敵の心臓を食ぴ,敵の鮮血を以て 己れの全身を塗り,おまじないとして戸口に鮮血を振りそNぎなどして居る。女子の 役目は藥草を採り,治療に從蔑し,患者の傷口からItiL e吸ひ取り,紳に所願する爲め 呪文を高唱する等であった。此の際に男子が讐療に携はるとすれば,悪塞祓ひに女子 よりも馬鹿氣た大聲を獲するとか,叉は女子より腕力が張V・ので役立つ位の所が關の 仙であったのである。 一第 10 巻285一

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66 吉岡=:女 讐 史 庶物堅肥や動物崇拝から離れて,人間性を帯びたる祠按を崇拝するに:至るまでには 幾千年の歳月を要したが,母なる者が其の幼見の搾めに讐藥を工夫する.に至ったの は・短かV・年月で足ったに相違なV・と思はれる。この時代の女子犀取っては・「死」が 最も不思議な物であると考へられた。.想魔や雷電,堆震,洪水の如き自然現象は,こ れに次V・で不思議なものであった。言語や絡文字が獲展するに及んで,これ等を以て 耐々を象徴するに至り,終には獣類叉は君主の偶像を建立して,之を帥として崇拝す るに至った。人琴弾會に男女の別が存する如くi天にも男女の紳が存すると老へるの は自然である所から,當然女子が治療法の紳として奪崇されるやうに成って來た。神 浸の御利釜に報ゆる憎めに,花や供物を捧げるに至った。幡祭(国者註,恥辱書にお ける焼いて供物を捧げること)を行へばその供物の香ひが天上の神を喜こばせ,その 投げられた淡が予示申を喜こばせるものと考へられた。初めは象や獅子や牛の形をし居 た祠{kが,段凌と入子の形を取るに至った。想像力が進歩するに從って,耐先の幻影 を見たり,木の葉の音や,波の音や,‘暴風の響きの申にも示纏見たり,紳の聲を聞く と思ふやうに成った。女子が其の傷つける夫や,病める友を看護して居る時に,此等 の戦々.を禮拝するに至るのは當然の事であった。 原始時代の野人の無智迷信を笑ひながらも,現代人である吾々でさへ,今日爾.ぼ地 震や日蝕や洪水の如き自然現象に厚して,迷信に近い恐怖を抱いて居るでは無V・か。・ 知識階級に属すると言はれる人々で,夢判断を乞ひに透視者なる者を訪ふ者が多敷に 在るではなV・か。判者で讐術と宗敏とを分離し・全然其の患者をして讐藥にのみ依ら しむる入が耀して聴入居るか。故に天主教が布教されてる南海諸島では!十字架が土 人の問に,「母」として禮拝されて居るのも不思議では無V・のである。序でに言ふべき 事は,こ.の群島では,.讐者と言へば皆女留のみである。 原始的蟹族の讐術なるものは,何腱の地方でも皆殆んど墜摯が無V・と言はれて居 る。上古のAztecs入, America Indians,太亭洋諸島の住民, Zフリカの密林の土人 等は下女瞥を使用して居る。これ等は皆,燭診,熱い飲物,湯,乃至は其他の方法を:用 ひて悪簸を祓ふのである。彼等の生活駄態は石器時代叉は青銅時代に於けるGreege, Sumer量al Egyptの欺態にぴとしV・,ものである三頭痛の場合には・燧石の繋や捧の錐 を使用して,頭蓋骨に孔を開け,そこから悪嬢を引張り卜すと言ふのである。熱石を 當てx出血を止め,石の小刀を用ひて膿腫を切開する。Pompeii其他世界到る庭の古 墳中に見出される外科機械は,V・つれも其の形が大艦同形である。青銅製の「ピンセ ット .]・や探針,石製の「メス」,骨製の針,動物縫合,青銅製振張器,鉗子等はMoses 一第 10 巷286−t一

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』吉岡二女 醤 史 67 の妻がEgアptで使用し, Homer時代の女子がGr?eceで使用した讐具であって,こ ’れ等の女子は産婆であり且つ一般的治療者であると同時に又外科留でもあったのであ .る。今日のEgyPtやGreeceの奥地に佐する人々の中には農業や書術の方面に於て・ その熊虫と殆んど憂らなV・方法を用ひて居る人々が多く見受けられるのである。讐術 ・:に關する傅統なども,彼等が職争時代に行なったのと金く同じ方法で,母より娘へと 傳へられて居るのを見るのである。

