性起と修起
真悌土と悌性の一考察| 大谷派井
上
重
信
一、はじめに 宗祖は﹃教行信証﹂真偽土巻に於いて﹃浬繋経﹂を引き、﹁一切衆生悉有働性﹂義を尋ね、次いで﹁論註﹂の ﹁性﹂の四義、即ち性起・修起説などから誓願に酬報する虞賓報土の内実を明かす。曇鷲は、﹁願生偏﹂の﹁正道 大慈悲出世善根生﹂を﹁荘厳性功徳成就﹂と名づける内実を﹁論註﹂に具さに説く。即ち浄土は真如法性にかない 性起した悌士であると同時に法蔵菩薩修起の報士であって、法性が顕現した性起の世界であることを明かす。此の ︵ 1 ︶ 性起と修起は何処までも必然的相即的関係として捉えられる。当稿は備性義、就中この修性二起の関係等から真偽 土 の 内 実 を 窺 う 試 み で あ る 。 ︵ 2 ︶ ︵ 3 ︶ 宗祖が、悌性に就いて信心悌性・浬繋偽性と説き、悌性を人聞に内在するものという視点からではなく、性起を ︵ 4 ︶ あと付ける修起に焦点を置く如来の本願からの用きとして受け止めている点を注目したい。﹁性﹂の内容が本の義・ 積習の義・聖種性の義・必然不改の義の四義で明かされると、改めて悌性が如来による一切衆生救済の用き、大乗 性起と修起性起と修起 の道理として確認される。そのように見た時、二十九種荘厳の根本義・原理を表す﹁不虚作住持功徳﹂が注目され てくる。﹁本願力にあいぬれば 空しくすぐるひとぞなき 功徳の賓海みちみちて 煩 悩 の 濁 水 へ だ て な し ﹂ と 、 ﹁高僧和讃﹂が﹁不虚作住持功徳﹂の内実を、阿弥陀悌の浄土は虚作ならざる本願力に住持せられた功徳と明かす。 それは法蔵菩薩が永劫の積習によって成就する﹁在る如来﹂に決して留まることの無い﹁成る如来﹂として、因位 の本願力︵不虚作︶に限りなく回帰して往く﹁修性一如﹂の菩薩行︵住持︶を顕すのであり、同時にそれは親驚の ︵ 5 ︶ 生涯を貫徹する偽道︵功徳︶であった。曇驚大師の明かす性起と修起は、真如法性が真偽士として具体的に顕現す る第一義の証文として前面に出される修起、即ち﹁成る如来﹂としての修起︵因︶が、﹁在る如来﹂としての性起 ︵果︶によって、又﹁在る如来﹂の性起︵因︶が﹁成る如来﹂の修起︵果︶によってその存在が証明されるという ﹁ 因 果 縁 起 ﹂ 、 調 わ ば 交 互 成 就 の 関 係 に あ る こ と が 領 解 さ れ よ う 。
二、真悌土の義意
ー、民宗教義の起点としての﹁昆備土巻﹂ 宗 祖 は 、 ﹃ 教 行 信 証 ﹂ ﹁ 教 巻 ﹂ の 冒 頭 で 、 謹んで浄土真宗を案ずるに二種の廻向あり。 一つには往相、二つには還相なり。往相の廻向について、員賓の 教 行 信 証 あ り 。 ︵ 以 下 ﹃ 教 行 信 証 ﹂ の 引 文 経 典 は 凡 て 原 漢 文 ︶ と顕し、又、﹁謹巻﹂目頭では︵以下引文等の傍線は凡て稿者付す︶ 異質詮をあらわきば、すなはちこれ利他円満妙位無上浬繋の極果なり。すなはちこれ﹁必至滅度の願﹂よりい でたり。︵中略︶往相廻向の心行をもつれば、すなはちのときに大乗正定衆のかずにいるなり。︵中略︶しかれば禰陀如来は如より来生して、報鷹化、種々の身を示現したまふなり。 と、まず虞宗の教相を判じ前四巻で衆生往相廻向の成就を明かす。後段の﹁しかれば:・﹂以下には、知来・法蔵菩 薩の還相廻向の意を開示する。異賓の教行信証四巻で一一の願が衆生に成就したことを見届けた法蔵書薩が次に自 身の誓願が成就する、即ち﹁必至減度﹂という往相廻向の願果﹁無上浬繋の謹﹂が次に還相回向︵因︶となって衆 生に用きあらわれる、誓願酬報の浄土を開顕するのが﹁真偽土巻﹂の義意であり、その内実を﹁性起と修起の関 係﹂から尋ねるのが当稿の主題である。
2
、 ﹁ 真 偽 土 巻 ﹂ の 来 意 ﹁ 真 偽 土 巻 ﹂ 冒 頭 に 、 謹んで真偽土を案ずれば、備はすなわちこれ不可思議光如来なり、土はまたこれ無量光明土なり。しかればす なわち大悲の誓願に酬報するがゆえに、農の報偽土と目、つなり。すでにして願います、すなわち光明・寿命の ︵ 6 ︶ 願 こ れ な り 。 とあるが、真偽土は智慧といのちをあらわす光寿三無量の第十二願・十三願で成る法身・如米大悲の用きであり、 此の内実は還相廻向の在り様を問うものである。換言すれば、十方衆生を以て悌自身と成さしめる用き、即ち十方 ︵ 7 ︶ 衆生の上に備を成就する根本願の願意であり、法蔵菩薩が因位の積習を経てはじめて正覚を取って誓願成就した果 成が亘書願酬報﹂の真偽士であった。 ︵ 8 ︶ 開華院法住師は﹁教行信証金剛録﹄で、 この﹁真偽土巻﹂は其衆生の証果を得る慮は此土にあらず、化土にあらず、農賓報士の証なりと顕はす此巻な り。