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熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ

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熟達心理学の構想 : 生の体験から行為の理論へ

著者 野村 幸正

発行年 2009‑12‑16

URL http://hdl.handle.net/10112/00020074

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109  

  6章 仏像彫刻

Ⅰ  仏像彫刻の工程

1  部分から全体へ

  仏像を彫るためには︑まず仏像の図面を引かなければならない︒また︑優れた仏師が彫る手順

を観察することも必要である︒しかし誰もが観察しうる訳ではない︒現実には︑その機会は実践

共同体に参入したもののみに限られている︒それだけでなく︑観察という言葉がいかに客観性を

強調したものであっても︑経験のない者は﹁見れども見えず﹂である︒実際には︑仏師によって

引かれた図面に基づいて部分を彫り︑それらを寄せ集めて全体を作り上げてゆく︒初心者はただ

その道筋を辿るだけである︒

  まず︑仏像彫刻の工程は大別すれば︑木取り︑粗彫り︑そして仕上げ︑さらには彩色の段階を

経るが︑各段階もまたいくつかの工程に分化する︒たとえば木取りに関しては︑図面を作成し︑

木の特性を吟味し︑節あるいは木目を考慮に入れながら座標軸を設定し︑さまざまな道具を駆使

し︑木取りを進めてゆく︒その後に続く粗彫り︑仕上げにしても同様である︒

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110  これら一連の行為を時間軸上で体系化したものが︑彫刻のスクリプトであり︑いわゆるマニュ

アルがこれに相当する︒代々仏師の家系で伝えられてきた秘伝を︑仏像彫刻のマニュアルとして

明らかにしたのが︑たとえば慶派の流れをくむ仏師松久朋琳著﹃仏像彫刻のすすめ﹄︵一九七三︶

であり︑さらにはその子宗琳との共著﹃続・仏像彫刻のすすめ﹄︵一九七五︶等である︒いずれも

彫刻の道筋を写真で説明したものであり︑またその彫り方を分かりやすく解説している︒器用な

人なら︑たとえ素人であっても︑これに基づいて曲がりなりにも仏の形を彫り出すこともできる

はずである︒

  マニュアルは︑一般には誰にでも利用可能であると考えられているが︑実際には経験者にとっ

ては利用可能であっても︑初心者には利用できないことが多い︒このような限界は︑ひとえにマ

ニュアルの作成のされ方にある︒マニュアルを作成するために︑その道の熟達者が自らの行為の

手順を取り出し︑それを言語に置き換えるが︑手続きに内在する暗黙知の部分は言語に置き換え

ることができない︒したがって︑それはマニュアルに組み入れられないままに残る︒また︑マニ

ュアルが普遍性をもつためには︑誰にでも共通する視点や分節の単位が求められる︒しかし︑出

来事を観察する際の視点︑さらには分節の単位が熟達者と初心者とでは異なる︒たとえば初心者

は︑細分化したレベルで行為のスクリプトを記述すれば︑それに基づいて行為をより正確に︑か

つ確実に再構成しうると安易に考えている︒しかし細分化すればするほど︑それだけ全体が見え

なくなり︑結果としてそのスクリプトに基づいて行為を再構成できなくなる︒また︑たとえ再構

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111  第 6 章 仏像彫刻

成したとしても︑その過程でわざとして獲得され︑伝承される部分は確実に少なくなる︒実際に

は︑熟達化の程度にふさわしいスクリプトの単位がそれぞれにあるはずである︒その単位を見極

めることこそが上達の秘訣であり︑熟達者になるためには必要不可欠なことである︒

  ところで︑マニュアルの限界はつねに指摘されているが︑それを完全に無用とする師匠はまず

いないように思われる︒用い方次第ではそれなりの効用を期待できるからである︒以下は部分か

ら全体へという視点から捉えた仏像彫刻の工程である︒

⑴ 道具の組み込み

  行為には何らかの道具がつねに組み込まれているが︑その組み込みのあり方は絶えず変化する︒

一般には︑道具と人との関係は組み込みが進行するなかで自動化し︑やがて透明になる︒透明に

なると︑その使用の際に意識の関与が少なくなる︒その最たるものが解放された行為である︒意

識がまったくなくなる訳ではなく︑必要なら道具の使用の過程を反省し︑ある程度まで明示化す

ることもできる︒だからこそ︑新しい事態に遭遇した際にも︑道具との新たな関係をそのつど構

築してゆけるのである︒

  木彫の道具は数十種にもおよぶ鑿︑刀が主たるものであるが︑それらが手に馴染み︑身体の一

部になり︑透明になるには相当の時間がかかる︒刀への習熟過程そのものが熟達化の過程と重な

るが︑その習熟には彫るという行為をつねに必要とする︒しかも︑その行為は仏の形を生み出す

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ためのものであって︑単に刀を使えばそれでよいというものではない︒刀の握り方や刀の運び方

等については他者に教わることもあるが︑多くの場合は実際に使っているうちに自然と身体が覚

えてゆく︒そのなかで︑力の入れ加減︑刀を進める方向︑刀を入れる角度等が︑その対象である

仏像の形との関係で立ち現れてくる︒そのあたりのことは身体知としてあり︑それをいちいち記

述することはできない︒刀の用い方は︑刀の種類や大きさによっても当然違ったものになるが︑

本質的なところでは大した違いはない︒いずれの場合も︑眼と手の協応関係の形成によるもので

ある︒自らの経験からしても︑ある刀に習熟すれば︑おのずと他の刀も使えるようになっている

ことが多い︒

  刀を自由自在に使うためには︑その刀の切れ味を絶えず維持しておかなければならない︒切れ

る刀であってはじめて身体になじむのである︒わざの習得のためには︑道具の使い方に習熟する

ことは当然としても︑この維持も極めて重要である︒維持の最たるものが研ぎであり︑この世界

では﹁研ぎ三年﹂といわれるほどである︒研ぎもまた熟達化の過程を辿る︒研ぎは刀の制作にお

いて重要な位置を占め︑研ぎを専門とするものがいるほどである︒

  仏師は自らの道具の研ぎを他者に依頼しても構わないが︑日々使用する道具を自分で維持管理

できないような仏師は︑大した仏師にはなれない︒それは必ずしも経済的な理由だけでなく︑研

ぎそれ自体が彫るという行為において重要な位置を占めるからである︒刀には木の特性に併せた

研ぎ方が求められる︒白檀︑楠等の用材では刀を若干鈍角気味に研がないと刃こぼれが激しく︑

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113  第 6 章 仏像彫刻

また檜等の上材では鋭角気味に鋭く研ぐことが求められる︒また︑おなじ用材であっても粗彫り

あるいは仕上げといった用途に併せた研ぎ方がある︒粗彫りでは鈍角に︑また仕上げでは鋭角に

研ぐことが求められる︒

  熟達化と道具の関係はこれにとどまらず︑すぐれた仏師は鍛冶職人と共同して新たな道具を製

作することもある︒面白いことに︑新たな道具の出現が新たな形の仏像を可能にする︒たとえば

一つの曲がり刀の開発が仏像の新たな曲線︑曲面を可能にする︒仏像に見られる優雅な曲線から

なる衣の襞は丸刀︑曲がり刀によるものである︒

⑵ 木取り

  図面は二次元上のものであり︑これに対して彫刻は三次元の世界である︒まず︑デザインであ

る︒実際には彫りたい仏像の写真あるいは模写を手がかりに図面を引くこともあれば︑創造的な

仏像に挑戦することもある︒必要なら粘土をひねり︑実物大あるいはそれを縮小して︑形をいっ

たん作り出すこともある︒

  長い伝統のなかで仏像を彫る手法が確立されており︑仏像の立体的な図面は尺貫法によるもの

であり︑曲尺︵かねじゃく︶が用いられている︒いまなお身丈六寸の仏像とか︑三尺の仏像と呼

ばれている︒前者なら額口から足元までが六寸であり︑その際の長さの単位が﹁一ツ﹂である︒

その﹁一ツ﹂は十分の一の六分である︒﹁一ツ﹂は仏像の大きさに関係なく︑いずれであっても基

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本的には額口から下唇の下線までである︒その他︑肩︑腰︑手の位置も︑また顔︑手︑足の大き

