『諸法無行経』梵本の第
1
群の偈頌の
第
1
偈の特に第
1
詩句について
岩 松 浅 夫
1.はじめに
『諸法無行経』(Sarvadhamāpravṛttinirdeśa-sūtra) のサンスクリット本(以下,「梵本」 と略)は,古い写本類の蒐集家として名高いノルウェーのスコイエン (Martin Schøyen) 氏の蒐集品の特に古代インドの仏教の経典類の写本の中に断片的にでは あるが含まれていることが判明し,それによって世に知られるようになったもの である.その同経の写本は同じノルウェーのブロールヴィック教授によって研究 されて,その結果も二十年程前に既に出版されている (Braarvik 2000, 81–166).とこ ろで,その同教授の研究を見ている間に筆者は特に同経の偈頌の部分に興味を惹 かれ,同教授のその研究では偈頌がそれ程重視されず取分け韻律 (metre) に関し ては1詩句 (pāda) 内の音節数〔の過多〕以外のことについてはその名称や型(各 音節の長短形)を含めて最も基本的で重要と思われる事柄に対して殆ど何も指摘 や言及等されていないことを知って筆者なりに調べ,その結果を本学会でも発表 したが(2004),近時その同経の特に偈頌の部分について改めて検討し直してみた ところが,その中には最初のときは気付かなかったがかなり重要でまた重大な問 題が幾つか含まれていることが判明した.そこで,ここではそ〔れら〕の点につ いて,具体的には本経には偈頌は3箇所に分れてそれぞれ纏って説かれているが1), その第1群の第1偈の特に第1詩句 (pāda a) に関し,それが有する問題点とそれに 対する筆者の見方や意見などについて述べてみることにしたい. 2.第
1偈のテキスト(本文)について
さて,該『諸法無行経』には上述した梵本とそれ以外に漢訳が姚秦の鳩摩羅什 訳『諸法無行経』(以下,本稿内では「姚秦訳」と称することにする),隋の闍那崛多訳 『仏説諸法本無経』(同,「隋訳」),宋の紹徳等訳『仏説大乗随転宣説諸法経』の3theg pa chen po i mdo. Derge No. 180, Peking No. 847. 同「蔵訳」)の計5種類の異本が存する ことになるが,その中,漢訳の最後の宋の紹徳等の訳は他との相違が大きいので
ここでは除くことにすれば,第1偈というのはそれぞれ次のようになっている2).
梵 本: nirātma nirjīva niṣpudgala dharmā deśehi nāyaka anaṃtayaśāḥ | śāntaḥ praśānta upaśāṃta satā ayam īdṛśa parṣa agravarā || 1 ||
姚秦訳:世尊大導師 名徳称無量 今此大衆集 願説寂滅法
隋 訳:無我無命無育法 無辺名称為我宣 寂静極寂常極然 如是此衆最勝者
蔵 訳: /gso med srog med bdag med chos kyi rnams/ /mgon po mtha yas grags mngas bshad du gsol/ / khor di di dra dam pa mchog (T mchogs) lags te/
/zhi ba rtag zhi rtag tu nye bar zhi/
3
.第
1偈,特にその第
1詩句の問題点
該第1詩句を含む第1偈というのはこのようなものであるが,先ずこの第1偈 の各詩句の韻律について見てみると,後の3詩句のそれは基本的にはいずれも前 稿(2004, 132)でも指摘したutthāpanī(長短調は,– – ◡ – ◡ ◡ ◡ – ◡ ◡ ◡_)になっている3) のに対して最初の第1詩句だけはそうではなくて,特にその3番目の niṣpudgala の語〔形〕がそのままでは同韻律に比定するのは難しい,と言うよりも実質的に 殆ど不可能と言っても決して過言ではないであろう4).そこで,もしそうとすれ ばここではその点をどう捉え,そしてそれにどう対応や対処するかが最大の課題 ということになるが,それに対しては大きく2つのことが,或いは2通りの対応 法が考えられるということになろう.その2つというのは,一つは写本の読み, 具体的には niṣpudgala の原綴を重視し,その語形をできるだけそのままにして 同語〔形〕を含む第1詩句全体の音節の長短形と同じ〔か,さもなければそれに できるだけ近い〕形の韻律を探してそれに比定するというもので,またもう一つ はそうではなくむしろ他の3詩句との関係を重視して,この第1詩句も最初はそ れらと同じutthāpanīの韻律で著されていたのが後に元の語がこの niṣpudgala に 改められ〔てかくなっ〕たと考える,というものである.ではそのどちらに解す べきかと言えば,それは人によって様々あるであろうが,ここでは種々の事柄 (理由)から後者のように考えて,論を進めるということにしたい. 4.
