株式利廻と株価収益比率 : 株式価格の当否を判断 するものとして
その他のタイトル Stocks Yields and Price‑Earnings Ratios : Can These decide the Propriety of Stock Price ?
著者 今西 庄次郎
雑誌名 關西大學經済論集
巻 5
号 4
ページ 411‑427
発行年 1955‑07‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/15756
4 1 1
ー 株 式 価 格 の 当 否 を 判 断 す る も の と し て ー
併し中心をなすのは牧益 本来︑株式価格の当否は夫々の株式の価値を以て判定すべきである︒株式価値の本質如何︑その大いさは如何に 定まるか等は仲々六カしい問題であるが︑こ 4 ではそれらは既知の知識としてよいと思うので︑そのつもりで述べ
る こ と 4
す る
︒
大 体
︑
株式価値︵投資価値︶は牧益価値と市場性価値の二つから成る︒
価値であり︑その大いさも殆どこれによって定められるので︑その意味では一応株式価値は牧益価値から成るもの
と考えても差支えはないわけである︒牧益価値は株式所有に対し一定の利益が分配せられるによって所有者に認識
される価値であり︑その大いさは配当力を株式一般の対価歩合を以て資本化したものとして与えられる︒配当力と
は︑大体世間で云う︑適正配当に該当するもので︑会社の挙げた利益を基とし︑それを会社の実力に応じた社外分
配率を以て株式に分配さるべき配当である︒即ち︑配当力も会社の牧益の大いさが基礎となるのであるが︑単純に
それに比例するものでなく、その利益の内容'~例えば臨時牧入によるものが加つているか否かなど'~の低か、
株式利廻と株価牧益比率︵今西︶
ま し
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き
株 式 利 廻 と 株 債 牧 盆 比 率
今 西 庄 次 郎
多いとみられるのである︒ 会社の積立金の大小︑事業の性質ー好況不況の変化が激しいか否かなどー│'事業並に業界の将来性等の会社の実 力を充分に考慮された分配高である︒知らるるように︑牧益価値の正確な算定は厄介であるが︑然も需要供給の数 量が偏らないなど市場の情勢が所謂ノーマルであれば︑株式価格は価値中心に決定されるのが本筋であるのだ︒換 言すれば︑大体に於て株式価格は価値通りになる性ど正しいのである︒斯くて株価の当否批判は当然に価値を以て なさるべしとなるのである︒
処が︑世間では株式価値に就いては充分な研究をなせる者が少く︑否株式に価値あることすら考えない者が寧ろ
あ ろ
う か
︑
而して彼等は株式価格の当否を判断するに利廻
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又は株価牧益比率
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を用いんとしている︒特に︑株価牧益比率は︑アメリカでは早くから用いられているが︑我国で
はここ二︑三年来のことであり︑利廻に代わるものとして珍重がられている︒然らば之等による株価判断は可能で
又正確であろうか︒
註我国でも実際界の人々︑時には学者などで投査価値の言葉を使うものがないではない︒併し彼等の投喪価値概念は全く通
.俗的なものである︒例えば︑彼等は︑投下資金の放率︑即ち配当金に対する投下資金の大きさの割合を示すところの利廻が 株式の投資価値を決定する︑というふうに述べる︒之等の人の考えている投資価値は︑投贅妙味とか投棗余地という内容に 該当する︒併し株式の投贅価値は株式の有つ実質的なねうちであり︑投資妙味とは別である︒所謂優良株で扱賓価値の大な るものは大抵の場合価格も大であり︑残された投資余地の少いのが普逍である︒斯くて︑正しい解釈に於ては︑利廻で投査 価値をみたりするなどは全くナンセンスとなるわけである︒而して投賓妙味はその本体︑価格と価値の開きにあり︑従てそ れは価値をみることによって判定されるのであるが︑利廻によってもそれをみることが出来るというならば︑これは頭から 否定さるぺきことでない︒たゞ︑果して充分にみることが出来るか否かが残るのである︒結局︑これは吾人の︑株価を批判 するものとしての利廻というテーマを︑換えたものとなるわけである︒