さも﹁一ツ﹂を単位としてそれぞれに決められている︒それらの単位は仏像の大きさによっても︑

時代によっても︑また仏師の力量によっても当然違ってくるが︑基本的な型としては上記の通り

である︒  もちろん︑メートル法に基づいて設計することも不可能ではないが︑いまなお尺貫法が用いら

れている背景には︑仏像が信仰の対象であり︑長く信仰されてきた古い仏像に重きを置くからで

あり︑またそれらに勝るものをなかなか彫れないという現実がある︒この意味からすれば︑仏像

彫刻は未だ模刻の域を出ていないのではないかと思われる︒

  これらを踏まえて︑次に一木造り︑あるいは寄木作りに応じて木取りをすることになる︒実際

には︑木目︑節等々を見極めながらの木取りであるが︑自然の素材であるだけに画一的な方法は

通用せず︑木を活かす方向で個別に対処してゆくほかはない︒その場合であっても︑基本的には

正面から輪郭を通り︑その線で切り取る︒続いて同様に側面から切り落とすことになる︒この木

取りの出来具合で後の作業効率が随分異なるが︑それにとどまらず作品の質をも決定する︒

⑶ 粗彫り︵形の出し方︶

  手順︵彫る順序︶は必ずしも明確に規定されている訳ではないが︑基本的な手順はある︒まず︑

顔あるいは頭から彫りはじめ︑腕あるいは足の形を含めた身体︑そして指を含む足あるいは手と

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115  第 6 章 仏像彫刻

なるが︑重要なことは︑つねに全体像の視点から彫る部分を捉えることである︒すでに述べたよ

うに︑彫りのあらゆる段階に一つの姿︑全体があり︑その姿全体にふさわしい部分がある︒しか

し︑あらゆる段階に全体の姿を見ることのできる人は少ない︒それができるのは︑長い修行を経

た優れた仏師のみである︒多くの初心者が全体像をつかむことは難しく︑仏像を曲がりなりにも

彫り上げるためには︑たとえ不充分であるとしてもマニュアルが必要なのである︒

⑷ 仕上げ

  粗彫りには粗彫り用の鑿があり︑仕上げには仕上げ用のそれがある︒サンドペーバーを用いな

い仏像彫刻の場合では︑最終まで仕上げ用の鑿︑刀で仕上げることになる︒なかでも︑微妙な雰

囲気や表情の出し方が要となる︒その際︑仏像ということもあって︑信仰の対象にふさわしいも

のであることが望まれる︒日本人には日本人好みの顔立ち︑雰囲気があり︑ある程度までは粗彫

りの段階で考慮されている︒また︑必要なら彩色と截金を入れることになるが︑截金を専門とす

る人もいることから︑実際には分業して一つの仏像を作り上げることが多いようである︒手に負

える大きさであれば︑なかにはすべてを独りで仕上げる仏師もいる︒いずれにしても仏像が信仰

の対象であることから︑仕上げの工程では技巧を超えた何かが求められる︒

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2  全体から部分へ

  仏像彫刻の工程を部分から全体へという視点から見てきたが︑部分の集合が直ちに全体を構成

する訳ではない︒しかし︑初心者が彫るとすれば︑部分から全体への道筋を辿る以外に手だてを

もたない︒その際︑図面やスクリプトが重要な役割を果たすことはいうまでもないが︑それは必

要条件であっても十分条件ではない︒それが十分条件となるためには︑一見矛盾するようである

が︑その図面やスクリプトを超えなければならないのである︒熟達化の階梯を上るにつれて︑仏

師は図面やスクリプトをより深く読み取れるようになり︑また必要に応じて図面を引くこともで

きるようになる︒

  さらに熟達すると︑誰か他者の視点で捉えられたスクリプトに基づいて彫るのではなく︑むし

ろ彫り進めるなかで︑自らが独自の手順を工夫してゆくようになる︒そこでの彫るという行為は︑

もはやある部分を彫っているのではなく︑まさしく全体を彫っている行為なのである︒たとえ部

分を彫っていても︑それが直ちに全体に直結しているのは︑全体との関連でその部分を彫ってい

るからである︒

  それだけでなく︑自らが工夫した手順を介して学びの場の全容が少しずつ紐解け︑これに伴っ

てその場が拡がり︑他の参加者との関係も質的に違ったものになってゆく︒熟達化とは決して個

体内に閉じ込められたわざを獲得することではない︒それは生きられる世界を拡大し︑その拡が

りのなかに自己を新たに見出すことで︑それ以前とは違った新たな存在になってゆくことである︒

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117  第 6 章 仏像彫刻

この繰り返しのなかで︑人びとは確実に熟達し︑世界の捉え方も確実に違ったものになる︒それ

は熟達化のなかで︑そのつど評価基準を自らのうちに生成するからである︒しかも︑それがたと

え個々人の評価基準であっても︑熟達者のそれであるがゆえに︑その基準は仏像彫刻のあらゆる

段階に共通して機能する︒以下は全体から部分へという視点から捉えた仏像彫刻の工程である︒

⑴ 全体で捉える

  工程のある段階で︑次に何処を彫るのか︑現時点で立ち現れている仏像の姿が次に彫るべき箇

所を示唆するのか︑それとも完成された仏像が彫るべき箇所を示唆するのか︑疑問は尽きない︒

一般には︑初心者は完成された像に依拠しながら︑一方熟達者はいま・ここの像に依拠しながら

彫ってゆくようである︒熟達者は︑それぞれの段階にふさわしいあるべき姿を見抜く眼をもち︑

彫るべきところをつねに全体との関連で決定してゆく︒換言すれば︑彫り進めてゆくあらゆる段

階で︑そのつど一つの姿があり︑さらにその姿を全体との関係で捉え続けてゆくのである︒その

ために︑熟達者はあえてその段階での全体の姿を壊し︑不均衡な状態を作り出し︵イナクトされ

た環境︶︑それに手を加えることでより完成度の高い姿を彫り出してゆくこともある︒仏像彫刻の

基本はこの繰り返しであり︑しかもその繰り返しには終わりがないのである︒

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⑵ 前向きに進める

  全体から部分への移行は前向きの作業であり︑部分から全体への移行である後向きの作業とは

別ものである︒初心者は完成された姿からいま・ここで彫るべきところを決定する︑つまり後向

