テバイのオリュンピオドロスについて
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(2) . 平成8年8月. 北海道教育大学紀要 (第1部B) 第47巻 第1号. Au t s を 罫 1 , 1996. Se i fEduca i t i t i do Un i t c onIB)VOL 47 lo fHokka on( s J ver .1 ourna yo ,No. テ バ イ の オ リ ユ ン ピ オ ドロ ス につ い て. -- 史料紹介を兼ねて --. 米. 田. 利. 浩. 408~450年) は, そ の 後 の 東ロ ー マ = ギリ シ ア 世界 にお い て, 5 世 紀前 半期 の テ オ ドシ オス 2 世 の 治 世 ( 東ロ ー マ = ビ ザ ンツ 史 を通 じて みて もあま り例 を見 な い ほ どま で に 歴 史, よ り正 確 に言 え ば同 時代 史, へ の. ) 全22巻からなる同時代史を書きあ らわしたと伝えられるエジ 関心が大きな高まりをみせた時代であっ た1 ‐ 2 ) プ トの テ バイ 出 身 の 「異 教 の詩 人」 オリ ュ ン ピ オ ドロス も この 時期 に活 躍 した歴 史家 の ひと り であ る ‐ テ オ ドシ オス 2世に献じられたと言われるかれの史書 (かれ自身の言によれば, 「歴史」 ではなく 「歴史のた )は 残 念 な が ら 現 存 して は い な い が そ の 内 容 の 概 略 につ い て は 後 にコ ンス タ ンテ ィ ノ ポリ め の 素 材」 )3 , ,. ス総主教となっ た9世紀の文人フォティオスが書き残した比較的丁寧な読書記録 から窺い知ることができ る-. 本稿 では, こ の フ ォティ オス の 読 書 記 録の 訳出作 業 を 通 じてオリ ュ ン ピ オ ドロス の 史書 の内 容 を紹 介する と とも にオリ ュ ン ピ オ ドロス その ひと につ い て も 簡単 に論 じて みた い, オリ ュ ン ピ オ ドロス は 同時代 史叙述 の た め の 鋭 敏 な 政治感 覚 を トゥ キ ュ ディ デス と共 有 する と 同時 に, ヘロ ドトス の知 的好奇 心 と広 い視 野 を も. ) 兼ね備えた, 恐らくは古代末期において最も異彩を放っ た歴史家であっ たと思われるからである4 ‐. 1. オリ ュ ン ピオ ドロス と か れの 史書 につ い て. フォ ティ オス の 『文 庫』 (B‘β ん oβりにり) は か れ自 身 が読 ん だ386冊 にの ぼる 書物 の 読書 記 録 を280の 項 ) こ の 書 に収 め ら れて いる オリ ュ ン ピ オ ドロス の 史 目 にま とめ た 文 献紹 介と も 言う べ き 性 格 の 書 であ る が5 ,. 書の読書記録 (第80項) は, 「オリ ュ ン ピオ ドロスの史書22巻を読んだ」 という言葉で始まる簡単な著者紹 介と史書の文体批評ないしは読後感を記した前書きに続いて, 全部で45の史書そのものからの抜き書きもし ) 45の 断片 は 3 つ の例 外 を 除い て い ず れも 「~ とい く は 要約 断片 が個 条 書 き 風 に書 き連 ね ら れて いる6 - , , う こ と」. ”) という言葉で始まり, この語に続く記事が史書からの抜き書きあるいは要約であることが. ) 示 さ れて いる7 ‐ 前 書 き によ れ ば, オリ ュ ン ピ オ ドロス の 史書 は西 ロー マ 帝 国皇 帝ホノリ ウス が7 回目 で 東帝 テ オ ドシ オス 407年) か ら 説 き 起 こ し, ウ ァ レンテ ィ ニ アヌ ス 3 世 が 西 ロ ー マ 帝 2 世 が2 回 目 の コ ンス ル職 にあ っ た 年 (. 国の 皇帝に即位した425年にまで及んでいたというが (断片1を参照) , 抜き書きはスティリコの権力掌握と そ の失脚 か ら始 ま り ウ ァ レンテ ィ ニ アヌ ス 3 世 の ロー マ での即 位 ま で ほ ぼ年 代 順 に 並 ん でおり, フォ ティ オ. スが史書全22巻を通読したうえで順を追っ て史書の内容を抜き書きしていっ たことが窺われる‐ 但し, 例え ば, 405年 に北イ タリ ア に侵 入 したラ ダガイス ス 塵 下 の 東 ゴー ト族 に関する 記 事 (断片 9), ある い はス テイ リ コ によ っ てア ラリ クス に支払 わ れ た軍 役 報酬 につ い て の 記 事 (断片 5) が, い ず れも, アラリ ク ス 塵下 の 407年) か ら410年 8月 のロ ー マ 攻 略 にい たる ま で の 経緯 を記述 した 断片 西 ゴー ト族 のイ ッ リ ュ リ ク ム 定住 (.
