第1節 消費組合論
1.近代日本における消費組合の歴史と石川の位置
前章までで、石川三四郎がユートピアンの範疇に入ることを確認してきた。本章では、
石川におけるユートピア思想の展開について見ていく。発言がなされた時期の順に、「消費 組合論」、「土民生活論」、「非進化論」、「社会美学」に分けて考察する。ただし、各主張が 時間を超えて相互に連関してくる場合もあるため、この点を考慮しながら記述を進めるこ とにする。
日本における消費組合の歴史を概観する際、その嚆矢は、イギリスの協同組合思想の流 入を受けて、1879〔明治 12〕年に民間の有志たちによって始められた「共立商社」とさ れる1)。しかし、イギリスの協同組合が、19世紀中頃、資本主義の弊害を解消することを 目的として設立されたという史実とは対照的に、彼らの店は、殖産興業、富国強兵を掲げ る明治政府と目的を共にするものであったといわれる2)。
出発時のこのような事情から、近代日本における消費組合は、政府による社会・経済問 題への対策の一環という位置づけがなされ、官権の下に運営されるかたちが主流となって いった。
一方、人民の自発的意思に基づいた消費組合を設立する動きが、まったく無かったわけ ではない。1898〔明治 31〕年に、設立された「共働店 3)」は、自主的な労働者消費組合 としての先駆的事業であった。翌年までに、東京、横浜をはじめ、札幌、仙台、福島など、
全国に20ほどの店ができた。また、1904〔明治37〕年、平民社を拠点として社会主義者 たちが自主的消費組合の宣伝活動を行ない、実際にその設立を試みたが、圧政のために大 半が計画の段階で挫折する、あるいは軌道に乗る前に衰退するという結果に終わった4)。 当時、社会主義者が関わっている消費組合は、どのような形態をとっていようが、思想上
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このように、自主的な消費組合の活動は、その黎明期に官権によって芽を摘まれたため、
日本の消費組合史・協同組合史において主潮流を形成することはなかった。これは、イギ リスにおいてロッチデールの先駆者たちがめざした、人民の自発的意思に基づく協同組合 運動が日本において定着しなかったことを意味する。
厳しい状況の中で、協同組合の発祥時の理念を、資本主義後発国の東洋の日本において も継承しようとした少数派の一群の人々は、何を模索し、実行しようとしていたのであろ うか。
日本の初期の社会主義者の中で、社会改革の具体的手段として協同組合の設立に着目し たのは、片山潜、安部磯雄、石川三四郎である5)。石川にとって、片山、安部は、社会運 動家としての先輩であり、出立時においては、協同組合に関する理解の度合が両者より低 かった。しかし、平民社に加わって社会改革運動や編集作業を手伝うにつれて、将来を担 う若手の社会運動家として期待され、自らの勉強・研究の意味も含めて、消費組合に関す る書を執筆する運びとなった6)。
そして1904〔明治37〕年5月、社会主義の伝道を目的として企画された平民社の「平
民文庫」の一冊として石川の単著『消費組合の話』が発行された7)。石川よりも先に、片 山、安部は、それぞれ協同組合に関して言及しているが、これらは、社会改良全般に関す る指南書、理論書の中の一部分として取り扱うというかたちをとっている8)。
一方、石川の書は消費組合に焦点を絞った単行本であり、理論書兼解説書の性質を有し ている。設立や運営に関する具体例を挿入しながら、消費組合の可能性について力説して いる。社会運動家として初舞台を踏むに際し、力が入ったと見ることもできるが、ともか く石川が消費組合に期待を寄せていたことが窺える。
実際、本書は第3版まで刷られ、好評を博していたという。しかし、近代日本の社会運 動史において、石川は片山や安部ほど知名度が高くないため、従来、消費組合に関わる地 道な仕事が注目されることはほとんどなかった。これは、石川三四郎研究と日本協同組合 史研究の双方において盲点となっていた部分である。
以上のような見解から、本節では、日本協同組合史上における石川の位置を確認し、そ の役割と歴史的意義について考える。同時に、石川の人生史上における消費組合論発表の
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位置とその後の理想社会論の形成への連関についても考察を行なうことにする。
石川の『消費組合の話』が発行された 1904 年は、協同組合史においてどのような時期 にあったであろうか。上述の事項と重複する箇所も出ると思われるが、再度確認してみる。
