著者 桑山 知奈美
雑誌名 金沢大学文化人類学研究室調査実習報告書
巻 29
ページ 89‑97
発行年 2014‑03‑31
URL http://hdl.handle.net/2297/40135
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な役割を担っているか考えてみようと思う。上で述べているように、春や秋に子供達が集まって おはぎを食べたり、説教のときには内容が面白いからという理由で人がたくさん集まったりと、
昔の寺院という空間は、地域の人々が集まるコミュニティ空間であった。その機能は、現在も少 なからず残っているように思われる。光行寺の祠堂経に参加した際、参加者は高齢者ばかりであ ったが、嬉しそうに隣の席の人と話している様子が多く見られた。このことからコミュニティ空 間としての機能はまだ残っていると、私は現地で感じた。
対して宗教的な面から見てみると、寺院の機能は弱くなっていると思われる。機能が昔から変 わらず維持されているなら、無縁墓は増えないと考えられるからだ。背景に少子高齢化や働き口 不足があるとはいえ、特定の寺院に宗教的機能を求める人が少なくなっている可能性があるとい える。
最後に、今回訪れた蛸島町および関わったすべての人々に感謝いたします。本当にありがとう ございました。
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8 .葬式の変遷
桑 山 知 奈 美
1.はじめに
2.昭和50(1975)年頃の葬式 3.葬式の変化
4.葬式の変化の要因 5.おわりに
1.はじめに
今回、蛸島で調査をしていく中で、冠婚葬祭での住民のつながりが強いという印象を受けた。
冠婚葬祭というと多くの人が経験する事であるが、そのあり方は地域によって様々あり、その地 域の特徴がよく表れる事だと感じる。
中でも葬式での話を何軒ものお宅からうかがい興味を持った。葬式というと、私はセレモニー ホールで行うものでしか経験したことがなく、昔の葬儀についても印象はあまりない。したがっ て、地域の人たちが手伝いに来て葬式をするという話は新鮮だった。しかし、話を聞いていく中 で、時代の変化とともに葬式の在り方が変化していき、住民同士の繋がりも薄くなっていった様 子がみられた。
そこで本章では、昭和50(1975)年ごろの蛸島での家で行っていた一般的な葬式の流れ、戦後
~現在に至るまで蛸島での葬式はどのように変化してきたのか、そしてその要因は何だったのか 考察していく。
なお第2、3節は、蛸島での聞き取り調査において、複数人から聞いた話を基に作成する。
2.昭和50(1975)年頃の葬式
ここでは、戦後~現代に至るまで基本となる、昭和50(1975)年頃の蛸島で伝統的に行われて
90 きた葬式について述べる。
珠洲市の場合、宗派の違いによって葬法も異なり違いを見せている。蛸島の場合は、現在、光 行寺と勝安寺という2つの寺が存在する。2つとも宗派は浄土真宗である。よってそれにもとづく 葬儀となる。
2.1 死後
まず死者が出ると、その地区の区長に連絡をする。そこで区長は班の中で役割を決めていく。
具体的には、香典の管理をする香典係や、記帳係がある。また、お寺には近所の人が亡くなった 知らせをしに行く。大抵は隣の家の人が行っていた。その際には「仏米」(ブクマイ「仏供米」か)
といわれるお米を1升持っていく。この時に後ろを振り返ってはならなかった。近所の人には「呼 びづかい」と呼ばれる女性が知らせに行く。
家では死者の顔にガーゼをし、北枕で仏壇の前に寝かせる。そして知らせを受けたお坊さんが 家にやってきて遺体の枕元でお経を上げる「枕経」(マクラギョウ)を行う。この際にお通夜と葬 式の日取りを決める。友引やお坊さんの予定を考慮して決めるが、年忌の法要より葬式を優先し てもらう。仏壇の前に遺体を寝かしている状態で、親しい人達は弔いをしに来る。
