ゾムバルトにおける体系の概念
一ウィットフォーゲル『東洋的社会の理論』解題一
川 田 俊 昭
ウィットフォーゲルにおける体系の主要契機たる一所謂「交互作用Wechselwirkung
(代謝機能)」なる範疇が、単に認識上の工夫のものでないこと、我々の言葉で謂えば、そ れは「認識」範疇というより「実在」範躊としてあることは、彼の次の言葉(マルクス、
更にはヘーゲルに言及せる)よりしても、明確である。
即ち、ウィットフォーゲルは、マルクス『資本論』の援用より始めて云う、「『一方の 側には人間とその労働、他の側では自然とその素材』、これは社会的労働過程における最
も普遍的な基本関係であって、この社会的労働そのものと同様に、r人間生活の永久的な 自然的諸条件、従って斯かる生活の各々の形態とは独立の、むしろあらゆる社会形態に共 通せる』ものである。 ……このことは、既にヘーゲルの言ったように、人間は、彼に 道具を賦与する外的自然の上に、あらゆるr権力Macht』を行使するにも拘らず、その
む り コ
目的措定Zwecksetzungenにおいて自然に『隷属している』ということを意味してい る。ある大哲学者は、このことを、ヘーゲル論理学に関する彼の註釈において、次の如く 言い表している。『機械的法則と化学的法則とに分離された(この区別は甚だ重要であ
る)外的世界の法則は、人間の合目的々活動の基礎をなしている。人はその実践的活動
コ ロ ロ の
において客観的世界に対立し、これに依拠し、そして自己の活動はこれによって制約され
る』、と。」
「社会のあらゆる発展の基礎としての社会的労働過程の発展は、この労働過程を態様及 び活動に従って制約する生産諸力の発展である。たとえ、すべて歴史的に条件づけられる とはいえ、生産諸力は、そのすべてが狭義の社会的性質を帯びるわけではない。生産諸力
の ロ
の二群、生産されたものと生産されざりしもの、社会的に条件づけられたものと自然的に 条件づけられたものとは、労働過程において相互に作用し合う。あらゆる自然により条件 づけられた(自然的)生産諸力は、一つの歴史的な性質を有する。即ち、ただ一定の歴史 的な状態の下でのみ、これは活動する。社会的生産迫力は、又、すべて、その時々の活動的 な、自然により条件づけられた生産諸力の性質によって、制約されるのであるd」
そして又、このことは、同時に、ウィットフォーゲルにおける実体的な把握が、明らか
に、実在論としての観念論を拒否していることをも意味している。
の ロ
いわば、このことが、ウィットフォーゲルをして、その実、実害ない筈の認識論上の観念 論(者)としてのゾムバルトを、敢て、批判せしめることとなった重大理由となってい
る。日く、「我々の歴史分析は、ゾムバルトが最近要求しているが如き、意志自由なる仮 定からは出発しない。意志自由は一つの神学的要請である。社会の科学的把握は、斯かる 前提によっては不可能である。社会的に生産する人々の意志方向Willensrichtung並び に活動は、最も一般的には人間の生理的性状physische Beschaffenheit一他のすべ ての動物とは反対に一によって制約されるのであるが、特に斯かる彼の活動の客観的基 底により一しかも、その時々に到達した発展段階によって、その度毎に変化せしめられ た仕方で一制約されるのである。」
「云え人間が労働過程において、労働手毅の能うる限り巨大な装置を、自己と自己の労 働対象との間に入れ得るとしても、その労働対象は、究極においては、依然として自然自 体である。」
と云って一一一一ウィットフォーゲルにおける如く 、ゾムバルトの場合を、(如上の如く)
単純化し、且つ批判することには、決して問題がないわけではない。果して、ウィットフ ォーゲルとゾムバルト両者の間に、それ程の相異・懸隔が見られるかどうか、それは、場 合によっては、第三者のみが決着づけ得る事柄(の一つ)なのである。無論、この場合、
比較・対照の都合上、決定的ともいうべく重要なのは、ウィットフォーゲルの体系とゾム バルトの体系そのものについての我々の考慮である。
体系について、換言すれば某のアルバイトを科学(学問)として意義づけるものについ ての、ゾムバルトの配慮は、彼が、マックス・ウェーバーやシュムペーターの如き卓抜・
抜群の科学論(学問論)一山日時の若気の至り・若僧共には到底思いも(及びも)つか ないところの一所有者と、じかに交渉をもった(もち得た)だけに、我々の想像をも越 えた、並々ならぬものが、そこにあったというべきである。
体系について、ゾムバルトは、『三つの経済学一経済の学問の歴史と体系 』、第 十二章「体系Das System」において、文字通り適確な、そしてゾムバルト特有の説得力 ある明確、確実な作業一展開を行っている。
お前達はゆらぐ現象として漂っているものを、
持久する思惟で繋ぎ止めて行くが好い。 (ゲーテ『フアウスト』)
同章壁頭、ゾムバルトは、一見、カント主義者というべく口吻で語る。「今、我々のな すべきことは、経済学を『科学(学問)』と呼ばれるところの独立の精神統一体に形成す ることの出来る手段と道とを発見することである。知識の集合は、周知の如く、個々の構
成部分が一一体系に組立てられることによって、科学となるのである。これらの(科学的 な)ものにおいて、言い得るすべてのことを言い尽したカントは、認識の体系的統一化の 技術としての建築学を語っている。『私は建築学を体系の技術と解する。体系的統一体 とは、共通の認識を先づ第一に科学とするところの、即ち斯かる認識の単なる集合より 一つの体系を作るものなるが故に、建築学は我々の認識一般における科学的なものdas Scientifischeの学である。』」(この援用は、次の様にも訳される。「体系的統一体と は、普通一般の認識を先づ科学的たらしめるものであり、普通の知識の総計から一つの体 系を作るものであるが故に、我々の認識一般において科学的なるものの教義は即ち建築学 である。」)
「科学はいかなるものでもカントによれば一それ自体として一つの体系である。それは 諸々の原理によって樹てられなければならぬ。それは、いわば、それ自身のために存する 建物である。」(ワーゲンフユール『経済学における体系思考一一つの方法史的考察』)