株式利廻と株価収益比率︵今西︶
株式利廻と株価牧益比率︵今西︶ . 一応目的が達せられない 一般に知られているように︑株式利廻は配当の株価に対する割合である︒その配当は一カ年分︑ つまり一ヵ年に
各株式に対して分配せられる金額であるが︑それでも株式価格に比べては其の額は小である︒云う迄もなく︑株式価
一体︑配当と株価との関係と云えば配当を分子とし株価を分母とする
関係に於てしかみられないというものでなく︑逆に株価を分子とし配当を分母とする形にてもみられ得る︒併し資
本の効率をみるものという目標を達しようとするには当然に配当を分子︑株価を分母とする形をとらねばならない
のであり︑斯くて生まれたものが利廻であるのだ︒利廻は元来斯の如きものなるに於て︑その分母として用いられ
る価格は時価たるべしとは限らない︒例えば三年前或る株式を買入れた或る投資者としては︑何より彼の買入価格
に対する資本炊率が問題となるがゆえ︑現在の株価は兎も角買入株価が分母とせられるというふうである︒勿論︑
斯る算定は︑許されるというよりも︑寧ろ本来的であると云つてよかろう︒併し利廻は又︑現在の価格を分母とし
て算定することが多く行われるのである︒これは投資者の買入価格では利廻算定は個別的なものとなり一般的に発
表せられるものとならないというような事情からでなく︑今後の投資態度の決定に役立たさんがためである︒例え
ば或る株式に投資すればいくらの資本炊率となるかを知らんとするが如くである︒
上の如く利廻は本来は資本の炊率をみるものであり︑それは前記の如く取扱われても︑
ではないが︑今後の投資態度に役立たんとする場合には︑単に或る株式の株価に対する配当の割合をみるだけに止む 格は配当に対し元本に該当するからである︒
(‑)
株 価 利 廻 論‑‑‑‑‑‑ ‑‑‑‑ ‑‑‑
• —---
・ ・‑‑一‑‑‑‑‑ことには何等変りはないのである︒ 斯くてもっと精確に指摘せんとするには︑ 平均利廻を以て当該株式の配当を除
し︑之と株価とを比較するやり方を行うべきである︒平均利廻を以て配当額を除せばその株式のあるべき価格とな
り︑之と現実の株価とを比較されるところ︑幾許高過ぎ又は安過ぎるかが最も明瞭に示されるのである︒利廻によ
る株価批判としては当然ここに進むべきであるが︑このやり方は一般に余り行われないようである︒尚︑このやり
方は︑最終的に正当とみられる株価を出しそれを以て株価を批判するので︑既に利廻による株価批判でないとの印
象を与えるかも知れないが︑利廻︑延いて平均利廻が基となっているのであるから︑利廻を以てする株価批判たる 過ぎることが判るぐらいである︒ の
み で
︑
その精確な程度は指摘されない︒ その株式の一︱ 0 円という株価は一 0 バーセント余り高 株式利廻と株価牧益比率︵今西︶
べきではない︒蓋し或る株式の利廻だけでなく諸他の株式の利廻をも算出しそれらの比較をなし始めて資本妓率の
好い悪いが云われ︑投資態度が決定されるからである︒而してこの場合資本炊率の好い︑即ち利廻の高いのが選ば
れ る
の は
︑
一面から云えばその株価が安過ぎるから︑又資本炊率の悪い︑即ち利廻の低いのは株価が高過ぎるから
という見方も成立つところである︒利廻を以て株価の当否を判断せんとする者はこの性向を援用するものに外なら
ず︑即ち多数株式の利廻を夫々算出し︑それらを平均した平均利廻を求め︑この平均利廻を基準として夫々の利廻
を比較するやり方がとられるのである︒一例を挙げると︑或る株式の配当年額一 0 円にてその株価︱
1 0
円という
場合︑その利廻は O・0 九となるが︑平均利廻を求めて O・O 八を得れば︑それが高利廻なることが知られ︑その
株価は安過ぎると判定されるが如くである︒
利廻を以てするこの株価批判のやり方そのままでは︑株価が高過ぎるか安過ぎるかその大体の程度が窺知される
上 例
の 場
合 ︑
四
ヽ
