• 検索結果がありません。

石川三四郎のユートピア構想

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "石川三四郎のユートピア構想"

Copied!
260
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

i

石川三四郎のユートピア構想 

       

― 近代日本の知識人による理想社会論構築と社会改革の試み ―

Utopianism in the Thought and Action of Sanshiro Ishikawa

−The Theory of Ideal Society and the Social Reform by the Intellectual in Modern Japan−

       

     

 

早稲田大学大学院社会科学研究科博士後期課程 地球社会論専攻日本研究・日本文化論研究

       

2006年3月単位取得満期退学

西山  拓     NISHIYAMA, Taku        

      2009年2月

       

(2)

ii

< 目 次 >

序章

--- 1   第1節 ユートピアと包括的視野 1 

  第2節 日本におけるユートピアへの関心   3    第3節 石川三四郎への着目  8 

第1章  先行研究および研究方法

--- 15   第1節  先行研究と関連文献 15

    1.石川三四郎に関する文献 15     2.本研究の位置 25

  第2節 研究方法と構成 26

    1.社会科学総合研究の試行 26     2.本研究の構成 27

第2章  ユートピアと社会実験 ---

31   第1節 ユートピアとユートピア運動 31

    1.ユートピアの原義 31

    2.ユートピア構想とユートピア運動 35   第2節 社会実験としてのユートピア運動 39     1.ユートピア共同体の世界史的系譜 39     2.日本におけるユートピア共同体運動 42     3.ユートピア共同体の存在意義 45

第3章  石川三四郎とユートピア

--- 53   第1節 石川三四郎の遍歴 53

(3)

iii     1.理想社会論構築までの道程 53     2.石川の発言範囲 61

  第2節 ユートピアンとしての石川三四郎 62     1.ユートピアへの憧憬 62

    2.ユートピア思想としての可能性 66     3.ユートピア運動の担い手としての側面 68   おわりに 69

第4章  ユートピア思想の展開

--- 77   第1節 消費組合論 77

    1.近代日本における消費組合の歴史と石川の位置 77     2.『消費組合の話』の要点 83

    3.石川の消費組合論の特徴 87     4.ユートピア実現化模索の出発点 92   第2節 土民生活論と土民文芸論 93     1.土着の民への着目 93

    2.土民生活論の展開 95

    3.土民芸術論と「社会文芸」の提唱 99     4.土民文芸とユートピア 102

  第3節 非進化論 104

    1.進化論の受容史上における石川の位置 104     2.同時代の社会主義者との差異 107

    3.論考集『非進化論と人生』 109     4.社会批評としての特徴 112     5.非進化論とユートピア 116 第4節 社会美学の提唱 118     1.社会美学の考え方 118

    2.ユートピア作品「五十年後の日本」 125

(4)

iv     3.協同機構とその連帯 132

    4.理想社会論の円熟 135

  5.東洋文化史研究と社会改革の模索  139 おわりに 143

第5章  知識人とユートピア

---159   第1節 知識人の田園回帰 159

    1.田園へ憧憬を抱いた人々 159

    2.半農生活者の群における石川の位置 164   第2節 武者小路実篤による社会実験の試み 166     1.ユートピア共同体としての「新しき村」 166     2.「新しき村」の特徴 168

    3.「新しき村」構築までの過程とその原則 170     4.佐藤春夫、倉田百三の賛同意見 180

    5.賛同意見の意義 187

6.大杉栄の「新しき村」批評 190   7.アナーキズムと共同体主義 194

第3節 石川三四郎によるユートピア共同体の構築 199   1.社会実験としての「共学社」 199

  2.農作業と文化活動の両立 202   3.教育的波及効果 204

  4.社会教育への貢献 206 おわりに 208

終章  ユートピア研究とユートピアの探求

--- 221   第1節 日本ユートピア史の編成 221

    1.ユートピアの観察者の立場 221     2.日本ユートピア史 222

(5)

v   第2節 現代的課題と石川の言動 226

1.ユートピアとコミュニタリアニズム 226 2.新しい学問への貢献 229

3.ユートピアと教育 231    

参考文献 235

(6)

1

序  章 

第1節  ユートピアと包括的視野  

  イギリスの思想家・法律家トマス・モア(Thomas More, 1478〜1535)が1516年から 翌年にかけてラテン語で著した書物の名として用いた「ユートピア」という造語は、以後、

理想社会の代名詞となっていったが、この用語は社会思想の分野に限られることなく、文 学、美術、建築、農業、教育、宗教など、さまざまな方面において用いられてきた。

ヨーロッパ世界の地球的規模の拡大によって他地域との交流が進展すると、中東や東洋 におけるユートピア思想の可能性が探究されるようになった。また、歴史考証の過程で、

モア以前のユートピア思想の系譜が見出されていった。現代では、ユートピアニズムがヨ ーロッパの精神に流れてきた特殊な主義・主張ではなく、地球的規模の広がりをもって、

また、時代を超えてその存在を確認することができる体系であるという解釈がなされてい る1)

現今、ユートピアは全人類が議題として語ることが可能な概念となっているが、従来、

その多義性ゆえに、とりわけ学術研究の対象としては難解な部類に属してきた。

  何らかのユートピア像を掲げ、そこへの接近を試みる社会運動や、芸術的表現があった 場合、それらを観察する者は、観察者自身によるユートピアの定義とユートピアに対する 姿勢を固めた上で発言をしないと、収集がつかない議論に嵌り込んでいくことになる。ユ ートピアは、文学や哲学の分野における抽象的議論の対象となる一方で、社会的実践運動 の原動力として活用され、歴史に刻まれることになる場合もあるため、その評価が極端に 分かれることが容易に予測できる。

たとえば、ユートピアは精神世界の中だけで存在するものであると定義する観察者と、

現実の世界の中でユートピアの実現を試みる行為にこそ本義を見て取ることができるので あるとする者とでは、観察の結果に大きな差が出てくるであろう。一方、そもそもユート ピアは定義ができないものであるという前提のもとで観察を進めた場合であっても、その

(7)

2

結果は、ユートピアに関する議論の一つの成果として無視できない。

ユートピアを学術研究の対象とする場合、観察者・研究者が、可能なかぎり中立的な立 場を保ちつつ言及を進めていくことが求められる。ユートピアニズムの伝統が脈々と刻ま れてきたヨーロッパにおいては、ユートピアに関する研究もさかんに行なわれてきた。そ れは、主として、文学史、思想史の分野においてなされた。すなわち、ユートピアを描い た作品やユートピアとは何かという問いに対する答えの数々を時間経過の順に記録する作 業と考察が進められてきたのである。ユートピアに関する文芸作品と思索の蓄積は、ユー トピアの原理に関する議論を再燃させることになり、歴史的考察と哲学的問いの相互補完 関係が形成されるに至った。

  哲学や歴史学が総合的な学問として機能していた時代、ユートピアは研究対象として相 応しいものであった。しかし、学問が細分化されるにつれて、各分野からの専門的な研究 成果が得られたものの、逆に、学際的・超領域的な分析が十分にできなくなってしまった。

これは、研究者の視野の狭窄によるものであるのか、学問の進化に伴う必然的傾向である のか、見解が分かれるところであるが、少なくとも現段階では、ユートピアを包括的視野 に基づいて分析していく新しい研究手法が模索されているといえる。

