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共同体としての中産階級

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(1)

61 

共同体としての中産階級

一一一一フォースターとハーデイ

中 村 英 男

9

世紀のイギリスにおいて家庭が特殊な空間だったことを我々は知ってい る。何故家庭が特殊な空間になったのかについてはおおよそ次のような合意が 形成されていると考える。伝統的な田舎の共同体という宗教による意味の充満 した空間にいた人々が資本主義の力によって都市の空間へと押し出される。そ の空間は意味が奪われた空間、あるいは金銭という意味だけが存在する市場と いう空間になっていった。その奪われた意味を求めるかのように人々がすがっ たのは家庭という空間だった。エヴアンジェリカリズムが女性を道徳的存在と して家庭の中心にすえる

(Ha1l59)0

女性を中心においた市場に対置する道徳 を有するかに見える空間が形成される。

この論文で見ておきたいのはその家庭という意味の基礎を中心に成立する共 同体である。宗教的共同体に代わって人々に生の連続性の感覚を与えるとアン ダーソンの言うナショナリズムと一回り小振りな同心円を描くように存在する 中産階級という共同体もまた、ナショナリズム同様、死と生に関わる人々の想 像力に訴えかけているという事実である。その共同体が

19

世紀および

20

世 紀初頭の小説の描く世界において、伝統的共同体が慰撫してきた不安、すなわ ち死の不安を統御するシステムとして機能していること、さらに

20

世紀初頭 に至るまで個人がイギリスにおいてそのようなシステムとしての共同体への抗 いという形で存在するものとして描かれているという点を確認したい。

中産階級という共同体の外にはネオダーウィニズムという無意味が支配する 優勝劣敗の死の世界が広がること、少なくとも中産階級の成員遠の視線におい てそのような死の世界が成立していたことをハーデイの作品

T'SoftheD'

Ube

rvi1les 

(以下『テス

j

と表記)の中で性的に逸脱した女性に向けられた中産階級出身

(2)

の人間の視線が例示している。中産階級から下方の階級へと降りたって妻をめ とろうとしたエンジエルは自分の出身階級の倫理を下方の世界に持ち込む。妻 となったテスから婚姻前の性的逸脱を告白されると彼はその衝撃をうけとめる ことが出来ず、就寝中に夢遊状態になって新妻の身体を抱き上げたまま

111

を渡 り石の棺桶に安置する

(TD195)

。中産階級の倫理から逸脱した女は彼にとっ て事実上死に至った存在となっている。夢遊状態での送葬はそれを表現する儀 式と考えられる。

エンジェルから事実上見捨てられ、物語の最終部分に至ってついに経済的事 情から絶望と共にアレックの愛人になったテスは、夫からさらにはっきりと死 の刻印を押されることになる。テスと和解しようとブラジルでの放浪から帰国 したエンジェルは法律上の妻が彼が信じる倫理から決定的逸脱をしているのを 知ると彼女を再び死体としてイメージする。

しかし彼はあることに(そのことが明瞭になるのは後になってから のことなのだが)うすうす気づいていた。彼の元々のテスが彼の目 にした自分の身体を精神的には自分自身のものと見なすのをやめて しまい、それを意志とは切り離された方向へとまるで川の流れの死 体のように漂うことを許していたということに。

(TD299) 

ここでテス自身が自らの身体を死体とみなしているとエンジェルが見たとい う点が重要で、テス自身は狩人に追われた鳥を殺してやる場面

(TD219)

な ど自然と自らを一体化する瞬間を経験しているのだが、彼女の内面は無視され 最終的にエンジェルの視線が支配することになるのである。

我々は

19

世紀英国人の想像力において性的に逸脱した女性が事実上娼婦と

見なされ、そして娼婦が死とつながるイメージで捉えられてきたということを

よく知っている

(Corbin211)

。実はコ

J

レパンが指摘するように娼婦のイメー

ジが死と結びつけられるのはそれ以外の様々な上位の階級の男性の本能的需要

を取り扱う仕事が下位の階級の女性に委ねられてきたという歴史的事実と関係

がある。上位の階級の女性が「肉体的文化

j

に対して嫌悪を募らせるにつれそ

(3)

共同体としての中産階級

63 

れらの仕事は下位の階級へと処理が委任されるようになっていった

(Corbin 213)

。そのために肉体に関わること全体が劣位の徴として中産階級という共 同体の外部へと排除されていく。女性の性的逸脱だけが下位の階級の徴なので はなくそれは他の様々な身体の兆候の一部なのである。

その点で額に汗して労働する身体もまた中産階級から逸脱する存在と見なさ れる。 r テス

j

発表の

13

年前

1878

年に連載された

TheReturn of the Natjve 

(以下

f

帰郷』と表記)においても死と共同体としての中産階級の問題が取り 扱われている。この小説では中産階級という共同体から排除されている人々が

その内側に入ることを夢見、憧れる様子が描かれている。この作品ではエン ジェルの考えを裏書きするように下位の階級の人々は上位の階級の内部に入る ことで死が不在となった状態を経験できると信じているかのように見える。

いずれにしても主人公クリムを取り巻く互いに敵対する妻と母の見方は中産 階級の内側に入ることの出来ない人々の見方を代表している。二人のクリムに 対する要求は完全に一致する。クリムが中産階級に復帰すること、二人の女性 はそのことに執着する。パリから荒涼とした田舎に帰還した主人公は妻および 母からの再三の要求にもかかわらずパリに戻って宝石商の仕事に就こうとはし ない。それどころか目を患った結果、故郷で教師になるという夢さえもかなわ ず、ついには木こりにまで(母や妻の目からすれば) r 身を落とし」てしま

