第1節 知識人の田園回帰
1.田園へ憧憬を抱いた人々
前章までで石川三四郎のユートピア思想の構造と発展の過程が明らかになった。本章で は、石川が試みたユートピア運動について見ていく。その際、石川の仕事を見るだけに留 めないことにする。はじめに、文壇や論壇において一時期流行となった田園回帰現象を概 観し、その群における石川の位置を確認する。次に、石川より10年ほど前に「新しき村」
を建設して社会的実践を試みた作家・武者小路実篤に関してユートピア研究の視点から分 析を行なう。そして、石川が1927〔昭和2〕年から始めた「共学社」の取り組みについて 考察する。最後に、二つの試みの類似点や社会運動としての歴史的意義などについて言及 する。
明治期から昭和の初期に至る間、文壇や論壇で活躍する知識人の間で、文筆活動と農耕 作業を両立する生活に人間が生きていくことの意義を見出そうとする動きが見られた。そ れは、農作業の真似事をする程度のものから、専業農家とほとんど変わらない事業を展開 するものまで多様であったが、明治期からの急速な近代化・工業化に対する批判と、時代 の潮流に逆行するだけではなく、説得力の伴う新しい生活の道を探求するという点では、
目的が一致していたといえる。
半農生活に移行した文学者の中には、個人的な生活の領域やごく親しい者同士に限定し て、精神修養を行なったり、単に趣味として畑仕事を楽しむなどの例が見られたが、とも かく流行作家による農耕作業の開始は、世間一般の関心を惹くことであった。
文壇における半農生活者の嚆矢は徳冨蘆花とされるが、有名作家の生活様式の転換は、
文学者のみならず、思想家、評論家、社会運動家、教育家、宗教家などにも影響を及ぼし た。これらの人々は「知識人」の範疇に入るが、彼らの行動は、本人が意図しているか否
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かにかかわらず、社会的注目をあびるものであるため、農作業にかける精力や時間の多さ ではなく、短時間であっても肉体労働に携わるという姿を見せるだけで影響力が伴った。
これは、啓発型の社会運動であるといえる。
知識人が田園に回帰していく一連の現象を、農業経済学者で農本主義を研究対象として いる岩崎正弥は、「帰農農本主義」という枠を設定した上で考察を行なっている。岩崎は、
帰農の形態に応じて、①帰村生活、②趣味的な「美的百姓」生活、③食糧自給を基本とす る半農生活、④完全な百姓生活に分類している。そして、①には、中里介山(1885〜1944)、 室伏高信(1892〜1970)、②には、徳冨蘆花、相馬御風(1883〜1950)、武者小路実篤、
③には、木村荘太(1889〜1950)、加藤一夫、石川三四郎、岡本利吉、犬田卯(1891〜1957)、
④には、江渡狄嶺、橘孝三郎をあげている1)。
これを見て分かることは、政治思想上の分類においては左派、右派と、対極の関係にあ る人物が、また、文壇・論壇では派や系統を異にする人々が枠の中に収まっているという 点である。外見上は同じ田園への回帰現象であっても、文化人の生き方の手本となる場合 もあれば、社会主義社会の分子・原動力としての先駆的共同体の建設、皇国を支える末端 組織の結成など、狙いは多様である。ただ、各人のユートピア像があって、それに接近す るために半農生活を出発点とする点は共通していた。
岩崎の評価では、石川は自給を確立していた部類に入ることから、片手間に農業をやっ ていたわけではないとされる。石川が試みた農法は、有畜複合農業であり、利潤の追求で はなく自らの食生活の確立を目的とした場合、優れた方法であったという。また、③の群 の中でも、生涯にわたって継続したという点が、石川の特徴となっている。
一方、近代日本文学研究者の中尾正己は、文人たちの半農生活への移行を「田園主義」
と呼んで、明治末期、大正期、昭和初期の動向を考察している。中尾は、文人を、文学者・
作家に限定せず、広く文筆活動に携わる者と定義している。その上で代表例として、徳冨 蘆花、相馬御風、武者小路実篤、木村荘太、水野葉舟(1883〜1947)、木下尚江、石川三 四郎、加藤一夫、江渡狄嶺をあげている。また、取り上げた他にも、田園への関わり方の 程度に差があるものの、多くの文化人が田園生活に理想を抱く気運があった点を指摘して いる2)。
農作業を通じた社会的実践を試みた文学者・作家としては、農場開放を宣言して、従来
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にない農業生産団体として 「狩太共生農団」を立ち上げた有島武郎や、「羅須地人協会」
