株式の價値と價格の關係
著者 今西 庄次郎
雑誌名 關西大學商學論集
巻 創立七〇周年記念特輯
ページ 39‑56
発行年 1955‑11‑04
URL http://hdl.handle.net/10112/00022224
株式価値は計算物である︒こ4に計算物とはその大いさが計算せられるによってよく存在するものだという意
味である︒素より株式が価値を有つことは株式の性質上当然に齋されるところであり︑大いさを別にして兎に角
存在する︒併しその大いさを計算するによって初めて役立つのであり︑
而してこのように計算せられるによってよく存在するものであるためには︑前提としてそれが計算せられ得る
ものでなければならない︒然もそれは理論上確かに計算され得るのである︒この計算の詳細は株式価値の大いさ
株式の価値と価格の関係︵今西︶ き︑その存在がはつきり認識せられるのである︒
価 値 は 価 格 に よ っ て 確 定 せ ら れ る こ と も あ る
は し が き
株 式 の 債 値 と 債 格 の
小稿は株式価値の本質︑又その大いさは如何に決定せられるかを知つているものとしての論である°論じているうち に︑其の本質や大いさ決定に関する脱明の出てくる部分もあるが︑勿論既知の知識を説明●必要なる範囲に繰返すに
過ぎない︒
闊 係
^
.,
謂わば大いさを明かにするによって活
西 庄 次 郎
3,9
処で︑株式価値の大いさは理論上計算され得る筈であるとしても︑それは必ずしも常に容易だとは限らないの である︒吾々の研究によれば︑株式価値の主たる内容をなすのは牧益価値であり︑
社の実体資本の挙げつつある現在の利益の︑会社の企業実力に応じた分配額を株式の一般対価歩合を以て資本化 したものである︒而してこの適正配当の基である会社の現在の利益なるものは確に或る額として実存しており︑
計節出来る筈であるが︑それを計算する条件に恵まれていないのが普通である︒経営の内部にある者でも︑主脳 者以外の︑例えば部長とか課長と云われる人々でも︑会社規模の大となるにつれ︑現在自分の会社の利益がどの
況んや一般投資大衆や研究者の如き経営の外部にある者にとりて は︑会社の経営︑就中損益状態は蔽われ︑調査しようとしても仲々容易でない︒
その大いさは適正配当即ち会
註会社の利益が遮蔽されているのは︑利益が窺知し難い状態にあるからであり︑利益が誤魔化されているからでない︒
会社の利益は時として帳簿●膜魔化されていることがある︒期るときは︑仮令見え易いようにされても真の利益は掴めないわけである︒併し斯る利益の隙魔化しは正当な紐済問題以外の事項であり︑ここには取上げない︒つまり利益は誤魔化
され
てい
ない
とい
う前
提に
立つ
こと
とし
てい
る︒
れは会社の現在の利益を掴むことの困難であるが︑更にそれを適正な分配とするための企業実力の判定も亦容 易でない︒云う迄もなく︑会社の企業実力は会社事業の利益の確実さ︵消長甚しいか安定しているか︶︑
よさ︵租立金の大小︑他人資本と自己資本の均衡︑流動棗本と固定資本の釣合など︶︑生産技術の優劣︵生産設備の良否︑技
璽者陣の内容など︶がフ/クターとなって与えられるところである︒之等のファクターは大体外部から窺知し得る 程度であるかは正確に知り難い場合がある︒ 論に属し︑吾々としては既にこれをなしている筈である︒
経理内容の
40
ところであり︑現在の利益状態の如く遮蔽されていない︒けれどもこの場合は︑
それらのファクターを綜合して
一定の企業実力となすのに明確な尺度がない︒大体夫々のファクターも五階級ぐらいに分たれ︑綜合された企業
実J J
も優良︑可良︑普通︑下等︑劣悪の五階級ぐらいに分たれるところであるが︑具体的に或る会社の場合︑牧 益の確実さは優良クラス︑経理内容は可良クラス︑生産技術の媛秀さは普通クラスというとき︑綜合としての企 業実力は可良か晋通か簡単に判定出来ないところである︒既に会社の現在の利益が明瞭でない上に︑
に分配する企業実力の判定が六カしく個人的見解では決し兼ねるとせば︑適正配当即ち配当力は︑
舞出来るとしても︑その正当なる数字を実際に獲得することは容易でないわけである︒配当力がこのようである からそれを資本化した牧益価値が仲々計算せられないとなること︑容易に納得せられよう︒
株式の価値は牧益価値と市場性価値より成り︑
それを適正
理論的には計
