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古 事 談 と 古 今 著 聞 集 Ⅰ ― ― 説 話 集 の 方 法

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日本語日本文学研究 第23巻第2号(通巻第43号)

古事談と古今著聞集Ⅰ――説話集の方法

     Kojidan and Kokonchomonsyu I : Methodes of setsuwa-syu

        葛綿  正一

      

KUZUWATA Masakazu

  本試論では『古事談』と『宇治拾遺物語』、『古事談』と『古今著聞集』を比較してみたい。説話集の方法を比較することで、それぞれ『古事談』、『古今著聞集』の世界を明らかにするというのが、ここでの課題である。引用は岩波新古典大系『古事談・続古事談』(川端善明、荒木浩校注)、新潮古典集成『宇治拾遺物語』(大島建彦校注)、新潮古典集成『古今著聞集』(西尾光一、小林保治校注)よる。ただし『古事談』の説話番号は現代思潮社古典文庫版に従う。『古今著聞集』の説話標題は古典集成版が設定したものによる。研究史については浅見和彦編『『古事談』を読み解く』(笠間書院、二〇〇八年)、『新注古事談』(同、二〇一〇年)などを参照した。

一  『古事談』の世界――折れ籠もる抄録 1  巻一「王道后宮」――抄録すること、折れ籠もること

  源顕兼『古事談』の構成は一「王道后宮」、二「臣節」、三「僧行」、四「勇士」、五「神社仏寺」、六「亭宅諸道」となっている。冒頭に置かれた称徳天皇と道鏡の挿話は『古事談』のすべての要素の結節点であろう。これが「王道」と「僧行」の説話であることはいうまでもないが、そこに臣下や勇士が介入し、医術の問題となり霊異の問題となるからである。しかも、仏寺や邸宅のことも記される。本話において鍵となるのは折れた芋である。「称徳天皇、道鏡之陰猶不足被思食、以薯藷作陰形、令用之給間、折籠云々。仍腫塞及大事之時、小手尼奉見云、帝疾可癒、手塗油欲取之、

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爰右中弁百川、霊狐也云、抜剱切尼肩云々、仍無療帝崩」。比較していえば、『宇治拾遺物語』の芋は食われるものだが(十八)、『古事談』の芋は致命的なものとなる。それに対して、『古今著聞集』の芋は絵の中にある(「かしら毛芋に似たり」三八九)。

かがわせる。 二位弓削宿祢清人配流土佐国、是道鏡之舎弟也」という第一話末尾の記述は、本説話集が罪科の記録であることをう 蜂を操って東大寺と敵対するのが辛国行者だからである(「辛国の方より数万の大蜂出で来たり…」)。「同日大納言従   「王道」第一に登場する道鏡が蜂に刺されて巨根となったとすれば、「僧行」第一に登場する辛国行者とも響き合う。

  次に置かれた浦島子の説話は、箱を開く点で四「陽成天皇、璽ノ筥ヲ開キ宝剱ヲ脱カシメ給フ事」と響き合っているし、三「清和天皇ノ御即位ヲ予言セシ童謡ノ事」は『日本霊異記』にみられた道鏡説話の歌謡と響き合っている。『古事談』冒頭部の説話配列ははなはだ意義深い。

  抄録に徹する『古事談』は陰惨な説話が多いように思われる。冒頭に「称徳天皇、道鏡之陰猶不足被思食、以薯藷作陰形、令用之給間、折籠云々。仍腫塞」とあるが、この「折籠」「腫塞」が『古事談』のキーワードといえるだろう。内に折れ籠もって腫れ上がる説話が少なくないからである。亡くなった公忠が冥官のもとで延喜帝のことを訴えると、延喜帝は「荒涼」となって改元までする。「訴云、延喜聖主所為尤不安者、堂上有糺朱紫者三十余輩、其中第二座者咲云、延喜主頗以荒涼也、有改元歟」(一一)。いわば内に折れ籠もるのである。

  好忠が歌会から追い出される話は『今昔物語集』巻二八では笑話になっているが、『古事談』では笑いを生まない。好忠は召されているにもかかわらず、理不尽に追放されるからである(「公卿達称無指召追立好忠重節等、時通云、好忠已在召人内云々」一五)。花山天皇についての暴露は性的な開放感もなく、陰湿な印象を与える。「花山院御即位之日、馬内侍為褰帳命婦進参之間、天皇令引入高御座内給、忽以配偶云々」(一七)。花山天皇が騙されて出家する挿話も無残な印象を与える(「我ヲハカルナリケリトテ涕泣給」二〇)。為時が越前守に任命された話は『今昔物語集』巻二四にもみえるが、『古事談』では越前守から外された国盛の悲惨さが際立つ。「国盛家中上下涕泣。国盛自此受病。及秋雖任播磨守猶依此病遂以逝去云々」というのがそれである(二六)。いずれも抄録だが、『古事談』は抄録という

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方法によって内容を折れ籠もらせるのである。『古事談』が殺伐とした印象を与えるのは、抄録のせいにちがいない。抄録によって責任を回避してもいる。

  道綱が顕光に悪口する話も陰湿な説話である。「道綱卿放言右府云々。聴之者或指弾シ或歎息云々。其ノ詞云ク、何事云ゾ、妻ヲバ人ニクナガレテト云々」(二八)。道長についての暴露も陰湿な印象を与える。「一条院崩御之後、御手習之反古トモノ御手箱ニ入テアリケルヲ、入道殿御覧ジケル中ニ、叢蘭欲茂秋風吹破、王事欲章讒臣乱国トアソハシタリケルヲ、吾事ヲ思食テ令書給タリケリトテ令破給ケリ」(三三)。一条院が箱に残した文書を破棄したというが、この箱は第二話や第三話の箱と響き合っている。『古事談』が箱に拘泥するのは、それが権力闘争にかかわるからなのである。

  道隆が亡くなって道長が権力を握ると、道隆の息子たちは悲運を味わう。「後一条院未生給之間、万人入夜参帥殿。依為主上一宮叔父也。後一条院生給之後、其事都絶云々」(三八)。次の不気味な怪物の話も暗い。「女長七尺余、面長二尺余、乗船寄丹後国浦、船中有飯酒、触辺之者悉以病悩」(四〇)、この無言の怪女は巨大さの点で称徳天皇の挿話に通じるものがある。

  『古事談』では権力闘争が悪口や暴力などもっぱら陰湿なものとして記される。

「記斉信卿失礼ノ事云々。乃披露之条、斉信卿怨恨無極」(四二)。行成は斉信の失策を扇に書き付けているが、『枕草子』の華麗な貴紳たちが『古事談』ではいずれも暗い情念をもつ(「本自不快之中也」)。そうしたことを書かずにはいられない『古事談』の源顕兼は嫌みな行成に近い気質なのであろう。

  恥辱を受け暴力を振るうが、逆に突き落とされ踏みにじられるのは行成の従兄弟である。「後朱雀院、左少将伊成被陵礫之間、不堪其ノ責、以笏殴右兵衛佐能信之肩」とみえる(四三)。『古事談』の説話には陰湿な軋轢ばかりが際立つのである。失態をしでかしかねない臣下はいつも戦々恐々としている。「後朱雀院御時、公基御書使之時、為改装束、置御書於日記辛櫃上、退下直廬之間、凶人以油懸御書」という(四四)。

  殿上で諍いがあって、後朱雀が亡くなる第四五話も暗い。「経輔卿被打事ハ、寛徳二年正月三日、殿上淵酔間事也。頭中将俊家被放屁。人閉口。其後頭中将橘トリテナラサント被食ケルカ、ナラサリケレハ、頭弁経輔微音ニ、是ハ不

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鳴ト云タリケル時、人々咲之云々。仍頭中将成怒、以笏打頭弁。依之頭中将被除籍云々」(四五)。天皇は「件事非経輔之恥、吾恥也、吾運已尽也」と語り、「天気快」とあるものの腫れ物のせいで崩御してしまう。

  第五三話では褒賞をめぐって頼通と後冷泉の間で意見が異なる。「経信卿帰参テ申此旨。天気頗遺恨」とあるが、臣下は「天気」を気にせずにはいられない。隆国が天皇の「玉茎」を探るのも、そのせいであろう。「隆国卿為頭、奉仕御装束。先奉探主上御玉茎。主上令打落隆国冠給。敢不為事放本取候。是毎度ノ事也」(五四)。隆国の冠をわざと落とす天皇の真意は何であろうか。ここには笑いと陰惨さが同居している。こうした不可解さは、隆国が説話集を編纂する原動力になったのかもしれない。

  後三条が自らの妹である前斎院と密通した俊房を嫌った話も伝わる。「堀川左府参議之時、前斎院ヲ奉取籠タリケルヲ、天皇令憚宇治殿給テ、繆モテナサセ給ケルヲ、春宮事外令憤給テ、アハレ吾一人ガ妹ニテモナキ物ヲト被仰ケリ。仍受禅之後、依其ノ御意趣令追籠給」(五五)。こうした説話をみると、王権が抑圧のシステムであることがよくわかる。もちろん王権は文化的システムでもあるが、文化は抑圧や暴力と一体になっている。天皇の気分をめぐる説話は数多い(「延喜御時、蔵人不参内、居家。其母奇問之、蔵人ノ云ク、天気常不快。母ノ云ク、早可参内、我将祈鞍馬寺云々」三七六)。