きに作業を進める︒はじめに最終目標や︑そこに到達するまでに必要な下位目標について考え︑

次になすべきことをそれらとの関連でいちいち決めながら解決してゆく︒これが手段︱目的分析

︵meansends analysis ︶である︒機械はいかに速くとも︑基本的にはこの方法を採用している︒

ところが︑この後向きの作業では時間がかかるだけでなく︑記憶の負担も大きい︒だいいち︑い

ま・ここで彫るべきことと最終の完成された姿とのあいだには隔たりがあり︑そのため彫り進め

ている途上でそのつど姿が必要となる︒しかし︑初心者にはその姿が見えないことから︑当然彫

るべき箇所も分からないのである︒

  一方︑熟達者は前向きの作業を行う︒経験を積み重ねるなかで獲得した知識を活かして︑必要

な事象を選択し︑また未知の世界について構想を巡らしながら︑効率よく課題に対処してゆく︒

熟達者はかかわりを介して︑いま・ここでなすべきことをそのつど選択している︒その際︑何ら

かの目標および意図を想定しない訳ではないが︑既存の行為の構造に基づいて結果と原因の関係

を辿るようなものではない︒基本的には︑内部に原因を作り出しながら実行し︑結果として目標

に辿り着いているに過ぎない︒原因を内部に作り出す行為といっても︑ここでいう原因は因果関

係のそれではない︒その行為は︑カップリングを構成する知覚に対するいま一つの作動モードと

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119  第 6 章 仏像彫刻

考えてよい︒行為に伴って生じるそのつどの変化を取り入れながら︑ここでいう原因を作り出す

ことである︒そのカップリングには︑行為が目標に向かって進行しているという予感だけでなく︑

その評価が暗黙のうちに伴うものである︒

  具体的には︑熟達者はいま・ここの姿を全体として捉え︑その姿のなかで頭が大きいとか︑腕

が太いとか︑さまざまなことを見て取り︑これに基づいて次に彫るべき箇所を同定し︑彫り進め

てゆく︒いずれにしても︑経験によって見えてくる世界が違ってくることは事実であり︑その違

いに基づいた行為の生成のあり方がそれぞれにある︒

⑶ 評価について

  仏像が彫り上がると︑直ちにその欠点が見えてくる︒正直いって︑満足することは難しい︒こ

れが熟達化のつねであろうか︒では︑その不満はなぜ生じるのか︒評価は外的なものではなく︑

あくまでも内的なものに依拠してなされるからである︒また︑評価基準そのものがそれ自体とし

てあるのではなく︑彫るたびごとに評価基準が厳しいものになるからである︒そもそも彫刻のあ

らゆる段階で一つの姿があるとすると︑その不満は研ぎ︑木取り︑粗彫り︑仕上げのあらゆる段

階に見られ︑尽きることのないものである︒

  評価基準は課題の違いごとに︑また熟達化のそれぞれの各階梯で生成されてゆくが︑それぞれ

の評価基準は決して別々のものではない︒たとえば︑彫刻に不可欠な鑿や刀を研ぐという行為に

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関しても︑研ぎの評価基準は熟達化の階梯を上るにつれて厳しいものになる︒それだけでなく︑

その基準は道具の調整という意味を超えて︑何処をどのように彫るのかを考慮に入れた評価基準

でもある︒研ぐという行為それ自体が彫るという行為に関係づけられて評価され︑しかもそれに

ふさわしい評価基準が設けられてゆく︒としても︑この評価基準は不変のものではなく︑次の評

価基準に取って替わられる︒このことは悪定義問題とか拡散性課題に共通する宿命でもある︒

Ⅱ  彫ること

1  構想力

  仏像を彫る際︑それが模刻のレベルであっても︑また創造性が求められる制作であっても︑い

ずれにしても彫刻家が制作に入る時点で︑何らかの図面︑設計図だけでなく︑心の中に作品のイ

メージが必要である︒しかし︑それがありさえすれば︑ただちに彫り始められるというものでも

ない︒イメージは必要条件であっても十分条件ではない︒彫ることにおける十分条件とは︑イメ

ージそのものではなく︑そのつどイメージを作り上げる構想力である︒外部表象である図面であ

っても︑また内部表象であるイメージであっても︑それらはあくまでも完成したものであり︑い

ま・ここで彫り進めているそれぞれの時点にふさわしい姿やイメージではない︒もちろん︑彫り

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121  第 6 章 仏像彫刻

進めてゆくに応じてそのつど図面なり︑イメージを手にすることもできるが︑それらはしょせん

点に過ぎない︒点から線へ︑線から面を作り出すのが熟達した仏師の力量である︒その力量はひ

とえに仏師のもつ構想力によるものである︒

  そもそも制作とは︑身体を介して内なるイメージを外に表現することであり︑その表現のあり

方は技巧︑技術によって違ったものになる︒また︑素材の違いによって木彫仏︑石彫仏︑さらに

は鍛造仏︑鋳造仏等になる︒いずれにしても︑その深層には素材を超えて共通する型が存在する

はずである︒そして︑イメージ︑素材︑型を結びつけるのが仏師の力量であり︑具体的には構想

力である︒仏師は構想力によって暗黙知からなる手続き的知識を駆使し︑そのつど心の中に仏の

姿を見てゆくのである︒

  仏師からすれば︑木取り︑粗彫りといった区分は必ずしも必要なものでもなければ︑また特に

重要というものでもない︒そもそも内部観測からすれば︑その区別は必ずしも定かではない︒木

取りをするためには粗彫りの全体像を捉えていなければならない︒同様に︑粗彫りには仕上げの

全体像をつかんでいることが求められる︒しかし︑この全体像は外部表象として︑また内部表象

としていちいち特定できるようなものではない︒仏師は木取りから︑粗彫りへ︑さらには仕上げ

へという課題間でも︑またそれぞれの課題内であっても︑つねに全体像を念頭に置きながら彫り

進めてゆくが︑その全体像は必ずしも最終段階のそれではない︒木取りでは粗彫りを︑また粗彫

りでは仕上げを想定して彫っている︒そのため︑それが粗彫りであっても︑また仕上げであって

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も︑それぞれに完成像があり︑三分の出来には三分の完成像があり︑六分の出来には六分のそれ

