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駒澤大学佛教学部論集 19 025片山 一良「パーリ仏教における相対的規準〔I〕 : kappiyaの原義」

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(1)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒 澤大 學 佛教學部 論集 第

19

號 昭和

63

年10 月

仏 教

準〔

1

kappiya

片  

 

  良

1

  「仏 教」の基 本 的枠 組

ll

  「絶対的規準」と 「相対的規準」 皿.

kappiya

の語 義

IV

. 

kappiya

の 類語

1

 

仏 教 」の 基

  今

や種 々 の 相 を 呈 す る仏教 に おい て, その 文 化が どの よ うに変 化 し た か を見 る こ とは , た とえそれを 一

時代

い は一 社 会に限 定 し て み て も, 決し て 容 易で はない しか しこ こ に

が い わ ゆ る 「パ ー 仏 教 」 ま

南方

座部

仏 教 」を 指 し, 「伝 統仏教」 であ る とす るな らば, そ うし た 試み が厳 密な意 味 で の 文 化

変化

研究に はな らず と も,

伝統変

化の 考 察と し て 我々 に可

な もの と な るで ろ う とわ れ る。 な ぜ な らば, 「

伝統

教」

とは , 出家を

心 と し

家 を 周縁 とする仏 教に 外 な らず, 伝 統の 中核を な す い わ ば

威 と しての テ キ ス トが存 し, かつ その テ キス トをめ ぐる コ ン テ キス トとし て の 文 化が

間を通 し て連 続 す る 「線の 仏 教」だか らで ある。 つ ま り

伝 統仏教

は, 非

続の

点の 仏 教 」 とも言 うべ き大 乗 仏 教 , 出家

在 家, テ キ ス ト/ コ ン テ キ ス トな どの 関 係が対立 的で っ て , そ の変 化や特 徴が よ り捉え られ 易い とい うこ とで

る。

 

周知の よ うに,

最 初

期 の 仏 教で は, サ ン ガの

立 と

戒律

せ られ,

犯 随 制 を くり返しつ つ , や がて種 々 様 々 な規 制が 固定 され てい っ た。 し か し仏 滅 後 ま もな く, 王

城の 第 一結 集

500

人阿羅 漢結 集 )で, 次の よ うな決 定が下された と

え られ て い る。     「サ ン ガ は未制を制せ ず, 所制を捨てず, 所 制の 学処 に従っ て存する 」(

Safigho

 apa ・

   fifiatta血 na  pafifiapeti pafifiattath na  samucchindati  

yathapafifiattesu

 sikk 一

(2)

2

〕 パ ー一リに お け る 相 対 的規 準 〔

1

〕(片山)

   

hapadesu

 samadaya  va 亡亡ati, 

Vin.

 

II

288

 

こ の

が その

仏 教の 歴史で い か に 重い

意味

を持っ た か は , 現 今の 上座 部 仏教 僧か ら しば しば 耳に る とこ ろ で あ り, 以下に始まる

kappiya

か ら も次第に 明 らか とな るで ろ う。 少 く と もその 決 定 以 来,

言 上 の

戒 律

は 当

の ま ま保 存さ れて きた筈で あ り, 今日に 到る まで その 一 句 た り と も変 更 され た こ と を 聞か ない 。 だ が , 過去

2500年 も

の 問, 比 丘 の 生 活 規 定 た る律 に , 果 して 聊か の 改変 もなか っ た の か ど うか , これ は 誰 もの

素朴

問で あろ う。   もとよ り仏 教に は , 原 始 経 典の 随 所 (e.

g

. 

D

1

8

; 

M

. 

1

. 

222

S

1

.157 ;

A

. 

III

297

Sn

. p .

102

られる よ うに , 「法 (

Dhamma

)と律 (

Vinaya

)」 とい う static な

教 義, テ キ ス トと して の 二面が あ る。 法は経 蔵の , 律は 律蔵の 内 容 として 存す る もの であ り,

日も上

座 部

仏 教 国で は こ の 両

を 一 し て

Dhamma

Vinaya

” (法 ・ 律)を ‘ ‘

Sasana

” (仏 教) と呼ぶ こ と が あ る (e.9 . 

Vajirafiarpavarorasa

En

trance  

to

 the 

vinaya

, vol .

1

, p . 

ix

1969

)。 また

仏を 上 首 とする比丘僧に 」〈

Bud

dha

−pamukharb  

bhikkhusahgha

・h)な る表 現に

られ る (e. 

g

. 

Vin

1

213

1

λ

II

98

M

1

236

Sn

. p .

111

)通

, 僧は仏を頂 点と して 律に よっ て その 形を整え, 各 メ ン

バ ー 比 丘 実践 法戒 律 実 践を 通 し て教 法の 理 解に 向か うもの で あ る が, 仏は 僧の メ ン バ ーで あ りな が ら

子とは

然 と区別 される覚者で あっ て , 専 ら弟 子の た め に法 と律を説示 する存在で あ る。 か くし て 我々 は法 と律との テ キ ス トが , そ れ ぞ れ仏 (

Buddha

) と僧 (

Safigha

) とい う

dynamic

な実践 者, 即 ち コ ン テ キ

ス ト に よ っ て 保 持 されて い るこ とを, つ ま り 「仏 教 」が 「法 ・律 」 と 「仏 ・ 僧」 とい う枠 組か ら成る もの で ある こ とを まず 押 え る 必 要がある。

 

一方で ま た, 仏 と法 (= 教 法)が

教の 内面を, 僧 と律がそ の

面を

っ て い る と

えて よい で あ ろ う。 上座 部 仏 教国で ‘ ‘

Sasana

” (仏 教) を ‘ ‘

Buddha

Dha

・ mma ” (仏 ・法)で もっ て表わす こ とは む しろ先の 場 合 よ り一般 的であ る と 言 っ

て よい (

Narada

The

 

Buddha

 and  

his

 

Teachings

, p . vii,

1973

)。 こ の 「仏 ・法 」 には 理

的, 普 遍

, テ キス ト的な面が, 「僧 ・ 律 」に は 現 実 的 , 民 族 的, コ ソ テ キ ス

b

な 面 強 く打 出されて い るこ とは ま た 明白で ある。

 

こ の よ うに 見 る と, 「仏教 」の 基本 的 枠 組に 二 重の テ キス ト/ コ ン テ キ ス ト の ク 卩 ス 関係が あるこ とが分か る。 即ち 内 容 と し て , 教 義面 と実 践 面 〔保 持 者 〕 か ら 厂

