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Title

ミシェル・ウエルベックの傑作小説、『地図と領土』を読む

Sub Title

A propos de La carte et le territoire de Michel Houellebecq

Author

藤崎, 康(Fujisaki, Ko)

Publisher

慶應義塾大学日吉紀要刊行委員会

Publication

year

2015

Jtitle

慶應義塾大学日吉紀要. フランス語フランス文学 (Revue de Hiyoshi.

Langue et littérature

françaises). No.60 (2015. 3) ,p.252(115)- 268(99)

Abstract

Notes

Mélanges offerts au professeur Suzuki Junji et au professeur

Hayashi Emiko = 鈴木順二教授・林栄美子教授退職記念論文集

Genre

Departmental Bulletin Paper

URL

https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?ko

ara_id=AN10030184-20150331-0268

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ミシェル・ウエルベックの傑作小説、

『地図と領土』を読む

 

   

⋮⋮ ど ん な に 深 く 意 思 を 通 じ 合 っ た 相 思 相 愛 の 関 係 で も、 最 初 の 恍 惚 状 態 を 数 週 間 以 上 持 続 さ せ る の は ほ ぼ 不 可 能 に 近 い。 な か に は、 数 は 少ないだろうが、機知に富むカップルが数カ月もたせた例はあるだろう。

イアン・マキューアン『甘美なる作戦』 1   エンタメと「純文学」の奇跡的な融合、透徹したペシミズムと文明批評 『素粒子』 (一九九八)で優生思想による遺伝子組み換えを、 『プラットフォーム』 (二〇〇一)でセックス観光 を扱ったフランス現代文学の"危険分子" 、ミシェル・ウエルベック。彼の最新作(二〇一四年一二月現在) 『地 図 と 領 土 』( 野 崎 歓・ 訳、 筑 摩 書 房、 二 〇 一 三 ) を 読 ん だ が、 こ れ が と ん で も な い 傑 作 で、 完 全 に や ら れ て し ま った。

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物語の骨子は、アーティストである一九七六生まれの主人公ジェドの、二十代から晩年の七十代までの創 作 活 動 を 中 心 に し た ド ラ マ だ( つ ま り ジ ェ ド の 晩 年 は 近 未 来 だ が、 こ れ も S F 的 要 素 を 導 入 す る 巧 み な 時 間 設 定 )。 ジ ェ ド の 表 現 媒 体 が、 写 真、 絵 画、 ビ デ オ と 移 行 し て ゆ く 点 も、 物 語 に 動 的 な 変 化 を 生 ん で い る。 ま た ジ ェドは、それなりの処世術を身につけてはいるが、いささかも野心家ではなく、それどころか孤独でペシミステ ィックな厭世家だ。 そうしたジェドの、クールな悲観主義や周囲への皮肉っぽい視線が、本作の主調音である(これまでのウエル ベック作品にみられた、対象を痛罵し嘲笑するような過激なトーンはいくぶん抑えられているが、安直な"ヒュ ーマニズム"や"良識" 、あるいはさまざまな現代的な流行をからかい挑発する筆致は、あいかわらず絶好調) 。 そして何より意表を突かれるのは、第二部におけるミシェル・ウエルベック本人の登場だ(以下、作中のウエル ベ ッ ク は﹁ ウ エ ル ベ ッ ク ﹂ と 表 記 )。 し か も﹁ ウ エ ル ベ ッ ク ﹂ は、 文 字 ど お り 予 測 不 能 の 運 命 に 見 舞 わ れ る こ と になる(読んでのお楽しみ) 。 ともあれ、ジェドは図らずもアーティストとして大成功を収め、億万長者になる。その経緯とともに、回想形 式も取り入れながら克明に記されるのは、ジェドのさまざまな作品、彼とロシア美人オルガ(ミシュラン社のア ート部門の社員)との愛と別れ、そして、建築家にして起業家である彼の父親

癌に冒されている

の晩年、 お よ び そ の 死、 な ど な ど だ( チ ュ ー リ ッ ヒ に 実 在 す る 安 楽 死 施 設 / 自 殺 ほ う 助 ク リ ニ ッ ク、 ﹁ デ ィ グ ニ タ ス ﹂ も 登場) 。さらに、ジェドが肖像画を描くことになる﹁ウエルベック﹂との出会いと友情や、作者ウエルベックの、 そしてまたジェドの分身であるかのような人間嫌いで狷 けん 介 かい な作家﹁ウエルベック﹂の芸術観、人生観、ライフス タイルがきめ細かく描かれる。