う。妻や母が嘆く階級の転落をクリムは意に介さず、平気でいる自分をなじる 妻にむかい彼女たちが上位の階級の世界に入り込むことでかなえられると期待 するものを否認してみせる。クリムは中産階級という自分たちがそこから排除 された空間にもまた同じように今自分が有しそれ故に妻達に蔑視される労働す る身体が存在するとほのめかすのである。

人生を知れば知るほど最も偉大な地位にもさほど偉大なものがある

わけではなく、自分がやっているハリエニシダのきこりというつま

らない仕事にもとりたててつまらないものがあるわけでもないとい

うことがわかるんだ。自分たちに与えられた最大の祝福ですらさし

て価値があるわけではないと感じているとするなら、どうしてそれ

(4)

が取り去られたからと言って特につらいことだと思ったりするだろ う 。

(RN199) 

ここでクリムは死という言葉を直接口に出してはいなし、彼はただ木こりと 宝石商の聞には妻や母達が信じるような決定的な差異が存在しないと言うだけ である。妻達が信じる「祝福」がそれほど価値があるわけでなく、逆に侮蔑さ れる自分の肉体がそれほと、つまらないものというばかりでもないと言うだけで ある。しかし彼がそう言う時、死を抱えた身体が中産階級が自分たちと他の階 級を選別するためにヲ│いた線の内と外の両方に浮かび上がってくるのを女性達 は目撃することになる。財産も蓄えも持たず、それ故に一見死により近く見え る木こりの身体も、譲り渡す遺産を有し直接の労働から遠く離れているが故に 滅びるべき肉体が不可視となっていると見える存在も実は死から等距離にあ る。クリムの言葉は言外にそのことを妻に、そして母にほのめかしている。ほ のめかされた死、それが二人の女性に衝撃を与えるのである。

『帰郷J

という小説の世界がこのクリムの暗示する死の遍在という真理をめ く。って回転する渦であるなら、クリムの母の死も、そしてそれに続くユステイ シャの自殺もそれに巻き込まれることによって起こるものであり、クリムが中 産階級の魔法陣の中に入ることの本質的証意味さを暴き立てたことにより彼女 たちの死が生じているとみることができる。むろん母の死は直接的には不倫の 関係に陥ろうとしていたユスティシャが義母の突然の訪問の際、たまたま愛人 を部屋に招き入れていたために入室を拒んだことによるのだが、何故ユステイ シャが愛人を引き入れることができていたかと言えば労働の結果疲れ果てたク リムが眠っていたためである。クリムの眠り放に母親は迎え入れられなかっ た。クリムの眠りを母の死と切り離すことは出来ない。

限りはハーデイの小説一般で重要な意味を帯びているがこの小説も例外では ない。クリムの限りをユスティシャの不倫の相手ウイルデイヴは自分が少年時 代以来持ったことのない眠りだと表現する

(RN22

l)。クリムの眠りは彼の盤 垢の証でもある。しかしこの無垢さこそ、この世には真に偉大なものもつまら

ないものもないと言い切った無垢きであり、死から守られた場が存在しないこ

(5)

共同体としての中産階級

65 

とを暗に指摘したその無垢さなのである。王様は裸だと叫ぶのにも似たクリム のこの無垢の視線古り守リの宝石商の仕事も木こりの仕事にも何の違いもないと 言い切らせたものであった。クリムの目に障害があらわれるという小説の筋立 ては、もしかしたら彼が自の前に存在し母や妻が共有する中産階級の不死の神 話という社会的な意味での現実に対し盲目であるという事を表現 Lょうとした ものだったのかもしれない。母や妻が共有する中産階級賛美のイデオロギ一、

それを見えない彼の目は幻想のはぎ取られたむき出しの身体だけを見る。

ユスティシャの自殺はパリに赴き中産階級の上位になろうとする試みの空し さを彼女自身がついに認識したことによる。 緒に逃げる男が「ボナパルトで なければ

(RN275) J

盤意味だという彼女の中にわき上がる思いは、パリに逃 れて中産階級の内部に入り込んだとしても死が遍在するのである限りエグドン

ヒースからの逃避は無意味だという事実の認識によって生じている。

さらに言えばいわゆる共同体の拘束から解き放たれた時、自己の生成が意味 を持って現実の生のあり方と髄揺をきたさない形でなされるということの難し さを示している。エグドンヒ}スに縛り付けられていた人聞がその土地から切 り離されてしまえばその肥大化を留める手段はなく、逆に言えば必然的希薄化 によって生のリアリティが決定的に失われていく。クリムの木こりである身体 と宝石商に勤める身体とが同一であるという事実がユステイシャの幻想を打ち 破り無意味としての死が彼女をとらえる。

E.M.7

ォースターの

Howards

En

(以下

I

ハワーズエンド

J

と表記)は中 産階級という共同体の中で見失われた死をめぐる物語である。こ句作品には死 の不安を慰撫する機能を帯びた共同体が具体的にどのようにできあがっている のか、そして

