Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty 駒 澤大 學 佛教學部 論集 第
19
號 昭和63
年10 月パ
ーリ
仏 教
に
お
け
る
相
対
的
規
準〔
1
〕
一kappiya
の原
義
一片
山
一
良
1
. 「仏 教」の基 本 的枠 組ll
. 「絶対的規準」と 「相対的規準」 皿.kappiya
の語 義IV
.kappiya
の 類語1
.「仏 教 」の 基
本
的枠
組今
や種 々 の 様相 を 呈 す る仏教 に おい て, その 文 化が どの よ うに変 化 し た か を見 る こ とは , た とえそれを 一時代
に或
い は一 社 会に限 定 し て み て も, 決し て 容 易で はない 。 しか しこ こ に「
仏
教」
が い わ ゆ る 「パ ー リ仏 教 」 または「
南方
上座部
仏 教 」を 指 し, 「伝 統仏教」 であ る とす るな らば, そ うし た 試み が厳 密な意 味 で の 文 化変化
の 研究に はな らず と も,伝統変
化の 考 察と し て 我々 に可能
な もの と な るで あろ う と思わ れ る。 な ぜ な らば, 「伝統
仏教」
とは , 出家を中
心 と し在
家 を 周縁 とする仏 教に 外 な らず, 伝 統の 中核を な す い わ ば権
威 と しての テ キ ス トが存 し, かつ その テ キス トをめ ぐる コ ン テ キス トとし て の 文 化が時
間を通 し て連 続 す る 「線の 仏 教」だか らで ある。 つ ま り伝 統仏教
は, 非連
続の「
点の 仏 教 」 とも言 うべ き大 乗 仏 教 と異 り , 出家/
在 家, テ キ ス ト/ コ ン テ キ ス トな どの 関 係が対立 的で あっ て , そ の変 化や特 徴が よ り捉え られ 易い とい うこ とであ
る。周知の よ うに,
最 初
期 の 仏 教で は, サ ン ガの確
立 と共
に戒律
が制
せ られ,随
犯 随 制 を くり返しつ つ , や がて種 々 様 々 な規 制が 固定 され てい っ た。 し か し仏 滅 後 ま もな く, 王舎
城の 第 一結 集 (500
人阿羅 漢結 集 )で, 次の よ うな決 定が下された と伝
え られ て い る。 「サ ン ガ は未制を制せ ず, 所制を捨てず, 所 制の 学処 に従っ て存する 」(Safigho
apa ・fifiatta血 na pafifiapeti pafifiattath na samucchindati
yathapafifiattesu
sikk 一(
2
〕 パ ー一リ仏教に お け る 相 対 的規 準 〔1
〕(片山)
hapadesu
samadaya va 亡亡ati,Vin.
II
.288
)こ の 言
葉
が その後
の 仏 教の 歴史で い か に 重い意味
を持っ た か は , 現 今の 上座 部 仏教 僧か ら しば しば 耳に する とこ ろ で あ り, 以下に始まるkappiya
の 考察
か ら も次第に 明 らか とな るで あろ う。 少 く と もその 決 定 以 来,文
言 上 の戒 律
は 当時
の ま ま保 存さ れて きた筈で あ り, 今日に 到る まで その 一 句 た り と も変 更 され た こ と を 聞か ない 。 だ が , 過去2500年 も
の 問, 比 丘 の 生 活 規 定 た る律 に , 果 して 聊か の 改変 もなか っ た の か ど うか , これ は 誰 もの素朴
な疑
問で あろ う。 もとよ り仏 教に は , 原 始 経 典の 随 所 (e.g
.D
.1
.8
;M
.1
.222
;S
.1
.157 ;A
.III
.297
;Sn
. p .102
)で 知 られる よ うに , 「法 (Dhamma
)と律 (Vinaya
)」 とい う static な教 義, テ キ ス トと して の 二面が あ る。 法は経 蔵の , 律は 律蔵の 内 容 として 存す る もの であ り,
今
日も上座 部
仏 教 国で は こ の 両者
を 一つ に し て “Dhamma
−Vinaya
” (法 ・ 律)を ‘ ‘Sasana
” (仏 教) と呼ぶ こ と が あ る (e.9 .Vajirafiarpavarorasa
:En
・trance
to
thevinaya
, vol .
1
, p .ix
,1969
)。 また厂
仏を 上 首 とする比丘僧に 」〈Bud
・dha
−pamukharbbhikkhusahgha
・h)な る表 現に見
られ る (e.g
.Vin
.1
.213
;1
λII
.98
;M
.1
.236
;Sn
. p .111
)通 り, 僧は仏を頂 点と して 律に よっ て その 形を整え, 各 メ ン
バ ー (比 丘)は 実践 法と戒 律の 実 践を 通 し て教 法の 理 解に 向か うもの で あ る が, 仏は 僧の メ ン バ ーで あ りな が ら
弟
子とは截
然 と区別 される覚者で あっ て , 専 ら弟 子の た め に法 と律を説示 する存在で あ る。 か くし て 我々 は法 と律との テ キ ス トが , そ れ ぞ れ仏 (Buddha
) と僧 (Safigha
) とい うdynamic
な実践 者, 即 ち コ ン テ キス ト に よ っ て 保 持 されて い るこ とを, つ ま り 「仏 教 」が 「法 ・律 」 と 「仏 ・ 僧」 とい う枠 組か ら成る もの で ある こ とを まず 押 え る 必 要がある。
一方で ま た, 仏 と法 (= 教 法)が
仏
教の 内面を, 僧 と律がそ の外
面を覆
っ て い る と考
えて よい で あ ろ う。 上座 部 仏 教国で ‘ ‘Sasana
” (仏 教) を ‘ ‘Buddha
−Dha
・ mma ” (仏 ・法)で もっ て表わす こ とは む しろ先の 場 合 よ り一般 的であ る と 言 って よい (
Narada
:The
Buddha
andhis
Teachings
, p . vii,
1973
)。 こ の 「仏 ・法 」 には 理想
的, 普 遍的
, テ キス ト的な面が, 「僧 ・ 律 」に は 現 実 的 , 民 族 的, コ ソ テ キ スb
的な 面 が 強 く打 出されて い るこ とは ま た 明白で ある。こ の よ うに 見 る と, 「仏教 」の 基本 的 枠 組に 二 重の テ キス ト/ コ ン テ キ ス ト の ク 卩 ス 関係が あるこ とが分か る。 即ち 内 容 と し て , 教 義面 と実 践 面 〔保 持 者 〕 か ら 厂
法
・律/
仏 ・僧」
な る枠
組が, 理想
面 と現実
面か ら 厂仏 ・法/
僧
・律」
な る枠 組が成立つ 。 図 示 す れ ぽ 次の 通 りで ある。Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty パ ーリ仏 教に おける相 対的規準〔
1
〕(片 山 ) (3 ) [テ キ ス ト] [Sasana
] [コ ソ テ キ ス ト]Buddha
・一一1− ・・..1.._ISahgha 仏 僧 法Dhamma
律Vinaya
[Sasana
] (普 遍性 ) (単一性 ) (民 族 性) (多様性) こ の 図は また, 一 般に仏 教の 基 本 構 造 とされ礼 拝 対 象と さ れるい わ ゆ る 仏 ・ 法 ・ 僧の 三宝を伝統
仏 教の 立場か ら機 能 的に見 よ うとし た もの で もあ る 。 これに 基づ い て 言 え ば ,三宝は,在 家に よ る礼 拝 対 象で あっ て, 出 家と直接
に は 関係 し 難い 。 何 となれ ば, 『律 蔵 』の 説明に よ る限 り,「尊師よ, こ の 我々 は世 尊 と法とに 帰依し ます」(ete mayarh
bhante
bhagavantaTh
sarapalh gacch 巨madhammafi
ca ,Vin.