  とりわけ後三条院、白河院の時代は抑圧的であったようにみえる。「治暦比、取人妻メニシタリケル者アリ。春宮御即位アリケレバ、此御時ハ罪科ニモゾ被行トテ、返遣本人許畢云々」(六〇)。後三条天皇が即位すると、罪が厳しく問われるのである。

  後冷泉天皇と親しくしていた隆国は、後三条の時代になって冷遇されかねない状況となる。「宇治大納言隆国ハ、後冷泉御在位之間、誇朝恩無弐之故、奉為春宮於事頗有奇怪事等云々。而受禅之後、為思食多年之意趣、於彼子息等以事次、可被処罪科之由有叡慮」(六四)。この「意趣」が恐ろしいのである。隆国の息子三人はいずれも傑出していたため寵愛を受けているが(「三人皆以為近臣、無比肩人」)、「斎宮寮申射殺狐」という犯罪は重く、成資の三男は土佐配流となっている。

  後三条院の時代は罪科とともに倹約が厳しい。「後三条院令事倹約給之間、御扇骨檜ニテ藍ヲ塗テ令持給ケリ」

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(六六)。頼通が平等院を建立しようとすると、後三条は介入してくる。「宇治殿建立平等院。宇県辺多寺領ニ被打入云々、後三条院聞此事、争恣ナル事有哉トテ、遣官使可撿注之由被仰下ケリ」(六七)。

  犬を憎む後三条院には酷薄さが見て取れる。「後三条院ハ、犬ヲニクマセ給テ、内裏ニヤセ犬ノキタナゲナルガアリケルヲ、取棄ヨト蔵人ニ被仰タリケレバ、犬ヲ令悪給トテ、京中ヨリハシメテ諸国マテ犬ヲコロシケリ。帝キコシメシテ、被驚仰ケレハ、又殺サス云々」(六八)。犬殺しを停止させた美談にもみえるが、誰もが後三条院の感性に同調して犬を殺す時代だったのである。後三条院院崩御を聞いた頼通は「歎息」している。「宇治殿御出家之後、後坐干宇治之間、後三条院崩御之由聞給テ、止食立箸而歎息」(七一)。この「歎息」には後三条院の重圧から解放された頼通の姿がうかがえるだろう。「後三条院、宇治殿辺、於事殊無挙容」というのが二人の関係だったからである。

  白河院もまた酷薄な存在であったようにみえる。儀式を延引させたせいで雨を獄舎につないだ挿話がある。「白川院、金泥ノ一切経於法勝寺可被供養、臨期依甚雨延引三ケ度也、被遂供養日猶降雨、因之有逆鱗、雨ヲ物ニ請入テ、被置獄舎」(七四)。白河院の成敗に怨みを抱く臣下もいたようである。「六条修理大夫顕季卿、与刑部丞義光相論所領、白川法皇無何無御成敗、匠作心中奉怨…」という(七五)。

  白河院の「天気」に触れた臣下もいる。それは搔膝をした成通であり、接待に失敗した家保である。「白川院夕御膳之時、侍従大納言成通卿候陪膳、御寝之間漸漏移、依更発脚気、片膝ヲ立テ候ケリ、法皇被仰云ク、宇治ニイハレシハ、於人前搔膝シテ、居事、以外白気事也云々、御詞未畢成通云々逐電云々」(七七)。「白川院為御方違、渡御家保卿家之時、紫檀甲琵琶傍ニ銀琵琶一面ヲ立置テアリケルヲ御覧シテ、有不受之御気色還御云々」(七九)。恐ろしいのは、この「御気色」である。源顕兼が笑いのない失敗談を記し続けるのは、同じ時代の重圧を受けていたからだが、同時に自らの陰湿な楽しみだったからであろう。

  白河院による殺生禁断は名高い。「白川法皇殺生禁断之時、加藤大夫成家不拘厳制、鷹ヲ仕之由聞食テ、仰使庁被召之間、早速参洛。即参上御所、門前ニ自身鷹ヲ居タリ、下人二人同之、被召仰云、殺生禁断事、宣下之後乃数年、而何様存テ尚鷹ヲバ仕ナルゾ、已ニ非朝敵哉、早可弁申子細云々」(八一)。禁断を守らない者は朝敵扱いされる。だが、「源氏平氏之習、重科ト申ハ被切頸候也」とある通り、武家の「重科」はもっと苛酷だったといえる。

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  蜂を飼う宗輔が興味深いのは、危険をうまく制御している点にある。「京極大相国飼蜂之事、世以称無益ノ事、而五月比於鳥羽殿蜂栖俄落テ、御前多飛散ケレハ、人々モササレシトテニケサハキケルニ、相国御前ニ枇杷ノ有ケルヲ一総トリテ、コトツメニテカハヲムキテ、サシアケラレタリケレハ、蜂アルカキリツキテチラサリケレハ、乍付召共ノ人、ヤハラ給ケリ」(九二)。鳥羽院が感心するが、鳥羽院こそ危険きわまりない蜂のごとき存在であり、宗輔はそれをうまく誘導しているのかもしれない。宗輔が永長の大田楽に参加していた点も興味深い(八三)。田楽は人々の関心を引きつける甘い枇杷のようなものだからである。信西の博識はよく知られているが、「修禅之時眠ナトスルニ、頂ニ置テネフリ、カタフク時ハ落ハ鳴也、ソレニオトロカムレウノ物」とはなんと強迫的な道具であろう(八八)。

  鳥羽院は検非違使の長官に必要なものを六つ挙げている。「鳥羽院仰云、検非違使別当ハ、兼六ケノ事之者任之官也。所謂重代、才幹、成敗、容儀、近臣、富有云々」(九三)。検非違使たちをまとめるために六つもの美徳が必要だというが、それだけ困難で厳しい時代にあったのである。敦頼が馬部に報復される話をみてみよう。「馬部走還、又引落敦頼、冠襪不残一物、剥取其装束、又牛車等同取之、追放敦頼、敦頼拘其摩良、走入小屋了」(九四)。こうした様々な軋轢を取り締まるのが検非違使であり、説話集は仏教の時代ではなく、検非違使の時代というべきものを迎えている。

  二条天皇崩御の説話は不気味なものである。「二条院御宇、郭公充満京中、頻群鳴、剰二羽喰合落干殿上、取之被遣獄舎云々、依此怪異月中天皇避位、次月崩給云々」(九七)。「獄舎」の一語が目立つが、内に折れ籠もる挿話をもつ『古事談』はまた獄舎の説話集と呼ぶことができる。源顕兼が右兵衛左や刑部卿を務めていたことが注目される。

2  巻二「臣節」――軋轢、遺恨、破却   『古事談』第二は「臣節」と題されている。冒頭にみえるのは車の所有をめぐる軋轢である。

「貞信公ノヒダマユト云檳榔ハ、代々一ノ所ニ伝ヘテ有ケルヲ、知足院ノ御時、八条大相国与高松中納言同時拝参議、共ニ申御車間、ヒダマユヲバ高松宰相ニ給之由、内々謁其告、同ハヒダマユヲコソタマハラメト思テ、同日拝賀之間、於陣口仰雑色被奪替云々、件雑色於天下依為無双ノ京童部、高松之車副等不及敵対云々」という(一〇〇)。

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  次に続くのは、官職の就任をめぐる軋轢である。「朝成懐恥成怒退出、乗車之時、先投入笏、其笏自中央破裂、其後、摂政受病薨逝、是朝成生霊云々」(一〇一)。大納言を望んでかなえられなかった朝成は生霊になるが、破裂する笏はその強烈な感情を示す。その足も笏と同じ怒りを帯びている(「朝成卿為一条摂政発悪心之時、其足忽大ニナリテ不能着沓、仍足ノサキニカケテ退云々」)。

  次の説話をみると、関白の順番も些細な感情の行き違いで決まることがわかる。「関白之間、六ケ年、薨卒之刻、已閉眼之由以浮説、法興院令参内、堀川殿聞之、存被来訪之由、欲譲関白、而無其儀、渡門前被参内、堀川殿大怒、忽被扶四人、参内奏事由、譲関白於廉義公、法興院殿ヲハ罷大将令任治部卿云々」(一〇二)。関白の存在は周囲を威圧し身体から汗を絞り死灰にさせるほどである。「宇治殿於殿上小板敷勘発左大弁経頼給、是譏源右府事云々、経頼流汗退出之間、経長相合南殿北庇、経頼体如死灰云々、蒙殿下勘発運已尽也云々、其後、不経幾程受病遂卒云々」(一〇九)。確かに、関白の「勘発」は恐ろしい。しかし、関白も「天気」を思うままに操ることはできない。「此事私難申左右。可天気トテ奏聞之処、不許云々。仍宇治殿被遺恨、遂薨給畢」という(一一一)。

