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「競争」の概念 : 新オーストリア学派の立場

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「競 争」 の 概 念

新オーストリア学派の立場一

越  後  和  典

 競争概念が経済学における基本的な概念であることを疑う者はいないが,こ の言葉によって理解される内容は学派によって相違し,しかもその相違が,論 者の市場経済に対する理論的認識と政策的対応の在り方を規定する重要な要素 の一つとなっているように思うQ  近年,筆者は近代経済学の競争理論ないし価格理論の応用部門として開発さ れてきた主流派産業組織論の有効性に疑問を抱き,その解明にいささか時間を 費してきたが,産業組織論に対する不満は,その原因を遡れば,これをミスリ ードした主流派経済学の競争概念に帰着すると考えるにいたった。  この小論は産業組織論についての批判的研究の序説の一部をなすものであっ て,その目的は近代経済学における主流派的地位を失って久しいミーゼス,ハ イェク以後のいわゆる新オーストリア学派の競争論の核心と思われる部分を紹 介しつつ,主流派経済学の競争概念を批判することである。 T.  日常的な用語として,われわれが競争という語を使用する場合には,この語 はライバルにまさる何等かの業績を上げるための努力といった意味を持ってい る。この意味での競争現象は,経済の領域のみならず,広く人事百般に見受け      られるが,市場経済の下では,それは潜在的な顧客を獲得し,売上げを伸ばし, 1)社会学者の臼井教授は,〔33)379ペーージにおいて,競争を次のように定義してい  る。「複数の主体(個人または団体)が限りある有形また無形の対象を追求し,その  追求の働きないし業績の優劣の度によって,それぞれの主体の受けるべぎその対象の

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 2 彦根論叢第218号

究極的には利潤を増大するための企業間の対抗的な工夫・努力,あるいはその 継続的な展開過程を意味している。そこでは,たとえば,価格引下げ,製品差 別化,広告,サービスの強化,技術開発の推進等の企業の市場行動ないし競争       の 的戦略とその展開過程が,競争として理解されていることは明らかである。  ところが,主流派経済学で競争という場合には,このような市場における企 業間の人格化された対抗・角逐を意味しない。それは完全競争ないし純粋競争 に近い市場構造ないし市場状態を指している。すなわち,個々の売手の対面す る需要曲線が水平であるような状態を完全に競争的というのである。       ま   完全競争では以下の諸条件が具備されているものと想定される。  (1)市場規模に比べて相対的に小規模の多数の売手・買手によって,同質商 品の需要・供給がなされ,個々の売手・買手は,そのいずれもがその行動によ って価格に影響を及ぼすことを期待しえない。  (2>市場への自由参入が可能であり,価格変化や資源の移動に対して,何の 制約も存在しないQ  (3)市場への参加者のすべてが,レリバントな要素について完全知識を持っ ているQ  以上の諸条件下の市場の長期均衡では,経済利潤及び損失は存在しない。そ こでは資源は,所得分配を所与とすれば,可能な限り効率的に配分され,いわ ゆるパレート最適性が実現され,社会の経済厚生は極大化するといわれる。し たがって,この完全競争は,理想的市場構造という規範的な判断の基準を示す  割合が定まる場合に,それらの主体は競争者とよばれ,かれらは競争をするといわれ  る。」「競争者は自己に有利な判定を得んとして,他にまさる業績の量や質を呈示せん  と努力する。」この定義は,日常使用されているような意味での競争をかなり適切に  表現している。 2)競争の経済学的な定義規定をめぐる問題点と学説史的な考察については.Dewey  〔9〕の第1章に詳しく取扱われているほか,McNulty〔25〕,〔26〕およびStigler  〔32〕が特に参考になる。 3) 完全競争の基本的条件については,近代経済学の多くの教科書で取上げられている  が,以下の列挙はHayek〔13〕95ページによる。