20

世紀初頭になっても依然個人となることがその拘束力を持っ た想像の共同体への抗いとして存在するということが描かれている。

中産階級の最上位と言って良いウイ

j

レコックス家の人々の有する金銭の力を

中産階級の最下位、いわゆるローアーミドルクラスに属するレナード・バスト

はこの物語で残酷なまでに見せつけられる。彼はウイルコックス家の当主へン

リ}がもたらした内部情報に基づいて安易に会社を移り、その結果失業の憂き

目にあう。そればかりか自分の妻が過去にヘンリーの愛人であった事実までも

(6)

知らされることになる。公の生活においても私生活においても圧倒的な力を有 する上位の階級に採捌されるままの中産階級の最下層者レナード。彼は人生の 全面的な敗北を認めるように「本当にリアルなのは金銭であってそれ以外のす べてははかないものなのです

(HE17

1 )  

J

と言う。それを聞いてウイルコック スと同じ中産階級の最上位に属しながらそこから離脱した見方を示しうる女性 ヘレン・シユレーゲルは反論する。彼女は彼が「死」の存在を忘れていると言 い、さらに死と個人化を目指す傾向の対立というこの小説の重要なテーマにつ いて次のように指摘する。

もし我々が永遠に生きるのであればあなたの言うことは正しいこと になるのでしょう。でも私たちは死なねばならないわ。生をやがて は離れてゆかねばならないの。我々が永遠に生きるのであれば、不 正義と貧欲とが本当にリアルなものと言うことになるのでしょう。

でも実際には我々はほかのものにすがらねばならない。死がやって きているからよ。私は死が好きだわ。病的な意味ではなくてよ。そ うでなくて死のせいでわかるからなの。死は金の空虚さを示してく れる。死と生とではなくて、死と金とが永遠の敵同士なのよ。死の 先に何があるかなんて気にしないで。でもこれだけは確実よ、そこ では詩人や音楽家やルンペン遠の方が「自分が自分である」と言え るようにならなかった人間よりも幸せになるの。

(HE17

1 )  

レナ}ドがこの言葉に反論して言うように、確かにどんな

J

、聞も死を恐れる

のだが、中産階級上位の者達の死への敵視は特別なものなのだとへレンは説明

する。中産階級上位はより「深い霧

J

の中にあって、死というものを受け入れ

られていないのだと彼女は言う。金銭によって築き上げた自らの砦としての共

同体から死を排除することに一見成功したかに見えるアッパーミドルクラスに

属する者達。最初に見ておきたいのはヘレンが言うように、成功した中産階級

上位者であるウイ

J

レコックス家の人々がいかに死という現実を見失っていたか

がこの作品において繰り返し問題にされているという点である。

(7)

共同体としての中産階級

67 

最初に見失われていたのは当主ヘンリー・ウイルコックスの妻ルースの死で あった。恐らく読み手にとっても彼女は突然にというよりは唐突に死を迎え る。その唐突きは彼女の近くにいたウイルコックス家の人々によって、最も痛 切に感じられたものだったろう。ただ

J

レース自身は近づく自分の死を意識して いた。

I

皆が病気を憎んでいる

(HE67)J

が故に近づく死を夫にも打ち明け ず彼女は死を迎える。ウィルコックス家の人々は身近にいるもっとも親密であ るべき女性に近づく死を見ることが出来ない。死が忘れられた状態がそこには できあがっていたのである。

見失われていた死というテーマはこの小説においてさらに決定的に、ヘン リーの長男でウイルコックス家の継承者であるチャールズの犯す殺人という事 件により描かれることになる。自分の義母の妹(ヘレン シュレーゲル)をレ ナード・バストによって妊娠させられて怒ったチャールズは、家名に泥を塗っ た男に対して恐らくは処罰の意味を込めてステッキ代わりに手近にあった剣の 万身を振り下ろす

(HE230)

。それは階級と倫理の壁を越えようとした不心得 者と見える人間への上位者からの処罰であった。打ち据えることが目的であっ て、殺害は意図されていなかった。死の可能性は剣が振り落とされたその瞬間 に見失われていた。万身を振り下ろした側にとって死が思いがけないもので あったこと、この場面で重要なのはその点であると思われる。

9

世紀イギリス小説が描いてきた中産階級の姿に照らしていうならば、

ウィルコックス達は死が不在となったと感じる正当な権利を有しているのだと も言える。彼らが営々と築き上げた富はいまやかなり確実に次世代に受け継が れることになっている。一族の継承者である長男が入獄の憂き目にあうまで、

彼らの資産は豊富であり投資された金額は莫大でありその声望は高かった。私 が思い浮かべているのはデッケンズの

Dombeyand Son  ( 

r ドンピーと息子

J) 

である。この作品の主人公があれほと望みながらかなえることの出来なかった

状態が『ハワーズエンド

J

においては実現されている。すなわち当主へンリー

は自分の息子チヤールズに自分が反復されることをある程度の確実さをもって

期待できる立場にいた。遺産の継承古河童実になっていたという占でウイルコッ

クス家の人々は死が仮に克服されたと見える世界を生きていたのである。それ

(8)

は金銭に生の反復を見、滅びていく肉体を見なかったのだとも言えるが、共同 体とはある意味で個人の肉体を超えた反復を結びつきの基礎に置くものなので あり死の不安が仮に慰撫される場である。その意味でウイルコックス達は死を 見失う権利を有していたと言うのである。

