葬式と組
~変遷と人びとのつながり~
山中 春香
まえがき
1 藤川における葬式の概要 1.1 準備
1.2 通夜 1.3
告別式1.4 葬列 1.5 精進落とし 2 組
2.1
組の種類2.2 組と活動内容の変遷 2.2.1 江戸時代の五人組 2.2.2 明治時代の伍長組 2.2.3
戦時中の隣保班2.2.4 戦後から現在の組 3 社会と葬式の変化 3.1
社会の変化3.1.1 交通の発達 3.1.2 過疎化 3.2 葬式の変化 3.2.1
土葬から火葬へ3.2.2 葬儀業者の介入 3.2.3 集会所の利用 3.2.4 葬式の簡略化 4
考察あとがき
まえがき
現代日本では、葬式は葬儀業者のサービスとして行われるものが一般的である。樹木葬や散骨など の登場で葬法が多様化する一方、地域ごとの特徴が消えていき画一化されている。
藤川での調査期間中、葬式を実際に見聞する機会に恵まれた。そこで特に印象に残ったことは、藤 川の葬式は、「組1」の人びとが中心となり協力してつくりあげるものであること、今では珍しくなっ
1
10
数戸の家々からなる、地縁的結合による社会組織。詳細は2節参照。た葬列が行われていること、そして人びとの葬式に対する語りであった。
そこで、本論文では、見聞した葬式と、葬式の担い手である「組」を中心テーマに据える。第1節 では現在の藤川の葬式を、第
2
節では組の変遷とその機能を取り上げる。第3
節では葬式の変化の要 因を社会変化の面から眺める。戦後以降の社会変化が藤川の人びとと組の生活様式を変え、それが葬 式の形態に影響を及ぼしたと考えるからである。そして第4節では、これまでの内容を踏まえた上で、葬式や組の存在が人びとに与える影響、すなわち機能に注目しながら、結論をまとめることとする。
なお、以下に記述する葬式は、先行研究と、藤川で平成
20(2008)年 6
月に行われた葬式の見聞 に依拠する。1 藤川における葬式の概要
この節では藤川の葬式について述べる。各項、日本における一般的な葬式と藤川で見聞した事柄を 記述する。なお、藤川は世帯のほとんどが、曹洞宗の観天寺の檀家である。墓地も観天寺の近くにあ り、藤川の墓地としてまとまって造られている2。
新谷尚紀(1991:178-181)によると、葬送儀礼に関する人びとの役割分担は、血縁、地縁、他縁の 3つに分類されるという。第一は故人と血縁関係にある家族や親族であり、常に故人の側におり、直 接故人に接触する。第二は地縁関係にある組や講などであり、故人からは一定の距離を保ちつつ、葬 式の運営を担い遺族を陰で支える。第三は無縁の立場にある人びとであり、檀家寺の住職やその他の 僧侶がこれに相当する。葬儀業者もこれに位置づけられる。
藤川の葬式に関わる人びとの役割分担も、この分類に当てはめることができよう。すなわち、遺族 や親せきは儀礼に専念し、葬式の準備など裏方の役は組の人が行う。他縁の人間は葬儀業者と導師3、 役僧4である。一般的に、最近は葬儀業者が葬式において不可欠なものになりつつあるが、「葬式を中 心になってすすめるのは、隣家(両隣の家)と組(隣保班)の衆」であり、「葬儀の交際は、現在でも 近親者と隣家・組などの近隣組織が主体である」という(静岡県
1991: 258)
。私の見た藤川の葬式 は、この記述と合致するだろう。今回私が見学した葬式は、
200
人以上が参列した。これは普段の2倍ほどの規模であるそうだ
5。1.1 準備
通夜の日の午前中に、遺族と組の人が通夜の会場となる遺族の家に集まり、葬式の準備を共同で行 う6。原則として、組に属する家の世帯主とその妻が参加する。準備は昼前に終わり、業者に注文した 弁当と、女性たちが作ったみそ汁や漬物の昼食を食べ、片づけをして解散する。内容は、葬具7作り、
炊き出し、通夜会場の準備である。葬具作りと会場準備は主に男性が、炊き出しは女性が行う。以前 は
3
日かけて準備したが、次第に短縮され、現在は半日で済ませる。これは、葬儀業者などの、組の2藤川はほとんどの世帯が仏教(曹洞宗)であり、観天寺の檀家である。その他、1、2軒ほどが神道である。
3属する寺の住職のこと。この場合は観天寺の住職が務める。
4 導師が呼んだ周りの寺の住職たちのこと。人数は故人の戒名の順位によって決まる。
5今回の葬式は休日に行われたため、より参列者が多かった。平日だと特に、香典を持ってくるのみの人もみられる。
6平日でもサラリーマンの人たちは葬式の準備に参加する。故人の長男であれば、藤川に住んでいなくても戻ってきて葬 式を取り仕切る。次男以下になると、必ずしも戻ってくる必要はないが、手伝うこともある。葬式の際、長男(喪主)
であれば3、4日、長い場合で1週間ほどの休暇を勤め先の会社からもらえるという。組の人びとは2日間(準備・通 夜、告別式)なら休暇をもらえる。しかし、人びとは会社を休むことで周囲に迷惑をかけたくはないと感じており、こ の思いが準備の時間の短縮の一因になっているようである。
7本論文での葬具とは、葬列の道具をさす。
外部の組織の存在が大きな要因であると考えられ る8。
今回、会場となった家は昔旅館を経営していた ということもあり、藤川では大きい部類に入る家 であったが、部屋の家具を外に出し、庭にも一面 に
40
脚ほどパイプ椅子を並べるなど、弔問客の 多さを感じた。葬具は
21
種類ある。現在では葬儀業者が用意 するものもあるが、その多くが遺族以外の組の人 びとによって作られる。観天寺から借りた藤川共同の葬具と、葬列の内容や葬具の作り方などがまとめられたファイルを参考にしながら、老若入り混じっ て作業する。一般的に年齢が高くなるほど、準備の経験を積んでいる。若い者が年上の者に葬具の作 り方を教わる、という場面があった。
材料は、竹や椿の枝など、山や近所の家から調達するものあれば、藁のように買い出しに出かけな ければ手に入らない材料9もあった。