お通夜の前までには葬儀屋が来て、アルコールで体をふいた後入棺を行う。蛸島には葬儀屋は なかったので、野々江町にある葬儀屋に連絡をし、お通夜に合わせて座敷に祭壇の準備を行って もらっていた。また、葬儀屋は、死亡届の代行も行っていた。
2.2 通夜
多くの場合は亡くなった次の日に葬儀を行う。お通夜は家で行い、親族や近所の人などの親し い人たちが参加する。お参りが終わった後は「御膳」(ゴゼン)と呼ばれる食事をする。
2.3 葬式当日
まず初めに「内葬」を行う。内葬では家の中でお経を上げる。その後近所の人が、お棺を担ぎ、
家から寺に移動をする。寺では「本葬」を行う。祭壇は寺でもう一度飾りなおして、本葬を行う。
その後火葬場に行き、遺体を火葬場で焼く。この頃は「珠洲市営斎場」と呼ばれる火葬場があり、
そこで火葬を行っていた。その後家に戻ってきて仏壇でお経を上げる「骨上げ経」を行う。
葬式では「台所親父」(ダイドコオヤジ)という役割があり、葬儀の委員長の役割をしており葬 儀の取り仕切りをおこなっていた。
葬式の際は近所の人たちは香典として1升~2升の「仏米」を持ってくる。お米は巾着袋のよう
90 きた葬式について述べる。
珠洲市の場合、宗派の違いによって葬法も異なり違いを見せている。蛸島の場合は、現在、光 行寺と勝安寺という2つの寺が存在する。2つとも宗派は浄土真宗である。よってそれにもとづく 葬儀となる。
2.1 死後
まず死者が出ると、その地区の区長に連絡をする。そこで区長は班の中で役割を決めていく。
具体的には、香典の管理をする香典係や、記帳係がある。また、お寺には近所の人が亡くなった 知らせをしに行く。大抵は隣の家の人が行っていた。その際には「仏米」(ブクマイ「仏供米」か)
といわれるお米を1升持っていく。この時に後ろを振り返ってはならなかった。近所の人には「呼 びづかい」と呼ばれる女性が知らせに行く。
家では死者の顔にガーゼをし、北枕で仏壇の前に寝かせる。そして知らせを受けたお坊さんが 家にやってきて遺体の枕元でお経を上げる「枕経」(マクラギョウ)を行う。この際にお通夜と葬 式の日取りを決める。友引やお坊さんの予定を考慮して決めるが、年忌の法要より葬式を優先し てもらう。仏壇の前に遺体を寝かしている状態で、親しい人達は弔いをしに来る。
お通夜の前までには葬儀屋が来て、アルコールで体をふいた後入棺を行う。蛸島には葬儀屋は なかったので、野々江町にある葬儀屋に連絡をし、お通夜に合わせて座敷に祭壇の準備を行って もらっていた。また、葬儀屋は、死亡届の代行も行っていた。
2.2 通夜
多くの場合は亡くなった次の日に葬儀を行う。お通夜は家で行い、親族や近所の人などの親し い人たちが参加する。お参りが終わった後は「御膳」(ゴゼン)と呼ばれる食事をする。
2.3 葬式当日
まず初めに「内葬」を行う。内葬では家の中でお経を上げる。その後近所の人が、お棺を担ぎ、
家から寺に移動をする。寺では「本葬」を行う。祭壇は寺でもう一度飾りなおして、本葬を行う。
その後火葬場に行き、遺体を火葬場で焼く。この頃は「珠洲市営斎場」と呼ばれる火葬場があり、
そこで火葬を行っていた。その後家に戻ってきて仏壇でお経を上げる「骨上げ経」を行う。
葬式では「台所親父」(ダイドコオヤジ)という役割があり、葬儀の委員長の役割をしており葬 儀の取り仕切りをおこなっていた。
葬式の際は近所の人たちは香典として1升~2升の「仏米」を持ってくる。お米は巾着袋のよう