(3) . 米 田 利. 浩. (断片3) の後におかれているなど, 4 5の断片の全てが正確に年代順に並んでいるわけではない‐ 抜き書き をお こな っ た フ ォ ティ オス が原 書 の 記載 順序 には 時 に無 頓 着 であ っ た と いう こ とも勿 論考 えら れる が そ れ ,. よりはむしろ, オリュ ン ピオ ドロス の史書が大枠としては年代記風の体裁をとりながらも 必ずしもそれに , ) と らわ れて はい な か っ た こ と を 暗示 して いる と言 っ て よ い8 ‐ こ のよう な年代 の前 後 した記述 は ひとつ ひとつ の 断片 の記 事 のな か にも見 て と る こ と がで きる 例 え ば . , 断片12で は, ブリ タ ンニ ア で帝位 を借 称 した コ ンス タ ンテ ィヌ ス (3 世:F1 i inus) が av usC1audius Constant. ,. ガリ ア を制 圧 した 後 409年 にな っ て 一 度 は ホノ リ ウ ス 帝 によ っ て 共 治 帝 と 認 め ら れ た 次 第 が 記 さ れ て いる , が, こ こ に は コ ンス タ ンテ ィヌ ス の 登場 に至 る ま での ブリ タ ンニ ア の 情 勢 が406年 に ま でさ か の ぼっ てあ わ. せて書き留められている‐ また, 前書きに続く断片2 にはス ティ リ コ がい か に して権力 を掌 握 して い っ た か につ い て の 記 述 か ら 史 書 が始 まる と いう フ ォティ オス の コメ ン トが冒頭 に付 さ れて いる が こ こ にも384年 , 頃 と想 定さ れて いる ス ティ リ コ と テ オ ドシウス 大 帝 の 姪 の セ レナ と の 婚姻 等 の407年 以 前 の 記 事 が含 ま れて いる. 409年 の コ ンス タ ン ティヌ ス とホノ リ ウス と の 交 渉 につ い て 語る た め に はコ ンス タ ンテ ィ ヌ ス が皇 帝. と して擁立された経緯を明らかにする必要があっ たのと同様に スティリコが大きく関与した407年の出来 , 事 か ら 史書 を説 き起こ した オリ ュ ン ピ オ ドロス は こ の 時 にス ティ リ コの演 じた役 割 につ いて 記述 する た め に. も-旦年代をさかのぼってスティリコの権力掌握過程を跡付 けておく必要があったのである 単に出来事を ‐ それが生起した年代順に書き連ねていくのではなく, 連想のおもむくままに 時には年代をさかのぼって因 , 果関係の連鎖を探り個々 の出来事の持つ意味を説き明かしていく, 恐らく かれの史書の全体がこのような , 書き方で終始していたと 思われる‐ 「冗漫で脈絡がなく, 史書に分類するのは適切ではない」 (断片1) とい うのがフォティオスのこの史書に対する評価であるが, 随所に見られる歴史叙述の本筋からの脱線ともいう )と相 僕 て こう した批判 が生ま れ てく る 所 以 であ る しか し 逆 べ き 記 事9 に, こ の よう な 叙述 の 仕 方 は っ , . , オリ ュ ン ピ オ ドロス が自 分の 史書の 題材 と した か れ自 身 が生 き てい た 時代 につ い てのある 明確 なイメ ー ジを o ) 持 っ て い たこ と を示 唆 して いるl ‐ なお, 6 世 紀初 頭 に 『新 しい歴 史』 全6 巻 を著 した ゾシモス は ラ ウ ェ ンナ がロム ルス の 双 子 の兄 弟 であ , っ た レム ス によ っ て創 建 さ れた と いう, オリ ュ ン ピ オ ドロス の 伝 える 伝 承を か れの名 前 を 挙 げて紹 介 して い 1 ) 22巻 と いう 大 部 の 書 物 か ら の る が, フ ォ ティ オス の 読 書 記 録 に は こ れ に相 当 す る 記 事 は見 当 た ら な い1 . 