冒頭でふれたように、消費組合は、1879〔明治 12〕年に民間の企業家の有志たちによ って開始された共立商社を出発点とする。1879年に東京で共立商社、同益社、大阪で大阪 共立商店が、1880〔明治 13〕年に神戸で神戸商議社共立商店が設立された。これらは 5 年ほどで消滅した。その間、1882〔明治15〕年に東洋社会党の樽井藤吉(1850〜1922)
らが貧民階級に基盤を置いた協同組合を模索しているが、実行には至らなかった9)。1891
〔明治24〕年には信用組合法案が帝国議会に上程されたが、議会の解散のため審議未了に
終わった10)。しかし、これを機に社会改良を志す官僚の協同組合への関心が高まった。
1898〔明治 31〕年には、労働組合期成会を母体にして、片山潜、高野房太郎(1868〜
1904)らの指導のもとに労働者のための共働店が設立された。先述のように、共働店は全 国に 20 ほどつくられたが、数年間で消滅した。消滅の背景には、組合員が運動の意義を 十分に理解しておらず、不慣れな点が多々あったという理由の他に、1900〔明治 33〕年 に産業組合法と並んで制定された治安警察法の発動という大きな要因があった。
産業組合法によって消費組合が法的に認められたことは、一般民衆、労働者にとって一 つの進歩であったが、治安警察法は労働組合を潰滅させる役割を果たしたため、労働者消 費組合である共働店は、基盤を崩されることによって衰退する結果となった11)。
このように見てくると、明治 10〜30 年代にかけて、企業家、国家、労働組合など、母 体を異にする消費組合が興ってきたことがわかる。
資本主義が未発達の段階にあった当時の状況下では、消費組合の方が、多くの人々に富 をもたらすものであるという期待感があり、設立者たちは、株式会社の初期形態という認 識の下で経営に参画していた。しかし、資本主義の発達によって、消費組合が彼らの目的 と合わないことが判明すると、魅力が薄れていき、自然消滅していった。当初より、協同 組合の本来の目的と異なっていたため、これは必然的な流れともいえる。
その後、貧民階級や労働者の救済を目的とした消費組合の設立と、官僚の主導による協 同組合制度の整備という二つの流れが発生したが、結局、社会主義との連携を警戒する官 権によって、自主的な運営に基づく消費組合運動の発達が抑制されるという方向に向かっ
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た。近代日本においては、民衆の自発的意思に基づいて設立され、社会の改革を推進して いく社会運動型の協同組合が育たなかったのである。
社会主義運動は、近代化・産業化の進展に伴って発生してきた社会問題の解決を目的と して興ってきており、消費組合の設立は、片山、安部ら初期の社会主義者にとって、社会 主義社会の実現に向けて最も有効な手段として注目されていた。しかし、治安警察法は、
社会主義運動を社会の秩序を乱すものとして大幅に制限する役割を果たしたため、明治30 年代後半には、協同組合を人民の統制の手段にしようという意図が背景にある、国家の主 導による消費組合が主流となっていった。
石川の『消費組合の話』は、このような、社会改革運動にとって厳しい状況の中で発行 された。しかし、影響の度合いに差があるものの、本書の発行以降に協同組合主義的な社 会運動がいくつか興った。例をあげてみる。
①1904〔明治 37〕年、医者でありながら、社会主義運動を財政面、精神面において支 えていた加藤時次郎が、社会改良団体「直行団」を基盤として東京の京橋区木挽町の病院 内に設立を試みた消費組合。予定の組合員数を得られぬまま見切り発車し、結局約1年で 消滅した。この組合には、石川も監事として名を連ねている12)。
②同じ頃、東京・京橋で雑貨商を営んでいた堀某が、家業を擲って東京・千駄木に居を 移して設立を試みた消費組合。結局軌道に乗せることはできなかったという13)。
③消費組合ではないが、平民社の支援のもと、1905〔明治 38〕年北海道真狩村におい て、原子基、深尾韶らが設立した農場。この農場に関しては第2章でふれた。彼らは、静 岡県で社会主義運動に携わっていたが、理想郷を建設すべく北海道に渡った。1907〔明治
40〕年まで運営されたが、以降個人の農場となった14)。
④1905年、栃木県小幡町に赤間某を中心に設立された有限責任購買組合。これは、地方 に住む社会主義の支持者が、石川の著作から直接影響を受けて立ち上げたものであった。
160人余を集め、資本金は3000円以上で、成績は良好であったという15)。
⑤1906〔明治 39〕年、広島の呉においてクリスチャンの及川鼎寿(生没年不詳)が海 軍工廠の職工を誘って設立した消費組合自助会。妨害行為にも屈せず運営に成功したが、
1910〔明治43〕年の大逆事件を契機に、国家の大弾圧によって押しつぶされた16)。
⑥日本社会党員の竹内余所次郎(1865〜1927)が1907年に計画した、東京複式消費組