  討ち取られた武士の首が都大路を渡されるが、恐ろしいのは首ではない。恐ろしいのは首を見てはならないとする前例の拘束力のほうである。「被渡貞任ガ首之時、可見物之由、令申宇治殿之処、仰云、死人之首不能見物云々、仍不御覧云々、是又、不可令見物給云々」(一一三)。凶悪の小臣は袋に入れ捨てられさえする。「為通袋ヲ持テ山ノ方ザマヘ出遊行シニ、扈従人、師仲、公重、教長、顕広。此間左府被参、驚前声棄袋於山上逐電云々、仍件日左府日記云、今日参内。懈怠番衆ハ乍着袴立池、凶悪小臣ハ被入袋有山云々」(一二一)。とりわけ藤原頼長の周囲には規則ずくめの殺伐とした空気が漂っている。「冷泉中納言朝隆、蔵人頭之時、何事トカヤニ公卿座末ニ居タリケルヲ、宇治左府被追立云々」(一二二)。『古事談』には頼長をめぐる緊張した説話が多いが、『宇治拾遺物語』においては酷薄な頼長さえ笑いの対象となる。この相違は意味深いだろう。

  『古事談』では『伊勢物語』の優雅な挿話が生々しい暴露話になっている。

「高家者、業平之末葉也。業平朝臣為勅使参向伊勢之時、密通於斎宮云々。懐妊生男子。依有露顕之怖、令摂津守高階茂範為子。師尚是也。世隠秘不議之云々」(一二六)。この「露顕之怖」こそ『古事談』の説話に通底する恐怖にほかならない。「業平朝臣、盗二条后、

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将去之間、兄弟達追至奪返之時、切業平之本鳥云々」(一二七)をみると、高子を盗み出した業平に身体的な暴力が振るわれていたことがわかる。

  『古事談』の顕兼が共感を寄せていたのは行成ではないか。

「或人夢ニ赴冥途タリケルニ、可被召侍従大納言行成之ヨシ、有其沙汰ケレハ、或冥官云ク、件ノ行成ハ為世為人イミシク正直ノ人ナリ、暫不可被召云々、仍不被召云々、正直者ハ、冥官ノ召モ遁事ナリ」(一三四)。行成にとって「正直」とはありのままに酷薄に記すことだったであろうが、『古事談』を書く顕兼も、そうした陰湿で酷薄な「正直」を重視していたように思われる。

家は大饗で山鴫の料理が出せなかったことを後悔し続けている。 山鴫ノ醤焦被召之時、山鴫ノナクテ、ミヤマ鷯ノヒシホイリヲマイラセタリシ事ナン遺恨云々」(一四五)。肥前守景 細な落ち度が決定的だからである。「最後ニ、何事カ思置事有哉ト問人アリケレハ、無別之遺恨、但大殿大饗之時、   『古事談』にとって「臣節」とは「遺恨」に左右されることであろう。前例を踏襲し続ける貴族社会においては些

  文書に縛られた貴族社会が文書から解き放たれる唯一の機会は、恩赦だったのではないか。「非常赦ハ為人極悦事ナレハ、九条殿御流ハ詔書ノ草ヲ奏時、清書以前、召仰其由者也云々」とある(一四六)。

善男云々、見其気色、語得修験之僧、令修如意輪法、乃則成寵臣、然而宿業之所答坐事」(一五〇)。 妨、残千部功力、当蕩妄執可離苦得道、此僧命終無幾程、清和天皇誕生給、雖有童稚之齢、依先世之宿縁触事令悪於 而善男奏以停之、件僧、発悪心、奉読法花経三千部、願曰、以千部功力、当生宜為帝王、以千部功力、為善男卿成其 これが検非違使説話集のキーワードにほかならない。「清和天皇先身為僧、件僧望内供奉十禅師、深草天皇、欲令補之、   『古事談』は検非違使説話集ではないかと仮定してみたが、伴善男の説話をみるとよくわかるだろう。「事に坐す」、

  源顕兼は『小右記』から伊周配流の記事を抄出したようである(磯高志「古事談の説話採集の契機について」『人文論叢』一一、一九七二年)。「儀同三司配流者、長徳二年四月廿四日事也、宣命趣罪科三ケ条」とみえる(一五一)。一五三は白河院と賢子中宮の関係を記す。「賢子中宮者寵愛異他之故、於禁裏薨給也、雖為御悩危急不被許退去也、閉眼之時、猶抱御腰不令起避給云々、于時俊明卿参入申云、帝者葬送之例未曾有候、早可有行幸云々、仰云、例ハ自此コソハ始ラメ云々」。これは白河院の情愛を描いた挿話というよりも、恣意的で酷薄な挿話ではないだろうか。

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う(一五四)。 崇徳院ハ白川院御胤子云々、鳥羽院モ其由ヲ知食テ、叔父子トソ令申給ケル、依之大略不快ニテ令止給畢云々」とい   「不快」が合戦を招くことにもなる。「待賢門院ハ白川院御猶子之儀ニテ令入内給、其間法皇令密通給、人皆知之歟、

  清少納言零落の挿話はよく知られている。「清少納言零落之後、若殿上人アマタ同車渡彼宅前之間、宅ノ体破壊シタルヲミテ、少納言無下ニコソナリニケレト、車中ニイフヲキキテ、本自桟敷ニタチタリケルガ簾ヲ掻揚如鬼形之女法師顔ヲ指出云々」(一五五)。かつて持て囃されたものの零落を暴露すること、これが『古事談』の陰湿さにほかならない。「頼光朝臣遣四天王等令打清監之時、清少納言同宿ニテアリケルカ、依以法師欲之殺間、為尼之由云エントテ、忽出開云々」(一五七)。こうした『古事談』の陰湿さに反駁したのが橘成季の『古今著聞集』ではないだろうか。

  一六〇話では席次をめぐる軋轢が起こる。「白河殿競馬之日、頭中将資房之上行経朝臣任位次居ケリ、仍後朱雀院ニ被愁申ケレハ、令六借給テ、宇治殿ニ令尋タマヒケレハ…」。説話集を編纂したとされる隆国の周囲には様々な挿話がある。「隆国卿、於宇県参仕宇治殿之時、真実ノ小馬ニ乗テ乍騎馬出入云々。大納言被申云、此馬ハ馬ニハ候ハス、足駄ニテ候ヘハ可蒙御免云々、宇治殿令入奥給テ許容云々」(一六二)。小馬を足駄と言い張ること、そうした秀句が軋轢を緩和することになる。

  『古事談』は頼通の男色も暴露している。

「長季ハ宇治殿若気也、仍大童マテ不加着服云々、父不参之時ハイミシク令怨給ケリ、大飲之間、依酒事御ヲホヘハサカリニケリ」(一六三)。寵愛の衰えまで記すところに『古事談』の陰湿さがあるといえるだろう。

  前例を知らない無知こそ「遺恨」にほかならない。「惟頼卿被参妙音院之時、入道殿被仰云、孝博者自故殿、有召参上之時、著紫織物指貫白髪ニテ中門廊ニ候ケリ、侍等寄之云々、近代無知然之者、遺恨ノコトナリ」(一六七)。前例を知っているかどうかが裁かれることもなる。「非其道者勤行祭、非無罪科云々、又在座之人申云ク、有国不可有罪科。無道人遠国之境ニテ不耐孝養之情勤行之輩、更不可処罪科云々、仍冥官称同之、依之無為所被返遣也云々」(一六八)。こうして有国は冥界から蘇生したという。『古事談』には裁判説話に対する執着を見て取ることができる。

  文章家として知られた藤原有国は、他者に服従することで自らの意図を実現させる気質のようである。「有国以名

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簿与惟成、惟成驚云、藤賢式太ハ往日一隻者也、何故以如此、有国答云、入一人之跨欲超万人之首云々」(一二八)。有国はライヴァルの惟成に忠誠を誓い名簿を差し出している。「只以可対有国之怨為悦耳」と語った道隆への怨みを忘れ、息子の伊周を厚遇してさえいる(一六九)。

  一七〇は俊賢の恥辱を描き(「俊賢民部卿為参議書文定之時、不覚然之字、仍頗黒書之、一条左大臣為一上見之云ク、コレハ然之字歟、又敦歟云々、俊賢以此事為終身之恥云々」)、一七二は実方の怨恨を描く(「実方中将怨不補蔵人頭雀ニ成テ居殿上小台盤云々」)。道長の息子と定頼の読経を対比して描く一七七は『宇治拾遺物語』三五の原話であろうが、両者の印象は異なる。『宇治拾遺物語』が定頼の美声を強調するのに対して、『古事談』で強調されるのは不安である(「丞相竊思万事、不可劣定頼、不安之事也云々、因之忽発心被覚悟八軸云々」)。