1
.4
)とい うよ うに 仏教 最 初の 二帰 依を 唱 えた者 (
dvevacika
) が二 商 人Tapussa
とBhallika
, つ ま り在 家 者で ある こ と, 同 じ く,「尊 師よ, こ の 私は世尊と法と比丘衆とに 帰 依 し ま す」(es ’
ahath
bhante
bhaga
−vanta 血 sara1 ,a血
gacchami
dhammafi
cabhikkhusafighafi
ca,
Vin,1
.16
)と仏 教で 初め て 三 帰依を唱えた者 (tevacika )も長 者
居
士 (Yasa
の 父 )なる在 家であっ た とする か らで あ る。 ま た進具 (upasampada ) の 変 遷を見て も, 仏 弟子 に よ
る 三 帰依 進 具 (
tisaraUagamana
−upasampada ,Vin.
1
.22
) は, 仏に よ る 善来
比丘 進具 (ehi ・bhikkhu
・up ° ,Vin
.L
12
) とサ ン ガ に よ る 白四 羯 磨 進 具 (fiatticatuttha ・kamma
・up ° ,Vin.
L
56
)との 間の しば らくの 期 間に行なわれた もの で , 後にそれ が 比丘 の upasarnpada に で はな く沙 弥のpabbajja
の た め に の み残
されたに と どまっ た こ と, 或い は ま た 具 足 戒を受
けた 比 丘が三帰
依を唱え た とい う記事
がか な り限 定さ れ る, な どの 理 由に よる。 もちろん比丘 ・比 丘 尼 が仏 ・法 ・僧に 帰依, もし くは尊
敬の 念 を 表 明した 言葉
は,中村
元博
士 (r
バ ウ ッ ダ ・仏教』p
.15
,1987
)や 三枝 充悳 博士 (r
仏 教』No
.1
,p
.59
,1987
)の 指摘
もある通 り, あち こ ち(e.g
,Thag
. 一508
一(
4
) パ ーリ仏教に お け る相 対的規 準 〔1
〕(片 山)178
;382
;589
,Thig
.53
;132
;286
) に 見られ る。 が ,註 釈に よ る とこ の 場合 の 「僧」は , い ずれ も 「聖 なる僧 」 (ariya −safigha , paramattha −sahgha )と説 明 され て お り,
い わゆる現 前サ ソ ガ で は な く三宝 中の 四
方
サ ソ ガ と等質
の もの であ
る。 とい うこ とは , こ れ らの 告 白に 現わ れ る 「僧 」 は , すで に 理想的 な三宝 の 概 念が定 着 し て か らの もの で, 決し て 出家 側 本来の もの とは 言 え ない (Cf.
Sn
.569
)。 礼拝 対象と して の 「僧 」が 出家に 本来 的で ない とい うこ とは , 同じ『長 老偈
』 (Thag
.201)に , また 『経 集』 な ど (Sn
.192
,1
).II
.208
,S.
1
.30
) に , 「仏 」 と 「法 」に 対 する尊 崇 が述べ られ 「僧 」 は欠如 して い る とい うこ とか ら も指 摘す るこ とが で きよ う 。 具 足 戒 者た る サ ン ガ (の メ ン バ ー)
が自
己 を含
む三 宝に礼拝
する こ とは どう見て も 不 自然 と言 わ ね ぽな らない 。 理念 化 された仏 ・法 ・僧の 崇拝 は 『宝経』 (Sn
.222
−238
)に も窺 える如
く, あ くまで も功徳 (pufifia)志
向的, 在家 的の もの で あ り, 出家
に 不 可 欠な もの は実践的
な仏
・法
・律
で ある と考え る。 同 じ く「
仏」
に とっ て 不離
の もの は 「法」の み とい うこ とになろ う。 し た が っ て仏 教の 基本構
造を 一般 に仏法 僧の 三 宝 と して強
調 する の は,専
ら在 家の 立場か らであっ て 出家の 側か らで は な い ,三 宝とは律
を法
に 吸収
した在家
的所産
で ある と言わ ね ば な ら ない 。我々 は こ こ で また ,仏 教の 基 本 的 枠 組が, 出家の 「仏・法 ・律 」(図の実線 方 向),及 び在 家の 「仏 ・ 法・僧」 (図の点 線方 向)とい う二 方 向か ら成 る もの で ある こ とを確認 し て お きた い 。さて , 既 に
触
れ た 通 り, 図 の タ テ の構成 (仏 ・法と僧 ・律)か ら言えば, 仏 ・法 は 仏教 に おい て 決 して変
わ る こ との ない 理想面, 普 遍 性/
単 一性に 貫かれ , 僧 ・ 律は時 と場とに応 じて 変わ り うる現 実面, 民族 性/ 多様 性を 内包し て い るこ とに な る。 つ ま り仏教はそれ 自体の 中に 明 らか に 不変 的な部 分と可 変 的な部分 と を共 有 して い るわ けで ある。 もち ろんそれは 世 界 宗 教 とか 普 遍 宗 教 とか 呼ば れ る キ リ ス ト教
や イ ス ラ ム教に お い て も異る もの で は ない 。 た だ我々が注 意 しな け れ ばな らぬ の は , 宗 教の 世 界 性とか普 遍 性 とかを 口に 出し て 言 う場 合, そこ に は 法, も しくは教 法の み が意 味 されて い る とい うこ とで ある。 仏 教が 普遍 宗 教で ある と言 わ れ るの もま さに その 点, つ ま り 「法」
の 側に し か ない 。こ とに 我 国に は , 仏 教の 現 状を嘆 きつ つ も, 法の みを重
視
し, 戒 律に 触 れぬ ま ま仏 教 を理 解 しよ う とす
る向 きもあ
る。 しか しそ れ で は十 全た りえ ない 。戒 律
の 欠落し た 「智慧」や 「慈 悲」があるの か ど うか 。 コ ン テ ス トが脱 落し た テ キ ス ト に意味
があ
るの か どうか。 仏 教は単 なる哲学的
思弁
で もな けれ ば, 倫 理 性 を 欠 く 知 的パ ズ ル で もない。 「法」
が頭と な り, 「律」
が手足 と な っ て動
か なけ れば仏 教Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty
パ ーリ仏教における相 対 的規 準 〔
1
〕 (片 山) (5
)が
人
間の 宗 教 とし て機能
する こ とは ない であ
ろ う。原始経
典の中
で法
と律
が 区 分 され
並 置 されて い る意
味 もこ こ に ある筈だ。「これ は法である, こ れは 律である, これが師の教えで ある」(ayalh
Dhammo
aya 血
Vinayo
idalh
Satthu
Sasana
血 ,D
.皿.124
) と。 そ し て また,「律は 仏教の 命で ある。 律が存すれ ば仏教は存す る」 (
Vinayo
namaBuddhassa
Sasanassa
ayu ,Vinaye
thite
S
訌sana 血thita
血hoti
,DA
.L
11
;S
♪.1
。13
) とは,eg
−一結集
以来の 伝 統 仏 教の 合 言 葉であ る。今
日 なお 上座部
仏 教 徒は これを 信 じ て 疑 うこ とが な い 。 「法 」の みで こ と足 れ り とする傾
向は , 三宝の 理念化
と, 出家/ 在
家の 区 別を 不問に付 しがち な大 乗 的発 想に よる とこ ろ が大 きい と思
わ れ る。 そ こ で は律 も法の 中に 隠 れて しまい , 終に は 頭の みの 仏 教が金科
玉条
と して 謳 歌 され るに 至 る とい うぺ ぎか。 もし戒 律, 実践を欠 き歴史 も文
化 も無視
して こ れ を “仏教
モ と呼ぶ な らば, こ れ ほ ど都
合の よい 平面 的 な 仏 教は ある まい 。 こ の ミ 仏 教ミ は 自 ら欠 落 し た深み に あらゆる もの を招
き寄
せ, あらゆ る もの と同化し, あらゆ る もの に帰入 し て様
々 な 形相
を と りうる か らで ある。 い わゆる学 問 仏教
, 大乗
的仏 教は こ の 類に 属し, 原始仏 教や 真の 大乗 仏 教 と大 きく隔た っ て い よ う。 法と律
とは不 可 分であるが 同一 で は ない。 法は い わば積
極的
な理念体系
であ
り, 律は消 極 的な行動 体 系に属 して い る。 仏 教が両者 に基づ く宗 教で ある こ とを我 々 は よ くよ く承 知 し て お か ね ばな らぬ 。 即ち , 律は変 化し うる もの だ が , 決 して失 なわれて は ならぬ の であ
る。さて ここ で本題に
戻
ろ う。 我 々は伝 統 仏 教が イ ン ドよ りス リ ラ ン カ , ビル マ , タ イ な ど に 伝 播 し, 現在
も盛ん に 信仰
され, そ れ ぞれの 国独自
の 仏教が展 開して い る事実
を 知っ て い る。 い か に伝統仏
教 と名づけ られて も, そ れ らは決 して イ ン ドの ま ま, 原 始 仏 教の ま まで は ない 。 とすれ ば, 第 一結 集時
の 学 処不変
の 原 則 は どの よ うに 生 きて い る の で あろ うか。 これにつ い て我々 は , 文 字の建
前を保
ちな が ら,現 実
の 問題
を仏
教 内 部で巧み に解
決 した と考 えざるをえ な い。 な ぜ な らば , 実 際に地 理 や時代
, 民 族 を異に し て,生
活の規
定が変 わ らぬ とい うこ とは人
間生
活に はあ りえない し,律
とは その 社会
, 文化
の 一面であ
り ,環境
に応
じて変
わ り う る性格
を帯
びて い るか らで ある (D
.R
.154
) 。 そ れでは どの よ うな 処置
が 施 さ れ,何
に よっ て律が 「不変」
か ら「
可 変 」 とな りうるの であ
ろ うか 。 もし こ こ に その 厂何 」の 整 合 性を求
め よ う とする ならば,我
々 は ど う して も方便 的
と も 思 え る厂
相
対 的 規 準」に 目を向け る よ り術は ない であろ う。 そ の第
一 が本稿
主題
の 一506
一(
6
) バ ーリ仏教に お け る相対的 規準 〔1
〕 (片山)kappiya
, よ り丁寧
に 言え ぽkappiyakappiya
に外な ら な い 。kappiya
とは, 長い 仏 教の 歴史の 中で, ほぼ最初
期か ら培わ れ保存
されて 来た 伝 統 = 文 化 変化
の指 針
とも看 做
さるべ き概 念
で ある 。 その 語自身
は ヴ ェ ー ダに現
わ れ るkalpa
(規 定.法則)に 遡 り うる もの で, 仏 教の 初め に は事
柄の 可か否かを判
定 す る 「相
応 しい 規 準 」が意味
され たに 違い ない が, それが戒律
不 変の 決 定を境
に , 特 殊な意味を帯
び た術語
へ と発 展
したの であ
ろ う 。 そして や がて世 俗
の詭 弁
にも似
た もの となり, と くに戒
律 保存
のため の 不可 欠 な手段 とも な っ た 。確
か }こkappiya
は, 超 俗の 中に世 俗を持 込ん だ感 をまぬがれない が, そ れは 出家
が在 家に よっ て経済
的
に維
持 されて きた とい う現実
に沿
っ て い る。 出 家自
らが このkappiyakappi
・ya
, つ ま り相応, 不相
応の 方法
を 心得
, 一方
, 在家
もこれ をよ く承 知 し て,仏教
世
界に おける相互 の 理解
と信頼関
係 の 強 化が 図 られて きた の である (Vin
.皿.288
)。 文 化が その 社会
に お い て , 共に学び , 学ばれ,伝
えられて ゆ く もの である とする な らば, こ のkappiya
こ そ, ま さに仏 教の 伝統 も し くは 文 化を保存
する た め の 正当
な方
法だ と言 える で あろ う。kappiya
は , 律 を主 とするい わぽ拡
大 解 釈で こ そ あ れ, そ れを空 洞 化 させ る も の で は ない 。 この 言葉
が存 する こ と自体
, 仏 教 実 践とし て の 法 ・律
の伝統
が保存
されて い るこ とを物語
っ て お り,kappiya
自
身が 同時に また伝 統の改革
を示 して い ると受
け とめ られるで あろ う。 以下は こ のkappiya
を 初 期 仏 教 以来の 伝 統 ・ 文化変