故に上来教行信証真偽土の五巻の次第は、真偽土より顕はれたる虞賓教の﹁大経﹄によりて、員賓行の名 性起と修起性起と修起 四 競を説き顕し、その名競の謂れを聞いて深く信ずる虞賓信によりて、翼賓証を得、持むところの備は不可思議 光如来なり、見るところの浄土は無量光明士なりとあらはすが、民賓五巻の次第なり。 と、衆生が証果を得るのは法蔵菩薩の誓願に酬報して成就した虞賓の報士であると断じ、続けて﹃教行信証﹂前五 巻が﹁真偽土より顕われたる・:﹂と、真偽士を異賓の教行誼開顕の根本に据え、異宗教義の骨格﹁往還二回向﹂を 成立させる﹁真偽士巻﹂の重要性を示教する。﹁現生に於いて浄土の心に立つ信のあり方を問う﹂と言う親鷲の悌 道観から判じて、浄土真宗立教開宗の根本聖典﹃教行信証﹄は﹁真偽士巻﹂から始まると領解されて然るべきなの で あ ろ う 。
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、親鷲の備身観の確かめ 大乗偽教各宗の﹁法身・報身・感身﹂三身説を親驚も用いるが此処では三身説の詳細は省く。但、法蔵菩薩の発 願に酬報して法蔵自身が阿弥陀如来として成倒したという本願成就の主体的事実を領解する宗祖の悌身観は、あく まで阿禰陀を﹁報身悌﹂とする思想で貫かれる。もとよりこの三身は一悌身の三面性を表したものであって別個の ︵ 9 ︶ ものでない事は云うまでもない。 ︵ 叩 ︶ 親 鷺 は ﹃ 唯 信 紗 文 意 ﹄ に 、 法身は、いろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず。ことばもたえたり。この一知よ りかたちをあらわして、方便法身ともうす御すがたをしめして、法蔵比正と名乗り給いて、不可思議の大誓願 をおこして、あらわれたまう御かたちをば、世親菩薩は、尽十方無擬光如来と・なづけたてまつりたまえり。こ の知来を報身ともうす。誓願の業因に酬いたまえる故に、報身如来ともうすなり。 と、宗祖の偽身観が鮮明に述べられるが、注目されるのは前段で﹁いろもなし、かたちもましまさぬ﹂法身の方便として報身如来を説き、その現働する如来の用きを述べているが、本来凡夫には覚知し得ない如来の用きをそのま ま対象化せず、後段できちんと﹁かたちもいろもましまさぬ﹂法性法身に帰してあるところに親鷲教学の確かさと 底の深さが見定められる。承前引文して﹁報身﹂の義意を確かめておく。︵承前︶ 尽十方無碍光備ともうすひかりにて、かたちもましまさず、いろもましまさず。無明のやみをはらい、悪業に さえられず。このゆえに、無碍光ともうすなり。無碍は、さわりなしともうす。しかれば、阿弥陀悌は、光明 也。光明は、智慧のかたちなりとしるべし。 ︵ 日 ︶ 是れと略同じ宗祖の見解が﹃一念多念文意﹄にも表明されてある。柳か重複するが宗祖にとっての真偽が方便法身 としての阿蒲陀の報身であること、又方便の義意を確かめておく意味で敢えて引用する。 この一如賓海よりかたちを顕して、法蔵菩薩と名乗り給いて、無碍のちかいをおこしたまうをたねとして、阿 禰陀悌と、なりたまうがゆえに、報身如来ともうすなり。これを尽十方無擬光悌となづけたてまつれるなり。 この如来を南無不可思議光悌とももうすなり。この如来を方便法身とは申すなり。方便ともうすは、かたちを あらわし、御なをしめして衆生にしらしめたまうを申すなり。すなわち、阿禰陀備なり。この加来は、光明な り。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ、不可思議光備ともうすなり。こ の如来十方微塵世界にみちみちたまえるがゆえに、無辺光悌ともうす。しかれば、世親菩薩は、尽十方無磯光 如来となづけたまえり。 先ず最初の傍線部分は、法身からあらわれた法蔵菩薩と、その誓願が成就して報身悌・阿粥陀如来となった由縁が 説かれる。此の如来を方便法身といい、方便の内賓を語る。後半では悌智を微塵世界に遍満する不可思議光如来と 言い表わす。無辺光悌・尽十方無擬光加来は、一切の衆生を悉く救済する備の用き、即ち悌性であり、﹁微塵世界 に遍満する﹂は畢寛﹁一切衆生悉く悌性の中に有り﹂の意に繋がるのではなかったか。 性起と修起 五