  大将にとって落馬落冠は致命的な屈辱といえる。「近衛大将騎馬之時、番長騎馬先頗令馳之。為追払雑人也云々、而八条大将保忠為桃尻、就前馬走出之間、落馬落冠及恥辱之後、件礼永止云々」(一七九)。源顕通が忠教に悪口を返した挿話がある。「源大納言行幸供奉之時、頗近目之間、馬ヲ引タルヲ見失テ被尋ルヲ、忠教卿騎馬シテ近被打立タリケルカ、馬ハアメルハトテ頗笑給云々。爰亞相怒云、何事ヲイフ、行家カマラクソメカト云々、民部赭面閉口云々、行家忠教之継父也、若有実父疑歟」(一八〇)。ことさらに性的な嘲弄が強調されるのである。

  後輩に官位を越えられた伊通は怒りのあまり檳榔車を破却している。「不堪愁緒、翌日辞所帯等、於大宮大路破焼檳榔車」(一八一)。成通は「不慮之言」を後悔している。「成通卿閉口止、後日逢人云、無思分之方出不慮之言畢、後悔千回云々」(一八二)。除目の作法を知ることは大事であろう。一八三は「俊家、師実ニ除目ヲ習フ事」と題され、一八四は「家忠、除目ノ執筆ニ衡ノ字ヲ忘ルル事」と題されている。

  『古事談』は辛辣な悪口に敏感である。

「不作詩之人昇卿相事、始自顕雅卿云々、不書消息之人昇卿相事、始自俊忠卿云々」という(一八六)。才能は出世と必ずしも関係がないようである。「師頼卿為淳和院別当之時、彼院鐘不槌鳴五六日、白昼人々行向見之、全無槌人、然而自然有其声云々、大納言聞此事、令ト之処、可有慶賀云々、無幾被兼春宮大夫、存符号之由之間、又無程被薨去畢。吉凶之匹量事也」(一八七)。いつ鳴るのかわからない鐘の音は、いつ降りてくるかわからない天皇の声に等しいだろう。しかし、「天気」もまた「吉凶」と同じく頼りにならないのである。

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  妻を捨て乞食になってしまった惟成の挿話は興味深い。出世を手助けした妻の「怨み」が強烈だからである。「惟成弁清貧之時、妻室廻善巧不令見恥云々、而花山院令即位給之刻、離別之、為満仲之聟、因茲件旧妻成忿詣貴布祢祈申云、不可忽卒、只今成乞食給ト云々」(一九二)。旧妻の「廻善巧」ぶりは一九六にも記されるところである。

  出世できなかった者は車を破却さえする。「破焼檳榔車之事、九条大相国、為列京極殿之上、拝太政大臣有公事之日、著装束欲参仕之間、或人告云、関白被下一座宣旨云々、仍今者不能出仕トテ檳榔車ヲ引出大路、被焼之」(一九三)。出世できるかどうかは「天気」しだいということになる(「頼光於殿上息男可補蔵人之由、蒙天気云々」一九四)。『古事談』巻二の説話群を象徴するのは、「臣節」を示す檳榔車なのである。

3  巻三「僧行」――悪口、罪科、悪趣

う話だが、辛国行者は行成と仲違いした実方のようである。ともに怨みゆえに「悪心」を持つに至る。 「爰辛国忽結悪心、為寺敵度々此寺之仏法ヲ摩滅セントシケリ」(一九七)。金鐘行者(良弁)と辛国行者が験徳を競   『古事談』第三は「僧行」と題されている。興味深いのは、僧侶の世界が貴族の世界と全く同じ構造を有する点である。

  桓武天皇によって皇太子を廃された早良太子の説話は興味深い。「太子被行罪科了、現身成悪霊給、奉付悩於天皇、依之以有験僧徒雖奉加持、更ニ無有効験、于時召善修大徳、雖不及奉加持、心経少々ヨミテ、太子ヲネキテ云、サレハコソ申候シカ、無益事ナリ、早ク悪趣ヲトラカシテ、可令離生死給云々、仍帝御悩立平癒、永不発給云々」(二〇二)。こうしてみると、『古事談』は罪科と悪趣の説話集なのである。

  守敏と空海が雨乞いを競い合う話もよく知られている。「天長元年二月、天下大以旱魃、仍空海和尚奉勅於神泉苑可修請雨経修法者、于時守敏大徳奏上云、守敏已是上臈也、同学此経、須先勤行者、依請早修者、即守敏行之経七ケ日、結願之朝両京如暗夜、雷響尤盛甚雨洪水、衆人所感歎也、但遣勅使令検知之処、只京内不及山外云々」(二〇六)。『古事談』には競合と敗北の説話が少なくない。「書写上人無智人也」と断言する源信と良源の言葉にも、競争意識が感じられる(二二〇)。

  番論議で恵心に敗北したのは清義である。「恵心乍悦退帰之処、清義恵心ヲ喚返テ云、先年之番論議ニハ似候ハヌ

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ナ云々、恵心咲給云々、コノコトハ往日恵心与清義番論義之間、清義ツマリテ自禁裏出、修行入大峯、ソノノチ、棄顕宗、難行苦行、今所施効験也」(二二八)。二二九は安養尼のもとへ「強盗乱入」する話なので、罪科の説話集『古事談』にふさわしい。

  慶円と院源が一条天皇を蘇生させるのも、「恨み」の力による。「聖運有限、非力之所及、但有生前之御約、必可令最後念仏云々、此事相違、此恨綿々、可被奉請霊山釈迦、試仰仏力」と語っている(二三五)。

  文範が余慶を謗る話がある。「文範卿云、余慶僧正ヲ験者ト云テハ、被犯人妻歟云々、僧正聞此事之後、向彼卿宅之処、得其意称所労之由不出会」(二五〇)。『古事談』は悪口、罪科、悪趣の説話集といえるだろう。

  空腹を宝蔵の破損と呼び変えた話もある。「アハレ、御腹中之損タルヲ法ノ蔵トハ被仰候ニコソト申ケレハ、サモアリナントテ、魚味之御菜等調達タリケレハ、材木給テ宝蔵之破壊繕侍ヌト被申ケリ」(二五五)。祈祷に失敗すれば、世間の笑い者となる。これが僧にとっての最大の重圧である。「長和五年夏、炎旱渉旬月、人民愁之、仍公家旁雖被致祈祷無其験之処、深覚僧都、六月九日暁、為祈雨独身向神泉苑、内府聞乃此ノ事、遣使制止云、若無其応者、為世被咲歟、尤不便云々」(二五七)。貴族も僧侶も「為世被咲歟」という重圧を受けているのが『古事談』の世界にほかならない。

一生不犯之人」にしてしまうのは酷薄だといわざるをえない。 仁海僧正正真弟子云々、或女房密通於彼僧正之間、忽懐妊産生男子」(二六七)。生まれた男子に水銀を飲ませ「男女   「仁海僧正ハ食鳥之人ナリ」は僧のスキャンダルだが(二六六)、弟子をめぐるスキャンダルもある。「成尊僧都者、

  僧侶の世界も貴族の世界と同じく「披露」を恐れる社会なのである。番論議は、そうした「披露」の場になっている。「鳥羽法皇御登山之時、於中堂被行十番之番論議、一二番論議依劣、皆アラレヲフラシテ被追立了ヌ、其時法皇以刑部卿忠盛朝臣為御使、大衆中ニ被仰云ク、論議劣時之作法ハ已ニ被御覧畢ヌ。又神妙ニ答僧之時ハ何様哉云々」(二七一)。『古事談』の編者、源顕兼が刑部を務めていたことも思い合わされるが、刑部は勝ち負けを司る役職であろう。

  僧たちは勝劣や超越に敏感にならざるをえない。「如然之僧伽ノ句ハ、近来ハ御子験者トテ劣ナルコト也」(二七三)。これは忠通の病気を祈る話である。「翌日結願日、摂政奏聞事之由被行勧賞。其由依風聞、覚長僧都門弟等当座超越

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可為恥辱。不可出仕之由、頻ニ以諷諫。然而不承引」(二七五)。これは澄賢が雨を祈る話である。

  僧たちの世界にも「怒り」が存在する。「宗頼卿為家長者之時、勧修寺八講捧モノニ引牛車云々、而成実僧都分車、厳親別当入道三ケ度マテコヒケレト、遂惜而不献、仍禅門忿怒及放言云々」(二七九)。これは捧げ物として牛車を引く話である。

  僧の失策はいつまでも語り継がれる。「丹後国普甲トイフ山寺ノ住僧、大般若経虚読ヲ好而為業、已経年序畢、或時手ニ披経巻虚読之間、後頭ヲツヨク被殴トオホユルホトニ、両眼抜テ付経巻之面云々、クタンノ眼ヒツキタル経ハ、于今在彼寺云々」(二八一)。これは大般若経の「虚読」をして罰を受ける話である。