死を見失う。それは一つにはドンピーが望んだような自己の生の再生産と言 えるような形での財産と仕事の委譲と継承によって自己につながる生の連続性 を感じることが可能になるという意味での不死である。おそらくそのことが中 産階級という共同体の存在理由ということになるのだろう。資本主義以前の伝 統的社会においては田舎には教会を中心に伝統的な共同体カま存在し、そこでは 宗教を基盤にして死が慰撫されるイデオロギー的なシステム古宮存在していた。

そこでは生の反復の感覚をとおしての永遠の感覚が可能となっていた。もっと 言えば生自体がそこでは反復として経験されるものだったはずである。自分に 先行する誰かが具現化するモデルを模倣し反復することで生は充実したものと して経験された。そのような伝統として生を反復するような共同体が資本主義 の成立と共に分断され失われていく。田舎から追い立てられた人々が集った都 会において伝統は生のモデルとしての機能を失い、宗教は生の反復を人々に経 験させる力を失っていく。

代わって成立していくのはベネデイクトーアンダーソンの言う「想像を基礎 として連帯を達成した最初の階級

(132)J

である中産階級という新たな共肉 体である。中産階級はいったんは分断された人々が都会という場において水平 に連帯してできあがった共同体であり、そこで死を慰撫する感覚が養われた。

ヴイクトリア朝のイギリスが疑似宗教的な空間に見えるのは偶然ではない。中 産階級は継続し反復する生という幻想を共有するという意味において共同体な のである。それはヘレンの言う金、つまりは蓄積され継承される財産を通して 生を反復あるいは連続として感じようとする共河体である。いったんは伝統的 共同体から遊離して個人となった人々が、成功を通して選択され自らを特殊な 存在と見なし再び成功した者だけの共同体を作り上げるのである。

レナードを誤って死に至らしめてしまった後にヘンリーの息子チャールズが

「自分が自分であるとい言える」ようになるよう若い時代に教えられるべき

(9)

共同体としての中産階級

ω 

だったのではないかという不安を感じる場面

(HE233)

が描かれているが、

「自分が自分である」と言えないのはチヤールズばかりではない。父ヘン リー ウイルコックスが後にレナードの妻となる女性ジャッキーと性的逸脱を 行った際の原因として植民地において経験した孤独を挙げている

(HE175)

の は興味深い。

単身植民地にあって自分の共同体の成員である他の中産階級の人々の視線や 家族の人々の視線から切り離されたとき、へンリーはその孤独の不安に耐えら れず逸脱的行為を行った。このエピソードを通して作品が確認しようとするの は、息子チャールズ同様いかにヘンリーも「自分が自分である」と言えない存 在だったかという事と考える。彼は彼を監視する視線がある空間においてのみ 彼たり得る存在なのだ。孤独という形でおとずれた個人となることに耐えられ なかった彼は、継承と反復が規範として存在する共同体という砦の中でしか自 分を保ち得ないことを暴露する。チャールズが他人の死の可能性をも見失って しまうほどに死を見失っていたというのは彼がどれほど個人と呼べる存在から 遠かったか、如何に共同体の一員としてのみ存在していたかを示しているが、

それをもしある種の病理と見なしてよいとするなら、その病理は父ヘンリーと 共有されていたものだったことを見ておく必要がある。

宗教的な、伝統的な共同体が果たしてきた機能をナショナリズムが果たす可 能性についてベネデイクト・アンダーソンは慎重にほのめかしているが(注

)、ナショナリズムの根源となる自分と生まれてくる子供の関係の最小の単

位である家庭と最大の単位である国家との間に階級という単位を想定すること

が出来る。

19

世紀の後半から

20

世紀初頭にかけてあれほどヒステリツクな

形で性的に逸脱する女性やホモセクシュアリティの男性に圧力が加えられたの

はそれが死を慰撫することを期待される共同体の存在を揺るがすものだったか

らだと考えればそれなりに納得がいく

o

チャールズやヘンリーたちは自分が受

け継ぐ共同体において、拘束として、そして基盤として存在する役割を引き受

け、反復することによって共同体の閉鎖的な空間の中で意味を成立させる存在

であって、自らを伝統という反復の中にとけ込ませることによって死を乗りこ

えようとつとめていた。彼らにとって重要であったのは共同体が望むこれまで

(10)

果たされてきた役割を同じように果たすことであって、自分らしさはむしろ排 除されるべきものだった。その意

3

味で彼らにとって「自分が自分であると言え る

J

必要はなかったのだとも言える。

『ノ、ヮーズエンド』のチャールズと同じ役割を担っていると思われる

A Room with a View  ( r

眺めの良い部屋

J

)で女性を抑圧する者として名指しさ れるセシル・ヴァイズ。彼は「人を親密に知ることが出来ない

(RV185) J

存 在だという批判を周りから受け、自分でもそれが当たっていることを認める。

彼もまた共同体の中で求められる役割に従順なだけで、模倣を通しての自分を 演じることしかできず、 「自分が自分である」と言うことが出来ない存在なの だ。チャールズとへンリーそしてセシル、彼らは共同体が与える役割を演じて いるのに過ぎない。その生は繰り返される役割であって創造的に作り上げられ ていく個人としての生ではないのである。

中産階級のあり方に対する批判は他の

7ォースターの作品においても行われ

ているが、その際問題にされているのは中産階級の衰弱した身体というもので ある。この事をフォースゲーは

MachineStops 

(以下「機械の停止」と表記) という短編の中で

19

世紀および

20

世紀初頭の中産階級の戯画的な寓話とし て描いている。はっきりとは時代が限定されない未来世界において文化に耽溺 し身体の存在を忘れてしまった人々。完全で過つことのない「機械」が支配す ることで確保された環境の中でこの世界の人々は肉体に関わることを軽視し、