「知識は、一つの理念のもとに全体の部分の必然的な関係において建築的な統一に齎さ れることによって、科学的となるのである。」 (三木 清『哲学入門』)
ゾムバルトは続けて云う、「それ故に、科学は、個々の構成部分より、しかも既にそれ 自体の中に全体Ganzheitもなる統一体を含んでいるところの統一的計画に従って建設さ れている建築物の美しい姿において見られる。この設計案が体系である。しかし、この設 計案を立てるには、多様な認識を一つの体系に総括し得るが如き理念Ideeを必要とす
る。これはカントの意味における理念であり、従って本体論的意味のものではなく、理念 が『原像Urbild』を意味せず、思惟手段として用いられる心像Gedankenbildを意味す るところの論理的意味の理念である。それ故に、理念は、対象を目標とせず、むしろ理論 的な意味統一体を把握し、科学の諸前提であり、従って科学的認識の諸条件を創り、科学 のア・プリオりたる一種の概念、即ち『理性概念』である。」
即ち、以上のゾムバルトにおける限りにおいて、我々は認識論的に云ってゾムバルトと ウィットフォーゲル(本体論者)両者の間に、先づ、相異を見出すのである。
ゾムバルトにおいて、その体系のく必然〉を支えるものは(カント同様)「理性」である が故に、ゾムバルトはカント『純粋理性批判』を援用しつつ云う、「認識の体系的なるも のを、即ち一原理から聯関をつくり出すものが『理性』である。『斯かる理性統一体は、
常に一つの理念を、即ち認識の全体の形式についての理念を前提とする。そしてこの全体 は、諸部分の一定の認識に先行し、各部分に対してその地位と爾余の学部に対するその関 係とを先験的に規定すべき諸条件を包含している。従ってこの理念は、悟性認識の完全な る統一体を要請し、それによって悟性認識を単に偶然的な集合ではなく、必然的法則に従 って聯関する体系となるのである。この理念は、それが規則として悟性に役立つ限り、客 体に関する概念であるとは本来云い得られぬもので、むしろこれら諸概念の普遍的統一体 に関する概念であると云い得る。』……理念の機能は、『悟性のみでは規則として不充分 なる場合に、これを理念によって援助し、同時に種々相違せるその規則を一つの(体系的)
原理の下に一致せしめ、これによって出来得る限り聯関を創ることである。』『理性は、
先づ経験に応用される悟性認識を前提として、それの統一体を、経験よりも遥かに遠く及 び得るところの理念に従って探し求める。』」
斯かる程度(と云っても、余人の及ばぬ程の含蓄と、加えて明確を表しているが)の考
コ
慮も、「今日時の若気の至り・若僧共」には到底理解し得られぬ(と、私は慨歎する)ので あるが、その実、事情は、老毫についても余り変らぬであろうことを、ゾムバルトは我々 に教えてくれる。彼の云う、「斯かる基本的な、今日では解り切っていることを、くどく どしく述べることは極めて不適当なように思われるかも知れないが、私の知る限り、私以前
に我々の科学一般における体系構成の問題を提出する必要を感じた経済学者は、ロレン ツ・フォン・シュタイン唯一人しかなかったことを思えば、非難なきように学問を研究す るための、これら基礎的な諸条件をも想起せしめることは、必ずしも全然無用というわけ ではないように思われる」、と。
閑話休題。だからと云って、我々は、ゾムバルトにおける理念が、従って又体系が、即
の
カントでないことに注意すべきである。「我々が今日カントより離れる点は、体系を構成 する理念の選択に関するものである。カントによれば、この選択は専ら認識の形式的必要 によって規定された。『斯かる理性概念は、自然から汲み取られるのではなく、むしろ我 々は自然に対してこれらの理念につき質問するのである。(即ち、これらの理念の助けを 以って。ゾムバルト)そして、我々の認識がこれらの理念に適当でない聞は、その認識が 不足だと考える。』」
新カント派(バーゲン学派一文化現象へのカントの適用・カントの修正)としてのリッ ケルト、ヴィンデルバント……ウェーバー……と肩を並べるゾムバルトの面目たるや、ここ において、真に躍如たるものがある。「カントの立場は、彼が認識の対象としては唯(外的)自 然を知るのみであるということによって基礎づけられている。この外的自然には上述のこ とが当るであろうが、文化聯関の認識には妥当しない。ここでは体系を構成する理念の選 択ば、決して我々の自由ではなく、むしろこれらの理念は事物の特質によって与えられてい
る。ここでは経済学の体系発見に非常な努力を払った上述のロレンツ・フオ7・シュタイ ンがこの問題に関して詳説していることが当っている。rすべての科学に:おいて、我々 が、素材の恣意的なもしくはより合目的々ならざる配置と区別して、体系と呼ぶところの
ものの大なる機能は、この聯関(すべての現象の)を有機的聯関、 従って又、すべての人 馬にとって日々目に見るが如き活濃な聯関として説明することである。故に、何人と錐も 体系を案出することは出来ない。体系は、その諸要素中にあって、既にそれが始まる点に おいて与えられている。それ故に、体系は自分自身によって発展するものである。』この 天才が我々の科学のために、生々した生活能力ある体系を作ることに成功しなかったの は、彼が余りにも深くヘーゲルの考え方に釣り込まれたためである。」
いわば、ゾムバルトにとって、カントもヘーゲルも、等しく、我々の「文化聯関」、殊 に社会についてのその理解が欠如していると考えられたからに他な,らない。
誰でも何か活動している物質を認識しよう、
記述しようとするには、兎角精神を度外に置こうとする。
そこで一部分一部分は掌中に握っているが、
お気の毒ながら、精神的脈絡が通じていない。
ゾムバルトにおけるディルタイーハイデッガー流の(内在的)「理解Verstehen」の方 法こそ、斯かる問題、斯かる困難を解決するものと、彼に考えられた所以である。何故な
らば、少くとも文化現象(社会現象)については、我々は一人の人間として認識するので はなく、むしろ社会の裡に、認識するからである。「ロビンソンは最も非現実的な場合で ある。少くとも彼は社会経済より出て来るが故にのみ、ともかくその生命を唯一人でつな ぐことが出来るのである。成程彼は孤島に、外に何一つ持って行きはしなかったが、簿記 帖のみは持って行ったと、マルクスは嘗って辛辣に、且つ適切に述べている。 ……人類 経済の社会的性質の必然性は、経済の内部的諸条件においても、外部的諸条件においても 同様に基礎づけられている。即ち外部的に観察すれば、人間の養育は多くの、少くとも二 人の協力を必要とするが故に、人間の生計配慮は唯社会的紐帯においてのみ行われ得る。
