義山『阿弥陀経随聞講録』所見の
雲棲袾宏の引用をめぐって
陳 敏 齡
前言: 日本江戸時代の阿弥陀経末疏
義山良照(以下,義山と略称) (1648–1717)の浄土三経随聞講録の中では,特に 『阿弥陀経随聞講録』(以下,『小経随聞講録』と略称)における明清仏教の引用が目 立っている.中でも雲棲袾宏(以下,袾宏と略称)(1535–1615)の引用が全書の随所 に見られる.これは正に各種の因縁際会の下で,明清時代の中國仏教と江戸時代 の日本仏教においては,いずれも阿弥陀経解釈に対する関心が高まっているの で,阿弥陀経の末疏も相当に展開していることに由来する. 1.義山『阿弥陀経随聞講録』における袾宏引用の考察視点
義山の袾宏引用に関して,まずは明清時代における阿弥陀経 疏の状況から説 明する.何故なら,明清時代の阿弥陀経の 疏としては,『阿弥陀経略解』(明・ 菴大佑),『弥陀略解圓中鈔』(明・幽谿伝燈),『阿弥陀経疏鈔』(明・雲棲袾宏),『阿 弥陀経已決』(明・吳門北禪寺沙門大慧),『阿弥陀経要解』(西有沙門蕅益智旭),『阿 弥陀経略 』(清・慈雲寺灌頂沙門續法)などが挙げられるが,殆ど天台浄土や華厳 浄土の 疏である.その中,袾宏は始めて禪を学び後に淨土門に入るため,その 『阿弥陀経疏鈔』(以下,疏鈔と略称)の教判は華厳教判に依る.禪者の教判は多く 華厳に依るので,暫く雲棲袾宏を以って,華厳系統を代表する.これに対して, 蕅益智旭を以って,天台系統を代表する.但し,義山『小経随聞講録』において は,袾宏の大幅引用に対して,蕅益智旭(以下,智旭と略称)(1599–1655)に関する 引用は か三,四箇所に過ぎない.しかし,袾宏『疏鈔』の所論内容から見れば, 袾宏は実に華厳と天台の特質を兼ね備えている.義山は却って両者を峻別する. 義山の意図は一体どこにあるのか.これは誠に興味深い点である. 上述した背景に基いて,以下では,義山の「袾宏智旭」(14, 751b) の両者に対す る受容態度の相異を手掛かりと同時に,特に義山の袾宏「華厳浄土義」の引用に着目して,義山『小経随聞講録』における袾宏引用の思想史的意味を探究したい. 2
.『小経随聞講録』の袾宏引用――袾宏「華厳浄土義」を中心に――
義山『小経随聞講録』の袾宏引用について,その依拠としての法然『阿弥陀経 釈』の分科に従って見れば,序分の引用は12個所,正宗分の「極楽依正」段の 引用は16個所(依報12,正報4),念仏往生段の引用は23個所(「念仏往生」3,「引証 勧信」20),流通分の引用は1個所あり,合計して52個所に達する.その中,袾宏 の「華厳浄土義」に関する引用は,主に正宗分に集中する.即ち,(一)「極楽依 正」段(3例),(二)「念仏往生」段(1例),(三)「引証勧信」段(4例)などである. これを列挙すると以下のようになる. (一)「極楽依正」段の袾宏引用 例1:「從是西方過十万億仏土」段において,義山の袾宏引用は,極楽はなぜ 「偏指西方」[X33, 634b](以下,[634b]と略す)かという一箇所にある.しかし詳 しくは引用せず,ただ「弥陀在ト西ニ経論等ノ中ニ未説其ノ由 (14, 718b)」とい う.但し,義山自身の解釈に引用される二つの資料は,袾宏における本段落の解 釈に類似し,華厳思想の色彩も濃い. 本段落に関して袾宏は,一つは華厳極楽「二土相望[633c]」の義,二つは華 厳の「一多相即[634c]」に依って,指方立相の理由を説明する.義山の引用す る二つの資料として,一つは,『安楽集』に説かれる『華厳経』及び『正法念経』 に依る娑婆と極楽の間における「境界相摂(14, 719b)」之義を説明するもの.二 つは,『梵網経』による千葉蓮華に坐っている盧舍那仏即ち弥陀の道理を説くも のである.後者は,一一華上に百億ノ國あり,百億ノ数を千で掛けるなら,即ち 十万億土になる.