もっぱら精神的な事柄に専念して生きている。その姿はまさに肉体に関わる側 面を下位の階級の兆候として蔑視し自分たちの想像の共同体の外部へと排除し た現実の

19

世紀の中産階級の姿と重なるものである。やがて物語の終わりに 至って、完全に統御されてはいるが肉体が軽視されたその人工的な世界が機械 の停止と共に滅び去る瞬間が訪れたとき、その世界に反逆を試みて追放された 主人公の青年は自分たちが生きてきた世界のあり方の問題点が何だったのかを 認識する。

すべての肉の中の華ともいうべき存在、目に見える被造物のうちで

も最も気高い存在であり、かつて自らの姿に似せて神を作り上げ星

(11)

共同体としての中産階級

71 

座の名にその力を反映させた裸の美しい人間が、自分の織り上げた 衣服に首を絞められ死に赴こうとしていた。何世紀にもわたって刻 苦したその結果がこれだった。確かに最初その衣服は天上的なもの であった。文化の色にそめられ自己否認の糸によって縫われてい た。その衣服が衣服のままにとどまりそれ以上のものではなかった 聞はそれは天上的なものだった。人聞が自分の意志で脱いだり着た りでき、自分の魂である自身の本質、目。ち衣服と同程度に神々しい 自らの身体によって生きていられる聞は、衣服は天上的なもので あった。身体に対する罪、筋肉と神経、そしてそれだけが世界を知 る唯一の手段である五官に対する何世紀にもわたる不正な振る舞 い。彼らが主に泣いているのはそれらのためであった。

(MSI45)

ここにある「身体に対する罪」という問題は長編

The

Lo

ngestJoumey 

(以下

『長い旅路』と表記)においても追求されている。その作品においてもやはり 下位の階級が壮健な肉体を持つのに対し中産階級は衰弱した肉体しか持たず次 の世代を産み出していくことが出来ないで終わる。主人公リッチーの身体には うまれっき足の不具という退化の兆しが見られる。それに対してリッチーの異 父弟であるスティープンは農夫である父と似た強壮な身体を有している。決定 的なのは文化的に優越したリッチーが結婚によって得た子供がリッチー自身よ りもさらに衰弱した状態で生まれ直ちに死に至るという展開である。 Lっかり と次の世代を産み出す事に成功するスティープンの姿に「機械の停止」の生き 延びていく下層階級らしき人々の姿を重ねて見るのは容易な事である。

文化に専念した上位の階級が虚弱化し壮健な次世代を産み出すことに失敗し

て滅びるのに対 L、強壮な身体を有した恐らくは下位の階級に属する人々が生

き延びることに成功していく。

I

機械の停止

j

のなかで人々が妊娠出産するか

否かの判断を「機械」に委ねている様はまさに

19

世紀および

20

世紀初頭の

中産階級に特有の'?)レサス的な懸念を示している。生殖は中産階級の合意にお

いて合理的な統御の対象となっており、その意味で既に病んだものとして現れ

ている。合理的な目的を念頭に断念された生殖の欲望の衰微、それが中産階級

(12)

の身体なのだ。このように身体とは

7

オースターのこれら二つの作品において 生殖する力を指しているのである。

しかしこれらの作品に描かれた退化する身体、弱体化した身体というのは中 産階級が階級として抱いていた不安が表現されたものという風に考えられる。

実際の中産階級の人々の身体が下位の階級の人々の身体よりも弱体化している ということを問題視しているとは思われない。オスカー ワイルドの『ドリア ングレイの肖像

J

R. L.

スティープンソンの『ジキル博士とハイド氏』さ らには

H. G.

ウェルズの『タイムマシーン』といったような作品同様、退化 という主題がフォースずーにおいても寓話的な形で取り扱われているのは偶然 ではない。より上位の階級にいる人間の身体が下位の階級にくらべて虚弱化し ているというのは歴史的事実であったというより上位の階級の不安を表すもの であった。子供の数の減少の問題や女性の未婚率の問題、さらに義務教育を通 して識字率を高めていくローアーミドルクラスと言われる人々の増大により比 較的コンパクトにまとまっていた共同体としての中産階級が拡散し、拡散する ことによってその均質性と規範力を失っていくという危機感が存在したのだと 考えられる。肥大化しすべてを包含する共同体は共同体ではあり得ない。ダニ エル・ピックはデ

P

ジェネレーションの理論が大衆民主主義と社会玉義への対抗 理論として現れてきたと述べている

(Pick218)

が、拘束力を行使しうる共同 体の適切な大きさを超えてしまうことへの不安が

19

世紀末から

20

世紀初頭 にかけての中産階級の中核をなす人々に共有されていたのだと考える。

『ノ、ヮーズエンド』においては中産階級の抱える問題は不安という形で表現

されるのではなく、より歴史に即した形で問題が探求されているように見え

る。ここでは中産階級上位に位置する者の身体は、衰弱し次世代を再生産出来

なくなった身体として描かれてはいない。むしろそれは歴史的現実を反映して

下位の階級よりも健康を誇っている。なにより彼らの生は様々な人生の変動

(失職や病気など)に対しより抵抗力を備えているものと猫かれる。身体が衰

弱し失業をしてついに死んでいくのは階級がより下位のレナードであり、より

上位にあるウイルコックス達は健康を失っておらず、その実際の生活はチャー

ルズの引き起こした殺害事件にもかかわらず決定的変動を受けてはいない。

(13)