がある︒  手際よく上達するためには︑簡単なものから複雑なものへと段階を辿ることが一般的である︒

師匠は弟子に対して比較的簡単な仏像から始めさせ︑形を自由に出せるようにさせた後で︑より

複雑な仏像に移行させるようである︒しかし︑必ずしも明確な順序がある訳でもなければ︑段階

的に踏むべき仏像が配列されている訳でもない︒ある程度まで力量が上がると︑弟子たちはある

一つの仏像を完成させると︑次はあえて別の種類のものを彫るようになる︒師匠もそれを推奨し

ている節がある︒

  自らの経験からしても︑仏像彫刻のわざを獲得してゆく際︑時間をかけると確実に彫れるよう

になるわざと︑時間をかけても簡単には彫れないわざの二つがあるようである︒前者のわざは︑

たとえば刀の使い方等に関するものである︒それは彫る技量に直接関係するため︑仏像彫刻では

重要なわざである︒しかし優れた仏師なら︑たとえ左手に刀を持ち替えても充分彫れることから︑

刀を使う技量が仏像の出来具合に占める割合は比較的少ないと考えるべきであろう︒もっと重要

な何かがあるはずである︒それが時間をかけても簡単には彫れない後者のわざである︒このわざ

を身につけないかぎり︑見た眼の複雑さと彫る難しさとの違いを見分けることは難しい︒多種多

様な仏像を彫り︑上達するにしたがって︑仏師はその難しさを峻別できるようになる︒

  仏師が時間をかけて獲得すべきはこの何かであり︑型と呼ばれているものである︒見た眼の複

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123  第 6 章 仏像彫刻

雑さと彫る難しさを峻別できるのは︑また左手であっても刀を使い切ることができるのは︑ひと

えに型を身につけているからである︒仏像彫刻における型とは︑たとえば身丈︑顔︑腰︑手︑足

等の全体のバランスである︒それは個々の仏像ごとにあるとしても︑実際には個別の仏像を超え

て他の仏像とも共通するところである︒型とは本来が普遍的なものである︒

  ところで︑すべての仏像が当初の目論み通りに彫れるとは限らない︒木造りの仏像では︑仏師

は木の特性を見極めながら彫り進める︒たとえば木目を活かしたり︑あるいは不都合な節を隠し

たりする︒その際︑変更が全体を損なわないようにするためには︑ある箇所を変更することによ

って︑それに伴って変更しなければならない部分を描き出さなければならない︒変更は最終的に

は全体に及ぶが︑その変更にふさわしい図面がある訳ではない︒それだけでなく︑独自の世界を

開拓するためには︑あえて図面から離れなければならないこともある︒現に︑力量ある仏師なら

図面を離れて独自性を発揮する︒それができるのは︑仏師が型を習得しているからである︒そも

そも図面はあってもないに等しいのである︒

  これに関して︑人工知能研究の枠組みであれば︑変更する際には︑それによって生じる箇所の

すべてをまえもって把握していなければならないが︑熟達者はそのようなことをしない︒ある部

分の変更に伴って生じる個所を︑そのつど修正しているに過ぎない︒彼︵女︶は局所的な視点か

ら修正の必要な個所を見出し︑それを順次修正してゆく︒修正すべき個所とそうでない個所を分

けて︑後者を無視するというものではない︒修正個所を修正することが︑結果として無視につな

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がるだけである︒熟達者にはそれ以外の選択肢がないという意味での無視でしかない︒彼︵女︶

は局所視野でありながら︑ただ彫るべき箇所を全体像との関連で捉えることができるのである︒

2  なぜ彫るのか

  実践共同体が学びの場として充分に機能し続けることは稀である︒歴史的に見ても︑その多く

がごく僅かの興隆と︑その後に続く長きに及ぶ衰退とを繰り返している︒衰退の時期には実践共

同体の力量も当然低下している︒低下すればするほど︑それだけそこでの学びは保証されなくな

る︒また一方では︑実践共同体が時間軸上で変遷してゆくことから︑そのつど求められる熟達化

のあり方も違ったものになる︒いずれにしても︑力量が低下している実践共同体が優れた熟達者

を輩出することは難しい︒しかし︑なかにはごく少数であるが︑長きにわたって力を発揮し続け

る実践共同体も存在する︒そのような実践共同体の基底にはしかるべき思想があり︑さらにはコ

スモロジーが脈々と流れているように思われる︒

  コスモロジーとは︑われわれを取り巻くものとして想定される事物全体についての言説であり︑

そのなかのわれわれの位置を指し示す言葉である︒人びとがその場を支配するコスモロジーを共

有しているかぎり︑そこで果たすべき役割︑学ぶべきわざ︑さらにはその意味は自明であり︑そ

れが新参者の学びを保証してゆく︒時代の変遷を超えて優れた熟達者が輩出されてゆくためには︑

基軸となるコスモロジーは不可欠なのである︒それだけでなく︑コスモロジーは実践共同体の所

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125  第 6 章 仏像彫刻

産である︑たとえば彫られた仏像にも埋め込まれている︒しかし外部の者にとっては︑学びを保

証することよりも実践共同体が生み出した所産が重要なのである︒

  ところで︑昨今の科学技術を駆使すれば︑コスモロジーとは無関係に大量の仏像を生産するこ

となどはいとも簡単である︒社会的要請は少ないであろうが︑かりに生産するとなると︑まず完

璧な仏像一体を選び︑それを厳密に計測する︒そして︑その数値をx︱y︱zの三次元上に設定

し︑コンピュータ制御の旋盤で彫ってゆくことになる︒必要なら数値を変えることで︑元の仏像

とは違った一体を彫り出すこともできる︒しかし︑それは何千年にもわたって脈々として伝えら

れてきた仏像︑仏師︑そして信仰を支配するコスモロジーとは無縁の所産でしかない︒

  では︑人びとはそのようにして彫られた仏像に魅了され︑信仰の対象とするのであろうか︒少

なくとも私は否である︒人びとは仏師が一体ずつ彫り上げたものを信仰の対象にする︒仏師の作

なら︑たとえ仏師がおなじものを何十体も彫ったとしても︑それらはどれ一つとしておなじもの

ではない︒一体一体がオリジナルなものであるからこそ︑人びとはそれにコスモロジーを︑さら

にはその価値を見出し︑信仰の対象にするのではないだろうか︒仏像を彫るということは︑要は

信仰というコスモロジーの現れなのである︒

  仏像は︑素材の特性を活かしながら︑また人びとの思いを受け止めながら︑仏師の内面の表出

として立ち現れたものである︒その表出は頭の中の表象が具現したものではなく︑鑿で彫る︑絵

筆で描くという行為が生み出したものである︒その行為にしても︑仏師は必ずしもそれぞれの段

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126

階で明確な表象や知識をもち︑それらに基づいて彫っている訳ではない︒仏師が素材に合わせて

仏像を彫り出すさまは︑運慶が木の中に埋まっている仏像を掘︵彫︶り出すエピソードに見事に

言い表されているように︑木には木仏が︑石には石仏がそれぞれ埋まっているのである︵第

4章

参照︶︒それが可能なのは︑単に彫る技量が優れているだけでなく︑彫るという行為がコスモロジ

ーに埋め込まれているからである︒その結晶がエローラの石窟寺院に見てとれる︵第

10章参照︶︒   時代の変遷のなかで仏像の需要は減少し︑もはや仏師が活躍する場所は限られている︒とすれ

ば︑仏像彫刻での経験は無意味なのであろうか︒仏像の需要がなければ︑はたしてその彫るとい

う行為は無用になるのであろうか︒私の考えるところでは否である︒仏像を彫るという行為を︑

またその活動を︑単に経済活動の視点からのみ捉えることは大きな間違いである︒

  そもそも仏像は︑釈迦入滅の何百年もの後に︑彼の姿を形に現したものであり︑文字通りそこ

には信仰という深い意味がある︒それは単なる彫刻ではなく︑それ以上のものである︒仏像彫刻

そのものが宗教的行為であるが︑それは仏像が仏教と結びついているといった単純なものではな

く︑むしろ彫るという行為が﹁祈り﹂そのものであるからである︒人は祈ること︑彫ることそれ

自体に専念し︑ただ彫っているに過ぎないのである︒その行為は︑もはや個々人に張りついたも

のではなく︑むしろ歴史的︑文化的な展開のなかに埋め込まれたものである︒その行為を支える

のが︑場を支配するコスモロジーである︒

  わざは固有の場所で実行されている熟達行為の真只中にあり︑しかもそれは単独にあるのでは

(20)

