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2つの経済倫理をめぐって

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要旨  経済倫理を経済内倫理,経済外倫理に分けて,それぞれの概念を論じる。そして,代表的な経済学者や 思想家の経済倫理学説を取り上げて,各学説がどちらの経済倫理を論じたものなのかを明らかにする。 キーワード:経済倫理,経済内倫理,経済外倫理,資本主義的価値理念

Ⅰ.はじめに

 経済を倫理の観点から捉える際の「倫理」には 2 つ の次元があると考える。本稿ではそれを経済内倫理, 経済外倫理と命名したうえで,この 2 つの倫理の観点 から経済倫理を類型化し,代表的な論者の経済倫理学 説をその類型に落とし込んでみたい。こうした試みは 経済教育実践において,倫理的な視点から経済を取り 上げる場合1)に,授業者の立論がどの立場にあるのか を意識化するうえで貢献するものと考える。

Ⅱ.経済内倫理(市場内倫理)と経済外倫

理(市場外倫理)

1.経済内倫理(市場内倫理)  経済活動とは,顧客や同業者その他のステイクホル ダー(株主,従業員)との関わりを持ちながら執行さ れる以上,こうした様々な他者との関係性の構築にお いて道徳・倫理は不可欠な役割を果たす。こうした倫 理のなかでも,既存の経済やビジネスの在り方を前提 にしたうえで,その遂行上の適正化や円滑化を図るた めに要請され,設定される倫理が経済内倫理(経済を 市場取引に限定すれば,経済内倫理は市場内倫理とで も命名できる)である。  経済内倫理(市場内倫理)の規範的な徳目をあげれ ば,正直,誠実,責任感,公正などを列挙することが できる。顧客と取引に際して相対するうえでは,こう した資質が営業マンには必須である。企業は株主や社 会一般に対して,不正な会計報告を行ってはならない。 こうしたことは余りにも自明である。  経済内倫理を明文化・法制化した事例の 1 つが独占 禁止法である。生産カルテルの規制,抱き合わせ販売 の禁止など,企業競争や市場取引での公正性の確保の ために制定される独占禁止法の諸規定は経済内(市場 内)倫理を法制化したものと解釈することができる。  また,証券取引に限定して市場内倫理を論じれば, 買い占め,仮装売買,風説の流布といった相場操縦に 対する禁止がそれに当たる。あるいは,投機者が相場 操縦などの反倫理的な取引行為を行っている節がある こと知っているにも関わらず,ブローカーがこうした 相手の取引を仲介している場合,この仲介を止めるよ うに働きかける動因も市場内倫理である。 2.経済外倫理(市場外倫理)  経済外倫理とは,資本主義的な価値理念(営利追求, 経済的合理性・効率性の追求,自己責任原則)を批 判・吟味する際に論拠となる倫理のことを指す。営利 追求や経済的合理性が不平等・所得格差を助長させる 場合,識者によってはそれに搾取が伴っていると主張 する場合,当該システムや経済行為を規制・批判する 為に論じられる倫理は経済外倫理の範疇に属する。よ り具体的に言えば,経済外倫理からの主張とは,例え ば,経済的自由の放任に対して経済的な結果の平等原

2 つの経済倫理をめぐって

-経済内倫理と経済外倫理-

The Journal of Economic Education No.35, September, 2016

Concerning the Two Types of Economic Ethics

Koshida, Toshihiko

越田 年彦(東京都立立川高等学校定時制,めぐろシティ カレッジ)

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則を倫理的に追究する立論であったり,インデックス 投資,FX,CDS といった新手の金融商品や取引手法 を駆使したカジノ資本主義に対して,その強欲さや経 済的悪影響を倫理的に批判するものである。すなわち, 営利追求,経済的合理性・効率性の追求,自己責任原 則といった資本主義的価値理念に対して,利他,共生, 結果の平等,他者危害原理,節約といった倫理的徳目 や原理をそのカウンターとして提起する,これが経済 外倫理の設定である。  経済外倫理を市場外倫理の意味に限定すれば,それ は市場原理とは異なる原理(例えば,人権尊重,公共 の福祉,平等原則,道徳的人間像)で市場取引を規制 (特に禁止)することを指す。例えば,需要があると しても,公共の福祉の視点から麻薬や拳銃は格別の場 合を除いて取引は禁止される。人権尊重の視点から児 童労働は原則的に禁止される。公共の福祉ないしは人 権論を根拠に臓器売買は取引それ自体が禁止される。 また,賭博は非道徳的であるとの前提のうえで,投機 は賭博と差異化できないとの見方から投機取引(特に 先物取引)を規制・禁止しようとする主張は市場外倫 理からの立論である。