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なものの中に入れて持ってくる。袋は家庭ごとに異なり手作りで作られていた。それが「写真1」 のようなものである。仏米を持ってきた人には御膳を用意して、精進料理を振舞う。御膳は、人 にもよるが1回の葬儀で150~200人分もの御膳を用意する。御膳は、もともとそれぞれの家で保 管されており、近所の人からも借りて御膳を振舞っていた。実際に家で保管されていた御膳の様 子が「写真2」である。蛸島では、葬式の際近所の人たちが手伝う習慣があるわけだが、その中で も女性が活躍する場が、御膳を振舞うときであろう。食事は近所の女性たちが手伝い、準備を行 っていた。蛸島での葬式は食事の回数が多く、何度も御膳を洗っては食事を並べる作業を行って いた。葬儀を行う家の障子を取り払って隣の家に置き、広い場所を確保していた。家族が寺に行
写真1 仏米の袋(2013年筆者撮影) 写真2 御膳(2013年筆者撮影)
写真3 香典帳(2013年筆者撮影)
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っている間に、近所の人たちが葬儀の参列者のための御膳を用意しており、火葬場から帰ってく る際の遺族の昼食の用意も行っていた。仏米は香典にあたるものだが、その場で「香典返し」が 行われていた。香典返しの物としては砂糖が箱詰めされたものが渡された。また、香典を貰った 人がわかるように香典帳があり、筆で名前がかかれていた。その写真が「写真3」である。香典帳 には誰がどれだけの米を持ってきたのか細かく記されていた。
2.4 .葬式後
葬式後、「初七日」は火葬場から帰ってきてその日のうちに行う。初七日ではお参りに来た人に は菓子1箱、寿司1箱、砂糖、4升瓶のお酒を用意する。
その後四十九日には、近しい親族でお参りをしてお骨をお墓に納める。この時には、「かご盛り」
とお供えの丸餅を用意する。お骨の引き取り手のない人は、お寺で四十九日まで見ていてもらう。
班の人への葬式の手伝いのお礼は、かご盛りの果物を配ったり、エプロンを配ったりしていた。
3.葬式の変化
3.1 昭和50(1975)年以前の葬式
ここでは、昭和 50(1975)年以前としているが、具体的には、「珠洲市営斎場」が出来た昭和 45(1970)年以前の葬式について述べる。基本的な葬式の内容は昭和50(1975)年頃とは変化が ないが、大きな変化としては、棺桶と火葬場があげられる。
3.1.1. 棺桶
この頃の棺桶は、円形の桶のようなものを使用していた。桶屋さんと呼ばれる職業があり、葬 式の際の桶を頼んでいた。桶には「七条」(シチジョウ)と呼ばれる布をかけ、桶の中には故人の 好きなものを入れた。桶が円形だったので、死者の体を曲げて桶の中に入れなければならず、桶 の中に入れるのは大変な作業であった。
3.1.2 火葬
昭和45(1970)年になると珠洲市により、蛸島内に「珠洲市営斎場」と呼ばれる火葬場が作ら れた。これによって今まで行われてきた火葬が変化していった。下の地図1に火葬場の場所が示 してある。旧の火葬場はバツ印で示している。比較的大通りに近い場所にあり、地域の人たちの 身近にある場所のように感じる。そして現在の「珠洲市営斎場」は蛸島大池のそばにある四角の 印で示された場所にある。旧の火葬場の場所とは少し離れた位置にある。ゴミ処理場も近くにあ
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っている間に、近所の人たちが葬儀の参列者のための御膳を用意しており、火葬場から帰ってく る際の遺族の昼食の用意も行っていた。仏米は香典にあたるものだが、その場で「香典返し」が 行われていた。香典返しの物としては砂糖が箱詰めされたものが渡された。また、香典を貰った 人がわかるように香典帳があり、筆で名前がかかれていた。その写真が「写真3」である。香典帳 には誰がどれだけの米を持ってきたのか細かく記されていた。
2.4 .葬式後
葬式後、「初七日」は火葬場から帰ってきてその日のうちに行う。初七日ではお参りに来た人に は菓子1箱、寿司1箱、砂糖、4升瓶のお酒を用意する。
その後四十九日には、近しい親族でお参りをしてお骨をお墓に納める。この時には、「かご盛り」