127  第 6 章 仏像彫刻

なく︑他のわざと連なっている︒したがって︑それを取り出して顕在化したとしても︑それはも

はや熟達行為ではない︒わざが優れた熟達者のうちにあるかぎり︑それはつねにそれ以上のわざ

として創出されてゆく︒現実の社会は絶えず変化しているが︑その変化にもかかわらず︑わざが

変化することなく伝承されているように見えるのは︑わざ自身が変化のなかで新たに創出されて

いるからである︒重要なことは︑新たに創出されているという事実であり︑また彫るという行為

のなかで創出の過程を体験することである︒

  とすれば︑仏像彫刻に精通し︑納得のゆく仏像が彫れるか否かは︑仏師を目指しているもの以

外にはそれほど重要なことではない︒同様に︑熟達化の研究者でないかぎり︑その実行過程に関

心を払う必要もないだろう︒しかし︑心理学者が仏像彫刻を経験し︑それを熟達化研究の基底に

据えるのであれば︑わざが変化のなかで新たに創出される過程を直接体験しなければならない︒

  体験は時と場所に制約されたものであり︑われわれはすべてを体験できる訳ではない︒また︑

体験したからといって︑熟達の深層にあるものを直ちに把握しうる訳でもない︒体験は時と場所

に制約されるからこそ︑それを超えて深層を理解しなければならないのである︒それを可能にす

るのが︑たとえば未知の世界を構想する力である︒仏像彫刻はその構想力を涵養する場を提供す

るだけでなく︑それを豊かに涵養する手だてでもある︒これらを介して︑人びとは熟達化の本質

を理解し︑やがては新たなわざを創出してゆく︒この意味からすれば︑仏像彫刻は修行の媒体の

一つであり︑人の働きを涵養するためのものである︒柔道や剣道に打ち込み︑そこでわざを磨き︑

(21)

128

自己を豊かに涵養してゆくのとまったくおなじことである︒

  仏師は自らの体験を振り返り︑彫り方を体系化する︒同様に剣豪は剣の極意を記述して残して

いる︒宮本武蔵の﹃五輪書﹄もその一つである︒しかも︑それらが普遍性をもつからこそ︑いま

なお人びとに愛読されているのである︒読者は剣士を目指すものばかりではない︒むしろ︑剣の

修行とはまったく無縁の人たちである︒面白いことに︑仏師も武蔵も心理学者ではない︒心理学

者であることにこだわる必要はないように思われる︒

  としても︑私が心理学者の端くれであり︑しかもこれを書いている以上︑心理学者が︑たとえ

ば仏像彫刻を修行し︑あるいはまた剣の修行をすることを通して︑熟達化およびその体系化に言

及することの意味は何か︑改めて問い直しておく必要がある︒この問いかけは︑心理学者は自ら

の体験を用具として︑また武器として︑どのように熟達化の体系化に寄与し︑またそれによって

何を目指すのか︑ということでもある︒突き詰めれば︑心理学者としての存在意義にまで行き着

くが︑筆者が到達した結論からすれば︑仏像彫刻の体験は︑一方では心理学の知見を別の視点か

ら眺める機会を与え︑また他方では心理学を武器にして仏像彫刻の過程に言及しうるだけである︒

いずれにしても︑その媒体が心理学を学ぶことであり︑仏像を彫ることである︒とすれば︑本来

が考える必要さえもない問いかけであるのかもしれない︒

(22)

興福寺の金剛力士像は美 しく力強さを秘めている

数多くあるうちで最も心惹かれる力士像であり︑その模刻である︒

本来なら同時に彫り進めるべきものであるが︑もう一方の吽形像が未だ彫れていない︒吽形像を彫り上げた時点で︑この阿形像にいまいちど手を加えたいと思っている︒

金剛力士阿形像

 

楠造 総高二尺五寸︵平成一四年作︶

(23)

131 

  7章 ス

  キ   ル

Ⅰ  スキルとは何か

1  定   義

  われわれの生きている世界は︑時には開かれ︑また時には閉されているが︑完全に開かれた世

界でもなければ︑また完全に閉ざされた世界でもない︒二つの世界の境界は絶えず変動している

が︑その変動はわれわれが作り出したものである︒われわれが変動を作り出しながらも︑その変

動に適応的に振る舞うことができるのは︑先験的なものに依拠しながらも︑進化の途上でそのつ

ど新たに学習能力を獲得してきたからである︒それが︑たとえば本能的行動から刺激︱反応学習

による行動︑さらには認知に基づいた行動への移行である︒移行するに伴って︑行動に占める学

習の割合は増加し︑それだけ行動の自由度を高めてきたのである︒なかでも熟達者は︑初心者で

は到底考えられないような行為を遂行できるようになる︒

  熟達者の行為は︑確実に拡散的︑生成的といった特性をもち︑またそのつど複雑になるが︑そ

の行為はつねに的を射たものである︒初心者は事態の変化を予測することはできないが︑熟達者

(24)

132

はその変化を的確に予測し︑必要ならそれにふさわしい行為を生成してゆく︒それができるのは︑

熟達者はたとえ開かれた世界であっても︑あたかもその世界が閉ざされているかのように振る舞

うからである︒熟達者は︑長期に及ぶ習得の期間を経て領域固有の知識を獲得し︑直面した課題

を効率よく︑しかも的確に遂行してゆく︒それはスキル︵第

1章参照︶の働きによるものであり︑

これを駆使することで熟達行為を生成してゆくからである︒

  では︑スキルとは何か︒心理学では︑一般にスキル︵skill ︶は行動を遂行するのに必要な知識︑

精神の働きと︑技巧としての身体の働きの総称であり︑運動技能と認知的技能に区分されている︒

伝統的には運動技能の研究が盛んであったが︑その後の認知心理学・認知科学の発展のなかで︑

現在では認知的技能に関心が向けられている︒認知技能の研究に関しては︑当初の情報処理の枠

組みに基づいた研究から︑最近では状況に埋め込まれた学習や︑生態心理学の影響もあり︑知識

と身体の関係のあり方が問題にされ︑新たな展開が見られる︒

  スキルの研究は認知心理学の重要な研究領域の一つであったが︑いまや人工知能︑熟達マシン

等の分野でも盛んに研究されている︒ただ︑心理学︑工学︑文化人類学等の総合科学としてのス

キル研究は始まったばかりである︒そのなかでも︑たとえば国際高等研究所研究プロジェクト﹁わ

ざ学﹂︑さらには﹁スキルの科学﹂は特記すべきものである︒後者を主催する国際高等研究フェロ

ー岩田一明氏︵大阪大学名誉教授︶は︑二〇〇二年の春に﹁スキルの科学﹂研究プロジェクトを

立ち上げ︑二〇〇七年七月に研究成果報告書を作成し︑その成果を世に問うている︒そこではい

(25)

133  第 7 章 ス キ ル

くつもの事例を検討し︑また修正を重ねながら︑スキルを次のように定義している︒スキルとは︑

ある﹁主体﹂が︑その限定された﹁内部資源﹂および﹁周辺資源﹂を用い︑また状況と変化を把

握しながら︑外界の﹁対象﹂とのインタラクションをすることで︑﹁望まれる状況﹂を実現してゆ

く行為である︵岩田と小野里︑二〇〇二岩田︑二〇〇七︶︒

  このスキルの定義は妥当なものであるが︑明確にすべき点がなおいくつかあるように思われる︒

まず︑定義にある﹁内部資源﹂と﹁周辺資源﹂とは何か︒内部資源とは︑たとえば個々人のもつ

素質であり︑経験を介して習得した知識であり︑もう一方の周辺資源とは記号︑道具であり︑さ

らには人的資源をも含むものである︒上記の定義は︑これらの資源を効率的に消費することで︑

外界の対象とインタラクションし︑望まれる状況を実現してゆくことに言及したものであるが︑

効率的に消費するためにはいま一つの資源が必要である︒

  課題を遂行するためには︑その課題に特殊的な内部および周辺の資源だけではなく︑その課題 に非特殊的な資源が必要である︒それが処理資源︵resources︶である︒処理資源は期待︑注意︑