律/

仏 ・

僧」

な る

組が, 理

面 と現

面か ら 厂仏 ・法

・律

な る枠 組が成立つ 。 図 示 す れ ぽ 次の 通 りで ある。

(3)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty パ ー仏 教に おける相 対的規準〔

1

〕(片 山 ) (3 ) [テ キ ス ト] [

Sasana

] [コ ソ テ キ ス ト]

Buddha

・一一1− ・・..1.._ISahgha 仏 僧 法

Dhamma

Vinaya

  [

Sasana

] (普 遍性 ) (単一性 ) (民 族 性) (多様性)   こ の 図は また, 一 般に仏 教の 基 本 構 造 とされ礼 拝 対 象と さ れるい わ ゆ る 仏 ・ 法 ・ 僧の 三宝を伝

仏 教 立場か ら機 能 的に見 よ うとし た も で もあ る 。 これに 基づ い て 言 え ば ,三宝は,在 家に よ る礼 拝 対 象で あっ て, 出 家と

直接

に は 関係 し 難い 。 何 となれ ば, 『律 蔵 』の 説明に よ る限 り,

    「尊師よ, こ の 我々 は世 尊 と法とに 帰依し ます」(ete mayarh  

bhante

 

bhagavantaTh

    sarapalh  gacch 巨ma  

dhammafi

 ca  

Vin.

1

4

とい うよ うに 仏教 最 初の 二帰 依を 唱 えた者 (

dvevacika

) が二 商 人

Tapussa

Bhallika

, つ ま り在 家 者で ある こ と, 同 じ く,

    「尊 師よ, こ の 私は世尊と法と比丘衆とに 帰 依 し ま す」(es ’

ahath  

bhante

 

bhaga

   vanta 血 sara1 a血

gacchami

 

dhammafi

 ca 

bhikkhusafighafi

 ca

, 

Vin,1

16

と仏 教で め て 三 帰依を唱えた者 (tevacika )も長 者

士 (

Yasa

の 父 )なる在 家で

あっ た とする か らで あ る ま た進具 (upasampada ) の 変 遷を見て も, 仏 弟子 に よ

る 三 帰依 進 具 (

tisaraUagamana

−upasampada , 

Vin.

1

22

) は, 仏に よ る 善

比丘 進具 (ehi ・

bhikkhu

・up ° , 

Vin

. 

L

 

12

) とサ ン ガ に よ る 白四 羯 磨 進 具 (fiatticatuttha ・

kamma

・up ° , 

Vin.

 

L

 

56

)との 間の しば らくの 期 間に行なわれた もの で , 後にそれ が 比丘 の upasarnpada に で はな く沙 弥の

pabbajja

の た め に の み

されたに と どまっ た こ と, 或い は ま た 具 足 戒を

けた 比 丘が三

依を唱え た とい う記

がか な り限 定さ れ る, な どの 理 由に よる。 もちろん比丘 ・比 丘 尼 が仏 ・法 ・僧に 帰依, もし くは

敬の 念 を 表 明した 言

は,

中村

士 (

r

バ ウ ッ ダ ・仏教』

p

15

1987

)や 三枝 充悳 博士

r

仏 教』

No

1

, 

p

59

1987

)の 指

もある通 り, あち こ ち(e. 

g

, 

Thag

. 一

508

(4)

4

) パ ー お け る相 対規 準 〔

1

片 山

178

382

589

Thig

53

132

286

) に 見られ る。 が ,註 釈に よ る とこ の 場合 の 「僧」

は , い ずれ も 「聖 なる僧 」 (ariya −safigha , paramattha −sahgha )と説 明 され て お り,

い わゆる現 前サ ソ ガ で は な く三宝 中の 四

サ ソ ガ と

等質

の もの で

る。 とい うこ とは , こ れ らの 告 白に 現わ れ る 「僧 」 は , すで に 理想的 な三宝 の 概 念が定 着 し て か らの もの で, 決し て 出家 側 本来の もの とは 言 え ない (

Cf.

 

Sn

569

)。 礼拝 対象と して の 「僧 」が 出家に 本来 的い とい こ とは , 同じ『長 老

』 (

Thag

.201)に , また 『経 集』 な ど (

Sn

192

1

). 

II

208

, 

S.

1

30

) に , 「仏 」 と 「法 」に 対 する尊 崇 が述べ られ 僧 」 て い る と ら も指 摘 。 具 足 戒 者た る サ ン ガ (の メ ン バ ー

己 を

む三 宝に

礼拝

する こ とは どう見て も 不 自然 と言 わ ね ぽな らない 。 理念 化 された仏 ・法 ・僧の 崇拝 は 『宝経』 (

Sn

222

238

)に も窺 える

く, あ くまで も功徳 (pufifia)

向的, 在家 的の もの で あ り, 出

に 不 可 欠な もの は実践

る と考え る。 同 じ く

仏」

に とっ て 不

の もの は 「法」の み とい うこ とになろ う。 し た が っ て仏 教の 基

本構

造を 一 に仏法 僧の 三 宝 と して

調 する の は,

ら在 家の 立場か らであっ て 出家の 側か らで は な い ,三 宝とは

に 吸

した在

的所

で ある と言わ ね ば な ら ない 。我々 は こ こ で また ,仏 教の 基 本 的 枠 組が, 出家の 「仏・法 ・律 」(図の実線 方 向),及 び在 家の 「仏 ・ 法・僧」 (図の点 線方 向)とい う二 方 向か ら成 る もの で ある こ とを確認 し て お きた い 。

 

さて , 既 に

れ た 通 り, 図 の タ テ の構成 (仏 ・法と僧 ・律)か ら言えば, 仏 ・法 は 教 に おい て して

わ る こ との ない 理想面, 普 遍 性

単 一 , 僧 ・ 律は時 と場とに応 じて わ り うる現 実面, 民族 性/ 多様 性を 内包し て い るこ とに な る。 つ ま り仏教はそれ 自体の 中に 明 らか に 不変 的な部 分と可 変 的な部分 と を共 有 して い るわ で ある。 もち ろんそれは 世 界 宗 教 とか 普 遍 宗 教 とか 呼ば れ る キ リ ス ト

や イ ス ラ ムに お い て も異る もの で は ない た だ我々が注 意 しな け れ ばな らぬ の は , 宗 教の 世 界 性とか普 遍 性 とかを 口に 出し て 言 う場 合, そこ に は 法, も しくは教 法の み が意 味 されて い る とい こ とで ある。 仏 教が 普遍 宗 教で ある と言 わ れ るの ま さに , つ ま り 「法