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さ ら に ま た、 " 酒 鬼 薔 薇 聖 斗 " や" イ ス ラ ム 国 " を 連 想 さ せ る 血 み ど ろ の 斬 首 事 件 が、 凡 百 の ホ ラ ー 小 説 を 顔 がん 色 しょく なからしめる残酷さで描破される。 (以上、第一部、第二部) 第三部のかなりの部分は、ジャスラン警視が視点人物となり、ドラマが一挙に犯罪ミステリーと化す。そして、 彼や同僚の警察官や鑑識課による犯人探しのプロセスや、停年間近の彼のメランコリックな心情がつぶさに焦点 化される(私は寡 か 聞 ぶん にして、これほどリアルかつ戦慄的な"刑事物語"を読んだことがないが、本作のジャスラ ン警視をめぐるパートは、まったくもってジョルジュ・シムノンさえ色あせるような精妙な描写の連続だ) 。 エピローグで読者に告げられるのは、ジェドの最晩年の遺言めいたビデオ・アートに撮影されたのが、終末感 の色濃い、 ﹁ヨーロッパの産業時代の終焉﹂ 、さらには﹁人類全体の消滅を象徴するかのよう﹂な、植物の繁茂に よって人間のあらゆる生活空間が廃墟化してしまう、黒沢清の映画を連想させるような作品であることだ

。 つ ま る と こ ろ、 『 地 図 と 領 土 』 が 何 よ り 素 晴 ら し い の は、 予 測 不 能 な 物 語 と 入 念 に 書 き 込 ま れ た 細 部 と が、 奇 跡のように融合されている点、すなわちエンタメ性と﹁純文学﹂性が超絶にミックスされている点だ。ゆえに読 者は、物語の面白さに引っぱられながらも、ときに物語から逸脱するようなディテールを、ちょっと立ちどまっ て楽しむという読み方ができるわけだ(こんなに味わい深く精度の高い小説を書けるのは、他の現役作家では、 イアン・マキューアン(英)とトマス・ピンチョン(米)くらいではないか) 。 よ り 具 体 的 に い え ば、 『 地 図 と 領 土 』 に お い て は、 物 語 の 意 外 性 や ダ イ ナ ミ ッ ク な 展 開 と、 ジ ャ ン ル の 重 層 性

芸 術( 家 ) 小 説、 S F、 ミ ス テ リ ー( 刑 事 小 説 )、 ホ ラ ー、 資 本 主 義 文 明 へ の 批 評 / 批 判 / 風 刺

と が、

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研ぎ澄まされた文章にささえられて見事に共存し、幻惑的な相乗効果を上げているのだ。そして後述するように、 主人公だけでなく、何人かの主要人物の内側にテキストが入りこんで進行してゆく構成も、三人称小説の可能性 が極限まで追求されたかのような感があるが、そうした多焦点的な話法や文明/社会批評によって、作品世界は 驚くべき広がりを獲得している。 また、文体はクリアに研 と がれてはいるが、かつての﹁ヌーヴォー・ロマン/アンチ・ロマン(新しい小説/反 小 説 )﹂

一 九 五 〇 年 代 以 降 に 興 っ た、 物 語 性 や 人 物 造 形 の 意 識 的 な 解 体 を 試 み た 一 群 の 実 験 小 説

の よ う な難解さはゼロである点も、本作が多くの読者を獲得しつつあることの一因だろう(この小説を、読みやすい訳 文でわれわれのもとに届けてくれた野崎歓氏に感謝。なお本作は、二〇一〇年度のゴンクール賞

フランスで 最も権威ある文学賞のひとつ

を受賞) 。 ところで小説は映画同様、物語内容もさることながら、具体的な細部が最大の生命線だと思うので、以下、本 作における注目すべき箇所のいくつかを項目別に引用し、若干のコメント/注釈を付したい。 ■ジェドの孤独で厭世的な性格について 子ども時代からジェドは極度に内向的な性格だった。つねに孤独の殻の中に閉じこもり、知っているのは父親 だ け で

母 親 は 彼 を 生 ん で 間 も な く 自 殺

、﹁ し か も 父 親 と の つ き あ い は、 人 間 関 係 に 関 し て 彼 を 大 い に 楽 観的にさせてくれるものではなかった﹂ (九十一頁) 。ジェドはそう過去を振り返り、さらにこう続ける。 ﹁ 父 親 を 見 て い て 理 解 で き た の は、 人 間 の 存 在 は︿ 仕 事 ﹀ を 中 心 に 組 織 さ れ る も の で あ り ⋮⋮、 そ れ こ そ が 人

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生の最重要部分を占めるということだった。勤労の歳月が過ぎれば、それよりは短い、諸々の病気の進行によっ て特徴づけられる時期が始まる。人間の中には、人生のもっとも活動的な時期に︿家族﹀と呼ばれる、種の再生 を目的とするミクロ=グループに加わろうと試みる者たちもいる。だがその試みは多くの場合、失敗に終わる﹂ (九十一 ― 九十二頁) 。 またジェドの父親は、息子が幼かった頃にすでに、あらゆる﹁友情﹂と縁を切ったのだった