Ⅲ.2 つの倫理の差異と共通性

 経済内倫理(市場内倫理)と経済外倫理(市場外倫 理)という 2 つの倫理を個別にその特徴を説明したが, 改めて,両者を総合して考察したい。  経済内倫理と経済外倫理の違いは,資本主義に対す る評価の差異にもとづく。前者の倫理は,資本主義及 びその下での経済活動は基本的に正機能を果たしてお り,それを補正する意味での適正化を図るべく倫理を 要するという考えを含意している。従って,資本主義 を支える価値理念も基本的には支持される。後者の倫 理は,資本主義及びその下での経済活動には格差や環 境破壊,資源の浪費等の問題性を抱えており,資本主 義的価値理念に対抗して,そのカウンターとなる価値 理念が倫理的に要請され,その定着も社会の維持に必 要であるとする考えを随伴している。  市場内倫理と市場外倫理に関しても類似の議論が成 立する。前者の倫理においては,市場取引及びそれを 支える市場原理は基本的に適切に機能しており,その 市場取引を公正に持続させる意図から倫理を設定する 必要がある,という思想がこれを支えている。後者の 倫理は,市場取引及び市場原理は問題性・不適切さを 持つケースがあり,その場合には市場取引それ自体を 禁止しなければならないという考えを伴っている2)  このような差異をもつ 2 つの経済倫理ではあるが共 通項もある。経済内(市場内)であれ,経済外(経済 外)であれ,こうした倫理の設定は,経済や市場は放 任すると事態は非倫理的な状態に陥る,あるいは陥る 場合があるという想念を前提としており,両者の倫理 はこの前提を共有しているのである。すなわち,どち らの倫理も経済の自律的調整機能への疑義,問題性の 認識があり,そのために,外挿的に倫理を経済や市場 に設定しなければならないという立論にもとづいてい る。当然,こうした倫理の外挿に抗して,すでに経済 主体およびその行動の場である経済には倫理が自生し ているという主張も堅固に存在する3)。この倫理は  “経済内在倫理”とでも呼称できるのだが,“経済内倫 理-経済外倫理”における共通の問題設定の地盤を分 有していないことから,経済に倫理を挿入し,設定す る視点そのものを否認する立論の根拠となりうる。こ うした学説や主張も経済と倫理の主題追求においては 考察の対象に加えなければならない。

Ⅳ.経済と倫理に関する諸学説

 経済内倫理,経済外倫理といった形で倫理を分節化 した試みをもとにして,経済を倫理の枠組みから論じ る場合,それに関連する学説は,(ア)経済外倫理 (市場外倫理)から経済を論じる立論,(イ)経済内倫 理(市場内倫理)の必要性は認めるが,経済外倫理 (市場外倫理)の設定を拒否する立論,(ウ)経済を倫 理から問題視する視座そのものを拒否する立論,に類 型化することができる。  経済倫理を巡る最大の論点とは,この 3 つに類型化 された立論を踏まえて述べれば,(1)経済を倫理的観 点から吟味・批判する立論(特に(ア))と(2)経済 を倫理から捉えるその視点そのものを批判する立論 (ウ),との対立である。 1.経済を倫理的観点から吟味・批判する立論  経済を倫理的観点から吟味・批判する立論,とりわ け,経済外倫理から経済を論じる立論として,以下の 学説を例として紹介する。 (ア)トマ・ピケティの『21 世紀の資本論』  経済外倫理の必要性を提唱する論者の 1 人として, トマ・ピケティをあげよう。ピケティは「資本占有率 (α)の永続的な上昇を伴う,資本所得比率(β)の