葬具は丁寧に作らない方がよい、と言われている10。その理由は明らかではないが、死に近づきす ぎないようにするためであるらしい。
葬列の葬具とは別に、細めの竹と針金で長さ30 センチほどの弓も作っていた。これはお祓いのた めに、故人の上に据え置く。
女性が作る葬具は、女性用の頭巾11と葬列で六 尺12が着用するハチマキのみであった。遺族の女 性たちが、葬列の人数分、つまり故人の姉妹や女 の子供、孫の分13を作る。故人が眠る傍らで、白 い木綿の布を裁断し波縫いする。このときコブ(玉 留め)は作らず、返し縫で端を処理する。作業の 途中には組の女性によってお茶とお菓子が差し入
れられ、また私も少し縫わせていただくなど、和やかな雰囲気であった。
1.2 通夜
通夜は喪主の自宅で、
18
時30
分から約45
分ほどの間で行われた。遺族、親族と組の人を含めた 弔問客が故人の家に集う。ガレージに設けられた記帳場は内用と外用で2つに分けられている。内は8葬儀業者の介入についての詳細は
3
節参照。9藁は稲作を行っていた頃は藤川で調達できたが、現在は茶業へ転換し、藁が藤川で入手できなくなったため、大井川下 流の藤枝市のスーパーまで買い出しに行っている、とのことである。
10ただし、私が見聞した際には、杖の先の飾りを作り直していることがあった。「雑に作る」と言いながらも、個人の納 得のいく仕上がりを求めることもあるらしい。
11頭巾には男性用と女性用の二種類がある。男性用は白い三角の紙に白い紙紐を通して頭に巻きつけて使う。女性用の ものは布製で、同じく白である。また、故人も同じものを着用する。湯灌を行う際にも、悪いものにとりつかれないよ うに身につける。なお、男性、女性用とも正式な名称は存在しておらず、「あれ」や「三角巾」など自由に呼んでいた。
12本論文後続の表3の六尺の項目を参照。
13直近の親族が着用する。故人の兄弟姉妹、子供、孫、おじおば、いとこがこれに相当する。その他の親族は被らない。
写真1 笠や三角銭を作る組の人びと
写真
2 葬式用の頭巾を作る女性たち
図1 集会場の見取り図 故人の親せきと喪家の属する組の人用であり、外はそれ以外の弔問客用である。
家に入りきらない弔問客は、庭に設置したパイプ椅子に着席する。通夜は、導師の読経、説法を聞 き、焼香などが行われる。飲食はせず、通夜が終わると弔問客はすぐに帰宅する。
通夜はもともと親しい人びとのみで行われたが、現在は藤川区内の全戸に知らせる。それと同時に、
以前は通夜は少人数であり葬式に多くの人が集まったが、現在は葬式よりも参列者が多くなっている、
というのが今日の通夜である。
1.3 告別式
告別式は通夜の2日後14に、
13
時から藤川の集会所15で行われた16。 集会所の外には受付が設置され、組の人が担当していた。通夜の 日の午後に葬儀業者が設置した祭壇17に、当日の朝、業者が生花で 祭壇を飾り、遺影や位牌、花輪などの小物がセッティングされる。葬儀業者が用意する生花で飾られた祭壇と異な るのは、葬具の一部18も置かれることである。
会場の椅子は中央に設置された焼香台を挟み、前後二つのブロッ クに分けられている。祭壇に近い前側のブロックが、遺族、親族用 で、約
85
席あった。後ろ側のブロックは一般の弔問客用であり、約
45
席ほど用意されていた。遺族、親族は直近の者が前方の席に 座る。会場に入りきらなかった弔問客は、会場の後方にある駐車場で、立っ たまま式に参加する。組の人びとも、会場の外に出ている。
葬式当日は遺族、親族は喪服であるが、組の人びとは終始動きやすい普段着 のままである。告別式の間も会場の外におり世間話をするなど、会場の粛々 とした雰囲気とは一線を画していた。
葬列の役に当たっている遺族は告別式の際から、前々日に作った白い三 角巾を着用する。それ以外の参列者は通常の喪服のみである。
伴僧(役僧)、導師の順に入場して式が始まる(表
1)
。導師とは、法主で あり、故人の属する寺の僧である。伴僧とは、導師によって呼ばれた、法 主とは別の寺の僧侶のことである。伴僧は、個人の戒名の階位によって必 要な人数が決められている。導師と伴僧はともに読経する。焼香の香鉢の隣に、小さな菓子を盛った盆が置いてある。焼香を済ませ た者は、菓子をひとつ取って行く。この菓子はなるべく早く食べたほうが 良いといわれる。
以前は菓子ではなく、清めの意味を込めた日本酒を少量飲むことになっ
14 通夜の翌日が友引であったためである。
15 詳細は「
3.2.3
集会所の利用」を参照。16 出棺や火葬に関しては、私が直接立ち会っていないので時間と場所を記すにとどめる。出棺は喪家において
8
時30
分から行われた。火葬は中川根斎場において9時から行われた。17 祭壇は一般的なものである。以前は装飾に凝っており派手だったが、2年ほど前から生花で飾るようになった。
18 祭壇に置かれる葬具は、草履、笠、杖、雪柳、位牌、遺影、野灯、天蓋、四方花、造花、燭台、香鉢、前机、膳、水 鉢であった。その他のものは集会所の外に用意されていた。
1
一同着席2
導師入堂3
開式の辞4
読経5
弔辞6
弔電7
引導8
焼香9
導師退堂10
喪主挨拶11
閉式の辞 表1 葬儀式次第ていたのだが、
2、 3
年前に飲酒運転の取り締まり が厳しくなってから、菓子に変わったそうである。以前は告別式を行ってから火葬したが、
20
年ほ ど前に火葬場ができてからは、火葬と告別式の順 番にこだわらなくなったそうである。香典返しは、藤川の人には葉書で、藤川外の人 に対しては藤川の特産品である茶が用意されるこ とが多い19。今回の葬式でも、茶が用いられた。
1.4 葬列
葬列は、直近の遺族が隊列を組み、墓地まで故人や葬具を運ぶものである。
21
種類の葬具を用い、27
人の遺族、親族、組の人びとが役を担当する20。野辺送りともいう。土葬では棺に故人を入れて運 ぶが、火葬だと先に故人を焼いてから葬列を行うので、遺骨を運ぶことになる。葬列の順序は家の中核の人が3人ほど集まり決 める。葬列の役の数よりも遺族、親族の数が少な い場合は、血縁の薄い人、同級生などが葬列に参 加する。