﹁彼[父]に と っ て 友 情 の 季 節 は 終 わ り つ つ あ っ た ﹂ が、 ﹁ だ れ か と 友 人 で い ら れ る と い う こ と を 彼 自 身、 あ ま り 信 じ ら れ な くなり、男の人生にとって友情関係が本当の意味でも重要だとも、また運命を変える力をもちうるとも思えなく なっていた﹂ (二十六頁) 。仕事熱心な、しかしメランコリックな男の肖像である。 そして、父親ゆずりのジェドの孤独癖は、さらにこう書かれる

﹁少年時代も、青年になってからも(友情 を育むに最適な時期と考えられているにもかかわらず) 、強い友情の念に捕えられたことはなかった﹂ 、と(一七 八頁、半端ではない暗さだ) 。 さ ら に ま た、 晩 年 の ジ ェ ド は パ リ か ら 地 方 の ク ル ー ズ 県 に 引 っ 越 し、 ﹁ 活 動 を 減 ら し、 招 待 状 や メ ー ル に 返 事 す る こ と さ え 怠 る よ う に な り、 ⋮⋮ ふ た た び あ の や り き れ な い 孤 独 の 淵 に 沈 ん で い た ﹂ が、 ﹁ そ れ は 仏 教 思 想 に おける︿無限の可能性に富む﹀無のごとく、彼にとっては不可欠かつ豊かなものと思えた﹂のだった(三六五頁、 "最終解脱" ⁉)。 だが、こうした作者の筆法は、ペシミスティックなジェドの心情に密着した記述というより、彼の内面を外側 から観察するような︿距離﹀を感じさせるゆえ

わが国の﹁私小説﹂に多く見られる自嘲的で自意識過剰な筆

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致とは異なる

、したたかな説得力をもつ(ジェドは父親、恋人、そして彼の分身たる﹁ウエルベック﹂を例 外として、極力人づきあいを避けつづけるが、彼が大好きなのは、テレビを見ること、大型スーパーに行くこと だ) 。ともかく、本作の核となるのは、 ﹁完璧な、決然としたペシミズム﹂ (佐々木敦)なのである。 ■資本主義批評/批判/揶 や 揄 ゆ *﹁ ⋮⋮ ア ー ト 市 場 は 世 界 で も っ と も 裕 福 な 実 業 家 た ち に 支 配 さ れ て[ い て ]、 フ ラ ン ス 革 命 以 前( ア ン シ ャ ン・ レ ジ ー ム ) の 宮 廷 画 家 の 時 代 に 戻 っ た ん だ ⋮⋮﹂ ( 一 八 八 頁、 ア ー ト ギ ャ ラ リ ー の 経 営 者、 フ ラ ン ツ の セ リ フ) 。﹁⋮⋮いまの時代は何もかもが市場での成功によって正当化され、認められて、それがあらゆる理論に取っ て代わる⋮⋮﹂ (一八九 ― 一九〇頁、同上) 。 野崎歓氏も﹁訳者あとがき﹂で述べているように、 『地図と領土』はジェドの生涯を跡づけながら、 ﹁芸術と資 本の結びつきを鮮やかにとらえ﹂た小説でもあるが、ジェドが自分の撮ったミシュランの地図の写真を拡大印刷 し た 作 品 に、 法 外 な 高 値 が つ い た こ と に つ い て は、 ﹁︿ 値 段 の つ け 方 ﹀ と い う、 す ぐ れ て 資 本 主 義 的 な 神 秘 ﹂( 八 十頁)と書かれ、 ﹁こうしていまや、彼[ジェド]は自分の︿市場価値﹀を知ったのだ﹂ (同)と続く。ここで思 い出されるのはカール・マルクスが『資本論』で記した、次のような意味の言葉だ

﹁自分の価値を決めるの は自分ではなく、社会という他者、すなわち市場である﹂ 。 *﹁ウエルベック﹂が、自分のお気に入りの商品が数年後には店舗から消えてしまうことを嘆き、絶えざるモ デル・チェンジによって流行を作り出しては消滅させる現代の資本主義、ないしは高度消費社会を呪う場面

﹁ ひ い き に し て い た 製 品 が、 数 年 も た つ と 棚 か ら 消 え、 製 造 が 完 全 に 停 止 さ れ て し ま っ た ⋮⋮。 ど ん な つ ま ら な