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       「競争」の概念  3 ものとして理解されることになる。  さて,上述した完全競争の諸条件から容易に推察されるように,完全競争下 の企業が,他企業に先んじて値下げを行ったり,製品を差別化したり,生産方 法の改善に努力するなど,日常的な意味での競争を行うことは,前提によって ありえない。完全競争下では値下げをしなくても,企業はその産出量のすべて を所与の市場価格で販売することができるし,売手はすべて同質財の生産者で あって,製品差別化はそもそも最初から存在せず,情報は完全であって,最善 の生産方法はすべての売手によって知悉され採用されているからである。この 意味において,完全競争によってみずからを表現する主流派経済学の競争概念 は,たんに日常的な意味での競争概念と異質であるというにとどまらず,両者 はその本質において矛盾するものといわざるをえない。  ここで注意すべきは,このような主流派経済学上の特異な競争概念は,アダ ム・スミス(Adam Smith)の時代からそうであったわけではない,というこ とである。競争は『国富論』以前から,すでに経済学の基本的概念の一つであ   の ったが,そこでは,競争は日常的な用語法と同様に,対抗性の意味において使 用されており,その機能としては,超過利潤を排除し,市場価格を実現鳶能な 最低水準へ引き寄せるものとして理解されていた。スミスも競争を積極的な価 格対応を通じて,市場価格を「自然価格」に一致させる力として理解していた       らう ように思われる。マクナルティ(Paul 」. McNU lty)〔25〕の指摘するように, 古典派経済学者の時代には,競争は恰も物理学の世界における引力の如く,経 済社会における秩序と安定性を保障するものと考えられていたといえよう。  競争が古典派経済学的ないし日常的な意味を失い,上記のような特異な意 味を有するにいたったのは,マクナルティによれぽ,クールノー(Augustin 4) 『国富論』出版以前の競争概念については,McNulty〔26〕参照。 5)Adam Smith〔31〕第1編第7章参照。なおスミスが競争者の数と競争の強さの関  係に配慮したと考えられる個所がないわけではないが(Modem Library p.342,水  田訳(上)306ページ),基本的には競争を市場構造としてではなく,ライバルよりも  「より安く売る」という行動として把えていることは,McNulty〔25〕,〔26〕の指摘  する通りである。なお拙稿〔10〕参照。

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Cournot)〔8〕以来のことである。彼は,クールノー,ジェボソス(W.Stanley Jevons)〔16〕,エッジワース(F. Y. Edgeworth)〔11〕等をへて,ナイト(Frank H.Knight)〔18〕にいたる経済学における分析用具の洗練化の過程で,競争 概念がスミス的なそれから,企業の対面する需要曲線が水平であるような状態       のを意味するものへと,基本的に変化していったことを明快に論じている。  マクナルティの指摘するように,クールノー以後の競争概念には,市場行動 的な内容が欠落しているが,これはクールノーの関心が競争の現実的な作用様 式よりも,むしろその作用の結果にあったからである。競争の効果を厳密に表 現するために,彼は競争の市場行動的過程ではなく,その過程が極限にまでゆ きつくした状態として競争を規定したといえる。物理学の世界にたとえるなら ば,スミス的な競争は引力の如き秩序形成力であったが,クールノー的完全競 争は,理想化された特定の状態,たとえば完全真空の状態といった考えに近い ともいえる,とマクナルティは論じている。 皿  経済学者の多くは,上述した完全競争を分析上有用な抽象的理論モデルとし て,或は理想的市場構造という規範的判断の支柱として評価してきたが,すべ ての経済学者が完全競争論を金科玉条の如く考えてきたわけではない。完全競 争モデルの非現実性を強調し,より現実的なモデルに代替すべきことを論じる 者や,完全競争はかりにこれが実現可能であるとしても,必ずしも理想とはい えない点を指摘する学者も少くない。しかもそうした批判は,1930年代のロ ビンソン(Joan Robinson)〔28〕やチェンバレン(Edward H. Chamberlin) 〔6〕,或は1940年代のシュムペータ(Joseph Schumpeter)〔30〕やクラ_ク (John M. Clark)〔7〕以来,その跡を絶たないように思われる。すでにチェ ンバレンは,次のように述べている。   「製品が差別化されていることについての明白な認識は,多様性の問題を 6)McNulty〔25)。なおStigler〔32〕では, Edgeworth〔11〕は完全競争の体系的で  かつ厳格な定義を与えた最初のものとされている。

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      「競争」の概念  5 公然化させ,さらに,純粋競争はもはや厚生経済学の目的にとって,いかな る意味においても理想とはみなしえないことをも明らかにする。……買手の 嗜好・欲望・所得および立地における相違とか,商品の用途上における相違 とか,すべてこれらのことは,多様性の必要と競争的理想という概念を独 占・競争の両者を包む理想におきかえる必要とを示唆する。どの程度,どの 種類の独占が理想か,また,どのような社会的統制が理想的か,こういうこ       の とが問題となる。」 また,シュムペーターは次のように述べている。  「経済学者はいまやっと価格競争だけしか研究していなかった段階から抜 け出しつつある。品質競争や販売努力が理論の聖なる領域内にはいることを 許容されるや否や,価格変数は従来の支配的地位から追放される。しかしな お彼らが実際に注意を集中しているものは,生産方法,とくに産業組織形態 の不変な条件の下での固定的な類型内における競争にすぎない。だが教科書 的構図とは別の資本主義の現実において重要なのは,かくの如き競争ではな く,新商品・新技術・新供給源泉・新組織(たとえば,支配単位の巨大規模 化)からくる競争である,一この競争は,費用や品質の点における決定的 な優位を占めるものであり,かつまた現存企業の利潤や生産量の多少をゆる       さ  がすという程度のものでなく,その基礎や生産自体をゆるがすものである。」  「完全競争はただに不可能であるばかりでなく,劣等なものであり,理想 的能率のモデルとして認定されるべきなんらの資格をも有しないものであ る。したがって,大企業を完全競争下の当該産業の作用するがごとくに作用 せしむべきだとの原理の上に,産業に対する政府統制の理論を基礎づけるこ       9) とは正しくない。」 以上のような批判よりも,さらに一層透徹した完全競争論批判は,ハイェク 7)Chamberlin〔6〕P.214,青山訳262−263ページ。ただし訳文は青山訳の通りでは  なく,引用者(越後)が改訳している箇所がある。 8)Schumpeter〔30〕p.84,中山・東畑訳153ページ。 9)Schumpeter p.106,同上訳書193ページ。