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着実な増大を防ぐ自己調整的なメカニズムは存在しな い」(Piketty, 2013, p. 351, 2014, p. 222)として,資本 主義経済に対する楽観的な見通しを拒否する。いわば, マルクス的に資本主義の将来に対して懐疑的な立場を 取っている。ピケティによれば,現在起こっている (あるいは将来起こりうる)事態は資本所得比率や資 本占有率の上昇であり,世襲の重要性を増しつつ (「過去は未来を食い尽くす」(Piketty, 2013, p. 942, 2014, p. 571)),所得上位 10%ないし 1%層の取り分の 増大である。こうした傾向は資本主義の論理からすれ ば,「経済的そして技術的合理性に向かって前に進む 進歩」の結果である。だが,それはピケティにとって, 「民主主義的かつ実力主義的な合理性に向かって前に 進む進歩を必ずしも意味しない」。なぜならば,その 基本的な理由は単純であって,「技術も市場も限界を 知らなければ道徳も知らないからである」(Piketty, 2013, p. 370, 2014, p. 234)と言う。市場の論理,資本 主義に貫徹する合理性は,市場が道徳(倫理)を持ち 合わせていないことから,民主主義的な原理や実力主 義を毀損するというのである。  ピケティは自律的な資本主義経済を疑問視している ことから,資本主義的な価値理念それ自体も吟味検討 の対象としているものと判断することができる。この ことは,経済を人権や結果の平等原則といった外枠か ら規制する経済外倫理の必要性を論じていると解釈で きる。それは,ピケティが,『21 世紀の資本論』の序 章の前頁で,フランス人権宣言第 1 条「社会的差異は 共同の利益に叶う場合以外には基礎づけられない」と いう一文を掲載した点からも裏付けることができる。 そして,この原理を現代において実現する具体策とし て,すなわち,資本の集中や所得格差の是正のために 提唱した政策としてピケティが提唱したのが,累進的 な世界規模の資本所有課税なのである。 (イ) コスロフスキーの資本主義論  ペーター・コスロフスキー(Peter Koslowski, 1952 〜 2012) は ハ ノ ー ヴ ァ ー 哲 学 研 究 所 の 所 長 及 び ヴィッテン大学の教授を務めたドイツの哲学者・経済 学者であり,経済倫理学の研究が彼の業績の柱である。 そこで,1982年に刊行した『資本主義の倫理(Ethiks Des Kapitalismus)』の概略を紹介することを通じて, コスロフスキーの資本主義論が経済外倫理からの立論 であることを明らかにしたい。  始めに,資本主義経済と倫理との関係性に関するコ スロフスキーの基本認識は次の通りである。 「経済は,それ自体として“道徳から自由”ではない。 経済は経済法則によって支配されているだけでなく, 人間によっても規定されており,人間の意思と選択の なかで,期待や規範や態度や道徳的表象の完全な総体 (Emsemble)が作用している」(Koslowski, 1995, 訳 p, 13)。  この言説から分かるように,コスロフスキーにおい ては,経済の領域への道徳の関与は当然のことであり, 道徳や倫理の視点からの資本主義経済に対する吟味検 討のための視点の設定も至当なものである。こうした 立場に立脚して,コスロフスキーは次の 2 つの視点か ら資本主義経済を倫理的に吟味検討する。  第 1 は,資本主義経済の現実認識の視点から行った 倫理的吟味検討である。  この視点から彼は資本主義経済に対して次の 4 点の 倫理的問題を指摘する。 (1)資源配分の経済的な帰属は道徳的な帰責から免れ ることはない。資源の所有は業績や遺産相続,幸運か ら生じるからである。すなわち,資本主義的分配は道 徳的とは言えない(Koslowski, 1995, 訳 pp. 72-73)。  (2)資本主義経済では「平均的消費とは対照的な個人 的な消費スタイル」を貫くことができない。そのため, 「生活様式の均質化傾向を引き起こす」(Koslowski, 1995, 訳 pp. 75-76)。 (3)市場における選択は倫理的ではない。その結果, 「あまりにも多くの無意味なもの,悪趣味なもの,そ して過剰な贅沢が存在している」(Koslowski, 1995, 訳 p. 78)。 (4)資本主義は「富の蓄積に寛容である」。あるいは 「富を得るやり方が倫理的・社会的な義務と規範に埋 め込まれていない」(Koslowski, 1995, 訳 p. 76)。  第 2 は,資本主義経済の本質的構造的特徴の視点か ら行った倫理的吟味検討である。  コスロフスキーは「西洋の資本主義」の本質的な構 造的特徴として,(イ)私的所有,(ロ)経済目的とし ての利潤と効用の最大化,(ハ)市場と価格システム を通じての経済活動の調整,という 3 点をあげる (Koslowski, 1995, 訳 p. 17)。そして,「資本主義の道 徳性についての問いは,本質的に 3 つの構造的特徴の 道徳的・文化的な中立化過程について,その正当性を 問うことだと言える」と主張したうえで(Koslowski, 1995, 訳 p. 20),生産手段の私的所有については,「私 的所有の際限なき蓄積は,制御された一定の市場状態 から質的な飛躍をして権力の問題に発展してしまう」 と主張する(Koslowski, 1995, 訳 p. 91)。利潤と効用