その市場性価値の大いさは当該株式の市場性の大小に応じ牧益 価値を拡大する形にて与えられる︒この事も吾々としては既に知つている筈である︒而してこの市場性価値に就 いては︑主たる牧益価値の計算難を述べたので最早触れないが︑それも仲々厄介なのであり︑結局株式価値は愈 然らば株式価値の大いさは計算出来ると云うも︑
理論上可能なるに止まるものであろうか︒謂わば絵に画いた 餅のようなものであろうかというに︑必ずしもそうと限らないのだ︒上述の如く価値計算に於ける実体資本から の利益の適正な分配其他は個人的には判定が六カしいとしても︑それは色々な角度から見ている人の見解を綜合・
すれば大体正当に近いものとなる︒従って問題は多数人の見解の綜合となるが︑価値の計算そのものとしては個
株式の価値と価格の関係会今西︶
々計算難となっているのである︒
./Ill
(I)
別的に行われ綜合が達せられないのである︒たゞ価値はそうだとしても︑恰もその綜合の仕事を実行しているも
市価は市域︵広義の市場を指す︶内の多数の需要供給が綜合
して出来上るものであるが︑今株式の場合需要︑供給は何れも直接或は間接に株式価値を目標としており︑
らの結合したもの︵即ち市価︶は自ら当該株式の価値に関する意見を闘わし︑
需要︑供給は大別して投資的なものと投機的なものとなり︑投資的なものが専ら価値中心に行動するのは勿論と
して︑投機的なものも︑一部に市場に於ける需給の嚢関係︑取組み関係などを目標とするものもあれ︑多くは価
アメリカに於ける証券市場に関する著術︑投資に関する書物の中に︑
( 1 )
ける︒これは何を指称せるかと吟味すれば殆ど市価の謂である︒
値の外部に現れたもの即ち
Ma rk et Va lu e
だというわけである︒ 切衷したものとなるのだ︒
してよいと思う︒要するに︑或種の株式に就いては直ちに価値を明瞭に計算すること困難となり︑
例 え ば J u l i u s G ro d i ns k y , I n ve s t me n t ,
19 53 . P . 55 1.
C h ‑ e r l e s A mo s D i ce an d W i lf o r d J oh n E i te n m an , T he St o c k Market
,
19 52 . P . 41 7.
市場に於ける価格を通じて判定出来ることとなっているのである︒ 値を問題として行動するところである︒ のがあるのだ︒株式の市価これである︒周知の如く︑
その大いさは 斯る用法は上来論述したところから一応肯定 つまり彼等によれば市価は内在的な
( m 庄
n s i c
) 価 ょ
v‑ Ma rk et Va lu e
という言葉を見受 株式の それ
42
株式の価値と価格の関係︵今西︶ 前段の如くであると株式の価値は価格によって全きを得るが如くに思わすかも知れない︒前段に述ぺたとこるは確にポ実であり間違いでないが︑全面的真理ではないのである︒矢張り一般的には価値あっての価格であるのも︑価格は生命を有つものでなく︑それは価格をつくる者即ち取引者が価値を目標としていることに外ならぬ︒
尤も取引者が価値を目標とすると云つても一般の取引者が株式価値の本質︑その大いさに関する明瞭な知識を有
つて臨んでいるとは限らないが︑少くとも価値を規定するファクターを取上げ価格を検討するとこるである︒然
らば何故取引者は価値を目標とするのであるか︒これは価格は価値通りになるのが正しいという信念を有つてい
るからに外ならぬ︒何れにしても株式価格は価値を目標とする︒斯くて価格の存在する前に必ず価値が存在しな
価格の存在する前に価値が存在しなければならないとして︑前段の冒頭にも一言した如く価値は大いさを有つ
て活きるのであり︑その為にはその大いさが計算されなければならないわけである︒而してこの大いさは実際に
も可成り計算され得るのである︒前段に於てはその計算は理論上可能であるが︑実際上困難であることを述べた
ので︑今実際にも充分計算され得ると云えば矛盾するようにも思われるであろう︒併しそうでない︒実際に於て ければならないとなるのである︒ それは何故であるか︒ だ ︒凡そ株式価格は価値を目標としている︒
併し一般的には価値あっての価格である
素より価格は価値を目標としていると云つて
43
ある
︒