niṣpudgalaの語について
その後者のように筆者が考える理由若しくは根拠について少しく説明することにすれば,該 niṣpudgala が本来のものではなくて恐らく別の語から改められた ものであろうことに関しては,2つのことからそう考えられることになろう.そ の2つとは,一つは上の文からも知られるようにこの第1詩句では nirātman, nirjīva, niṣpudgala という3つの語が列記され,そしてそれらはいずれも仏教以 外の学派や宗団などで主張される言わば自我や自己の本性或いは本体とも言うべ き「アートマン」(ātman.「我」)や「ジーヴァ」(jīva.「命」)などはいずれも実体と して存在するものではないということを言うものであるが,実はそれと殆ど同じ 表現と内容のものが他の大乗の幾つかの経典の中に,具体的には例えば『金剛般 若経』(Vajracchedikā Prajñāpāramitā)では tasmāt tathāgato bhāṣate nirātmānaḥ sarvadharmā
nirjīvā niṣpoṣā niṣpudgalāḥ sarvadharmā iti,『十地経』(『華厳経』「十地品」. Daśabhūmika-sūtra)は . . . nirātmā niḥsatvo nirjīvo niṣpoṣo niṣpudgala . . ., そして『大宝積経・ 葉品』(Kāśyapaparivarta) にも同様に kataraṃ lokottaraṃ jñānabhaiṣajyaṃ | yad idaṃ hetupratyayajñānaḥ nairātmyeniḥsatvaḥni rjīvaniṣpoṣaniṣpudgaleṣu (!) dharmeṣv adhimuktijñānaṃ
の如くそれぞれ見られ5),しかもその中にはいずれも該 niṣpudgala の前には
niṣpoṣa なる語が含まれてその語〔形〕であれば先にも述べた韻律上の問題も然
して困難なく解消することになる6),ということと,そしてもう一つは当該の現
梵本の niṣpudgala は語意的には隋訳の「無育4」とも蔵訳の gso med7) とも共に
一致しないことになるが,今も述べた niṣpoṣa ならばそれらと殆ど完全に一致 し8)したがってそのような困難は全て解消することになる,ということである. そこで,この2つのことから筆者は先述のように当該の第1詩句の niṣpudgala の 語は他の恐らく該 niṣpoṣa などが改められたものではないかと推察し,またそ う解することを提起したいとも考える,というわけである. 5
.
niṣpoṣa,特にその後分の
poṣaの語意について
さて,ではその niṣpoṣa の表す意味についてであるが,その件に関しては果 してどうなるか.この語は,上述したように筆者の考えでは隋訳の「無育4」や蔵 訳の gso med の原語ということになるが,同語は果してそれらの訳語によって 示されるような意味に解してよいのであろうか.とこのように筆者が言うのも, 同語の前分の nir(/nis/niṣ) はそれが付くものの「無い」ことを表す前綴(接頭 辞)なのでそれの言わば中心と言うか本体に当るものは後半の poṣa が担うこと になるわけであるが,後者の poṣa をそのように隋訳の「育」や蔵訳の gso〔nir のない〕ātman (我)や jīva, (命)〔また,現梵本の niṣpudgala の niṣ の ない pudgala (人)〕などとはそれらが表す意味や内実の範疇が異なるので齟齬 を来すことになると考えられるので,あまり――と言うよりも,決して!?――適 切ではないように思われるからである.念のために,その点について確認するた めに辞典類に当って調べてみると,例えばPWやMWなどのSkt. の辞典ではい ずれも「生育」或いは「養育」などの意味しか与えられてはいない.そこで,も しそうとするとそれらからはそれ以上のことは何も言い得ないということになろ う9).では,これに対してはどのように考え,どう対処すべきかと言えば,その 手掛りとなるものは実はSkt. ではなくてむしろPa. の方にあるということになろ
う.と言うのも,Pa. の場合は必ずしもそうではなくて,Skt. の poṣa はPa.では
posa と な る が, そ の posa を 例 え ばPTSDは2つ に 分 け て posa2 の 方 は
(adj.)[=*poṣya, grd. of poseti, puṣ] to be fed or nourished, only in dup° difficult to nourish . . . としてSkt. の poṣa と同じとするがもう一方の posa1 に対しては
[contraction of purisa fr. *pūrṣa>*pussa>*possa>posa. So Geiger, P.Gr. 303]=
purisa, man (poetical form, only found in verse). . . としてそれとは全く別の扱いをし (ss.vv. posa2, posa1 を 各 参 照. な お, 後 者 の 引 文 中 の Geiger, P. Gr. の P. Gr. は Pali
Grammar の謂と考えられるが,具体的にはまた実際には〔その英訳等ではなくて〕Geiger
1916自身のことを表す),同様にChildersでも,posa そのものは独立した項として