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(Friedrich A. Hayek)〔13〕,〔15〕とその流れを汲む新オ・・=ストリア学派の 気鋭の論客カーズナー(lsrael M. Kirzner)〔17〕の所説にこれを見ることがで きるが,それらに論及するまえに,同じ新オーストリア学派のアルメンターノ (Dominick T. Armentano)〔1〕による水平的需要関数批判を紹介しておき たい。  アルメンターノによれば完全競争の場合の個々の売手の対面する完全に弾力 的な需要関数という観念には,論理的に問題がある。いうまでもなく,市場価 格は市場需要の合計と市場供給の合計によって決定されるのであるが,均衡価 格では,消費者は市場における製品のある正確な量一決してそれ以上ではな い一を購入する。だから,供給のいくばくかの増加は,一もしそれが販売 されるべきであるならぽ一市場供給と市場価格に対して何ほどかの知覚しう る効果を持たねぽならない。その効果は小さいかも知れないが,しかし追加的 産出量を販売するには,消費老によって感知されうる何ほどかの価格に対する 効果がなくてはならない。アルメンターノは以上のように推論し,次のように 論じる。   「経済の世界は,価格がパラメトリックでありうる純粋数学的なモデルと  異なり,無限に小さい計算のステップ,或は極限というものはない。産出量  調整は,たとえ少量であっても,それにもかかわらず不連続変化であって,  価格に対し何ほどかの知覚しうる効果をもつはずである。個別的需要関数は  極めて弾力的であるかもしれないが,完全に弾力的な需要関数は論理的に可       エ り  能であるとは思われない。」  さらに彼は,水平的需要曲線に対する追加的な難点として,数学的なターム では,この曲線は関数ではないとし,次のように述べている。   「数学の方法論では,二つの変数の間の関数関係は,常に独立変数のすべ  ての値に対してそれぞれ一つだけの従属変数の値が存在する。経済モデルで  は,周知の軸は逆転しうるとはいえ,価格は明らかに独立変数であり,需要 10) Armentano (1) p. 23.

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       「競争」の概念  7  量は従属変数:である。しかるに完全弾力的な需要曲線は,一つの独立変数  (価格)と関係する従属変数(需要量)の値も無限の数があることを意味す  る。だから競争における完全弾力的な線(暫くそれが存在すると仮定して  も)は需要関数ではない。それゆえわれわれは,完全弾力的な需要関数とい  う観念は,正当なものではなく,原子的モデルの現実性や最適性についての        11)  批判とは別に,それ自体として否定されねぽならない。」  この批判はいうまでもなく,重要な経済厚生上の含意を持つように思われ る。アルメンターノのいうように,完全に水平的な需要曲線なるものはありう べからざるものであり,すべての需要曲線は右下がりの勾配を持つとするなら ば,価格と限界収入とは一致せず,すべての売手は,その産出量を限界費用が 価格ではなく限界収入に一致する点でその産出量を制限することになる。しか しこのような行動は,もはや市場支配力と結びつくものではなく,すべての企 業のごく自然な行動にほかならない,といえよう。この場合,資源がミスアロ ケートされるというのは,完全競争均衡と比較してそういうのであるが,そも そも水平的需要関数を持ったそうした均衡状態が論理的に不可能であるとする ならば,いわゆる不完全競争下の資源のミスアロケーションに関する主流派理         論は,その根拠を喪失することになる。 皿  上述の完全競争論批判は,いずれも完全競争モデルの弱点を鋭く衝いたもの であるが,競争の意味についての深い洞察に根差す最も透徹した完全競争論批 判は,いうまでもなくハイエクおよびカーズナーのそれである。  ハイエクの競争論の核心は,競争を「発見の手順」(discovery procedure) 〔15〕として把握する点にある。彼によれば,いわゆる近代経済理論は,出発 点から競争過程の性格を正しく評価する方法を妨げている。けだし,それは稀 少資源の所与の供給という仮定から出発するからである。しかし,一体どの財 11) lbid,, pp. 23一一一24. 12) Cf. ibid., pp. 22一一32.