又内部的に観察すれば、社会的精神に関与せぬが如き経済的行為は存しないとの理由から である。個々人の社会的行為が可能である前に、先づ共同的なもの、結合的なもの.統一 的なものが、存在せねばならない。」
「理解の優越は、認識主体と認識対象、即ち認識者とその対象が同じ(『同一identisch』)
であるという事において現れているところの、この認識様式の『内在Immanenz』に存 する。従って、認識者は、いわばその対象の中に潜んでいることによって、『内部より』
認識するのであり、ショーペンハウエルが一つの適切な願解によって言い表した様に、我 々は『謂わば楽屋に91eichsam hinter den K:ulissen』立っているのである。」
斯くして、我々は、ゾムバルトに、文化科学(歴史科学・社会科学)的効用をもった、
の 経済現象(具体的・歴史的)に適用し得べき理念を、改めて、発見するのである一ゾム バルトにおける所謂「経済体系Wirtschaftssystem」の理念、これである。「経済的諸 現象を一つの体系に形成し得べき理念は、経済そのものの理念より直接に誘導されねばな らない。それは経済のあらゆる本質的諸特徴を含有し、又これら個々の諸特徴を一つの統 一体に綜括せねばならない。しかも、それは抽象的・思想的形式においてではなく、具体
的・歴史的明確性において、なされねばならない。 ……これらの諸要求を充たすものが 経済体系の理念である。 ……経済の概念を構成する基礎成分……
1.経済志向 die Wirtschaftsgesinnung 2.秩序 die Ordnung
3.技術 die Technik
これによって、経済体系の概念を一層正確に規定することが出来る。(即ち、)経済体系と は、(1)一定の経済志向によって支配され、(2)一定の秩序と組織とを有し、(3)一定の 技術を応用するところの、精神的統一体として把握された経済様式Wirtschaftsweise である。 ……経済体系のこの概念は、我々が最高の体系構成的理念に対してなさねばな らぬあらゆる要求を、実際において充足する。この概念は、経済生活の全面を包摂するに 充分な程包括的であり、従って以前の体系化の試みにおいて体系構成的理念の役割を演ず べきであって、しかもその性質上、常に唯経済生活の個々の側面のみしか特徴づけ得なか った個別標識Einzelmerkmaleよりも、一層効果的な仕事をなすも、のである。他面にお いて、この概念は、経済生活の歴史的具体性を把握するに充分な程明白であり、これによ って国民経済乃至交換社会の理念の如き純粋に形式的な理念よりも、その体系構成力にお いて優越している。最後に、この概念は、最も原始的なものより最も発達せるものに至 る、考え得べきすべての経済状態に応用されるに充分な程一般的である。」
「純粋理性は一つの完全な統一体をなすものであるから、もし理性の原理が、理性自身 の自然的本性によって理性に課せられたあらゆる問題のうちの只一つだけでも、解決する に不充分であるとしたら、我々は斯かる原理を構わず捨て去って差支えない。そうだとし たら、この原理には、他の問題をも一つ残らず解決し得るという充分な信頼を置くわけに いかなくなるからである。」(カント『純粋理性批判』)
もっとも、ゾムバルトの場合、所謂理解的方法(verstehende Nationa16konomie)の特 徴として、経済志向、秩序、・技術の三年中、決定的に重要なのは、最初の経済志向一
「経済志向、もしくは主観的精神、即ち経済する人間を規定する目的設定、動機及び行為 の規則の全部」一である。「原因、即ち推し進め作用する諸力は、我々にとって人間の
コ む
行為の動機であり、而して唯それのみである。 ……あらゆる文化事象における『終局
コ
的』原因は人間の動機であるという根本命題……この根本命題はあらゆる文化科学の先験
(ア・プリオリ)であ・り、しかも一附言したいが一この動機は自由より生れた動機で あるとも云い得る。」
それでは、ゾムバルトにおける斯かる「自由」は、専ら、一「意志自由なる仮定」と してウィットフォーゲルの批難せる如き一「一つの神学的要請」・形而上学としてであ
り
るか。否1 ゾムバルトの云う、「意志の自由の仮定は、この聯関においては、本体論的
(形而上学的)判断を意味するのではなく、論理的(r超絶的』)判断を意味する。」
むしろ、(ウィットフォーゲルにおける如き)経済における自然的野制約性の過度の強調
は、却って、斯かるゾムバルトによって批判されるのである。「文化事象が還元されると ころの原因なるものは専ら人間の動機であり、爾余のすべてのもの、特に自然事実は、す べて唯機会Anlassもしくは条件Bedingungとして顧慮され得るに過ぎない。」
しかも、加えて、ゾムバルトにあっては動機の背後(自然的?)にまで遡ること一 一体、此世界die Weltを奥の奥で統べているのは何か。
それが知りたい。そこで働いている一切の力alle Wirkenskraft、一切の種子は 何か。
にこそ、却ってウィットフォーゲルの所謂「神学的要請」の陥穽、科学としての致命は あると言う。「我々は、誤って、因果列Kausalreiheをこれらの動機の背後にまで追究
し入れるが如き事があってはならない。 ……我々は斯かる方法に対する特別の偏愛を大 抵のマルクス主義者において見出すのであるが、この際彼等がその師を引合に出すのは当 然の事である。例えばフリードリッヒ・エンゲルスは、この点に関して嘗って次の如く述 べている。行為する人々の動因は余り重要なものではなく、問題はむしろ『これらの動因 の背後に如何なる推進力treibenden K:rafteが存するか、行為者の頭の中で斯かる動因 に変形さるるものは如何なる歴史的原因(!)であるか』ということである。 ……これ は全く支持することの出来ない立場である。エンゲルスの述べた見解に対しては先づ、斯 かる見解は一事象の『原因』の要求されたる追究は根本的には許し得べきものであると
しても 実際的には解決出来ぬ任務を提出するのであるとの反駁が加えられる。蓋し、