の 側に し か ない 。

 

こ とに 我 国に は , 仏 教の 現 状を嘆 きつ つ も, 法の みを重

し, 戒 律に 触 れぬ ま ま仏 教 を理 解 しよ う と

向 きもあ

る。 しか しそ れ で は十 全た りえ ない 。

戒 律

の 欠落し た 「智慧」や 「慈 悲」があるの か ど うか 。 コ ン テ ス トが脱 落し た テ キ ス ト に意

るの か どうか。 仏 教は単 なる

哲学的

で もな けれ ば, 倫 理 性 を 欠 く 知 的パ ズ ル で ない。 「法

が頭と な り, 「律

が手足 と な っ て

か なけ れば仏 教

(5)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty

パ ー仏教相 対 的規 準 〔

1

〕 (片 山)

5

間の 宗 教 とし て

機能

する こ は ない で

ろ う。

原始経

典の

が 区 分 さ

並 置 されて い

味 もこ こ に ある筈だ。

      「これ は法である, こ れは 律である, これが師の教えで ある」(ayalh  

Dhammo

 aya 血

   

Vinayo

 

idalh

 

Satthu

 

Sasana

血 , 

D

.皿.

124

) と。 そ し て また,

  

「律は 仏教の 命で ある。 律が存すれ ば仏教は存す る」 (

Vinayo

  nama  

Buddhassa

  

Sasanassa

 ayu , 

Vinaye

 

thite

 

S

訌sana 血

thita

hoti

, 

DA

. 

L

 

11

S

♪.

1

13

) とは,

eg

−一

伝 統 仏 教 合 言 葉 る。

日 なお 上座

仏 教 徒は これを 信 じ て うこ とが な い 。 「法 」の みで こ と足 れ り とする

向は , 三宝の 理

念化

と, 出

家/ 在

家の 区 別を 不問に付 しがち な大 乗 的発 想に よる とこ ろ が大 きい

わ れ る。 そ こ で は律 も法の 中に 隠 れて しまい 終に は 頭の みの 仏 教が金

と して 謳 歌 され るに 至 る とい うぺ か。 もし戒 律, 実践を欠 き歴史 も

化 も無

して こ れ を “

モ と呼ぶ な らば, こ れ ほ ど

合の よい 平面 的 な 仏 教は ある まい 。 こ の ミ 仏 教ミ は 自 ら欠 落 し た深み に あらゆる もの を

せ, あらゆ る もの と同化し, あらゆ る もの に帰入 し て

々 な 形

を と りうる か らで ある。 い わゆる学 問 仏

, 大

的仏 教は こ の 類に 属し, 原始仏 教や 真の 大乗 仏 教 と大 きく隔た っ て い よ う 法と

とは不 可 分であるが 同一 で は ない。 法は い わば

な理

念体系

り, 律は消 極 的な行動 体 系に属 して い る。 仏 教が両者 に基づ く宗 教で ある こ とを我 々 は よ よ く承 知 し て お か ね ばな らぬ 。 即ち , 律は変 化し うる もの だ が , 決 して失 なわれて は ならぬ の で

る。

 

さて ここ で本題に

ろ う。 我 々は伝 統 仏 教が イ ン ドよ りス リ ラ ン カ , ビル マ , タ イ な ど に 伝 播 し, 現

も盛ん に 信

され, そ れ ぞれの 国独

の 仏教が展 開して い る事

を 知っ て い る。 い か に

伝統仏

教 と名づけ られて も, そ れ らは決 して イ ン ドの ま ま, 原 始 仏 教の ま まで は ない 。 とすれ ば, 第 一結 集

学 処

原 則 は どの よ うに 生 きて い る の で あろ うか。 これにつ い て我々 は , 文 字の

前を

ちな が ら,

現 実

の 問

教 内 部で巧み に

決 した と考 えざるをえ な い な ぜ な らば , 実 際に地 理 や時

, 民 族 を異に し て,

活の

定が変 わ らぬ とい うこ とは

活に は りえない し,

とは その 社

の 一面で

り ,

環境

じて

わ り う る

性格

びて い るか らで ある (

D

. 

R

154

。 そ れでは どの よ うな 処

が 施 さ れ,

に よっ て律が 「不

変」

か ら

可 変 」 とな りうるの で

ろ うか 。 もし こ こ に その 厂何 」の 整 合 性を

め よ う とする ならば,

々 は ど う して も方

便 的

と も 思 え る

対 的 規 準」に 目を向け る よ り術は ない であろ う。 そ の

一 が本

稿

の 一

506

(6)

6

) バ ーリ仏教に お け る相対的 規準 〔

1

〕 (片山)

kappiya

, よ り丁

に 言え ぽ

kappiyakappiya

に外な ら な い 。 

kappiya

とは, 長い 仏 教の 歴史の で, ほぼ最

期か ら培わ れ

保存

されて 来た 伝 統 = 文 化 変

指 針

とも

看 做

さるべ

概 念

。 その 語

自身

は ヴ ェ ー ダに

わ れ る

kalpa

(規 定.法則)に 遡 り うる もの で, 仏 教の 初め に は

柄の 可か否かを

定 す る 「

応 しい 規 準 」が意

され たに い ない が, それが戒

不 変の 決 定を

に , 特 殊な意

味を帯

び た

術語

へ と

発 展

したの で

。 そして や がて

世 俗

詭 弁

も似

た もの となり, と くに

律 保

のため の 不可 欠 な手段 とも な っ た 。

か }こ

kappiya

は, 超 俗の 中に世 俗を持 込ん だ感 をまぬがれない が, そ れは 出

が在 家に よっ て

経済

持 されて きた とい う現

沿

っ て い る。 出 家

らが この

kappiyakappi

ya

, つ ま り相応, 不

応の 方

を 心

, 一

, 在

もこれ をよ く承 知 し て,

仏教

界に おける相互 の 理

と信

頼関

係 の 強 化が 図 らて きた の でる (

Vin

.皿.