化の指
標 (index
) として 捉え, こ の 語 をめ ぐっ て伝 統 仏 教の特質
を明らか に し ようとする もの で ある。 た だ し本 稿で は第
一 段 階 とし てkappiya
の 原義
を扱
うに と ど まり, 典 型 的なkappiya
には言 及 され ない。1
.「
絶 対 的 規 準」
と「
相対 的
規 準 」仏教
に おける事 柄の判
定 規 準を どこ に求め る か とい う場 合, 我 々 に まず 思い 浮 か ぶ の は , い わ ゆ る 「四大教法
」 (cattaro mahapadesa ) とい う言葉
と そ の 内 容であ
ろ うと思
われ る。 しか しこれは , 時 間 的に限定
された早い 時 代, 即ち経 蔵,律蔵
が 成立す
る頃まで に , 遅 くとも書
写 され る 頃まで に ま とめ られた と推 定され る教 法の 四種の 出所 であるか ら, 別に 扱わ れ ね ばな らない 。今
は これを も考 慮に 入 れ て, 全 体 的な 「規 準 」に対 する 考え方を こ こ に提示 し て み よ う。伝 統仏
教に お ける規準
に は, 絶 対 的な規準
と相 対 的な規準
とい うもの が まず 考 え られる。 そして その 各々 は教義
と実
践に よる規 準に分 類 されるであろ う。 こ こKomazawa University Kom 三1z三1w三1 Umversrty パ ー リ仏教に お ける相対的規準〔
1
〕 (片山) (7
)
で「
絶 対 的」 とい うの は ,経 蔵
,律蔵
の中
に法
と律
とが文
字と し て (「文 字」とは, 仏語, 結集 時の決 定, 書 写時の 文 字を意味す る)固 定 された もの とい うこ と で , 仏教
におい て は 絶 対 的に 正 しい , ま た字 句の 上か らは 決し て改変
の認
め られぬ規準
であ
る。 こ れに対
し て厂
相対 的」
とい うの は絶
対的
でない 規 準, 即 ち絶
対 的 規準
を 基に拡
大解
釈 して 認め られ る よ うな相 応 しい もの であ り, 先 述の 「四大 教 法」
の第
二 部 分に そ の殆ん どが集
約 され るで あろ う。 この 四大教法
に経 と律
の 二種
があ
る こ とは既に 他で 指摘
した と こ ろであ
る (第二 回パ ーリ学仏教文化学 会,1988
年5
月発 表。 原稿は学 会誌 第二 号に掲載予 定)。 ま た 「教義」
とは 「法」 もし くは 「教 法 」で あ り, 「実 践」
とは積 極 的に は 「教 法 」ない し「
道 」を 通 して, 消極 的に は 「戒」
ない し 「律」
に よっ て 行 なわ れ るもの をい う。 た だ しこ の法
の実践
の積極 的
,消
極 的 とい う分類, その 言葉の使い 方に は多 少説 明を要す るか と 思 わ れ るの で ,最
近 話 題に なっ て い る中村 元 博士の 『パ ウ ッ ダ』 (1
節に引用), 及 び袴 谷
憲昭教授
に よる批 判 (「批 判 として の学 問」, 駒 沢 大学 仏教学部論集第18
号所収,1987
年)を紹 介
し て補 足 し よ う。 まず
中 村 博士 は 三宝の 「法」
を 次の よ うに説明 される。「人間には, まず人 間 とし て守ら ねばな らない道筋, 理法が ある。 そ れは 「人間を人 間とし て保つ 」 もの である。 (中略)理法は 普遍的な もの であ り, 永遠に通用する とい っ て も, そ れは動か ない 固定 した もの で はない。 普遍 的 な もの は, 現実の 場 面に お い て 生 か さ れ ねばな ら ない 。 根 本の理法は同じで あっ て も, そ れ を具 現する仕 方は, 時 と ともに異 り, また所に よっ て異な る。 人間の理法とい うもの は, 具体的な 生 きた人 間に即 して 展闘す る。 その こ とは, 思想 的に は無 限の 発展の可能性を もっ てい る わけ で ある」 (前掲書
P
.22
)こ の 見
解
に 対す る袴谷教 授の 批 判は こ うである。 即ち, 三 宝 中の「
法 」が肥 大 し下落す
れ ば 「普
遍的
な 理 法」
とな っ て三宝の み な らずあ
らゆる もの を寛大
に も許容
して し ま うの で あ り, こ の 「普遍 的
な理 法」
を否 定 しなけ れぽ決 し て 仏 教 は 正 しい 仏教 とな るこ とは で き ない (前 掲論集pp .424
−425
。 尚, 同教授に よ る精 力的 な同類の批 判は 「和の反仏 教 性と仏 教の反 戦性」, 東洋学術研 究第26
号第2
号,1987
年11
月, 「宝 性論に おける信の構造 批判」, 成田山仏教 研 究所紀要 第11
号,1988
年3
月参照 )と。 本稿
の立場は, 両見解
を基 本 的には尊
重 する。 しか し両 者に 「戒 律」
に対 する認 識が欠 如 し て い る こ とは否めない 。 仏教に おける ミ 理 法ミ が 「縁 起」
に 代表され るこ とは誰
に も異論
は なか ろ うが, これを拡
大解
釈し て行
け ぽ, ミある が ま ま ミ が ミ わがま まミ とな り, あ らゆるもの を 生み 出す こと となっ て, ま さに袴
谷 教 授 の指摘
される通 りとな る。 問題は 「法 」における ミ理法 ミ を 含 む 「教 法 」 とその 一504
一(
8
) バ ー リ仏教に お け る相対的規準〔1〕(片 山)「
実 践 法 」との 区 別, 「法」
と「
律」
との 区別の仕
方に ある と考え ら れ る。中
村博
士 の言
われ る ミ普遍
的なも
の ミ, ミ根 本
の 理法
ミ とは 「教 法」
(ア ピダソ マ に い うnippariyaya と
pariyaya
と を一緒に ま とめ た広義の “pariyaya
” )を,ミ 具 現す る 仕 方ミ とは
「
実
践 法 」 を 指 し, 前 者は後
者, 即ち「
道 」 を通 して積
極的
に実践
され,倫
理性を帯び, 後 者は前 者に よっ て理論 的に裏 付 け られ る もの であ