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の最大化については,「人間を貪欲で欲張りな者にし, 人間的行為の目的の豊かさを失う」帰結をもたらす (Koslowski, 1995, 訳 p. 91)と論じる。市場と価格シ ステムによる調整については,「主観的欲求と支払用 意だけに従う市場システムというものは,憲法と法規 範のない投票民主主義と同じくらい危険なものであ る」と警告する(Koslowski, 1995, 訳 p. 78)。  以上,コスロフスキーは資本主義経済の倫理的問題 性を現状認識の視点から,あるいはその本質的特徴の 視点から行ったのであるが,こうした倫理的問題に対 する解決は経済に倫理が埋め込まれていない以上,経 済外からの倫理的働きかけに依存せざるを得ない。こ の点に関して,彼は次のように言う。「資本主義にお ける諸個人の調整は,私的所有,利潤と効用の最大化, および市場システムといった調整条件によっては十分 に規定されず,むしろ,これらの調整条件の前提とな るような社会的枠組みの中で行われなければならな い」(Koslowski, 1995, 訳 p. 90)。その「前提となるよ うな社会的枠組み」とは,資本主義の未確定性,不完 全性を補完する理論であり,その 1 つが「規範的正当 性についての理論」すなわち,倫理学であるという。 資本主義には,その機能が正当なものになるためには, 倫理学をその主成分とするような「社会的・倫理的諸 領域」(Koslowski, 1995, 訳 p. 90)が必要なのである。 これが経済外倫理に相当するものであると考える。こ れを前提にして,資本主義経済は機能し,諸個人間の 利害関係も調整されうるのである。 2.経済を倫理から捉える視点そのものを批判 する立論  この立場に立脚する論者としてウェーバーとアンド レ・コント=スポンヴィルが該当する。そこで 2 人の 主張を紹介したい。 (ア)ウェーバーの取引所論  ウェーバーの初期の研究業績に関しては,エルベ川 以東の農業労働者問題が著名であるが,同時期ウェー バーは証券・商品取引所問題にも関心を強め,精力的 に 8 本の取引所関連の論文を著している。ウェーバー にとって,ヨーロッパ列強が帝国主義的政策を進めつ つ,自国の経済的覇権を競う環境のもとで,ドイツが 採るべき政策は海外から資本を呼び集める拠点となる ことであり,国内の経済的取引を一段と活性化するこ とであった。その意味で,「強力な取引所は近代的権 力手段のひとつ」(Weber, [1896]1924, 訳 p. 115)な のである。しかし,当時のドイツ議会・政府は 1896 年 6 月帝国取引所法を公布し,取引所での鉱業株,工 業株及び穀物・穀粉の定期取引(先物取引)の禁止措 置を採る。この政策はウェーバーにとって承服しがた い愚策以外の何ものでもなかった。そこで,ウェー バーは一連の取引所論を通じて,取引所での先物取引 を投機の本来的な形態であると評価しつつ,また,こ れを賭博視する見方を拒否しつつ,取引所投機を規制 する当局の政策を厳しく批判したのである。  本稿において,『取引所論』で注目したいのは, ウェーバーが先物取引規制を批判するうえでの倫理に 関する主張である。ウェーバーは,国民はたとえ外交 上,軍事上平和裡に暮らしていたとしても,経済の面 では熾烈な競争=闘争のなかにあると言う。従って, 「純粋に理論的で道徳的な要求を貫くことは経済の立 場からも一方的な武装解除ができないことを考慮すれ ば,ほとんど不可能」な話しに他ならない。従って, 取引所は「‘ 倫理的な文化 ’ のためのクラブ」(Weber, [1896]1924, 訳 p. 94)ではないのである。そのうえで, 投機に興じて被った大衆の損失は「経済上の覇権をめ ぐる諸国民の格闘についやす軍事費の一部」(Weber, [1896]1924, 訳 p. 92)のようなものでしかないと言い 切る。  こうしたウェーバーの主張から覗うことができるの は,投機を倫理の観点から論じる問題設定それ自体を 拒否する立場である。ウェーバーは祖国ドイツの経済 的覇権の確立という目的合理主義の貫徹のために,そ れの足かせとなる経済外倫理を経済から放逐しようと したのである。 (イ)アンドレ・コント=スポンヴィルの経済倫理  現代フランスの哲学者アンドレ・コント=スポン ヴィルは経済を倫理の視点から捉えようとする主張を 批判する。  コント=スポンヴィルによれば,社会とは,4 つの 秩序(倫理の秩序または愛の秩序,道徳の秩序,法- 政治の秩序,経済-技術-科学の秩序)から構成され ており,人は「同時に 4 つの秩序のもとに存在してい る」(Comte-Sponville, 2004, p. 176)と見る。ここで, 経済-技術-科学の秩序すなわち,第 1 の秩序には, コント=スポンヴィルによれば,道徳的なものは何も なければ,反道徳的なものも何もない,なぜならば, そこでは,一切が無道徳(amoral)であるからだと 言う(Comte-Sponville, 2004, p. 77)。従って,コン ト=スポンヴィルは次のように述べる。「殆ど毎日の ことのように,何よりも,雇用主の世界で,企業倫理