288

。 文 化が その 社

に お い て , 共に学び , 学ばれ,

えられて ゆ く もの である とする な らば, こ の

kappiya

こ そ, ま さに仏 教の 伝統 も し くは 文 化を保

する た め の 正

法だ と言 える で あろ う。

 

kappiya

は , 律 を主 とするい わぽ

大 解 釈で こ そ あ れ, そ れを空 洞 化 させ る も の で は ない 。 この 言

が存 する こ と

自体

, 仏 教 実 践とし て の 法 ・

伝統

保存

されて い るこ とを

物語

っ て お り,

kappiya

身が 同時に また伝 統の

改革

を示 して い ると

け とめ られるで あろ う。 以下は こ の

kappiya

を 初 期 仏 教 以来の 伝 統 ・ 文

化変

化の

標 (

index

) として 捉え, こ の 語 をめ ぐっ て伝 統 仏 教の

特質

を明らか に し ようとする もの で ある。 た だ し本 稿で は

一 段 階 とし て

kappiya

うに と ど まり, 典 型 的な

kappiya

には言 及 され ない。

1

 

絶 対 的 規 準

相対 的

規 準 」

 仏教

に おける事 柄の

定 規 準を どこ に求め る か とい う場 合, 我 々 に まず 思い 浮 か ぶ の は , い わ ゆ る 「四大

教法

」 (cattaro  mahapadesa ) とい う言

と そ の 内 容で

ろ うと

われ る。 しか しこれは , 時 間 的に限

された早い 時 代, 即ち経 蔵,

律蔵

る頃まで に , 遅 くとも

写 され る 頃まで に ま とめ られた と推 定され る教 法の 四種の 出所 であるか ら, 別に 扱わ れ ね ばな らない 。

は これを も考 慮に 入 れ て, 全 体 的な 「規 準 」に対 する 考え方を こ こ に提示 し て み よ う。

 伝 統仏

教に お ける規

に は, 絶 対 的な規

と相 対 的な規

とい うもの が まず 考 え られる。 そして その 各々 は教

践に よる規 準に分 類 されるであろ う。 こ こ

(7)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty パ ー に お 相対的規準〔

1

〕 (

7

絶 対 的」 とい の は ,

経 蔵

律蔵

とが

字と し て (「文 字」とは, 仏語, 結集 時の決 定, 書 写時の 文 字を意味す る)固 定 された もの とい うこ と で , 仏

におい て は 絶 対 的に 正 しい , ま た字 句の 上か らは 決し て

改変

め られぬ規

る。 こ れに

し て

相対 的」

とい うの は

でない 規 準, 即 ち

対 的 規

を 基に

して め られ る よ うな相 応 しい の であ り, 先 述の 「四大 教 法

部 分に そ の殆ん どが

約 され るで あろ う。 この 四大

教法

に経 と

の 二

る こ とは既に

した と こ ろで

る (第二 回パ ーリ学仏教文化学 会,

1988

5

月発 表。 原稿は学 会誌 第二 号に掲載予 定)。 ま た 「教

義」

とは 「法」 もし くは 「教 法 」で あ り, 「実 践

とは積 極 的に は 「教 法 」ない し

道 」を 通 して, 消極 的に は 「戒

ない し 「律

に よっ て 行 なわ れ るもの をい う。 た だ しこ の

実践

積極 的

極 的 とい う分類, その 言葉の使い 方に は多 少説 明を要す るか と 思 わ れ るの で ,

近 話 題に なっ て い る中村 元 博士の 『パ ウ ッ ダ』 (

1

節に引用), 及 び

袴 谷

憲昭教

に よる批 判 (「批 判 として の学 問」, 駒 沢 大学 仏教学部論集第

18

号所収,

1987

年)を

紹 介

し て補 足 し よ う。 ま

中 村 博士 は 三宝の 「法

を 次の よ うに説明 される。

  

「人間には, まず人 間 とし て守ら ねばな らない道筋, 理法が ある。 そ れは 「人間を人    間とし て保つ 」 もの である。 (中略)理法は 普遍的な もの であ り, 永遠に通用する とい     っ て も, そ れは動か ない 固定 した もの で はない。 普遍 的 な もの は, 現実の 場 面に お い    て 生 か さ れ ねばな ら ない 。 根 本の理法は同じで あっ て も, そ れ を具 現する仕 方は, 時    と ともに異 り, また所に よっ て異な る。 人間の理法とい うもの は, 具体的な 生 きた人    間に即 して 展闘す る。 その こ とは, 思想 的に は無 限の 発展の可能性を もっ てい る わけ    で ある」 (前掲書

P

22

 

こ の

す る袴谷教 授の 批 判は こ うである。 即ち, 三 宝 中の

法 」が肥 大 し下

落す

れ ば 「

な 理 法

とな っ て三宝の み な ら

ずあ

らゆる もの を

寛大

に も

許容

して し ま うの で あ り, こ の 「

普遍 的

な理 法

を否 定 しなけ れぽ決 し て 仏 教 は 正 しい 教 とな るこ とは で き ない 前 掲論集pp .

424

425

。 尚, 同教授に よ る精 力的 な同類の批 判は 「和の反仏 教 性と仏 教の反 戦性」, 東洋学術研 究第

26

号第

2

号,

1987

11

月, 「宝 性論に おける信の造 批判」, 成田山仏教 研 究所紀要 第

11

号,

1988

3

月参照 )と。 本

稿

の立場は, 両見

を基 本 的には

重 する。 しか し両 者に 「戒 律

に対 する認 識が欠 如 し て い る こ とは否めない 。 仏教に おける ミ 理 法ミ が 「縁 起

に 代表され るこ とは

も異

は なか ろ うが, これを

釈し て

け ぽ, ミる が ま ま ミ が ミ わがま まミ とな り, あ らゆるもの を 生み 出す こと となっ て, ま さに

谷 教 授 の指

される通 りとな る。 問題は 「法 」における ミ ミ を 含 む 「教 法 」 とその 一 

504

 一

(8)

8

) バ ー 仏教に お け る相対〔1片 山

実 践 法 」との 区 別

の 区別の

方に る と ら れ

士 の

われ る ミ

普遍

的な

根 本

とは 「

教 法」

(ア ピダソ マ

nippariyaya と

pariyaya

と を一緒に ま とめ た広義の “

pariyaya

” )を,

ミ 具 現す る 仕 方ミ とは

践 法 」 を 指 し, 前 者は

者, 即ち

道 」 を通 して

に実

され,

理性を帯び, 後 者は前 者に よっ て理論 的に裏 付 け られ る もの で

る こ と (金倉 圓照 「仏教に おける法の語の原 意と変 転」

r

イ ン 哲 学仏研 究

1

p

104

照 ) よ りも 「

」を

盤とする

律 」に よっ て 止

の 側か ら

極 的で は あるが実 現され ね ぽ な らぬ もの で あるこ と (平川彰

r

原始 仏 教の研 究』p ,

137

参照 )を弁える 必要があろ う。 こ こ に消 極 的とい うの は方 法とし て であ っ て内容を指す もの で は ない 。

容は む しろ

で あ り, 涅

な どに 見 られ る

的表現

カ テ ゴ リーにある と見て よい

Cf

. 