性起と修起 ム ノ、 4、光寿ニ願の内実 備の慈悲を顕す第十三寿命無量の願の寿命は体、悌智を意味する光明第十二光明無量の願の光明は悌の用きを顕 すが、働そのものに体があるのではなく、あくまで悌の慈悲が発現する衆生の無量のいのちを体とし、その六道輪 ︵ ロ ︶ 廻の衆生の無明の閣を破する光用を象徴するのが光寿三無量﹁摂法身の誓願﹂であると解釈されよう。池田勇諦師 lま 親驚にとっては光寿無量の願は単に﹁摂法身の願﹂でなく、そのまま﹁摂衆生の願﹂であったことにより、二 願の成就は如来の自利利他成就にほかならなかった。それを告げる﹁不可思議光如来・無量光明士﹂であるこ とはまさしく本願成就の﹁悌・土﹂であり、それが共に﹁光明﹂で象徴されるところに、衆生にとって自らの ﹁無明の闇﹂を破せられる光として体験される悌土であることを示している。しかもその体験の釈尊における 告白こそ、光明無量の願成就の十二光でなかったか。であれば十二光はどこまでも照らされた者の感動であり 讃嘆の表現として、十二光の一一の義はそのまま本願名競によびさまされた救済の内実、一言いかえれば利益を ︵ 日 ︶ 告げるものと言えるであろう。 と、不可思議光如来と無量光明土の内実を講説する。智慧の光明無量の願と慈悲の寿命無量の願は不二一如であり、 無縁の大悲となって衆生救済に用く交互成就の関係であることが此処からも窺える。 前に述べた通り教・行・信・証四巻は衆生往生の誓願が成就した内容であり、法蔵菩薩が衆生の成悌を見届け、 その満足を得てのち今度は悌自身の成就を実現する報土を明かすのが﹁真悌士巻﹂なのであった。悌自身の誓願成 就は衆生の往生成就を必然的に伴うものであれば、備土が何処かにあって私が往く処と、謂わば対象化して考える と辻棲が合わなくなる。備の成就を顕す摂法身の三願は、謂わば根本願である第十八願﹁如来に拠る衆生救済の用 き﹂を具体化する大悲の願と考えられ、第十二・十一一一光寿無量の願が﹁真偽士巻﹂に標挙される所以が領かれる。
したがって﹁光寿二願﹂は摂法身の願であると同時にそれは摂衆生の願でもあるという領解が成立するのである。 付言すれば、﹁化身土巻﹂は、われらをよび覚まそうとする如来による衆生救済の用き﹁法の願﹂︵第十二・十 三・十七願︶を、救済の対象である﹁機の願﹂︵第十八・十九・二十願︶に於いて宗祖自らが自謹された文類と領 解されよ、っ。親鷺の三願転入の趣意を窺、っとき、三願を順次わたり巡るという平面的思考でない事だけは確かであ る 5 、大悲の願の用き ﹁真偽土巻﹂冒頭に﹁大悲の誓願に酬報するがゆえに虞の報悌土というなり﹂とあり、﹁行巻﹂の冒頭、﹁しかる にこの行は、大悲の願より出でたり﹂と表わされてある。光寿二無量がなぜ大悲の願であるか。 善導が﹁光明名競をもて十方を摂化したまう。ただ信心をして求念せしむれば:::﹂と表明する内実は一言で言 えば﹁われらを光明で摂化し、名競を以て覚醒させる﹂如来の用き、つまり大悲なのであるの如来による摂取とい う用きを光明を以て象徴し、名競を以て衆生を覚醒させる用きが光明名競であれば光寿二無量は正しく大悲の願で ある。この光明によって無明の聞から覚醒された相が信心であり、その信心によってはじめて如来の大悲によって 摂取救済されるという、謂わば法が機に用き、機が法に転じられると理解されるのである。それが悌の誓願成就す る、誓願酬報の真偽土であると領解されよう。次に﹁真偽土﹂の義意が﹁傍性義﹂を尋ねることで全うされること を 確 か め た い 。 性起と修起 七
性起と修起 j
ヘ
三、真悌土と親鷺の悌性観
ー 、 ﹃ 浬 繋 経 ﹄ 引 意 の成就、即ち﹁真偽土﹂成立の根源を偽教の最高思想とされ る﹁悌性﹂に求め、故に仰性論の根本経典である﹃浬般市経﹄を﹁真偽士巻﹂に多引し、﹁浬繋偽性・信心悌性﹂と いう親鷲独自の偽性観を展開して虞賓報士の内実を開顕する。小川一乗師は﹁﹃浬繋経﹂の主題は法身常住であり、 そのことを知らしめるのが悉有働性である。そこには法身常住としての悌性が説かれている。親鷲聖人は、その悌 ︵U ︶ 性と一百う課題のためにここに﹃浬繋経﹂より多くの文証を列挙している。﹂と講説するが、親鷺は、無常・昔・無 親鷲はすべての衆生一人一人を体とする偽︵大悲︶ 我・不浄なる虚仮の世間に生きる衆生を﹁唯悌是虞﹂の真偽土に往生させ、常・楽・我・浄の無上大浬繋に至らせ る 用 き を 、 ﹁ 備 性 ﹂ と 見 据 え た の で あ る 。 然しながら親鷲は、悌に成る種・悌の本性とされる悌性が﹁一切衆生に悉く悌性有り﹂と言われるような意味で 衆生に本来的に摂在するとは考えていないようである。その根拠を道縛禅師の﹃安楽集﹄から引かれである﹁選択 ︵ 日 ︶ 本願念働集﹄冒頭三百齢字の文に見出す。 一 切 衆 生 皆 有 二 働 性 ﹂ 遠 劫 以 来 醸 し 値 一 多 偽 ﹂ 何 因 至 レ 今 、 伺 自 輪 二 廻 生 死 一 不 レ 出 二 火 宅 J 答 日 。 