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い動物だって、絶滅するまでには何千、何百年もの時間がかかる。ところが製品は数日で地球の表面から抹消さ れてしまう。敗者復活のチャンスは決して与えられない。製品ラインの責任者たちの無責任な、ファシズム的な 決定をただ無力に受け入れるばかりなんだ。⋮⋮そうやって消費者の人生を、辛い、絶望的な探求に変えてしま う ﹂( 一 五 三 ― 一 五 四 頁、 お よ そ 半 年 ご と に モ デ ル が 変 わ る テ ニ ス・ ラ ケ ッ ト に 翻 弄 さ れ て い る 私 自 身 を 重 ね て 読んでしまった箇所⋮⋮) 。 * や は り 野 崎 氏 が 小 野 正 嗣 と の 対 談( ﹁ 週 刊 読 書 人 ﹂ 二 〇 一 四・ 二・ 一 四 付 ) で 言 っ て い る よ う に、 こ う し た ウエルベックの経済システムへのこだわりは、同時代の社会を﹁人間喜劇﹂シリーズ八十九篇によって、トータ ル か つ 多 角 的 に 把 握 し よ う と 試 み、 ﹁ 金 融 小 説 ﹂ ま で 著 し た 十 九 世 紀 フ ラ ン ス の 文 豪 バ ル ザ ッ ク を ほ う ふ つ と さ せ る。 事 実、 本 作 に は バ ル ザ ッ ク へ の さ り げ な い 言 及、 す な わ ち、 ﹁ 野 心 的 な 若 者 が︿ 女 性 の 力 を 借 り て 出 世 す る ﹀ と い う 内 容 の フ ラ ン ス 十 九 世 紀 リ ア リ ズ ム 小 説[ バ ル ザ ッ ク の『 谷 間 の 百 合 』『 幻 滅 』] ﹂ と い う 記 述 も あ る (六十四頁、バルザックは土地投機や新聞経営を試みたが失敗、膨大な借金を背負い、小説や戯曲を乱作した) 。 さ ら に ジ ェ ド の 絵 画 作 品、 ﹁ ビ ル・ ゲ イ ツ と ス テ ィ ー ヴ・ ジ ョ ブ ズ、 情 報 科 学 の 将 来 を 語 り あ う ﹂ を め ぐ る 場 面では、 ﹁市場経済の信奉者たる二人[は] 、バルザックの銀行家とヴェルヌのエンジニアほど互いに隔たった立 場を示す﹂ 、というフレーズがふるっている(一七五頁) 。 2   高度消費社会に対する辛辣な揶揄、安楽死施設、SF的想像力 ■ブルジョワ揶揄(資本主義・高度消費社会への批評/批判の変奏) *急に名前が売れ出したジェドに事よせて、ブルジョワ/金持ちを滑稽に戯画化するくだり

﹁レストラン

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関係者たちはセレブを好む。そしてカルチャーおよび社交界の話題を実に注意深く追っている。セレブが来る店 であるということが、頭の空っぽな金持ち連中にとって本物の誘引力を及ぼすと知っているからだ。⋮⋮一般に セレブはレストランを好むから、レストランとセレブのあいだにはごく自然に、一種の共生関係がなりたつ。ミ ニ・ セ レ ブ に な り た て の ジ ェ ド は、 自 分 の 新 し い 立 場 に ふ さ わ し い 謙 虚 な 無 頓 着 さ を 苦 も な く 身 に つ け た ﹂( 七 十 二 頁 )。 こ れ も 現 代 版 バ ル ザ ッ ク と い っ た 趣 き の 描 写 だ が、 ま た ク ロ ー ド・ シ ャ ブ ロ ル 監 督 の 映 画 に お け る ブ ル ジ ョ ワ 風 刺 を 想 わ せ る フ レ ー ズ で も あ る。 そ う い え ば シ ャ ブ ロ ル、 ゴ ダ ー ル、 ト リ ュ フ ォ ー ら、 ︿ ヌ ー ヴ ェ ル・ヴァーグ﹀の監督たちもバルザックの小説を愛好した。 *成金のブルジョワについての本作の箴言/アフォリスム風の省察も、辛辣だ

﹁一般的に、貧しい階層の 出身者が往々にしてそうであるように、彼[前出のギャラリー経営者フランツ]は急に金持ちになったことにう まく対応できていないようだった。財産を得て幸福になれるのは、昔からある程度裕福だった人間、子どものこ ろから豊かさへの備えができていた人間だけである。人生の最初の段階で貧しさを知ってしまった者に財産が転 がり込むと⋮⋮、結局はすっかり圧倒されてしまう感情、それは︿恐怖﹀である﹂ (三六二頁) 。 ともあれこうして、ミクロな視点から主要人物の内面、行動パターン、私生活がていねいに書かれ、他方マク ロな視点から芸術のマーケット事情や高度消費社会の諸相が社会学的、歴史的、文明批評的に精細に描かれ、そ れらが混然一体となって、この小説の力強い動線を形づくっているのである。

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■豪華老人ホームと安楽死施設/自殺ほう助クリニックについて * フ ラ ン ス の さ る 高 級 老 人 ホ ー ム を め ぐ る 描 写 に お い て も、 い か に も こ の 作 家 ら し い、 シ ニ カ ル な 調 子 と S F タ ッ チ が 冴 え わ た る