る こ と (金倉 圓照 「仏教に おける法の語の原 意と変 転」r
イ ン ド哲 学仏教研 究1
』p
.104
参照 )を, そし て 何 よ りも 「戒
」を基
盤とする「
律 」に よっ て 止悪
の 側か ら消
極 的で は あるが実 現され ね ぽ な らぬ もの で あるこ と (平川彰r
原始 仏 教の研 究』p ,137
参照 )を弁える 必要があろ う。 こ こ に消 極 的とい うの は方 法とし て であ っ て内容を指す もの で は ない 。内
容は む しろ積
極的
,肯
定的
で あ り, 涅槃
な どに 見 られ る否
定的表現
と同
一 カ テ ゴ リーにある と見て よい (Cf
.W
.Rahula
:What
theBuddha
tanght
, p .42f
.)。戒 律
の実践
は ,積 極的
な自
己抑制
と限 りなく広
がりゆく放 縦
へ の制御
とに意 義を持
つ 。「
戒 律」
を離
れ, また これ を 「法」
に 一 括 するな らば, ミ 普遍的
な理 法を否
定 し なげ れば な らない ミ と言わ ね ば な らぬ は 自 明の 理 で あろ う。これ まで に述べ た とこ ろを汲み つ つ 全 体 的 な
「
規準
」の枠組
をま とめれば, 大 概 以 下の よ うに な ろ うか 。鵡
欝
慧
鞭
:
識
次に具
体的
な 「規準」
に 移 るこ とに し よ う。 仏陀
の 言 葉の 中 に は , 「規準 」
とす
べ き内 容の もの が い くつ か あるが, その 代表 的な 一 は, 晩 年の旅の 様子 を描い た 『大般 涅 槃経』 (1
吻 侮ρσプ竰 ゐ6
伽 召・suttanta ) に 見られ る。 「それ ゆえア ーナ ソ ダ よ。 そ な た らは 自己を洲 とし (attadipa ), 自己 を 帰依所 と し (attasarapa ), 他を帰依所とせ ずに住せ よ。 法を洲 とし (dhamma
・d
!pa
), 法 を帰依 所と し (dhamma
・sarapa ), 他を帰依所とせ ずに住せ よ」 (P
.II
.100
−101
)こ こ に は真の 依所 とすぺ き 「法 」 と, 規
準
とすぺ き実 践 主 体た る 「自
己」 とが強
調 されて い る。 それ らはいず
れ も絶対
的 な規準
であ
るが, その言葉
は抽象
的で何
ら具体
性 を持
た ない (但しS
.V
.・163
等で は 「四念 処法 」を指す ) 。Komazawa University Kom 三1z三1w三1 Unlverslty パ ーリ仏 教に おける相対 的規 準〔
1
〕 (片山) (9
)これに
対
して我
々 は , 仏 教の 実 践に 関する具体
的 な規準
と し て 「中道 」(majj ・hima
・patipada
)が説かれて い る こと を 承知 し て い る。 釈尊最
初の 説 法 と さ れ る 『転法
輪 経 』(1
)hammacakleaPavattana
・sutta )で は, そ れ を次の よ うに 言 う。 「比丘 らよ, これ ら二 の極端 (anta )を出家者 (pabbajita
)は 行な うべ きで ない。 二 とは何か , それは諸欲に おける卑 俗, 在 俗, 通 俗 的に して非 聖 (anariya )の , 無 意義 (anattha ) な, 快 楽に耽る こ と (kamasukhallikanuyoga
), 及び 苦し く, 非聖の, 無意 義な, 自虐に耽る こ と (attakilamathanuyoga )で ある。 比 丘 らよ, 如来は これ ら二 の極 端に従わず, 中道 (majjhima patipada ) を よく悟っ た 。 〔これは〕眼 (ca −
kkhu
)を生じ さ せ, 智 (fiapa
) を 生 じ させ , 寂滅, 勝智, 正覚, 涅槃 (nibbana )に導くもの で ある。 如来に よっ て よ く悟 られた 中道
一 眼 を生 じ させ
, 智を 生 じ させ,
寂滅,正覚, 浬槃に導く もの 一 と は何か。 そ れ は 八 聖道 (ariya ・atthahgika −mag ・
ga )で ある。 即ち, 正 見 (samma ・
ditthi
), 正思 (se・sahkapPa ), 正語 (s° ・vaca ) , 正業 (s°−
kammanta
>, 正命 (s °・ ajiva), 正 精 進 (s °・ vayama ), 正 念 (s°・ sati >, 正定 (sa・samadhi )で ある」 (Vin
.1
.10
;S
.V
.420
) と。 この 趣 旨は , 極 端の 否 定で あ り, 仏 教の行動体系
に おける真正 の 規準
を 示す
にある。決
し て快 楽
も苦行
も半
ばに とい う よ うな ミ ほ どほ どミ を強調
し て い るの で は ない 。 ここ に い う ミ真 正 ミ とは, 中道の 「中」
(majjhima ), 或い は 八聖 道の 「聖」 (ariya ), また はそ の 各 支に付
さ れた「
正 」 (samma )に 外な らず
, 仏 教 の「
絶対
的 な正 しさ」をい うもの であ
る。 中道 とは真
正の行道
(patipada )で あ り, 正 しい 八支か ら成 る如
来の完
全 な 道 (magga ) で あ る (S
,V
.435
,DA
。II
.354
)。 こ の 中道, 即 ち八聖 道に 関 する教 説は , 釈尊
に よ る最
初の 説 法と して 五 比丘 に ,最
後の 説 法 とし てSubhadda
に (D
.・II
.151
) , ま た45
年
間の教化
におい ても
しぼし ぽ 示 された仏 教の 最 も重 要な実践の 教え とされる。 前 掲引
用の 外に 例 え ぽ,「カ ッ サ パ 〔異学〕よ, 道 (magga )があ り, 行道 (patipada )がある。 その 道を行 く者は 自ら知 り (sama 血 fiassati), 自ら 見る で あろ う (samalh
dakkhiti
),ミ 沙 門 ゴ ータマ は適 時 (
kala
) を 語 り , 真実 (bh
且ta
) を語 り, 意 義 (attha ) を 語 り, 法 (dham