依 一 大 乗 聖 教 λ 良 由 レ 不 F 得 一 4二 種 勝 法 一 以 排 中 生 死 伊 ︵ 以 下 略 ︶ 親鴛は阿禰陀の化身仰と仰ぐ法然上人がその主著の官頭に是れを引く真意を、未だ悌性を見、ざる﹁不出火宅、信心 ︵ M m ︶ 不定﹂の凡夫にわが身を重ねて、﹁信心が悌性﹂と告げたのではなかったか。信巻に﹃観経疏﹄︵散善義︶の文を引 間 目 。 き 、 人 間 の 本 性 を 、不 レ 得 一 一 一 外 現 一 賢 善 精 進 之 相 ﹂ 内 懐 一 虚 仮 ﹂ 貧 眠 邪 偽 、 好 詐 百 端 、 悪 性 難 レ 侵 、 事 国 蛇 蝿 。 ︵ げ ︶ と看倣し、又﹁唯信紗文意﹂には 具縛の凡夫、屠泊の下類︵中略︶かゃうのあきびと、猟師、さまざまのものは、みないし・かはら・つぶての ご と く な る わ れ ら な り 。 と、﹁凡夫としての機の自覚﹂に徹する親鷲自身を含めた罪悪深重の人間観を表明する。このような無傍性の衆生 が如来の救済を自身に発現する道を、親驚は同じく﹁唯信紗文意﹄に、 善悪の凡夫の、みずからが身をよしとおもふこころをすて、身をたのまず、あしきこころをさかしくかへりみ ず、また人をよしあしとおもふこころをすて\ひとすじに具縛の凡夫、屠泊の下類、元碍光悌の不可思議の 誓願、康大智慧の名競を信楽すれば煩悩を具足しながら元上大浬繋にいたるなり。 と、他力の信心に覚醒することを教示して己まない。さらに﹃歎異抄﹄十五章にある如く、 煩悩具足の身をもって、すでにさとりをひらくということ。この条、もってのほかのことにそうろう。︵中略︶ ﹁浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてきとりをばひらくとならいそうろうぞ﹂とこそ聖人のお お せ に は そ う ら い し か 。 と、暗に煩悩具足の衆生の信心獲得以前の悌性内在、即ち天台等の既存悌教に於ける悌性の本具・本有説を親驚は 容認していないことが窺知されよう。要するに親鷺は衆生に知来の信心が覚醒される時に偽性が発現すると捉えた の で あ る 。 2 、信心偽性の由縁 ﹁唯信妙文意﹄に、親驚の悌性観﹁浬繋・偽性 H 信心・偽性﹂の内実を窺う。 性起と修起 九
性起と修起
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浬繋をば滅度・無為・安楽・常楽・実相・法身・法性・真如・一如・悌性といふ、備性即ち如来なり。この如 ︵ 川 口 ︶ 来、微塵世界に満々たまえり、即ち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆへに、この信心即ち悌 性なり。偽性即ち法性、法性即ち法身なり。 親驚は、浬繋を法性法身の﹁浬繋偽性﹂と受け止め、此の悌性の用きである大悲の誓願を廻向されるところにはじ めて発起する信心を﹁信心悌性﹂と見定めたのであった。﹁行巻﹂に引く﹃浬繋経﹄﹁獅子肌品﹂には、 善男子、畢寛に二種有り。一者荘厳畢寛、二者究克畢寛なり。一者世間畢寛、二者出世畢克なり。荘厳畢寛は 六 波 羅 蜜 な り 。 究 克 畢 寛 者 、 一乗者名付けて悌性と為す。是の義を以ての故に、 一切衆生悉く一乗有り、元明覆えるを以ての故に、不能得見。 と、明らかに此処では一切衆生に一乗、即ち悌性が有ることが説かれ、天台は衆生の求道心を喚起させる意図で一 切の衆生に偽性本有︵本具︶を教相とするが、親驚は﹁元明に覆われた衆生﹂を﹁本願の信心を疑惑する衆生﹂と 看倣し、この類の人聞が親驚も含めた大多数である事賓に立って、通悌教の﹁一切衆生悉有働性﹂解釈とは異なる 一 切 衆 生 得 る 所 の 一 乗 な り 。 我一切衆生悉有働性と説くなり。 見解、即ち﹁究克︵出世︶畢寛﹂である証果としての大般浬繋を悌性︵如来︶と見据え、因位の﹁荘厳︵世間︶畢 寛﹂を他力廻向の﹁信心働性﹂とする偽性観を確立受容するに至ったのではなかったか。 ﹁ 真 偽 土 巻 ﹂ 末 に 明らかに知りぬ、安養の浄利は農の報士なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性をみることあたわず、煩 悩 に 覆 わ る る が ゆ え に 。 と、あくまで煩悩具足の身に偽性を当来させない。但、﹁大経﹄の本願三信心﹁真実信心﹂によって廻向される ︵ 幻 ︶ ﹁願作仰心﹂を﹁度衆生心﹂として、親驚は﹁唯信紗文意﹄に この信楽は衆生をして元上浬繋にいたらしむる心なり。この心すなわち大菩提心なり、大慈大悲心なり。この信心すなわち偽性なり、すなわち如来なり。 と、唯一煩悩具足の身が本願信楽によって無上浬繋に至らしめられ、 この信心をうるを慶喜といふなり、慶喜するひとは諸悌とひとしきひととなづく。