共同体としての中産階級

73 

「機械の停止

J

や『長い旅路』において強壮で生き延びていく身体として表 現されていたものは『ハワーズエンドj においては何に相当するのだろうか。

恐らくそれがヘレンの身体であるという事を示そうとして作家は彼女とレナー ドとの問に生まれた非嫡出子がイギリス中産階級の伝統の具現である屋敷ハ ワーズエンドを受け継ぐという未来を示唆したのだろうと考えられる

(HE 242)

。この物語の結末は基本的には「機械の停止」ゃ

I

長い旅路』で強壮な 身体を持ったものたちが生き延ひていく物語と同じ意味を持っていると考えら れる。具体的には衝動的とも言えるような性行為から生まれた存在が合理的な 判断の結果生まれてきた者に優越するということだ。性的街動を抑え込んだそ のようなあり方に対しての批判が込められているといえるだろう。

強壮で生き延びていく身体が『ハワーズエンドj においては性的に逸脱する 女性の身体だとすれば、圧力が加えられているのも階級全体の身体というより は女性の身体、女性の存在である。具体的には婚姻によらない妊娠をしたへレ ンがハワーズエンドでの一夜の休息を望んだとき、ヘンリーたち中産階級の男 性は彼女の身体をおぞましいものと見なし、彼女を体よく病院に押し込めて

L

まおうとするエピソードがその中心的なものである。外面をはばかる中産階級 の行為としてはある意味当然のことだが、小説がウィルコックスらの振る舞い を描くことで示そうとするのは中産階級が女性の「身体」が性的に逸脱するの をふせごうと圧力を加えている様である。

ヘレンの姉マーガレットはヘレンの「身体

J

が抑圧の対象だと知ると自分が

女性の為に男性に対抗して闘っている

(HE26)

という感覚を持つ。指摘した

いのは『眺めの良い部屋j に描かれた女性に対する男性による抑圧という問題

と『長い旅路jや「機械の停止」などに描かれた衰弱する身体という問題は女

性のセクシュアリティの抑圧という「ハワーズエンド』において描かれた問題

を接着点としてつながっているという事である。衰弱する身体とはセクシュア

リティの場としての身体への無関心や抑圧を示しているが、 『ハワーズエン

ドjは中産階級の文化においてセクシュアリテイの抑圧という事が最も問題に

なるのは女性の身体においてであるということを示しているという点で中産階

級が抱える抑圧の構造についてより歴史に即した物語となっているように見え

(14)

る 。

『ノ、ヮーズエンド

j

にはいくつか女性の抑圧された状態を描いたエピソード が見出される。ひとつはヘレンの姉のマーガレットがハワーズエンドを訪れる 際に車の中に留め置かれるという事件である。車で送ってもらう途中その車が 犬をヲ│いてしまったのではないかと心配したマーガレットは車の停止を願うが 聞き入れられない。結局彼女は車から飛び降りるという大胆な行動に出る

(HE 153)。それは後に義理の息子になるチャールズが正しく捉えているよう

に「女性の反逆」である。閉じこめられそうになる危機から姉と妹も脱出に成 功することであらわになるのは彼女たちの受けている圧力の強さなのである。

マーガレットがヘンリー・ウイルコックスの過去の不倫行為を知った後、男 性の生理と社会的重圧を理由に自己弁護する夫の話を聞きながら、自分たちが 雇っている若くてハンサムな執事に対して自分の感じている女としての微かな 欲望について口にしたならば世界が崩壊するだろうと想像をめぐらす場面が描 かれている

(HE176)

。マーガレットは

20

世紀初頭の慎みに従って実際には その欲望を口にすることはないが、女性にも当然存在する性欲がないかのよう に振る舞うことが中流の上位にある女性に求められていた階級を共同体化する フィクションの中核だった。歴史的にみれば

19

世紀そして

20

世紀初頭のイ ギリスの中産階級において身体への罪ということを考えるなら、それは玉とし て女性に対して加えられたものだったと言えるだろう。

9

世紀イギリス中産階級という共同体が共有するフィクションの極致とも 言える存在がヘンリーの最初の妻

J

レースだった。彼女の死の病が知られる事が なかったのは、彼女がいかに婚姻の純潔と母性の理想に閉じこめられ自らの肉 体を不可視にしていたかを示している。彼女自身が自らの肉体から遠かったが 故に肉体に関する不調を夫にすら告白出来なかった。彼女の身体はその意味で 不在であり、その意味で中産階級の成員が期待する女性の理想、を具現してい た。だが理想化されたこの女性の姿が死につながる肉体を不可視にするために 閉じこめた棺だった、作家はそう告発しているように見える。女性のセクシュ アリティを抑圧することによって中産階級の世界は成立していたのだ。

「機械の停止

J

から引用した身体への罪についての文章の中で「自己否認」

(15)