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あるいは企業モラルについて語られるが,私にはその 意味が全く理解できない。私はむしろ反対に,企業は モラルを持たない,持つのは簿記と顧客だと言いた い」(Comte-Sponville, 2004, p. 118)。「取引所での投 機という言葉,それは冗語法ではないのだろうか。あ る人々は長期にわたって投資を行う。別の人は殆ど毎 日売ったり買ったりしている。しかし,結局の所,な にがしかの行為によって,高くなるもの(あるいは, 時として,安くなるもの)に投機を行うことがつねに 大切なのである。あまりにも明白なことであるが,そ れは無道徳的な行いである。だが,なぜそれが反道徳 的なのだろうか」(Comte-Sponville, 2004, p. 217)。  企業は単に利益を追求しているに過ぎない。投機者 は単に売買益を求めているだけのことである。こうし た行為それ自体は倫理とは別の次元に属するのである から,そこに倫理を持ち込む必要も余地もないと言う のである。従って,コント=スポンヴィルは次のよう に結論づける。 「この本のタイトルである「資本主義に徳はあるか」 という私の問いかけに対する,私の答えは否である。 …資本主義は道徳的ではない。ましてやそれは反道 徳的でもない。それは,総体として,根源的に,決 定的に無道徳的(amoral)なのである」(Comte- Sponville, p. 79, 2004)。  しかし,資本主義,あるいは経済は道徳,倫理と無 関係でいることができるのであろうか。そうした状況 は許されるのであろうか。これに対して,コント=ス ポンヴィルは経済の適正化とは道徳という上位の秩序 からの規制で行うのではなく,4 つの秩序のなかで生 きる市民が道徳性をもって経済に勤しむことで実現さ れるべきであると主張する。次の言説はそれを例証す る。 「企業は倫理を持っていないからこそ,そこで働い たり,それを指揮する個人が倫理を所持しなければ ならないのである」(Comte-Sponville, 2004, p. 118)。 「資本主義は道徳的ではない。それゆえに,私たち は道徳的であらねばならないのである」(Comte- Sponville, 2004, p. 130)。  コント=スポンヴィルによれば,経済と倫理とはそ の両領域を生きる市民 1 人 1 人が自らの経済行為を倫 理的に問いかけながら経済に勤しむその営みを通じて 接合するのであって,原則として,経済秩序に道徳を 埋め込むという方法であれ,上位の道徳的秩序という 経済外的倫理から経済秩序を規制するという方法であ れ,経済を道徳で規制するための制度や政策は批判の 対象となる。すなわち,コント=スポンヴィルは資本 主義や経済それ自体を道徳や倫理の視点から評価する その視座そのものを拒否しているものと捉えることが できる。大切なのは,制度・システムとしての経済に 道徳を持ち込んでそれを統制するのではなく,経済を 徳のある人間が担うことによって経済活動を公正で適 正なものにすることなのであると主張する。