W

. 

Rahula

What

 the 

Buddha

 

tanght

 p .

42f

戒 律

実践

は ,

積 極的

己抑

と限 りな

く広

がりゆ

く放 縦

へ の

制御

とに意 義を

つ 。

戒 律

れ, また これ を 「法

に 一 括 するな らば, ミ 普

遍的

な理 法を

定 し なげ れば な らない と言わ ね ば な らぬ は 自 明の 理 で あろ う。

 

まで に述べ こ ろ つ つ 全 体 的 な

規準

枠組

ま とめれば, 大 概 以 下の よ うに な ろ うか 。

 

次に具

体的

な 「規

準」

に 移 るこ とに し よ う。 仏

の 言 葉の 中 に は , 「規

準 」

き内 容の が い つ か あるが, その 代表 的な 一 は, 晩 年の旅の 様子 を描い た 『大般 涅 槃経』 (

1

ρσプ竰 ゐ

6

伽 召・suttanta ) に 見られ る。      「それ ゆえア ーナ ソ ダ よ。 そ な た らは 自己を洲 とし (attadipa ), 自己 を 帰依所 と し     (attasarapa せ よ。 法を洲 とし (

dhamma

d

pa

), 法 を帰依     所と し (

dhamma

・sarapa せ よ」 (

P

. 

II

100

101

 

こ こ に は真の 依所 とすぺ 法 」 , 規

とすぺ き実 践 主 体た る 「

己」 とが

調 されて い 。 それ らはい

れ も

絶対

的 な

規準

るが, その言

抽象

的で

ら具

性 を

た ない

S

V

.・

163

で は 念 処法 」指す )

(9)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty パ ー仏 教 相対 的規 準〔

1

〕 (

9

 

して

仏 教の 実 践に 関する

具体

的 な規

と し て 「中道 」(majj ・

hima

patipada

い る こと を 承知 し て い る。 釈

尊最

初の 説 法 と さ れ る 『

転法

輪 経 』(

1

hammacakleaPavattana

・sutta で は, そ れ を次の よ うに 言 う。    「比丘 らよ, これ ら二 の極端 (anta )を出家者 (

pabbajita

)は 行な うべ きで ない。 二     とは何か , それは諸欲に おける卑 俗, 在 俗, 通 俗 的に して非 聖 (anariya )の , 無 意義    (anattha ) な, 快 楽に耽る こ と (

kamasukhallikanuyoga

), 及び 苦し く, 非聖の,    無意 義な, 自虐に耽る こ と (attakilamathanuyoga )で ある。 比 丘 らよ, 如来は これ     ら二 の極 端に従わず, 中道 (majjhima  patipada ) を よく悟っ た 。 〔これは〕眼 (ca −

  

kkhu

)を生じ さ せ, 智 (

fiapa

) を 生 じ させ , 寂滅, 勝智, 正覚, 涅槃 (nibbana )に

   導くもの で ある。 如来に よっ て よ く悟 られた 中道

眼 を じ さ

, 智を 生 じ させ,

   寂滅,正覚, 浬槃に導く もの 一 と は何か。 そ れ は 八 聖道 (ariya ・atthahgika −mag ・

   ga )で ある。 即ち, 正 見 (samma ・

ditthi

), 正思 (se・sahkapPa ), 正語 (s

°  ・vaca ) ,    正業 (s°−

kammanta

>, 正命 (s °・ ajiva, 正 精 進 (s °・ vayama 念 (s°・ sati    正定 (sa・samadhi )で ある」 (

Vin

1

10

S

. 

V

420

と。 この 趣 旨は , 極 端の 否 定で あ り, 仏 教の

行動体系

に おける真正 の 規

を 示

にある。

し て

快 楽

苦行

ばに とい う よ うな ミ ほ どほ どミ を

強調

し て い るの で は ない 。 ここ に い う ミ真 正 ミ とは, 中道の 「中

(majjhima ), 或い は 八聖 道の 「聖」 (ariya ), また はそ の 各 支に

さ れた

正 」 (samma )に 外な ら

, 仏 教 の

絶対

的 な正 しさ」をい うもの で

る。 中道 とは

正の

行道

(patipada )で あ り, 正 しい 八支か ら成 る

来の

全 な 道 (magga ) で あ る (

S

, 

V

435

 

DA

。 

II

354

こ の 中道 八聖 道に 関 する教 説は , 釈

に よ る

初の 説 法と して 五 比丘 に ,

後の 説 法 とし て

Subhadda

に (

D

.・

II

151

, ま た

45

間の

教化

におい て

しぼし ぽ 示 された仏 教の 最 も重 要な実践の 教え とされる。 前 掲

用の 外に 例 え ぽ,

   

「カ サ パ 異学 道 (magga があ り, 行道 (patipada )がある。 その 道を行    く者は ら知 り (sama 血 fiassati), 自ら 見る で あろ う (samalh  

dakkhiti

),

ミ 沙 門    ゴ ー適 時 (

kala

) を 語 り , 真実 (

bh

ta

) を語 り, 意 義 (attha ) を 語 り, 法     (

dham

:na ) を , 律 (vinaya )を語るミ と。 カ ヅ サ パ よ, 道とは 何か, 行道 と は     何か。 … …これは 八聖 道で ある」 (

D

1

165

) とか, 或い は ,    「友よ, こ こ に 貪は 悪で あり, 瞋 も悪で ある。 貪を捨て , 瞋を捨て る た め に 中道があ    る。 そ れ は眼を生 じ させ , 智を生 じ させ , 寂滅, 勝智, 正覚, 浬槃に 導くもので ある」    (

1

1

15

) とか

々 に 中道, 八聖 道の 教え が説か れ るが, い

れ もその具 体 的な内 容が正 見 一

502

(10)

10

) パ ー仏 教相 対的規 準 〔

1

〕 (片 ない し正 定の 八支で あ る こ とは言 う迄 もない 。 こ の 「道」は 「法 」の 積 極 的 行 動 面で

り,

仏教

に お い て は ,

何時

処に おい て も正 し く

意義

る, つ ま り

対 的な規

とな るもの で ある。 ま た 「八 聖

道」

の各

の 三学に される が , こ の 場合の

戒 」 も絶 対 的な規 準 と なる。 よ り充 分か つ 具

的に 言えぽ,

波 羅提木

叉 (

patimokkha

) とし て

制定

さ れ固 定された

150

余条

A

1

230f

.) もし くは

227

戒お よび

規 定が これ に

まれる。 その 「戒

文 各 々が絶 対 的に 正 しい 規

で ある がゆ えに, 「別

脱 」 (

patimokkha

》 とも称 さ れ るの で あろ う。 ミ ミ の

脱とは ミ戒一 一に よ る 別 々 ミ の

脱を い うが , ミ は 別 異ミ の (つ ま り律に よ る) 解 脱 を も含 意さ れて い る と思わ れ る。

」 が

法 」の 消

行動

面で

る こ とは 既に

指摘

し た通 りで る。

 