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がどれほど稀少なのかは,正確には競争が発見すべき事柄ではないか,という のである。 「近代競争的均衡理論は,競争過程の効果として説明されるべき状        エヨ  態を存在するものとして仮定してしまっている。」  たとえば,完全競争理論は前述したようにすべての市場参加者がレリバント な要素について完全知識を持っていることを前提しているが,この出発点にお いて所与とされる完全知識すなわち,ある商品を最低費用で生産する方法と か,消費者が需要する財・サービスの種類や,消費者が支払う意思のある価格 等についての正確な知識は,ハイエクによれば,競争過程を通じてはじめて発 見されうるものなのである。「競争的均衡の理論が,それをもって出発する仮 定の特上的な性格は,もしそれらの諸条件がすべてみたされるならぽ,<競争 する〉という言葉によって一般に示されるどのような行動が可能なのだろう       エの か,と問うとき明瞭となろう」という。  もし,市場参加者が完全知識を持っているならば,競争は必要でなく,それ は全くの浪費的な過程にほかならない。ハイエクのいうように,「いかなる場 合でも,競争を利用することが合理的に正当化されうるのは,われわれが競争 者の行動を決定する事実を予め知らないという理由によってであることを想起 することは有益なことである。スポーツでも試験でも,……もしわれわれが誰 がベストであるかを事前に確認しうるのであれば,競争という仕組みは明らか        の に無意味である。」  ところで,ハイエクが以上のように競争を知識の「発見の手順」であるとい うとき,その知識とは,社会的に広く分散している「特定の時・場所」,即ち 特定の状況についての科学的知識と呼ぶことのできない非体系的な知識をも含 むことに注意せねばならない。非体系的な知識とは,ある機関がこれを調査し て中央計画当局にそれを伝達し,中央計画当局が何等かの方法でそれらを総合 し,その情報にもとづき指令を発するといった方法で利用することが不可能な 13) Hayek (13) p. 94. 14) lbid. 96. 15) Hayek (15) p. 179.

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       「競争」の概念  9        ユの 知識,という意味である。無数の経済主体(市場参加者)の聞に分散している このような知識を社会的に動員し,これを活用できるのは,ミーゼスにな:らっ てハイエクが後に「カタラクシー」(catallaxy)と呼ぶ市場によって生み出さ       17) れた自発的秩序(spontaneous oder)の下においてのみである。ここに計画経 済にまさるいわゆる市場経済の特質があると考えられているのも,周知の通り である。  ハイエクが競争を知識の「発見の手順」として把握していることは,とりも なおさず,彼が競争を上述の意味での知識の社会的動員のための方法として理 解していることを意味する。換言すれぽ彼の競争論は,彼のいう「カタラクシ ー」の議論と表裏一体の関係にあるといってよい。  さて,ハイエクの上述の競争観を継承し,ハイエク的な意味での競争過程を 企業家(entrepreneur)の役割との関連で,さらにいっそう深く解明すること       ユ   に成功したのはカーズナー〔17〕である。  カーズナーもまたハイエクと同様,市場参加者(消費者,生産者,資源所有 者)は不完全な知識しか持っていないと想定する。不完全な知識しか持ってい ないということは,たとえば,ある売手の市場における販売の計画は,買手の 行うであろう購買の計画および,他の売手の行うであろう販売の計画について の予想に依存していることを意味する。だから,そのなされた当初の決定(計 画)が最善のものであるのはむしろ偶然というべきである。通常は,取引の相 手方および競争者の決定(計画)に関してなされた予想が,過度に楽観的であ 16)Cf. Hayek〔!2〕pp.77∼91.拙稿〔10〕参照。 17) カタラクシーの意味については,Hayek〔14〕pp. 90一・一92,邦語文献では古賀〔19〕  54∼57ページに詳しい。なお古賀〔19〕はユ08∼110ページにおいて〔15〕を「発見方  法としての競争」として,紹介しているほか,全体的にハイエクの学問体系を明快に  論述しており,本書は極めて注目すべき業績である。 18)新オーストリア学派による現代の経済思想および政策批判を取扱ったパンフレット  であるLittlechild〔24〕p. 83. tlこおいて,彼はKirzner〔!7〕を「最近四半世紀にお  けるミクロ経済学に対する最も重要な貢献の一つと述べているが,筆者も同感であ  る。カーズナーのこの書物については,拙稿〔10〕において,かなり詳しく紹介して  いるのでそれを参照されたい。