就中取引所機構によって与えられる公定相場となれば︑ 正当なる大いさから逸する可能性を有つのである︒ 配当はいつも過去のものとなる始末である︒
否 ︑
五
前段は利廻の本質とそれによる株価当否判断のプリンジプルであった︒確にそれは株価の当否を判断し得る性格
を有する︒併し深く研究すれば︑利廻がその性格を発揮することは容易でなく︑正確な株価判断は仲々望まれない
ことを知るのである︒
一般に利廻計算に於ける配当は前期のが用いられる 9 ために我国の如く会社決算が半年或は一年となっている所
では︑決算期直後を除いては配当は旧いものとなる︒否︑或る決算期の成績︑延いて配当が内定するのは決算期末
から少くとも一カ月ぐらい経過するのが普通であるので︑決算期直後と云つても現在の配当は用い得ないのであり︑
ある︒凡そ株式価格なるものは常に現在の配当を目標としてきまらんとするのだ︒然も今更云う迄もなく︑利廻に
よる株価批判は配当を基準としてその当否を判断せんとするものである︒従て︑配当が旧いのでは利廻による株価
判断はその佑きを有たずとなるのである︒
株式価格は本来その価値によって規定されるものとしても︑人気や需給関係等によって曲げられる余地も多く︑
わ け
で あ
る ︒
併し株価も市価︑
れたものとして可成り正当さを有つのである︒従て配当の方が余程正当さを有たないと︑利廻は株価を批判するよ
りは寧ろ配当を批判するものとならんとするのだ︒つまり利廻は株価を批判するものとは限らず︑配当を批判する
株式利廻と株価牧益比率︵今西︶
(二)
而して配当がこのように旧いと株価を批判することは出来ないので
この故に其の当否の批判が必要となり又これが行われる
多数の需給を集めて作ら
416
力としなければならないのである︒ 株式利廻と株価牧益比率︵今西︶
ものともなるのであり︑その何れとなるかは配当︑株価の何れが正当なるかにかかり︑より正当なものが他を批判
する力を有つとなるのだ︒
右に述べたところにより︑
と︑利廻によって株価批判を行わんには分子の配当を株価以上に正当なものとしなければならないことを明瞭にし
得たと思う︒然らば利廻形式に於て株価を批判するに足る正当な配当とは如何なるものであるべきであろうか︒勿
論これは何より現在の配当でなければならない︒現在と云つても決算期日以前ではそれは予想される配当となるこ
と素よりである︒処で︑ この所謂今期配当としては二つが浮ぶ︒既に知られるであるう如く︑一は今期会社が現実
に行うと思われる配当であり︑他は会社の現在の牧益と会社実力から帰結される配当である︒前者の現実配当は必
ずしも会社の牧益︑実力に応ぜず︑政策的考慮の加わることのあるものである︒例えば冨増資に備えて牧益︑実力
以上とせられたり︑前途の不況を恐れて余りにも牧益︑実力以下とせられるが如くである︒而して一部の人は現実
配当は活きた配当である︑ 一般に行われている如き前期配当を用いる利廻によっては株価の批判は出来ないこ
つまり実際の配当として投資者はそれを目標として進退するとして︑寧ろこの配当を支
持する︒併し投資者が目標とするというもそれは投資知識の低い経済社会や時代の事であり︑進んだ社会では通用
しないところである︒殊に現実配当の適正配当から外れた部分は一時的のもので永続せず︑やがて剥げるのである︒
この点から株価批判目的の利廻に於ても︵株式の牧益価値は現実配当が対象とならず︑適正配当を資本化したもの
であるが︶矢張り現実配当よりも適正配当の方が適当となり︑厳密に正確を期するならば︑是非適正配当即ち配当
以上︑利廻方式による株価批判では分子の配当がキイとなりそれが適当なものでないと充分な成果を得られない
六
で あ
る ︒
七
ことを論じたが︑問題は更に他にも存する︒それは或る株式の利廻の高過ぎ低過ぎを決めるのに一般平掏利廻を用
いる点である︒改めて云う迄もなく︑利廻による株価当否の判断は株式の利廻を基準的な歩合と比較して下される
のであるがゆえ︑その歩合が正当なものでなければならないのである︒然るに︑各株式の利廻を平均したものは余り
正当性を有たないだ︒凡そ株価の中には所謂増資プレミヤム含みのものがあり︑勿論之等の株式の︑配当に対する