慶は喜ぶといふ、信心をえ でのちに喜ぶなり︵中略︶信心をえたるひとおば分陀利華とのたまへり。 と、信心獲得が分陀利華の大前提であり、親驚は衆生に於けるそれ以前の悌性存在を語らない。親鷺の悌性観はあ ︵ 幻 ︶ くまで信心を得て﹁安楽園に到れば、すなわち必ず悌性を顕す﹂と断じる。親鷺が深重罪悪の衆生を我身に見て、 ﹁浬繋:::偽性﹂が衆生に於いて成就するのは、衆生に大悲の誓願を仰ぐ金剛の信心が本願力の廻向に由って自諾 されて初めて発現するものであり、それは一切衆生の救済という法蔵菩薩の誓願成就と同時間義的性格のものであ っ た 。 衆生、未来に清浄の身を具足荘厳して、例性を見ることを得ん。 ︵ M ︶ この﹁浬繋経﹄の経文の﹁未来﹂が時間的流れのそれでない事は一言、つまでも無いが、親驚はこの経文において、他 力の信心︵因︶を以て悌性︵果︶なりとする﹁信心偽性﹂を確かめたのであろう。尚、前に引いた﹃唯信紗文意﹄ の﹁この一切有情の心に方便法身の誓願を信楽するがゆへに、この信心すなはち偽性なり、この悌性すなはち法性 ︵ お ︶ なり、法性すなはち法身なり﹂の論拠は﹁浬繋経﹂三十二獅子肌菩薩品の﹁善男子大慈大悲名為悌性。︵中略︶大 信心者即是偽性﹂に見出せる。これを﹃浄土和讃﹄に、端的に浬繋偽性と信心悌性との関係性と内実を顕すようで あ る 。 如来即ち浬繋なり 浬繋を悌性と名づけたり、凡地にしては倍られず、安養にいたりて誼すべし 信心喜ぶそのひとを 如来とひとしとときたまふ 大信心は偽性なり悌性すなはち如来なり 性起と修起
性起と修起
3
、如来蔵の昆義 ︵ 幻 ︶ 宇 井 伯 書 師 は 、 ﹁ 如 来 蔵 ︵ 片 山 岳 山 宮E
’阿国号宮︶は如来胎であり、如来の胎児である衆生が将来如来と成るもので ︵ お ︶ あると見るべきである﹂と解し、﹁蔵コ一義説﹂において﹁衆生が悌性を有するにあらず、傍性が衆生を有している、 即ち衆生は偽性の中にあるという意味が如来蔵・胎なのである。﹂と講述する。 つまり一般的解釈とは逆なのだと いうことを公開したのが宗祖の悌性観である。﹃教行信証﹂における﹁阿弥陀悌論・浄土論﹂に悌性論は不可欠で あることは当然であるが、﹁所摂蔵・能摂蔵・隠覆蔵﹂三義の最初﹁所摂の義﹂には﹁われらは如来に蔵せられて いる存在なり、衆生は偽性中の一波澗に過ぎぬと自覚すべし﹂と説かれである事の認識が肝要であろう。高崎師は ﹁親鷲は、悌性とは大信心である、と悌性の大本を信心の中に見出したわけであり、そこに報恩念傍という浄土真 宗の教えが生まれ、悌性の問題を更に突っ込んで考え、追求するというところから、新しい鎌倉傍教が起こった﹂ ︵高崎直道著﹁偽性とは何か﹄一四頁法蔵館︶と講説し、また﹁悌性はこの信じるという事を除いてほかに何も無 い、その土台があるからこそ発心する﹂︵同六O
頁︶と指摘し、又、池田勇諦教授は﹁私が信心を戴くのではなく、 信心に摂め取られ、蔵せられる身になると考えるのが正しい。私の中に蔵せられる信心は高が知れており、またそ んな信心は我等を突き動かす力にはならない﹂と信心悌性の内実を喝破する。 宗祖は﹁浬繋働性 H 果、信心悌性 H 因﹂として、つまり信心に開発される悌性を果上の浬繋の因として、共にそ れを如来の用きと見るのであるが、この意味するところは、悌性が人間に内在するという視点ではなく、われらを 超えた者︵如来の本願︶からの我等への用きかけとして受け止められているということ、換言すれば﹁我らを作仰 せしめる用き﹂として受け止めているという点が確認されなければならない。﹁働性﹂を論じる時、これを対象化 して捉えるのではなく、あくまで衆生に現働する用きとして考えなければ、次項で論じる﹁性起と修起﹂の関係に 於いて、特に真偽土を窺う上での修起の持つ意義を正しく領解することは困難である。四、性起と修起の関係性について ー、性起・修起の語意 ﹁織田悌教大辞典﹂には﹁性起は縁起にたいする稿。縁起は異妄和合して起こる諸法故に染浄の差別あり。是れ 因位の如来蔵なり。性起は唯、真如法性が白から起こりて諸法となる故に唯浄法、是れ果海の法身なり﹂、と、縁 I l l i
−
−
Il−
−
I l l i−−−−|︵お︶
起が修起とほぼ同じ意味で解説されてある。又、﹁法蔵館悌教学辞典﹂には、﹁理具は本具、理造、性具、性徳等 ともいい、本来あるがままに本性として先天的に具えている意。事造は変造、事用、修起、修徳、修具等ともいい 本来具えているものが因縁に随って現れ諸現象をつくるの意。﹂と、性起・修起に通底する天台の﹁理具・事造﹂ なる述語として顕わされる。天台宗は性具を説き、華厳宗は性起を説くという特異知があるとされるが、華厳宗は 唯心縁起の法門にして重々無尽の法界縁起を説き、この縁起の考えを重要視する縁性三起説は華厳宗の教相︵唯心 縁 起 の 法 門 ︶ と さ れ る 。2