  学問の細分化の是非に関する議論は尽きることがないが、一度ユートピアの原義に還っ てみると、それは、理想的な社会を探求することを第一の目的としているため、各学問分 野から出発する場合であっても、ある条件が課されることになる点を確認しなければなら ない。たとえば、ユートピア研究を文学研究の一環として行なう場合には、社会性を意識 した文学を対象とするし、自然科学の分野にあっては、汚染防御学や有機農法研究などの ように、その成果の社会的影響力を考慮する研究姿勢が求められるのである2)

  このように見てくると、一度細分化された学問を再統合する契機を準備するものがユー トピアに関する研究であることが分かる。ただし、それは学問が未分化の状態にあった時 代に遡ることではなく、現時点までの学術上の成果を横糸で繋いでいくような研究を志向 し、新局面を拓いていくことを意味している。

  ユートピアを研究の対象とする場合、理想的な「社会」に関する研究であるゆえ、社会 科学的視点が求められるが、人文学・自然科学の研究成果も活かす包括的研究が期待され てくる。本研究は、このような研究をなすことを目的としつつ、その一試行として、一人

(8)

3

の思想家が提唱したユートピア構想を分析する。そして、ユートピアに関する研究および、

学術研究における包括的・横断的研究に何らかの貢献をしたいと考える。

第2節  日本におけるユートピアへの関心  

  ユートピアをめぐっては、それがヨーロッパの思想風土から生まれてきたものであり、

東洋には存在しなかった、あるいは、東洋の思想的基盤にあっては存在しえないものであ るという見解がある3)。しかし、本研究では、前節でふれたような、ユートピアが現在に おいて地球的規模で通用する概念となっているという見解にならうことにする。

ユートピアは、当初、ヨーロッパのある特異な思想の産物として位置づけられ、その系 譜の編纂が進められてきたが、本来、地域や民族、そして時間を越えて存在しうるもので あったため、出版文化の拡大や学術交流の世界的発展に伴って、現代においてはその普遍 性を確認することができる段階に至ったのである。

  東洋の一部である日本におけるユートピアにはどのような系譜が見られるであろうか。

「ユートピア」という用語が『ユートピア』の英訳を日本語訳にするかたちで輸入された のは明治時代であるが4)、広義のユートピアに含まれる何ものかが江戸時代以前にあった 可能性は否定できない。たとえば、はるかに時間を遡って、『古事記』に見られる理想の国 や、黄泉の国、常世の国、浦島伝説、万葉人の神仙思想、隠れ里、桃源郷、極楽浄土など をユートピア思想ととらえて分析を行なっている研究がある5)。また、江戸時代の安藤昌 益(1703〜1762)、や吉田松陰(1830〜1859)をユートピア思想の持ち主であったと位置 づけることが可能であるという見解がある6)。平賀源内(1728〜1779)をユートピア作品 の作り手であるとする研究報告もある7)

このように、日本のユートピアの淵源とその系譜に関しては、考察の余地が広く、また 魅力的でもあるが、ここでは、江戸時代以前における日本版ユートピアの可能性を認めつ つも、トマス・モアがつくり出した「ユートピア」という用語そのものが知られるように なった時期を、文化および社会運動の世界におけるユートピア波及の出立時とする立場に

(9)

4 立ち、明治期以降の動向を概観していく。

近代日本において西洋の学芸が輸入されるにあたり、学術用語や文学・哲学用語が生み 出された背景に関する十分な吟味を行なう余裕がなく、偏った情報に拠ってしまった例は 少なくない。「ユートピア」の場合も例外ではなかった。モアの意図したことがどのような ものであったかという点を考える前に、理想国家をめざす統治手法の一類型という観点か ら輸入がなされた。すなわち、現在の社会を批判しつつ新しい社会の姿を模索するという 面からではなく、いかに為政者が上から理想国家の構想を具現化していくかという、統治 の面から受容がなされたといえる。この輸入期における理解の不足が、その後のユートピ アをめぐる諸活動の普及を阻むことになる8)

ユートピア思想は、発祥の地イギリスにおいて、社会主義思想や社会主義運動が多方面 にわたって発展する原動力となった。しかし、日本の社会主義者や社会科学系の研究者は、

当時、社会科学の代名詞ともなっていたマルクス主義の影響のもとに、ユートピア思想を 社会主義の初期段階としての未発達で幼稚な思想として蔑視する傾向が強かった。

  マルクス(Karl Marx,1818〜1883)の思想形成において、フランス社会主義の根底に あったユートピア思想が重要な位置をしめている点は指摘されるところであるが9)、当時 の日本の論壇、思想界、学界にあっては、「科学的」社会主義こそが唯一の答えであるとい う風潮が強かったため、ユートピア思想が本腰を入れて研究されることは少なかった10)。   その背景には、エンゲルス(Friedrich Engels,1820〜1895)が、マルクス主義を普及さ せるパンフレットとして著した出版物の影響がある。同書はフランス語版の初版で、

Socialisme Utopique et Socialisme Scientifique という題目になっており、直訳すれば

「ユートピア的社会主義と科学的社会主義」となるが、実際には、ユートピア的社会主義 の部分が「空想的社会主義」と訳されて世に出された。

  日本版の初版は、1906〔明治39〕年の堺利彦(1870〜1933)によるものである11)。こ の時は、「科学的社会主義」という表題であったが、その後、1918〔大正 7〕年に「空想 的社会主義と科学的社会主義」、1921〔大正10〕年に「空想的及科学的社会主義」として 出された。

堺は、1903〔明治36〕年に、アメリカのエドワード・ベラミー(Edward Bellamy,1850

〜1898)のLooking Backward: If Socialism Comes, 2000-1887を、翌年にはイギリスの

(10)

5

ウィリアム・モリス(William Morris,1838〜1896)のNews from Nowhere: or, an Epoch

of Restを翻訳した。今日では、ベラミーの作品は、管理社会を描いたアンチ・ユートピア

の代表作とされ、モリスは、それに対抗するものとして牧歌的ユートピアを描いたという 評価が定着しており、ユートピア研究においても争点となる部分である12)

堺は、社会主義紹介の一環としてユートピア作品を訳出し、一定の評価を与え、自らも ユートピアを思い描いていたが、やがて、現実的な政治闘争の世界に入っていく13)。一方、

堺の同志であった、幸徳秋水(1871〜1911)は『社会主義神髄』(1903年)、片山潜(1859

〜1933)は『我社会主義』(1903年)において「空想的社会主義」に関して解説を記して いる。両者は、ユートピア社会主義についてある程度の評価はしているが、その後、アナ ーキズム、共産主義と、それぞれの道を歩んでいった。

当時の社会主義者たちは、ユートピア思想を貶めようとしていたわけではない。彼らの 拠点であった平民社がユートピア的雰囲気であったとも言われている14)。しかし、ユート ピア社会主義を「空想的社会主義」と訳した上でヨーロッパにおける初期の社会主義を解 説しているため、日本における社会主義の基盤となるようなユートピア思想やユートピア の実現をめざす運動を叢生させる方向に導くことができなかったといえる。

明治末期の初期の社会主義は、アナーキズムから、共産主義、国家社会主義に至るまで 幅が広かったが、時間の経過と社会思潮の変化によって分派していった。ユートピア思想 を擁護し、研究の突破口を開く可能性を秘めていた人々は、初期の社会主義者たちである が、彼らの間にあっても社会主義自体の解釈が不十分であった。近代日本におけるユート ピアの歴史は、このような状況下において始まったのである。

  大正期に至ると、19世紀のアメリカにおいてさかんに建設された、ユートピアの実現を めざす生活共同体の日本版ともいえるような、社会実験的共同体が建設された15)