利廻は小とならざるを得ない︒即ち或る株式の利廻が基準利廻と比較し甚だ小なる場合︑凡てが不当な価格と判断
されず︑増資プレミヤム含みでないかの判断も下されるところとなり︑過小利廻はそれとして意味を有たないので
ないが︑今それを加えて算出した平均利廻は一般の利廻を批判する基準利廻として正当性を有たないこととなるの
である°'素より之等の株式の利廻を除外しての平掏も考えられないではないが︑増資が確定し公表されているもの
ならば兎も角︑然らざる銘柄は増資の予想はついても増資の条件まで予想出来ないのが通常で︑それを敢えて予想
すれば恣意に流れることとなる︒然も斯る株式︑延いて利廻は常に或る数があり︑何百種という往どに多数の株式
の利廻を材料として算定するようにしても︑な低平均利廻は正当なる基準性より外れたものとならざるを得ないの
右により平均利廻の方法は実際には正当な利廻水準を仲々得さすものでないことを知り得たと思う︒併し平均利
廻の短所は尚それ以外にも存する︒云う迄もなく︑平均利廻の基準性は︑投資者全体の︑株式に対し与える対価歩合
は適当であるという前提に立つている︒けれども投資界の動向如何によっては︑資本全体の対価体系︑就中資本証
券全体の対価体系に於て株式としてあるべき正当な対価歩合を踏み外すことがあるものだ︒例えば株式人気の強い
ときは︑その社会として社債利子歩合に対し株式対価歩合の当然有つべき歩合差を超え株式が買進まれることある
株式利廻と株価牧益比率︵今西︶
‑‑‑‑‑ -—-••--
いので相当手間がいり︑ ︵株価批判が多数の株式に就いて要求されておらず︑ 一︑二の株式に就いて行われるとき 株式利廻と株価取益比率︵今酉︶
が如し︒斯の如きときは︑平均利廻は︑仮令増資プ>ヽヽヽヤム含みなどなく技術的に都合よく算定されるとしても︑
全証券との関係に於て株式のあるべき正当な価格を判断せしめるに足る基準利廻とはならないのである︒結局︑利
廻方法による相場判定のファクターたる基準歩合としては︑利廻を離れ︑その時その社会に於ける一般資本対価歩
合全体に於ける株式対価歩合のあるべき大いさを決定して用いるに如かずとなるのである︒
利廻による株価当否の判定方式の価値を吟味するに先立ち︑ それが正確さを発揮し難いことを一言して置いた
が︑上来の論述により納得されたと思う︒而してそれが正確さを発揮しない原因は配当と平均利廻の点にあり︑そ
れを完全なものにせんには︑配当を配当力即ち適正配当とし︑平均利廻の代りに株式一般対価歩合を用いるべきこ
とが明かにされた︒処で︑斯う結論した場合そこに気付くのは︑或る株式の配当力を決定し︑株式の一般対価歩合を
確定したとするならば︑何故利廻方式を用いねばならないのか判らなくなるということである︒蓋し配当力と株式
一般対価歩合があればぞの株式の牧益価値が得られ︑価値と価格との比較という一層︑否最も正確な株価当否判定
が出来るからである︒たゞ︑或る株式につきその配当力を決定すること︑株式の一般対価歩合を確定することは何
れも仲々容易な業ではないのである︒平均利廻の算出も各株式の利廻を一々計算しそれらを合計しなければならな
一層面倒臭く感ぜられるで は︑それでも平均利廻を出すために多数の株式の利廻を計算しなければならないので︑
あろう︶︑株式一般対価歩合の算定とその面倒さは変わらないかも知れない︒併し配当力の方は前期配当に比べて
( 三 )
I~
`
九
は勿論︑今期予想配当に比べその算定は仲々手間がいり︑面倒さは比較にならぬほどである︒即ちこ 4 に簡単に株
価批判をなさんとする目的から利廻方式は生きる余地を有つのである︒素よりこれによる判断は不正確なるを免れ
ない︒けれどもこれは我慢しなければならないところである︒上述した如く︑正確なる活用をなさんとする努力は
利廻方式による株価当否判定は︑大体の結果で我慢するならば︑簡便なものとして生きるという結論に就いて︑
呉々も注意して置き度いのは︑その算定に於ける配当は少くとも今期の現実配当とすべきことである︒この理由は
既に利廻方式の吟味論で触れたところで︑最早云う迄もない︒若し我国一般に行われる如く︑配当に前期配当を用
い︑基準歩合として平均利廻を用いるが如きやり方をとるならば︑それは何等株価批判をなし得るものでなく︑寧