:na ) を語 り, 律 (vinaya )を語るミ と。 カ ヅ サ パ よ, 道とは 何か, 行道 と は 何か。 … …これは 八聖 道で ある」 (D
.1
.165
) とか, 或い は , 「友よ, こ こ に 貪は 悪で あり, 瞋 も悪で ある。 貪を捨て , 瞋を捨て る た め に 中道があ る。 そ れ は眼を生 じ させ , 智を生 じ させ , 寂滅, 勝智, 正覚, 浬槃に 導くもので ある」 (1
匠1
,15
) とか様
々 に 中道, 八聖 道の 教え が説か れ るが, いず
れ もその具 体 的な内 容が正 見 一502
一(
10
) パ ーリ仏 教における相 対的規 準 〔1
〕 (片山) ない し正 定の 八支で あ る こ とは言 う迄 もない 。 こ の 「道」は 「法 」の 積 極 的 行 動 面であ
り,仏教
に お い て は ,何時
,何
処に おい て も正 し く意義
があ
る, つ ま り涅
槃
に導
く絶
対 的な規準
とな るもの で ある。 ま た 「八 聖道」
の各支
は戒
,定
,慧
の 三学に 配 される が , こ の 場合の厂
戒 」 も絶 対 的な規 準 と なる。 よ り充 分か つ 具体
的に 言えぽ,波 羅提木
叉 (patimokkha
) とし て既
に制定
さ れ固 定された150
余条
(A
.1
.230f
.) もし くは227
戒お よび律
の諸
規 定が これ に含
まれる。 その 「戒」
は条
文 各 々が絶 対 的に 正 しい 規準
で ある がゆ えに, 「別解
脱 」 (patimokkha
》 とも称 さ れ るの で あろ う。 ミ別 ミ の解
脱とは ミ戒一 一に よ る 別 々 ミ の解
脱を い うが , ミ法 と は 別 異ミ の (つ ま り律に よ る) 解 脱 を も含 意さ れて い る と思わ れ る。「
戒律
」 が「
法 」の 消極
的行動
面であ
る こ とは 既に指摘
し た通 りで あ る。以上 の ような法, ま たは戒 律に お い て 絶 対 的に正 しい と される絶
対的
規 準に 対 し て , 絶 対 的で は ない が絶対 的 規 準に 相 応 しい と され る規準
がある。 これはka
−ppiya
と言われ, 我 々が相 対 的 規 準 と呼ぶ もの であ
り, 次 節 皿 以 降に扱わ れ る こ とに な る。伝 統 仏 教に は か か る絶 対 的
規
準, 相 対 的規準
とい う規準
の 大枠
を見るこ とがで きるが, 『指導
論』 (Netti
・Pakaragea
) にe
よこれ が端
的に 示 され て い る よ うに 思 わ れる。 そ の 一節
を次に紹介
して本
節 を閉
じ るこ とに し よ う 。厂認め ら れ た もの (anuftfiata )は, 世尊の認め ら れた もの に よ っ て説 明 され ね ぽ な
らない。 そ れ は 五種で ある。 即 ち防護 (sa1hvara ), 捨断 (
pahana
), 修 習(bhavana
),作
証 (sacchikiriya ), 相対 的適正 (kappiyanuloma
)で ある。 そ れ ぞ れの地 (bhami
)に 見 られ るもの は,相対的適正に よ っ て説 明 され ねぽな らない 。 世 尊が捨てた (
patikk
・
hitta
)もの は捨て ら れた 理由に よっ て説 明されるべ きで ある。 認め られた もの と捨てられたもの は, その両 者に よっ て説 明さ れ ねばな ら ない」(
1
%鷭192
)こ こ に お ける salhvara ,
pahana
は 律 (SA
.II
.253f
.), 即 ち「
戒 」(Vism
.7
)に,
bhavana
は「
定 」に , sacchikiriya は 「慧 」に , つ ま り前四種は 三 学に 相当
す る絶
対 的 規 準を表わ し, ま た第五 のkapPiyanuloma
はkapPiya
, つ ま り相 対 的 規 準を 表 わ して い る と解せ られる で あろ う。 皿 .kappiya
の語義これ よ りしば ら く
相対
的 規準
を表
わす
kappiya
の語
義を調
べ るこ とに し たい 。 まず 形式
的 な語源 的意
味 を 見 よ う。Komazawa University Kom 三1z三1w三1 University
パ ーリ仏 教に おける相対的規準 〔
1
〕 (片山) (11
)kapPiya
は, パー リ語の 動 詞
kapPati
(Skt.
kalpate
くVklP
)= ‘to
be
arra −nged ,
to
be
fit
’ (PTS
・D
)に 由来 し, その未来受
動 分 詞 と解
される (Childers
・D
》 が, また パ ー リ語の名
詞kappa
(Skt.
kalpa
< 、/klp
)= ‘ rule ’ か ら導
かれた も の (kapPiya
く kapPa ・iya
,Skt
.kalpika
< kalpa ・ika
・=‘
according
to
rule ’) で あ る
(
PTS
・D
) と も見られ る。 い ずれ に し もてVklP
に由来
し, 文法的 に はDative
case と結
ばれ (Vdirttika
adPdip
.2
,
3
,13
), 「相応
しい」
(suitable ), 「許され うる」
(allowable ), 「適
切な」
(proper
) の意味
を持つ 。 な お漢訳
で は, 「聴」
, 「浄」
, 「如
法 」,「
随 順 」な ど (梵 和大辞 典),或
い は「
可 者 」,「
中 用」
(MahdivsutPatti
9196
,9388
) と示 され る。こ の 一般 的な
辞書
の意味
に 対して , パ ー リの諸
註 釈に知られ る とこ ろ は ど うで あろ うか。 パ ー リ外 律
を扱っ た後
代のPa
”limuttakavinayavinicch
¢yasangaha
(:Sariputta
,12C
)の註
釈であ
るy
伽の尸41
σ褫47
σ’魏δ (:Tipitakalahkara
,15C
;Be
,vo1 .