その計算の実行の六カしい場合はある︒その故に第一段の如き事が述べられたのである︒けれども凡ての場合株 式価値の大いさの計算が実行上困難というのでなく︑充分に計卵され得る場合も少くないのてある︒勿論この計 算が実行上可能な場合にても努力をしなければならず︑努力をしない者はその大いさを得ることは出来ない︒投 資大衆には斯る人が少くない︒但しこの努力をしない者も価格は本来価値通りに定まるのが正当だという考を有 つていないとは限らない︒そういう考を有たぬ者もあるかも知れないが︑多くは矢張りそう考えているとみられ 以上︑株式価格は価値を目標とし︑価格の存在する前に︑価値が存在しなければならないこと︑
いさは一般に計卵せられることを述べたが︑
具体的な市場を有たない機構の下に出来るも
これによって価値あっての価格であることは理解せられたと思う︒
但し右だけでは価値あっての価格ということは未だ強く云えない︒が︑
‑ I M
強める事態があるのだ︒それは現実の株式価格が必ずしも正当に価値通りに定与されていないという事態で 一般的に云えば︑株式の価格︑就中市価は大体その価値通りの大いさにならんとする︒云う迄もなく価格は需
要と供給の結合によって生まれるものであるが︑之等の需要︑供給は既に知れる如く夫々価値を理想としそれを
目標として値段を申出でるのである︒市価と云つても色々あり︑ る ︒
その価値の大
そこには価値あっての価格ということを
の︑実物市場機構の下に出来るもの︑取引所機構の下に出来るものによって夫々客観性は一様でない︒勿論或る
株式の市価が何等の具体的市場を有たずに﹂M
てられた場合よりも実物市場の機構の下に立てられた場合の方が︑
株式
の価
値と
価格
の関
係︵
今西
︶
い 拙 著
﹁ 証 券 市 場 論
﹂ 昭 和 二 八 年 一 月
更に取引所の機構の下に立てられた場合の方が客観性がより大で︑
C 1 )
その意味で正当な大いさとなる︒今価値との 関係に於ても客観性大なる市価ほど価値通りに近いものとなる筈である︒蓋し既に知れる如く株式の需要︑供給 には目的からみて投資的なものと投機的なものとあり︵双方とも当初出発的なものとその完了的なものとあり︶︑後者 は謂わば価格専門の需給として価値より外れた価格が現われようとするや次第に出動するのであるが︑
場︑就中取引所となるに従い夫等の需給が多く参加するからである︒何れにしても株式価格は可及的に価値通り
にならんとするに於て︑
その大いさを規定するものは当該会社の利益状態と資本金利の歩合となる︒而して会社 利益状態は︑大体︑国民経済一般の景気︑就中︑会社の営んでいる事業界の景気によりて左右され︑又当該会社 の経営状態によりても変わるがゆえ︑この三つがファクターとなるわけである︒
七七ー七九寅
一寸横道に外れるが︑学者の中には株式価値の存在を認めるも︑
価格が規定せられることを認めない︑
以上の吾人の所論と異り︑其の価値によって
( 1 )
つまり価値を通して価格をみない者がある︒例えばレフラーによれば︑株 式価格は︑経済実質的なファクター
( B u s
i ne s
sF
un
dament
al
s)
として会社利益︑会社配当︑株式分割
( St o
S p c k
l i t s
)
利子
歩合
︑ 工業生産︑商品相場︑国民総所得︑建築景気
( Bu i
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A ct i
v it y
︑)
新規
投資
︑
ストライキ︑株式利廻︑
株価牧益比率等により︑更に政治的事情
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や市場に於ける技術的事情
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I 8gh巳
F ac t
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. !. よって規定せられる︒併し右の経済的なフアクターの中の利子歩合までのものは株式価値として結 集せしめられるのである︒結局︑此種の見解は︑株式価値に関する認識が固まつておらず︑延いて株式価格決定
実物市
40
の事情を価値中心に明快に説明し得ないものと評さざるを得ないのである︒
Ge
or
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. L
L e f f
l e r ,
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,
19 50 .