告別式が終わると、直近の遺族はあらかじめ決 められた葬具を持ち順番に並び、葬列を組む。『静 岡県史』によると、「各自の持ち物は、死者との関 係や性別に応じて決まっており、ここではコイシ ンセキが主役となる」(静岡県
1991:259)とあ
る。これは今回の葬式にも当てはまろう。その他の親族や弔問客は駐車場に出て、脇に寄る。
葬列に参加する者たちは、それぞれの役名と氏名 がアナウンスされ、集会所の裏口の上に組の
2
人 が竹の棒をしならせてつくった半円のアーチをく ぐり、集会所の駐車場へ出る。竹の棒には駐車場 を清める意味がある。葬列は時計回りに駐車場を3周練り歩く。花篭 を持つ人がカゴを揺すり三角銭を撒くと、周囲の 人がこれを拾う21。終了すると遺族、親族はその まま駐車場の出口へ進み、車で墓地に向かう。
墓地では納骨が行われる。火を灯した野灯と膳 を墓地に立て、墓に骨壷を収める。そして線香をあ げ、皆で読経する。位牌の一つは墓に置いておく。
三角巾などは墓地のすぐ上にある焼き場で焼く。これは人が死んだ際に使用したものは縁起が悪い
19茶については、本書所収大森、尾沼報告参照。
20最後尾の野花を持つ役には、人数の制限がないため、27人よりも多くなる場合がある。
21花篭など、葬列の役の詳細に関しては、表
1
にまとめ、本論の末尾に掲載した。写真
5
駐車場での葬列② 写真4 駐車場での葬列① 写真3 祭壇に置かれる四方花や草履とされているためである。それ以外の四本旗など共同の葬具は、墓地の小屋に戻す。
納骨が終わると、次に「お寺参り」をする。もう一つの位牌を持って行き、寺で施主に経をあげて もらう。墓地からお寺参りは
2
時間ほどで終わり、遺族たちは集会所に戻る。組の人は葬列が終了すると、ただちに会場を片づけ、精進落としの会場の準備に入る。これは、火 葬が行われている間に会場をセットしなければならないためである。葬儀業者が設置した祭壇なども 急いで片づけられる。
葬列の様式は、昔は藤川内で組ごとに長老の口伝などによる差が存在したらしい。しかし、
O
さん(故人 男性)22が、およそ昭和
50( 1975)年から昭和 60( 1985)年の間に、藤川の葬列を伝えて
いくために形式を文字化し整理した。その際、藤川全体を参考にしつつ、形式を統一したという。1.5 精進落とし
一連の葬式の最後に行われるのは精進落としである。葬式に関わった人びとが参加し、それまでは 食事に出されなかった魚などの食べ物を口にする。死者を弔う以前の状態へ復帰する転換点であり、
これをもって日常生活に戻る。
精進落としでは、告別式までの一連の、遺族、親族と組の人びとの関係が反転する。弔いに専念す る遺族、親族と裏方に回り葬式を支える組の構成員、という関係から、遺族、親族がホストになり、
お世話になったゲスト、つまり組の人を感謝の意を込めてねぎらう。
組の人は、墓地から遺族、親族が帰ってくるまでに、精進落としの会場を整えておかねばならない。
葬列が終了するとただちに、葬儀業者も祭壇を引き払い、組の人は会場を片付ける。机と座布団を出 して全員分の席を調え、組の女性が午前中に集会所の調理室で調理した料理や酒を並べる。持ち帰っ てもらうための弁当も注文しており、会場に
用意しておく。席は、組の人びとなど葬式の 運営に関わった人びとが奥の席(上座)とな る。
遺族・親族が会場に帰ってくるとすぐに精 進落としが始まる。喪主が遺族を代表して挨 拶し、献杯となる。遺族が組の人びとや参列 者に、感謝の意を込めそれぞれ酒を注いで回 る。お互いをねぎらい、世間話などに花が咲 いた。
供された料理は、きんぴらごぼう、キャベ
ツやきゅうりの浅漬け、野菜のかき揚げ、それにパックの魚の刺身の盛り合わせであった。
私も精進落としに呼んでいただき、組の方々と飲食を共にした。葬式の後とは思えないほどにぎや かであり、藤川や葬式のあった組の人びとの間の親密さがうかがえた。帰り際には弁当を持たせてい ただくなど、外部者にも関わらず葬式全体を通して大変よくしていただいたのが印象的である。
2 組
本節では、前節で取り上げた葬式、あるいは藤川の日常生活において重要な役割を果たす、「組」に
22
T
さん(90代 男性)によると、O
さんは1911(明治44)年生まれで町会議員も務めたこともある方である。属し
ていた6
連合21
組では「長老的な役割」を担っていたという。写真6 精進落としの様子
ついて述べる。
組とは、居住の近接性によって結びついた家々の結合・連合組織である。日本の村落社会における、
地縁的結合による社会組織の最小単位である。
また、農業などの生産面や冠婚葬祭時の準備等の作業や家普請などの社会生活面において機能する。
また最近では、市町村役場の連絡伝達の末端機構となっている場合もある(長谷川
1997:121)
。 藤川では組または(隣保)班と表現されており、各組10軒前後が一組に属し、合計21
組ある。戦 時中に現在の組のもととなった隣保班が組織されて以来、組数は変わっていない。組は隣保班の形態 のまま21
組で成り立っており、現在まで続いている。隣保班の構成人数は異なっていたが23、隣保班 以前からの「縁」が家同士にあったので、編成し直さなかったとのことである。ちなみに「班」は軍 隊用語であったので、戦後は嫌厭され「組」と呼ばれるようになった。Y
さん(80
代 男性)によると組という意識がはっきりしてきたのは昭和6(1931)年のシナ事変
の頃であるという。藤川の地縁的社会組織としては、組の上部組織に「連合」24、さらに上には「区」(藤川区)が存在 する。
以下では、日本における一般的な組の起源と変遷、そして藤川における組の様相をみていく。
2.1
組の種類組は作られた目的によって
2