は立てられてはいないが,see poriso とされるその PORISO, and POSO の項目
では A human being, a man, a person [pauruṣa]. . . . Posa is a curtailed form of porisa,
the intermediate step being porsa とされて(デーヴァナーガリー文字をここではイタリッ
ク体の太字に改めた),すなわち語源についてはPTSDとは意見がやや異なるもの の語意に関してはPTSDの posa1 と殆ど同じとされるだけで,Skt. の poṣa に相 当するもう一つの posa2 のそれ(語意)については全く触れられていない. そこで,このような特にPa. における扱われ方からすると,この poṣa もSkt. のそれよりもむしろPTSDの posa1 の意味で使われている,すなわち同語の BHS形と解せば上述したこの語の語意に関する問題も取り敢えず解消するとい うことになろうが如何であろうか.ここでも,同語についてはそのように解して おくということにしたい.因みに,BHSDでもこの語に関してはPTSDの解釈が殆 どそのまま採り入れられて,puruṣa と同じもの――すなわち,そのBHS形―― と見做し扱われている(s.v. poṣa を参照). もっとも,そのようにBHSDではPTSDの解釈が殆どそのまま受入れられてい
ると言っても,実は後者で引用・言及されている該 poṣa に対するガイガー (1916, § 30.3) の語源解釈に対しては compelling (説得的?)ではないとして疑義も 呈されているが,ただしBHSD自身の意見や解釈はそこには示されていない.ま た,そのガイガーの解釈や意見と同じことはChildersについても言い得ると考え られるので,このようなことを考慮すれば同語の起源や成立に関しては検討や再 考の余地はまだ〔多分に?〕残されているように思われるが如何であろうか.実 は,今該 poṣa の語意の件に関連して「取り敢えず」と言ったのもそのような事 情があったからなのであるが,それはともかく,そのPa. の該 poṣa の語源の件 についての筆者の意見をここで示しておくことにすれば,紙数の都合で要点だけ
述べれば同語はガイガーやChildersがそう想定したようにpurisa<puruṣaや
porisa<pauruṣaに由来するものではなくて,例えばPTSDではSkt. のpuṃs- は
Pa. では強語幹のpumāṃs- に相当又は由来するpuman- だけで弱語幹のpuṃs- の
方は〔一般には?〕用いられないとされているが,実はその弱語幹のpuṃs- に語
幹形成母音(thematic vowel)のaが付いてできたpuṃs-aが恐らくpuṃsa→pūsa→
posaのように変化してできた10)のがこの posa ではないか,ということである が,この点についても果して如何であろうか. 6
.要 結
では,もしそのように該 niṣpudgala の語が niṣpoṣa から改められたものとす れば,そのような改変或いは変更は何故行われた,と言うよりもむしろ行われな ければならなかったのか,ということが次に問題になるが,その問い自体はそれ 程難しい問題ではないだろう.と言うのも,もしそれを行えば音節数が1つ(1 音)増え,韻律に牴触したり或いは他の韻律に変る等のかなり重大で深刻な問題 を惹き起すことになる.そしてそのことは当の本人〔たち〕にも十分理解されて いたと考えられるので,そうするだけの理由があったのではないかと思われるか らである.ではその理由とは何かと言えば,それは,恐らく彼〔ら〕の周辺には 先にも触れた「プドガラ」の実在を主張するようなグループが同じ仏教の中に あって,そしてそのような仏教の大原則とも言うべき「無我」(anātman)の教え に牴触しかねない教義や立場の主張に危機感を覚えた人々がそれを批判・反対し 弁 するため,ということ以外には考えられないであろう.実際,そのようなこ とを唱える人々(部派)が仏教内に存在したことは例えば世友(Vasumitra)の『異伝えられているので11),決してあり得ないことではないと言ってよい. こうして,筆者はこの第1詩句の niṣpudgala の語は元の恐らく niṣpoṣa の如 きものが改められてかくなったのではないかと推測し,またそう解することに よってこの詩句に纏わる様々な疑問や問題も解消するのではないかと考えるので あるが果して如何であろうか.いずれにしても,一見何の変哲もなさそうに見え るこの第1偈の第1詩句にも少し注意して調べてみるとこのような問題も蔵され ている,すなわち我々が目にし手にする経典類〔の写本や刊本〕も決して当初か らの本来のものではなくて後世の改変や変更を経た,少なくともその可能性は必 ずしも完全には否定できず決して 皆無ではない,そのような性格や類のものだ ということで,その一端だけでも本稿が示し得たとすれば,筆者の目的は大部分 果されたということになろう.なお,この第1詩句に関しては,筆者が考え気付 いたことは決して以上で尽きるものではないが,最後に初めにも掲げたこの詩句 の梵本の本文と,そして隋訳と蔵訳に対する筆者の想定原文をそれぞれ掲げ,取 り敢えず本稿についてはこの辺で擱筆するということにしたい(イタリック体は, 本の語や在り様などが変えられた〔と推測される〕ものであることを表す).