以上 の ような法, ま たは戒 律に お い て 絶 対 的に正 しい と される絶

対的

規 準に 対 し て , 絶 対 的で は ない が絶対 的 規 準に 相 応 しい と され る規

がある。 これは

ka

ppiya

と言われ, 我 々が相 対 的 規 準 と呼ぶ もの で

り, 次 節 皿 以 降に扱わ れ る こ とに な る。

 

伝 統 仏 教に は か か る絶 対 的

準, 相 対 的

規準

とい う規

の 大

を見るこ とがで きるが, 『指

論』 (

Netti

Pakaragea

) に

e

よこれ が

的に 示 され て い る よ うに 思 わ れる。 そ の 一

を次

節 を

じ る し よ

   

厂認め ら れ た もの (anuftfiata は, 世尊の認め ら れた もの に よ っ て説 明 され ね ぽ な

    らない。 そ れ は 五種で ある。 即 ち防護 (sa1hvara ), 捨断 (

pahana

), 修 習(

bhavana

),

  

証 (sacchikiriya ), 相対 的適正 (

kappiyanuloma

)で ある。 そ れ ぞ れの地 (

bhami

  

に 見 られ るもの は,相対的適正に よ っ て説 明 され ねぽな らない 。 世 尊が捨てた (

patikk

   

hitta

)もの はて ら れた 理由に よっ て説 明されるべ きで ある。 認め られた もの と捨て

  

られたもの は, その両 者に よっ て説 明さ れ ねばな ら ない」(

1

%鷭

192

 

こ こ に お ける salhvara , 

pahana

は 律 (

SA

. 

II

253f

.), 即 ち

戒 」(

Vism

7

に,

bhavana

定 」に , sacchikiriya は 「慧 」に , つ ま り前四種は 三 学に 相

す る

対 的 規 準を表わ し, ま た第五 の

kapPiyanuloma

kapPiya

, つ ま り相 対 的 規 準を 表 わ して い る と解せ られる で あろ う。 皿 .

kappiya

の語義

 

これ よ りしば ら く

相対

的 規

kappiya

調

こ とに し たい 。 まず 形

的 な

語源 的意

味 を 見 よ う。

(11)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 University

パ ー仏 教に お相対規準 〔

1

〕 (

11

 

kapPiya

は, パ

動 詞

 

kapPati

Skt.

 

kalpate

VklP

= ‘

to

 

be

 arra −

nged  

to

 

be

 

fit

PTS

D

由来 その

未来受

動 分 詞

される (

Childers

D

》 が, また パ ー

kappa

Skt.

 

kalpa

、/

klp

)= ‘ rule ’ か ら

かれた も の (

kapPiya

く kapPa ・

iya

, 

Skt

. 

kalpika

< kalpa ・

ika

 ・= 

according  

to

 rule ’

) で あ る

PTS

D

) と も見られ る。 い ずれ に し もて

VklP

に由

し, 文法的 に は

Dative

case と

ばれ (

Vdirttika

 ad 

Pdip

2

3

13

), 「相

しい

(suitable ), 「許され うる

(allowable , 「

切な

proper

) の

意味

を持つ 。 な お漢

で は, 「聴

, 「浄

, 「

法 」,

随 順 」な ど (梵 和大辞 典),

い は

可 者 」,

中 用

MahdivsutPatti

 

9196

9388

) と示 され る。

 

こ の 一般 的な

辞書

意味

して , パ ー リの

註 釈に知られ る とこ ろ は ど うで あろ うか。 パ ー

外 律

を扱っ た

代の

Pa

limuttakavinayavinicch

¢

yasangaha

(:

Sariputta

12C

釈で

y

41

σ

47

σδ

Tipitakalahkara

15C

Be

vo1 .

1

, 

p

.2  ,

1977

)は, 「四

j

(catu ・kappiyabh6mi ) の

kappiya

を 次 の よ うに説 明す る。

    tattha 

kappanti

 ti 

kappiydi

, 

kappa

 samatthiye  ti 

dhatu

 

こ こで は

kapPiya

を語 根

kapP

, 即ち

Skt

.の

VklP

か ら作 られた もの と し,

適 合 する」,

相 応 す る」の 意に解 して い る こ と が 分 か る。 これ 以前の 諸 註 釈

Atthakatha

で は ど うか とい と, そこ には

々 が 対象 として い る

kapPiya

接 言 及 す るもの は殆ん どな く,

kappa

釈に

始して い る と言 っ て よ い 。

直接

的な もの とし て は 次の 『小 誦 経 註 』(

KhPA

208

PvA

26

)の 解 釈を示 せ ば一一 応こ と足 り るで あろ う。

  

kapPlyan

 ti anucchaviya 血

patirUparh

 ariyana

paribhogaraha

血.

 

よ り

kappiya

が , 「適 切な」, 「

適 当

, 「聖者の

用に

す る」を 意 味 する語で あるこ とを 知 る。

 

こ の よ うな 次

で , 以下は

kapPa

を通し て

kapPiya

味を 窺 うこ とに し た い 。 ま

『長部

経典

註 』

DA

1

. 

103

)を見 よ う。

  

happa

・saddo  

pi

titthatu

 

bhante

 

Bhagava

 

kappath

1

). 

II

115

 tAtthi  

kappo

    nipajjiturh ’

A

. 

IV

333

kappakatena

 akappakata 血 sa 庁1sibbita 血

hoti

Vin

IV

121

ti

 eva 血 ayukappa ・

lesakappa

・vinayakappadisu  sambahulesu  atthesu

vattati .

に よれ ば,

kappa

の 意

が具 体 的に は三 種 掲 げ られ て い る が, 他に も多 一

500

(12)

12

        

パ ー仏教に お相 対的規準

1

くの 意

る とい う。 そ の うち

々 の

問題

kappiya

内容

つ の は vinayakappa (律の る。 例え ば 「点

さ れ た もの (

kappakata

) で もっ て 点 浄 されて い ない の (akappakata ) が 繕わ れ る」と言 わ れ る 場 合の もの で あ る。 因み に

長 部経 典復註』

DAT

1.