、華厳の縁起三種︵
初
︶
次に華厳宗に於ける修起の義を宇井伯寿師﹁縁起三種﹂の解釈に尋ねておきたい。 縁起三種の第一は、縁起は因縁が和合して諸法が現れる因縁生起の義、第二に縁起は化度すべき衆生の機に対し てその愚療迷妄を照らし救済する教えを説く機縁説起の義、第三が、縁起は因縁修起の義、又は方便縁修起の義で︵
訂
︶
ある。説法教化を因とし、方便に随って正しく修行して偽果の究克位に達する、所調十信・十住・十行・十廻向・ 十地・等畳・妙覚の五十二の階位は此の為に説かれ、菩薩︵因人︶はこれを行じて進みつつ、因果行誼凡て因縁生 性起と修起性起と修起 四 起の道理を瞳達するゆえにこれを修起の義とする。 さらに性起と修起の関係を窺うに、性起の性は不改、不起の義であり、起は縁起の起を指す、不起である性が因 縁によって起るから縁起であるが、縁起であってもその性を改めないから性起と言い、華厳宗は縁起は因分︵普賢 菩薩因人の境界︶、性起は果分︵毘慮舎那果人の境界︶という関係で縁起性起の異同を捉えるようである。縁起の 因は性起の呆を全うして起り、性起の呆は縁起の因を離れないから因果不二門︵因果相即門︶と称される内実が領 ︵ 日 記 ︶ 解されよう。また、翠柵註﹄﹁浄入願心章﹂の二種法身説は、性起を法性法身に、修起を方便法身に置き直して観れ ︵お︶ ば、後述の阿弥陀如来の﹁在る︵果︶と成る︵因︶﹂という﹁性起︵果︶と修起︵因︶﹂の関係が、﹁由生由出﹂の 得 意 に よ り 理 解 さ れ 易 い 。 3 、 ﹁ 性 の 四 義 ﹂ の 教 示 次 い で ﹃ 論 註 ﹄ 上 巻 の ﹁ 性 の 四 義 ﹂ を 尋 ね る 。 ︵ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 一 ・ 二 八 七 頁 ︶ 註論に日く荘厳清浄功徳成就は偏に観彼世界相勝過コ一界道故と言えり、此云何不思議なるや凡夫人︵中略︶又 云正道の大慈悲は出世の善根より生ずと。此の二句は荘厳性功徳成就と名づく。 ︵但︶ 先ず二十九種荘厳の総説として一法句に略される﹁清浄功徳成就﹂が示され、次いで麿相二十九種功徳中、最初に ﹁性功徳﹂の掴伸文が﹁真偽士巻﹂に引かれるところから、﹁浬繋経﹄の悌性義に通底する﹁性功徳﹂を、真偽土を 明かす誼文として親鷲がここに拍提した必然性と重要性が窺われる。 宗祖は﹃教行信証﹂﹁真悌土巻﹂に於いて﹁浬繋経﹄を多く引き﹁一切衆生悉有働性﹂義を尋ね、次いで﹃論註﹄ の﹁性﹂の四義、即ち性起・修起説から誓願酬報の虞賓報士の相を顕開する。 この﹃論﹄﹃論註﹄の二句﹁正道大慈悲出世善根生﹂を開華院法住師は、
正は真如法性にして性起の義を顕す。道とは法蔵菩薩の智慧のことなり、道と云ひ大慈悲と云ひ出世善根と云 ふは、法蔵菩薩の大願大行なり、これ積習の義と聖種性の義とを顕す。生と云ふは安楽浄土の荘厳の事、即ち 清浄平等無為法身の土なり、︵中略︶故に生の字に必然・不改の義を具せり。 と、本義の真如法性の性起が法蔵菩薩の大願大行によって成就した安楽浄土︵性功徳成就・修起︶であることを明 かすが、性起と修起の関係がどのようなものであるかのヒントを提示する。曇鷺は、願生備の﹁正道大慈悲出世善 ︵ 釘 ︶ 根生﹂を﹁荘厳性功徳成就﹂と名づけ、その内実を﹃論註﹄に具さに説く。 性は是れ本の義なり、言ふこころは此の浄土は法性に随順して法本に誌かず、事﹃花厳経﹄賓王如来の性起の ト M m ︶ 義に同じ。又言ふこころは積習して性を生ず、法蔵菩薩を指す、︵中略︶是の性の中にして四十八の大願を発 して此の土を修起せり、即ち安楽浄土と日ふ。是れ彼の因の所得なり、果の中に因を説く故に名付けて性とな す。又言ふこころは性は是れ必然の義なり、不改の義なり。︵原漢文︶ ﹁性﹂とは何かが説かれるが、親驚は阿嫡陀の浄土が﹁法蔵菩薩修起の性功徳﹂であって、真如法性が性起した世 界であることの証文として此の性四義の調停文を﹁真偽士巻﹂に引いていると窺える。本来性という意味で本の義が ﹁性起﹂として第一に指摘されてあるのは当然ではあるが、性の四義を﹁真偽士巻﹂で見るときは、寧ろ因行・発 行・果徳の﹁修起﹂が真加法性の具体的顕現としての真偽士の証文として前面に出ている。故に此処での第一義は あくまで﹁修起﹂であって、宗祖は法蔵菩薩誓願酬報の悌土を大乗の真如法性の理の具体的顕現、即ち虞の報偽報 土として顕関する。高崎直道師は﹁働性ありという思想は、悌の教えに対する信を前提にする、まさに悌の教えを 信じる事が偽性の始まりであるが、信じたならばそれで片がつく︵成悌︶というのでなくここから修行が始まるの ︵ ぬ ︶ である﹂と信心を解釈し、﹁成る如来﹂としての修行即ち﹁修起﹂を強調する。右の﹃論註﹄の﹁性四義﹂を整理 すれば次表の如し。前に華厳の﹁縁性二起﹂説﹁縁起の因は性起の果を全うして起り、性起の果は縁起の因を離れ 性起と修起 五