  1918〔大正7〕年、作家・武者小路実篤(1885〜1976)の掛け声のもと、宮崎県に建設

された「新しき村」はその先駆の一つといえるが、当時は、「空想的社会主義」の系統につ らなるものであり、なんら社会改革運動として効果をもたらさないという批判が寄せられ た。しかし、この共同体は、ファシズムが支配した昭和初期、また、終戦後の社会的混乱 期を乗り越え、社会主義体制が崩壊した今日に至るまで存続している。なお、「新しき村」

については、第5章で詳しく見ていく。

(11)

6

  人工的共同体は「新しき村」だけではない。大正期、昭和初期、終戦前後、高度成長期、

円熟期、経済成長の限界期と、いつの時代、どのような社会状況にあっても社会問題の種 類に応じて建設が続いてきている。消滅したものも少なくないが、その系譜は絶えていな いといえる。しかし、社会的認知度は低く、また、宗教セクトと同一視されて、反社会的 な危険集団と見られる場合が多い。これは、ユートピア思想やユートピアの実現をめざす 運動に関する解釈の素地がないゆえの現象であると思われる。

  人工的共同体ほど生活者の近接性・親密性が強くないものの、ユートピアをめざす社会 的な運動として他にあげることができるものは協同組合運動である。イギリスの社会思想 家・社会事業家オーウェン(Robert Owen,1771〜1858)による労働者のための農工業協 同社会の構築や、その影響を受けたロッチデール先駆者組合の組合員たちによる労働者消 費組合運動、また、モリス(William Morris,1834〜1896)、ラスキン(John Ruskin,1819

〜1900)らによる中世ギルド社会を意識した協同社会づくりなどが代表例である16)。   また、プルードン(Pierre Joseph Proudhon,1809〜1865)、クロポトキン(Pyotr Alekseevich Kropotkin,1842〜1921)ら、アナーキズムに基づいて構想した協同社会の連 合体や、ブーバー(Martin Buber,1878〜1965)、ランダウアー(Gustav Landauer,1870

〜1919)らが、深い宗教哲学に基づき、もう一つの社会主義の方向を示す核として構想し た先駆的協同社会なども、ユートピアをめざす運動の成果と呼ぶことができる。

  日本では、明治初期に協同組合がつくられたが、それらは、輸入にあたって、イギリス の協同組合が民衆の自治的社会を構築しようという意思から出立したことに関する認識が 低かったため、明治政府が掲げる、殖産興業・富国強兵を支える末端組織という色合いが 濃かった 17)。当時、自主的協同組合を画策した人々はいたものの少数に留まった18)。自 主的協同組合の構想と運動は主に社会主義者によって担われたが、社会主義陣営の中で、

運動の手段として協同組合の設立・運営を採り入れることへの関心は薄く、また国家権力 による弾圧もあり、その発展は阻まれた。このような状況にあったことから、近代日本で は、協同組合の設立を通じたユートピア実現の道も、かなり険しいものであったといえる。

  ヨーロッパの社会思想および社会運動の潮流においては、ユートピアと社会主義が密接 な関係にあり、新しい社会づくりが探求されてきたが、近代日本においては、ユートピア の実現をめざす人工的共同体の建設運動、協同組合設立運動の両者ともに、社会運動の核

(12)

7 になることはなかった。

  終戦後の復興が表面上完了した後に噴出してきた社会問題への対応として、1960〜70 年代、学生運動、労働運動、環境運動、平和運動など、多方面にわたる政治的・社会的活 動が高まり、ユートピアに関する研究会の設立や理想社会の雛型になることを目的とした 生活共同体の建設が相次ぎ、「ユートピア」という用語が頻繁に使われるようになった。し かし、その後、社会運動の低調とともにユートピアへの関心も小さくなっていった。結局、

ユートピアが、一過性の政治運動に利用されるかたちになったといえる。

  1980年代後半から90年代前半にかけて、世界各地における社会主義体制の崩壊を見た 後は、日本の論壇や学界、思想界において、ユートピアについて真面目に話される場は少 なくなった。先に見たように、日本においては、ユートピア思想と社会主義の結びつきは 強くなかったのであるが、この時は、世界世論に流されたといえる。現今、ユートピアは、

企業の広告やレジャー施設を表現する場合などに登場するものの、社会思想史上の重要な 概念という点から議論や研究の対象とされる機会は少なくなっている。

  このように見てくると、日本においてはユートピアが社会主義や共産主義運動と結びつ きを強めることができなかったものの、都合のいい時のみ利用されたという印象が先行す る。社会の急速な変化の過程でユートピアに関する咀嚼と分析が不十分であったゆえに社 会主義が本来もっている豊かな思想的広がりを認めることができなかったのである。日本 のユートピアは、意識のエネルギーの発露としてのユートピア構想にまで至っておらず、

即物願望的段階に留まっているという指摘もある19)。日本は、ユートピアに関しては歴史 的意義の探究、社会一般への普及、社会運動との連繋など、諸側面において未発達である といえよう。

  以上のような見解から、ユートピア研究を日本において進めていくことは困難であると 容易に想像できる。しかし、本研究では、日本にユートピア思想やユートピアの実現をめ ざす運動の伝統がなく、またそれらに関する研究を行なう意義もないと断定する前に、人 類が普遍的にもっている理想社会への憧憬に着目する。そして、日本におけるユートピア をめぐる諸現象と呼ぶことができるものを対象として、埋もれていた思想や活動を引き出 そうと試みる。

  現段階において、ユートピアへの関心が皆無というわけではない。新しい世紀を迎え、

(13)

8

ユートピアの限界に関する考察とその限界の突破口の提起を、政治学、文学、文化人類学、

心理学などの各分野の研究者が発表し、記述していくという試みがなされている20)。また、

ユートピア研究が他分野に比べて多く行なわれてきた社会思想史研究においても、ユート ピアを再検討しようという動きが見られる21)

  このように、ユートピア研究の灯は消えていないが、研究の対象が日本の精神史や社会 現象ということになると、十分になされてきたとは言えない。本研究はこのような研究状 況の中で、個別のユートピア研究として完結するものではなく、日本ユートピア史編纂や ユートピア学の練成に貢献することを目的とする。

 

第3節  石川三四郎への着目

 

  前節では、ユートピアをめぐる諸問題、特に近代以降の日本における受容状況と研究動 向を概観した。ユートピアの本義に関する探究は、出発時における訳語の影響もあって、

現在に至るまで十分になされてきたとは言えない。そこで、本研究では、過去に目を向け、

ユートピアに関する歴史的考察を試みる。考察の対象とするのは、社会運動が産声をあげ、

紆余曲折を経ながらもその歴史を刻んでいく、明治末期から昭和初期(1900 年頃〜1930 年頃)の約30年間の時期である。

  「世直し運動」としての社会運動の芽は、すでに明治初期に見られたが、本格化したの は、日本初の社会主義政党である社会民主党が結成された1901〔明治34〕年頃からであ る。その後、社会主義者やアナーキストに対する弾圧である1910〔明治43〕年の大逆事 件を経て、いわゆる冬の時代を迎えたが、大正期には、文芸運動も含めた多様性に富む新 たな社会運動が興った。しかし、1923〔大正 12〕年の関東大震災による物理的破壊と、