P
P. 47 2
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49 7.
株式価格は以上の如く大体は価値通りの大いさ︑即ち正当に定まらんとする︒けれどもそれは大体であって︑
一言で云えば︑価格は価値が静なる計算物であるのに対し需要供給の結合に
よる力の産物であるというところに基く︒先ず︑需要供給の結合によって生成する以上︑その時の両者の分量関
係が価格の大いさに響かざるを得ない︒需要即ち買物が供給即ち売物に比ぺ遥かに多量なるときは︑需要の中の
比較的高値の申出値段のものと供給が結合することとなり︑出来る市価は正常な価値よりも上に外れんとする︒
供給過多のときは逆に下げる圧力が仇き正常な価値よりも下に外れんとする︒斯る株式需要供給の分量の偏るこ
一般国民経済の景気の上昇︑不況の場合に限らず︑景気尋常の場合にも時々見るところである︒併し株式
価格が力の産物であるということを招来するより著しい事情は︑投機需給の活動である︒元来︑投機的な需給は
投資的な需給よりも性質上︵つまりそうしないと価格変動に乗じて儲け得ないので︶株式の真価判断に積極的であり︑
又概して判断もましである︒この故に株式需給に投機的なもののあることは出来上る市価を正当にするに役立つ
として来たのであって︑これは飽く迄事実である︒併し一面に於て投機需給のために出来る市価が却て不当にさ
れることもあるのだ︒否︑株式価格が不当となる最も大きい原因はこれにありと云つてよいのである︒先ず︑投
機需給の中にはその目的を達せんと策動するものがあり︑強引に買占めたり売崩したりせんとする︒取引所の如
き機構がつくられ︑そこで相場即ち市価が立つようにせられると︑ と
は︑
常にそうでない︒何故であろうか︒
(1)
一定の資金を以て多量の思惑をなし得るので
心
株式
の価
値と
価格
の関
係︵
今西
︶
其種の投機︵私は積極的投機と呼んでいる︶の行われる機会を増すわけであるが︑他面に於てはそれに対する反対投
機も現れ易いわけで︑全般的には強引な買占め︑売崩しを不成功にし︑寧ろその投機の行われる率を少くするこ
と確である︒それにしても︑一時的乍ら︑株式市価を乱すことは矢張り免れない︒次に︑投機需給に就いては上
記の強引なもののほか弱小マパラ投機の影響も無視出来ない︒殊に取引所機構の下に於ては︑取引所なき場合に
比べ此種の投機が断然多くなるところである︒
多数のマパラ買投機︵強気投楓︶が行われているとき︑市価の急騰すぺき事情が起り急騰せんとするときはマバラ
は早く利喰せんとし争うて転売に転ずるがゆえ︑市価は当然上るぺきに拘らず余り上らないこととなり︑又反対
に市価の急落すべき事情が起り急落せんとするときはマパラは吾れ一に売逃げんとするがゆえ︑市価は下るべき
( 1 )
以上に下落するのである︒
拙著﹁前褐書﹂七九ー八一頁
株式市価が常に正当とならないのは価格が需給の結合による力の産物たるがゆえであるとして説明して来た
が︑投資や投機大衆の会社業績や投資価値に関する偏った報道による出動の影響も無視出来ないところである︒︸
斯る偏した価値材料を提供するものとしては会社関係者︑経済調査機関︑証券業者など色々あり︑之等の中には
調査が粗漏というよりも故意に誤った知識を流布するものもある︒先に投資投機大衆の中には株式価値の計算に
努力しない者のあることを一言したが︑努力しないというよりも斯るまどわされた価値知識を以て売買する者の
方が多いとなしてよいであろう︒但しこの大衆のまどわされた行動は︑社会の調査機関の科学化︑又道徳化によ