﹁ そ れ は ナ ポ レ オ ン 三 世 時 代 に さ か の ぼ る 大 き な 屋 敷 で、 [ ジ ェ ド の 父 親 が ] 前 に い たところ[老人ホーム]よりもはるかにシックで金のかかる、優雅でハイテクな死に場所とでもいう感じだった。 住居スペースは広々としていて、居間と寝室があり、備えつけの大型液晶テレビで衛星放送やケーブルテレビも 見ることができた。DVDプレーヤーや高速度接続のインターネットも完備していた。庭には小さな池があって アヒルが泳ぎ、手入れの行き届いた小径では雌ジカが跳ねていた。希望すれば庭の片隅を自分専用の菜園にして、 野菜や花を育てることもできた

希望者はほとんどいなかったが﹂ (三一二頁) 。 *これに続く、ジェドが父をこの施設に移らせるため懸命に説得するくだりも、庶民の出である父の視点から の ブ ル ジ ョ ワ 批 判 を 含 む、 い わ ば コ ン パ ク ト な" 現 代 フ ラ ン ス 社 会 論 " と な っ て い る

﹁ い ま や 息 子[ ジ ェ ド]は︿金持ち﹀なのだということを父が理解するまで、何度も説明しなければならなかった。この施設に入っ ているのは明らかに、現役時代、フランスのブルジョワ社会でもっとも高い階層に属していた人々だけだった。 ﹁うぬぼれ屋とスノッブばかりだ﹂ジェドの父は一度そんな風に[ブルジョワを]評してみせた﹂ (同上) 。 ちなみにこの老人ホームは、一九三〇年代にスターリンが、ロシア西南部の温泉地ソチに莫大な資金を投じて 開発した、一大保養地のミニュチュア版を想わせるが、そこは戦後ふたたび、特権階級が贅沢な休息を享受する "極楽郷"となった。 *ペシミストにして"さとり系"のジェドは、くだんの施設でモルヒネを与えられ緩慢に死へと至る老人たち

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についてこう考える

﹁本音をいえば、ジェドはそれもまた人生だと思った。何とも羨ましいような人生だと さえいえる。思いわずらうこともなく、責任もなく、欲望も恐れもなく、まるで植物のように、穏やかな陽光と そよ風に撫でられていればいいのだ﹂ 、と(三一四頁) 。 だがジェドの父は、自らの意思でこの老人ホームを出て、チューリッヒの安楽死施設/自殺ほう助クリニック、 ﹁ デ ィ グ ニ タ ス ﹂

い わ ば 資 本 主 義 文 明 の 奇 形 的 な 突 出 点 の ひ と つ

に 入 る。 人 工 肛 門 を 装 着 さ れ て い る 父 の 心 境 は、 こ う 書 か れ る

﹁ 自 分[ 父 ] に は も は や 快 適 に 過 ご せ る 場 所 な ど︿ ど こ に も な い ﹀、 自 分 に と っ て はもはや︿人生そのもの﹀が快適ではありえないということだ﹂ (三一四頁) 。なんとも虚無的な境地(涅槃?) に到達したこの父には、もとより、ジェドに引き継がれる強い孤独癖があったことは前述のとおりだ。 さ て、 無 個 性 な 白 い コ ン ク リ ー ト の 広 壮 な 建 物 を 本 部 に も つ﹁ デ ィ グ ニ タ ス ﹂ は、 安 楽 死 者 の 遺 灰 や 遺 骨 を チューリッヒ湖に撒いているのだが、それが外来種のコイの繁殖を助長し、在来種の魚を圧倒しているとしてエ コ ロ ジ ス ト 団 体 に 訴 え ら れ て い る、 と い う 設 定( 三 三 八 頁 ) や、 ﹁ い ま や 父 は チ ュ ー リ ッ ヒ 湖 で ブ ラ ジ ル 産 の コ イ の 餌 に な っ て い る の だ っ た ﹂( 三 四 四 頁 ) と い っ た ジ ェ ド の モ ノ ロ ー グ に も、 ウ エ ル ベ ッ ク の 本 領 た る、 ブ ラ ック・ユーモアと混交したSF的想像力がいかんなく発揮されている。ただし、作中では﹁ディグニタス﹂の遺 灰・ 遺 骨 処 理 法 を、 ジ ェ ド が イ ン タ ー ネ ッ ト で 調 べ た と あ る の で、 そ れ は も し か し た ら 事 実 な の か も し れ な い (いま述べたような経緯によって、ジェドの両親は、ともに自殺者となったわけだ) 。 いずれにせよ、猛毒性の風刺を含むSF的着想が、ウエルベック作品の大きな動力である点は重要なポイント だ(ウエルベック自身、SFが現代文学の活性剤となりうることを強調している) 。 *本書の末尾には、ウエルベックが創作に際して活用したウィキペディアへの謝辞が記されている。その点に