積極性等の心的努力を下支えするものであり︑内部および周辺資源を利用するものであり︑また︑

外界とのインタラクションを推し進めるものである︒注意の範囲におのずと限界があるように︑

また︑すべての内的あるいは周辺資源を利用できる訳ではないことから︑生活体がある時点で展

開しうる総処理資源には限界がある︒そのため︑処理資源の効率よい消費が求められる︒

  行為者は︑一方では行為の多くを自動化し︑それに必要な処理資源を減少し︑他方では必要な

(26)

134

時に必要な処理資源を的確に配分し︑効率よく消費している︒これらの処理資源は勝手に湧いて

くるものではなく︑その補給も重要である︒処理資源の消費とその補給の関係は個体内で行われ

るが︑その資源がどのように補給されているのか︑その詳細を見極めることは難しい︒一般には︑

覚醒水準が高まれば︑また発達さらには熟達に伴って︑その時点で展開しうる総処理資源は増大

すると考えてよい︒

  そもそも処理資源という考えは︑個体能力主義的な情報処理の枠組みを前提にしたものであり︑

個体内で進行する処理効率に言及したものであって︑他者関係との関連で進行する処理効率を想

定している訳ではない︒もちろん︑他者関係を一切もたない個体は存在しえないが︑その場合で

あっても処理資源はあくまでも個体内のことである︒

  しかし︑熟達化は確実に他者関係のなかで進行することから︑他者関係を想定した処理資源の

効率的な消費と補給が必要である︒たとえば実践共同体を一個の人格をもったものとして︑そこ

での処理資源の消費と補給の関係を︑その構成員が役割を分担するものとして捉え︑双方の関係

を捉えてゆくことも可能である︒とすれば︑この場合の処理資源は情報処理の枠組みでいう心的

努力のそれではなく︑熟達化の過程で消費しうる非特殊的な資源を想定したものである︒それは︑

近代社会ではつまるところ利用可能な資金であり︑伝統的な社会では労働力の提供であろう︒

  ところで︑処理資源の効率よい消費のあり方に言及する学問が経済学とするならば︑処理資源 の補給に関する学問を兵站学︵logistics ︶として位置づけることも可能であろう︒従来︑消費に

(27)

135  第 7 章 ス キ ル

関する研究は︑個体内の処理資源と課題遂行とのトレイド・オフ等の関連でなされてきたが︑兵

站学の観点からの研究が抜け落ちていたように思われる︒上記の定義には︑誰が︑いつ︑どこか

ら︑どのように処理資源を補給しているのか︑そのあり方もスキルの定義に加えなければならな

いのではないか︒

  処理資源の補給は一見補足的な︑予備的なもののように思われるが︑スキルの獲得の過程では

極めて重要な役割を果たしている︒たとえば内弟子は︑実践共同体に身を委ねているかぎり︑必

要な処理資源はその実践共同体によって保証されている︒しかし近代社会にあっては︑もはやこ

のような形で処理資源が保証されることは極めて少なく︑学ぶ側が自ら処理資源を確保し︑その

資源を消費して︑スキルを獲得しなければならない︒その最たるものが学生である︒徒弟と学生

の処理資源の補給の違いは︑なによりも社会の︑さらには学びのあり方の違いによるものである︒

実践共同体では処理資源の消費と補給が混在し︑経済学と兵站学が分けられないものとしてある︒

一方︑大学ではこれらは明確に分けられ︑兵站は通常その父母に委ねられており︑兵站学が問題

にされることはほとんどない︒同様に︑近代の知の枠組みの下で行われているスキルの研究にお

いても︑兵站学からのアプローチが抜け落ちている︒

  とすれば︑スキルの定義にある外界の﹁対象﹂とは︑単に消費が向けられる領域︑たとえば仏

像彫刻なら彫るということだけでなく︑処理資源を補給するための人的資源︑組織︑その他もこ

こでいう﹁対象﹂に含まれることになる︒いずれの対象であっても︑かかわりは処理資源を消費

(28)

136

するが︑同時にそれは新たな処理資源を︑たとえば作品という形で生み出す根源である︒処理資

源の消費および補給それ自体が︑熟達化の過程と無関係にある訳ではない︒そして︑熟達化のな

かで立ち現れた世界が︑ここでいう﹁対象﹂なのである︒

  最後に︑﹁望まれる状況﹂とは何か︒スキルの獲得が適応のためのものである以上︑インタラク

ティヴな行為は︑行為主体にとって望ましい状況をもたらすものでなければならない︒そのため

には︑スキルをその時代の社会状況︑さらには社会構造のなかに的確に位置づけることが求めら

れる︒スキルを人間の経済活動のなかにいったん埋め込んで︑はじめてスキルがスキルとして機

能する︒それはスキルが経済的︑政治的な競争ゲームや協力ゲームのなかにあり︑ゲームの外側

でスキルを獲得したり発揮したりしている訳ではないからである︒それはあくまでも生きてゆく

ためのものである︒

2  関係としてのスキル

  処理資源の消費と補給の関係は固定したものではなく︑状況や意図の違いによって変動し︑時

には逆転することも珍しくない︒また︑いずれの領域のスキルであっても︑スキルは純粋に個体

内に閉じ込められたものとしてあるのではなく︑行為主体と他者を含む外界との関係としてある︒

この関係を︑たとえば狩猟スキルに当てはめてみると︑狩猟スキルは使用する用具によって違っ

た様相を見せる︒槍あるいはライフルのいずれを用具とするかによって︑狩人に求められるスキ

(29)

137  第 7 章 ス キ ル

ルは違ったものになる︒槍では︑獲物に気づかれないように近づくスキルが特に重要になる︒槍

を上手く使うスキルも︑また鍛えた身体も必要であろう︒一方︑ライフルでは距離を置いて獲物

を仕留めるために︑なによりも射撃の腕が求められる︒しかし︑用具の違いを超えて︑これらの

スキルに共通するスキルも当然あるはずである︒獲物を見つける︑獲物の習性を知る︑風向きを

読む︑追跡する︑接近する等は︑たとえ重みづけに違いがあるにしても︑いずれも双方に共通す

る狩猟のスキルであるが︑槍で突く︑照準を合わせるという違いは用具に固有のものである︒

  また︑処理資源の補給に関するスキルも︑もう一方の狩猟スキルと密接に関係する︒獲物に近

づかないかぎり狩が難しい槍と︑比較的射程距離があるライフルとでは︑当然狩猟スキルに必要

な処理資源の補給にも違いが生じる︒前者ほど追跡期間が長くなることから︑追跡に必要な食料

等の補給が重要になるが︑後者では高価なライフルを入手し︑それを維持する︑さらには銃弾を

補給することに多大のコストが求められる︒このように補給されるものは用具との関係でそれぞ

れに規定される︒

  狩猟に見られるこれらのスキルの特性は︑他のスキルにも見られる︒たとえば運転スキルはド

ライバー︑車︑そして走行環境との関係のなかで︑個別の状況を踏まえてそのつど生成されたも

のである︒それだけでなく︑その生成は処理資源の補給に支援されている︒それらは﹁運転のス

キル﹂として概念的に捉えられるとしても︑そのスキルそのものが実体としてある訳ではなく︑

走行する状況のなかで︑しかも処理資源を補給するスキル︑たとえば車のメインテナンス︑さら

(30)

138

には整備された道路等に支援されているからである︒

  このようにスキルは関係としてあり︑スキルが実体としてそれ自体ある訳ではない︒われわれ が熟達化を経て獲得するのは︑スキルの所産︵end products︶ではなく︑スキルの過程︵processes︶