とお供えの丸餅を用意する。お骨の引き取り手のない人は、お寺で四十九日まで見ていてもらう。
班の人への葬式の手伝いのお礼は、かご盛りの果物を配ったり、エプロンを配ったりしていた。
3.葬式の変化
3.1 昭和50(1975)年以前の葬式
ここでは、昭和 50(1975)年以前としているが、具体的には、「珠洲市営斎場」が出来た昭和 45(1970)年以前の葬式について述べる。基本的な葬式の内容は昭和50(1975)年頃とは変化が ないが、大きな変化としては、棺桶と火葬場があげられる。
3.1.1. 棺桶
この頃の棺桶は、円形の桶のようなものを使用していた。桶屋さんと呼ばれる職業があり、葬 式の際の桶を頼んでいた。桶には「七条」(シチジョウ)と呼ばれる布をかけ、桶の中には故人の 好きなものを入れた。桶が円形だったので、死者の体を曲げて桶の中に入れなければならず、桶 の中に入れるのは大変な作業であった。
3.1.2 火葬
昭和45(1970)年になると珠洲市により、蛸島内に「珠洲市営斎場」と呼ばれる火葬場が作ら れた。これによって今まで行われてきた火葬が変化していった。下の地図1に火葬場の場所が示 してある。旧の火葬場はバツ印で示している。比較的大通りに近い場所にあり、地域の人たちの 身近にある場所のように感じる。そして現在の「珠洲市営斎場」は蛸島大池のそばにある四角の 印で示された場所にある。旧の火葬場の場所とは少し離れた位置にある。ゴミ処理場も近くにあ
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り、実際現場を見に行ったが、人があまり住んでいないような場所にあり、少し山の中に入った ような場所にあった。
葬式の「本葬」が終わると桶を近所の男性4人ほどで担いで火葬場まで運んでいた。桶を運ぶ 際には、土台として木の台に桶をのせて運んでいた。この台は大工さんが作っていた。
火葬場では一晩中、薪を使って火を燃やし続けていた。近所の人が順番に燃やす役をし、夜中 でも火の見守りを行っていた。遺体を燃やし終わると、その後仏壇の前に戻ってきて、骨上げ経 を行い、初七日を迎える。火葬には一晩中時間がかかっていたので、葬式の翌日に初七日が行わ れていた。
3.2 昭和50(1975)年以後の葬式
ここでは、昭和50(1975)年以後としているが、具体的には、「JA葬祭センター」が出来た平 成16(2004)年以前の様子について述べる(JA珠洲市HP)。
3.2.1 セレモニーホール
平成16(2004)年に入り、蛸島の近くにある野々江町という地域にJA珠洲市による「JA葬祭 センター」がオープンした。蛸島にはセレモニーホールがないが、近くの町に行き葬儀をするの が主流になっていった。
3.2.2 葬式の内容
家や寺で行われてきた通夜や、葬式がセレモニーホールで行われるようになり、現在、蛸島で も日本全国で見られるセレモニーホールで行ういわゆる一般的な葬式へと変化していった。
セレモニーホールが出来る前までは昭和50(1975)年頃とほとんど変わらない葬式が行われて きた。「仏米」(ブクマイ)と呼ばれる米も、すぐ虫がつくなどの理由もあり、少なくなってはい たものの、セレモニーホールができる現在から10年くらい前までは行われていた。
また、Aさん(脇浜本町、女性、66歳)によると、御膳も最初は輪島塗の御膳で各家庭の物を 使用しており、近所での貸し借りを行っていたが、傷が付きやすくトラブルの原因にもなるので、
町内でプラスチックの物が代用され使われてきたが、現在では使用されなくなり、町内の御膳も キリコが保管してある倉庫に一緒に保管されていると話していた。
葬式では町内で協力して行っていたが、セレモニーホールでの葬式へと変化する中で、地域の コミュニケーションの場が薄れていった。
94 地図1 永松(1977、巻頭の地図)より
4