ろ配当を批判︑説明する能力を有つものとなるところである︒
•株価の当否判定方法としての利廻論は前段で尽きるので、それ以上に入らなくてもよいわけであるが、利廻に関
する全般的な吟味という角度から︑序で乍ら述べて置こうと思うことがある︒それは利廻による配当批判である︒
利廻が配当を批判する性格をも有つこと︑殊にその算定に於て配当が前期配当とせられるが如きときは寧ろ配当
批判方式となることは︑前々段並に前段に明かにされた︒'一言にして云えば︑その根拠は︑株価︑殊に取引所の如
き機構で生まれる相場は多数の需給︑即ち需給者の判断によって作られたものゆえ当該会社株式のあるべき配当が
株式利逼と株価牧益比率︵今西︶
( 四 )
'‑・‑‑・ 一・・‑・‑‑・‑・‑
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り使い得るというのが︑利緬
l方式となるのである︒ 利廻方式そのものを喪わすに至るからである︒結局︑ 一言にして云えば︑余り正確でない大体の判定で我慢する限
合とする方を選ばねばならないとなるのである︒ が
あ る
︒ 株
式 利
廻 と
株 価
収 益
比 率
︵ 今
酉 ︶
盛られており、表面上の配当ーー前期配当或は今期会社が行わんとしている配当ー~をそれと対比すると自らその
当否が現されるというところにある︒つまり表面上配当が至当以上であれば利廻は標準歩合より大となり︑表面上
配当が至当以下であれば利廻は標準歩合より小となるのである︒即ち利廻方法による配当批判の材料となるのは当
該株式の価格と標準歩合である︒勿論その方法を実炊あらしめるためには︑之等の材料を精選しなければならない
が︑価格の方は実物市場上場銘柄なればその相場︑取引所上場銘柄なればその相場を用いるようにせよという外に
論ずべき事はない︵実物市場︑取引所に上場せられていず正確な市価の立たぬような株式はこの方法を用いる資格
はないわけである︶︒併し標準歩合の方はそれとして如何なるものを用うべきであるかに就き︑吟味︑論議の余地
前の利回方式による株価当否判断に就いて述ぺたところからは︑それとして平均利廻と︑利廻を離れて決定され
る当該社会の株式資本の一般対価歩合とが考えられる︒そこでは︑基準歩合としては株式一般対価歩合の方が正当
であるが︑その決定が面倒であり︑より簡便という点から平均利廻を採用する根拠を見出したのであった︒併し今
配当批判に当ってはその取捨論は通用しないのである︒蓋しへ若し株式一般対価歩合を獲得すればこれと株価とか
ら当該株式のあるべしとされる配当額が算出され︑これと表面配当とを比較してその当否をきめることが出来︑利
廻方式による必要がなくなるからである︒換言すれば利廻方式による配当批判たるを続けんには平均利廻を標準歩
以上︑利廻方式による配当批判では平均利廻を用うべしとして︑その平均利廻は凡ゆる株式の総平均利廻よりも
事業別平均利廻の方が選ばるべしとされるのだ︑ これは︑既に知れる如く︑適正配当は︑当該会社の牧益高を基と ︐
1 0
で あ
る ︒
しというところであろう︒ し
つ
4 も︑その牧益の内容︑その会社の積立金の大小︑当該事業界の性質等に応じて適当とされる分配率によって
決定されるのであり︑事業界の如何も適当な配当を規定する︱ファクターとなるところに基くものである︒事業界
の如何により適正配当が異ならざるを得ないのは︑事業界により景況を甚しく変化するもの︑余り変化しないもの
あり︑又将来発展の望みの大きいもの︑少いものありて︑企業の堅実化を計る必要があるからであること︑附言す
る迄もないであろう︒配当批判の標準利廻として事業別平均利廻を用いる場合少し問題となるのは︑同業会社が少
く信頼するに足る平均利廻の出し難い例のあることである︒︒結局斯るときは総平掏利廻を参考にするより仕方な
最後に念のため一言して置き度いのは︑利廻方式による配当批判は︑右の如く平均利廻に於ける工夫などをして
も︑正確な判断が出来るものでなく︑所詮大網に止まることである︒即ちこの方法により或る会社の配当が低過ぎ