それに便乗した国家権力による弾圧、そして昭和初期のファシズムの台頭により、再び運 動が下火になるという経路をたどる。

  この 30 年の間は、ユートピア史の面から見ると、①オーウェンやモリス、ラスキンら のユートピア思想やそれに関連する社会運動の紹介、②生産者組合や消費組合などの協同

(14)

9

組合による地域社会の改善運動、③武者小路実篤の「新しき村」に代表されるユートピア 共同体の建設、④植民地開拓を前提としたユートピアの構想といった現象を確認すること ができる。①、②は明治末期、③は大正期、④は昭和期に多く見られた。

  この期間は、いわゆる左翼運動にとって、勃興、発展、収縮という経験をしているため、

さまざまな社会的試行が出てきている。一方、国家運営の担当者や、民族主義的な行動を とる人々もユートピア像を準備していた。ユートピア思想は、政治思想上の左派、右派と いった分類を超えたところに位置しているため、革新的な官僚や、熱烈な民族主義者によ っても生み出される可能性を秘めていたのである。

  「社会運動」を「社会を改革する運動」として広義にとらえる場合、それは左翼思想の 持ち主に専有されるものではない。今回研究の対象とする 30 年間は、日本社会が激変し た時期であるゆえに、社会主義運動、共産主義運動に代表される左翼運動のみならず、さ まざまな利害関係から出立する社会運動が出現した。したがって、ユートピア思想および ユートピアの実現をめざす運動を観察するには材料に事欠かない時期であると思われる。

  このような関心から再度、明治末期から昭和初期を見てみると、文学史、美術史、建築 史、社会思想史、社会運動史、労働運動史、農業史、教育史、政治史、行政史、経済史、

宗教史等々において、ユートピアに何らかのかたちで関わっていたと推察される思想家や 文筆家、運動家をあげることが可能となるが、本研究では中でも石川三四郎(1876〜1956) という人物に着目したいと思う22)

  石川は、従来、近代日本における社会主義運動、アナーキズム運動の黎明期を担った思 想家・社会運動家の一人として記録されてきた。たしかに、石川を外してこの方面の歴史 を記述することはできないが、本研究では、もう少し視野を広め、左翼思想史・左翼運動 史の枠を越えた上で、ユートピア研究の立場からこの人物がもつ思想的広がりの豊かさに ついて検討していきたい。

  石川の言動の詳細に関しては、第3章以降でふれていくことになるが、この人物の最大 の特徴として、①地球的視野をもって先駆的な発言をしていた、②日本社会においては特 異であると評価されるものの説得力のある社会的実践活動を試みたという2点をあげるこ とができる。この2点は、ユートピアについて語る際に必要とされる包括的視野と、ユー トピアがもたらす新しい社会運動の波及と大きく交わってくる。

(15)

10

  以上のような見解から、本研究では、石川三四郎を対象とし、その思想および社会的活 動に関する考察を行なうことにする。同時に、近代日本の知識人がどのような理想社会の 構想を練っていたのかという関心から、石川と同じ道を歩もうとしていた人物についても 見ていくこととする。それによって石川の理想社会論および社会改革の試みの歴史的意義 をより精確に捉えることが可能になるものと考える。更には、日本におけるユートピア史 の可能性について考える素地をつくることも目的とする。

  ユートピアに関する研究には、ユートピア論そのものに関する哲学的探究、ユートピア の実現をめざす運動に関する歴史的検証、ユートピア思想家や社会事業家に関する個別研 究など複数の研究手法が考えられるが、本研究では、一人の人物に対象を絞るかたちにな る。ただし、それは、単発の研究で終わらず、ユートピア研究という壮大な研究集合体の 一つに含まれることになり、同時にユートピア研究に何らかの貢献が期待できるものとな るであろう。

(16)

11 序章  注

1) クマー,クリシャン 菊池理夫・有賀誠訳『ユートピアニズム』(昭和堂,1993年)ⅲ

-ⅶ頁。原書は1991年の発行であるが、該当箇所は1993年9月に執筆された「日本語

版への序文」である。

2) 近年の日本における学術の動向を見れば、文学研究においては、社会主義文学に留ま らず、広く社会性のある文学を研究することを目的とする「日本社会文学会」という学 会があり、社会文学研究を進めている。一方、医学、農学、工学の分野においては、医 療倫理学、環境倫理学、社会医学、循環型社会構想への有機農法研究の応用など、社会 性を意識した研究が進展しつつあり、人文学、自然科学においても、社会との接点を広 めようとする試みが見られる。

3) 比較文学研究者の芳賀徹によれば、西洋のユートピアは、人工的、自然破壊的、管理 統制的であるが、東洋の桃源郷は、自然共生型、牧歌的であって、対極に位置している という。〔芳賀徹「桃源郷の系譜(二)−東アジアの理想郷」辻瑆・芳賀編 『文学の東 西』(放送大学教育振興会,1988年)所収を参照〕

4) モアの『ユートピア』は、1882〔明治15〕年井上勤(1850〜1928)の訳で『良政府 談』として発行されているという。〔高柳俊一 『ユートピア学事始め』(福武書店,1983 年)244頁、石塚正英・柴田隆行監修『哲学・思想翻訳語事典』(論創社,2003年)275 頁〕また、明治期のユートピア思想を概観したものとして、柳田泉「明治日本のユート ピヤ思想」『世界』第217号(1964年1月)がある。

5) 日本におけるユートピアを探究したものとして、安永壽延『日本のユートピア思想−

コミューンへの志向』(法政大学出版局,1971年)、滝沢精一郎『日本人のユートピア−

茶室と隠れ里』(雄山閣出版,1978年)、中西進『ユートピア幻想−万葉びとと神仙思想』

(大修館書店,1993年)などがある。

6) 田村紀雄「渡良瀬川沿岸の「鉱毒議会」−つかの間の農民コミューン」ユートピアの 会『日本ユートピア学事始』(河出書房新社,1973年)所収,150-151頁。

7)海外の日本研究者が、日本のユートピアの可能性を探ったものの中で平賀源内が取り上 げられている。Bikle, George B., “Utopia and the Planning Element in Modern

(17)

12

Japan”, in Plath, D.W. ed., Aware of Utopia (Chicago: University of Illinois Press,1971),pp.33-54.

8) 社会思想史研究者の縫田清二は、意識のエネルギーの発露という視角から見た場合、

日本の精神的風土においてユートピア思想が定着したことがなかったとの見解を述べ ている。〔縫田清二『ユートピアの思想−個と共同の構想力』(世界書院,2000 年)13 頁〕日本にユートピアが定着しなかった理由については大きな研究課題であり、議論の 余地が残されているが、ここでは、定着していないという事実については縫田の報告に ならう立場に立つこととする。ところで、ユートピアの場合と類似して曲がった解釈の まま輸入されたものに「アナーキズム」 がある。1902〔明治35〕年に発行された煙山 専太郎(1877〜1954)の『近世無政府主義』の内容が、アナーキズムの本源にある徹底 した自由の探究に関するものではなく、ほとんどロシアのテロリズム運動に関する記述 であったため、その後のアナーキズム運動に与えた影響は少なくなかったという。これ は、日本においてアナーキズムに対する負の印象が先行することとも連関する。〔大沢 正道『自由と反抗の歩み−アナキズム思想史』(現代思潮社,1962年)199-201頁〕な お、現今、Anarchismは、「アナーキズム」または「アナキズム」と2種の表記がある が、本研究では「アナーキズム」を用いることにする。