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関 し て は、 野 崎 歓『 翻 訳 教 室 』( 河 出 書 房 新 社、 二 〇 一 四 ) の 一 八 七 頁 以 下 を 参 照 さ れ た い( フ ラ ン ス で は 本 書 刊 行 直 後、 ウ エ ル ベ ッ ク の" ウ ィ キ ペ デ ィ ア 盗 用 疑 惑 " が ネ ッ ト 上 に ア ッ プ さ れ た と い う )。 と も か く 今 日、 イ ン タ ー ネ ッ ト や 携 帯 電 話 を 小 説 や 映 画 で ど う 扱 う か は、 避 け て 通 れ な い 重 要 な 問 題 だ ろ う が、 『 地 図 と 領 土 』 ほ ど電子ネットワークを巧みに作中にとりこんだ小説を、私は知らない(たとえば二一三頁以降、あるいはジェド が﹁ウエルベック﹂へメールを出すところ

﹁[彼は文面はこれでいいだろうと思い] ︿送信﹀をクリックした﹂ (一一一頁) 、そして以下の引用(七十六頁)などなど) 。 ■ジャーナリズム・メディア・トレンドをめぐる社会学的記述 *先に引いた﹁ウエルベック﹂の︿流行批判﹀とはいくぶん異なる、インターネット時代の自然発生的な︿田 舎﹀のトレンド/流行などに関する、一種のシニカルな社会学的記述

﹁現代社会においては、ジャーナリス トたちが生まれつつある流行を見つけよう、つかまえよう、さらには可能であればそれを作り出してやろうと懸 命になっているにもかかわらず、既成秩序をはずれたところで、自然発生的に流行が生まれ、名づけられる以前 に興隆を見せる⋮⋮

インターネットの大々的普及と、それに伴う活字メディアの崩壊以来、こうした事態が ⋮⋮頻繁に起こっている⋮⋮。フランス全土における、料理教室のいや増す活況。⋮⋮ハイキング愛好熱の留ま るところを知らない広がり。さらには[実在のテレビ有名人]ジャン = ピエール・ペルノの[ホモセクシュアル であることの]カミングアウトに至るまで、すべてはこの新たな社会学的事実、すなわちジャン = ジャック・ル ソー以来の、実際のところフランスにおいて初めて、田舎がふたたび︿トレンド﹀になったという事実に収斂し ていた﹂ (七十六頁) 。 前述のように本作では、こうした主要人物の人生ドラマと相即して挿入される風刺的・戯画的社会批評が、テ

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キストの視界をいわば広角的に押し広げている。 3   憂い顔の警視、植物の繁茂による世界終末のビジョン ■憂い顔の警視ジャスラン * 第 三 部 で 登 場 す る ジ ャ ス ラ ン 警 視 も、 筋 金 入 り の タ フ な 警 官 で あ り な が ら、 ま る で ジ ェ ド や﹁ ウ エ ル ベ ッ ク ﹂ の 分 身 の よ う な、 ﹁ 人 生 経 験 を 積 み も は や 何 の 幻 想 も 抱 い て い な い ﹂( 二 九 二 頁 )、 繊 細 で 憂 い 顔 の ペ シ ミ ス トだ。彼は死体/ガイシャの周囲に群がるハエについて、こう思いめぐらす

﹁ハエの視点からすると、人間 の死体は純然たる肉以外の何物でもない﹂ (二五二頁) 、﹁ [ガイシャ]はいまや無数のウジのための栄養物となり つ つ あ る の か ﹂( 二 五 三 頁、 臆 病 な 私 な ら、 こ ん な 状 況 に は と て も 耐 え ら れ ず 気 絶 す る だ ろ う な、 と 思 い つ つ 読 んだ箇所。この少し先の事件現場の描写は、さらに酸 さん 鼻 び をきわめるが) 。 またジャスラン警視の職務ぶりの一端が、無能な鑑識の二人組への彼の苛立ちにからめて、巧みな筆づかいで こう書かれる

﹁ジャスランはヒエラルキーの上下問題に特にこだわるほうではなかった。警視である自分に 対して、態度で敬意を示すよう厳格に求めるようなことは決してなかった⋮⋮。だがこのとんまな二人組に対し ては怒りを覚え始めていた。⋮⋮明らかに彼らは、⋮⋮パソコン端末に意味のないデータを打ち込むのが常なの だった﹂ (二六三頁、パソコンの描き方の妙!) 。また、ジャスラン警視がかつて犯行現場の光景に耐えられなく なって、あるスリランカの仏教センターに赴き、死体を前にした瞑想の修行をするくだりも興味深い(二六六 ― 二六七頁) 。

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し か し、 ジ ャ ス ラ ン 警 視 の︿ 犯 罪 者 ﹀ に つ い て の 考 え は、 人 権 団 体 か ら は 抗 議 さ れ か ね な い、 ﹁ ダ ー テ ィ ハ リ ー﹂ばりの"危険思想"にさえ思われるものだ