である︒スキルを構成する手続きを獲得しているといってよい︒関係としてのスキルは有意味な

世界を必要とするが︑その世界ははじめからあるものではなく︑そのつど人びとが作り上げたも

のである︒当初は︑たとえ無限定な世界であっても︑そこで他者を含む世界とかかわり︑また必

要な用具を組み込むことで︑世界は確実に限定され︑やがて行為主体にとって有意味な世界とな

る︒有意味な世界であって︑はじめて関係としてのスキルが機能する︒この限定の過程は︑熟達

者と道具との関係だけでなく︑実践共同体の師匠と弟子の関係においても見られる︒いずれもそ

れは動的な関係としてある︒

  熟達者が状況の変化に応じてスキルを発揮できるのは︑スキルが動的な関係のなかで絶えず評

価されながら生成されているからである︒ただし︑その評価はそのつど立ち現れる関係に埋め込

まれており︑いちいち言語化しうるようなものでもなければ︑まえもってある外部基準に基づい

たものでもない︒それは自らのうちに内在する評価基準であり︑これに基づいて行為者はそのつ

ど生じる関係の変化を的確に認識してゆく︒

  たとえば︑演奏者は聞き手のメンタルモデルをもって自らの演奏を評価するようになり︑しか

もそのメンタルモデルは演奏者の力量が高まるに応じてより高度なものとなる︒また︑その評価

(31)

139  第 7 章 ス キ ル

は演奏者によるものではなく︑演奏者と聞き手との関係としてある︒その関係は︑たとえば演奏

者自らが捉える聞き手の想い︑関心︑さらには力量等の合作であり︑熟達化に伴ってその関係の

質は深まり︑また拡がりの範囲も拡大する︒これらの違いが新たな基準をもたらしてゆく︵大浦

と波多野︑二〇〇一︶︒

  自己評価の重要性は︑単に演奏にとどまらず他の領域にも当てはまる︒いずれの領域であって

も︑その道の熟達者はその評価を殊の外重視する︒その表現のあり方はさまざまであるが︑最終

的にはものを見る眼︵第

13章参照︶に集約しうるように思われる︒ものを見る眼は行為の評価に

とどまらず︑自らのあり方を関係のなかで捉えてゆく︒このことが実践共同体のなかでの自らの

居場所を確かなものとしてゆき︑さらにはアイデンティティの確立にもつながる︒これを涵養す

ることが熟達化の最終的な目的である︒

Ⅱ  獲・活・伝・創サイクル

1  スキルの内実

  スキルの獲得とは表象を頭の中に獲得することではなく︑身体が覚えることであり︑何かがで

きるようになるということである︒その身体は解剖学的身体ではなく︑いま・ここで機能する生

(32)

140

ける身体としてある︒たとえば︑優れた野手なら風の向き︑投手のボールの握り方からその球筋︑

打者の狙いを見定め︑打球音︑打球の角度を考慮して捕球行動を開始し︑落下点と推測される地

点に移動する︒そして︑ボールのキメの変化を読み取り︑最終的な捕球行動に入り︑ボールがグ

ローブに接触する数百ミリ秒手前で︑大まかなボールへの定位がなされ︑その後にも精密な定位

が続いて︑最終的な把握動作が開始し︑捕球を完了する︒捕球活動は︑野手が投手だけではなく

打者とも︑さらにはその打球とも一なる世界を構築しているからこそ可能である︒そして︑これ

らを同時的に遂行する身体は解剖学的な身体ではなく︑生ける身体である︒

  捕球行為の最終段階では︑ボールのキメの変化という環境の文脈と︑捕球という運動システム

とが見事にまで協調︑同調したものである︒知覚システムの活動を介して︑野手のなすべきこと

がそのつど立ち現れ︑またそれによって野手の行動が制御されてゆく︒環境の変化と野手の行為

は一つのものであり︑それは不二体︵野村︑一九九九︶を構成している︒不二体は長期に及ぶ修

行︑練習を介して獲得されたものであるが︑その所在をいちいち特定しうるようなものではない︒

いま・ここでのかかわりの真只中にあるとしか言いようがないものである︒ところがいま︑その

身体の働きを停止し︑またその働きを対象化して捉えると︑そこには不二体の分化の所産である

野手としての自分︑打者︑投手︑打球といったことがそれぞれに立ち現れてくる︒

  誰もがボールを正確に捕球できる訳ではない︒そこには長期に及ぶ習得過程があったはずであ

る︒それらは風向き︑球筋︑打球音︑ボールのキメの変化等の見極めから始まり︑そしてそれに

(33)

141  第 7 章 ス キ ル

相即した行為の実行がある︒しかし︑これらの習得だけでは優れた野手とはいえない︒優れた野

手は︑いま・ここで進行している試合のなかで的確に行動しなければならない︒試合の展開次第

では︑また走者がどの塁にいるかで︑捕球行動に続いてどのように行為してゆくかが重要になる︒

一連の捕球行動︑さらにはそれに続く行為が的確なものであるためには︑いずれであってもある

時間的な制約のなかで実行されなければならないからである︒そのためには︑その時点で展開し

うる処理資源の的確な配分︑そして最適な消費が求められるが︑この場合の処理資源の配分と消

費は野手に限定されたそれである︒

  野手としての経験を繰り返すなかで︑野手は自由自在に活躍できるようになる︒彼が柔軟性︑

普遍性のあるスキルを獲得しているからである︒そして︑優れた選手はいったん野手という領域

でスキルを獲得すると︑やがてそのスキルを野球の他のポジションにも︑さらには野球以外の他

の類似の領域にも活かし︑その力を充分に発揮しうるようになる︒さらに優れた熟達者ともなる

と︑領域特殊性を超えて領域一般的なスキルを獲得しているようである︒心理学でいう転移であ

る︒この転移の事実は︑一般には︑ある課題で学習したものが類似した他の課題に何らかの効果

をもたらすと解釈されている︒しかしこの解釈だけでは︑優れた熟達者の領域一般的なスキルを

説明することは難しい︒優れた選手は野球に必要な領域特殊的なスキルだけでなく︑領域一般的

に通用するリーダーシップスキルとかマネージメントスキルをも身につけているからである︒

  おなじことは仏像彫刻の修行にも見られる︒仏像彫刻は多くの工程からなり︑その工程のそれ

(34)

142

ぞれにスキルが関与している︒しかし︑それらはいちいち学ぶというものではない︒習熟の進展

のなかでは︑どれかある一つのスキルに集中して修行していても︑そのことができるようになる

と︑自然に他のこともできるようになる︒たとえば上手に形を出せるようになると︑鑿とか刀の

使い方︑あるいはそれらの研ぎ方も自然と上手くなっていることが多い︒この事実からすれば︑

われわれは個別のスキルを習得してゆくうちに︑たとえば仏像彫刻のスキルとでも呼ぶべきもの

を習得しているのであろう︒さらにそのスキルは︑仏像彫刻のレベルを超えてもっと大きなスキ

ルに包括されてゆくと考えてよい︒とすれば︑最終的にわれわれがもつスキルの数はそれほど多

くはないのではないかと思われる︒

  では︑優れた選手はいったい何を身につけているのであろうか︒熟達者はしばしば﹁身体が覚

える﹂と表現するが︑その意味するところははたして何なのか︒単に言語化しえないという意味

であろうか︒たとえば︑アイススケートの清水宏保選手はインタビューに応えて﹁身体に聞く︑

身体の細胞と会話する﹂︑また野球のイチロー選手は﹁自分がピッチャーの投げる球の何をどのよ

うに知覚して︑自分の身体がどのように反応してヒットを打っているかを言葉で説明する﹂とい

った趣旨のことを述べている︒運動選手ではないが︑宮大工の西岡常一は﹁木と会話し︑それを

介してそれが育った山と会話する﹂︵西岡と小原︑一九七九︶という︒これらはいずれも素人には

言語化しえない世界であり︑かつては暗黙知と呼ばれていたことである︒

  彼らが用いる媒体が何であるかは定かではないが︑多分に独自の﹁言語﹂であろうが︑いずれ

(35)