9) 坂本慶一『マルクス主義とユートピア−初期マルクスとフランス社会主義』(紀伊國屋 新書,1994年)165-190頁。

10) 社会主義に関する文献に比べてユートピア関連のものは少ないが、明治元年から、翻 訳も含めて、文献史は刻まれてきている。詳細は、香内信子「日本のユートピア文献解 題 付・ユートピア文献史」 ユートピアの会編,注6前掲書所収を参照。

11) 由分社より発刊していた『社会主義研究』の第4号(1906年7月)に発表している。

12) 川端香男里『ユートピアの幻想』(講談社学術文庫,1993年)170-182頁。川端によ れば、アンチ・ユートピアは、理想とかけ離れた暗黒社会の姿を描くことによって、か えって読者にユートピアについて考える機会を与えるという点において、意味があると いう。なお、近代日本文学史上のアンチ・ユートピア作品として、芥川龍之介『河童』

(1927年)、佐藤春夫『のんしゃらん記録』(1929年)をあげている。   

13) 堺利彦とユートピアに関しては、尾原宏之「堺利彦の「ユートピア」−明治社会主義

(18)

13

における「理想」の一断面」『初期社会主義研究』第18号(2005年11月)を参照。

14) 岡﨑一「平民社とユートピア」『初期社会主義研究』第7号(1994年3月)16-17頁。

岡﨑は、堺利彦がユートピア小説と密接な関係をもっており、平民社のユートピア的雰 囲気を代表していたとの見解を示している。

15) 協同組合研究の世界においては、資本主義以前の自然発生的で、個人を埋没させる「共 同体」と、資本主義を否定して新しい社会制度をつくる原動力となることを目的として 設立される「協同体」を区別している。〔協同組合事典編集委員会編『新版 協同組合事 典』(家の光協会,1986年)31頁〕本研究では、「協同体」の意義を認めつつも、「共同 体」という用語を、人びとが共に生活を営んでいる場を広く示す用語として用いていく ことにする。すなわち、人類の歴史が始まってから現在に至るまでに発生した共同生活 の場、また、将来発生してくる、あるいは設立されることになる共同生活の場、これら 全てを「共同体」と呼ぶことにする。したがって、本研究の立場においては、協同組合 研究において用いられる「協同体」は、「社会改良を目的とした共同体」と表現するこ とになる。ただし、伝統的な共同体の復活を強く意識して「共同体」を使用するわけで はない点を付言しておく。

16) ユートピア思想と協同組合の接点に関しては、石見尚「ユートピア思想と協同組合」

斉藤仁監修 農林中央金庫調査部研究センター編『今日に生かす協同思想−危機克服へ の提言』(家の光協会,1984年)所収を参照。

17) 杉本貴志「明治日本における西欧経済学と協同組合思想の流入−慶応義塾を中心とし て」『協同組合研究』第11巻第1号(1991年1月)46-47頁。

18) 山本秋『日本生活協同組合運動史』(日本評論社,1982年)81-85頁。

19) 縫田,前掲書,13頁。

20) ユートピアに関する共同研究の成果として書籍にまとめられた例をあげることにする。

井口正俊・岩尾龍太郎編『異世界・ユートピア・物語』(九州大学出版会,2001年)は、

九州大学、西南学院大学を研究拠点として、多方面からユートピア研究を行なった成果 をまとめた論考集である。また、坂上貴之・巽孝之・宮坂敬造・坂本光編著『ユートピ アの期限』(慶應義塾大学出版会,2002年)は、ユートピアを共通テーマとして開設さ れた2000年度慶應義塾大学文学部設置総合講座の成果を編集したものである。

(19)

14

21) 小林一美・岡島千幸編『ユートピアへの想像力と運動−歴史とユートピア思想の研究』

(御茶の水書房,2001年)を参照。同書は、神奈川大学人文学研究所の共同研究プロジ ェクトの一つである「歴史とユートピア研究」グループの成果をまとめたものである。

22) 石川には他に、旭山、不盡、犬王、山紫楼、帆雨などの筆名がある。

(20)

15

第 1 章  先行研究および研究方法

    第1節  先行研究と関連文献

1.石川三四郎に関する文献  

本研究は、ユートピア研究の一環として石川三四郎を対象にするわけであるが、本論に 入る前に、従来、石川がどのような分野から対象とされ、いかなる分析がなされてきたか 確認しておく必要があると思われる。そこで本章では、石川研究の動向を概観し、続いて 本研究の立場と研究方法について述べることにする。

本項では、石川三四郎に関係する文献を概観するにあたり、①石川の著作物の刊行状況、

②石川に関する学術的な研究、③研究ノート・評伝、④近接研究に分けて見ていく。同人 誌や新聞に掲載された回想録などは、ここでは研究の範疇に含めず、巻末の文献表に掲げ ることにする。

①石川の著作物の刊行……石川が死去した1955〔昭和30〕年以降に編集・発行された 主な著作物は、『わが非戦論史』(ソオル社,1956年)、『石川三四郎書簡集』(ソオル社,

1957年)、『石川三四郎選集』全7巻(黒色戦線社,1976〜84年)、『石川三四郎集』近代 日本思想体系16(筑摩書房,1976年)、『石川三四郎著作集』全8巻(青土社,1977〜79 年)である。ソオル社の2点は、石川と直接交流のあった唐沢柳三が編集し、限定出版で 出された。また、残りの3点の編集・解説には、同じく石川と交流のあった大沢正道が関 わっている1)

  石川の全集は出ていないものの、『石川三四郎選集』と『石川三四郎著作集』を合わせれ ば、主要な著作は網羅される。この点から、石川は、著作物の整理と再編集が充実してい る文筆家・思想家ということができる。

 

(21)

16

②石川に関する学術的な研究……大学や研究所が発行する紀要のみならず、一般雑誌に も掲載された論文を含めて見てみる。

  (1)大沢正道「石川三四郎論(上)」『思想の科学』第4次第7号(1959年7月)、「無政 府主義者・石川三四郎(下)」『思想の科学』第4次第8号(1959年8月)は、前出の大 沢が著したものであるが、近代日本に石川というユニークな思想家がいたことの指摘と、

石川研究の先鞭をつけたという点で、意義がある論考といえる2)

  (2)松岡文平「石川イズムの形成とその特質」『黒の手帖』第7号(1969年6月)は、石

川が、「戦いの生活化」を訴えた革命家として注目に値するとの見解を示している。

(3)秋山清「解説」石川三四郎『虚無の霊光』(三一書房,1970年)所収は、石川が日本

の他の社会主義者と比較して、農村と農民に深く関心をもって、運動の展開を考えようと していた点を指摘した。

(4) 都 築 忠 七 “‘My dear Sanshiro’:Edward Carpenter and His Japanese Disciple”Hitotsubashi Journal of Social Studies, Vol.6, No.1(November 1972)、および

「石川三四郎の自由社会主義−カーペンターとの邂逅をめぐって」『歴史と人物』第20号

(1973 年 4 月)は、石川が思想形成上でイギリスの詩人・思想家エドワード・カーペン ター(Edward Carpenter,1844〜1929)から大きな影響を受けた点を指摘し、自由社会 主義を標榜した人物という観点から石川を分析している。