.葬式の変化の要因戦後~現代に至るまでの日本の葬式の変化の要因、蛸島での葬式の変化の要因を探る。
4.1 日本の葬式の変化 4.1.1 戦後
昭和50(1975)年頃の日本では、葬式無用論のようなものが一部の人により言われていた。葬 式は、もともとは死者の霊を弔うことを目的としていたものが、その当時では、ただ生きている ものの見栄とか慰めとか、あるいは慣習的に、無感的に行われていると唱える人もいるように、
形式化した葬儀になってきている様子があった。そのように葬式が形式化してしまった要因の一
94 地図1 永松(1977、巻頭の地図)より
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.葬式の変化の要因戦後~現代に至るまでの日本の葬式の変化の要因、蛸島での葬式の変化の要因を探る。
4.1 日本の葬式の変化 4.1.1 戦後
昭和50(1975)年頃の日本では、葬式無用論のようなものが一部の人により言われていた。葬 式は、もともとは死者の霊を弔うことを目的としていたものが、その当時では、ただ生きている ものの見栄とか慰めとか、あるいは慣習的に、無感的に行われていると唱える人もいるように、
形式化した葬儀になってきている様子があった。そのように葬式が形式化してしまった要因の一
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つとしては寺檀制の形が変化していったことがあげられる。
寛永8、9(1668、1669)年頃、幕府は、民衆支配の為に寺請制度をつくることにより幕藩体制 の整備を行った。寛文5(1665)年の「諸宗寺院法度」では、自由に寺僧を選択したりとりかえた りすることができる状況にあったため、寺僧間における激烈な檀家獲得競争をもたらした。その 結果幕藩体制の民衆支配の機能が弱体化したため、離檀禁止、とくに一宗一寺との2つの原則が 打ち出されるに至った(芳賀 1980:130-136)。寺院側の檀家支配の統制化と、寺院運営経費の 面から、さまざまな葬式の形式を確立化する必要性に迫られた。したがって、葬式の形式化だけ について言えば、祭主、喪主などや遺族の側からの意思はまったく含まれていない。僧侶も収入 面の魅力に惹かれ、仏教界はさまざまな腐敗が後をたたず、ただ葬式のみを請け負う葬式法要を 営むだけのものになってしまった。これは葬式だけにいえることでもなく、行事などでも本来の 意味が忘れ去られていることが多い(芳賀 1980:3-7)。
4.1.2 現代
さらに時代が進んでいくと「直葬」と呼ばれるものが登場する。「直葬」とは、故人がなくなっ た後に、いったん自宅に遺体を安置し、近親者だけで通夜を行い、その後、遺体を直接火葬場に 運び、近親者だけで見送って終わりにするやり方である。もともとは身元がはっきりしない人や 生活に困窮して十分な葬式代が出せない人のためのものであったが、今ではより一般的になって いる。また、1990年代になって葬儀社が発案し、宣伝した言葉だといわれている「家族葬」(以前 は「密葬」と呼ばれていた)が現れた。家族葬では、故人とゆかりのあった人たちには声はかけ ず近親者で行う規模の小さな葬式をする。一般的には、生前故人とゆかりのあった人達に声をか けて会葬者を集めるのだが、高齢者の大往生が増え、会葬者の数は自然に減ってきたことがその 要因の一つである。会葬者の数が少ないのなら、近親者だけで済ませ、会葬者に負担をかけるこ とがない。そうした遺族側の希望が強くなってきたことも「家族葬」が多くなっていった要因だ といえる。
このように葬式の簡略化は進んでおり、手間・時間は節約され、費用も従来のものと比べかか らなくなってきている(島田 2010:31-40)。
4.2 蛸島の葬式の変化
ここでは、3、4.1をもとに蛸島での葬式の変化の要因について考察する。
4.2.1 葬式環境の変化