﹁彼[ジャスラン]がこれまでに出会った︿犯罪者﹀たちは、 単純で邪悪、どんな思考もできないどころか、一般に思考することができないような人物ばかりだった。それは 堕落した動物のような連中であり、捕まえたならただちに葬り去ったほうが彼ら自身のためでもあれば、他の人 間たち、さらにはあらゆる人間の共同体のためでもあるような連中だった﹂ (三二七頁) 。何ともきわどい、ファ シズムの匂いさえ嗅ぎつける読者も出てきそうな、しかしウエルベック節全開の奇妙に潔いフレーズだ。 ■︿田舎﹀という主題 * こ れ も 前 述 し た が、 『 地 図 と 領 土 』 に は︿ 田 舎 ﹀ へ の 言 及 が 散 見 さ れ る。 ウ エ ル ベ ッ ク は お 得 意 の 挑 発 的 な 語調で、田舎の観光地化を揶揄したり、その住人たちをネガティブに描いたりするが、以下ではフランス︿深奥 部﹀に対する恐怖が記される

﹁⋮⋮田舎の住民は全般的によそ者を歓迎せず、攻撃的で愚鈍だった。旅の途 中でいわれのない攻撃⋮⋮を避けるには⋮⋮︿踏みならされた道から出る﹀ことを控え[るべきだ] (三七二頁) 。 この、ともすれば﹁差別的﹂とも読める文章は、前記クロード・シャブロル監督の次の言葉と呼応するようにも 思われる

﹁私はパリで撮影するのが好きではない。⋮⋮私は田舎の出身者のように田舎を、その残酷さを、 そ の 秘 密 を 愛 し て い る ﹂。 シ ャ ブ ロ ル は 本 作 の ウ エ ル ベ ッ ク 同 様、 ブ ル ジ ョ ワ の 退 廃 を 好 ん で 描 く 一 方 で、 田 舎 や郊外での犯罪をしばしば映画の主題とした。 そして、晩年のジェドは前述のごとく、パリからクルーズ県

奇しくもシャブロルが子ども時代(ドイツ占 領期)を過ごした地方

に引っ越したのだが、その作者と読者にとっては﹁近未来﹂である︿田舎﹀の住人は、

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かつての﹁野蛮人﹂とはまったく違う、教育があり、寛容で人あたりのよい階層の人間たちで、よそ者たちと共 存していた。おまけに田舎の新たな起業家住民

中国人を含む

にとって、よそ者たちこそ顧客の大半を占 め て い た の だ っ た、 す な わ ち

﹁[ 田 舎 の ] 新 た な 住 人 た ち は ⋮⋮︿ 土 地 の 風 習 ﹀ に 対 し て、 ほ と ん ど 崇 敬 に 近 い 過 剰 な 敬 意 を 示 し た。 そ し て い わ ば 順 応 の た め の 擬 態 か ら、 そ う し た 風 習 を 再 生 さ せ よ う と 努 め た ﹂( 三 八 一頁) 。 要 す る に こ こ で は、 ジ ェ ド の 晩 年 = 近 未 来 に お い て、 ︿ 田 舎 ﹀ の ロ ー カ ル・ カ ラ ー / 郷 土 色 や 気 候 風 土 が、 以 前にも増して商品化され消費財化されるに至った、というフランスの大きな文化的変容が、SF調の、しかも例 によって皮肉っぽい文章で活写されるのだ。感嘆すべき着想力と筆力である。 ■︿植物の完全な勝利=人類の終り﹀ * 本 作 に 伏 流 し て い る の は、 ︿ 田 舎 ﹀ に 関 わ る︿ 植 物 の 繁 茂 ﹀ と い う モ チ ー フ だ が、 す で に 言 っ た よ う に、 本 作のラストで記されるのは、ジェドのビデオ作品に撮影された、人間を一人残らず駆逐し生い茂る︿植物の完全 な 勝 利 ﹀ と い う、 す ぐ れ て S F 的 / 黙 示 録 的 な イ メ ー ジ だ( 三 九 一 頁 )。 私 見 に よ れ ば、 こ れ こ そ ま さ し く、 人 間世界の﹁地図﹂も﹁領土﹂もメルトダウンさせ腐食させ、無化してしまう、植物による地球の︿領土化・グロ ーバル化・全体化・均一化﹀という、ある種のエコ・ファシズム的な(?)イメージにほかなるまい⋮⋮。 ﹁[工 場地帯]はいまでは錆びつき、半ば崩れ落ち、植物が以前の仕事場を占拠し、残骸のあいだまで浸透して、人の 入り込めないジャングルを形作っていった﹂ (390頁) 。SF小説の異能J・G・バラード(英)の、異常気象 によって水没した都市を終末論的に描いた『沈んだ世界』を想わせる描写である