(1)
マバラ投機は相場変動に対する対応力︵抵抗力︶が弱く︑例えば
47
つて次第に少くなり︑延いてこれによる株価の歪む事例は少くなるとみて宜い︒
以上により現実の株式価格が正当に価値に近く定まらないことの本筋は説明せられたが︑今︱つ指摘出来る事 態がある︒それは︑株式の市場性が大となるにつれ︑
その市場性価値は大となるに拘らず市価は却て低まるとい う事象である︒既に知れる如く株式価値は牧益価値と市場性価値が複合したものであり︑
これ迄述べて来た株式 の価値という中には当然市場性価値も含まれていたわけである︒従って今特に株式の市場性価値だけにつき価格 がそれと背離することを取上げるのは︑価値と価格の関係の特論と云えば云えるであろう︒
株式の市場性は株式の数鼠︑その分散度︑株式の人気度等によって規定せられるところであり︑数量が多く︑
分散度の大なるほど市場性は大となる︒而して市場性の大となるにつれ︑その株式の価値の大となることは云う 迄もない︒処が︑市場性が大であり︑当然価格が大でなければならぬ株式をみるに︑その価格は︑牧益価値が同 じくらいの株式で市場性の少い株式に比ぺ︑却て低いのである︒
加による圧迫である︒それは兎も角︑
この原因は︑市場性のフアクターたる株式の数 量︑分散度が大となるにつれ売あせりが大となり︑これが圧迫的な力となるところにある︒世間で云う浮動株増
市場性が大で市場性価値の大なるべき株式の価格が却て安いということ は︑価格が必ずしも正当に与えられない一つの証拠として挙げられる次第である︒
籾︑上来色々述べたが︑株式の価格は価値通りに定与されない
A﹂とは明かである︒初めに︑価値あっての価格 ということは︑価格が必ずしも正当に価値通りに定まらないことによって一層強められると云ったが︑今やこの 意味は容易に理解せられると思う︒価格が十分価値通りになるものであれば︑価格に先立ち価値を知るという意
48
うか
︒ 価値との背離は一概に不当と云えないのである︒然らばそのような価格の性質として如何なるものがあるてあろ ば︑株式価格は価値通りにならない性質をも有ち︑或る範囲に於て価値と開かざるを得ないと共に︑それによる る ︒ 場的に与えられている当該株式価格をそれと比較し︑ 前段に述べた如く株式価格はその価値通りになるほど正しいのである︒或る株式につきその価値を計算し︑市
(1) 註
併しこの批判につき知らねばならないのは︑
その差の少いほどその価格は妥当と判定されるわけであ
株 式 価 格 に は 価 格 と し て の 特 性 も あ り
味だけに止まるが︑価格が必ずしも価値通りでないに於て︑その正当さを検討するものとして価値が是非必要と
なって来るのである︒吾々の社会現象に於てそれを批判︑評価するによって正当線に近附けるという事例が少<
ないが︑今株式価格も同様なのである︒株式価格は価値あってよく批判され︑次の時点に正当線に近附く方向に
向けられるのだ︒
吾々が︑株式価格は必ずしも価値通りにならぬがゆえそれを批判し正当に近附けるため価値の存在を論調するのに対し︑恰も逆に︑株式価格は価値通りにならぬがゆえ価値など考えるに及ばぬという態度をとる者のあるのは事実である︒かの︑株式価格の決定を価値を用いずして説明せんとする者などそれで︑>フラーもその一人である︹1)
︒併
し先
に述
ペ
て置いたように︑そのような態度は株式価値に関する認識が固まつていないのに某くものであり︑価値に腿する研究が
進め
ば吾
人の
如く
にな
る筈
であ
るの
だ︒
Ib id ., P . 5 4.