これは『阿弥陀経』の「從是西方過十万億仏土」に合致するの で,「舍那即是弥陀,而華蔵界乃亦極楽(14, 719b)」という.この舍那即弥陀の説 は,実に唐の清涼澄觀の「遮那弥陀,本末不二[X7, 499c]」の説に由来する.袾 宏の疏鈔でも,部分(分圓)と全體(圓極)との動態的關係から,「弥陀即本師 [635 c]」の理論を展開する. 義山はまた,この説を善導法事讃に言われる「西方国」の概念に対比して, 「今云夫極楽國土遍滿十方〈盡十方無碍光如來ノ故ニ,報身ノ身土ハ遍法界也〉 (14, 718a)」というように,極楽即ち華蔵法界の意味を表す.本段落での義山の解 釈は,良忠法事讚私記における「分身百億(04, 83a)」の説明にも見られる. 例2: 弥陀の「今現在說法」段において,義山は袾宏の説を全面的に引用する.義山は釈 (現在之過去)と弥陀(現在之現在)の対比を通して,「今現在」の 現在が「非過去亦非未来」の示すように,即ち永遠の一瞬だと説明する.その引 用として,「不唯今日猶名現在,後後無盡皆可名爲現在説法(14, 720a) [635b]」あ るいは「正当釈 説法時,弥陀亦在彼説法,故知非過非未,現在説法(14, 720a) [635a]」などである.こうした説明は,いずれも華厳的時間論が示されている. 例3: 弥陀の「成仏已來於今十劫」段において,義山の袾宏引用は直接に表明 されない.本段では,義山は常演十劫・一期赴機十劫・延促劫智十劫・但十劫と いう四種の十劫説を列挙する.「一常演十劫者,言十取滿数,二一期赴機十劫者, 是爲一機一縁,三延促劫智十劫者,仏果自在故,四但十劫者,是実十劫」とい う.義山は当流の相伝しているのが但十劫だと主張する.「常演十劫名越義,赴 機十劫蓮花堂,二義倶存藤田流,二義倶非是当流.今当流白旗相伝但十劫習也 (14, 731a)」という. 但し,もし良忠法事讃私記に依るならば,当流の相伝は「一期赴機(04, 070 a)」 の説が適当である.しかも,義山は本来名越派に所属するはずであるが,ここで なぜ白旗流相伝の「但十劫」の説を正統として引用するのか.義山の意を推測す れば,「一期赴機」説に従うならば「權敎(14, 732b)」になるという可能性を避け たいため,故意に十劫正覺の十劫を主張したのかもしれない.「是非九劫,非 十一劫,局実十劫」という.その上,義山はおよそ「浄宗深旨」を強調するた め,天台を避けるのみならず,華厳をも隠そうとする.彼は一方で法華天台の久 遠説を避けて,「彼経宣説釈 本迹ノ成道,是為利在世上機.此ノ経唯説弥陀十 劫成道,而度滅後ノ下機(已上,法事記私鈔意) (14, 732b)」という.また,他方で, 袾宏の言われる「華厳挙十,是表無盡(653c)」の無量義をも遠慮する.ただ, 「又有師擧『法蔵一因及多種因』,諸経異説,不須和會 (14, 730b)」という場合の 「有師[653b]」というのは,実に袾宏のことを指す. (二)「念仏往生」段の袾宏引用 「念仏往生」段の部分において,義山の袾宏引用はただ三箇所のみであり,し かも,襄陽石経「廿一字衍文」の論題に集中している.つまり,襄陽の石経は, 『阿弥陀経』における「(1)舍利弗!不可以少善根福徳因緣,得生彼國.(2)舍 利弗!若有善男子善女人,聞說阿弥陀仏,執持名號.若一日,若二日,若三日, 若四日,若五日,若六日,若七日,一心不亂(T12, 34b)」という「一心不亂」の 後ろに付加の文字がある.この衍文について,袾宏は衍文否定の見方を示すのに 対して,義山は袾宏の解釈が不当だと批判する.こうした袾宏説への強烈な批判