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■ 本 作 の、 ひ い て は ウ エ ル ベ ッ ク 作 品 の 透 徹 し た ペ シ ミ ズ ム、 あ る い は そ れ ら を 箴 言 形 式 で 表 す こ と へ の 偏 愛に、パスカルやラ・ロシュフーコーら、十六~十八世紀フランスのモラリスト/人間観察家の影響を見てとる ことは容易だろう。そしてまた、ウエルベックの悲観的な人間観やブラック・ユーモアは、サマセット・モーム、 イ ー ヴ リ ン・ ウ ォ ー、 イ ア ン・ マ キ ュ ー ア ン と い っ た 英 国 の 作 家 た ち の ニ ヒ リ ズ ム に も 通 じ て い る と 思 わ れ る (モームは、 ﹁生きようと死のうと意味はない。生は無意味であり、死もまた然り﹂と書き( 『人間の絆』 )、 ﹁愛情 は[ 恋 愛 と は ま る で 違 っ て ] 習 慣 や 利 害 の 一 致 と か、 便 宜 が い い と か( ⋮⋮) 、 そ う い う 願 い か ら 生 ま れ る。 歓 喜でなく慰安である﹂ (『サミング・アップ』 )、などと書いている) 。 ■その他の名フレーズ *ミシュラン社のあるフード部門の責任者がまとめた報告書/マーケット・リサーチの一節

﹁我々にとっ て新たな顧客⋮⋮は、⋮⋮過酷な環境の国々、衛生基準など最近になって決められたばかりか⋮⋮あまり守られ ていないような国々からの客である﹂ (八十四頁、これまた、現代消費社会のきわどい戯画化だ) 。 *﹁⋮⋮花とは昆虫の淫欲に委ねられた生殖器、地表を飾る色とりどりのヴァギナにほかならない﹂ (二十四頁、 これも︿植物﹀のモチーフだが、ジェドが花の絵を描くことに熱中していた少年時代の自分を思い出す場面での モノローグ) 。 *ミュシュラン社のある広報部長が展覧会場に着てゆく服を選ぶ場面

﹁[彼]は、 ︿アートっぽい﹀感じを 出そうと三時間かけて服をとっかえひっかえし、洋服箪笥の中身を総ざらいしたあげく、結局は普段のグレーの

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ス ー ツ

た だ し ノ ー ネ ク タ イ

に 落 ち 着 い た の だ っ た ﹂( 六 十 八 頁、 こ う し た、 さ り げ な い 細 部 に も ウ エ ル ベックの飛び抜けた才能がうかがわれる) 。 *ジェドの恋人オルガの同僚である、不器量なマリリンについての描写も容赦ない

﹁⋮⋮小柄で貧相な、 ひどい猫背の女で、しかも運の悪いことに名前はマリリンとい﹂うくだんの女がオルガと並んでいる光景は、ジ ェドを以下ごとき思いに誘う

﹁⋮⋮華麗な美女[オルガ]と、みすぼらしい、性的に未開拓な女が隣り合っ ているのを見るのはいかにも居心地の悪いことだった。ジェドは一瞬、オルガは自分と張り合うような女を近づ けないため、醜さゆえにこの女性を選んだのではないかと考えた﹂ (六十五頁) 。もっとも、これはジェドの思い 込みであることが直後に記される

﹁そんなはずはない⋮⋮オルガは自分の美しさをあまりによくわかってい るし、客観視もしてもいるから、自分の優位が客観的にいって脅かされているというのではないかぎり、だれか と張り合っているだの⋮⋮と感じるはずはなかった﹂ (六十五 ― 六十六頁) 。これまた、ここまで書いてしまって よいのかと、少々不安になるほど辛辣なウエルベック節である。 なお、第二次大戦以降の性的解放に背を向けるような、ウエルベックの反時代的な"保守主義"

本作にも 見 え 隠 れ す る

は、 長 篇 第 一 作『 闘 争 領 域 の 拡 大 』( 一 九 九 四 ) に 顕 著 だ が、 野 崎 氏 は そ れ に つ い て お よ そ こ う書いている

セックスの自由化は性愛の不均衡、つまり異性にもてる者ともてない者の不平等をもたらした が、 し か も 快 楽 主 義 が 若 さ の 絶 対 的 な 礼 讃 と 結 び つ い て い る 以 上、 そ し て 老 い る こ と が 宿 命 で あ る 以 上、 結 局 はだれもが挫折と幻滅に至らざるをえないという、 [仏教的無常観に酷似した]命題をウエルベックは提示する、 と( 『フランス文学と愛』 、二〇一三、講談社、二五〇頁以降) 。

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● 本 稿 は︿ 朝 日 新 聞 デ ジ タ ル

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二 〇 一 四・ 四・ 三、 同・ 四・ 七、 同・ 四・ 一 二 ﹀ 掲 載 の 文 章 に、 加筆修正をほどこしたものである。

参照

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