  (5)辻野功「石川三四郎−海老名弾正との関連において」『キリスト教社会問題研究』第

23号(1975年3月)は、石川が社会運動家として歩み始めた頃に、いかにしてキリスト 教が受容され、その後の言動に影響を与えているかを分析した。

  (6)綱沢満昭「石川三四郎の思想」『日本近代と民俗的原質』(風媒社,1976年)所収は、

石川の思想が広義の農本主義の範疇に収まるものであり、他の社会主義者やアナーキスト が見逃した分野を補填することに繋がっていると指摘した。

  (7)鶴見俊輔「解説」『石川三四郎集』近代日本思想体系 16(筑摩書房,1976 年)所収

は、日本の右翼と左翼が、日本の国家権力追随の文化人と海外の国家権力追随の文化人の 対立という枠の外に出ないことが多い状況下にあって、石川がこの枠の外にいる知識人で ある点を強調している。

  (8)中村勝範「『ディナミック』総目次と解説」『法学研究 法律・政治・社会』第49巻第

(22)

17

12号(1976年12月)は、資料紹介というかたちをとっているが、石川の個人誌に焦点を 絞り、その歴史的意義について論じた初の試みである。

  以上、ここまでの研究史を整理すると、石川の死後3年で、早くも検証が始まり、1970 年代に入ると、支持者たちのみならず、日本政治思想史、日本宗教史、西洋思想史などの 分野の研究者が考察を行なったといえる。80年代に入ると、それまでの考察の再点検と同 時に、石川の発言範囲の広さを裏付けるような研究が行なわれていく。

  (9)竹内則之「石川三四郎の「土民生活」思想−その生成と構造をめぐって」『武蔵大学

人文学会雑誌』第12巻第1号(1980年9月)は、石川の思想の核となる「土民生活思 想」を、社会変革と人間変革の同時遂行をめざす革命論であったとしている。

  (10)小岩豊彦「『新紀元』時代の石川三四郎−田中正造からの宗教的影響」『田中正造と

その時代』第2号(1982年4月)は、石川と田中正造(1841〜1913)の交際に焦点を絞 ったものであるが、石川独自の社会運動論の形成に、田中の土着の民に接近しようとする 姿勢が大きく影響を与えた点を指摘している。

  (11)岡本宏「石川三四郎」田中浩編『近代日本のジャーナリスト』(御茶の水書房,1987

年)所収は、大逆事件により社会主義が冬の時代に入る前までの期間、石川がジャーナリ スト、雑誌編集者として多方面に活躍していた点を指摘し、無産運動にいかに関わってい たか考察している。

  (12)板垣哲夫「石川三四郎『虚無の霊光』の思想」『日本歴史』第466 号(1987  年 3

月)、「石川三四郎(一八七六〜一九五六)における思想的出発」東北史学会『歴史』第68 輯(1987年4月)、「『新紀元』廃刊(明治39年11月)後における石川三四郎の思想」 『日 本歴史』第470号(1987年7月)、「大正期における石川三四郎の思想」『山形大学史学論 集』第8号(1988年2月)、「昭和期における石川三四郎の思想」『山形大学紀要 人文科 学』第11巻第4号(1989年1月)、「石川三四郎「虚無的日本人」(大正10年4月)につ いて」『日本学』第15号(1990年6月)3)、これら一連の論考は、石川の思想形成過程を、

社会運動家・思想家としての出立期から円熟期に至るまで、年代順に丁寧に追っていった ものである。

  (13)三原容子「「農本的アナーキズム」と石川三四郎」『日本教育史論叢−本山幸彦教授

退官記念論文集』(思文閣出版,1988年)所収は、石川が国体重視と結びつく農本的傾向

(23)

18

をもっていたものの、西欧の個人主義を基盤とする人間観をもっていたゆえに日本優越視 には至らず、また、その発言が日本社会で受容されることがなかった点を指摘した。

  (14)赤尾利弘「石川三四郎の見た滞仏中の藤村」『亜細亜大学教養部紀要』第37号(1988

年 6 月)は、大正期、亡命中の石川と島崎藤村(1872〜1943)がパリで数回面会したこ とに着目したものである。思想傾向を異にし、立場も異なる両者が、異国における同胞と いう事情もあって、文芸、社会思想に関して有益な議論を展開していた点を明らかにした。

  (15)岩崎正弥「石川三四郎の「土民生活」と農本主義−権力への抵抗思想」『農林業問題

研究』第24巻第2号(1988年6月)は、石川の提唱した「土民生活」が、権力に対抗す る生活を拠点にした抵抗運動であり、また、組織論という点では、内部権力の発生を阻止 する方法が十分に練られていたことを指摘した4)

  (16)平島敏幸「石川三四郎に於ける社会主義とキリスト教」『学習院大学文学部研究年

報』第36輯(1990年3月)、「石川三四郎の「土民思想」」『学習院大学文学部研究年報』

第37輯(1991年3月)、「石川三四郎の社会哲学」『学習院史学』第32号(1994年3月)、 これら一連の論考は、先述の板垣論考と重複する部分があるものの、石川の思想遍歴を出 立期から丁寧に追ったものである。特に、石川が個の独立を重視する共同生活体を重視し ていた点、円熟期に提唱するに至った「社会美学」が、人間的科学に基づく独自の社会哲 学であった点を指摘した。

  (17)稲田敦子「The Theory of Endogenous Development in “Yogaron”―An Aspect in the Thought of Edward Carpenter and Ishikawa Sanshiro(2)」『聖学院大学論叢』第11 巻 第 3 号 ( 1999 年 3 月 )、「 Comparative Observations on Theories of Internally-generated Development―An Aspect in the Thought of Edward Carpenter and Ishikawa Sanshiro」『聖学院大学論叢』第12巻第2号(2000年2月)は5)、カーペ ンターの調和社会論が、石川が後に提言することになる「複式網状組織」と、新しい変革 主体を軸とした共同体の再編成の探求にいかに影響を与えているかという点を詳述してい る。カーペンターと石川の関係については、前出の都築論文があるが、稲田は比較思想史 研究の立場から新地平を拓いている。

  (18)大沢正道「石川三四郎の平和主義」家永三郎責任編集『横田喜三郎  石川三四郎  無

産政党・労働者の反戦運動資料』日本平和論大系第11巻(日本図書センター,1994年)

(24)

19

所収は、石川が生涯で4度戦争に遭っている事実を示し、アナーキストとして知られてい る一方、平和主義の思想家としても活躍した点を紹介している。満洲事変の頃には、左翼 というよりも石橋湛山(1884〜1973)らの「小日本主義」に近い発言をしていた点も指摘 している。

  (19)小澤萬記「石川三四郎の反進化論」『高知大学学術研究報告 人文科学』第43巻(1994

年 12 月)は、石川の科学評論に詳しく言及したものであり、反進化論の立場が、社会進 化論批判に至り、過去を理想化する社会思想に結実している点を指摘した。

  (20)米原謙「戦後思想の原風景−天皇と平和と」米原『日本的「近代」への問い−思想

史としての戦後政治』(新評論,1995年)所収、「第一次世界大戦と石川三四郎−亡命アナ キストの思想的軌跡」『阪大法学』第46巻第2号(1996年6月)、「亡命時代の石川三四 郎−その周辺」『阪大法学』第28巻第3号(1998年8月)は、石川の天皇観、平和観に 的を絞っている。ヨーロッパ亡命中にベルギーで経験した第一次世界大戦に関する発言や、

終戦前後の行動などを分析し、石川が必ずしも絶対平和論者として一貫した発言をしてい たわけではない点が指摘された。

  (21)後藤彰信「石川三四郎の主観主義」宮城教育大学大学院教育学研究科修士論文(1997

年3月)は、石川が個の変革と社会変革の同時遂行という視点を、主観と客観、および個 と社会を統一的に把握する思想原理を模索していたが、その思想的営為自体が主観主義と して包括できるものであり、一貫性があった点を指摘している。