143  第 7 章 ス キ ル

にしても︑かつて暗黙知と呼ばれていた世界が顕在化されたともいえる︒とすれば︑暗黙知と形

式知︵顕在知︶の境界が移動したことになる︒境界は課題特性︑スキル︑媒体する言語等の違い

によっても変わって当然であろう︒としても︑分野のまったく違う領域で活躍する彼らが︑おな

じような趣旨のことを述べていることからすれば︑熟達とは︑結局は自己省察力を獲得すること

であり︑さらにはその精度を高めることではないか︒

  われわれは数々の経験を繰り返すなかで︑たとえば転移の概念で説明しうるような個別のスキ

ルを身につけているのではない︒それらのスキルの獲得を介して︑その深層にある何かを身につ

けている︒それが経験を介して獲得した不二体︵野村︑一九九九︶であり︑それが状況を踏まえ

て分化することで︑たとえば領域一般的なスキルを展開しうるのではないか︒とすれば熟達化と

は︑われわれが生きられる世界を拡大し︑それ以前とは違った新たな存在となることである︒こ

れが熟練のアイデンティティである︵第

12章参照︶︒   重要なことは︑人のもつ可塑性を固有の場で充分に活かすことである︒そのためには︑スキル

を課題ごとに捉え︑数多くのスキルを想定することではなく︑むしろ不二体を想定した普遍的な︑

関係としてスキルを捉えてゆくことが求められる︒スキルを関係として捉える時︑その関係を生

み出す可能性は状況を超えてある程度共通するものと考えられる︒とすれば︑多様に見えるスキ

ルも︑深いとこころではいくつかに収束するはずである︒しかし︑それが実際に具現されたスキ

ルとなると︑その具現のあり方は多様であり︑それらはあたかも別のスキルであるかのような様

(36)

144

相を見せることもある︒

2  分析と構成

  スキルが関係としてあるということは︑単に用具によって狩猟スキルが異なるというだけでな

く︑そのスキルを獲得する︑活用する︑他者に伝承する︑さらには新しく創出するそれぞれの過

程も︑また関係としてあることを意味する︒それだけでなく︑獲得︑活用︑伝承︑創出は互いに

関係としてある︒岩田︵二〇〇七︶は︑その関係の枠組みを獲・活・伝・創サイクルと呼ぶ︒こ

の枠組みは︑スキルの全体像を外部観測の視点から捉えたものであるが︑スキルの本質︑内実を

知るためには不可欠のものである︒生産現場では︑制度的に獲活伝創サイクルが機能し︑そこで

働く人たちは︑それぞれが獲得︑活用︑伝承︑創出のいずれかを担っている︒これを時間軸上で

見れば︑獲得に重きをおく初心者︑熟達を経て活用の段階に入り︑やがては初心者に伝承し︑ま

た新たにスキルを創出する役割を担う熟達者に分かれる︒

  獲得と伝承は︑基本的には学習者が熟達者のスキルの活用を実際に外部観察することから始ま

るが︑時には熟達者が自らのスキルを自己省察し︑それを言葉で伝えることもある︒いずれにし

ても︑その観察事実を分析し︑かつ記述するアプローチが︑スキルの分析的アプローチである︒

しかし︑この分析︱記述は必ずしもスキルの獲得︱伝承の必要条件であるとは限らない︒たとえ

ば幼少の頃から実践共同体に参加した弟子たちは︑分析したり記述したりすることは少ない︒時

(37)

145  第 7 章 ス キ ル

には分析とか記述とかをいっさい経ることなく︑師匠の動きに同調するなかでスキルを獲得して

ゆくこともある︒それがカップリングによる獲得である︵第

8章参照︶︒とすると︑分析的アプロ

ーチそのものがある種の認識観︑学習観を前提にしているといってよい︒

  分析的アプローチは熟達行為を観察し︑それを分析︱記述するが︑通常︑それは第三者の下で

行われる︒彼︵女︶が観察しうる事象は行為者の作動であり︑さらにはそれを取り巻く状況や道

具である︒行為と呼ばれるものはあくまでもこれらの動的なかかわりの姿であるが︑かかわりそ

のものを直接観察しうる訳ではなく︑ただ時間軸上にそのかかわりの所産を行為として認識して

いるに過ぎない︒その行為の構成単位の連なりが︑たとえばスクリプトである︒スクリプトの単

位は相対的であり︑さまざまなレベルがあるとしても︑それらは上位︱下位の樹状構造として概

念的に表現されている︒どのレベルでスクリプトを記述するかは︑観察者が分節の単位の大きさ

︵レベル︶を何処にするかによって違ってくる︒初心者は分節単位の小さいスクリプトを求める傾

向があり︑逆に熟達者は分節単位の大きなスクリプトを求める傾向がある︒前者からは全体を見

渡すことが難しく︑後者からは細部を捉えることが難しい︒

  分析的アプローチの目的の一つは︑分析を介してスキル現象を記述し︑それを説明するモデル

を構築することである︒そのため︑時間軸上で構成されたスクリプトの順序︑階層等の関係を制

御し︑また時にはそれと並列して進行するスクリプトを制御する行為主体の働きを仮説的に提示

する︒それが︑たとえば認知心理学が重視する行為生成モデルである︒このモデルは外部刺激に

(38)

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解発される反応機構と︑その制御に携わる指令機構からなる︒これらの機能を介して︑実際に行

為が生成されてゆく︒反応機構は対象やその状況を認識し︑行為の実行に必要な作動を開始する︒

他方︑その作動を制御するのが指令機構である︒その指令機構はスクリプトの働きに基づいて機

能し︑状況にふさわしい行為を生成してゆくと考えられている︒

  ところで︑心理学が採用してきた行動主義研究や情報処理の枠組みは︑いずれも分析的アプロ

ーチに与するものである︒これらの研究がスキルの獲得︑活用さらには伝承の解明に一定の役割

を果たしたことは認めるとしても︑行為は単に分析されたスクリプトの連なりではなく︑あくま

でもそれらの集合以上の全体像としてある︒また︑行為は状況の変化に相即しながらそのつど生

成されるものである︒とすれば︑分析的アプローチからはたしてスキルを解明しうるのか︑疑問

は解消されないままである︒

  そこで︑行為の全体性に注目し︑スキルの構成に重点をおいた研究が望まれる︒それがスキル

の構成的アプローチである︒構成的アプローチの一つは︑人工知能やロボティクスのような一般

的な知能の実現を目指す研究者のそれである︒このアプローチは個々の要素を統合する視点から

それらの要素に分析し︑再びそれを統合に戻すという操作を繰り返す︒この一連の過程が統合に

よる分析︵Analysis by synthesis ︶であり︑分析的アプローチを前提にした構成的アプローチで もある︒  これに対して︑分析的アプローチを前提にしない構成的アプローチもある︒たとえば︑初心者

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