1
,p
.2 ,1977
)は, 「四浄
地j
(catu ・kappiyabh6mi ) のkappiya
を 次 の よ うに説 明す る。tattha
kappanti
tikappiydi
,kappa
samatthiye tidhatu
.こ こで は
kapPiya
を語 根kapP
, 即ちSkt
.のVklP
か ら作 られた もの と し,「
適 合 する」,「
相 応 す る」の 意に解 して い る こ と が 分 か る。 これ 以前の 諸 註 釈Atthakatha
で は ど うか とい うと, そこ には我
々 が 対象 として い るkapPiya
に直
接 言 及 す るもの は殆ん どな く,kappa
の解
釈に終
始して い る と言 っ て よ い 。直接
的な もの とし て は 次の 『小 誦 経 註 』(KhPA
.208
=PvA
.26
)の 解 釈を示 せ ば一一 応こ と足 り るで あろ う。
kapPlyan
ti anucchaviya 血patirUparh
ariyana 血paribhogaraha
血.こ れよ り
kappiya
が , 「適 切な」, 「適 当
な」
, 「聖者の受
用に値
す る」を 意 味 する語で あるこ とを 知 る。こ の よ うな 次
第
で , 以下はkapPa
を通し てkapPiya
の意
味を 窺 うこ とに し た い 。 まず
『長部経典
註 』(
DA
.1
.103
)を見 よ う。happa
・saddopi
‘titthatu
bhante
Bhagava
kappath
’ (1
).II
.115
), tAtthikappo
nipajjiturh ’
(
A
.IV
.333
), ‘kappakatena
akappakata 血 sa 庁1sibbita 血hoti
’(
Vin
.IV
.121
)ti
eva 血 ayukappa ・lesakappa
・vinayakappadisu sambahulesu atthesuvattati .
これに よれ ば,
kappa
の 意味
が具 体 的に は三 種 掲 げ られ て い る が, 他に も多 一500
一(
12
)パ ーリ仏教に おける相 対的規準〔
1
〕(片 山) くの 意味
があ
る とい う。 そ の うち我
々 の問題
とす
るkappiya
の内容
を持
つ の は vinayakappa (律の 点浄)で ある。 例え ば 「点浄
さ れ た もの (kappakata
) で もっ て 点 浄 されて い ない もの (akappakata ) が 繕わ れ る」と言 わ れ る 場 合の もの で あ る。 因み に『
長 部経 典復註』
(DAT
.1.
182
)で は上 記の 「多 く
の意味」
に つ い て 次が補われ て い る。
kappa
・saddo mahakappa ・samantabhava −kilesakama
・vitakka −kala
・pafifiatti
.sa−
disabh
訌v’・adisu vattati
ti
aha
sambahulesu atthesu vattatlti
.tatha
h
, esa‘
cattar ’
imani
bhikkhave
kappassa
asafikheyy2ni , (A
.II
.142
)tiadisu
ma ・
hakappe
vattati .‘kevalakappath
Veluvana
血 obhasetv 且,(
S
.1.
52
)ti adisusamantabhave .‘
sahkappo
kamo
, rago
kamo
, sahkapparagokamo
’
(
Nd
.II
.
124
)ti adisukilesakame
。‘takko vitakko sa 血kappo
’(
1
)hs
.7
)ti adisu vitakke ,つ ま りこ こ に は 三種の 外に 七種の 意 味が説 明され てい るが,
kappiya
に 関 する もの は見当
た らな い 。こ の よ うな 『長 部経 典 註 』に比べ て , 他の 主 た る註 釈 書に はや や
詳
しいkappa
の 内 容が知 られ る。 即 ち 『中 部経 典 註』 (MA
.II
,125−126
),r相応 部経
典註』 (SA
.1
.15
),r
増支部経典 註』(AA
.II
.377
) 及 び 『小 誦経註
』 (KhA
・115
−116
) に は , 次の よ うな それ ぞ れに全
く共 通の説 明が掲 げ られ て い る。
kapPa
・saddopanaya
血 abhisaddahana ・vohara 呷k
訓a・pafi五atti ・chedana ・vikapPa ・1esa
−samantabhavadi anekattho .tatha
hi
’ssa ‘okappaniyam eta !血bhoto
Go
−tamassa
yathata
血 arahato sammasambuddhassa ’ (M
.1
。249
)ti
evam 且disu
abhisaddahanam attho
,
‘
anuj 巨n巨mi
bhikkhave
paficahi samapakappehiphalafU
paribhu
丘jitun
. (Vin.
II
.109
)ti
evamadisu voharo,
‘
yena
suda 血 niccakappa 血 viharanl ’(
M
.1
、249 ) ti evamadisukalo
, ‘icc
ayasma
Kappo
, (Sn
.1092
)ti
evamadisu
pa
鯔 atti, ‘ala 血kata
kappitakesamassu
’ (.r
.Vl
.268
)ti evamadisuchedanalh ,
‘
kappati
dvahgulakappo
’ (Vin.
II
.294
;300
)ti
evamadisu vikappo ,‘
atthi
kappo
nipajjitun , (∠4
.IV
.333
)ti
evamadisuIesQ
,‘
keva
!akappalh
Ve
・luvanath
obhasetva ’ (S
.1
.66
)ti
evamadisu sa !nantabhavo .上 に示 され た
kapPa
の意味
八種 の うち, 二 種がkapPiya
の 内容を 持つ 。 一 は vohara (慣習)の意味
であ
り, 例えば 厂比丘 らよ, 五 種の 沙門
の慣 習
(sama ・ ηa・kappa
)に よ っ て果実を食ぺ る こ とを許 す」 とい う場 合の も の で あ る。 他は vikappa (疇躇)の 意 味で あ り, 例 えぽ「
二 指 分の 〔時 間の 〕 躊躇
(kappa
) は 相 応し い」
とい う場合の もの である。 た だ しこ れ に つ い て は問題が ある。 つ ま りこKomazawa University Kom 三1z三1w三1 University パ ー リ仏教に お け る相 対的 規 準 〔
1
〕 (片山) (13
) の 場 合のkappa
を, む し ろ常
識 的に ,「
時 間」 (time
>と見て ミニ 指 分 の 時 間は 相 応 しい ミ (Childers
・D
) とか,厂
規 定」
(rule ) と見
て ミ ニ指
分の〔
時間
の〕 規定
は 相 応 しい モ (PTS
・D
)と解
する こ と も可 能だか らで ある。 もしその よ う に読
む な らば こ のkapPa
は 我々 のkapPiya
の意味
に属
する こ とに なろ う。 し か し後
述の通 り,
time
はkala
と して , rule は vidhi (ま たは (vidhana ) と し て vi−kappa
と区別 す る伝統
的解
釈があるか ら, こ こ で のkappa
は「
躊 躇 」 と解 すべき
であ
ろ うと思わ れる。 なお またSubhttti
のAbhidha
’ naPPadipika −・saci (ce
,1893
, p .76
脚註)に ‘vikappo
ti
vividhakappana
atthassa anekantikabhavo ’と述べ て い る こ とも考 慮 すべ きで あろ う。 したが っ て こ の
kappa
の ’例 文は 内容
と して
直接
kapPiya
と関係
する もの であ るが,kapPa
な る 語自体
はkapPiya
と
積
極 的な関 連を持た ない と見た方が よい か も知れ ない 。以 上 がい わ ゆる
Atthakatha
に知 られるkapPa
の 意味
であるが, そ の 他に,12
世 紀セ イ ロ ン のMoggallana
に よるパ ー リ語 最 古の 辞 典Abhidha
’napPadipikd(v.