は本書全体で稀に見られる唯一の例外とも言えるが,袾宏の華厳菩 道の念仏に 対する反発の態度も窺える. 特に(1)前半の「少善根多善根之弁」の釈義では,義山には若干の華厳思想 の要素が見られるけれども,その論述のアプローチは善導・法然に由来する.例 えば,名號具万徳の説明は,即ち華厳の圓融義に依る.「稱名念仏,阿弥陀仏因 地修得万行,果位得万徳,其万徳カタマリヲ名爲阿弥陀功徳聚者也.況無漏法, 名体不離.故名號一法,無量無邊功徳一数聚持之,譬如屋舍名字中,摂棟梁椽柱 等(14, 735b)」という.ここでの「譬如屋舍名字中,摂棟梁椽柱等」の文は賢首 法蔵の説に るが,法然の『選択本願念仏集』からの引用である. ここで,一見して袾宏の引用がなさそうである.但し,義山の袾宏引用の全般 状態から見れば,袾宏説を採らないのは,別の原因があるに違いない.蓋し,義 山は本段落で諸師の中からただ元照説のみを引用する.袾宏における本段落の引 用に対比すれば,両者の説には実に重ねっている部分が随分多い.但し,袾宏は 靈芝元照と海東元曉を調和する態度を採っている.つまり,袾宏は基本的に発心 の有無や深淺の上に,稱名の概念を導入する立場であるが故に,發菩提心念仏こ そ多善根だと主張する.「發凡夫心,是謂無善根.發聲聞心,不發菩提心者,是 謂少善根也[657b]」という.こうした大乗菩 道としての念仏を強調するのは, 疏鈔の最初の「初教起所因」の「五勉進初心菩 親近如來者」に既に明示されて いる.この説は澄観の『華厳疏鈔』における『大智度論』の「念仏菩 之父 [610b]」の解釈に由来する.因みに,袾宏の主張する大乗(華厳)菩 道として の菩 念仏は中国仏教に一貫する姿勢とも言える.これは義山の伝承している凡 夫劣機を焦点とする捨雑修専の念仏との間に,誠に異なるニュアンスを持つと言 わざるを得ない. 要するに,「念仏往生」段から見れば,袾宏の菩 念仏に対して,義山の方は 凡夫念仏に属する.両者の齟齬不同は,主に伝承の差異に由来する.中国浄土教 においては,古くから,『維摩経』の心浄土浄説に依って浄化国土の菩 行を実 践する.中国のこうした大乗的思惟は,たとえ善導流もその例外ではない.極楽 の語を浄土に転換させるのも,正にこのような大乗菩 道を強調する思惟傾向の 反映とも言える.袾宏もこの大乗菩 道の伝統を受け継いで,この「不可以少善 根福徳因緣,得生彼國」という「少善不生」の文字を,大乗菩 道における信願 行(念仏実踐=行)の文脈に置かれる.これに対して,義山の伝承する日本浄土教 では,法然以来,善導『法事讃』(十七段)を依拠とする.つまり,善導は一方で
「少善不生段」の文字を第八段(勧信發願の段に属する極楽依正の結尾)に置く,「願 往生願往生,釋 如來告身子,即是普告苦 生(T47, 433a)」という.他方で,そ の解釈は却って第九段(念仏往生の段)で置かれる,「極楽無為涅槃界,隨緣雑善 恐難生.故使如來選要法,教念弥陀專復專(T47, 433b)」という.即ち,文は上段 (勧信發願の信)に属すが,義は下段(念仏往生の行)に繋がる.法然はこうした 「文跨両段,意通前後」に着目して,特にこの承先啓後の転換点に依って,『阿弥 陀経』を両段に分ける上,善根多少の問題は行にあらず,深信發願のことに関わ るものだと強調する.これは何かと言えば信仰の側面に傾くようになって,勧信 發願 (信願)或いは行信論の語脈に属する.良忠(04, 73a),聖聡(13, 391b)のいず れもこの文跨両段の言外の意に言及する.義山も例外ではないが,専ら願行具足 の側面を強調しようとする. (三)「引証勧信」段の袾宏引用 引証勧信段は二つの部分に分けられる.一つは叙來意(施設虚科),二つは正引 証勧進である.正引証勧進はまた,一以自証知見勧,二以多仏証誠勧進(「六方証 誠」),三示現当利益勧進,四擧我爲諸仏所讃勧進(「諸仏転讃」),五惣結勧進,な どの五つに分けられる.本段落における袾宏「華厳浄土義」の引用は,主にいく つかの版本異文の部分に集中する. 例1:「六方証誠」段の「西方世界有無量壽仏」について,此の文には従来二種 の解釈がある.一は同名異体,二は弥陀自讚,という.