種類に分けられる。一つは、村組や近隣組、町内会・自治会の組と呼 ばれるもので、地域社会での生活の必要から生まれ、生活・生産・信仰面で大きな機能を果たしてき た。もう一つは、江戸時代の五人組、明治時代に再編された伍長組、第二次世界大戦中に組織された 隣保班(隣組)などであり、これらは行政上の必要から組織された組である。現在の藤川に存在する組は、直接的には隣保班を起源とするものであるので後者に属するが、前者 のように生活面で大きな役割を果たしているものと思われる。
2.2
組と活動内容の変遷ここからは、組とそれに属するものを、時代別に分けて説明する。文献調査による一般的な説明と、
藤川でのフィールドワークを元にした記述から成る。
2.2.1 江戸時代の五人組
五人組は、江戸時代初期より、全国的に形成される。五軒を原則とする近隣の家々から成り、連帯 責任と相互監視を行わせることが江戸幕府のねらいであった。
「五人」とは戸主を成員としたものであり、戸主から組頭を選出するが、その方法は、①家柄、② 選挙、③役場の任命の
3
種類があった(石川1940:37-42)
。明治
4( 1871)年の廃藩置県の発布により五人組制度は解体されたが、その機能は伍組・伍長組に
継承されていく。
2.2.2 明治時代の伍長組と大正時代
藤川では伍長組の時代を直接知るインフォーマントを得られなかったので、この節の記述は文献調
23戸数にして6軒から16軒の家々で構成されていたので、構成人数は組によってかなり差があったと考えられる。
24詳しくは「2.2.3 戦時中の隣保班」を参照。
査による一般的な概観であることを断っておく。
明治時代に入ると、五人組が廃止されるが、相互扶助の組織を一挙に廃止することは混乱をまねく とされた。そこで、五人組の生産と生活における共同組織としての面を継承した、伍組・伍長組が新 たに組織された。五人組と大きく違うのは、四民平等の理念に則り、族籍や身分の別なく近隣の5戸 を一組とした点である。地縁的な近隣組織として農作業における互助や、入院や葬式、結婚式の際な どに機能した。
大正時代くらいまで、組では葬式、結婚式と筆頭に茶摘や家普請など家単位の付き合いが行われて いた。また、日常的な物の貸し借りなどの些末なことまで付き合いが浸透していた。組は戦時中に近 隣の家同士の互助を強化するためにつくられたものであるが、それ以前にはこのように政府から組を 規定25されなくとも、自然発生的に相互扶助が発達していた。また近隣同士で助け合いながら生活し ていたので、現在よりも相互扶助の義務的感覚は強く、家と家との紐帯も強固であっただろう。
2.2.3 戦時中の隣保班
第二次世界大戦中には行政上の必要から、隣保班(隣組)が組織された。これは日中戦争を契機と し、地域における最末端の近隣組織として設けられた団体である。
国民精神総動員運動の過程で設置が進められ、特に昭和
15( 1940)年の内務省による町内会部落
会等整備要領」(隣組強化法)によって、初めて法的に制度化された。10
数戸ほどの戸数で組織され、人びとの生活の基盤と位置づけられた。そこには、明治時代に培われた個人主義から、戦時体制にふ さわしい集団主義へ再編し、国力をより大きなものとし国民の意識を発揚する目的があった。
竹内利美(
1940:6-9)によると、
「隣組は、江戸時代の五人組と全くその本質を同じくするもの」で あり、また「隣組は五人組の嫡流」である。しかしその機構は隣組と「同一ではない」という。五人組と同じく、地縁を通じた近隣の家々の相互扶助が基本となっている。藤川でも、葬式や結婚 式26といったフォーマルな場での互助から、茶摘27、屋根葺きといった日常生活、さらに物の貸し借り などを通じて、組の人びとの間には親密な関係が築かれた。天降りの制度であったが、五人組以来の 組織が機能していた。
組長は一年ごとに組の各家の戸主が務めた。組では、組の成員が組長の自宅へ集まり、「常会」が開 かれた。意見を取りまとめた組長は、次に連合単位の「部落常会」に出席し、組で出た意見を区長に 伝えた。そのため、組長には組の成員の信頼があり、かつ上に意見の言える者が選ばれた。特に人望 のある人は
3
年、5
年など連続して組長を務めたという。組はもともと上位下達を目的とした組織だったため、常会や部落常会の場では国家を最高とする上 部組織からの情報伝達も行われていた。特に重要な情報については部落常会、常会を通して各家に伝 えられた。
普段の情報伝達手段としては、「回覧板」が大きな役割を果たした。回覧板は国から各家への情報伝
25当時は「トントントントン隣組…」といった隣組に関する歌も存在したという。未確認だが、昭和
15
(1940)年に発売された「隣組」という歌の可能性がある。これは隣組を題材に、当時の近所づきあいな どの日常風景を歌っている。
26結婚式も葬式と基本的に同じシステムである。すなわち、式を支えるのは当家の人ではなく組の人びとであり、彼ら が中心となって式をつくり、支えた。
27昔は茶摘の際には、頼まなくても組の人びとが自発的に手伝いに来た。手伝ってもらった家の者もまた、他の家へ出 かけ茶摘を手伝う。このことから人びとの結びつきの強さが読み取れる。現在は頼んでからでないと手伝いには来て もらえず、組の成員同士の紐帯は希薄になっているといえよう。
達のためのツールとして発達し、隣保班の制度化に伴ってより生活に密着したものとなる。
隣保班の成立と同時期、組の上部組織として「連合」が組織された。これは区内の家々を一定戸数 ごとに区分して構成した近隣組織、地縁的組織である。藤川には全部で
6
連合あり、それぞれ3~4 組を統括している。組と同じく現在までその区分に変化はなく、結合の性質も同様である。第二次世界大戦後の昭和
22( 1947)年、隣組は GHQ