799
)に記載
され た12
義がある。 即 ち次 の通 り。kappo
k
巨1e
y
ugelese
pafifiatti
paramayusu
,sadise tlsu samapavohara ・
kappabindusu
, samantatte ’ntarakappadike
takke
vidhimhi ca.さ らに こ れ を
含
め て最
も豊富
な語義
18
種を紹
介して い る もの に12
世 紀 ビル マ で著わ され たパ ー リ語 文 法 書
Saddaniti
(:Aggavarhsa
, ed .
by
H
.Smith
,1928
−1954
)が
存
す る。今
こ こ で はDhatumala
§1525
(Sad
。P
.552
) に掲 げ られた偈を示 し, その 内容説
明 を整
理 し, また各意 味
の 例を付
す こ とに し よ う。vitakkei ca vidhane2 ca
patibhage8
tath
’ eva ca
pafifiattiyarb
.4tatha
kales
paramayumhie
chedane7samantabhave6 vohareg abhisaddahanei °pi ca
viniyogeti ca vinayakiriyayarb :21esakei8 pi ca
−
vikapp ’u −
ant:arakappesu !5
taOhaditthis
}ユ16 ’sahkhayei7
kappeis
ca evamad1sukappa
・saddo pavattati .1・
vitakka〔
takka
〕(思 惟) : ‘nekkhammasahkapPo _ ...avyapadasahkap ・PO
,(
S
.II
.152
)2.
vidhana 〔vidhi 〕 (規 定):‘civare vikapParbapajjeyya
(Vin
.III
.216
)3
. 、patibhaga
〔
sadisa〕
(類 似): ‘satthukapPena vata
bho
savakena sad 一(14)
.x' --v
caXac
Sstrj'6NXI-blMmpCI)
(lt
pt)
dhim
mantayamana najanimha'
(M:
I.1sc)
4.
pafifiatti
(gnt/i)
: `iccayasma
Kappo'
(Sn.
10g2)
5.
kala
(eema):`yena
sudath niccakappatn viharami'(M:I.24g)
6.
paramayu
(fimefifu)
:`akahkhamanoAnanda
tathagato
kappaM
theyya
kappavasesarh
va'(D.II.
103)
7.
chedana(-bjwt)
: `alafikatokappitakesamassu'
U.VI.
268)
8.
samantabhava(samantatta)
(seme)
: `kevalakappaihVeluvanaih
asetva'
(s.
I.
66)
9.
voharaEsamanavohara)
(vawr)
: `anujanamibhikkhave
paficahi
anakappehi
phalath
paribhufijituth'
(Vin.
II.
109)
10.
abhisaddahana(tsne)
: `saddhasaddahana okappana abhippasado'
(Dhs.
S12)
11.
viniyoga(NM)
: `evam evaito
dinnatn
petanath
upakappati'(Pv.
20==
KhP.
VII.
9)
12.
vinayakiriya(kappabindu]
(pmopfik)
: `kappakatenaakappakatarb
sarhsibbitarii
hoti'
(Vin.
IV.
121)
13.
Iesa
(ge0)
: `atthikappo
nipajjituMhandahaM
nipajjami'(D.III.256)
14.
vikappa(ecee):`kappati
dvahgulakappo'
(Iiin.
II.
294)15.
antarakappa(*bl)
: `apayiko nerayikokappattho
safighabhedako...kappaM
nirayamhipaccati'
(Vin.
II.
205)
16.
tarphaditthi
(ptM
: `nakappayanti
napurakkharonti
dhamma
pi
tesath
napaticchitase,
nabrahmapo
silavatena neyyoparafigato
ca
pacceti
tadi'
(Sn.
803)
17.
asahkheyyakappa(NIeeptsi)
: `anekepi
sarbvattakappe anekepi
attakappe'
(Vin.
III,
4)
18.
mahakappa(Jkbl>
: `cattar'imani
bhikkhave
kappassa
asankheyyani (A.II.
142)
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cit., pp.75-76)
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パ ーリ仏 教にお け る相対 的規 準 〔
1
〕(片山)(
15
) 々 が扱 う相 対 的 規 準 として のkappiya
の 意 味が , 決して 尽 されて は い ない もの の , ある程 度 ま とめ られ る よ うに思わ れる。 即 ちkappiya
に意味
される もの は,「
規
定 」 (vidhana , vidhi ), 「沙門
の 慣 習」
(samarpa −vohara ),厂
律
の 行為
」 (vinaya ・kiriya
・kappabindu
) など となろ う。 全 体 と して は「
相 応 しい」
とい う意昧
を持
つ 。 た だ しこ の vidhi や vohara が,
Vedahga
の一た る
Kalpa
もし くは そ れ が 含むDharma
の有
す る意味
の 一面で あ り, ミ 定め られた もの ミ を 内 容 と し て い る こ とか ら言え ば,kapPiya
は, 仏 教 以 前のkalpa
な る語か ら採 用さ れ, 仏 教の 中で ‘‘dhamma
” に対す
る ‘ ‘kappa
” と し て 定着
し た もの と 考え られる であ
ろ う。 ち ょ う ど形 とし て samana ・dhamma
が samapa −kapPa
に対 応す
るよ うに 。