抜 き書 き で ある が故 に当 然予 想 さ れる こ と で ある が フ ォ ティ オス の読 書 記 録 か ら はオリ ュ ン ビ オ ドロス の ,. 史書の大部分が抜け落ちていると考えなければならず, またフォティオスの抜き書きが史書の意図をくみ取 ることなく懇意的におこなわれた可能性も否定することはできない‐ しかし, かれの抜き書きもしくは要約 には, 5世紀の他のギリシア人史家にはみられない, ラテン語をギリシア文字に置き換えただけの, 時には 2 ) 醜 い とさ え評 さ れる, 明 らか にオリ ュ ン ピオ ドロス の 史書 にのみ 特 徴 的な 語法 がそ のまま 保存 さ れている1. ことから考えて, ほとんど引用と言っていい程原文に忠実で, 正確な内容紹介に終始していると考えてよい ) 実 際 史家 の 記述 につ い て の フ ティ オス 自 身 の読 後 感 を 窺 わ せる 表現 と して は 「か は 3 と思 わ れる1 ォ れ ‐ , , 大仰 に述 べ て いる」 (eにてpαγ β ” : 断片18 ),「怪 しげな 話 を する」(“〃βoスoγ ” : 同15 ),「怪異 を 語る」 (rEpαてoスoγ ” :36 ), 「不思 議 を 語る」 (汀αpαがのきo入Eγ ” :33 ), 等 の 語 が僅 か に散見 さ れる だ , 38 け に しかす ぎず, 総 じて フ ォ ティ オス はオリ ュ ン ピ オ ドロス の 史書の 良き紹 介者 であ っ た という こ と がで き. ると思われる‐ 前書きに見られる辛練な批判を踏まえるならば, かれは, オリュ ンピオ ドロスの辛抱強い読 者であったと言うこともできるかもしれない‐ ※. ※. ※. フォ ティ オス によ れ ば, オリ ュ ン ピ オ ドロス の 史書 は10巻 か らなる 前 半部 分と12巻 か らなる 後 半部 分 と か. らなっ ていたという (断片18及 び19 ) 18 ) では, 史家自身がフン族のもと . 前半部分最後の抜き書き断片 ( 2.
(4) . テノゞイ の オリ ュ ン ピ オ ドロ ス につ い て. へ 外 交使 節 と して 赴 い た 次 第 が伝 え ら れて いる‐ こ れは こ の前 後 の 断片 の 内 容 か ら412年 頃の こ と と推 定 さ 4 ) 従 て 史 書 の 前 半10巻 に は407年 か ら412年 ま で の 6 年 間 の 出 来 事 が記 録 さ れ て い た こ と に なる れ1 つ , ‐ , この 前 半部 分 につ い て フォ ティ オス は17の 抜 き 書 き を作 成 して いる が, こ れ らは そ の 内 容 か ら 次の三つ に分 類 す る こ と がで きる‐ ス ティ リ コ に関 す る 死 後 の 後 日 談 を も 含 め た 記 述 (断片 2, 6, 8, 9) 及 び410年 夏 の ロー マ 攻 略 を頂点 とする アラリ ク ス (及 びアタ ウ ル フス) 塵 下 の西 ゴー ト族 の動 向 に関する 記述 (断片 3, 4, 5, 10 ), 借 称 帝 コ ンス タ ンテ ィ ヌ ス の 動 向 を 中心 と して ガリ ア 及 びヒ ス パ ニ アの 混 , 13 , 15 , 17. 