義山は最初に,袾宏の 「無量壽之名何止一仏」という文を引用する.その後,袾宏の「二説兼成」の義 を引用する.「袾宏評曰,前之一説,恐人不知諸仏数如微塵,拘執一偏,故示同 名甚多.後之一説,恐人泥於不應自讚,昧仏神用,故示自讃無妨.是知二説兼 成,理固無碍」〈疏鈔四之一卷廿五紙〉(14, 749b)[672c]という.但し,義山は 最後に,初義の同名異体の他仏説(14, 749b)を採用すると表明する. 義山解釈の眼目は主に,袾宏の「諸仏転讃」段に説かれる華厳の「同一法身」 説の引用に由来する.義山におけるこの段落の文字の引用は十分複雑である.義 山の説明によれば,「諸仏転讃」段における「同一法身」説は直接に袾宏[678c] からの引用であるが,袾宏はまた越溪性澄の阿弥陀経句解における古崖之説 [X33, 546c]を依拠とする.義山はまた,大佑ノ略解にも「三衢倫師古厓新師皆 曾集 [X33, 550a]」と言及する.いずれにしても,古崖の「以弥陀諸仏,同一 法身故」の説に対して,袾宏の疏鈔では「【鈔】同一法身者.如華厳頌云,十方 諸如來,同共一法身,一身一智慧,力無畏亦然[678c]」と解釈する.これに
依って見れば,袾宏のいわゆる「無量壽之名何止一仏」の説は,華厳同一法身の 概念より展開するものである.この説はまた,天台の越溪,大佑等に れる. 従って,大乗法身理体の概念をもって阿弥陀を解釈するのは,誠に中国仏教の阿 弥陀経解釈の通説とも言える.これは,袾宏(華厳) と智旭(天台)のいずれも例 外ではない. 例2:「示現当利益」段の「聞諸仏所說名」について,義山の依拠する版本(流 布本)は「聞諸仏所說名及経名者」という.これに対して,袾宏の依用する版本 では,「聞是経受持者及聞諸仏名者(T12, no. 366, 348a)」という経文である.こう した異本の問題に因んで,「諸仏所說名」の意味が一体,弥陀の名か,あるいは 諸仏の名か,という問題も出てくる. 義山は一方で,宗家(善導)の意に依って「諸仏所說名即弥陀之名」と主張す る.彼はまた,それを「汝等皆当信受我語及諸仏所説(14, 751a)」という随後の 経文を挙げて証明する.そして,彼は最後に「但今本爲正,順文相故」と断言す る.専修念仏を主張する日本浄土宗にとって,流布本の「諸仏所說名(弥陀の 名)」を採用するのは,当たり前のこととも言える.但し,義山はまた他方で, 能所の観点に依って二説を融合して,「弥陀名通諸仏名(14, 751b)」の結論を提起 する.「若約諸仏名者,讀諸仏被説之名者,是諸仏名.若讀諸仏所説之名者,是 弥陀名,故諸師意亦不違文(14, 751ab)」という.ここに言及される「諸師」と は,「袾宏智旭等師 (14, 751b)」を含む中国歴来の諸師を指すものである. 袾宏の解釈は,華厳第六迴向に説かれる「值遇…諸仏(T10, no. 279, 150a)」の観 点によるものである.袾宏は「聞諸仏名」が即ち六方諸仏の名を聞くということ を説明する一方,他方で,「知諸仏讚,信受此経,倍復親切[676c]」の示すよう に,同時に弥陀の名と諸仏の名を挙げるのは一層親しみを感じさせる,という. こうした解釈は日本浄土の専修念仏の角度とは全く異なる.但し,義山は,本段 落の文末で「今三仏同体護念,一切災障自然消散(14, 752a)」と言うように,や はり大乗(乃至善導)の仏仏道同の文脈に回帰するように見える. 例3:「諸仏転讃」段の「如我今者稱讃諸仏不可思議功徳」において,義山はま た続いて,弥陀と諸仏(14, 751b)の一異問題を論ずるが,焦点は玄奘訳『稱讚浄 土仏摂受経』における異訳の問題に転ずる.蓋し,弥陀と諸仏の一異問題は,上 述した「示現当利益」段の羅什訳における「諸仏所說名」と「聞諸仏名」の異本 問題のほか,「諸仏転讃」段における玄奘訳『稱讚淨土仏摂受経』の異本問題に も関連する.即ち,羅什訳の「如我今者稱讃諸仏不可思議功徳」に対応する玄奘