  貴族の世界と同じく僧侶の世界にも派閥がある。「仁和寺人云、請雨経法ハ醍醐人、孔雀経ハ仁和寺人可修也」(二八三)。これは孔雀経をめぐる争いになっている。「此聖人ハ得六根清浄之人也、或時客人来臨対面之間、懐ノ中ニ蚤ヲトリテ捻ケリ、于時聖云、イカニサハノミヲハ捻殺サムトハシ給ソトテ、大ニ悲歎給ケリ、客人恥テ退散云々」(二九二)。聖人の前で蚤を殺したことを後悔する話だが、『古事談』ではしばしば恥辱の感情が強調される。三〇四では大原聖人が無知ゆえに「赤面」している。恥辱を与えてしまったのは「落堕」した「賤僧」である。

  双六に負け馬を取り上げられそうになった修行僧は、念仏の宗徒から改宗を迫られるが、絶対に譲らない。「念仏輩イハク、コノ恩ヲオモヒシリテ、自今以後可為専修ナリ云々、ココニ此僧イハク、縦馬ノ直トナリテ、縄ツラツキテ奥ヘハマカリ向トモ、奉棄法花経、一向専修ニハ不可入トテ涕泣、依之念仏輩、然者不能請出トテ忽分散、仍被付縄、被追立、入陸奥方畢云々」(三〇五)。この頑なさが『古事談』的存在の特徴といえるだろう。

4  巻四「勇士」――罪科の説話集

者」(三〇六)。ここで罪科を受けるのは親王である。 繁王為首、入満仲家事、実也、臓物悉可有彼親繁王許云々、勅云、依不進男、忽科親王罪、猶伺親繁之出外、可召捕   『古事談』第四は「勇士」と題されるが、『古事談』が罪科の説話集であることをよく示している。「近輔申云、親

  三一五は「純友追討記」を引用し、「純友得捕禁固其身、於獄中死」と記している。三一七はまさに殺人説話とい

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える。「町尻殿家人」の頼信が「奉為我君可殺中関白、我取剣戟走入、誰人防禦之哉」と提案するのに対して、源頼光は理由を三つも挙げて反対している。

  頼義に対する陰湿な暴露も見て取れる。「頼義与御随身兼武ハ、一腹ナリ、母ハ宮仕之者ナリ、件ノ女ヲ頼信愛シテ令産頼義云々。其後、兼武ガ父、件ノ女ノモトナリケル半物ヲ愛ケルニ、室女ヲノレガ夫ト我ニアハセヨトテ進ミテ密通之間ウミタルナリ、頼義聞此事、心憂キ事ナリトテ、永ク母ヲ不孝シテ、ウセテノチモ、七騎之度乗タリケル大葦毛カ忌日ヲハシケレトモ、母ノ忌日ヲハセサリケル」(三二〇)。頼義の母は不義を犯していたのである。母親に対して不孝な頼義は殺生の罪も犯している。「伊予入道頼義者、自壮年之時、心無慚愧、以殺生為業。況十二年征戦之間、殺人罪不可勝計、因果之所答不可免地獄之人也」(三二一)。

  次の説話をみると『古事談』がたえず箱を気にかけた説話集であることがわかる。「維衡、年来黒葛箱ノ無口ヲ脇足ノ様ニ抑テ持タリケリ、出家之時、切放見之、袈裟剃刀納也、参川入道ニ受戒落網羅之日得之也云々、年来全不知人云々」(三一六)。維衡は戒を受けた武者だったのである。

  しかし、貴族からみれば、武者は殺生を業とする罪深い存在であろう。「義家朝臣依無懺悔之心遂堕悪趣畢」(三二六)、「前対馬守義親、康和五年十二月廿八日、依箱崎宮訴配流隠岐国。然而不赴配所、経廻出雲国、然間発悪事、殺害当国目代、依此事被下追討之宣旨、嘉承三年正月六日、被誅畢」(三二八)、「心サキヲ可差トテ、又高声念仏之間、如云心崎ヲ被差之時、止声気絶畢」(三三三)、「快実遣人コロサセケリ。熊野河之習雖無指事人ヲ殺事如此」(三三四)など、武者たちはいずれも血に塗れている。「心サキ」を刺され絶命するところ、簡単に人を殺す「熊野河之習」は印象的である。三三〇には「国司遣検非違使所目代」とあり、国司への反逆者を斬り殺している。

古典大系解説)、『古事談』と『続古事談』のつながりをそのあたりに求めることができるのであろう。 使の説話集と捉えることもできる。『続古事談』に検非違使説話群があることが指摘されているが(荒木浩による新 もと刑部省の職分であったものを引き取ったのが検非違使である)。犯罪、捕縛、処罰を記した『古事談』を検非違   『古事談』の編者である源顕兼は右兵衛佐や刑部卿を務めたが、その職務は検非違使の領分とはなはだ近い(もと

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5  巻五「神社仏寺」――検非違使の領分   「神社仏寺」と題された『古事談』第五で真っ先に取り上げられているのは、伊勢神宮焼亡の記事である。

「延暦十年八月五日、子刻有盗人、又焼大神宮正殿一宇、宝殿二宇、御門、瑞垣等、御体出自火中、懸坐御御前松樹枝云々」(三三五)。盗賊や火事などは神宮検非違使の領分であろう。「科祓拝、科上祓」とあるが、この「科す」も罪科のテーマに関連するようにみえる。

  暴風雨による破損の記事がそれに続く。「長久元年七月二十七日夜、大風大雨之間、子剋許、伊勢大神宮正殿、及東西宝殿、神宮瑞垣、御門等悉皆転倒、已如掃地云々、此事見于祭主永輔解状」(三三六)。この記事は解状を抜き出したもののようだが、このとき公卿の勅使は停止されたという。三三七は尊像に触れたせいで「不運」に見舞われる話である。「件御体、権俗別当兼貞、不堪不審、供御供之次奉礼白檀僧形、首戴月輪、御手令持翳給云々、兼貞此事之故不運而止云々」。

  三四一の主人公は検非違使長官にほかならない。「経成卿為検非違使別当之時、中納言闕所望之間、詣石清水以神主某、強盗百人刎頸者也、依件功労可被拝任今度納言之闕由、可令申祈云々、神主云、吾神者禁断殺生也、宗殺生給、争可令申其由哉云々」(三四二)。中納言を望んで石清水八幡宮に参詣した経成は、殺生を理由に神主に反対されるが国家のためだと反論している。任官、祈祷、殺生、これらはまさに『古事談』の主題であろう。それぞれ「臣節」「僧行」「勇士」の説話に対応する。源顕兼の母が石清水八幡宮別当の娘であることも注目される。

  三四六は石清水八幡の本宮と新宮が張り合う話であり、新宮の尼は殴られる(「壊棄其社、殴縛彼尼身」)。八幡宮正殿もまた焼失する(三五〇)。三五一は住吉明神と日吉明神が張り合う話である。「住吉大明神託宣云、昔伐新羅之時、吾為大将軍、日吉為副将軍、其後伐将門之時、日吉為大将軍、住吉為副将軍、是依天台宗之繁昌、日吉受法施無限、威徳倍増之故也云々」(三五一)。神々の争いから天台宗の台頭がうかがえる。

  次の説話は北野天神が漢詩で託宣する話だが、筥が重要な役割を担っている。「一条院御宇、北野天神御贈位、贈官、件位記詔書等勅使、菅原幹正、正暦四年八月十九日、太宰府到来、同廿日未剋参著安楽寺、御位記筥ヲ置案上、再拝、読申時、絶句詩現云々」(三五三)。筥に執着するのが『古事談』なのであろう。「わすれてとしをへて、箱の底にく

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ちのこれり」と記す『続古事談』も筥に拘泥している。

  『古事談』には頼長が近衛天皇を呪詛する説話がある。

「宇治左府被奉呪詛近衛院之時、古神祇之不預官幣御座スルト被尋之間、愛太子竹明神、四所ノ権現ヲ奉尋出、呪詛之、仍天皇崩御給了、然而左府不経幾程中矢失薨了云々」(三五六)。『古事談』の頼長が呪詛するのに対して、『宇治拾遺物語』の頼長が呪詛することはないが、この点に両説話集の相違が垣間見える。

  三五九は聖徳太子の未来記を掘り出す話である。「天喜二年九月廿日、聖徳太子御廟近辺、為立石塔引地之間、地中有似筥石、掘出之筥也」。三六四は消失した仏舎利が返却される話だが、同じく『古事談』の筥への執着を見て取ることができる。「天台宝幡院被安置塔婆之御舎利。貞元之比、為雷公被取之。爰成安阿闍梨争サル事アラムトテ、加持シテ可慥返置之由責状之間、黒雲出来、件舎利筥返置畢」という。

  三六一は霊木が祟る話であり(「自近江国流出橋木也、所至火災病死、卜巫所告此祟也」)、いたるところに災いが満ちている。西大寺の塔婆造営において「四角五重可足歟、被造八角七重者、為国土之費歟」と発言した長手は、冥途で「罪人」になっている(三六二)。三六四は雷のために仏舎利を奪われ、「舎利の筥」が返される話である。

  三六五では比叡山に登った狂女が殴られ縛られる。「寛仁四年九月比、狂女一人登叡山、在惣持院廊下云々、仍諸僧等殴縛追下畢、古老僧等歎息云々、我山建立以後、未聞如此事」。狂女一人が秩序を狂わせ、「是山王霊験滅亡歟、可悲事也」とされる。