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って当初の計画が達成されなかったり,逆に悲観的でありすぎ,正しい予想の 下では獲i得可能であった市場機会を失ってしまったことが,一定の時間の経過 の後に判明する。そこで市場参加者たる企業は,他の市場参加者の決定に関 し,経験から得られた新しい情報にもとづいて当初の決定の訂正を行わざるを えない。このように,ある時期になされた決定が次期に変更されるという,い わば試行錯誤のくりかえしを,カーズナーは市場過程の現実の姿として把える    エ   のである。  もし,他の市場参加老の行う決定について,完全な情報が予め与えられてお り,それにもとづいて決定がなされるのであれば,どの企業も次期にその計画 を変更する必要を感じない筈である。少くとも嗜好や技術などの市場の基礎デ ータに自律的な変化が発生しないかぎり,個別的な市場参加者の計画はすでに 調整済であり,市場は均衡状態にあり,市場過程そのものを必要としない。市 場過程は市場参加者たる企業の予想が楽観的であったり,悲観的であったりす ることが発見されることから生じるのであり,これを発見し決定の変更を行う        おののは,市場参加者たる企業の企業家的要素(企業家精神)にほかならない,と カーズナーは論じる。  カーズナーは,ミーゼス(Ludwig von Mises)の主著『人間行:為論』〔27〕 を援用しつつ,企業家の本質的要素が,従来気づかなかった潜在的に価値ある 新鮮な目標,知覚されていなかった資源に向って常に発揮される機敏性(aler− tness)という性向にあると考えるが,市場過程の特質は,このような意味です ぐれて企業家的であり,企業家的であることは競争的であることにほかならな いという。競争的であるというのは,他の市場参加者よりもより魅力的な機会 を市場に提供することによって,相互に他を凌駕しようとする問断のないレー スが展開されているからである。市場過程は市場参加者によるこのようなレー スの展開,すなわち競争によって進展するのであるから,市場過程は競争過程 19) Cf. Kirzner (17) pp. 9一一一11. 20) Cf. ibid., pp. 13一一一14.

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       「競争」の概念  11       う であり,その本質は企業家的である,というのである。  さて,以上に概観したハイエクとカーズナーの競争論のユニークさは,カー ズナーによるチェンバレンやシュムペーター批判をみれば,いっそう明瞭とな る。  J・Pビンソソの「不完全競争の経済学」〔28〕やチェンバレンの「独占的 競争の理論」〔6〕は,一般に完全競争理論よりも,より現実的であると信じ られてきた。その理由は,彼等の「新しい理論」が,製品差別化,広告,ある いは相互依存的な需要曲線を考慮していると考えられているからである。たし かに,自由参入が利潤を削りとりながら,しかも価格を最低平均費用よりも高 いままにしておくようなチェンバレン的世界は,一見完全競争の世界よりも現 実的であるかにみえる。しかし,カーズナー存こよれば,その「独占的競争の理 論」もまた,彼等が非現実的として批判する完全競争の理論と同様の欠陥を持 っている。それは需要曲線を所与と仮定してしまっているからである。この理 論は,一つの均衡論を他の均衡論と,とり替えたにすぎない。彼等は,生産者 や消費者が最:も適切と考える製品やそのバリエーションを発見するために実験 することが必要であることを認識していない。したがって,この理論は,今日 の世界において存在する製品差別化の重要な側面が,最終的な均衡の結果とし てではなく,むしろ継続的な発見過程の反映であるという可能性を排除してい       22) ると,批判する。かくて,カーズナーは, 「独占的競争の理論は,現代経済思       23) 想史上の決定的に不幸なエピソードである」と断言してはばからない。  ヵーズナーによれば,完全競争理論が批判されるべき真の論点は,完全競争 が非現実的で現実の世界にこのモデルの対応物を発見しえないとか,それが効 率的な市場経済にとって必要条件であるという主張に不正確な点があるといっ たところにあるのではなく,むしろハイエクの指摘したように,競争過程の効 果として説明すべき状態を,所与として仮定してしまったところにある。 21) Cf. ibid., pp, 32一一37. 22) Cf. ibid., pp. 112一一119. and Littlechild (24) p. 31. 23) Kirzner (!7) p. 114.

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 この見地に立脚すれば,シュムペーターの完全競争批判も不満足なものとい わざるをえない。シュムペーターは前述のように,完全競争論が新製品・新技 術等からの競争を無視し,競争圧力の種類を価格に限定した点を批判する。つ まり,完全競争が品質一定・生産方法不変のフレームワークの中で価格競争の みを取上げるにすぎないという点を問題にしているのである。しかし,カーズ ナーによれば,完全競争論の真の弱点はそういうところにあるのではない。そ れは,競争過程がすでにゆきつくし,能動的な競争が価格に関してさえも,も はや発生しないという均衡状態を仮定している点にあるのであって,完全競争 論が均衡論であることに対する批判を無視したシュムペーターの論難は,必ず       う しも正鵠を射ていない,と論じる。 rv  ハイエク=カーズナー的な上述の競争論の政策論的含意は,これを主流派経 済学の競争論のそれと比較するとき,その特質をいっそう鮮明にすることがで きる。  主流派経済学では,完全競争モデルが厚生判断の基準となるから,市場が完 全競争(純粋競争)ないし原子的構造(atomistic structure)から遠ざかるに つれて競争が衰退し,資源のミスアロケーションが不可避的となり,逆に市場 構造が原子的構造へ接近するにつれ,資源配分はより効率的になると暗黙裡に 想定されているように思われる。  もちろん,セカンド・ベストの議論が明らかにしているように,全部の市場 においてではなく,たんに部分的な市場におけ’る「独占」を減少させるにすぎ ない公共政策が,より効率的な資源配分を必然的にもたらすとはいえないこと は,リプセイ(R.G. Lipsey)とランカスター(K. Lancaster)の論文〔23〕 24) シュムペーターの企業家ないし革新者とカーズナーの企業家の相違点は重要であ  る。詳細については以下を参照されたい。Kirzner〔17〕pp.72∼74,7g∼8!,125∼  131,拙稿〔10〕においても,この点はかなり懇切に紹介している。