  (22)山口晃「モロッコの石川三四郎とその後−地理的環境論への道」『近代日本研究』第

17巻(2000年3月)は、亡命中の石川が、エリゼ・ルクリュ(Elisée Reclus,1830〜1905)

の親族に守られ、交流の過程で人文地理学や古典の研究に開眼した点に着目している。特 に、モロッコに一時滞在した時から、『古事記』や神話の研究を試みる決断をした経緯が詳 述されている。石川の社会思想に、地理学的発想が多く含まれていることを指摘する重要 な研究ノートである。また、山口は、1997年9月より、石川三四郎研究・季刊個人誌『木 学舎だより』の発行を開始した。創刊号から第5号まで、論考「齟齬・共同性・身体−「土 民」・「保守」・「一味」という言葉を手がかりにして」が掲載されている。本論考では、石 川が鍵となる用語として好んで用いていたいくつかの語に着目し、思索の過程を丁寧に追 っている。

(25)

20

(23)木下英司「石川三四郎のキリスト教社会主義形成とその意義」『比較思想研究』第

30号・別冊(2004年3月)は、2003年度比較思想学会の研究例会の報告である。石川に おいては、神の意志である平等と博愛をかなえるために社会運動が主催され、その手段が 社会主義であるという解釈がなされているという点を明らかにしている。

(24)坂井健「石川三四郎と宮沢賢治−『非進化論と人生』と『農民芸術概論』」『宮沢賢

治研究Annual』第14号(2004年3月)は、1974年に栗原敦の論考の中で指摘された宮

沢賢治(1896〜1933)と石川の思想的接点に関して、主要著作を分析しながら詳述してい る。

(25)学術団体である初期社会主義研究会の定期刊行物『初期社会主義研究』の第 18 号

(2005年11月)は、<特集:石川三四郎>として、石川と直接交流のあった人物による 随筆や研究論文、研究ノート、年譜、著作目録を載せている。論文を順にあげると、大沢 正道「石川三四郎のなかの三つの問題」、山口晃「土民生活−放浪と居場所のふれあうとこ ろ」、太田雅夫「石川三四郎と本郷教会・平民社」、後藤彰信「石川三四郎の自由恋愛論と 社会構想−本郷教会と平民社における自由恋愛論争と国家魂論争」、山泉進「初期社会主義

とFree Love−石川三四郎の「自由恋愛私見」をめぐって」、岡田孝子「望月百合子にみる

石川三四郎の影響」、林彰「石川三四郎の修養主義批判」、川上哲正「石川三四郎のみた中 国」となっている。前出の著者による論考も見られるが、没後 50 年を経て、近代日本に おける初期の社会主義者である石川が、広範にわたる言動をしていたことを再検討する論 文がまとめられたといえる6)

さらに、『初期社会主義研究』第19号(2006年12月)は、<特集:『新紀元』−社会 主義と基督教>として、石川三四郎が主宰していた雑誌『新紀元』に関する研究論文を載 せている。中でも、後藤彰信「石川三四郎の神観念と結合原理の模索−『新紀元』から一 九三〇年代へ」は、石川と『新紀元』の関係について詳述している。

(26)後藤彰信「石川三四郎の思想形成と伝統思想」松永昌三編『近代日本文化の再発見』

(岩田書院,2006年)所収は、著者が積み重ねてきた石川研究をもとにしつつ、初期社会 主義運動史上に占める石川の独自性を明らかにしたものである。

(27)野澤秀樹「石川三四郎におけるエリゼ・ルクリュの思想−その受容と差異」 『地理

学評論』(2006 年12 月)は、地理学者の立場から、フランスの地理学者であるエリゼ・

(26)

21

ルクリュの思想が石川に与えた影響を分析している。

ここまで発表年順に先行研究を見てきた。1980年代以降は、出版史、文化史、比較思想 史、日本文学史、農業経済学、科学史、国際政治学などの分野の研究者が論考を発表して いる。これだけ多くの分野から接近が可能であるということは、石川自身が枠に嵌まらな い言動をしていた証左になるであろう。また、それは、同時に、解明が困難な思想家であ ることを意味する。

石川は、その人生の前半は社会主義者、後半はアナーキストとして一般に知られている ため、この分野の研究者が参入することが予測されるが、意外と研究が進んでいない。そ れはおそらく、石川の発言に一貫性がないと見受けられる箇所が複数あるため、分析の角 度が定まらないということに由来するのであろう。また、在野の研究者である大沢正道、

後藤彰信、山口晃を除いて、石川を継続的に研究している者がいないという点も石川研究 の特徴といえる。

いずれにしても、先行研究の動向を見るかぎりにおいては、石川研究はある特定の分野 に独占されることがなく、未解決の要素も多分に含みつつ現在に至っているといえる。

③研究ノート・評伝……学術論文の範疇には入らないが、資料的価値が高いものをあげ る。

  (1)北沢文武『学問と愛、そして反逆−石川三四郎の生涯と思想(上)』(鳩の森書房,1974

年)、『愚かな彼、愚かな道−石川三四郎の生涯と思想(下)』(鳩の森書房,1974年)、『帝 力、我に何かあらんや−石川三四郎の生涯と思想(完結編)』(鳩の森書房,1976年)は、

石川の出身地である埼玉県本庄市在住の著者が、書簡や聴き取りを含めて、その生涯を詳 細に記述した初の試みである。石川の養女永子をはじめ、遺族やかつての同志たちから提 供された資料や証言が豊富に含まれている点が特徴である7)

  (2)大原緑峯〔大沢正道〕『石川三四郎−魂の導師』(リブロポート,1987 年)は、石川

の著作集の刊行を経て、「民間日本学者」というシリーズの一つとして執筆されたものであ る。石川の全体像を客観的に語るのではなく、本質的な部分にのみ焦点を当て、一方、主 観的な美化がまじらないように配慮しつつ書かれたという点が特徴である。

  (3)椎名其二「石川三四郎のことなど−自由に焦れて滞仏四十年」『中央公論』第75年第

(27)

22

2号(1960年1月)は、石川がフランスの田舎町ドムにおいて、亡命ではあるが牧歌的生 活を送っていた時期に交流した著者による回想録である。英仏の知識人との交流など、石 川の国際的な交友範囲を窺い知ることができる貴重な記録である8)

  (4)米原謙「石川三四郎の足跡を訪ねて−ドルドーニュ県ドム町」『書斎の窓』第455号

(1996 年 6月)、「石川三四郎の亡命を助けたベルギー外交官−ゴベールのこと」上,下

『書斎の窓』第462,463号(1997年3,4月)、「ブリュッセルの石川三四郎」1〜4 『書 斎の窓』第467〜470号(1997年9〜12月)は、上記(3)に同じく、亡命時代の石川の動 向を知ることができる資料である。石川の人柄も手伝って、多くの人々の国際的連繋によ って支援を受けていたことが詳述されている。

 

④近接研究……石川を中心テーマとして扱っているわけではないが、看過することがで きない言及が含まれているものをあげる。

  (1)判沢弘『土着の思想−近代日本のマイノリティーたち』(紀伊國屋新書,1967年)は、

近代日本において見られる土着的思想の系譜を探ったものであるが、辻潤(1884〜1944)