  三井寺の鐘にも不吉な挿話がある。「事移時変、件寺破壊之後、纔住持之法師一人、為鐘主、而去年比、鎮守府将軍清衡施砂金千両於寺僧千人、其時三綱某乞集五十人之分、以五十両金給広江寺法師、是件鐘主法師成悦売件鐘畢。上座不廻時刻招寄寺僧等、終夜転来畢、所釣園城寺也、後日衆徒漏聞此事搦件鐘主法師、不日令入湖云々」(三六八)。山門と寺門の対立はよく知られるが、鐘を三井寺に売り払った法師は殺されている。続く三六九では三井寺が焼かれ、笑いが沸き起こるが、それは暗い笑いである(「依此焼園城寺之罪、地獄ニ留事ハヨモ候シ」)。

  三七四は慶俊僧都の埋めた鐘が予定より早く掘り出される話であり、「太口惜」という結末になっている。法成寺建立のとき陽明門の額が落ちる三七八も、はなはだ口惜しい挿話である。「法成寺建立之時、自陽明門大路南ニ被立

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南大門、近衛大路ヲ被築籠タリケリ、ソノトキ大外記頼隆真人夢相ニ陽明門額地ニオチタリケレハ奇問之処、額云ク、吾以望東山為命、而今依被塞大路之末、所落地ナリ云々」(三七八)。大路の末が塞がれることに反対したものだが、ここには『古事談』の「折れ籠もる」閉塞のテーマが見て取れる。

  寺の名前も争いのもととなりかねない。「円宗寺ハ本ハ円明寺也、而宇治殿被仰云、円明寺ハ山崎寺号ナリ。同庚午日、可被供養ソト云々、依之サハキテ円宗寺トハ被改ケリ」(三八二)。「サハギテ」というところに混乱ぶりがうかがえる。

  源頼義が建立した耳納堂には血腥い過去がある。「六条坊門北、西洞院西有堂、号シノウ堂、件堂ハ伊予入道頼義、奥州俘囚討夷之後所建立也、仏ハ等身阿弥陀也、頼義造立此仏、恭敬礼拝シテ、往生極楽、必引導給ヘト申ケレハ、ウナツカセ給ケリ、十二年之間、戦場死亡之者片耳ヲ切アツメテホシテ、皮古二合ニ入テ、持テ上タリケルヲ、件堂ノ土壇下ニ埋云々、仍耳納堂トイフナリ」(三八七)。死者たちの話を「切アツメテホシテ」乾かしたのが『古事談』という説話集なのかもしれない。

6  巻六「亭宅諸道」――文章、罪科、建物   『古事談』第六は「亭宅諸道」と題されている。めでたい説話群のようにもみえるが、

「南殿桜樹者、本是梅樹也、桓武天皇遷都之時、所被植也、而及承和中枯失」「仁明天皇被改植也、其後天徳四年九月二三日、内裡焼亡ニ焼失了」(三八九)、「東三条者、李部王家也、彼王夢ニ東三条ノ南面ニ金鳳来テ舞ケリ、不相叶」(三九〇)など、はなはだ口惜しい細部をもつ。

  興味深いのは「伴大納言後身」とされる源有国である。文章生の出身で、秦有時殺害事件に連座し、邸宅造営に関与している(「入道殿被造東三条之時、有国奉行之」三九一)。文章と罪科と建物、ここに有国なる人物の重要性があるのではないだろうか。応天門炎上にかかわる伴善男の説話において語られていたのも罪科と建物の関係性だからである。

  三九二では兼家の娘が庚申の夜に頓死している。「大入道殿姫君、庚申夜脇息ニ寄懸テ令死給畢、仍彼御一門ニハ

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女房之庚申永被止云々」。閉じ込められた場所で姫君の息が絶える、これははなはだ不吉な停止の挿話である。

  頼通が勝手に大路を築き籠める話はまさに『古事談』のテーマにふさわしい(三九三)。「京中之大路ヲモ、カク籠作ニヤ」と反対されたにもかかわらず、摂関家にはそれが可能だという(「打任テハ不可有事ナレトモ、我等カセムヲハ、誰カハ可咎哉被仰ケリ、仍高陽院ヲハ四町ヲ築籠テ令作給云々」)。この横暴さが『古事談』の一面であろう。さらに頼通は水龍と呼ばれる唐土の笛を自らの宝蔵に押し籠めている(三九七)。

  禁獄の挿話にも「籠める」という『古事談』のテーマが見て取れる。「伶人助元依府役懈怠事、被召籠左近府ノ下倉。此下倉ニハ虵聚ナル物ヲト怖畏之間、夜半ハカリ大蛇出来」(三九九)。鬱屈を晴らしてくれるのは音楽であり、そこに音楽説話の意義があるだろう。

  吉備津宮が音楽を望んだ話がある。「元正下向八幡御領備中国吉河保、上洛之間、於室泊、俄心神違例、如亡、片鬚如雪変也。成奇異之思、令巫卜之処、吉備津宮託宣給云々、適下向当国、依不聞其曲、成祟ナリ云々」(四〇二)。音楽を聞きたいがために「祟り」をなすところには神仏の嫉妬が見て取れる。他の説話集の音楽説話はめでたいものが多いが、『古事談』の音楽説話は不吉なものが少なくない。音楽は酷薄さと隣り合わせである。

  音楽は歓迎されるばかりではない。「永秀常吹笛、隣里悪之、四隣無人、件近辺不生草、依笛声歟」(四〇三)。時には音楽が不快を生み出すことがある。「千金調子ヲヒカセラルルニ、無正体僻事也、童退出之後、又召孝博被仰云、千金調子為僻事之由可令申也云々、孝博今暫可令助御、忽マトヒ候ナムスト申ケレト、僻事也、汝モ我モ存生之トキ、不令謝顕者、為後代之狼藉歟トテ、アリママニ被申御室之間、孝博不日預追却畢云々」(四〇七)。こうして孝博は「追却」されてしまう。

  音楽が殺人と関係することがある。「舞人助忠為傍輩正道、被殺害畢、仍堀川天皇御歎息、過法之間、久我大相国被奏云、何故強御歎候哉云々、被仰云、神楽秘曲、胡飲酒、采桑老、此等三箇事亦無伝説之人、已欲絶、争不歎思食哉云々」(四一四)。殺人によって音楽が途絶えることが恐れられている。胡飲酒がまさにそれだが、快楽を与えるべき音楽が不快をもたらすことにもなる。「久我大相国、被授胡飲酒於忠方之時、授畢之由聞食テ、天皇御覧之処、不叶叡慮」(四一九)。高枕で臥し遅参すると「逆鱗」に触れるのである。「勅宣」があるかどうかは大きな問題となる

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(四一七)。

  道長が以言の昇官に異議を差し挟んだ話がみえる。「一条院御時、以言望顕官之時、有勅許気。而御堂令申給云、以言者、鹿馬可迷二世情ト作者也、争浴朝恩哉云々、仍不許云々」(四二三)。学問も争いと無縁ではない。座席をめぐる争いが起こるからである。「文時之弟子、分二座テ座列ノトキ、文章座ニハ保胤為一座。才学座ニハ称文為一座、而只藤秀才最貞企参上、被諍論云々」(四二四)。文字をめぐる軋轢もみえる。「時棟列宇治殿蔵人所之日、雅康為右衛門権佐、来テ問文字、時棟不答、傍ナル範国朝臣云、時棟課試及第二ケ度也、今始問文字、極白者也云々」(四二五)。

  有国が保胤に徒名をつける話があるが、皮肉が籠められている。「有国与保胤争文道、常不和云々、保胤ヲバ有国ハ有々ノ主ト号ケリ、有国問本文事之時、不覚悟事ヲモ、サルコトアリ、サルコトアリト云テ、作本文ヲ問ケル時モ又、サル事アリト云ケリ、仍有有主ト号云々」(四二六)。有国は保胤の書いた序を揶揄している。「保胤所作庚申序云、庚申古人守之、今人守之云々、有国興言云、古ノ人守リ、今ノ人守、多ノ人守哉云々」(四二七)。

  詩文の競合が起こり(「懐中ニ持タリケレト、尚劣タリケレハ不取出云々」四三三)、和歌の競合が起こる(「四条大納言、参六条宮、被論申云、貫之歌仙ナリ、宮仰云、不可及人丸云々、亞相被申不可然之由、仍後日、各秀歌十首被合之時、八首人丸勝、一首持、一首貫之勝之云々」四三五)。歌人もまた官人と同じく競い合っている。

  第四三六からは相人の占いの話が続く。「貞信公云、吾賢慮之条雖兄、不可劣申左大臣、於他事者、更不可及。今相者所見尤所為恥也云々」とみえるが(四三六)、『古事談』を特徴づけているのは恥辱の感覚なのである。