訳には又,二つの版本がある.奘訳本の甲本(【大】)は「稱揚讚 無量壽仏」,奘 訳本の乙本(【宋】【元】【明】)は「稱揚諸仏讚 無量壽仏(T12, no. 367, 351a)」という. 義山はまず,釈 讃諸仏あるいは諸仏讃釈 のいずれも,「弥陀法(14, 754b18)」 を讃嘆するためである,と解釈する.換言すれば,釈 が諸仏の不可思議功徳を 讃嘆する,ということであるが,その諸仏の不可思議功徳を詰めて言えば,即ち 阿弥陀仏の不可思議功徳を賛嘆する.「今云六方諸仏説弥陀法,指其諸仏果上功 徳,云諸仏不可思議功徳也(14, 754a b)」という. 次に,義山も能所の概念から,什訳本が約能讃の諸仏,奘訳本(甲本)が約所 讃の弥陀と説明する上,能讃の諸仏と所讃の弥陀との不二を説く.「彼経且約所 讃弥陀,今則是語能讃諸仏,故不相違 (14, 754b)」という.この説は袾宏の「唐 訳以弥陀該諸仏,今経以諸仏該弥陀[678c]」という「相互該摂」の義に類ずる. ここでは,義山は袾宏の説を引用していないように見えるが,義山の能所関係 による弥陀と諸仏の不二を証明する論証方式に類似した二重性は,疏鈔にも見ら れる.というのは,「諸仏転讃」段における袾宏の解釈も二つのレベルに分けら れる.第一階段では古崖の同一法身説による什訳の「稱讃諸仏」と奘訳「稱揚讚 無量壽仏」の会通である.第二階段でも「同一法身之義」をもって,奘訳 (【大】)「稱揚讚 無量壽仏」と奘訳(【宋】【元】【明】)「稱揚諸仏讚 無量壽仏」の 会通である.因みに,袾宏は最後に「同一法身之義」によって阿弥陀仏と諸仏の 相即を統合する.「【疏】唐訳以弥陀該諸仏,今經以諸仏該弥陀.若二說兼具,於 文更順,而義亦足.」「【鈔】具二說者,應云,如我今者稱讚阿弥陀仏,及與諸仏 不可思議功徳.則經文既順,而同一法身之義,亦在其中,文義雙美.當知什師本 有此意,文省便故.奘師後訳,特為単挙者,欲人於二經善會其意,而不泥其文 也.又諸仏弥陀相即,是亦不可思議[678c]」という. 注意に値するのは,唐訳本の問題に関して,良忠,聖聡のいずれも言及しな かった点である.義山のこの問題への関心は,およそ袾宏の影響を受けるとも言 えるであろう.特に,本段落における「同一法身之義」のことは,義山が上述し た「西方世界有無量壽仏」の段で既に引用していた.これに依って見れば,義山 が袾宏から華厳の法身観を援用するのは,本書全体における弥陀と諸仏の相即性 がその底流にあるとも考えられる. 3
.義山の袾宏「華厳浄土義」に対する受容態度
義山の『小経随聞講録』は,明清の華厳天台諸家の阿弥陀経注疏の中に偏に袾宏「華厳浄土義」を採用する.この袾宏引用にはまた,二つの要点が纏められる. 一つは(一)「極楽依正」段と(三)「引証勧信」段における華厳仏身観の受容で, 二つは(二)「念仏往生」段における華厳菩 道の拒否(転換)である.両種の方 向にはその取捨する態度が異なるけれども,いずれもその源流に ることができ る.前者の華厳仏身観の受容のことは,実に鎮西派の伝承に由来する.というの は,記主良忠以来,既に華厳に依って阿弥陀身土を 釈する傾向が見られる.も し更にその源流に るなら,善導にもいくつか華厳思想の要素が存在している. 後者の華厳菩 道の拒否(転換)ということは,聖浄二門の異なる立場による理解 様式の落差に由来する.つまり,袾宏は中国大乗菩 道の伝統を受け続いで,「不 可以少善根福徳因緣,得生彼國(T12, 34b)」の文字を「信願行」における念仏実踐 (行) の文脈に置く.義山の伝承している日本浄土教では,法然以来,善導法事讃 に依って,この「少善不生」の文字を勧信發願 (信願)の段落に置く.これは信行 論あるいは行信論の文脈に属するので,信仰の側面に傾くようになった.