によって解散させられた。しかしあくまで も法制度上のものであって、生活をする上での自然発生的な相互互助の機能は存続していた。現在で は、自治会や町内会と名を変えていることも多い。2.2.4 戦後から現在の組
戦後になると、組の紐帯は戦時中ほどではなくなり、次第に希薄になっていく。
例えば組長の役は、「全員が苦労したほうがよい」と、一年ごとに全戸に組長の役が「たらい回しの ように」巡ることになった。組長は男性の役目であり、一家の主がいない場合は、その家は飛ばして 次の家が担当した。平成に入ると、女性の組長が誕生した。その原因は人手不足によるもので、追捕 的なものであった。
常会においても、数年前までは組では一年に一度、開かれていた。数年前まで嫌々ながらも慣習と して行われていた常会であったが、若い人たちの意見に推され、5、
6
年前に消滅した。常会以外の組の行事としては、奉仕作業がある。近所の溝を掃除するなどをして、その後は皆で飲 食をする。
昔の組の集まりは、情報交換の場であると同時に歓談の場でもあり、組の人びとの親睦を深めてい たという。常会が行われなくなったことで、組の成員同士がさらに疎遠になり、人間関係が「遠く(に 住んでい)ても近く(に住んで)ても変わらなくなった」(
Y
さん80
代男性)。回覧板は現在も使われているが、それまでは言い継ぎでまわしていた葬式の知らせや村仕事の予定 などもすべて回覧板が担うようになった。
現在の組の主な活動は葬式である28。
Y
さんによると、葬式は村八分29に含まれなかったという。こ のことからも、葬式における相互扶助がいかに重要視されていたかがわかるだろう。葬式のほかには、例えば組の人が入院したときなどのお見舞いは、金額をそろえ、組の人でまとめて訪問するといった ように、組のまとまりとして行動することもあるという30。
藤川の組は、行政上の必要、つまり葬式や茶摘など、フォーマルな行事をもとにした組織であった。
現在も葬式や、回覧板を回すことから、フォーマルな関係は見てとれる。しかし、インフォーマルな 付き合いも見逃してはならない。
組は戦時下において政府の必要から確立した組織であるが、それ以前から受け継がれてきた近隣の 家同士の自発的な相互扶助が基礎になっていると考えられる。
3 社会と葬式の変化
藤川で頻繁に耳にしたのは、藤川から人が出て行き、少なくなった、という語りである。
旧中川根町の人口動態統計によると、昭和30(
1955)年当時の人口は10,810
人であったのに対し、28現在の藤川の葬式については3節参照。
29葬式と火事は藤川では「村八分の二分」であるとされ、身分に関係なく互助した。なお、現在は村八分は存在しない。
30この情報を得た組は藤川の中でも組としてまとまっており、他の組ではこれよりも組の付き合いは薄いと思われる。
しかし、藤川で会った方は自他の属する組、連合をかなり把握しており、組意識は残っていると私は考えている。
平成
12
(2000)年には 6,714
人にまで減少している。また、藤川の人口は昭和49
(1974)年に 1,071
人であったが、平成19
(2007)年には680
人となっており、昭和49
(1974)年からの 33
年間で391
人、4割近くも減っている。藤川を含む周辺地域一帯で過疎化は進んでいることがわかる。昭和
46(1971)年には、藤川小学校が対岸に位置する徳山小学校と合併した。人の少なさは、藤
川を歩いていても道であまり人に出会わなかったことから、私も肌で感じた。このようなことから、
過疎化や少子化の波が藤川に押し寄せているのがわかるだろう。
本節では、葬式の変化を考える上で重要だと思われる、藤川が経験した変化についてみていく。年 代としては戦前から現在までである。これは、藤川でのインタビューを参考にしたためである。
まず社会の変化についてその原因を、交通の発達、過疎化に求め、述べていく。その次に、葬式の 変化として、土葬から火葬へ、葬儀業者の介入、集会所の利用、葬式の簡略化の
4
つの項目を立てて 言及していく。3.1 社会の変化
以下では、葬式の変化を考える上での、藤川が受けた影響について項目を挙げ、述べていく。
3.1.1 交通の発達
藤川における交通は、徒歩や船、鉄道、自動車、など変化してきた。山がちな場所に位置する藤川 では、交通網の発達は生活形態に大きな変化をもたらしたと考えられる。ここでは鉄道、自動車、バ ス、さらにそれらに伴う道路、線路の整備の流れを概観する。
まず、鉄道についてである31。大井川沿いを通る大井川鉄道は昭和
6( 1931)年に開通した。初期
の大井川鉄道は、川根索道32の役割を引き継いだものであり、人びとに食料品などの生活物資を提供 していた。大井川鉄道で、一度に大量の物資を速く運べるようになった。これまでの自給自足的な生 活から大いに変化したであろう。藤川では大井川鉄道を使って通学していた例もみられた。
O
さん(70代 男性)は、大井川の下流 に位置する島田市の高校に通っていたそうである。大井川鉄道は輸送面で大きな役割を果たしたものの、人の輸送は自動車の普及によって取って代わ られることとなる。
個人で所有する移動手段はオートバイやトラックがまず出始めた。
Y
さんは、昭和29( 1954)年
にオートバイを購入した。13
万5
千円だったという。当時の男性の収入が一月に2万円ほどだったの で、オートバイは非常に高価なものであった。当時の中川根にはオートバイはまだ3台ほどしかなく、珍しいものであったため
Yさんがバイクに乗っていると、エンジン音を聞きつけた子どもたちが寄っ
てきたという。昭和40(1965)年頃から道が増幅されると、自動車が普及するようになる。昭和
45( 1970)年頃
には自動車用の藤川の墓地への道が造られた。昭和43(1968)年頃の藤川での自動車の普及は、 O
さん(60代 男性)によると「ぼちぼち」であったという。また、自動車の普及と道路の整備は、葬式にも影響を及ぼした。葬列は自宅から墓地まで歩く部分 は省略され、広場を3周回るのみとなった。墓地までは自宅または集会所から自動車で行く。また、