葬式環境の変化という面では、蛸島で葬式の変化の大きな要因になったものとして、「珠洲市営
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斎場」「セレモニーホール」が出来たことがあげられる。まず「珠洲市営斎場」が出来たことによ り、今までは火葬の際に火の見張りをしていた近所の人が居たのだが、その必要がなくなった。
また、車が一般的になってくると火葬場へ移動する際にも車一つで移動できるようになり桶の担 ぎ手の必要がなくなった。一晩中かかっていた火葬も、短縮され、昔は火葬の翌日行っていた初 七日も、火葬をしたその日のうちに行うことが出来るようになった。火葬場ができたことにより、
地域の人たちが行っていた役割のうちのいくつかは不要になり、葬儀の時間は短縮されたといえ る。平成になると「セレモニーホール」が登場した。従来家、寺で行っていた葬儀をセレモニー ホールで行うため、いよいよ近所の人たちの手伝いは不要になる。葬式の際に使用していた「御 膳」(ゴゼン)も使用されなくなり、家の倉庫に保管されたままになっている。第2節で載せた写 真2についても、写真をとらせてもらったお宅の、Bさん(東仲町、女性、77歳)は「今はもう 使っていない。立派なのにもったいない。」と言っていた。このように、セレモニーホールの登場 は地域のひとの役割をほとんど不要とさせる要因だったといえる。
大きな変化要因ではないが、葬式の変化をさせた要因はほかにもある。まずは葬式の際に使わ れていた「御膳」についてである。「御膳」とは、赤色の輪島塗の立派なものである。それぞれの 家に30ほど用意されていて、葬式や結婚式で使用されていた。1回の葬式で150~200ほどの御膳 を用意する為、近所の人からもそれぞれの家にある御膳を借りていた。しかし、輪島塗の器は荒 く扱うと壊れやすく修理をしなければならなくなる。そのため近所の人に借りるのはトラブルの もとにもなっていた。そこで町内で共同御膳を購入し、50ほどがキリコ倉庫に保管してあり、使 用されていた。
また、Cさん(島の地、男性、60歳)は、葬式は手間なことが多いので、20年ほど前に婦人会 から「葬式の簡素化」を要請されたと話していた。Cさん宅でも簡易に葬式を済ませたところ、
親戚からクレームが来てしまったという話もしていた。次に「仏米」については、第2節でも述 べたように米に虫がつく、悪くなるといった理由から徐々にお金へと変化していった。10年ほど 前まではまだ蛸島でも見られる光景だったが、セレモニーホールが出来てからはほとんどこの習 慣はなくなっている。
4.2.2 地域コミュニティ
4.1で述べたような様子は、蛸島にも少なからず当てはまることであろう。蛸島でも少子高齢化 の波は押し寄せていて、若い人は仕事をしに都会へ出て行ってしまう。そうすると、葬式をする 際にも仕事を休んでこなければならず、家で葬式を盛大に行うことは難しいだろう。また、高齢 な人ばかりでは手伝うこともできない。さらに、若い人たちは墓参りにも来ない人たちがいて、
放置された墓も年々増えている。光行寺では300ほどの檀家が蛸島にあるのだが、お花や線香の
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斎場」「セレモニーホール」が出来たことがあげられる。まず「珠洲市営斎場」が出来たことによ り、今までは火葬の際に火の見張りをしていた近所の人が居たのだが、その必要がなくなった。
また、車が一般的になってくると火葬場へ移動する際にも車一つで移動できるようになり桶の担 ぎ手の必要がなくなった。一晩中かかっていた火葬も、短縮され、昔は火葬の翌日行っていた初 七日も、火葬をしたその日のうちに行うことが出来るようになった。火葬場ができたことにより、