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       「競争」の概念  13       の によって指摘されているし,またベイソ(J.S. Bain)〔3〕やケイブス(R Caves)〔5〕などの主流派経済理論に依拠する産業組織論者は,完全競争(純 粋競争)の実現を目的とするものではなく,有効競争(workable competition)       う の実現を公共政策の目的としていると弁解するであろう。たしかに今日,完全 競争的市場構造を現実世界の理想と考え,その実現を政策目的として掲げる論 者は皆無であると思われる。  しかしそれにもかかわらず,寡占によって競争が制限されているとか,過度 の製品差別化が浪費を生んでいるとかいわれる場合,そうした論者の「競争制 限」,「浪費」,「市場支配力」,「独占」あるいは「資源のミスアロケーション」 などの議論の背後には,究極の判断基準として完全競争論が暗黙裡に前提され        ア  ていることは否定できないように思われる。  いずれ産業組織論に対する本格的な批判において明らかにするつもりである が,いわゆる有効競争の構造基準と称するものは,実は完全競争の条件を多少 緩めたものにすぎないし,市場構造が市場行動と市場成果を規定するというペ イン流の産業組織論のパラダイムそのものが,実は完全競争論的な競争観の所           産にほかならない。  こうした主流派的競争論に対し,ハイエク躊カーズナー的な競争論では,市 場構造が原心的であるかどうかなどは,競争的であるかどうかを判断する基準 とはなりえない。たんに市場集中度のみでなく,市場構造ないしその変化その ものが,競争の有無,強弱や経済的厚生に関し,先験的には何も語らないと考 えられているのである。  費用と効用についての厳格な主観主義的接近を特微とするオーストリア学派 にあっては,個々の「人間行為」は合目的的であり,各人は選択された諸目的 をそれらの目的と整合的な資源使用の型(計画)を適用することによって達成 25) セカンド・ベストの理論については,熊谷〔21〕!24∼138ページの透徹した議論を  参照されたい。 26)有効競争概念については,小西〔20〕第2部に詳しい。 27) Cf. Armentano〔1〕p.33. 28)  Ibid.

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するものと考える。そしてそのような合目的的な行為が効率的といわれるので   ラ ある。  この場合, 「妨害されない市場」は,市場参加者の異なる計画を整合的なも のとしようと企図するカーズナー的な企業家によって利用可能な価格という情 報を自動的に発生させ,伝達することによって,企業家精神をスパークさせる のであるから,市場が「妨害されない市場」であること,すなわち企業家的機 敏性の発揮を政府によって人為的に妨げられない市場であることが,効率的な       ヨの 市場過程=競争過程にとって必要にしてかつ十分な条件だということになる。  ここで競争が果して社会的に効率的であるかどうかを論じることは,新オー ストリア学派にとっては全く無意味なことである。既述のようにハイエクは, 競争を「発見の手順」とみるのであるから,この立場からは競争が効率的であ るかどうかは,これを科学的に確認することをえないのである。「もしわれわ れが競争という手段によって発見せんと欲する事実を知らないとするならば, われわれは,発見されるかも知れないそれら事実の発見において,競争がいか        き  に効率的でありえたかを確かめることはできない」ということになる。  それでは,このような新オーストリア学派の立場からは,「独占」とか「競 争の制限」といった事態はどのように理解されることになるのだろうか。  新オーストリア学派の内部においても,その独占理論は決して統一されたも のがあるわけではない。ブPック(Walter Block)〔4〕やアルメンターノ〔2) が指摘しているように,ミーゼスやカーズナーの見解とPスバード(Murray        お   N.Rothbard)〔29〕のそれとの間には,若干の相違が存在するが,ここではよ 29) Ibid., pp.28一・一30. 30)  Ibid., pp.29∼30. 31)  Hayek 〔15〕 p.180. 32)新オーストリア学派の陣営内でも,独占を特定資源の供給の排他的支配と考え,そ   のような独占にもとつく独占価格が,政府によって妨害されない自由市場でも存在し   うると考えるミ一塁ス=二一ズナー的な見解と,競争的な生産または販売に対する政   府規制による特定人またはグループへの特権の供与のみを独占と考えるロスバードの   見解の相違があるが,Block〔4〕もArmentano〔2〕も,ロスバードの見解を支   持している。対立する両説の主張を含む新オーストリア学派の独占理論の詳細な論評   については,別の機会にゆずる。

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      「競争」の概念  15 り透徹した見解と思われるロスバード的な独占理論に立って,その核心と思わ れる点を,アルメソターノの所説に依拠しつつ要約すると以下のようになろ う。  新オーストリア学派の立場からは,すでに繰りかえし述べるように,競争は 常に動的な過程であって,売手は買手に対しライバルよりもより魅力的な代替 物を提供しようとして継続的な努力を払っていると考える。このような競争に よる市場調整に対して,これを帳面的・専断的に欄面する力を新オーストリア 学派は独占力と規定するのである。この場合,この市場の調整過程を「妨害さ れない市場」自体の固有の機能として認識するならば,これを制限する力は, 市場の外から発生するものとして理解されねばならない。すなわち,それは政 府による自由な取引や参入に対する規舗ないしは,そのメタルの裏ともいうべ        33)き,特定の者に対する特権の供与にほかならないとアルメンターノは考える。  アルメンターノは,このような政府による規制を法的障壁(legal barriers) と称し,これを自由な消費者の選択によって形成・維持される通常の参入障壁 たる非法的障壁と区別する。彼によれば,非法的障壁は何等消費者の利益を損 うわけではなく,資源のミスアロケーションを発生させるわけでもない。しか し法的障壁は,市場参加者の相互に有利な取引と個別的計画の自主的な調整を 制限し妨害するわけであるから,消費者の利益を害することにならざるをえな    ヨリ いという。  この観点に立てば,政府こそが資源をミスアロケートする独占の現実の源泉 であり,そのような独占ないし独占力は,直接の政府による特権の供与といっ た政府支持ないし法的障壁なくしては,存立しえないものと考えられる。  産業組織論や独占禁止政策論で周知の,高い市場占拠率を有する寡占的大企 業が,掠奪的慣行(predatory practices)を通じて,ライバルを排除し,競争 を実質的に制限し,消費者を収奪するといったシナリオは,「妨害されない市 場」を前提するかぎり,上述のような新オーストリア学派的な独占観からみれ 33) Cf. Armentano (2) pp. 108一一一109. and (1) p. 42. 34) lbid. (1).

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ば有意味なものとは思われない。けだし,新オーストリア学派的パースペクテ ィヴからは,ライバルを排除しようと試みる過程は,本質的に競争的であるか らである。競争者を排除するには,企業は結局,自らの生産性を向上し,効率 を高め,最終価格を引下げ,潜在的買手に魅力的な製品やサービスを提供する などの努力をせねばならないが,そうした努力こそまさに競争であって,消費        者にとっては望ましいものであり,決して抑制されるべきものではない。  かくて,この派の独占観によるならば,主流派経済学やそれに依拠する産業 組織論でいう市場の独占とは,きわめてミスリーディングな用語であるという ことになる。いかなる企業といえども,前述の法的障壁ないし政府支持が存在 しないかぎり,市場を独占することは不可能だからである。ここで可能なこと は,消費者の選好にこたえる方法を,他企業に先がけて独占的に知ることであ ろう。しかし,他企業よりも,消費者に対しより効率的にサービスする方法を 正確に知っているいかなる企業に対しても,市場は常に開放されているわけで あるから,このような意味での独占,あるいは独占的であることは,何等企業 間の競争を妨げるものではないし,消費者の自由な選択を妨害するものでもあ りえない。  しかも注意すべきは,このような消費者の選好を独占するという意味での独 占ですら,消費者の選好が変化すれば,おのずからその力を喪失することにな るのであるから,決して永続的なものではありえない。事実,こうした意味で の独占でさえ,これを確立するには,企業は「消費者需要,技術,立地,原料 供給,価格及び無数の不確定な他の変数についての完全な企業家的予見を必要 とする」。アルメンターノのいうごとく,「ビジネス・ヒストリーに現われた企 業にして,かつてそのような無誤謬の知識の獲得に成功したものはありえなか        つたし,今後もまたありえ.ないだろう。」  まことに,新オーストリア学派の気鋭の論客たちによって批判されたような 主流派経済学の競争概念によって,真の競争の意味が隠蔽されて証すでに久し 35) lbid. (1). 36) lbid. (1) p. 43.