Mary Mckibbin Harperの傭:ふる麗に依れば,今日Co;lifornia Endiansの多くは 昔の呪法や聲療舞踏を行って居るとのことである。女紅が患者を林中の寂しV・場所へ 連れて行き,ぴと汗かく程其の髄を動がさせ,省女讐も傍から手動って患者を曲打す ・る。それから女面が患者の口から病魔を販ひ取って,これ津籠に入れて家へ持って彫 るのである。彼等の理論に從へば,凡ての病氣は色でも見へるし,長さでも解るのだ ”.)一言ふ。ISchoolcraftの傳ふる庭に依れば, America Indiansの女子が將に分娩塗ん

とするや,産婦は猫りで池の邊りとか又はEsquim4uの女子のやうに俄か作りの小舎 ..狽ン?驍ニか叉はvirgilの母のやうに路鯵の溝g)中へ入って安産をする。若し出産が .長引く場合には,近所のおかみさんの手助けを借りてお産をする。此際,産婦は二千 一年以上も昔にGreeceのHipPocratesが教へたよりも心配は少なくお産を濟ますの である。 年々人口が減少.して行く土着民の闇には,原始人類が持って居たと同じ宗i致的信仰 =が存在するのを見る。.女子は今もf縞一般治療者であり,産科馨であり,接骨者であ り,藥草採りである。有皮時代に下って,知識の進むに從ひ,亡者としての女子が, ・v・つの聞にか男子に從属するやうに知り,其の高き位置から下落するに至ったのは, ・何故であるか。これは.甚だ難問題に属するが,とにかく古遅引綾いて,女子が讐療の 重役を踏襲して,依然馨療に前事し來たことは事實である。女讐の隆替は杜會経濟と 大なる關係があったので,経濟的困難の場合には,女署の位置も同時に降下したもの 、と思はれる。 ’文化が進むと共に一時女馨の位置が降下したが,さりとていはゆるSeven Liberal ハrts(算法,論理,必需辛,算術,幾何,音樂,天文)の七藝に通じた學僧たりとも, ,臨床上の知能に至っては,とても女欝の能力に及革べくも無かった。櫓侶が御布施を 貰ひつ玉経丈を富む場合に,曾比と女欝は無報酬で按摩をしたり,産婆の役をした り・癩患者の膿を洗った}) .・刺謄したり,吸角子放血法,接骨をしたり,胃腸病の藥 草を採集した♪して居たのである。 ←一第10巻287._