この還元はregressu.s in infinitum (無限への退却)を意味するであろうから。という のは、原因列Ursachenreiheの如何なる場所においても『終局的』原因が問題となれ る事を正しく示し得ぬからである。」
「『最後の原因letzte G搬nde』まで追って行くことは不可能である。」(シュムペー
ター)
「『世界』、いうまでもなく、これは人間の世界のみであり、自らを『一つの全体と考
え勝ち』な『小さな馬鹿者の世界die kleine:Narrenswelt』である。そして、もし我々 が、理解の途上において得らるる認識の深さに直面して、r自己の神罰性Gottahnlichkeit において不安』となるを欲しないならば、唯『理解』する諸現象の背後には何ものもなき こと、人間の工作物が如何に洞察されようとも、その背後には何ものもなきことを思えば 足りる。バラの芳香の背後、鳥の飛行の背後、水晶形成の背後には、我々の認識する悟性
にとっては永遠の秘密たる不思議の世界があるが、香水瓶の背後、飛行船の背後、工業コ ンツェルンの背後には、事実一何ものも存しない。」
しかしながら、結局、「意志」を主とするか、「自然」を主とするかは、一少くとも 私をして云わしむれば、比較的、相対的な問題である。私は嘗って(学生当時)、次の様
に書いた。(神戸大学、六甲台論集第7巻第1号) 「……経済における社会的・文化的
(精神的)契機一人間の社会的・経済的行為の動機乃至志向的意志・意欲・感情(それ は我々の社会生活・経済生活に、我々人間が行為上自覚するr目的』、 『理想』乃至『文 化価値』を前i提する)一を説明契機Erklarungsrnomentとして一通常行われている 如き実在契機としてではない一、しかも相対的に(所謂社会学者からその著『近代資 本主義』における風土派的態度を難詰されたが故にこそ却って偉大なゾムバルト!)重 んずる社会学的・主観主義的構造理論の他に、経済現象の自然的・地理的契機(Raum,
Klima)、即ち空間的束縛性Raulngebundenheitその他に意義を与える地理学的・客観
ロ
主義的構造理論も又可能である。或種の考え方(所謂唯物論一『自然科学の近時の進歩 を綜合する』と誇称する)によれば、 『人間そのものが自然の一産物』(エンゲルス)で
ある。『肉Fleischと血Blutと脳髄Hirnをもって自然に属しているところの自 然の一部である。人間それ自体、自然力であり、自然物であり、就中活力ある自覚物 1ebendiges, selbstbewusstes Dingであり、生物界においては能動的力を発展させる 動物界に属している。』従って又(例えば一シュムペーターも言える如く)『人が「民 族性」と呼ぶ精神的及び生理的習慣にせよ、その支配する土地、その生活する場所の気 候、簡単には地理的環境に大小の差はあれ、しかし如何なる場合にも著しい程度において 依存する。植物や動物と同様に、人間における又彼の能動及び受動における多くの事柄 は、少くとも地理的環境の影響から理解されねばならず、その限りにおいてこの影響に無 関係なものとして対立せしめ得ないということは、人類学、『人性学Etho10gie』、他の 側面からは生理学が教えるところである。しかしながら、一度獲得された性格は、状態が 変っても尚長く存続するから、それは一種の独立性を得、従って、多くの目的のためには、
独立の説明契機として、 ……(地理的)契機と並置されることが出来る。更に地理的環 境に対する人間の側からの影響も一定の限界内では可能であるから、環境は民族をつく
り、民族は又その環境をつくる、という様に環境と人間の性質との●交互作用Wechselwi−
rkungを云々することも出来る。即ち、プレハノブ、ウィットフォーゲルの地理的唯物
論geo−graphischen Materialisrnus乃至『弁証法的交互作用理論Dialektische Wechselwirkungslehre、ディクスの地経済学Geo−6konomie、又最近ではジンマーマ
ンの『資源』概念を中心とする新しい試み……等、それに当る。」
「およそ一切の実体は、空間において同時的に存在するものとして知覚される限り、完 全な交互作用Wechselwirkungをなしている。」(カント)
ゾムバルトが、如何に社会に強調を置くか(というより、むしろ如何に偏社会的である か)は、次の彼の言葉よりして明確である。「経済学は……社会科学である。何となれ ば、その対象たる経済は人間社会の一回分を形成しているから。しかもその本質からいっ てもそうである。それ故に我々が経済を考える時には、社会的なるものは一一つの先験(ア
・プリオリ)である。 ……経済学の社会的性質より、我々の科学において屡々試みられ た『自然的』範疇と『社会的』範疇との間の区別は、誤謬であるということになる。 …
…経済学の範疇は何れも、表面的には折々はそう見えずとも、社会科学的範疇であること に決定されている。 ……経済学の社会的性質より、更に、経済学を社会学に対立せし め、或は経済学において、 r経済学的』及び『社会学的』方針又は立場について語るのも 等しく誤謬であるということになる。経済学はむしろ社会学、即ち人間の共同生活につい ての科学である。 ……社会学的範躊を以って考えられない様な『純粋』経済は無意味で ある。」
他方、ウィットフォーゲルが如何に偏自然的であるかは……一 「社会的労働過程 は、その究極の基底、即ち自然に依存しつつ進行する。 ……従って自然により条件づけ
られた生産諸力の意義、能動的な社会的生産力と受動的・方向措定的な自然的生産力、即ち すべての生産様式の意義が決定される。自由なる意志なるものは存在しない。物質的生産
の発展に恣意などは問題にならない。 ……生産の仕方が先づ第一だ1 しかし、その内 部で生産諸力の自然により条件づけられた部分に、明々と光が投げかけられることが必要 である。だから、すべての歴史記述は、斯かる自然的諸基礎及び歴史の経過におけるその 変容から出発しなければならないのである。」
「社会的生産諸力の総体の内部で、主体的一個人的部分(労働の性能及びその組織)
が、常に物的生産諸条件との聯関において、又これに依存して発展する。しかし、生産の 物的諸条件、所謂技術は、そ の性質上、その構成上、 r外的諸条件(自然法則)により』