に関する記述の中で、現代文明を社会美学的視点から批判し、生きるべき新しい道を指し 示した思想家として大杉栄(1885〜1923)と石川三四郎をあげている。アナーキズムの系 譜に、日本の土壌から生み出した、社会に対する新しい審美的思想を付け加えたという点 で、石川も日本が輩出した真の意味における思想家と呼ぶに値する人物の一人として評価 されている。

  (2)栗原藤七郎「非国家主義的農本主義思想について−昭和初期の農本主義の一潮流」

『農村研究』第33・34合併号(1972年2月)は、農本主義を広義にとらえ、トルストイ

(Lev Nikolaevich Tolstoi,1828〜1910)の影響による系譜、アナーキズムの系譜、近代 文明批判を目的とする系譜に分け分析を試みている。石川は、アナーキズムと文明批判の 先覚者として取り上げられており、農本主義すなわちファシズムとはならない例の一つと 位置づけている。一方、非国家主義的農本主義が、経済運動までに至らず、思想運動の領 域に留まった点も指摘している。

  (3)安田常雄「農民自治と農村自治」『歴史公論』第11巻第1号(1985年1月)は、大

正末期に、石川が下中弥三郎(1878〜1961)、渋谷定輔(1905〜1989)、中西伊之助(1887

(28)

23

〜1958)らとともに創設した農民自治会について言及している。同会は、内部分裂と組織 的力量の脆弱性ゆえに短期間で解体するが、戦時下で自給自足生活を維持して国家の政策 に同調しなかった代表的人物として石川をあげ、個人原理を基礎とした生存権と共生の思 想が、地域の中に生成する生活を基軸とする相互主体的な社会への構成原理を準備したと 指摘している。

(4)岩崎正弥「帰農農本主義の歴史的意義」『社会思想史研究』第16号(1992年8月)

は、日露戦争後に特徴的にあらわれた知識人たちの帰農について、農業経済学的関心をも ちつつ歴史考察を行なったものである。徳冨蘆花(1868〜1927)をはじめ、武者小路実篤、

加藤一夫(1887〜1951)、岡本利吉(1885〜1963)ほか12人の文学者、思想家、評論家 の帰農を、生活の形態と持続度によって分類している。石川については、食糧自給が基本 の半農生活の形態で、1927〜56 年の間、生涯にわたって持続したと記録され、有畜複合 経営による、米中心イデオロギーとは隔絶した農業を行なっていたと分析されている。

  (5)斎藤文一『宮澤賢治−四次元論の展開』(国文社,1991年)は、宮沢賢治が理想的社

会の構想を練る際に、いかに石川の影響を受けているかという点に関して詳述している。

石川の独自の社会哲学が、宮沢の「農民芸術概論綱要」作成時に大きな影響を与えている 点を指摘し、石川と宮沢の画策した農民運動に類似点が多々あることを立証している。

  (6)中尾正己『大正文人と田園主義』(近代文芸社,1996年)は、小説家のみならず、社

会評論家や思想家を含めたいわゆる「文筆家」の中で、明治末から大正期にかけて流行現 象となった、文筆活動と田園生活を両立する半農生活について、いくつかの事例を紹介し、

分析したものである。石川について言及した章では、教育と文化活動を基軸とした模範的 共同体づくりを試行したという点で、武者小路実篤の「新しき村」と接点があることを指 摘している。社会運動史、文学史と、それぞれの分野で記述される人物が、田園主義とい う観点からすると、結びついてくることが明らかにされたといえる。

  (7)今田剛士「協同の倫理とナショナリズム−アナーキズムと農本主義」『批評空間』第

Ⅲ期第4号(2002年7月)は、昭和初期のファシズム体制下にあって知識人の間で流行 した帰農について、従来の農本主義解釈の枠を離れて新しい視点から分析したものである。

橘孝三郎(1893〜1974)と石川が言及の主な対象となっているが、石川に関しては、非転 向のアナーキストといわれるものの、実際は、国家のイデオロギーとしての農本主義を育

(29)

24 てる役割を果たしていた点を指摘している。

 

以上、4 種類に分けて石川関連文献を見てきた。ここで取り上げた以外にも、回想録や 新聞記事、個人誌などは存在するが、巻末の参考文献に掲げることで補う。本項では、上 掲の先行研究に関して、再度動向の確認をしておく。

  まず、①「石川の著作物の刊行」に関しては、十分復刻の作業が行なわれていることが 分かる。石川三四郎は、初等・中等教育の日本史の教科書に記載されておらず、日本社会 運動史における記述も多いとはいえないが、それに反比例して著作の整理が進んでいる人 物であるといえる。また、大沢正道、唐沢柳三のように、石川と直接交流のあった人々に よる著作の発掘作業は進行中であり、さらに、石川の出生地である埼玉県本庄市の市立図 書館に設けられている「石川三四郎翁記念資料室」には、遺族から譲り受けた石川の蔵書 や書簡が収められ、新発見資料も収集されつつある。このように、石川の著作を取り巻く 環境は良好であるといえる。

  次に、②「石川に関する学術的な研究」であるが、論文数は、著作集の充実度に比例し ておらず、十分に研究がなされているとはいえない。ただし、日本史学、政治学、宗教学、

比較思想史学、農業経済学などの学問分野からの接近が見られることから、石川研究は、

考察への入口が広いということができる。石川の没年は1956〔昭和31〕年であるが、数 年後には大沢正道によって研究への道が開かれている。以後、間断なく研究が行なわれて きているが、先述のように、継続研究をしている者が少なく、数年ごとに研究の表舞台に 出てくる研究者が入れ替わっている。また、通常石川研究を主に行なっていないが、自ら の関心の延長線上に石川が浮上してきたことに伴って執筆された論考もいくつかある。

③「研究ノート・評伝」は、充実しているといえる。北沢の豊富な取材に基づく評伝に より、石川の特異な生涯の全体像が明らかとなり、大沢の角度を変えた評伝により新地平 が拓かれた。石川の回想録や足跡を辿る文章は多々あるが、前掲の椎名の回想と、米原の 現地取材は、石川の亡命時代の様子を詳述したものとして意義がある。石川の著作の充実 度に比例して評伝の刊行作業は進んでいるといえよう。なお、ここでは取り上げなかった が、臼井吉見の長編小説『安曇野』の中で石川が登場し、史実に基づきつつ豊かに描かれ ていることから、同書が人間石川を描くことに最も成功しているという見解もある。

参照

関連したドキュメント

りの方向性を示した「新・神戸市基本構想」 (平成 5 年策定)、 「神戸づくりの 指針」 (平成

やがて第二次大戦の没発後,1940年6月,ケインズは無給顧問として大蔵

原稿は A4 判 (ヨコ約 210mm,タテ約 297mm) の 用紙を用い,プリンターまたはタイプライターによって印 字したものを原則とする.

株式会社 8120001194037 新しい香料と容器の研究・開発を行い新規販路拡大事業 大阪府 アンティークモンキー

第四系更新統の段丘堆積物及び第 四系完新統の沖積層で構成されて おり、富岡層の下位には古第三系.

当所6号機は、平成 24 年2月に電気事業法にもとづき「保安規程 *1 電気事業用 電気工作物(原子力発電工作物) 」の第

本稿は、江戸時代の儒学者で経世論者の太宰春台(1680-1747)が 1729 年に刊行した『経 済録』の第 5 巻「食貨」の現代語訳とその解説である。ただし、第 5

当社グループは、平成23年3月に発生した福島第一原子力発電所の事故について、「福島第一原子力発電所・事