182

)で は上 記の 「

多 く

意味」

に つ い て 次が補われ て い る。

    

kappa

・saddo  mahakappa ・samantabhava −

kilesakama

・vitakka −

kala

pafifiatti

.sa−

    

disabh

訌v’・

adisu  vattati  

ti

 

aha

 sambahulesu  atthesu  vattatl  

ti

 

tatha

 

h

, esa

    ‘

cattar ’

imani

 

bhikkhave

 

kappassa

 asafikheyy2ni ,

A

. 

II

142

)ti 

adisu

  ma ・

   

hakappe

 vattati .‘

kevalakappath

 

Veluvana

血 obhasetv 且,

S

1.

52

)ti adisu

    samantabhave .‘

sahkappo  

kamo

, rago  

kamo

,  sahkapparago  

kamo

Nd

. 

II

    

124

)ti adisu  

kilesakame

。‘takko  vitakko  sa 血

kappo

1

hs

7

)ti adisu  vitakke ,

  

ま りこ こ に は 三種の に 七種の 意 味が説 明され てい るが,

kappiya

に 関 する もの は見

た らな い 。

  

こ の よ うな 『長 部経 典 註 』に比べ , 他の 主 た る註 釈 書に はや や

しい

kappa

の 内 容が知 られ る。 即 ち 『中 部経 典 註』 (

MA

. 

II

,125−

126

), 

r相応 部経

典註』 (

SA

1

15

),

r

増支部経典 註』(

AA

. 

II

377

) 及 び 『小 誦

経註

』 (

KhA

115

116

に は , 次の よ うな それ ぞ れに

く共 通の説 明が掲 げ られ て い る。

   

kapPa

・saddo  

panaya

 abhisaddahana ・vohara 呷

k

訓a・pafi五atti ・chedana ・vikapPa ・    

1esa

−samantabhavadi  anekattho . 

tatha

 

hi

 ’ssa ‘okappaniyam  eta

bhoto

 

Go

−    

tamassa

 yatha  

ta

血 arahato   sammasambuddhassa ’ (

M

1

249

ti

 evam 且

disu

   abhisaddahanam  attho

anuj 巨n巨mi  

bhikkhave

 paficahi samapakappehi  

phalafU

paribhu

jitun

 

Vin.

 

II

109

ti

 evamadisu  voharo

yena

 suda 血 niccakappa 血 viharanl ’

M

1

、249 ) ti  evamadisu  

kalo

, ‘

icc

 

ayasma

 

Kappo

, (

Sn

1092

ti

evamadisu  

pa

鯔 atti ‘ala 血

kata

 

kappitakesamassu

r

. 

Vl

268

)ti evamadisu

chedanalh ,

kappati

 

dvahgulakappo

Vin.

 

II

294

300

ti

 evamadisu  vikappo

atthi  

kappo

 nipajjitun ,

4

. 

IV

333

ti

 evamadisu  

IesQ

keva

!akappalh  

Ve

luvanath

 obhasetva ’ (

S

1

66

ti

 evamadisu  sa !nantabhavo .

  

上 に示 され た

kapPa

意味

八種 の うち

kapPiya

内容を 持つ 。 一 は vohara (慣習)の

意味

り, 例えば 厂比丘 らよ, 五 種の 沙

慣 習

(sama ・ ηa・

kappa

)に よ っ て果実を食ぺ る こ とを許 す」 とい う場 合の も の で あ る。 他は vikappa 疇躇意 味で あ り, 例 えぽ

二 指 分の 〔時 間の 〕 躊

kappa

) は 相 応し い

とい う場合の の である。 た だ しこ れ に つ い て は問題が ある。 つ ま りこ

(13)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 University パ ー お け 相 対的 規 準 〔

1

〕 (

13

場 合

kappa

を, む し ろ

識 的に ,

時 間」 (

time

>と見て ミ 指 分 時 間 相 応 しい ミ (

Childers

D

) とか,

規 定

(rule ) と

て ミ ニ

分の

時間

〕 規定

は 相 応 しい

PTS

D

)と

する こ と も可 能だか らで ある。 もしその よ う に

む な らば こ の

kapPa

は 我々 の

kapPiya

意味

る こ とに なろ う。 し か し

述の通 り,

time

kala

と して ,  rule は vidhi (ま たは (vidhana ) と し て vi−

kappa

と区別 す る伝

釈があるか ら, こ こ で の

kappa

躊 躇 」 と解 すべ

ろ うと思わ れる。 なお また

Subhttti

Abhidha

’ naPPadipika −・saci (

ce

1893

, p .

76

脚註)に ‘

vikappo  

ti

 vividha  

kappana

 atthassa  anekantikabhavo ’

と述べ て い る こ も考 慮 すろ う。 したが っ て こ の

kappa

の ’

例 文は 内容

と して

直接

kapPiya

関係

する もの であ るが, 

kapPa

な る 語

自体

kapPiya

極 的な関 連を持た ない と見た方が よい か も知れ ない 。

 

以 上 がい わ ゆる

Atthakatha

に知 られる

kapPa

であるが, そ の 他に,

12

世 紀 ロ ン の

Moggallana

に よるパ ー 語 最 古 辞 典

Abhidha

napPadipikd

(v

799

記載

され た

12

通 り   

kappo

 

k

1e

 

y

 uge  

lese

 

pafifiatti

 

paramayusu

   sadise  tlsu samapavohara ・

kappabindusu

   samantatte ’

ntarakappadike  

takke

 vidhimhi  ca.

 

さ らに こ れ を

め て

も豊

な語

18

種を

介して い る もの に

12

世 紀 ビル マ

著わ され たパ ー 語 文 法 書

Saddaniti

Aggavarhsa

, ed . 

by

 

H

. 

Smith

1928

1954

す る。

こ こ で は

Dhatumala

§

1525

Sad

。 

P

552

) に掲 げ られた偈を示 し, その

容説

明 を

理 し, また各

意 味

の 例を

す こ とに し よ う。

   vitakkei  ca vidhane2  ca 

patibhage8

 

tath

eva  ca

  

pafifiattiyarb

.4

 tatha 

kales

 

paramayumhie

 chedane7

   samantabhave6  vohareg  abhisaddahanei °pi ca

   viniyogeti  ca  vinayakiriyayarb :21esakei8  pi ca

  

vikapp ’u −

ant:arakappesu !5 

taOhaditthis

ユ16 ’sahkhayei7

  

kappeis

 ca  evamad1su  

kappa

・saddo  pavattati .