  占いによれば、自らの命を守るためには妻子を殺すような犠牲が必要だという。「取其身難去大事ニ令思給モノヲ、不論妻子殺ナントシテソ、若令転給事モ可侍云々」(四三八)。武者は妻子の代わりに馬を殺そうとするのだが、密通した妻と法師が殺される血腥い話である(「妻ハ矢ニ付テ死畢、而此皮子ノ内ヨリ血流出…」)。

  『古事談』は不吉な占いばかりを記している。

「六条右大臣殿ハ相人ナリ、奉相白川院曰、御寿命可令至八十給、但シ頓死相難遁御歟云々、院令及暮年給後、被仰云、右府相々叶已及八十、頓死事弥有其憚云々」(四四三)。顕房は中宮賢子の不幸を占っている。「大臣被仰云、不可依美麗ナリ、無生気成給タルモノヲ、不可過今明年人也、果然云々」(四四五)。

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  正家は自らの息子を占うが、それは不吉なものである。「正家朝臣又相人也、息男右少弁俊信ヲ相云、為弁靫負佐、官位已至、然而無可著正家服之相、口惜態哉云々、其言果不違」(四四六)。息子の短命を言い当ててしまったのである。四五〇は犬が吠えたので晴明が道長への呪詛を見破る話だが、『古事談』にふさわしい罪科の説話になっている(「不被行罪科、被追遣本国畢、但永不可致如此呪詛之由、被書誓状云々」)。しかし、『宇治拾遺物語』一八四の類話では犬の手柄が強調される(「犬はいよいよ不便にさせたまひけるとなん」)。四五一は不幸をもたらす「明道図」の話である(「施薬院領九条辺古所ニ、明道図ノ有ヲ見人必目ヲ病之ヨシ、雅忠朝臣申置之云々」)。

  貴族社会には暴力が満ちており、『古事談』はそれを見逃さない。「武則公助ト云古随身アリケリ、何ヲ父、何ヲ子トハ不分明、父子之間也、右近馬場ノ騎射ワロク射タリトテ、子ヲ勘当シテ晴ニテ殴ケル」(四五四)。馬もまた人間と同じく立腹する存在である。「宇治殿ワカク坐ケルトキ、花形トイフ揚馬ヲタテマツリケルヲ、兼時トイヒケル御随身奉見テ、コノ御馬腹立候ニタリ、トクオリサセヲハシマセト申ケレハ、ヲリサセタマヒテ、他人ヲ乗テ御覧ケレハ、御馬フシマロヒ、乗人ヲクヒオトシケレハ、御堂召兼時テ、纏頭云々」(四五六)。

  四五八は武正の乱暴を描く。「知足院殿、御坐宇治之時、武正凌礫御所侍、大略及死門之間、侍等参集訴申之」。暴力を振るった武正は忠実祖父の挿話を持ち出して、訴訟を逃れるのだが、『古事談』が暴力と訴訟に敏感なことがよくわかる。続く四五九は相撲という張り合いの世界を描く。「進寄取弘光之手後ザマヘ荒ク突タリケルニ、ノケサマニ転倒シテ、頭ヲツヨク打テケリ、起上テ烏帽子ノ抜タリケルヲトリテ推入テ、帥前ニ膝ヲツキテ、ホロホロト落涙シテ、君ノ見参ハ今日ハカリニ候ト云テ退出シテ、勝負ヤカテ出家シテケリ」(四五九)。凄惨な相撲はほとんど暴力に等しく、負けたらすべてを捨てざるをえない。

  仏師もまた厳しい世界に住んでいる。「仏師定朝之弟子覚助ヲハ儀絶シテ、家中ヘモ入サリケリ」(四六〇)。義絶は解かれるが、父子が協力しなければやっていけないほど厳しい世界といえる。「腰刀ヲ抜ムスムストケツリ」というところなど何とも荒々しい。厳しい勝負の説話を締めくくるのは囲碁である。「同御時、令好囲碁給ケリ、一条摂政蔵人之頭比、帯ヲ懸物ニテアソハシケルニ、奉負テ御数オホクナリケレハ、詠一首和歌、白浪ノウチヤカヘストオモフマニ浜ノマサコノカスソツモレル」(四六二)。暴力と罪科の説話集たる『古事談』は、こうして積もりに積もっ

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た「負け」の記録にみえる。

  検非違使の領分とかかわるはずだが、『古事談』が「後三条院令事倹約給之間」や「白川法皇殺生禁断之時」を特筆する説話集であったことを強調しておきたい。山口眞琴「検非違使と罪業をめぐって」(『西行説話文学論』笠間書院、二〇〇九年)は、検非違使の罪業性を論じており、示唆的である。もちろん、検非違使の説話は『今昔物語集』巻二九第一五にもあった。しかし、それは盗人を捕まえるべき検非違使が盗みを働いていたというもので笑話に近づいている(「忍ビ咲ヒ合タリケル」)。『宇治拾遺物語』五八「東北院菩提講の事」では検非違使に七度捕まった悪人が聖になっている。九五「検非違使忠明の事」はどうか。挟み撃ちとなった殺傷の場から軽々と飛び降り逃げ去るのであって、その語りの軽快さを印象づける(「やをら落ちにければ、それより逃げて去にけり」)。

二  『古事談』から『宇治拾遺物語』へ――叙述のパフォーマンス

  後三条院や白河院の時代を背景にしているせいだろうか、『古事談』の説話は暗く閉鎖的なものが多い。そうした説話を明るい世界に解放したのが『宇治拾遺物語』の説話であろう。『古事談』が内に「折れ籠もる」説話集だとすれば、『宇治拾遺物語』は外に「ひしめく」説話集とみなすことができる。第二話に「二三十人ばかり出で来て」とあるのは見逃せない。

肯定的な話になっている。小峰和明『宇治拾遺物語の表現時空』(若草書房、一九九九年)、五味文彦『書物の中世史』 つ。前者は不浄のまま読経した道命阿闍梨を非難する否定的な話だが、後者は法華経を聴聞しえた道祖神を救済する 経両三巻の後」だが、『宇治拾遺物語』では「八巻読み果てて」とあり、「世々生々忘れがたく候ふ」がいっそう際立 ける「今宵」が強調される。そのせいで「世々生々忘れがたく候ふ」の言葉が活きるのである。『古事談』では「読 など今宵しも言はるるぞと言ひければ…」(一)。『宇治拾遺物語』ではなぜ今宵なのかと問うことで、語りの場にお 「この御経を今宵承りぬることの、世々生々忘れがたく候ふと言ひければ、道命、法華経を読み奉ることは、常の事なり、   『古事談』二三一と『宇治拾遺物語』第一の道命阿闍梨の説話は同文的な同話だが、後者にのみ見られる部分がある。

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(みすず書房、二〇〇三年)にそれぞれ分析がある通り、『宇治拾遺物語』の特質を決定づける第一話といえる。

していくようにみえる。 鮮烈である。しかし、『宇治拾遺物語』は「今は昔」と語り出すことで、特定の時間から離れ自由な語りの場を確保 事談』の説話末尾には「云々」とあって、忠実な書承であることが強調される。二度繰り返される「坐事」の表現が 徴不慮之事出来、有坐事歟云々。然間善男付縁京上、果至大納言。然而猶坐事。不違郡司言云々」というように、『古 れも今は昔」と語り出している点である。『古事談』の説話は事実確認的な性格が強い。「必大位ニハ至トモ、定依其   『古事談』一四九と『宇治拾遺物語』四「伴大納言の事」はほとんど相違がみられない。わずかな相違は後者が「こ

拾遺物語』のほうが主観的な叙述になっているが、緊張感を高める叙述のパフォーマンスというべきであろう。 あはひよりも近くて、目の色も変りたりければ、あやしと思ひて、弓を引きさして、よく見けるに…」(七)。『宇治 頃にまはし寄りて、火串に引きかけて、矢をはげて射んとて、弓ふりたて見るに、この鹿の目の間の、例の鹿の目の   『古事談』二九五と『宇治拾遺物語』七「龍門の聖、鹿に代らんと欲する事」は表現にかなりの相違がみられる。「矢

歟。不被仰者、自他無由事也云々」とあり、自他の責任が問われている(一九一)。 召す事のあるか。仰せられずはよしなき事なり」というが(六〇)、『古事談』には「此御病体非普通事。有令思給事 が見て取れる。『宇治拾遺物語』では弟子たちが病気になった僧に「この病の有様、うち任せたる事にあらず。思し   『古事談』一九一と『宇治拾遺物語』六〇「進命婦、清水詣りの事」は同文的な同話だが、漢文脈と和文脈の相違

遠は蘇生したと考えることもできる。 たのであろう。観修僧正のほうが業遠よりも先に亡くなっているので、不審とされる。しかし題目通り、このとき業 (六一)。漢文脈であれば絶対に無視しえない区別だが(「業遠朝臣卒去之トキ」)、和文脈においては許容しうるものだっ 業遠に用いられた「卒」と「死」の相違である。「これも今は昔、業遠朝臣死ぬる時、御堂の入道仰せられける…」   『古事談』二五三と『宇治拾遺物語』六一「業遠朝臣、蘇生の事」はほとんど相違がみられない。わずかな相違は