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       「競争」の概念  17 く,このため,独占と競争の経済学的分析は目標を見失い,その進路を誤って きたように思う。このことはオーストリア学派の経済学の伝統の弱いわが国の 学界において,とくに痛感させられる。かくて,今日われわれは,独占化の不 可避的な:傾向や,独占の弊害,あるいは独占禁止政策の重要性等々について, さももっともらしく論じる者の多きに堪えない。いまさしあたり重要なこと は,独占の弊害といった「鬼火」を追うことではなく,まさにその独占がいか に達成困難であるかを知ることではあるまいか。       引用文献および参照文献 (ユ〕 Armentano, D. T. Antitrust and frfon(ipo13・.1982. (2) 一, A Critique of Neoclassical and Austrian Monopoly Theory (in Spadaro,   L, M. ed. New Directions in Austrian Economics. 1978, pp. 94−!!0). 〔3〕Bain, J. S. Industrial Org観∼2疏。η、1959,2nd ed.1968.宮沢健一監訳『産業組   門内』上下,:丸善,昭和45年。 (4) Block, W. Austrian Monopoly Theory−A Critique, .”ournaJ of Lii ertanan Studies.   vol. 1, No. 4, 1977. 〔5〕Caves, R. American Jndustrツ=Structure, Conduet7 Perfor7uance.1964.小西唯雄   訳『産業組織論』東洋経済新報社,昭和43年。 (6) Charnberlin, E. H. T12e Tn’eory of Monopoe’istzc ComPezition. 1933, 8th ed. 1962.   青山秀夫訳『独占的競争の理論』至誠堂,昭和4!年。 〔7〕 Clark,」. M. Competition as a l)ynamic Process.1961.岸本誠二郎監修『有効競   争の理論』日本生産性本部,昭和45年。 (8) Cournot, A. Recherches sztr les tDrznetPes ruathe’matzgues de la thgorze des rtch−   e∬es.!83S.中山伊知郎訳『富の理論の数学的原理に関する研究』岩波文庫,昭和!!   年;同文館,昭和24年:日本経済評論社,昭和57年。 (g) Dewey, D. The Theory of lmperfect Competition: A Radical Reconstruction.   !969.馬場啓之助・沖田健吉訳『不完全競争の理論」東洋経済新報社,昭和46年。 〔10〕越後和典「企業と市場一理論的展望(1)・(2)一」『季刊現代経済』第14号(昭和49   年9月差及び第17号(昭和50年3月)。 (!1) Edgeworth, F. Y. MathematicaJ Psychtcs. !881, (12) Hayek, F. A. The Use of Knowledge in Society. (in his lndividualism and   Economic Order. 1948, Midway Reprint 1980. pp. 71一一79). (!3) 一, The Meaning of Competition. (ibid., pp, 92一一106). (14) 一, The Confusion of Language in Political Thought. (in his Nezv Studies in

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 PlzilosOphy, Politics, Economics and the Historyρノ.ldeas.1978, pp.71∼97) (15) (16) (17) (!8) (19) (20) (21) (22)   本弘訳『現代の価格理論』庭草書房,昭和41年。 (23)   of Economic Studies, 24 (December 1956). (24) Littlechild, S. C, The Fatlacy of the IVfixed Eeonomy. 1978. (25) McNulty, P. J. Economic Theory and Meaning of Competition, euarterly tiToztrnal   of Economics, 82 (November 1968). (26) 一, A Note on the History of Perfect Competition, Jozarnal of Political Eco−   nomy, 75 (August !967). (27) Mises, L. H“man Action. 1949, Rivised ed. 1963一. 〔28〕 Robinson, J. The Economics o!Jm夕erfect Competition.!933,2nd ed.1961.加藤i   泰男訳『不完全競争の経済学』文雅堂,昭和37年。 (29) Rothbard, M. N. Man, Economy, and Svate. vol ll, 1962. (30) Schumpeter, J. CaPitalism, Soctalism, and Democraay. 1942, 3rd ed. 1950. :P LLi   伊知郎・東畑精一訳『資本主義・社会主義・民主主義』上・中・下,東洋経済新報社,   昭和26∼27年,改訂版昭和37年。 (31) Smith, Adam An lnqutry into the Alature and Causes of the V[realth of Arations,   2vols,1776,(MQdern Library 1937).水田洋訳『国富論上・下』河出書房新社,昭   和45年。 (32) Stigler, G. J. Perfect Competition, Historically Contemplated, Journal of’ ?olitical   Economy, 65 (February 1957). 〔33〕 臼井二尚「競争」『社会科学大事典』第4巻所収,鹿島研究所出版会,昭和43年。       L       .   , Competition as a Discovery Procedure (ibid. pp. 179一一一190). Jevons, W. S. Tlte 7rrheory of Political Economy. 187!, 4 th ed. 1911. Kirzner, 1. M. Competition and EntrePreneu?”shiP. 1973. Knight, F. H. The Risk, Uncertainty and Profit. !933. 古賀勝次郎『ハイエクの政治経済学」新評論,昭和56年。 小西唯雄『産業組織政策原理』東洋経済新報社,昭和52年。 熊谷尚夫『厚生経済学』創文社,昭和53年。 Levenson, A. M. and SolQn, B. S. Outline of Price T12eory.1964.伊藤i久秋・榎        I Lipsey, R. G. and Lancaster, K, J. The General Theory of Second Best, Re’viezv

参照

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