ることが見出されたとしても︑直ちに増配を至当とするとなし得るとは限らず︑会社の積立金のエ合などの会社基
礎の点からそのま 4 が妥当であることもあり得るが如くである︒或る会社の配当の完全な批判は矢張りその配当カ
を算定しそれとの比較に於てしか得られない︒たゞ簡便という点から用いるに足るというのが利廻方式であるわけ
註利廻の全面的な性格吟味を終えた此処で︑一寸世間の利廻の取扱い方につき批評して置こうと思う︒我国の新開︑雑誌︑
殊に新聞には毎週末に各株式の利廻表を掲げるものが多い︒併しそれをみるに何を狙つて褐げているのか解釈に苦むような ものが少くないのである︒株価批判の目的から褐げているのであれば︑配当は今期予想配当とすべきであるのに︑前期配当 のままである︒又配当を批判するのが目的かとみれば︑これに必要な平均利廻︑特に事業別平均利廻が掲げられていない始 末である︒吾人の吟味によればへ利廻はどちらかと云えば︑表面配当批判に使う方が好都合となるが︑この意味で︑平均利
株式利廻と株価牧益比率︵今西︶
---—·---—·---.•• —-- ••
一—ー・,.一 ̲ ̲ , , , ̲
‑‑‑一‑‑‑‑‑・・ー ・ ' .
率としては二つのものが使用される︒ 廻︑事業別平均利廻を是非潟げることが勧められるところである︒
株価牧益比率は一株当りの一カ年純益高を以て株価を除したものである︒云う迄もなく︑牧益と株価との関係を
表わすものであるが︑株価を分子とし牧益を分母としている︒株価が一株当り純益より小なることはあり得ないの
で︑結局それは倍数︑倍率とならざるを得ない︒而して何故そのような倍率を求めんとするのであるか︒単に株価
と牧益の関係そのものをみんとするというのでは余り意味がない︒それは株価の当否︑即ち高過ぎ安過ぎを判定す
るものとして存在理由を有つ︒この点︑前の利廻が本来は資本炊率をみるとなっていたのに対し︑株価牧益比率は
初めから株価批判のためのものとされ︑両者対照をなすところである︒
株価牧益比率は株価を批判するものとされるとしても︑勿論或る株式につきその比率を出しただけで直ちにその
判定が下されるのでなく︑標準的な倍率を決定し︑それと比較して判断するのである︒つまり或る株式の倍率が基
準倍率より大なる時はその株価は高過ぎるとなし︑小なる時は安過ぎるとなし︑又その大に過ぎる程度小に過ぎる
程度に応じ高過ぎ安過ぎる程度を知るのである︒而してこの株価牧益比率による株価批判方法のキイとなる標準倍
一は︑多数の株式の倍率を算出し︑それらを平均した直接平均倍率である︒
他の一は直接平均によらず︑株式一般対価歩合と︑牧益に対する配当の分配率とを以て間接に算出した標準倍率で
ある︒後者は次のプリンップルによる︒
株 価 牧 益 比 率 論
︑ ノ
一
︵ 株式利廻と株価牧益比率︵今西︶
後者の場合株式対価歩合は当該社会に於ける金利体系︑就中資本証券対価全体中に於ける株式に対する歩合を測つ
て決定されるところであるが︑牧益に対する配当の割合は多数株式に就いて行われているところを平均的に定めら
れるようである︒
扱︑この株価の当否を判定するものとして用いられるに至った株価牧益比率の価値であるが︑この場合にも第一
に指摘せられるのは︑実際に多く行われているような前期牧益では株価批判の能力を有たないことである︒此の点
は利廻方法に於て前期配当では価値がないのと同様である︒従て株価牧益比率が株価批判の機能を有っためには牧
益が今期のものでなければならないわけであるが︑今この点が満たされているとして吟味論を進めることとする︒
一部の人はこの方が利廻方式よりも株価批判として優れていると説く︒その論拠はまず次の如くである︒
株式が資本証券たるのは会社牧益の分配があるからであり︑牧益がそのまま株式の資本証券たる性格を規定する
株式利廻と株価牧益比李︵今西︶
(二)
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A 雷I I A 1 1 │
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ー ヘ . . . . —株式洵廻と株価牧益比率︵今西︶