を主宰して農民の啓発活動に専心した宮沢賢治の名をあげることができるであろう3)。ま た、宗教文学者の倉田百三(1891〜1943)とも交際のあった「一燈園」の創設者西田天香 も、農耕生活を重視する知識人の群に入ってくるものと思われる4)。
以上のように、書斎に籠ることに疑問を抱いた知識人たちが、社会思潮を見ながら田園 生活に入っていくという現象がいくつも見られたわけであるが、知的活動を継続しながら の半農生活といっても、ほとんどの時間を耕作地で費やす例から、弟子や親族、同志など が大半の仕事をこなして、本人は植え付けや収穫に参加する程度の例まで程度の差があっ た。また、主宰者自身は遠隔地、特に都会に住んでいて、そこから資金の提供を行ない、
農繁期や節目の時期に視察および手伝いに行くという、地主の博愛事業のような形態をと る場合もあった。
農作業は、一般に 24 時間態勢で取り組まなければならないものであるが、文人による 半農生活の場合、文筆活動を優先する時間帯には作業を中断することになる。専業農家と 比較して、商品としての農作物を作るのではなく、個人による消費が第一の目的であるた め、経営面に関してはそれほど気を配らなくてもよい。
農作業に対する真剣さの度合い、あるいは、時間の割き方を判定の基準とした場合、フ ァッションとして「百姓」をやっている者は、きわめて評価が低くなるし、一方、専業農 家とほとんど変わらない生活をしている者に対しては、文筆活動が疎かになって本末転倒 になってしまうという指摘が出てくるであろう。半農生活といっても、50パーセントずつ 明確に文筆と農作業を分けることは難しい。
ところで、知識人による農業や農民への接近は、そもそもどのような意味があるのかと いう点について考えておく必要があると思われる。なぜならば、それは、知識人とは何か という問いに繋がってくるからである。
知識人が半農生活を実践する、農民を啓発しようとする、あるいは農民と連帯しようと する場合、使命感と同時に自らが農作業に携わっていないことに対する負い目があるもの と推察される。知識人は、どのような分野を専攻していても、社会が抱える問題を直視し、
分析し、何らかの提言をする能力を持ち合わせている人物といえる。この点から見ていく と、田園回帰の場合、生命の維持に直接携わることから出立しなければ、社会的発言を展
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開する場合に説得力が伴わないという面が強いようである。
次節において詳しく見ていくが、たとえば、武者小路実篤が創設した共同体「新しき村」
は、知識人であることの負い目を出発点として社会的啓発の試みがなされた好例である5)。 裕福な階層に生まれたという出立時の条件もあって、知識人という社会的地位を獲得して しまった以上、なんらかの貢献をしなければ申し訳ないという武者小路の気持ちが、私財 を投じて理想の村を建設するという、一見奇妙で大胆な行動に向かわせたと見ることがで きる。
ただし、知識人の田園回帰現象は、土着の農民や生活のために農業に従事しなければな らない者の立場からすれば、どこかよそよそしいものであり、農業を理想視しすぎている のではないかという疑問をもたれる可能性が高い。農業は頭の中で描かれるような優雅な ものでも、また詩的なものでもないため、知識人が新規に参入したところで、軌道に乗せ ることは容易ではない。
あらゆる生命への礼讃から出発している知識人の半農生活であるが、そもそも、社会改 革を念頭に置きながらの農業実践が社会運動の中でも優れたものであって、それ以外の社 会的活動は価値の低いものであるというような評価が成り立つか否かという問題が残る。
近代日本における知識人の田園回帰は、反産業化・反工業化を基調としているが、農業は 自然破壊や人間の機械化を阻止する罪のない経済活動として万能薬のような効果をもたら すと断言できるのであろうか。
農業という営みそのものに関しての評価について見てみると、偉大な発明であるという 一方で、人類史上において食糧を確保する手段としてひとたび軌道に乗ると、拡大化の一 途をたどり、地球環境と共生するというよりも破壊する方向に作用してきたという見解が ある6)。
農業は、およそ1万年前の中東で始まったとされるが、ある時点で突如として始まった わけではない。人類が自分たちの行なっていることが農業であると意識したのは4万年前 と言われる7)。それまで、採取・狩猟の傍ら副業的に農業をやっていた時代があり、失敗 を積み重ねながら農業を主としても生活が成り立つ社会を構築していったものと推察され ている。
したがって、農業の大規模な発展が、即人類に幸福をもたらしたと断定することはでき