制約される。即ち、人間は、自己の労働の『指導的』手毅の構成、並びにこれによって遂 行されたる社会的労働行為自体において、『外的世界、即ち自然』に依拠し、『そして、
彼の活動はこれに制約される』。斯かる外的自然的世界の法則は、 『人間の合目的活動の 基礎』を形成している。斯かる制約は、発展過程の制約を意味するに愚ならない。社会的
生産諸力の生成、特に、その物的核心たる技術の生成は、その時々の活動的な自然諸契機 の構造によって制約されている。 ……社会的に労働する人間が、どんな自然により条件 づけられた契機に『出合うanschlagen』か、それを制約するものは、勿論、社会的に発 展した生産諸力(労働の技能、科学及びその技術学的適用、労働組織、生産されたる生産手 段の範囲及び作用)の全体である。書しかし、その社会的形態における労働過程の変化が、
如何なる方向に行われ得るか そして一般に、斯かる変化が行われるか否か一それは 生産する人間の恣意に由来するのではなくして、社会的にその際『到達し得る』ところ の、自然により条件づけられた生産諸力の態様、多様性及び組合せに依存するのである。
……アのことから、問題の社会的側面のみを専ら問題とする経済的発展の分析は、何れも 不完全であり、不具的であり、誤っていることが解る。」
一一斯くして、我々は再び振出しに戻ったわけである。いわば、認識論的に云って、(或 程度、存在論的にも!)、ウィットフォーゲルとゾムバルト両者間には、殊更に区別し得べ き何ものをも見なかった、と云ってよい。お互いの体系に「神学」、「形而上学」なる符牒を 投げ合い、批難・排撃し合うことは、その実、不生産的にして退屈極まる遊戯というべき である。この点、ゾムバルトはヨリ大人であった。(ウィットフォーゲルには、マルクス 主義者の通弊というべぐ一存在論と認識論の混同がある。)ここにおいて、ゾムバルト の次の言葉は(改めて)生きる! 「意志の自由の仮定は、この聯関においては本体論的
(形而上学的)判断を意味するのではなく、論理的(「超絶的」)判断を意味する。この 仮定のみが文化科学を可能ならしめるのである。(そしてこれを仮構Fiktionと解する
か、実在と解するかは個人の勝手である。)この仮定なくば、我々は形而上学に陥ってし まう。即ち我々が人間意志の中に神の摂理が働いていると考える場合には善い形而上学 に、又素朴な宿命論に魅せられる場合には悪しき形而上学に陥るのである。」
と云って、以上、我々は、ゾムバルトに立寄ることによって、全く無駄な作業を続けて 来たわけではない。ウィットフォーゲルの体系、そして方法を問題とする我々にとって、
の
就中重要な収穫は、ゾムバルトの体系に所謂交互作用に必要な準備に等しいものを十二分 野見出し得たことである。
大別して、それらは二つの問題群に集約され得る。
第一に、ゾムバルトは、彼の「経済体系」を文字通り統一体Einheit(全体Ganzheit なる統一体)として把握し、その歴史或は発展を尋ねることによって、有機体説の一種
(まさに、マルクスにおけるが如きもの)を、その結構に潜めていることである。(証明 略。実際、ゾムバルトが有機体説的構想を彼の体系に考慮したことについては、彼の研究
者にとって、自明とされていた、周知の事柄なのである。マルクス体系の有機体説的性格 については、拙稿「「弁証法と有機体説」その他参。)そして、斯かる面のゾムバルトと マルクスとの親縁……ゾムバルトがシュモラーの『綱要』やウェーバーの遺稿『経済史』
……凾ノついて述べた言葉一「この人々の著書の賞讃すべき点は、その統一的な論述で あるが、それはマルクスの発展に関する形式を基準的理念として採用したことに基づいて いる」(r高度資本主義時代の経済生活』序言)一一は又、ゾムバルトの体系自体につい て、あてはまることなのである。なるが故に、ゾムバルトは更に続けて次の様に書き得た のである。「本書の目的が、マルクスの著書の継続であり、無意味ではその完成であるこ とを、はっきり主張してもよい程である。彼の世界観を私は強く否定し、又現在一概にマ ルキシズムと呼ばれ持難されているものを強く否定するものであるが、同時に、私は彼を 資本主義の理論家及び歴史家として衷心讃仰している。 ……本書の中に勝れた点がある ならば、それはすべてマルクスの精神に負うものである。」
ウィットフォーゲルは、その著『支那の経済と社会』序言に書いている。「政治的及び 哲学的マルクス主義の紛う方なき仇敵、ウェルナー・ゾムバルトは、その主著の結論にお いて、次の如く確認せざるを得なかった。彼が云うには、経済史家にして経済理論家たる マルクスをr無条件に讃嘆する。』そして、rマルクスの提出した諸問題は、今日も尚我 々の問題とするところである。その天才的な問題の立て方によって、マルクスは、経済科 学のために、爾後一世紀間に亘って、実り豊かな研究の道を指示した。その問題の提出し 方を把捉し得ないすべての社会経済学者は、悉く一我々が今日既に現実に認定し得る様 に一一不毛に帰してしまった』、と。 ……ドイツにおける最も有能な近代的ブルジョア 経済史家の偽らぬ告白一経済理論並びに経済史の範囲においては、マルクス以外の如何 なる問題の提出し方も不毛に帰したというこの告白一……。」
次に、即ち第二に、一そして、このことが、我々の当面、最も重要なことなのだが一一、
ゾムバルトが、「経済の概念を構成する基礎成分」として、経済志向、秩序、技術の三つ を挙げていることである。「経済の理念……経済は人間が楽園より放逐された際に課せら れた使命、即ち額に汗してパンを喰う、換言すれば自然力と絶えず格闘しつつ、窮乏と満 足、『需要と供給』との間の不断の緊張Spannungにおいて、彼の人生の大部分を費す
という使命を表示するものである。もし我々が経済のこの内容を完全に汲み尽すならば、
この中には常に三つの構或部分が含まれていることを見るのである。 ……経済志向……
被整序性Geordnetheit……技術・・…・。」
我々は、単なる人間として自然に対向するのではなく、正確には、社会において自然に 対向するのである一一即ち何らかの意味での組織において。しかも、一一個人が頭 headと手handを必要とする如く一一定の意図、即ち経済志向と一定の技術を内に蔵
して1!