共同体としての中産階級

75 

が身体を覆う衣服の材料として指摘されている。この自己否認という言葉を見 たときにいわゆるマルサス的な断念、子供を作ることを断念するという断念の みを思い浮かべるのは適切ではない。それはフォースター自身が、そして多く の女性が強いられる「正常な」セクシュアリティを求める圧力に対しての「自 己否認」と見るべきであり、それは中産階級という共同体の圧力のもとで女性 も男性も自らのセクシュアリティを自らを語り、自らを作り上げる核として選 ひ、取って個人となることをあきらめ、周りを見渡しながら共同体の要請する 夫、妻、父、母という反復される役割を果たそうとするそういう自己否認をき しているのだと思われる。中産階級の身体が衰弱したものとして描かれるのは このようなシステムを経て断念される身体への圧力を表現するものであったと 考えられる。

セクシュアリティは無論女性だけの問題なのではない。特にフォースター自 身にとってはそうだった。彼が『眺めの良い部屋j において女性を抑圧する男 性の意志に憤っているとき、その憤りは『長い旅路』においてリッキーの身体 を衰弱させるものに向けられたものと本質的に共通する。この間題が女性だけ に関わるものでなく、むしろ共同体としての中産階級を機能させるために男性 も巻き込んだ形で展開されたものだったということが、おそら〈作家としての フォースターの出発点だったと考えられる。女性とはホモセクシュアリティと して性的に抑圧を受ける彼自身でもあった。中産階級という共同体は自らが正 常と認定するあり方から逸脱するすべてのセクシユアリティを抑圧の対象にす る。時代の制約の中でその発表を控えさるを得なかった

Maurice(以下『モー

リス』と表記)はある意味で性的に逸脱する女性と同様な圧力に彼自身がさら されていた事の告白である。

『モーリス』の中で率直に描かれたフォースター自らのセクシュアリティ。

彼は夫となり家長となるというヴイクトリア/エドワード朝的な中産階級の共肉

体において求められる役割を呆たすことは出来ず、逸脱していくしかない自分

を描く。彼は

20

世紀初頭のイギリスにおいて個人化を強いられた存在であ

り、望むと望まざるとに関わらず自らの置かれた共同体の外へ押し出されてい

く存在だったのだ。

(16)

個人化という問題が

19

世紀そして

20

世紀初頭においても拘束力をもった モデルを提供する共同体への抗いとして存在していたということを『ハワーズ エンド』という作品は描いている。ブオースターが発表する事の出来なかった

『モーリス』同様、そこでは肉体を通して、セクシュアリティを通して逸脱す る個人の姿が描かれている。ウイルコックス達が具現化する中産階級的価値観 と拘束に反発するヘレンは中産階級に死の存在を忘れさせているシステムに抵 抗し、死を見据えながら同時に死に対抗する力を持つものとして愛の名をあげ

る 。

俗な精神の持ち主の注意を引きつけている棺と骸骨の向こうに、あ まりにも広大なものが広がっているから、私たちの内なる偉大なも のすべてがその広大なるものに反応するのね。俗な人間はいつの日 か自分が入ることになる死の世界を恐れるけれど、愛はそんなまね しないわ。死は愛の敵であり同時にまた仲間でもあるの。幾世代に もわたる死との闘いの中で愛の身体は鍛えられてその視界から障害 となるものはとりきられてしまった。愛ははっきりと見えるように なっているの。今や愛にかなうものなんて何もないのよ

o (HE  17I) 

抽象的にも聞こえるこの「愛」という言葉の意味は小説においてはかなり明 確にされている。それは彼女の妊娠につながる衝動的なレナードとの

130 

分」に渡る性行為をきしている

(HE225)

。それは『モーリス」のなかでの夜

ぱいの末の向性問の性行為のように極端に身体が強調された衝動的で肉体的な

「愛」である。その意味で

7ォースターが「機械の停止」ゃ『長い旅路』で身

体という名で呼んだ生殖につながる何かと同じものを表現しようとしたものと

いう風に考えてよいであろう。大事なのはそれが中産階級の女性として

20

紀初頭に生きるヘレンに加えられている圧力に抗して個人となり「私が私であ

ると言える」ようになるための身振りだという点である。抑圧を受けていた状

態、すなわち女性として求められる範型を反復する生き方から脱却していく振

(17)

共同体としての中産階級

77 

る舞いの決定的なものが婚外婚による妊娠ということであった。

共同体が個人となることを許さないこと、その成員が「私が私である」と言 えるようにしないことによって死に対しての不安を慰撫する装置なのだとすれ ばヘレンの行為は意図して反復を迫る共同体の外へ出ることであり、 「機械の

停止J

の中の蛙名の主人公の青年が行った事であった。その抗いは共同体の中 において反復されるものではない何か、個人につながる何かをつかみ取ろうと する振る舞いとなる。拘束に従うことは共同体における反復を承服する成員と なることであり、そこから逸脱することは死の可能性を引き受けながら自由を 得ること、 「自分が自分である」と言うことで個人となり、反復の輪廻から脱 却する行為である。

共同体としての中産階級が自らを見失い死を直視できない状態にいるのに対 してヘレンは自ら進んで反復としての世界から抜け出そうとする。そしてある 意味でそれに成功する。問題は彼女が最終的にはハワーズエンドに回帰すると いう点である。レナードとの「愛」を経験して、婚外妊娠をしその結呆、共同 体からの排除という危機に瀕したヘレンは一時的とはいえハワーズエンドに避 難しようとする。この小説において伝統と継承の象徴と言える場所に彼女が入 ろうとしたことは「ハワーズエンド

j

という小説が必ずしも個人化を絶対的な 善と見なし反復と継承を絶対の悪とみなしているわけではをいことを示してい

る 。

ヘレンが最終的にハワーズエンドにおいて休息を得ょうとすること、そして それを許すか吾かが非常に重要な意味を持ったこととして描かれること。これ らの事はへレンが中産階級の共同体に戻ろうとしていること、そして最終的に それ古清志められることで彼女が再ぴ共同体の一員として認められたことを示し ていると言えるだろう。そのことを示すために作家はわざわざマーガレットの 口を通してヘンリーもヘレンもルース ウイルコックスというハワーズエンド そのものである女性の「精神の断片