31索道、鉄道の記述は杉本(2007:44-46)に主に依拠している。
32藤枝周辺から大井川を遡上するように敷設されたロープウェーのこと。昭和3(1928)年から昭和13(1938)年の間 に、日常生活で入手が困難な物資の輸送のために稼動していた。
葬列が行われるのは、夕方近くなので、徒歩で墓地まで行くと、時間も遅くなり、特に冬場は途中で 暗くなってしまうと危険だから、という声も自動車の利用を促進したようだ。
墓地まで葬列を組んで歩いた時代は、年配の人でも墓地まで辿り着かなければ、といった信念があ った。こういった信念は、いかに葬式が重要視されていたかを示す一端になるだろう。
交通手段の発達はこのようにして葬式の簡略化につながった。
自動車の普及以前には、墓地までの山道に造られた階段を使って行き来していた。山の斜面に造ら れた、細く急な階段であるが、葬列もここを登って行った。しかし現在は草が生い茂りところどころ 崩れており、使われていないようである。
3.1.2 過疎化
自給自足的生活から、日常生活圏が広域化すると、外部社会への依存が増し、必然的に現金収入に 頼らざるを得なくなる。
戦後間もない頃の藤川の産業は、農業と林業であった。役場、大井川鉄道、農協など藤川の外で働 く人も数人はいたが、多くは農業(主に茶業)と日雇い労働の林業によって生計を立てていた。また
平成
2( 1990)年頃までは、山で椎茸やわさびを栽培していたようである
33。この頃は交通網、情報網ともにあまり発達していなかったので、半自足自給的な生活であっただろう。
しかし、外国産の安い木材が輸入されるようになると34、日本の林業界は苦境に立たされる。主な 燃料が薪や炭からガスや石油に移行したことも、林業の衰退に影響しただろう。藤川は周囲を山に囲 まれている土地柄なので、新たに茶畑を拓くこともできなかった。また、この時代は高学歴化が進み、
重労働の林業は、魅力的な職業ではなくなっていった。このようにして藤川の人びとは山から離れ、
仕事を藤川の外に求めるようになった。
参考までに旧中川根町の統計を眺めてみると、保有山林規模林野数35は、昭和
55( 1980)年は 398
戸であったが、平成17( 2005)年には 85戸にまで減少している
36。林業が成立していた時代には、山の斜面にある墓地からは、下の民家や大井川を眺めることができ た。しかし、山は手放されたため、当時植えられた杉が成長し、現在は景色を遮ってしまっている。
その後の高度経済成長期は、人口の流出をさらに促す反面、現金収入37を増加させた時代であった。
人手が足りないので、女性も
100
円ライターを作るなどのパート勤めをしていたという。しかし、こ の時期に藤川を出て行った人びとは、大半がそのまま出稼ぎ先などに定住してしまい、藤川には戻っ てこなかった。高度経済成長は藤川の人口の流出を促し過疎化を進行させたが、他方、現金収入の道が開けた時代 であった。現金収入は藤川の人びとにとって重要であり、そのため高度経済成長期は「よい時代」(
O
さん60
代 男性)であったという。33
O
さん(60代 男性)によると、今でも時どき山に入って、以前の栽培地に自然に生えているわさびを採って来るこ ともあるという。34調査からは、具体的な年を聞くことはできなかった。しかし、全国的には昭和3
0
年代に木材の輸入自由化が進み、その結果昭和
30
年代から40年代にかけて木材の輸入量が急激に伸びた。藤川の林業もその影響を受けて衰退していっ たと考えられる。35 旧中川根町における林野の保有規模(ヘクタール)別に戸数を示したもの。ここでは林野を所有している戸数の総数 を参考にした。
36『川根本町統計要覧 平成
19
年度版』川根本町に基づく。37お茶も現金収入の手段ではあるが、年ごとに製茶して売って初めて現金となるため、時期が限定されていた。そのた め、藤川で安定した現金収入を得られるのは、高度経済成長期以降になる。
人口に比べ世帯数の減少は緩やかであり、現在は約
220
戸である。空き家も2
軒のみである。しか し、60年ほど前は一世帯の構成員は6~ 8
人くらいが一般的であったが、現在は2~3
人と大きく減 少している。また、高齢の夫婦の二人暮らしの世帯が多い。彼らの子どもや孫の大半は藤川の外に住 んでおり、跡継ぎがいない。そのため10
年後20年後の藤川には、家や畑を管理する者がいないこと が容易に想像でき、過疎化に対する不安は大きい。実際、藤川の人びとは何とかして若者を地元に呼び寄せたいと思っている。葬式の際に人びとの話 を聞いていると、過疎化が話題にのぼった。近隣の地域は市などから援助で住宅を建てて人を呼び、
実際に定住させることに成功したが、藤川のような小さな集落ではそのような援助を得ることも、ま た自分たちで事業を行なうことも難しいとこぼしておられた。
フィールドワーク中にお世話になった区長さん(
70
代 男性)は、私たち学生に対して、若者を地 域に呼び寄せる方法を考えてほしい、と言っておられた。このように藤川の人びとの間には、人口に関する危機感はあるものの、打開策を打ち出せないのが 現状である。
今まで藤川やその近隣の範囲だけで生活が成り立ってきたが、都市に労働人口が流入するようにな ると、藤川でも教育と仕事を求めて若者が外へ出て行くようになる。さらにはそのまま外部の都市に 定住化、つまり職住分離が起こり、人口と労働力の流出へとつながっていくのである。
3.2 葬式の変化
この節では葬式に関する変化について述べる。藤川でのインタビューを元に、特に
4つの項目を変
化のポイントとして挙げて説明する。Y
さんによると、葬式は、大まかにいうと、手順よりも、役目を担当する人が変わったという。3.2.1 土葬から火葬へ
藤川では、
60