梵 本:nirātma nirjīva niṣpudgala dharmā 隋 訳:nīrātma nirjiva niṣpoṣa dharmā
蔵 訳:niṣpoṣa nirjiva nirātma dharmā12)
1)それらの中,第1群は殆どそのまま残されているが,第2群は大部分は断片的かさも なければ失われ,最後の第3群は全欠になっている. 2)Braarvik 2000, 95を参照.なお,ここでは後考のためにも他の3詩句も一緒に掲げてお くことにする.また,特に原文と蔵訳文はブロールヴィック教授のものをそのまま襲用 するが,蔵訳の表記法はワイリー方式に改める. 3)最後の第4詩句だけはそれとは異なるように見えるが,それについては最初の2つの
短音は長音が分裂(resolve)したものと解し,また īdṛśa parṣa は īdṛśā pariṣa のように
改めてやれば該utthāpanīに帰することができる(因みに,utthāpanīの最初の長音が2短 音になると名前もpramitākṣarāということになり,古典Skt.の詩では後者の方が一般的 なようであるが,本来的には両者は同じものと考えてよいであろう). 4)実際,この第1詩句の韻律をutthāpanīに合せるためには1音分超過する音節数をどう するかということや,それ以外にも音節の長短を同韻律に合せるために種々のことを想 定したりしなければならず,実質的には殆ど不可能と断言してもよいであろう. 5)因みに,同じ大乗経典類の中にはこれらの語の「無い」を意味する nir/nis/niṣ の前綴 を除いて本体部分の ātman などだけを列記した例えば『楞伽経』(Laṅkāvatāra-sūtra)の anye punar mahāmate ātmasattvajīvapoṣapuruṣapudgalasattvāvabodhān nirvāṇam anveṣante や前 引の『大宝積経・ 葉品』の kaḥ punar vāda (!) ātmasatva- jīvapauṣapudgaladṛṣṭyā, そして
『シクシャーサムッチャヤ』(Śikṣāsamuccaya)の nāsty atra kāye ātmā vā sattvo vā jīvo vā
poṣo vā pudgalo vā manujo vā mānavo vā などのような例も幾つか見られる.なお,これら
はいずれもBHSD (s.v. poṣa)の指摘によるが,それらのテキストや出所などの具体的な 細かい点については同辞典を見れば直ちに知られることでもあるので,ここでは全て省 略することにする. 6)実際,niṣpudgala はそのままでは前注4)でも指摘したようにutthāpanīに解したりそ れに合致するようにすることは実質的に不可能ということになるが,この語〔形〕であ ればṣpの重子音が位置上の長音をなさないことを想定すればutthāpanīに帰することが できる. 7)この語は,蔵訳では最初になっているが,3番目がSkt. の nirātman に相当する bdag med になっているので,蔵訳では最初と3番目は順序が入替って梵本や隋訳とは逆に なっていたのかもしれない. 8)この点に関しては,これらの3語の語意についてはこの後で改めて取上げて論じる予 定なので,ここでは省略(詳しくは次の「5.niṣpoṣa, 特に後分の poṣa の語意につい て」の項を参照).
9)具体的には,例えばPWでは(von 1. puṣ) m. 1) Gedeihen, Wachsthum, . . .; Fülle,
Wohl-stand . . . . −2) das Aufziehen, Ernähren, . . ., またMWでも m. ( puṣ) thriving, prosperity, . . . growth, . . . ; nourishing, nurture, . . . の如くとそれぞれされ,その点はpw, Apte,そして『梵
和』でも基本的には同じであるが,それ以上の意味はそれらのSkt. の辞典類では与えら
れていない(因みに,これは余談ということになるが,後述するようにBHSDやPTSD
ではこの語〔又は,Pa. の posa〕にはそれ以外に puruṣa (Pa. purisa)の意味もあるとさ れているので,特に最後の『梵和』でそのことに触れていないのは,同辞典は編集時に
そのBHSDとPTSDは共に当然参照し得た筈なので,かなり――大いに!――問題があ
るということになろう).