性 起 と 修 起 ム ノ、 ぬ因果不二門︵因果相即門︶﹂と対照して﹁修性二起﹂の関係を理解したい。 本 の 義 ・ ・ : 如 来 性 起 : : : : : : ︵ 本 来 性 ︶ Il − − 性 起 ・ ・ ・ 在 る 如 来 ︵ 国 土 ・ 果 ︶ 署 員 因 行 量 産 因 ︵ 因 性 ︶ ﹂ ↑ 在 る 如 来 ︵ 国 土 果 ︶ が 、 成 る 如 来 ︵ 国 土 因 ︶ と し て 現 働 す る 。 聖 種 の 義 : : : 発 行 ・ 菩 薩 初 地 の 位 ︵ 因 性 ︶ | | 十 | 修 起 ・ ・ ・ 成 る 如 来 ︵ 国 土 ・ 因 ︶ 必 然 の 義 : : : 果 徳
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− − : : ・ ・ 果 ︵ 果 性 ︶ |L
親驚は独自の悌性論﹁浬繋悌性と信心傍性﹂を開顕するが、是れも性起と修起の関係に通底すると考えたい。以 上、本来性という意味で本の義が﹁性起﹂として第一に指摘されてあるのは当然ではあるが、﹁真偽士巻﹂で性の 四義を見るときは、寧ろ因行・発行・呆徳の﹁修起﹂が、真知法性の具体的に顕現する真悌土の証文として前面に 出ている点を確かめておきたい。故に此処での第一義はあくまで﹁修起﹂であり、且つ宗祖は法蔵菩薩誓願酬報の 国 土 を 虞 の 報 偽 報 土 と 明 か す 。五、不虚作住持功徳の内実
修起に焦点ありとすれば、必然的に虚作ならざる法蔵菩薩因位積習の願果としての不虚作住持功徳に展開してい く 。 ﹁ 高 僧 和 讃 ﹄ ︵ 天 親 菩 薩 ︶ の 本願力にあいぬれば 功徳の賓海みちみちて ︵ 紛 ︶ は、不虚作住持功徳の核心を顕わし、浄土を虚作ならざる住持功徳︵名競・浄土︶、虚作ならざる本願力に住持せ られた、人生を空過せざる国土荘厳︵浄土・功徳︶と表明するが、現代において﹁浄土とは何か﹂を考える手掛か 空しくすぐるひとぞなき 煩悩の濁水へだてなしりを、修起としての因位法蔵菩薩の本願と、性起としての果上たる如来の神力との相存せる関係を明かす﹁不虚作 住持功徳成就﹂の備荘厳に見出せないであろうか。 ﹃論註﹄上巻では浄土をまず﹁困願﹂から、次に下巻でその﹁成就﹂から明らかにするという、因願と成就とい う上下二巻から成る。上巻は因位の願心から浄土の荘厳を問い、三十九種荘厳功徳がどうして発せられたかという ことを明かす。下巻はそれが成就した事実、呆上の働力から浄土の荘厳を問うている黙をおさえた上で、先ず上巻 の偶文﹁観悌本願力遇無空過者能令速満足功徳大賀海﹂を窺う。 此四句名荘厳不虚作住持功徳成就 J 備 本 何 故 起 二 此 荘 厳 ﹂ ︵ 中 略 ︶ 不 レ 勉 一 コ 一 途 ﹂ 善 星 ・ 提 婆 達 多 ・ 居 迦 離 等 是 也 。 ︵ 中 略 ︶ 有 二 如 レ 是 等 空 過 者 退 没 者 ﹂ 是 故 願 言 。 使 下 我 成 働 時 、 値 一 一 過 我 一 者 、 皆 速 疾 満 中 足 元 上 大 賓 日 是 故 言 ︵ 但 ︶ ﹁ 観 備 本 願 力 遇 無 空 過 者 能 令 速 満 足 功 徳 大 賓 海 ﹂ o これは因願から四句を解釈した文であり、これと対比すれば次に一不す下巻の文では、明らかに願果からの解釈であ ることが分る。又、﹁成・就﹂の二字を以て﹁願・力﹂に配当して、如来の因位の願に由って果上の力を獲得したこ とを﹁成﹂、その力が本願通りに用くことを﹁就﹂とするが、これより願力と成就の内実が具さに領解される。 の ﹁ 不 虚 作 住 持 功 徳 ﹂ を 顕 す ﹁ 論 註 ﹄ ﹁不虚作住持功徳成就﹂者、蓋是阿弥陀如来本願力也。乃至一百所不虚作住持者、依二本法蔵菩薩四十八願、今 ︵ 位 ︶ 日 阿 弥 陀 如 来 自 在 神 力 ﹂ 願 以 成 レ 力 、 力 以 就 レ 願 。 願 手 徒 然 ﹂ 力 不 二 虚 設 ﹂ 力 願 相 存 畢 寛 不 レ 差 故 日 一 歳 就 ﹂ とある如く、親鷺は果上の自在神力と法蔵菩薩の因願と、力・願相存う不虚作住持の内実を、性起︵浬繋係性・ 果︶と修起︵信心偽性・因︶の関係に於いて﹁論註﹄上下巻に尋ね、﹁浬繋経﹄の悌性義を多く引用して真偽土を ︵ 必 ︶ 明かさんとした意図が窺える。﹃正信念倒閣﹂曇鷲讃の備文に﹁天親菩薩論註解報土因果顕誓願﹂と、本来浄土 成立の因が誓願にあるのは当然だが、報土の因のみならず果も含まれである点が注目される。これは報土が法蔵菩 薩積習の果成である事実と、浄土の成立が法蔵菩薩因位の誓願を離れて在り得ないことを顕わす。約せば禰陀の浄 性起と修起 七