年ほど前までは主に土葬を行っていたようである。葬列が、墓穴が掘られた墓地へ続 く急な階段を連なって行った。土葬時にはカマカキ38という墓穴を掘る役がいたが、火葬では墓穴が 必要なくなったのでみられなくなった。ほとんどの場合は土葬であったが、火葬も行われていた。火葬は、「伝染病などの病人に限られてい るのが通常」(静岡県 1991: 717)であった。火葬をする際は、鉄の棒を格子状に組み合わせて作った 囲いの中で遺体を焼く、「死人焼き」というものが行われていた。当時の区ごとに設けており、藤川に は地区内の山中に、藤川専用の焼き場が一か所設けられていた。
Y
さんによると、土葬から火葬への移行の転機は、上長尾に中川根斎場が建てられたときであると いう。中川根村と徳山村が合併した際、火葬場を建設する提案が議会で出され、建設された。これは昭和
36( 1961)年のことであり、藤川の人びとも利用するようになる。現在も同じ火葬場を利用し
ている。
火葬の出現により、それまでの習俗に変化が起きた。まず、墓穴を掘る必要がなくなったことから、
38カマカキとは、葬式の際、「喪主の家から墓地まで棺桶を運び、埋葬する人または役目のこと」(斎藤
2007:138)で
ある。組の中から選ばれた3~4人が務める。遺体を埋葬する前日くらいに、あらかじめ5尺(1m40~50cm)ほど
の墓穴を掘っておく。服装は、上は法被、下は捨ててもよい「オゾイ(悍い?悪い、壊れそう、の意)」(Yさん)ズ ボンを着用する。服はケガレるので、役目が終わると墓地で捨てて葬具とともに焼いてしまう。ズボンのバンドを藁 で締め、カマを担ぐ。カマは草刈りや木の根を取り除くことに使う。カマカキが消滅した。また、土葬は座棺だったが、火葬になると寝棺になった。さらに、個人の墓が 家族の墓へと変化した。土葬は一人にひとつの墓穴を必要とするので、墓は家族であっても一人ひと りで分かれていた。墓は単純に墓穴の上に個人の名を記した石を置くものや、石塔を建てるものなど があった。しかし火葬になると、家族でひとつの墓を持つようになる。墓は御影石を用いた3段の墓 が主流となり、戒名板39も登場する。
このように個人の墓から家族の墓へと移行した理由は、墓に納めるものが棺から骨壷へとコンパク トになったから、また家族ごとで墓をまとめたほうが土地が少なくてすむから、であろう。
3.2.2 葬儀業者の介入
日本において、葬儀業者が現れたのは明治
20
年代といわれる。葬具の貸出や葬列の人出を手伝う ものであった。昭和初期になると派手な葬列が廃れ、告別式中心の葬儀となる。葬儀社のサービスの 提供の中心は、祭壇や霊柩車へと移っていく。Y
さんによると、JA
も含め、葬儀業者が藤川で利用されるようになったのは20~ 30
年くらい前か らだという。藤川の人びとが必要としたのではなく、業者が商売のために進出してきた。現在、藤川ではいくつかの葬儀業者を選択できる。今回私が直接見聞した葬式では、「
JA
大井川葬 祭サービス」が利用された。平成10( 1998)年から運営されている。同社は、平成 15( 2003)年に
は島田市に「やすらぎホール島田」という大規模な葬祭場を開設しており、静岡県内でも有数の葬儀 業者である。その他、数軒の葬儀業者が利用されているようである。葬儀業者は、業者が用意する葬具を持ってきて、通夜の祭壇を設える。今回は会場となる部屋に入 る勝手口の表に、忌中の提灯一対と、故人の名と式の日時を記した看板が設けられた。
通夜の日の午後、自宅での通夜の準備が終了した後には、葬儀業者により集会所で祭壇などの設置 が行われた。シートを敷き祭壇の骨組を作り、周囲の壁を布で覆い、焼香場が設けられた。
3.2.3 集会所の利用
正式名称は藤川地域振興センターといい、現在の集会所は昭和
57( 1978)年に建てられたもので
ある。普段は青年会や婦人会、消防団などに使用されており、藤川の人びとのコミュニティの場とな っている。併設するグラウンドは、少年野球などが利用している。藤川では少なくとも、平成12(
2000)年から集会所で葬式が行われてきた(表 2)
。葬式が行われ る際には、グラウンドは参列者の駐車場となる。集会所には遺体を入れてはならないことになってお り、葬儀は必ず焼骨を済ませてから行う。集会所で葬式を行うことは増えてきた。利点としては、自宅よりも会場や駐車場が広い、会社関係 の人にとって場所が分かりやすい、などの声が聞かれた。集会所で葬式が行われ始めた頃は、会葬者 が多くなりそうだから、という理由で使用されることが多かった。その後次第に、広い集会所は一堂 に会すことができるので、集会所での葬式は藤川の人びとに受け入れられていったようである。
集会所の前身は明治中期頃に建てられた「従覧所」である。2階建てで、藤川で取った新聞は従覧 所に置かれ、人びとが見に来ていた。また、部落常会などもここで行われた。藤川に現在の集会所が 建てられると、その役目を終えた。葬式は行わないなど現在の集会所と違いはあるが、従覧所は集会
39戒名板の登場に関しては、高度経済成長期の現金収入の増加も一因であろう。人びとが豊かになったことから、20年 位前に墓の建て替えが始まり、競争のように次々と新しくなったという。現在建っている墓は大半が、その当時に建て 替えたのものである。
所と同じく、コミュニティの場であったのだろう。
表
2
集会所における葬儀数年度(平成)
11 12 13 14 15 16 17 18 19 20
葬式の回数
0 2 0 0 0 3 1 5 4 4
※平成
20
年6
月10
日現在3.2.4 葬式の簡略化
葬式は以前は
3
日かかるといわれていたが、現在は準備と通夜で1
日、葬式で1