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一68 吉岡::女 讐 史 「苦しい時の紳頼み」と言ふのは,世界通有の語であるが,その紳ば,多くは女紳 であって,蛇や,牝牛や,牝獅子の型で表現されて居る。聖母Mariaも,その一一一・例 である。Aztecs.民族の讐榊は蛇口で,1それが蛇の一切で以て塗られた。その祭典には, 熱心な信者は生きた蛇を鞍馬も春んだ。祭典に修行される舞踏には,蛇の姿を象どつ」 たものが主であった。America Indfansの中にも,又Moses時代のHebτew人の中 にも蛇が常に留祠1と房口叩されて居ることは面白v・事柄である。Aopollo紳の杖も・近代: の讐墨の徽章も「雀き蛇」であるし,Greece時代の男讐剃{Aesculapius・も,耳翼沖 Hvgeiaも,「…毬き蛇一]の杖を持って居ない事は決して無V・事である。 蛇が挙挙として崇拝される地方にても,土人等は蛇以外の女紳に祭壇を築いて之を 崇拝して居た。例へば上古のCelts人の中には「みのりの淋」叉は固健康の愁」など 言ふ多くの女舞が崇拝された。法律や宗教の難問題は之を學者に委ねたが,轡療の事 に關しては一切を櫓脚に委ねた。温泉の祠1,i藥草恐妻は智恵の輸に於て男女ども同一 なゆとされた。男紳S{ro∼}a女紳Sulが主なる欝榊であったが,:Brigit(輝やげる者 の義)と言ふ紳は,Egyptの女獅子頭の女憩の如くに,火の紳叉は「みのりの紳」と して特に奪信された。との珊々の祭壇には不断の火が燃やされた01reland・W『ales,及. び昔のGau1人の口碑は多くは,この上古のCelt人の想像並にDruids教にi基づい・ て居るのである。Ireland女王の一入たる金髪のMarchaなる者は,この宗教の尼で あった。Marchaは紀元前六百年に病院を建設し,そして共の病院が其の後六百年も 使用されたと言はれて居る。St. Pa老rickの筆.に成ると卸せられてるIrish語め唯一の・ 古交書は讃美歌であって,彼が棘に所って,此等のDruids教の尼信の魔法から逃れ んことを求めたのである。 有史時代に於て讐學教育は何時頃初められたかに就ては偉者の見解が頗る匿汝であ・ る。讐療及び診断としての科學的研究が初めて實施されたのは,多分四千年以前, Greece多島海のMinoan文明の頃と從來は考へられて居たが,今日ではr暦潮って Sumeria時代に及ぼされて居る。此の時代は少なくとも六千年以前であるが,女馨等 の病理學が商人の仲介を経て,當時のPhoenicia入やEgypt人やGreece人に傳へ られたものとされて居る。一詮には紀元前千五百年にEgyptのHer{OPolis市なるtt 讐學校で,女讐學生が居ったと言はれてるる。 一:方又理る學者の詮に依れば,印度が讐肇の軽業であって,GreeceのHipPocrates・ も此塵で研究を爲し,腹壁切開や帝王切開や穿弓術等を含めた外科術を學び,省種痘 1法をも璽んで麟つたと言はれて居る。Ne・ burgerの言葉に依れば「’印度人は食餌療法、 一第 10:餐き288 一一一一■

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吉岡r奪 讐 N {]9 や温泉療法や運動の等値等を知って居ると同時に七百種の四品の用法を知って居る。’ Benares市が避道の申心地であって,讐師は馬入の守護者であるばかりではなく,‘潜 侶の仕事をして居た。紀元第三世紀中,印度がAsoka王の配下に属するや,疸ちに 佛敏を採用して,力を祉會事業に投じた。貧民院や施藥施療院が随所に設立され,多 くの青年男女を集めて・これに難平に關する敏育が授サられた。Asoka王は勅令を後 して大帝國の到る虞に病院を立てるやうに命じた。その勅令は今で・もGujeratの岩石 に彫刻されて存在して居る。その病院は其の後千年間も存績したが,その逡跡は今日 も爾ほCeylQn島に見畠されるのである。例へばAnaradhapuraに片時の病院の遺跡 が現存して居る。その設計に討ては,PeloponnesusのEpidaurusに在るAescuIapius 就殿,或はTivoliのHadrian’s villaに在る上記枇殿と同じ讐瀞の就殿の設計と頗 る類似して居る瓢が面白V・。Alexander大王がGreeceの石膏藝循を印度に紹介する と同時に又,佛教徒から中華に關する知識を借用したと言ふことも,有り得べき事柄 である。何となればAlexander王も亦その母なる人も,讐術に零しては大いに興味 を持って居た人である事を吾kが知って居るからである。 もっと束へ進んでSiam及び支那の馨術は如何とV・ふに,いつれも印度の波羅門敏 徒から留置を傳へたものであるG政府で女監を病院へ雇ひ入れて無料で病人を診察さ せた。それゆへ女讐は到る塵で,男子同様に待遇されたものである。Burdett等の傅 ふる虞に依れば,紀元前千年頃に,支那人は其の當時の世界の何れの県民よりも丈化 が進歩して居たものと言はれる。女轡は産婆叉は野草採りであるのみならす,又外科 留でもあり,銀鮒道の研究家でもあったρ男馨と同じく女馨も,治療法に於ては全く 傳統に縛られては居たが,それでも豚の解剖ばかりではなく,人罷解剖にも巧みであ ったげされど後年に至って,支那の女留は現代のIlindu人やArab人叉はTurk人 と同じく,不精にも留道を放棄して邪道に入り,音を立て玉悪魔を祓ふとか,鍼灸術 を頼みにするとか,叉は嘔吐を催す藥品を使用する等の事に波頭して,昔の種痘法と か,立派な外科術とか,結構な藥草とかを忘れてしまふに至った。第十九世紀に,キ リスト敏の宣教師が廃業する迄と言ふものは豪支那の女子は昔の傳統に縛られて居る ’のみならす,何等就三等の知識事業にその頭も手も使用する慣値も無v・家庭め附属物 としか考へられなかった。紀元前五,六世紀に當る孔子や老子の立派な時代と現今と .の中尉の時代は,一つの長V・荒凍たる時代であって,徒らに組先の露を崇拝し,道教 の紳秘読や宿命論にとらわれて,殆んど無限に・三間の復活を阻止してしまって居 た。今より凡そ二千五,・六百年前に佛教が支那に湾入さるxや,その慈悲成佛のi教理 一第 10 巷289開一_

