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石川三四郎とユートピア

ドキュメント内 石川三四郎のユートピア構想 (ページ 58-82)

第1節  石川三四郎の遍歴

      1.理想社会論の構築までの道程

前章で見たように、社会実験的ユートピアは、主として北米において出現してきており、

それに関する研究もさかんであるが、日本におけるユートピア運動に関しては考察の余地 が残されていた。西田天香、武者小路実篤、山崎巳代蔵は、それぞれ宗教史、文学史、農 業史の分野において注目される人物であるが、日本ユートピア史上の著名人という共通点 がある。石川三四郎は、社会主義運動史・アナーキズム運動史において著名であるが、ユ ートピア史において取り上げられることはほとんどなかった。そこで、本章では、石川の 思想遍歴を見た上で、彼のユートピアンとしての側面を確認していく。

第1章第1節の「先行研究と関連文献」において触れたように、石川三四郎の生涯に関 しては、いくつかの記録や研究ノート、評伝がある。本項では、理想社会の構想に関わる 事項に的を絞って、彼の思想遍歴を見ていく。

石川は、1876〔明治9〕年、埼玉県児玉郡山王堂村(現在の埼玉県本庄市)の五十嵐家 の三男として出生している。4 歳の時、徴兵を逃れるために、近所の石川家と養子縁組を 行ない、「石川三四郎」と名乗るようになったが、実際は五十嵐家で兄たちとともに成長し ていった。実家は、利根川河畔の船着問屋であり名主であったが、1884〔明治 17〕年、

上野・高崎間の鉄道の開通に伴って打撃を受け、本庄町の停車場前に運送店を開いたもの の失敗し、家運が傾きはじめた。

このように、石川は、幼少期より近代化による社会変化の影響を間近で見ながら育った。

また、生家が農家ではなかったため、周囲に農耕地が広がっているにもかかわらず本格的 な農作業を経験することがないまま育った。

  実父は教育に熱心な人物であり、財政難ではあったが、子に高い教育を受けさせるため

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に東京へ出していた。兄たちに続いて、1890〔明治23〕年、14歳の時、石川も上京した。

そして、同郷の2人の自由党員が共同生活をしていた家の玄関番をしながら、福音教会で 英語を勉強し、また、画塾に通うなどして教養を身につけ始めた。下宿先には、自由党員 らが頻繁に集まっていたことから、日夜繰り広げられる彼らの討論を聞くなかで、社会問 題に関心をもつようになった。

  その後、同じく自由党員の福田友作(1865〜1900)の書生になり、また、次兄の下宿先 に住むなど、転々としつつも勉学を継続し、帝国教育会文学会、国語伝習所を経て、哲学 館(現・東洋大学)に入学する1)。しかし、世話になっていた福田家が窮乏に陥ったため、

哲学館を中退し、失意の中、1895〔明治25〕年、故郷に引き揚げることになった2)。   家族を含めたさまざまな人々の助力により実現した東京遊学であったが、経済的困窮の ために、具体的な結果を残すことなく中途で断たれた。この間、2 人の兄や郷里の親類、

知人が、新県道の整備をめぐる埼玉県の政争に絡んで「硫酸ふりかけ事件」を起している が、石川も硫酸購入に関わっていた。兄たちの指示に従っただけであったが、テロに加担 したことになる。この事件は、話し合いで解決への道が見えてこない場合、破壊的行動に 出ていいのか否かという点について考える機会となったといえる。

  帰郷の翌年、友人の紹介により群馬県室田村の高等小学校の代用教員に就いた。しかし、

赤痢の流行による臨時休校と本人の感染のため、わずか半年で再度帰郷する。その後、定 職を得るために中学教員の検定試験を受けるが失敗し、1897〔明治30〕年、21歳で再上 京する。2度目の東京生活では、東京法学院(現・中央大学)、および神田区錦町英語専修 学校に通い、猛勉強の日々を送る。

代用教員としての教員生活は短期間であったが、教員が置かれている状況の観察と同時 に、教育が社会を変革していく際の要になることを実感する機会も得た。地方の初等教育 機関において子供にいかなる教育を行なうかということが、後の社会づくりに大きな影響 を及ぼしてくるというしくみを知ったのである。

  石川の場合、師範学校において教師になるための教育を受けた上で赴任しておらず、ま た、東京において政治家の卵たちと交流していたこともあって、その教育観は、学校教育 に限定されずに構築されていったといえる。通常の経路をたどらずに形成された教育観が 教員検定試験の不合格に結びついているか否かは不明であるが、この経験を通じて石川の

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中で、教育を主軸とした社会改革を模索する芽が出はじめたといえよう。