日、というように 短縮されている。その原因は主に二点挙げられよう。藤川の多くの人びとが茶業や林業で生計を立てていた頃は、急な葬式であってもすぐに駆けつける ことができたし、自営業なので仕事上の融通もききやすかった。しかし、会社勤めなどにより藤川の 外で生活を営む人が多くなると、それだけ時間や仕事のやりくりがしにくくなる。そこで、人びとの 生活に支障をきたさないようにと考慮した結果、葬式は準備期間も含めて、次第に短縮していったの である。
また準備する葬具も、以前より手間がかからなくなっている。現在も組の人びとが集まり製作する ものの、葬儀業者が一部を提供したり40、簡略化されたりしている。前述したが、葬具の簡略化は、
葬儀業者の進出がきっかけである。葬儀業者が地域の葬式に合わせたサービスを提供した結果、藤川 の人びとがそれを利用し定着していった。
4 考察
藤川でフィールドワークを行うにつれて、藤川ではなぜ他の多くの地域で失われた葬式の形態が存 続してきたのか、という疑問が出てきた。この疑問について、社会環境と葬式の機能面から考えたい。
その上で、藤川では現在のような葬式は今後も行われるか、ということについても言及し、全体をま とめることとする。
藤川では、葬式(葬列)が特徴的、という語りが藤川の人びとから聞かれた。確かに、現在では組 のような近隣住民が主体となって営まれる葬式は珍しい。
しかし、3節まででみてきた葬式は、以前は藤川に限った儀礼ではない。都市部においても、葬列 を含む葬式は、地域ごとの特色をもった普遍的な人生の儀礼であった。
では、なぜ藤川では昔ながらの葬式の形態が色濃く残っているのだろうか。理由はいくつか考えら れる。まず、葬式の運営の主体となる組が現在まで存続していることが大きいだろう。
では、組がなぜ現在まで機能し続けてきたかというと、藤川の立地と、人口の流入が少ないことが 主な原因ではないだろうか。
大井川下流から藤川へ行くには、対岸の徳山とを結ぶ万世橋を渡るしかない。集落の周囲は茶畑と 山に囲まれている。
徳山は以前にも述べたとおり、藤川の周辺では大きな集落である。建ててから年数の経った日本家 屋に交じって、真新しい西洋的な造りの家屋も目立つ。町から補助を受けて住宅を建て、住民を呼び 寄せるのにも成功した。
40葬儀業者から提供される葬具については、本論文後続の表3を参照。
対する藤川は、林業の閉塞と高度経済成長により住民が都市部に流出し、藤川には帰ってこなかっ た。少子化、過疎化が進み、高齢者だけの世帯も多い。
しかし、新たな人口の流入がなかったことが、組の存続に貢献したのではないだろうか。
都市部では、自治会や町内会が組まれているものの、近隣住民の紐帯は緩やか、あるいはないに等 しいところが多い。ましてや隣保班を起源とする組は消滅している。おそらく、住民の出入りが激し いことや、会社勤めの人が多く地域の行事にも参加しないことが原因であろう。
これに対して藤川では、集落に住む多くの人びとが茶業という共通の生業に従事していること、住 民の入れ替わりがあまりないので子どもの頃からの付き合いである、など、人びとの交流が緊密であ るのではないか。
狭い地域共同体においては、近隣住民との関係は大切である。都市部では薄れた相互扶助や義理の 観念が、まだ強く存在しているように思う。このような紐帯が組の存続に関わったのである。
ただし、組は社会の変動によって常に変化するダイナミズムをもつ社会組織である。戦前から戦後 間もない頃までは、人びとの自発的な地縁的交流が組の活動の基盤となっていた。だから葬式はもち ろん、結婚式などのフォーマルな行事から、茶摘などの生業や、物の貸し借りなどのインフォーマル で些細なことまで付き合いが浸透していた。
その後、社会の発展に伴う、人びとの社会生活の場の広域化によって、組という存在は人びとを紐 帯するひとつの「理由」へと変化したように思う。極論すれば、形骸化とでも言うべき変化である。
しかし、茶摘の手伝いに出かけなくなるなど、確かに人びとの付き合いは希薄化したが、依然として 組、あるいは連合は日常生活に息づいている。
組の機能について考えるとき、時代を戦後すぐまでとそれ以降に大別すると、前者では組の結びつ きは固くそれほど意識しない日常的な存在であったのに対し、後者ではそれまでの地縁的な親密な付 き合いという機能は薄れたものの、人びとを呼び寄せるツールともなる。つまり、見方によっては人 びとが付き合う「タテマエ」に変身し、それが葬式の存続にも貢献しているように思える。
組の機能がいかに変わろうとも、藤川においてそれが受け継がれてきたということは、組は藤川の 人びとの生活にとって重要な社会組織であり、彼らに何らかの影響を及ぼしてきたということである。
また、3節では自動車の普及など、交通の発達によって藤川の人びとの社会活動の範囲は広域化し たと述べた。それは都市部と行き来しやすくなった点において人口の流出につながっただろう。交通 の発達は、葬列の短縮の原因にもなった。このことは、「伝統的な」葬列の一部の喪失とも解釈できる が、葬列の存続を助けたとも捉えられるのではないだろうか。自動車の登場と墓地への道路の開通、
組の構成人数が減少という葬式の運営においての不利な点を補うかたちとなった。
高齢者には、墓地への階段を登ることはかなりの負担であった。また、会社勤めの人が増えるとい うことは、茶業を営んでいた頃よりも葬式に関わる時間が制限されやすい人が増えるということであ る。交通の発達はこの
2つの問題に対して、
労力と時間の削減という解決策を提供してくれたと思う。このようにして、藤川の葬式は時代に沿ってかたちを変えながら、現在まで存続してきた。
以上、藤川の葬式の存続を物理面から考察した。ここからは、この葬式の機能と、人びとに及ぼす 影響について考えたい。
実際に藤川の葬式を見聞した上で、私は特に次の
2
点を葬式の重要な機能として挙げたい。1つ目 は、葬式が人びとの親睦を深める場であること、2つ目は、葬式はグリーフワークの場であること、である。
葬式は、故人をあの世へ送りだす儀式であるので、故人を偲ぶ人なら誰でも参列することができる。