ものでないこと勿論である︒併し実際に於て︑株式配当は今期配当でも現実のものは︑政策的に定められる範囲多
く︑我国などでは配当と云えば政策的にきめられるものと考えられるくらいになっている︒之に対し牧益の方は生
のましで真実に近い︒尤も最近は配当を政策的に行うため牧益そのものを加減して発表するという例がないでもな
いが●これは会計上の違反であり︑立て前としては牧益は飽く迄正しく発表されるものとしてよいのである︒尚︑
そのような場合︑仮令配当そのものは手加減されず牧益に見合う合理的な大いさとせられていても︑根源たる牧益
が真正でないのであるから︑配当も政策的たるのであり︑たゞ牧益も共に歪められているというに過ぎない︒斯<
て︑株価との間に於て配当と牧益の何れが正しい関係を有つかと云えば︑今日一般的には寧ろ牧益の方がましであ
右の見解は一応尤もである︒
ず︑その意味で純粋である︒従.つて牧益との関係に於て株価の妥当性をみんとすることは合理的である︒併しそこ
に問題となるのは︑ 株価は結局に於ては会社牧益に依存し︑
一体株価は牧益の何倍であるぺきものかである︒既に述べた如く︑これこそ株価牧益比率方式
のキイなのであるが︑これが仲々六カしいのである︒株価と牧益とは一定の関係を有たねばならぬとしても︑その
間隔は梢こ遠く︑標準的な倍率の獲得は容易でない︒確に平均株価牧益比率も一つの標準にはなる︒殊にこの平絢
は利廻方式に於ける平均利廻よりましな点もある︒利廻の場合の平均利廻は増資プレミヤム含み株式の不当に低い
利廻︵之はその株式としては当然であるが︶も合算されるので︑標準性の不充分なものとなり易かった︒之に対し株
価牧益比率にありては︑株価に増資プレミヤムが含まれるような株式の会社牧益は非常に高くなっている筈なので
余り偏依したものにならず︑従て之等を合算した平均率はそれとしてノーマルな大いさとなるところである︒最近 ることを認めねばならない︒
然も牧益は何等政策的な手が加わってい
一 四
ことも挙げ得ると思う︒
入 れ
る が
ゆ え
︑
一 五
︱つにはアメリカ模倣もあろうが︑我国に株主割当ての増資が
流行しプレミアム含みの株式が多くなり︑利廻方式に於ける平均利廻が標準として正確さを欠く場合が多くなった
けれどもこの平均倍率に対しては︑株価は牧益のみに規定されず︑金利によっても定まる点が充分でないと云い
度いのである︒証券市場の情勢如何では株式全体或は大多数のものが︑金利体系全体に於て株式が至当とする対価
歩合以上或は以下に評価されることなしとせず︑ために平均方法では株価の当否を根本的に批判するに足る標準倍
率が得られるとはならないのだ︒
或はこれに対しては︑標準倍率の算出には平均方法の性かに間接的な方法があり︑これは右の株式対価歩合を取
これによれば株価牧益比率方法も短所は除かれると云われるかも知れない︒成る程︑妥当な株式対
価歩合を考慮している点は一歩勝つている︒併し乍らこれによる標準比率でも依然正しくないのである︒その原因
一体︑株式会社が牧益に対し幾許を配当として
分配するが合理的であるかは一般的に云い得ないのである︒或る経済社会で或る範囲の会社が牧益の一定︒ハーセン
ト︑例えば五 0 パーセソトを適当な分配率として多年継続し︑それらの会社が破綻を見せず順調に進んで来たとす
れば︑大体それが適当な分配率のように考えられるであろう︒併しそれは或る条件の会社に当てはまるという相対
的なものであり︑何れの会社もそれに従ってよいというものであり得ない︒既に触れたとろであるが︑その利益が
経常的なものであるか臨時的要素のものが加わっているかにより︑会社の過去の積立金の大小により︑会社事業の
景況の変化性︑その将来性等により夫々分配してよい率︵勿論或る会社としても固定的でなく変化する︶は異なら
株 式
利 廻
と 株
価 軟
益 比
率 ︵
今 西
︶
は牧益に対する配当の割合を劃一的に取上げているところにある︒ 我国で株価牧益比率方式が用いられ出した理由は︑
‑・. ‑‑・‑・
一 ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ ‑ . . ‑ ‑ ・ 、 ‑‑ ‑ ‑ ・ ‑. .