ど異同はないが、「件仏安置天台護仏院云々」と「件の仏、山の護仏院に安置し奉らる」の違いがみられる。『宇治拾   『古事談』三八〇と『宇治拾遺物語』六三「後朱雀院、丈六の仏作り奉り給ふ事」は同文的な同話である。ほとん

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遺物語』の「山」という表現からは語り手の位置がうかがえるだろう。

生にあづからず」と断定することで、滑らかに後文に接続している。 る利生にあづからず」(六四)。『古事談』は「不預過分之利生歟」と断定を控えるが、『宇治拾遺物語』のほうは「利 (三四九)。「これも今は昔、式部大輔実重は賀茂へ参る事ならびなき者なり。前世の運おろそかにして、身に過ぎた ど異同はないが、冒頭の部分を引く。「式部大夫実重ハ、参詣賀茂無双之者也、依先生之微運不預過分之利生歟」   『古事談』三四九と『宇治拾遺物語』六四「式部大輔実重、賀茂の御体拝見の事」は同文的な同話である。ほとん

語』のほうは「思ひけり」と滑らかに締めくくっている。 してやみにけり。もし化人にやありけんと思ひけり」(六五)。『古事談』は「若化人歟」と突き放すが、『宇治拾遺物 結末の部分を引く。「後日度々尋ケレド不尋遇止了ヌ。若化人歟」(二七七)、「後にたびたび尋ねけれど、尋ねあはず   『古事談』二七七と『宇治拾遺物語』六五「智海法印、頼人法談の事」は同文的な同話である。ほとんど異同はないが、

を読み取ることができそうである。 と白河院の反応が直接続いている。しかし、『宇治拾遺物語』の場合は、直接続いておらず、その空白に様々な事情 尋ねありければ、覚えざる由申されけり。上皇しきりに御感ありけりとか」(六六)。『古事談』の場合、義家の発言 不覚悟之ヨシ申ケレバ、上皇頻有御感ケリ」(三二四)、「御感ありて、この弓は十二年の合戦の時や持ちたりしと御 ほとんど異同はないが、結末の部分を引く。「御感アリテ、コノ弓ハ十二年合戦之トキヤモチタリシト有御尋之処、   『古事談』三二四と『宇治拾遺物語』六六「白河院御寝のとき、ものにおそはれさせ給ふ事」は同文的な同話である。

分節しているようにみえる。『宇治拾遺物語』は結末部分に「ぞ」を使うことで説話を終止させている。 申す。僧都この由を聞きて、被物一重賜びてぞ帰されける」(六七)。『古事談』においては「云々」が語りの構造を 返遣之云々」(二五九)、「その魚の主が家、ただ一宇、その事を免るによりて、僧都のもとへ参り向ひて、この由を 結末の部分を引く。「コノ魚主ノ宅只一宇、免其ノ難云々。仍テ参向僧都之許、申此子細。僧都聞此ノ由賜被物一重   『古事談』二五九と『宇治拾遺物語』六七「永超僧都、魚食ふ事」は同文的な同話である。ほとんど異同はないが、

  『古事談』二六二と『宇治拾遺物語』六八「了延房に実因、湖水の中より法文の事」は同文的な同話である。ほと

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んど異同はないが、結末の部分を引く。「イカニト云ヒケレバ、ヨク申トコソオモヒ候ヘドモ、生改リヌレバ力不及事ナリ。我ナレバコソコレホドモ申セトイヒケリ」(二六二)、「いかにと問ひければ、よく申すとこそ思ひ候へども、生を隔てぬれば、力及ばぬ事なり。我なればこそこれほども申せといひけるとか」(六八)。「生改リヌレバ」よりも「生を隔てぬれば」のほうが口惜しさが感じられる。最後に「とか」と突き放した『宇治拾遺物語』のほうにユーモアがある。

『宇治拾遺物語』には「やがて」という副詞が追加されており、「とぞ」いう語り口調が説話を終止させている。 またやがて挟みとどめたまひける。郡司一家広き者なれば、人数をおこして、不日に戒壇を築きてけりとぞ」(六九)。 家広者ナリケレバ、引率人数、不日戒壇ヲ築テケリ」(二一五)、「挟みすべらかしたまひたりけれど、落しもたてず、 ないが、結末の部分を引く。「ハサミスベラカシタマヒケレド、オトシモハテズ、又ハサミトドメ給テケリ。郡司一   『古事談』二一五と『宇治拾遺物語』六九「慈恵僧正、戒壇築きたる事」は同文的な同話である。ほとんど異同は

『宇治拾遺物語』のほうは「すなはち」を追加して、叙述を滑らかにしている。 (四〇一)、「放鷹楽習ひにかと言ひければ、しかなりと答ふ。すなはち、坊中に入れて、くだんの楽を伝へけり」(一一五)。 同はないが、結末の部分を引く。「放鷹楽ナラヒニカトイヒケレバ、然ナリト答。坊ノ内ニ入レテ令授件楽タリ」   『古事談』四〇一と『宇治拾遺物語』一一五「放鷹楽、明暹に是季が習ふ事」は同文的な同話である。ほとんど異

編者の縁戚であり、確かな情報とみられる。 にありとか」(一一六)。『宇治拾遺物語』のほうは「やがて」を追加して、叙述を滑らかにしている。幸清は『古事談』 清之許云々」(四〇〇)、「御感ありて、やがて、その笛を賜びてけり。くだんの笛伝はりて、今八幡別当幸清がもと ど異同はないが、「叡感アリテソノ御笛ヲ給ケリ。件笛般若丸ト付テ秘蔵シテ持タリケリ。伝々シテ今在八幡別当幸   『古事談』四〇〇と『宇治拾遺物語』一一六「堀河院、明暹に笛吹かさせ給ふ事」は同文的な同話である。ほとん

「そのときに、盗人ども、いたづらにて逃げ帰りけるとか」(一一七)。『宇治拾遺物語』は漢文をわかりやすい和文に 同はみられないが、結末の部分を引く。「爰浄蔵啓白本尊、早可免遣者。宇時賊徒適復尋常致礼出去畢云々」(二一三)、   『古事談』二一三と『宇治拾遺物語』一一七「浄蔵が八坂の坊に強盗入る事」は同文的な同話である。ほとんど異

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変換している。

の「愚父」という表現が『宇治拾遺物語』では和らげられている。 細を知らず、無礼を現し候ひつらんと言ふ。致へ過ぎてのち、さればこそとぞ言ひけるとか」(一三五)。『古事談』 云々。致経スギテ後、国司サレバコソトイヒケリ」(三一九)、「致経が父、平五大夫に候ふ。堅固の田舎人にて、子 ほとんど異同はないが、結末の部分を引く。「致経愚父平五大夫ニ候。堅固ノ田舎人ニテ不知子細。定令現無礼歟   『古事談』三一九と『宇治拾遺物語』一三五「丹後守保昌下向の時、致経の父に逢ふ事」は同文的な同話である。

なりて、御堂殿辺へは祟りをなされけり。悪霊左府と名づく云々。犬はいよいよ不便にせさせ給ひけるとなん」(一八四)。 呪いの物語ではなく、愛すべき犬の物語になっている。「本国播磨へ追ひ下されにけり。この顕光公は死後に怨霊と には「罪科」「誓状」など警察官僚的な用語がうかがえる。だが、『宇治拾遺物語』では結末の一文によって恐ろしい 部分を比較してみよう。「不被行罪科、被追遣本国畢。但永不可致如此呪詛之由、被書誓状云々」(四五〇)。『古事談』   『古事談』四五〇と『宇治拾遺物語』一八四「御堂関白の御犬、晴明等、奇特の事」は同文的な同話である。結末

  『古事談』四五七と『宇治拾遺物語』一八八「賀茂祭の帰さ、武正・兼行御覧の事」は同文的な同話である。

「殿御覧じて、今一度北へ渡れと仰せありければ、また北へ渡りぬ。さてあるべきならねば、また南へ帰り渡るに、この度は兼行さきに南へ渡りぬ。次に武正渡らんずらんと人々待つほどに、武正やや久しく見えず。こはいかにと思ふほどに、向ひに引きたる幔より、東へ渡るなりけり。いかにいかにと待ちけるに、幔の上より冠の子ばかり見えて、南へ渡りけるを、人々、なほすぢなき者の心際なりとほめけりとか」(一八八)。『古事談』の記事は簡略だが、『宇治拾遺物語』のほうは叙述の繰り返しによって不思議な面白さが生まれている。

  別稿で『宇治拾遺物語』を饗応と交換に着目して分析したことがあるが(本誌四〇号)、『宇治拾遺物語』は『古事談』の閉鎖的な記事を叙述のパフォーマンスによって開かれた形にしているのではないだろうか。おそらく、『宇治拾遺物語』の饗応と交換が説話を開かれたものに変換したのである。そのため『宇治拾遺物語』の説話が年代順に並ぶことはない。

参照

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