而して、ゾムバルトにおける以上の点を整理するならば、我々に必要な語彙は\少くと も次の五つを含むものでなければならぬ。即ち一「人間」、「自然」、「経済志向(精
神)」、「秩序(組織)」、そして「技術」である。それらを基礎として我々は「パン」
或は「需要と供給」を考慮し得るのである。
奇しくも(?)、シュムペーターは、その著『理論経済学の本質と主要内容』に、その
一連の適確な(彼の場合、常に適確であるが)把握をなしている一彼の所謂「『経済的 諸量』……依存関係」(即ち「パン」と「需要と供給」の問題 それら自体純粋経済・
「自己完了的な体系Systernを形塗している」、これである)との関聯において一。
「経済学体系の依拠する基礎を分析するならば、人は『人間と自然』という言葉をもって 特徴づけられる二群の与件を見出すのであろう。 ……この両者の間には相互的依存関係 が存在しているから、それらを相互に簡単に対立せしめ得ないが、しかし理論の或種の目 的のためには、この点を無視して両者を独立的なるものと看倣し得ることも我々の知れる ところである。 ……しかしながら、以上の与件だけでは決して充分ではない。例えば、
一定の経済状態を説明するためには、尚技術の一定状態が与えられなければならない。
・…ナ後に尚、経済の具体的形成に対して1ま、経済主体がその上に立つところの組織 Organisationが決定的に意義あることが注意された一このことを強調したのは確かに 又歴史学派の一つの功績である。 ……糠斯くして、何れかの国民経済に対し、適切に
も『国民経済の発展条件』と名づけられた上述の諸契機が与えられ、その上国民経済に一 定の諸生産財が備っているとすれば、そのとき経済学の問題は、これらのものから一切の 価格・所得及び生産せられる享楽財の数量を見出すことであるであろう。」
如上における様な、経済の基礎(タールハイムの所謂nat廿rlichen und gese11scha−
ftlichen Grundlagen der Wirtschaft)と「本来の理論」との関係について、私は、学 生当時、「歴史学派」……ウェーバー、ゾムバルト、ゴットル……タールハイム……酒井 正三郎氏(その他 ウィットフォーゲルを含む)一一就中ゾムバルトを参考にし、次の 様な図を纒めた。(説明略)
欲
求( 人 巳
1経 …
1←1 一一→
1↑ ll}
1 1
←一@ 済 「1
技
術 →
資
源
欲 求(人口)
道 徳 秩 序
経
済
精 神
技 術
資 源
←
「自覚的」契機
→ 「自然的」契機
「国土と国民とは、その中で自然的諸条件が運動するところの二つの圏である。 ……
国土が経済生活の態様に対して規定的となり得るのは、植物の栄養物であれ、飲物であ れ、土壌が蔵するところのものによってである。又気候により、その地勢により、その内 り
部組成によってである。 ……国民は確かにかなりの程度まで人間の手に懸る形成物であ り、その限りにおいて、その性質は経済生活の文化的条件として価値づけられねばならな い。しかし尚それはすべての文化に対して自然からの所与をなし、一つの(強力に働きか ける)自然的条件でもある。住民は二つの方面から経済生活の態様に影響を受ける。即 ち、世界観、実行力、気質を決定するところのその血統による影響と、密度、年齢構成、
増加率に現れるところのその数量関係による影響と。」(ゾムバルト)
ゾムバルトに「人間」(「国民」)と「自然」(「国土」)があることは、当然彼に所 謂Wechselwirkung(「交互作用」、殊に生物における「代謝機能」一先々シュムペ ーターの言及せる如き・ウィットフォーゲルにおいて最重要の)の考慮があるであろうこ とを、我々に予測せしめる。
宜なるかな、ゾムバルトは彼における経済の理念即ち「生計の配慮Unterhaltsf廿rso・
rge」を、斯かるものと「して、その初め(主著『近代資本主義』第一章、第一節)に説明し
ている。「あらゆる生物と同じく、人間は、その生活を維持するためには、物的自然の諸 成分を以って絶えず自己の個体的存在を補足せねばならない。彼はこれを消耗するため
に、これを外界から取り入れて自己の欲望目的に適合させることに努める。人間が原初的 な生計手段を越えて欲望の範囲を拡大し、『文化的欲望』において新たな欲望圏をつくり 出した、ということは程度の差をなすに過ぎない。動物界と錐も、極度に多様な量及び質 によって段階づけられた物財的欲望をもっている。 ……すべての生物を通じてそうであ るように、人間も又、自己の生活の依存する物財の調達に生活力の一大部分を捧げる、と いう必要の前に置かれている。彼を取巻く自然は彼の欲望に比すれば控え目であるが故 に、彼は『自己の欲望の充足』を心掛けねばならない。 ……地上の全生物に共通な特徴 であるこの生計の配慮は、一つの規則的な循環Kreislau.fをなして現れている。この循 環は欲求する生物と彼等が消耗するために必要な物との自然的性質に基づくものである。
外界の自然の対象物は取り入れられて欲望目的に適させられる。鳥は羽毛を取って来て揃 えて巣にする。彼はその巣をrつくるbaut』。我々はこの第一の行為を生産と名づけ る。財は、生産された後には、その用途(消耗)に向って導かれる。鳥は取って来た虫で 雛に夫々餌を与える。即ち我々の謂う分配の行為である。次に財は使用され又は消耗され
る。消費の行為であって、これには必然的に再び生産行為が続かねばならない。生産
(『作出Erzeugung』)一分配一消費(『消耗Verzehr』)は斯くて絶えず反復さ れる。地上から最後の生命が消えて無くなるまでは。」
いわば、ゾムバルトにおいては、例えば、通常我々の所謂純粋経済学において皮相・軽 薄に語られる「循環」(「生産」や「消費」)さえもが、一遥かに深遠・厳重な生物学 的実存の言葉で一意味深く語られていると言わなければならない。「生活はそれ自体一 つの循環である。」「経済が過程として秩序として考えられる時、それは普通に社会的生 産物の生産と消費の循環として見られることが一般的な通念である。しかし……物財の循 環は、一方において、その基礎にある国民労働力の形或とその消費という生活の循環を可 能ならしめるものとして存在していることを見落す者があれば、それは大きな謬見であ