  一方、勉学の方面であるが、1回目の東京遊学で、英語、国語、文学、美術、哲学など、

人文学を中心に修めたが、2回目は、法律学の講義を主とする社会科学系の学校に進学し、

同時並行で語学力をさらに高めた。理数系までは至らなかったものの、幅の広い知識を身 につけたといえる。

その後、23歳の時、縁談がもちあがったが、他の女性との情事のために破談した。反省 の日々を送る過程でキリスト教に接近する。当時、西洋の新しい思想や学芸をいち早く知 ることができる場として、多くの社会主義者たちが教会に通っていたという背景もあり、

石川は本郷教会において海老名弾正(1856〜1937)から洗礼を受ける3)

個人の抱える問題から出発したものの、次第にキリスト教と社会改革の連関について考 えるようになった。社会主義者の中には、情報を得る場としてのみ教会を利用する者も少 なからずいたが、石川は、熱心にキリスト教の思想を学び、研究した。

一方、新たな女性に出会い、彼女の希望によって弁護士試験を受けるが不合格となる。

また、高等文官試験にも失敗し、公務員への道が断たれた。同時に女性との関係も破綻し た。浪人状態にあった石川であるが、堺利彦、弁護士の花井卓蔵(1868〜1931)の紹介に より、黒岩涙香(1862〜1920)が社主を務めていた新聞社の朝報社に入り、黒岩の秘書と なる。また、同社にて結成された社会改革を目的とする理想団に参画し、内村鑑三(1861

〜1930)に出会う。さらには、社外から参加していた安部磯雄(1865〜1949)、木下尚江

(1869〜1937)らを知る4)

  この頃から社会運動の世界に本格的に入っていくことになるが、石川の就職活動に関し て気づかされるのは、教員検定試験、弁護士試験、高等文官試験と、安定した将来と社会 的地位が保障される前提としての資格試験に悉く失敗しているという点である。

周囲の人々に勧められたため、また、学籍を置いていた学校の雰囲気から、志望動機が 明確でないまま各種試験を受けてしまったという面もあるであろうが、そもそも、石川に は、学歴を立身出世のために活用しようとする意志は弱く、また、統一試験のような決め られたことを確実にこなす作業に違和感をもっていたと推察される5)

結局、当時不安定で社会的地位も高いとはいえない新聞記者の職に就いた。しかし、朝 報社が発行していた『万朝報』は社会問題に関して積極的に迫っていた新聞であり、社会

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矛盾を感じとるには絶好の環境であったため、社会運動家になるには順調な道に進んだと いえよう。

実家が没落しつつある中、東京で勉学に励み、進路先を模索してきた石川であったが、

実学を身につけて家計を助けようとする方向には向かわず、埼玉の利根川沿いの問屋業が なぜ没落に至ったのかという原因を分析し、さらには、あるべき社会の姿について考え、

広域的視野に基づいた理想社会の構築という大きな目標をもつに至ったといえる。

  1903〔明治36〕年11月、日露戦争開戦の気運が高まる中、社主黒岩との見解の相違か

ら朝報社を辞した幸徳秋水、堺利彦らが、非戦論を掲げて平民社を設立すると、石川も共 鳴して入社する。同社にて、文筆活動、編集作業、演説、消費組合運動などに携わる。ま た、ここで寝泊りをしながら、理想社会構築への意思をもつ人々が集う共同生活を体験し た。当時、平民社そのものが、理想社会の雛型のような存在であった6)

1905〔明治 38〕年、平民社が当局による弾圧と、財政難によって解散すると、キリス

ト教社会主義の雑誌『新紀元』をはじめる。編集、取材が縁で田中正造に出会い、足尾銅 山鉱毒問題の渦中にあった谷中村を支援する。この過程で、農民コミューンを原点とする 社会改革運動の大切さ、また、地方の農業の現場において直接農民と話し合う指導者の役 割を知る。

当時、田中正造に影響を受けた社会運動家や思想家は多かったが、特に石川は、生命の 源となる食糧を生産する農民こそが理想社会構築の担い手であることを教えられた。そし て、農業の経験がなく、編集者・ライターとして生計を立てている自らの立場を責め、現 在の生活が正しいことなのであろうかと疑念を抱くようになった7)

しかし、十字架を背負い続けるキリスト教社会主義運動に限界を感じ、また、参画者の 運動方針の違いによって雑誌『新紀元』が廃刊に至ったこともあり、学生時代から世話に なっていた福田英子(1865〜1927)を主宰として雑誌『世界婦人』を始める 8)。同時に、

日刊『平民新聞』の発行人兼編集人となり、多忙な生活を送るようになる。

平民社入社後の石川は、編集業務と同時に、社会運動における見習いの期間を過ごした といえる。編集作業と運動が混じり合った職場でなければ、田中正造と巡り会うことはな かったであろう。ともかく、この時期は、見聞を広めた模索期であり、理想社会像の構築 は始まったばかりであった。

ドキュメント内 石川三四郎のユートピア構想 (ページ 58-82)

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