株式
の価
値と
価格
の関
係︵
今西
︶
株式価格には価格としての特性を有つことである︒要言すれ
蚊早云う迄もない︒ 夫等強弱を織込んだ価格が現在立たんとするのである︒将来︑ 株式価値の中心たる牧益価値は︑会社の実体資本から生t.礼る利益の︑会社の企業能力に応じた適正な分配を
株式一般対価歩合を以て資本化して求邑られるとして︑その会社利益は現在の実際利益たるのである︒この現在
の現実の利益という意味は牧益価値の大いさ論で明かにされるところであるが︑例えば六月末︑十二月末決算の
四倍︵今期即ち六月末までに尚四カ月あるがゆえ︶したものを加算したものが二月末現在に於ける今期の現実利
益とされるのである︑﹄三月以降六月迄に挙がる利益は現在即ち一月二月の利益状態よりも或は増加するであろう
し︑或は減少すろかも知れない︒併しそんな予想は一切加えず飽く迄現在に即せしめた利益でなければならない
のである︒牧益価値は斯く現実の利益を基礎としているに於てそれは極めて現実的な性格を有つこと云う迄もな
い︒処が︑この価値の現実的なるに対し株式市価は時間的客観性を有ち︑即ち将来を織込むものであるのだ︒需
給は凡て況在知られている︑将来株式価格を上げる材料又下げる材料を取上げて行動するのであり︑
係︑林式価値に影響する事態︑就中後者であり︑更に後者のうちでも会社の将来の利益状態の如何である︒株式
価格がこのように将来の価値状態を予想し織込むに於て︑
株式市価がこのように将来を織込むということは︑或る見方からすれば︑あやふやな性格を帯びるものとして
︱つの短所のようにみられないではない︒将来会社利益が好転するであろうとみる者が多くそれが市価に織込ま 会社で二月末に於ける株式の牧益価値という場合は︑
価格を上げ或は下げる材料とは︑
その大いさは現在の価値と背離したものとなること︑ 一月︑二月の利益額に︑
これにより
株式の需給関 それらを平均した一カ月分利益を
so
の方が多いのである︒加之︑
殊に価格の場合︑将来を織込むのはそれ相当の根拠ありてのこ れていたに拘らず︑予想された業績が実現せず︑時日の経つにつれ市価が引落すということもないではなく︑又悪化が見込まれていたものが適中せず︑市価が再び品騰するということもあり︑何だか要らぬ騰落を行うが如くである︒併し将来を織込んだ場合︑現在と将来との渡りがつき︑価格はそれだけ変動が均らされて少くなる場合
一般的に︑将来を織込むということは人間経済生活に於ける最も望ましき行為であ
り︵
貯蓄
など
狩来
に備
える
行為
は凡
てこ
れに
属す
る︶
︑
とであるがゆえ︑仮令予想が適中しなくても︑
価が将来を織込むということは︑何等短所などとみるべきでなく︑班ろ価格の一つの特徴ある性格と認識すぺし
となるのである
︵こ
れあ
るが
ゆえ
経済
社会
●色
4有益なる役割を演ずることすらある︒例えば狩来の事業界︑国民経済の摂
気を示すパロメーターとなるが如し︶︒斯くて︑価値を以て株式価格の当否を判断するに当つては︑
を織込むによる価値との背離はこれを充分考慮すべきであり︑
価格の正当性を断定すべしとなるのである︒
株式価格の特性として挙げるべきものに︑
がある︒株式の魅力のことは株式価値の本質論で取上げられる筈であるが︑
性である︒会社資本︑企業規模が小で︑会社の営んでいる事業が新しく将来発展が展望されているが如き会社株
式はそうでない会社株式に比べ好望であること︑誰しも認めるところである︒
の一部を構成し価値の中に入ると説くが︑︵株式価値の本質に関する企業価値説︶︑吾人は斯るものはその大いさを計
株式
の価
値と
価格
の関
係︵
今西
︶
それは無駄であり不当であるとは云えないのだ︒要言すれば︑市
この価格の将来
つまりこの不当ならざる性質に基く背離を除き︑
以上の将来を織込むことの仕か︑株式の魅力を受入れるという性格
それを齋す主たるものは会社の発展
一部の論者は之も株式の投資価値
lJI
花形株の︱つであるが︑特に花形株中の花形株で︑ 結論すべしとなるわけである︒ ら る規準がなく︑価値である以上︑
ぬと
なし
︑
四
一般の花形株が謂わば一国一城の主として当該株式独自の事
の 価 格
理論上その大いさは計算され得る筈という見地からそれは価値の材料︑源とな たゞ株式に一種の希望を有たす魅力となるとなす︒而して魅力は斯く価値以外のものであるとして も︑価値プラスa