地域の人たちが行っていた役割のうちのいくつかは不要になり、葬儀の時間は短縮されたといえ る。平成になると「セレモニーホール」が登場した。従来家、寺で行っていた葬儀をセレモニー ホールで行うため、いよいよ近所の人たちの手伝いは不要になる。葬式の際に使用していた「御 膳」(ゴゼン)も使用されなくなり、家の倉庫に保管されたままになっている。第2節で載せた写 真2についても、写真をとらせてもらったお宅の、Bさん(東仲町、女性、77歳)は「今はもう 使っていない。立派なのにもったいない。」と言っていた。このように、セレモニーホールの登場 は地域のひとの役割をほとんど不要とさせる要因だったといえる。
大きな変化要因ではないが、葬式の変化をさせた要因はほかにもある。まずは葬式の際に使わ れていた「御膳」についてである。「御膳」とは、赤色の輪島塗の立派なものである。それぞれの 家に30ほど用意されていて、葬式や結婚式で使用されていた。1回の葬式で150~200ほどの御膳 を用意する為、近所の人からもそれぞれの家にある御膳を借りていた。しかし、輪島塗の器は荒 く扱うと壊れやすく修理をしなければならなくなる。そのため近所の人に借りるのはトラブルの もとにもなっていた。そこで町内で共同御膳を購入し、50ほどがキリコ倉庫に保管してあり、使 用されていた。
また、Cさん(島の地、男性、60歳)は、葬式は手間なことが多いので、20年ほど前に婦人会 から「葬式の簡素化」を要請されたと話していた。C さん宅でも簡易に葬式を済ませたところ、
親戚からクレームが来てしまったという話もしていた。次に「仏米」については、第2節でも述 べたように米に虫がつく、悪くなるといった理由から徐々にお金へと変化していった。10年ほど 前まではまだ蛸島でも見られる光景だったが、セレモニーホールが出来てからはほとんどこの習 慣はなくなっている。
4.2.2 地域コミュニティ
4.1で述べたような様子は、蛸島にも少なからず当てはまることであろう。蛸島でも少子高齢化 の波は押し寄せていて、若い人は仕事をしに都会へ出て行ってしまう。そうすると、葬式をする 際にも仕事を休んでこなければならず、家で葬式を盛大に行うことは難しいだろう。また、高齢 な人ばかりでは手伝うこともできない。さらに、若い人たちは墓参りにも来ない人たちがいて、
放置された墓も年々増えている。光行寺では300ほどの檀家が蛸島にあるのだが、お花や線香の
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ない墓が63ほどあり、毎年増えているようである。お寺住職であるDさん(中貝蔵、男性、49 歳)も「自分が亡くなった時に放置されるのはみっともないし見苦しい」「先祖がいるから今の自 分がいる」と現在の墓の状態をみて嘆いていた。
時代の変化とともに地域の在り方も変化していき、葬式も地域の人たちが協力する場であった のだが、その場も失われた。蛸島では、班の中で不幸があった際、その同じ班の人たちが葬式の 手伝いをしに行くことがつい最近まで行われていた。特に蛸島での葬式は食事の回数が多いので、
地域の人たちで協力して準備を行っていた。女性Eさん(脇浜本町、女性、66歳)のお宅にうか がった際にも「葬式は町内で協力してやっていたから、町内での葬式がなくなったことでコミュ ニケーションの場が薄れた」との言葉を聞いた。
5.おわりに
時代の変化とともに日本全国で、冠婚葬祭の在り方は変化しており、蛸島でも葬式の在り方は 変化していた。蛸島では地域の人たちが協力して行う葬式が行われていたが、今ではほとんど行 われていない様子だった。しかし、今でも班のつながりや近所の人とのつながりは強いように感 じた。調査に行った際も、高齢の方でも元気で気さくな方が多い印象だった。今後、葬式という 形で地域のつながりをつくっていくのは困難だが、日常生活での地域の協力、コミュニケーショ ンを維持していってほしいと感じた。
最後になりますが、お忙しい中協力してくださった皆様、本当にありがとうございました。