10)この点に関しては,先ず弱語幹に由来するpuṃsaの語形についてはPTSD (s.v.
napuṃsaka)によるとSkt. の na-puṃsa-ka はPa.でもそのまま用いられ,またPkt. (Pischel 1900, § 412.4)では複合語〔の前分〕にはpuṃsaの語形が使われることもあると
されており,一方puṃsa→pūsa→posaの変化についても,音そのものは異なるが同じ単
純母音でそれと平行関係にあるiに関しては,例えばSkt.のsiṃhaはPa.ではsīhaとな
り,更に長母音のīはPa. (Geiger. 1916. § 11),Pkt. (Pischel 1900, § 412),BHS (BHSG, §
3.59)ではいずれもeとなることがあるとされているので,強ちそれ程不可能なことでは
ないと言ってよいであろう.因みに,PTSDではJātaka, III, 331に見られる poso の語形
は単数・属格を表ししたがってSkt.の puṃsas に対応する,すなわち同語のPa. 語形と
され(s.v. posa1),もしその解釈が正しければ該 poso の少なくともposの部分はpuruṣa
ではなくてSkt.の弱語幹のpuṃs- に由来するものということになろう(このJātaka, III,
331の poso の語形についてはノーマンが取上げて論じているが(Norman 1985, § 5),そ
の論考では該語形を属格とするPTSDの解釈は否定されて主格とされている.そこで,
もしその意見が正しいとすれば,posoのposの部分がpuṃs- に由来するとするPTSDの
考えも成立たないということになろう.一方,同語の語源に関してはノーマン自身はそ こでは何も言っていないので,それについてはPTSDやその基になったガイガーと同じ ように考えていると解してよいであろう.なお,このノーマンの論考については辛島静 志氏からご教示を頂いた.同氏には謝意を表したい). 11)その点については,例えば寺本・平松 1935, 83や宮地 1992, 47などを参照(そこには, 前者の寺本・平松訳では「説転部の根本教義」,また後者の宮地訳では「経量部の宗義」 として,「勝義に於ける4 4 4 4 4 4 補特伽羅あり4 4 」としてプドガラの実在が主張されていたことが
示され〔記され〕ている〔説転部と経量部は,名称――和訳名――は異なるが同じもの (部派)を表す〕.なお,傍点は引用者). 12)この蔵訳の筆者の想定復原文では最初の nirātma と3番目の niṣpoṣa(梵本は niṣpudgala)は語順が入替って梵本や隋訳とは逆になっているが,これは,前注7)で も指摘したように蔵訳自身でその順序になっていることによる.そこで,もしこれがそ の原文でも実際にそのようになっていたとすれば,この語順であれば少なくとも両語に 関しては母音の長短に関わることは何も考慮せずそのままでutthāpanīになるので,この ような語順の変更もそのような韻律上の理由によるのかもしれない. 〈略号表〉(下記以外は〈参考文献〉の当該の項目末の括弧内に示す)
BHS=Buddhist Hybrid Sanskrit; Pa.=Pali; Pkt.=Prakrit; Skt.=Sanskrit. 〈参考文献〉
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BHSG),vol. II. Dictionary (=BHSD).New Haven: Yale University Press.
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Jäschke, H. A. 1965. A Tibetan-English Dictionary. rep. London: Routledge & Kegan Paul Ltd. (=
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Monier-Williams, Sir Monier. 1899. A Sanskṛit-English Dictionary. New Edition. Oxford: Clarendon Press (=MW).
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Pischel, Richard. 1900. Grammatik der Prakrit-Sprachen. Grundriss der Indo-Arischen Philologie und Altertumskunde. I Band, 8 Heft. Strassburg: Verlag von Karl J. Trübner.
岩松浅夫2004「梵文(断簡)『諸法無行経』の偈頌の韻律」『印仏研』52(2): (130)–(137). 荻原雲来(編) 1986『漢訳対照 梵和大辞典』新装版,講談社(=『梵和』) 寺本婉雅・平松友嗣1935『蔵漢和三訳対校 異部宗輪論・異部宗精釈・異部説集』黙道 社. 宮地廓慧 1992 『仏教教学論集』別冊「論書講本・解題」,永田文昌堂. 〈キーワード〉『諸行無行経』,偈頌,韻律,テキストの改変,niṣpudgala, niṣpoṣa (創価大学名誉教授)