として需要︑供給はそれを相当に考慮し︑結局市価はそれを﹁相当に買うた﹂ものとなるので 株式市価がこのように株式の魅力を相当に取入れることの合理的なことは︑議論を侯たずとも容易に納得せら
れる︒而して魅力は幾許考慮されて妥当なるかの基準がないとすれば︑或る魅力のある株式の価格がその価値か らいくら高くてよいかは︑寧ろ第一段の理論に従い︑市価を通じて社会が与えるところに求めねばならないとな る︒結局︑価値によって価格の当否を判断する場合に於て︑魅力ある株式に就いては又その背離を幾分群酌して
所 謂 主 力 株 株式の価値と価格の一般論は上来によって終えたのであるが︑
株並びに主要花形株と云われる株式の価格と価値の関係である︒主力株︑花形株の概念の詳細は株式市場論の範
( 1 )
囲に属するが︑株式市場に於て恒常的に取引が日々旺盛に行われている株式が花形株であり︑主力株も広義では
梢で騰落するのに対し︑ あ
る︒
その特論として述べて置こうと思うのは︑主力 一般的に株式市場の騰落の動向をリードする作用を有つものである︒主力株︑主要花形
/J2
註 (1)
株に就いてみられる著しい現象は︑夫等の価格がその価値より著しく割高であるということである︒その割翡は 先に述べた株式価格が価値通りにならないという理由によって説明し難い仕どである︒斯くてか一部の人は︑主 力株や主要花形株は一般の株式と異り価値以外に何等かのものを有ち︑
に価値と比較して割高を云うべきでないとの見方をなさんとする︒果してそうであろうか︒本段の目的とすると
ころはこの解明をなさんとするところにある︒
拙著﹁前褐容﹂︱C四ー︐ごい六頁
戦前株式会社飢織の取引所が行われ︑一方未払込株式制虻のとられていた頃︑東京や大阪の株式取引所経営会社の株式
の新株式ー︱ニ・五円或は二五円︑又は三七・五円払込ーが主力株となり︑その旧株ー五0円全額払込ーに比ぺ著しく割高現象を示し︑親不孝と呼ばれたこと世人の記憶に新なるところであろう︒例えば一割五分配当として旧株が︱二0円のときご一・五円払込の新株が一
0 0円
︑否
︱︱
1 ︱
0円もしたというが如くである︒後者が主力株はその価値に比ぺ著
しく割料となることの著例であること云う迄もない︒尚︑戦後我国株式市場に主力株ありやであるが︑疑問と云つてよ
いであるう︒主力株は株式一般の動向を指禅するという役割から︑その会社の利益が特定の事業界のみによらず専ら国
民経済一般の恨況によって敏感に左右されるものでなければならないが︑現在そのような銘柄は見当らないのである︒
平和平動産株が国民経済一般の掻況によって培減する株式商内に比例する会社利益によって動くようであるが︑敏惑で
なく︑又その前提としての商内も他の花形株に擢んでていない︒但し花形株は今日の我国株式市場にも存在する︒
主力株︑主要花形株の高価格を説明する一つの見解は︑それらの株式の市場性価値が一般の株式に比ぺ異常に 大であるとなすものである︒主力株︑主要花形株は日々旺盛なる商内の対象となっており︑その市場性が極めて 大であることは認められる︒併し株式の市場性によって生ずる価値としての市場性価値はそうどこ迄も与えられ
るも
ので
なく
︑ 一定の限度があるのである︒市場性価値の大いさが如何に決定せられるかの詳細は株式価値大い
株式の価値と価格の関係︵今西︶ その故に価格が高くなるのであり︑直ち
f53
て相場を動を掬得し得るという効用を有つ︑ 出米ないのが普通であるのである︒ 00 さ論に屈し︑弦には触れないが︑要するにその株式の牧益価値を拡大する形にて与えられる︒例えば牧益価値一 円の株式の場合その市場性が極めて大であると︑価値は
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円分が市場性価値となる︒而して市場性価値の加わった全体としての株式価値は︑その牧益価
に於ける株式対価歩合を確定利付証券即ち公社債の対価歩合を以て置き換えた以上
翌眼
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芽昂ー活溢宦沸喩 値即ち となり得ないのである︒即ち上例の場合︑配当力︵適正配当︶年二
0%
︑株式対価歩合年一〇彩︑一流公社債対価 今じ力株につきこの理論を用いて計節するもその価格は価値より遥かに高く︑異常市場性価値観を以ても説明
セJ
株︑屯要花形株の高価格を説明する他の見解は︑それに牧益価値並びに市場性価値以外の一種の価値あり と主張するものである︒要言すれば︑主力株︑主要花形株は日々相当の相場変動をなすがゆえ︑