る。」(酒井正三郎『国民経済構造の基礎理論』)
ゾムバルトにおける如き体系が他の学説殊にマルクスに相対、或は重復せしめられるこ とは、最も興味ある課題と云わねばならぬ。而して、我々は、本邦におけるユニークなマ ルキズト経済学者の一人、置塩信雄民の叙述(「経済学の課題と方法」、神戸大学・経済 経営学会『経済学研究のために』)に、その様な、換言すれば、ゾムバルトにそっくりの
マルクス(解題一私のマルクスへのアプローチの一つに極めて近い)を発見するのであ
る。(事柄の正確な意味では、ゾムバルトがマルクスにそっくり、と言うべきである。)
「人間は、自然の発展過程において発生した生物の進化過程で出現した生物の一種属で ある。それ故、人間が自ら存続してゆくためには、全ての生物が、その存続のために行っ ている基本的営みを行わなくてはならない。 ……いつれの生物でも自らの系systemを 維持してゆくためには、外的環境を程度の差こそあれ、自らの系の均衡を保つために、制
生 物 ←
→
自 然
御contro1出来なければならない。そのために、生物は、単に外的環境から働きを受サ るだけではなく、能動的に外的環境に働きかける。この能動的な制御活動こそ、生物存続 の条件である。 ……人間も、勿論、この外的環境に対する能動的制御活動を行うことな しに存続出来ない。人間は、この制御活動を、他の生物とは決定的に異る仕方で行うこと によって、外的環境に対する制御能力を著しく高めて来た。外的環境に対する人間の制御 活動の特徴は、
(1)意識的活動であること(thinking anima1)、
(2)生得的な器官によるだけでなく、自らが変形させた自然(生産用具)を用いての 活動であること(too1−making animal)、
(3)個人的・孤立的な活動ではなく、社会的な協働的活動であること(social ani−
ma1)、
にある。 ……この三つの特徴は、互いに並列的で無関係ではない。人間が意識的行為を 行い得るためには、人間が社会的協働を行い、道具をもって自然に働きかけるということ が基礎となっている。又、人間が道具をもって自然に働きかけるためには、人間が社会的
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協働を行い、人間の大脳が発達して意識的行為を行い得ることが基礎となっている。従っ て、つづめて云えば、人間が社会的 協働によって自然と闘うことが、人間が外的環境に対
して著しい制御能力をもつことが出来た根拠である。 ……人間がどの程度の自然に対す る制御能力をもつかということが、今度は逆に、人間がどの様な社会的協働活動を行う か、どの様な生産用具を用いての活動を行うか、どの様な意識的行為を行うかを規定す る。 …… 人間の行う意識的な自然に対する制御活動を生産活動、労働という。上述 から解る様に、この活動は、人間存続のための絶対的な条件である。 ……人間はその存 続のためには、自然に対する制御能カー生産力を高めてゆかねばならない。その能力の高 まりにつれて、人間の自然制御は、大局的globa1なものになってゆかざるを得ない。
……@ 人間が、他の生物と決定的に異る程度に自然に対する制御能力をもち得たのは、
……l間が社会的な関係を取結んで、自然と闘ったからである。生産を廻って取結ばれる 人と人との関係を生産関係という。 ……人間社会が、どの様な生産関係をもつかは、偶 然的であったり任意であったりするわけではない。ある特定の歴史段階で、発生し再生産
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される生産関係がどの様なものであるかを規定する主要な要因は、その段階で人間社会が もつ自然に対する制御能力二生産力の状態である。」
更に、置塩氏は、今一つの別の機会(座談会「現代経済学への道」、有斐閣「書斎の 窓」5,月号)に説く、「生産力というのは、 ……ヨリ根本的には人間の自然を制御する たあの能力であり、それは、人間が他の生物より抜きんでる根拠になり、又人間が、類と
して自然との一線を回復する基礎である。 ……歴史をもって動いている大自然の中で人 間が小自然として生きてゆくという時に、人間の自然に対する適応能力(生産力=自然制 御能力)それ自体が、歴史をもたなければ生きてゆけない。」
斯かる意味で、氏によれば、「人と人との結び合い」のみを考える行き方、換言すれ
ば、「自然と人間との早りということを中軸として」見ることを忘れた論議一「最近、
大学紛争などの中で現れている思想状況」の如き一は、「根の浅い観念的なもの」
(「主観主義」)と評されるのである。この点、社会継親の彼岸に、所謂「黄金製の便 器」を約束した同志レーニン(将又、エンゲルス、カウツキー、トロツキー……)も、同 様批判に逢着するというべきか。(ゾムバルトはrドイツ社会主義』の中で、「社会主義
の神話的基礎」として本問題の一端を取扱っている。)しかるに、他方、祖師マルクス ー「マルクスは、人間関係を考えるのに、人間と自然の中でその存在を確かめていくに は、人と人との関係はどの様でしかあり得ないか、という形で段階的に押えていった。」
「労働は、すべての社会形態から独立せる人間の一存立条件であって、人間と自然との 物質代謝Stoffweche1を、従って、人間の生活を媒介vermittelnするための永久的自 然必然性である。」(マルクス『資本論』)
「自然と社会を差別と統一において理解することに、史的唯物論の精髄は尽きると言っ てよい。」、(向坂逸郎『経済学方法論』)
ここで置塩氏の提示した問題、「人と人との結び合い」と「自然と人間との関わり」と の関係については、実は、ウィットフォーゲルに既に、しかも極めてシビアな(マルクス 主義の所謂大物にして及第しかねる程の)ものとしての、その言及があるのである一生
産様式の生産関係への優越において!