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7e’ 吉岡=:女 馨 史 に依って,幾分か支那人を改善せ’しめたけれども,省黄帝の教へた解剖墨や,生理學 の聖書に注意を佛ふ者は殆んど皆無セあった。女子も讐學に於て男子の駿尾に附して 産科術に於てさへ失敗を重ねた。 第十九世紀に至るまでは,Siam及びH本に於ける歌況も,支那と同様のものk・あ った。其の内,Siamにては近世営門育法が日本よりも早く採用されて,準歩を示し た0(鐸者註,著者は日本とSiamとを取り違へて居るらしい。)併し極東の,奥地に入 れば,奮來の岡引が未だ抜けきらすして,癩病を治すと言って生血を呑むとか,肺病を 治すと言って生血に浸した「パン」を食べる。「マラリヤ」が狼獄を極めて居る三々で は,蚊の根絶叉は洋讐が輸入した「キ=一ネ1の効力より.も,研蒔や刺針の方が優っ て居ると信じ切って居るのである。 上古のPersia人の中には,門門讐,小刀讐,言語讐の三種の.二者があった。此の 分類法は今日使用しても至極便利な分類法である。紀元前八百年頃の三者の中に,有 名なる女王Semiramisが居た。この女王は名君であった故に, Assyria人からも「室 内にては鳩の如く,職場に在っては鷲の如し」と干せられた。女王の臣下は男女と も・共學の肇校にて教’育を授けられ・其中の或る者はEgyptに派遣され・Sais市又 はHeliopolis市にて留學を研究させられた。 Persia人は火,土,太陽,水を崇拝し た。清流や池や泉の近くに守殿を建てた。その十三棘の中で五柱までが女子であっ た。Ormuzdは讐紳であって,開聞として知る債値あるすべての事を,その弟子等に 、教へた。H:erodotus及びHipPocratesの説く虚に依れば,?ersia人は大運動家であ り,香水と温泉を好み,そして食物には節制家であったと言はれるσその主なる神は 女神ImmortaH∫yである。この女紳もOrmuzdと同じく,その弟子に讐學を教へた。 この女紳は五種の治療法を教へた。即ち (1)言語,(2)外科術,(3)植物,(4)k}文,(5)正 嚢の査治療法である。この紳は他師申々と同じく ,,木tCも水にも火にも石reも月にも 星にも沸きて居る。風紳Adisinaは病氣を吹き佛ひ去り・Agastya神は多くの病を治 する。水増の中には生殖機官を初め,安産を授け,乳兇に筑を與へることを司どる女 神も居る。野牛る女紳は多くの晃を授ける。この女紳蓬は入聞の型を取って居るもの である。 Darius王が,その脆評した躁を治療した男讐に,謝禮として,大椀一杯の金貨を與 へたと傳へられて居るが,その時代の女讐も,力砥る莫大な報酬を貰へたものである かどうか不明ではあるが,多分Atossa女王の膿胸を刺絡した女書は,定めしDarius 王に劣らざる謝禮を以て報ひられた事と信ぜられる。叉同女王の分娩に侍し,或は當 一第 10 巻290一

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吉岡=女 讐 史 71 時流行した萎角症から起る流産を防止した功に依って,多大の謝禮を貰ったことも有 ったと考へられる。Persia敏のZenda vesta経中に今より二千四,五百年前,萎角症 の大流行病があって,女子は「有毒ガスの爲めに盛んに流産し,産婦はその學句,薩 褥に死亡した」と記されてある。 一 第 10 巻291 一

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