一般の所聞雑株即ち投資株にありては配当所得が株式から牧め得る 利益であるのに対し︑主力株︑花形株がそれ以外に相場変動による利益を齋すとすれば︑
牧益価値以外の価値が成立せざるを得ないというのである︒彼等はこれを主力株︑花形株の投機価値と呼ばんと
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f底 歩合年八形とすれば︑
その売買によ(
それを基として粋通の
5‑4
株式の価値と価格の関係︵今酉︶ している︒併しそこに注意しなければならないのは︑主力株は売買によって儲け得る可能性を具えるとしても︑それは又逆に祖失となるかも知れないという点である︒可能性に大小あっても必ず儲け得るというのであればそれ は
iつの利益源となるであろう︒併し恰も逆に損失となるかも知れないというのでは︑相場変動性を具有する
ことは何等価値源とはならないのだ︒所謂投機価値なるものの存在しないことは他の方向からも説明される︒即
ち︑店し主力株の高価格が実質的な価値あってのものであれば︑買手としてその高い代価をも決して嫌がらず︑
翫ろ●舛んで支払う筈である︒然るに投機性に基く価格増加には買手として峯も有難つておらず︑ただ仕方なしと
時として︑投機価値の存在を主張する代わりに投機的腿力の存在を説くものがある︒価値である以上︑その大いさを計
算し得る筈であるが︑投楓価値なるものはその大いさを決定する廻論がない︒例えば配当力年一0
%の主力株の牧益価
値六0円︑市場性価値率一・三としても全価値七八円となるが︑価格が二
00
円というとき︑差額百何十円という投撰
価値は如何にして定まるかその大いさを説明し得る途がない︒併し価値でない一種の投楓的魅力が具つているとすれば
話がわかるというのが此の見解の根拠である︒前段の株式馳力論で要貫した如く︑軸力は価格に貢献するも説明し得ペ
き一定の最を有たないものである︒従って主力株に投楓価値の代わりに投機的魅力を見出さんとする見解は︑一寸まし
なようである︒けれどもこの魅力観も矢張り採り得ない︒蓋し主力株︑主要花形株の投楓性は相湯変動によって儲けさ
す方向だけでなく︑逆に損失を齋す可能性となっているからである︒改めて云う迄もなく︑株式魅力は必ずプラスの利
益に貢献するという性質から
U I るものであるのだ︒
以上︑主力株︑主要花形株の高価格を普通の価値以外に何等かのものを有つとして説明せんとする諸見解につ
いて論評して来たが︑知らるる如く何れも肯定出来なかった︒然らばその高価格は何によって生ずるのであろう
註
してその代債を支払うに過ぎないのである︒
55
な形
︶ 註
であ
る︒
か︒吾人のみるところによれば︑それは矢張り投機需給が株式価格を価値より外れさす現象の一っに外ならない
のである︒勿論︑普通一般の株式につき投機需給が時に作りなす価格不当を越えた特別に甚しいものである︒
投機需給が価格の変動に乗じ利得せんとするものであることは自ら変動性の大なる株式に偏集せんとする︒而
してその偏集が極度となれば投資需給の方は追々近寄らなくなり︑宛も投機需給がその株式を占領したような格
好となる︒主力株︑主要花形株は斯の如きにして生成するのであるが︑此種の株式は相当な価格変動をなす性質
を有たねばならぬからー̲ー既述会社利益が国民経済一般の景気によって動き易いということと共にーー・その値が
さが大なるものであらねばならない︒従て︑主力株︑主要花形株は当初は必ず値がさの大なる株式たるのである
が︑投機需給がそれを占領した形ともなれば︑やがてその価値が少くなり価格の位置が低まるべきであっても︑
惰性で可成りの価格位置を持続せんとするのである。これその価値を引離した一寸説明し難い大いさとなる~由
福田博士は人気株は一種の﹁価格慣性﹂
( Pr i
c e
I n e r
t i a )
を持つているとして説明しておられるが︑吾人と同じ見解に属
する︒福田敬太郎著﹁株式相場統制﹂昭和十六年四月七九ー八一頁
一寸注意しておいては思うのは︑価値を引離した大いさとなると云つても︑それは価値を無視した関係となる
と限らないことである︒絶対的大いさとしては価値通りでないとしても︑価値の動きに比例して︵針小棒大のよう
価格のきまる事例が多いのである︒否︑斯の如き価格のきまり方をするので有力な花形株︑主力株として
役立つわけである︒
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