一—-. . . . .
株 式
利 廻
と 株
価 牧
益 比
率 ︵
今 西
︶
右の如く述べると︑牧益と株価の間に株価は牧益の何倍たるべきかにつき一般的な比率がないとなり︑根本的に
は株価牧益比率による株価批判は成立たないと考えられよう︒正にその通りである︒ 一体︑利廻は配当から出発す
るものであるが︑配当となれば株価との関係︵利廻︶は各株式個別的でなく株式一般的たるべきもので︑従て一般
的な基準に接近するほどよいとされるのである︒併し牧益が出発点のときは︑牧益を配当すること︵率︶は株式個
別的であり︑従て牧益と株価の間に一般的な関係を求めんとすることは無理であり︑出来ない相談であるのだ︒結
株価牧益比率による方法は︑
︱ ヽ ノ
︱ ︱
︑
,
株価牧益比率方法は性質上正確に株価の当否を判定し得ずということから︑それが全く用いるに足らないとなし
てはならない︒そういうものであることを覚悟して用いるならば︑又用い得るからである︒既に知れる如く︑株価
批判の最も厳正な方法は各会社の配当力即ち適正配当と株式一般の対価歩合を以て株式価値を決定しそれを基準と
一般には簡便な方法が好まれるのである︒而して簡便な方法とし するやり方であるが︑
ては利廻方法もあり︑ る ︒ 局 ︑
性質上相対的な正確さで株価の当否を判断し得るに過ぎないとなるところであ
これは極めて面倒であり︑
これは元来成立つ方法として正確な結果を得られるよう努力してよいのであるが︑然も仲々
正確な結果が得られないのであった︒こ 4 に株価牧益比率を用い得る余地があるわけである︒
大ざっぱに云えば︑牧益の分配即ち配当が比較的合理的︵適正配当に近いように︶に行われているとみられる経 ざるを得ないからである︒
一六
註①
② が︑たゞ株価牧益比率の応用の全体を知つて貰う意味に於て︑ 済社会にありては︑利廻方法の方がましである︒この場合基本歩合として平均利廻よりも金利体系全般から決定さ れる株式対価歩合を用いる方が望ましいこと贅言を要しないであろう︒之に対し︑牧益の分配即ち配当が一般に合 的算定による倍率の方が望ましい︒併し以上二つの中間の経済社会︑換言せば︑牧益配当を不合理に行うている会 社と比較的合理的に行うている会社の混在しているような所では︑結局双方でみることにすればよいとなる︒この 場合︑配当が合理的であるか否かは各会社の配当牧益比率を眺めて判断する外ないが︑ とは呉々も述べた通りで︑ たゞ社会一般の形式的なものを用いるの外ないわけである︒
最後に︑株価牧益比率論の終りに附言して置くのは︑
株式利廻と株価牧益比率︵今西︶
一 七
この場合も平均倍率よりも間接
これに正当な比率のないこ
アメリカに於ける研究をみるに︑株価牧益比率は株価判断
に用いるよりも︑産業との関係︑つまり景気の推移とその動きというように一種の景気バロメーターとして用いられ
( 1 )
. ていることである︒例えば﹁牧益が低く将来に対する希望の有てないような不況時に︑株価牧益比率は最も高い﹂
( 2 )