J(HE222)

なのだと表現させる。彼らは それぞれがこの建物に象徴されるイギリス中産階級という共同体の一員である ことが確認されるのだ。

ヘレンはレナードとの性行為によって妊娠した後あれほど毛嫌いしていた

(18)

ウイルコックス達を許すと言い、何よりもレナードとの関係を金を使って終 わったことと見なしたかったとすら口にする

(HE222)

。マーガレットが示唆 しへレンも認めているように見えるようにヘレンとレナードとの関係はウイル コックス家の次男との破局にいたる関係への反動

(HE222)

と見るべきなのか もしれない。作品はヘレンとその次男との破局にいたる関係は個人というより もウイ

J

レコックス家という家に対する恋愛だった

(HE19)

ことを告げる。中 産階級に恋をし、やがてそれに幻滅して中産階級の成員が個人たりえず死を見 つめられていないと批判した彼女は最初中産階級という共同体の外へ出ょうと する。中産階級の女性に求められるルース夫人のような自分のセクシュアリ ティを押し殺すようなモデルをなぞることを拒否して自分の身体の欲望に従っ て行動し、それが中産階級の最下層に位置する貧しいが文化への素養のある

I

}

レンベンヤ詩人

j

としてのレナードと関係を持とうとする。金銭を持たない が文化的素養を有する男性という中産階級の容認しない男性との結びつきを通

してヘレンは中産階級のシステムを批判しようとする。

しかし彼女が最後にこのレナードとの関係を終わったことにしてしまいたい と言う点を客観的に見れば、彼女の行為は彼女が毛嫌いしていたヘンリー ウイルコックスがレナードの妻ジャッキーに対しでしたのとどこが違うのかと いう問いが当然生じるであろう。衝動に駆られて下位の階級の肉体を利用し後 にそれを否認する。その意味でへレンの行為は女性が加えられている中産階級 内部の倫理から逸脱することが優先しており、その逸脱は「私が私である」と 言えるほどの内的な充実を達成していないように見える。その意味で小説は結 局中産階級の女性がそれまで許されていなかった中産階級の男性並みの性的自 由を獲得しその行為がある程度階級の他の成員から容認されたというところで 収拾をはかろうとしている。ここでも階級の外側に死が発生する。レナードは 階級の境界線を侵犯しようとしたために処罰される。確かにレナードの遺伝子 を受け継いだ子供がハワーズエンドを受け継ぐのだが、あくまでそれは中産階 級の女性の甥として受け取るのでありレナードの子供としてではない。

中産階級が死を見つめられていないと批判したヘレンだ古久実際に逸脱して

みると階級という共同体の外にある死としての無意味に耐えきれずに意味が横

(19)

共同体としての中産階級

79 

溢するハワーズエンドに戻ろうとしていると読める。貫通されたかに見える共 同体の障壁は修復される。フォースターが問題視した中産階級のセクシュアリ ティに関する女性とホモセクシュアリティの抑圧は緩和され、クリムが指摘し た肉体の中に必然的に内包され中産階級の共同体の内側にも外側にも存在する 死は再び見失われていく。

もともと階級的な分断が7オ)スターの世界においては強く意識されてい る。既に紹介したテ

a

ジェネレーションの主題を扱った短編と長編はそれぞれ中 産階級の身体が特殊な変容を遂げ、劣化とは言え下位の階級とは識別可能な形 で特殊化されている。逆に『ハワーズエンドjでは衰弱をする身体は資産とい う基礎を持たないまま文化を希求するレナードのものとして想像されている。

いずれの場合も、ハーディが死において平準化される身体の民主主義を真理と して見出すのに対してフォースターの描く身体はどこまでも階級において分断 されたものとして想像されているのである。ケアリが主張するように

19

世紀 後半から

20

世紀初頭にかけて中産階級は自分たちの階級が脅かされていると 感じていた

(Carey)。文字を読めるようになった階級の周辺部に位置する者

達が本来自分たちのものである場所に大挙して入り込んでくる姿を想像し恐れ たのである。トロッターはモダニズムをその難解さによっていわゆるローアー ミドルクラスを排除するための装置と見なしているが

(Trot

町,

68)、難解さに

よってではなく下位の階級を排除する傾向を有しているという点で

7

オース ターのこの作品はモダニズムの刻印を免れていない。

?

(1) 

アンダ}ソンはこのように述べる。

「言うまでもなく、私は

18

世紀末におけるナショナワズムの出現が宗教的確実

性の腐食によって『生み出された』とか、あるいはこの腐食自体について複雑な

説明は不要であるとか、主張しているのではない。さらにはまた、ナショナリズ

ムがともかく歴史的に宗教に『とってかわった

J

と言っているのでもない。私が

提起しているのは、ナショナリズムは、自覚的な政治的イデオロギーと同列に論

じるのではなく、ナンヨナリズムカすそこから一一一一そしてまたそれにあら古九、な

がら一一一一存在するに至ったナンョナリズムに先行する大規模企文化システムと

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