Ⅴ.終わりに

 以上のように,経済と倫理との関係性に関しては, 倫理の視点から経済を捉えるその問題設定を当然視す る見方もあれば,これを拒否する見方もある。前者の 場合でも,経済内倫理(市場内倫理)の規制は是認す るものの,経済外倫理からの規制の必要性を認めない 立論があれば,その両者の倫理から資本主義経済(市 場経済)を吟味検討する立論も存在する。また,後者 のような,経済を倫理の枠組みから捉えることにネガ ティブな主張のなかには,資本主義や市場取引は適正 に機能しているのであるから,道徳や倫理を持ち出す 必要がないという立論もあれば,経済や市場には倫理 はすでに自生しているのであるから,意図的に経済内 (市場内)倫理を挿入する必要がないという立論も存 在する。このように,経済と倫理との関連性をめぐっ ては論点や議論の主旨が錯綜している。本稿はこうし た問題に対して,議論の交通整理をしようと試みたも のである。 註 1) 経済倫理(特に経済外倫理)の必要性を意識して筆者が 行った経済教育実践については,拙稿(越田,2007)を 参照されたい。 2) 同業他社との市場競争を運動会でのリレー競技に見立て ると,市場内倫理とは,フェアープレーで競技に臨むこ とであり,走者は他の走者の内側から追い抜いてはなら ない,リレーゾーン内でバトンの受け渡しを完遂しなけ ればならないといったルールにたとえることができる。 一言で言えば,“ 適正に走る ” である。これに対して,市 場外倫理とは,台風が近づいているので,子供の安全の 確保からリレーを中止するという措置に当たる。一言で 言えば,“ 走ってはいけない ” である。 3) この立場を採るのが田口卯吉である。田口は取引所の投 機が賭博であるという批判に対して,これを擁護する立 論を展開し,経済内倫理であれ,経済外倫理であれ,こ れを取引の世界に設定することを拒否する。その論拠に は経済活動を担う市井の人々への信頼があるものと考え る。「政府之を導かざるも人民決して身を棄つるに至らざ る」(田口,[1879]1973, p. 565)と述べたり,賭博は 「公許するも必ずしも蔓延すべきにはあらず」(田口, [1879]1973, p. 565)と論じるのはその証左である。田口 は自助の精神を基盤にするだけで社会は十分に機能する

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のであり,倫理を当人の外側から持ち込む必要はないと 考えていたのである。    また,コミットメント概念を提起したアマルティア・セ ンの立論にも注目したい。コミットメントとは非利己的 で,反-優先的(counterpreferential)な行為を指すのだ が,センによれば人はこうした選択を行うことがある。 すなわち,人間の経済行動には倫理性が埋め込まれてい るというのである。センのこうした議論は経済内在倫理 を認めたものと捉えることができる。ただし,センはこ うした倫理を根拠に自己利益の最大化を合理性と解釈す る主流派経済理論を批判するのであるから(Sen, 1987, 訳 p. 35),田口卯吉とは異なった文脈で論じている点で差 異化しなければならない。また,センは経済内在倫理を 主張したものの,経済外倫理の設定を否認したわけでな い。 参考・引用文献

[1] Comte-Sponville, André. Le Capitalisme est-il Moral?, Éditions Albin Michel S. A, 2004.

[2] Koslowski, Peter. Ethik des Kapitalismu mit einem Kom-mentar von J. M. Buchanan, Verlag, J. C. B, 1995. Mohr. Tubingen. 山脇直司・橋本努訳『資本主義の倫理』

新世社,1996 年.

[3] Piketty, Thomas. Le Capital au XXIe Siècle. Éditions Du Seuil, 2014. Capital in the Twenty-First Century. translat- ed by Arthur Goldhammer, The Belknap Press of Har-vard University Press, 2013.

[4] Sen, Amartya. On Ethics and Economics. Blackwell, 1987. 徳永澄憲訳『経済学の再生』麗澤大学出版会,2002 年. [5] Weber, Max. Die Börse, In Gesammelte Aufsätze zur

Soziologie und Sozialpolitik. Tübingen:J. C. B. Mohr, 1924.中村貞二・柴田固弘訳「取引所」『社会科学 ゼミナール 42』未来社 ,1976 年 . [6] 越田年彦「経済的市民育成の教育から資本主義的価値理 念を問う教育へ」『経済教育』第 26 号 2007 年,pp. 69-74. [7] 田口卯吉「米商会所論第 2」『東京經濟雑誌』第 17 號, 1879 年,(復刻版『東京経済雑誌 1』日本経済評論社, 1973 年,pp. 564-566.

参照

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