性起と修起 J¥ 土に往生するための因行も誼果も共に法蔵菩薩の誓願の然らしむるところなのである。 法蔵菩薩の誓願成就、即ち衆生の往生と成備について言えば、衆生にとって人生の収まっていく︵必至滅度︶方 向の定まった現在が住正応別であり、定棄に住したという今の在り様︵往生・因︶の方向が必至滅度︵成悌・果︶ である。必至滅度は方向︵果︶であるけれども根拠︵因︶、根拠︵因︶であって方向︵果︶という関係を約せば、 ﹁ 必 至 滅 度 ︵ 如 ・ 因 ︶ H 住 正 定 衆 ︵ 来 ・ 果 ︶ 、 住 正 定 取 県 ︵ 来 ・ 因 ︶ H 必至滅度︵如・果︶﹂となる。親驚は法蔵菩 薩の誓願を本願他力念仰の機、弘願虞宗の行者に永劫に現働する用きとして捉え、﹁修性二起﹂交互成就の関係に おいて真偽士︵按土︶の内実を見据えている。然れば色・形・相の無い無形の誓願を有形化した言わば方便として の浄土が、﹁何処かに在る空間﹂として考えること自体が全くの妄想であることに気付かされる。願心と悌力の両 面からアプローチされた浄土の功徳であり有相の方便法身である二十九種の浄土荘厳は、﹁在る国土︵性起・悌力︶ が、成る国土︵修定・願心︶として衆生に現働する﹂阿禰陀の色・形・相の無い本願の用きを、かたちで現して衆 生に具体的に知らせる手掛かりであることが確かめられる。 ム ノ 奇士 平日 び 以上のことから、浄土とはあの世にあるとか無いとか、浄土へ行くとか行けないとか、或いは単純に人生の終わ りに行くところ等というものではなく、寧ろ本願荘厳の浄土の功徳を賜わってこの穣土を生きる、却って﹁人生の 出発点﹂に見出す世界なのである。換言すれば﹁人間として生きる原理根拠としての浄土観に立つ﹂という趣意が 親驚教学、﹃教行信証﹄の教学といわねばならぬことが領かれるのではないか。法蔵菩薩永劫の積習によって成就
する因位の本願力︵不虚作︶に限りなく還って往く悌道︵住持︶が宗祖の生涯を貫徹する往生浄土の歩み であり、そこに於いてこそ真知法性が具体的に修起された浄土の世界として﹁真偽土﹂が覚知されるのであろう。 念備を称えて浄土に生まれ、念併を称えて今浄土を知らされる、浄土の功徳に立って婆婆︵械土︶の現実を全うさ ︵ 功 徳 ︶ せられ、生きさせられていくという浄土観、この﹁不虚作住持功徳﹂に生きる原理を教えるのが浄土真宗であり、 浄土思想は決して単純な終末思想ではないことを改めて確かめねばならない。 註 ︵ 1 ︶東本願寺二 OO 六年安居本講講録﹁真実謹の廻向成就﹄一六八頁﹁因位と果上の不二性﹂参照 ︵ 2 ︶悌性・・阿弥陀悌の得たる大浬繋の妙果、偽陀の本性を一言う。即ち﹁浬繋は即ち是れ無尽なり、無尽は即ち是れ悌 性 な り ﹂ ︵ ﹃ 大 浬 繋 経 ﹄ 巻 五 ︶ と あ る 如 く 、 偽 性 は 不 生 不 滅 絶 対 無 限 の 大 浬 繋 と い う 根 本 的 思 想 で あ る 。 ︵ 3 ︶性起・・現象世界が諸条件に依存して生起することを﹁縁起﹂というのに対して、﹁性起﹂は現象世界を真如・法 性など究極的な果がそのまま生起した相。次下の修起と共に﹃華厳経賓王如来性起品﹄に説かれる。 ︵ 4 ︶修起・・性が不変の本体とすれば修は縁に随って変化する作用、法の本性に対し人の修行をも意味し﹁修・性二で あって不二﹂、修行と法の本性は互いに離れて成立しない意味の﹁修性︵謹︶不二﹂を説く。︵十不二門第三︶詳 細 本 論 中 。 ︵ 5 ︶﹃真聖全﹄一・二八七頁 ︵ 6 ︶﹃真聖全﹄二・一二 O 頁 ︵ 7 ︶第十八願﹁設我得仰十方衆生至心信楽欲生我国乃至十念若不生者不 ︵ 8 ︶ ﹃ 続 真 宗 体 系 ﹄ 第 八 巻 ・ ﹁ 教 行 信 証 金 剛 録 ﹄ ﹁ 真 偽 土 巻 ﹂ 一 五 三 頁 ︵ 9 ︶﹃摩詞止観﹄巻六﹁境に就いて法身と為し、智に就いて報身と為し、 ゴ 二 頁 ︶ ︵ 叩 ︶ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 二 ・ 六 三 O 頁 ︵ 日 ︶ ﹃ 真 聖 全 ﹄ 二 ・ 六 一 六 頁 取正覚。唯除五逆 非 誘 正 法 。 ﹂ 用を起こすを麿身と為す o ﹂ ︵ 虞 宗 大 辞 典 七 性 起 と 修 起 九
性起と修起 四