「生産様式なる概念の意義」、その通常における曖昧さに関連づけて、ウィットフォー ゲルは云う、 rr生産の仕方』、 r物質的生産の仕方』、 r物質的生活の生産様式』とい われるところのものの地位及び意義が、必ずしも正しく受取られていない、ということ
と、次のこととは関聯がある。即ち、この概念(生産様式なる概念)を分析する際、及び 事実誤った技術主義的見解に対して論駁する際に、正しい考えの中核が抹殺されたり一 それに対応して、具体的な歴史究明の際、概念の軽視が行われたり(クノウCunow)一、
もしくは、この概念の中では、社会的側面が『優越的』であると主張する際、この概念は 叙述の全体系において従属的な地位に押しやられ、従って、生産力の概念との聯関及び生 産関係なる概念との聯関が明瞭でなくなったり(カウツキー)、或は又、それどころか、
生産様式なる概念と、生産関係なる概念之が簡単に混同されたりしている。(最近、再び タールハイム及びマンハイム。)これらに対しては、生産の仕方と生産関係とは、絶対的 に区別さるべき範躊であり(このことは、両者が弁証法的な相互依存の関係にあることを 妨げない〉、そして、生産の仕方は規定的な契機das bestimrnende Momentであり、
これから生産諸関係の態様と変化が導き出される、ということが、指示さるべきである。
…∵生産様式なる概念においては、社会的な契機が考慮のうちに入れられる必要があると
はいえ、社会的に労働する人間の自然に対する関係が前景にある。(これに反し)生産関 係なる概念にあっては、屡々労働技術的な・自然に向けられた側面が同時に考えられてい るとはいえ、事物の社会的側面が前景にある。前者の側面は制約する側面であり、後者は 制約された側面である。 ……常に先づ、社会的に労働する人間の自然に対する関係が、
次に始めて、人間相互の関係が問題となる。」
以上の叙述において置塩氏の底本となっている(と思われる)のは、マルクスの『資本 論』、『ドイツ・イデオロギー』……一殊に『ドイツ・イデオロギー』における次の諸
、節(最小限の)である。
「すべての人間史の第一の前提は、勿論生きた人間的個体の生存である。従って、確認 され得る第一の事態は、これら個人の身体的組織と、そしてこれによって与えられるとこ ろの、その他の自然への彼等の関係とである。 ……すべての歴史記述は、これら自然的 な基礎と、歴史の行程での人間の行動によるこれらのものの変更とから出発しなければな らない。人間は、意識によって、宗教によって、その他任意なものによって動物から区別 されることが出来る。しかし、人間自身は、彼等が彼等の生活手段を生産produzieren しはじめるや否や、自分を動物から区別し始める。 ……あらゆる人間的存在の、従って 又あらゆる歴史の第一の前提……人間は『歴史をつくりGeschichte machen』得るため
には、生きてゆくことが出来なければならぬという前提……ところで生きるのに必要なの は、何よりも先づ、食うことと飲むこと、住むこと、着ること、その他黒いくつかのこと である。従って、第一の歴史的行為は、これらの欲望を満すための手段の生産、即ち物質 的生活そのものの生産である。しかもこれは、ただ人間の生命をつなぐためにも、今日尚 数千年前と同じく日々刻々やり遂げられねばならない歴史的行為であり、あらゆる歴史の 根本条件なのである。 ……ところで生活の生産は、労働における自己の生活の生産も、
生殖における他人の生活の生産も、そのまますぐに二重の関係として一一方では自然的 な、他方では社会的な関係として一現れる。ここに社会的というのは、どんな条件のも とにしても、どんな様式によるとしても、又どんな目的のためにしても、幾人かの個人の 協働という意味である。ここから次の事が明らかになる。即ち、一定の生産様式或は産業 段階はいつも一定の協同様式或は社会的段階と結びついており、この協同様式がそれ自身 一つの『生産力Produktivkraft』であるということ、そして人間の達し得る生産諸力の 量:は、社会的状態を制約し、従って『人類の歴史Geschichte der Menschheit』はいつ も産業及び交換の歴史との繋がりにおいて研究され、論究されねばならないということで ある。 ……人間が歴史をもつのは、彼等が彼等の生活を生産しなければならないから、
しかも、一定の様式でそうしなければならないからである。このことは、彼等の身体的組
織によって与えられなければならない。彼等の意識と同じように。」
一如上のマルクス『ドイツ・イデオロギー』よりの援用中、我々は殊更に次の一節を 抽出する。「すべての歴史記述は、これち自然的な基礎と、歴史の行程での人間の行動に よるこれらのものの変更とから出発しなければならない。」・一この一節にこそ、ウィ
ットフォーゲルは、自らの体系の或否を賭けたのである。
『支那の経済と社会』序説に云う、 「我々の研究は、史的発展の経過中に、支那の生産 過程、従って、この生産過程を通じてその社会組織を規定した生産諸力の研究をもっては じまる。さて、およそ生産諸力なるものには社会的側面の外に、自然的な一画面がある。
かの前者は、生産過程の内部において積極的な因子即ち『父的』要因を、後者は『母的』
に受動的な要因を形成する。前者は、実践的に活動しつつある人間が彼等の歴史を、彼等 の経済史をも又、自らつくるということを示す。しかるに、後者は次のことを示す。成 程、この様に活動的な人類が、彼の歴史を自らつくりはするが、しかし、それは、人類に よってつくられなかった全く特定の諸条件の下に、即ちその具体的姿容は社会的労働の生 産性と態様とに適応して変化するが、しかし、それらを構成する諸要素の一切の機能の諸 推移にも拘らず根本的に不断に作用を及ぼし、従って社会のより以上の発展の態様に対し ては尚決定的であるところの自然諸条件の下においてであるということ、従ってマルクス はこう要求する、r一切の歴史叙述は、これらの自然的諸基礎、しかも、この自然的基礎 の上に、人間の活動が歴史過程において如何にそれを変更するかということから、出発し
なければならぬ。』」
或は云う、「我々は『現実的生産過程』、即ち、社会的に労働する人間と自然との物質 代謝から出発すべきである。『従来のすべての歴史観は、歴史の斯かる現実的な基礎を、
全然捨てて顧みなかった。もしくは、これを附属物としてしか考察していない。斯くし
ロ
て、自然に対する人間の関係は、歴史から排除され、従って、自然と歴史との対立がつく り出される。』 ……多くの本質的に非進歩的な経済史のみでなく、進歩的な人々によ る経済史的一社会史的労作の全んどすべてが、ここに提起された要求を満足させていな い。」 「マルクス的歴史分析の本質的な道具は、史的唯物論である。我々は、他の機会 に、マルクス史的唯物論の特定の核心的要素が、一プレハーノブとレーニンとを除い た 殆んどすべてのマルクス主義学徒によってさえも、如何に閑却され、看過され、誤 解されているかを、明らかにした。この書で、我々は、マルクス的研究方法を、その完全 な唯物論的非妥協性の下に、適用せんことを努力する。それ故に、我々の研究において
ロ
は、生産様式という範疇が抑も、その創始者(マルクス)が、それを与えようと考えた、
中心的な地位を取戻している。生産様式という範疇と共に、生産諸力なる範疇が、中心に 向って現出する。更に、この生産諸力なる範疇の内部では、社会的な生産諸力と並んで、
それと共に、自然によって条件付けられた生産諸力をマルクス及びエンゲルスが意味した