1・

vitakka

takka

思 惟) : ‘nekkhammasahkapPo _ ..avyapadasahkap

   

PO

S

. 

II

152

2.

vidhana vidhi 〕 (規 定):‘civare  vikapParb  

apajjeyya

Vin

. 

III

216

3

. 、

patibhaga

sadisa

(類 似): ‘

satthukapPena  vata

 

bho

 savakena  sad 一

(14)

(14)

.x' --

v

caXac

Sstrj'6NXI-blMmpCI)

(lt

pt)

dhim

mantayamana na

janimha'

(M:

I.1sc)

4.

pafifiatti

(gnt/i)

: `icc

ayasma

Kappo'

(Sn.

10g2)

5.

kala

(eema):`yena

sudath niccakappatn viharami'

(M:I.24g)

6.

paramayu

(fimefifu)

:`akahkhamano

Ananda

tathagato

kappaM

theyya

kappavasesarh

va'

(D.II.

103)

7.

chedana

(-bjwt)

: `alafikato

kappitakesamassu'

U.VI.

268)

8.

samantabhava

(samantatta)

(seme)

: `kevalakappaih

Veluvanaih

asetva'

(s.

I.

66)

9.

vohara

Esamanavohara)

(vawr)

: `anujanami

bhikkhave

paficahi

anakappehi

phalath

paribhufijituth'

(Vin.

II.

109)

10.

abhisaddahana

(tsne)

: `saddha

saddahana okappana abhippasado'

(Dhs.

S12)

11.

viniyoga

(NM)

: `evam eva

ito

dinnatn

petanath

upakappati'

(Pv.

20==

KhP.

VII.

9)

12.

vinayakiriya

(kappabindu]

(pmopfik)

: `kappakatena

akappakatarb

sarhsibbitarii

hoti'

(Vin.

IV.

121)

13.

Iesa

(ge0)

: `atthi

kappo

nipajjituM

handahaM

nipajjami'(D.III.

256)

14.

vikappa

(ecee):`kappati

dvahgulakappo'

(Iiin.

II.

294)

15.

antarakappa

(*bl)

: `apayiko nerayiko

kappattho

safighabhedako...

kappaM

nirayamhi

paccati'

(Vin.

II.

205)

16.

tarphaditthi

(ptM

: `na

kappayanti

na

purakkharonti

dhamma

pi

tesath

na

paticchitase,

na

brahmapo

silavatena neyyo

parafigato

ca

pacceti

tadi'

(Sn.

803)

17.

asahkheyyakappa

(NIeeptsi)

: `aneke

pi

sarbvattakappe aneke

pi

attakappe'

(Vin.

III,

4)

18.

mahakappa

(Jkbl>

: `cattar'

imani

bhikkhave

kappassa

asankheyyani (A.

II.

142)

-t:al18fio

kappa

o!)fi.,muik,

Subhttti

trckD"cgh82tt:

Abhidhanappa-di]Pik

a--saci

(op.

cit., pp.

75-76)

}C

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ft

V

Pt{I

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5

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V

N

6

.

(15)

Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty

         

パ ー仏 教お け る相対 的規 準 〔

1

        

15

) 々 が扱 う相 対 的 規 準 と

kappiya

意 味 , 決して 尽 されて は い ない もの の , ある程 度 ま とめ られ る よ うに思わ れる。 即 ち

kappiya

意味

される もの は,

定 」 (vidhana , vidhi ), 「沙

の 慣 習

(samarpa −vohara ),

の 行

」 (vinaya ・

kiriya

kappabindu

) など となろ う。 全 体 と して は

相 応 しい

とい う意

つ 。 た だ しこ の vidhi や vohara が, 

Vedahga

Kalpa

もし くは そ れ が 含む

Dharma

る意

の 一で あ り, ミ 定め られた もの を 内 容 と し て い る こ とか ら言え ば,

kapPiya

は, 仏 教 以 前の

kalpa

な る語か ら採 用さ れ, 仏 教の 中で ‘‘

dhamma

” に

対す

る ‘ ‘

kappa

” と し て 定

し た の と 考え られる で

ろ う。 ち ょ う ど形 とし て samana ・

dhamma

が samapa −

kapPa

に対 応

よ うに 。

kappiya

の 原 義はお そ ら くこ こ に

り, あ くまで も定め られた も の に 対す る相 応 しい 規

ろ う と思われる。

が 厂

沙 門

の 正 し い

, 「如来の 示 す 聖な る規

」であるの に対し て, 相 対 的 規 準

kappiya

沙 門

の 慣 習に 相応しい 規

準」

法 ・律に相応 しい 規

準」

わす。 これ が我々 の 見 方で あ る。

IV

.】cappiya の類 語

 

まで の

に よっ て , 規 準の

対 性が

中」,

1

に あり, 具 体 的 に は, 法で は十二縁 起 ・ 四諦 ・八正道な どに 律で は 五戒 ・十 戒 或い は

提木

叉 な どの

め られる こと, これに 対 して そ の 相 対 性は

kappiya

に 求 め られる こ とがほ ぼ 明らか であ ろ う。 しか しな が ら

kappiya

に つ い て は ま だ具

体的

な内 容 吟味に 入 っ て は い ない そ の 前に 我々 は

kappiya

の 類 語を 調べ る 必

る か らで ある。

kappiya

義 自体は先の 通 りであるが そ の 持 つ 意 味 の 相 対 性ゆ えに い くつ

る類 語の 存 在が予 想され る。 本 節は類 語の検 討に よっ て

kappiya

の 語の

特徴

よ り

らか に

る た め の

の で ある。

 

『律 蔵 』に お ける腱

度部最初

の 「大 品大 腱 度

か ら

よ う。 そ れは 釈

が 初め て

行儀

しき比丘 らを叱

した と伝え られ る文脈に る もの で あ る。

  

「比丘 らよ, か の 愚人らに 〔それは〕 適切で なく(ananucchaviya ) 適正で な く(an ・

  

u!oma ), .

適当蟹

(aPPatirttPa ), 沙 門ら しくなく (assam 恥 aka ), 相応し く な く

  

(akappiya

すぺ か らざる (akaraPlya ) こ とで ある 比丘 ら よ な ぜ かの愚人 ら

  

は上 下の衣 を整 えず, 威儀を正さず托鉢に回っ た り, 人々 が食べ てい るの に軟食や硬

  

食, 味食, 飲物の上 に鉢を 出し た り, 自らX 一ブ や ご飯を指した りし て食べ, 食堂で 一

496

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