2 ) 沌とした政治情勢の推移を伝える断片 ( 1 , 14 , 16 , 最後に, 歴史叙述の本筋からの脱線・余談あるいは ), 「同 盟 部 隊」 (≠o‘- lar ius 補 論 と も 言う べ き 記 述, こ こ に は, 「護 衛 隊 兵士」 (βoひにEススαp‘o =bucel βep αてo‘. ) と いう 言 葉 の 意 味 を 説 明 した 記 述 (断片 7, 11 ) 及 び上 述 した 外 交 使 節 と して の =f i t ra oede. 史家自身の個人的体験を伝える記述 (同18 ) が含まれる‐ あるいは, ラダガイウス階下の東 ゴー ト族の社会 構造への言及が見られる断片 (9) とシキリアをめざしたアラリクスの前進を阻んだというレギウムの異教 の神 像 につ い ての 挿 話 (断片15 ) も こ こ に含め た方 がよ い の かも しれな い. 史 書 の 叙 述 の 出 発 点 が407年 で ある と いう フォ ティ オス の 証 言 につ い て, 例 え ば, ブロ ッ クリ イ はこ の 年. の年頭におこつ たゲルマン諸部族のライン渡河とガリアヘの侵冠という西方世界における本格的な 「大侵入 5 ) しか し こ の 年 は ア ラリ ク ス が西 方 帝 国 の ホ 時代」 の 開幕 を 告 げる こ と に な つ た 事 件 に着 目 して い る1 . ,. ノリウス政権とはじめて同盟関係を結び, スティリコによってイ ッリュリクム地方の防衛 (対東方帝国) を 6 ) ま た ブリ タ ン ニ ア で コ ンス タ ンテ ィ ヌ ス が 帝 位 を 借 称 した 年 で も 委 ね ら れ た 年 で も あ り (断片 3) 1 , , あ つ た (同12 ). 恐 らく, オリ ュ ン ピ オ ドロス は407年 に起 きた こ のふ たつ の 出 来 事, な か でも特 にアラリ ク. スとホノリウスとの同盟関係の樹立を410年の破局に直結する出来事として捕らえ, 史書の叙述の起点と し たのである‐ 明らかに410年に焦点を合わせている史書前半部の叙述全体の流れとその内容を踏まえるなら ば, この よう に考 え てよ い と思 わ れる. 史家 がス ティ リ コ の権力 掌 握 過 程 をま ず跡付 ける 必 要 を感 じたの は , ス テイ リ コ がこ の 時の 同盟 関係 樹 立 の立 役 者 であ つ た か ら に他 な ら ない. 史書 の 後半 部 分 につ い て は フ ォ ティ オス は28 (断片19~46 ) の 抜 き 書 き を残 している‐ 内容 は, 前 半 部 分. と較べて, より多彩かつ多岐にわたり, 地理的にも史家の関心の及ぶ範囲は大きく拡大, 史家の知的好奇心 の旺盛さを物語る脱線も多く, 更に精彩を放つ人物描写がこれらに彩りを添えている‐ しかし, 随所に見ら れる 脱 線 にも か か わ ら ず, 412年 か ら425年ま での 西 方 帝 国の歴 史 が, アラリ クス の ロ ー マ 攻 略の 際 に 人質 と して 囚 わ れたホノ リ ウス の 異母 妹 ガ ッ ラ ・ プラ キ ディ ア の 波欄 の 半 生 (二 度 の結 婚 とコ ンス タ ン ティ ノ ポリ. スヘの追放, 東ローマ帝国皇帝テオ ドシオス2世の支援のもとでの西ローマ帝国皇帝の母后としてのローマ への凱旋帰還) を軸として描き出されており, 叙述の大筋は極めて明快である. こ こ で は, ま ず, 412年 初 頭 に ア ル プス を越 え て ガリ ア に入 っ た ア タ ウ ル フス と ホノ リ ウス と の 交 渉 と そ の 決 裂 (断 片19 ) か ら, 対 西 ゴー ト 強 硬 策 の 主 唱 者 で あ つ た コ ン ス タ ン テ ィ ウ ス (F1avius , 21 , 22 , 20 ) の ラ ウ ェ ンナ の 宮 廷 で の 権 勢 と そ の 「借 主 然 と した」 風 貌 を 紹 介 す る 断片 ( Cons i t ) を 挟 ん で, 23 ant us 414年 の ナ ル ボで の ア タ ウ ル フス と プ ラ キ ディ ア と の 結 婚 式 の 挙行 (断片24 ), 翌415年 夏 の ア タ ウ ル フス の 暗殺 (同26 ), 416年 の 西 ゴー トの新 王 ウ ァ リ ア とホノ リ ウス との 同盟 関係 の 樹立 と ガ ッ ラ ・ プラ キ ディ アの 返還 ( ) に至る ま で の 経 緯 が順 を 追 っ て述 べ ら れ, こ れら の 断片 の 間 に アラリ ク ス 攻 略後 のロー マ の 急 31 ,. 速な復興 ( 2 5 ), 蛮族の姿を刻んだ彫像が発掘されたという トラキアでの出来事 ( ) 27 , 史家のアテ ナイ訪問 と 同地 で行 わ れて い た ソ フィ ス テス の秘 儀 の 次 第( 28 ),更 に,ウ ァ ン ダル 族 が名 付 けた西 ゴー ト族 の異 名( ) 29 及 び ウ ァ ン ダル 族 の 孫間 の も と にさ らさ れた ヒス パ ニ ア でお こ っ た 悲劇 ( ) を 伝える 5つの断片が 一見 30 , 7 ) こ れ とい つ た 本筋 との 関係 がな いま ま に, 挿 入 さ れて いる1 .. 断片32以降の後半部分の残りの15の断片 ( ) は, 多くの史家自身の個人的体験や挿話等を含み, 互 32~46 3.
(5) . 米 田 利. 浩. い に殆 ど脈 絡 なく, 乱 雑 に並 べ ら れて いる が, こ こ か らも417年 の プラ キ ディ ア と コ ンス タ ンティ ウス と の 419年) の 誕 生, ホノ リ ウス の 共 治 帝 と して の コ ンス タ ンテ ィ ウ 結 婚, ホノ リ ア と ウ ァ レ ンテ ィ ニ アヌ ス ( ) か ら, 418年 の西 ゴー ト王テ オ ドリ ク ス の即 位 につ い て伝 える ス (3 世) の 登位 と死 ( 421年 : 以上 断片34 断片( )を 間 に挟 ん で, 寡 婦 とな っ た ブラ キ ディ ア とホノ リ ウス との 不和 と422年 の プラ キ ディ ア の 追放(断 35 ) に至 る ま で の ラ ウ ェ ン 片40 ) と いう 事 件 を経 て, 423年 の ホノ リ ウス の 死 とヨ ハ ン ネス の 帝位 俗 称 (同41 ) 39 ナ宮 廷 で起 こ っ た 一連 の 出来 事 を読 み取る こ とは容易 であ り, 加 えて, コ ンス タ ンテ ィ ウス の 人物 描 写 (. ) 4 2 と追放されたプラキディアに支援を惜しまなかった好漢ボニファティウスの積極果断な性格を示す挿話( と が, こ れらの 出来 事 をよ り一層 印象 深 いも の に して いる.. この部分のこの他の断片の内容は次の通りである‐ 史家の友人であったアテナイの書誌学者の挿話 (断片 ), 辛酸 をなめ た 史家 の 航 海で の 体 験 とか れ が20年 間飼 ), エ ジ プ トのオ ア シス の 町の 地 誌 につ い て (同33 32 ), 「探 究 の た め に」 ( “ でop‘α eンeにα) 史家 がお こ な っ た 36 っ て い た 人真 似 の 巧 い オ ウム につ い て ( 37 ), プラ キ ディ ア の 命 に よ り 処刑 さ れ た ナイ ル河 の 遡 行 と エ ティ オ ピ ア の ブ レンミ ュ エス 族 の 地 の探 訪 ( ), オ デ ュ ッ セウス 43 ), 都 市 ロー マ の 威容 とロー マ の貴 人の 豊 か な財力 につ いて ( 魔 術 師につ いて ( 38 , 44 )‐ 45 の放 浪 をめ ぐる 史家 の解 釈 につ いて ( なお, フ ォ ティ オス の最 後 の 抜 き 書 き は, 425年 の 東 帝 テ オ ドシオス に よる ヨハ ンネス 追 討 軍 のイ タリ ア 派遣 とその 陣容, 追 討 軍 を前 に して の ヨハ ンネス の失脚 と死, そ して ロー マ での ウ ァ レンテ ィ ニ アヌ ス (皿. ) 世) の即位という史書の最後の部分を要約したものとなっ ている (断片46 ‐ ※. ※. ※. フ ォ ティ オス は オリ ュ ン ピ オ ドロス の信 仰 が 異 教 であ っ た と伝 え て いる が (断片 1), 5 世紀 にお ける 異 教 と いう 言 葉 の 持つ 意 味を重 視する ケ ー ギは, フォ ティ オス の こ の証 言 を 踏ま え てオリ ュ ン ピ オ ドロス の 史. 書を護教の書と位置づけ, この書が敬慶なキリスト教徒として知られたテオ ドシオス2世に献じられるにい た っ た経 緯 につ い て, テ オ ドシオス 2世 との結 婚 を契 機 にキリ ス ト教 に改 宗 した皇妃 アテ ナイ ス = エ ウ ドキ. アが介在していた可能性を示唆し, これを受けてブロックリイは史書の刊行年代を, 改宗後も異教徒に深い 理解を示し続けた彼女と彼女の寵を得たエ ジプトのパノポリス出身の異教徒であり詩人としても知られてい ) 8 た キ ュ ロス が宮 廷 内 に大 きな 影響力 を持 っ て い た430年代 末 か ら40年 代 の前 半期 と推 定 している1 . 確 か に, 抜 き書 き に見 ら れる, ア ラリ クス の シキリ ア侵 冠 を 阻ん だと いう レ ギウム の異 教 の神 像 につ いて. ) あるいは北方からの蛮族の侵霧を阻んでいたというトラキアで発掘された3つの彫像につ の記述 (断片15 ) は, とも に, 例 え ば, かつ て西 方 での シ ュ ンマク ス ある い は東 方 でのり バニ オス が 論 い ての 記 事 (断片27 9 ) ま た ケー ギ は見 落 と して いる が 同 陣 を 張 っ た 異 教 の 護 教 論 を思 い 起 こ さ せ る に十 分な も の が ある1 . , , じく フ ォ ティ オス が, 新 プラ トン主 義の哲 学 者 であ り 「戦 闘的・ な、 異 教徒 と しても知 ら れたア レク サ ン ド 0 )も オリ ュ ン ビ オ ドロス の 史 書 レイ ア の ヒ エ ロ ク レス と オリ ュ ン ピ オ ドロ ス と の 親 交 を伝 え て い る こ と2 ,. を護教論として読むことの正しさを裏付けている かのように思われる‐ しか し, そ れにも か かわ らず, 異 教徒 と して の オリ ュ ン ピオ ドロス の信 仰 を過 大 に 重視 し, 強 硬な 反異 教. 1 )に対して異教信仰の正当性を訴えた護教の書としてこの史書を論じるのは 政策を推進したテオ ドシオス2 必 ず しも適 切 で はな い. 「キリ ス ト教対 異 教」 と いう 図 式 で は 捕 らえ きる こ と の で き な い, ロ ー マ 帝 国の 東. 西分裂から西方帝国の崩壊へと至るこの決定的な時代における かれの史書の持つ意味を見失わせてしまう恐 れがあるからである. 抜き書きに一通り目を通して明らかなのは, この書からは一貫した異教徒としての自 己主張を読み取ることはできないという事実であり, 護教論を思わせるこれらの記述も僅かに史書全体の叙 2 ) 述 の 本筋 か ら 外 れた挿 話 と して 語 ら れて いる に しかす ぎな い2 ‐. 既に検討を加えたように, フォティ オスの残した抜き書きから, 西方帝国の政治的混乱と東方帝国による 4.
(6) . テ バイ の オリ ユ ン ピ オ ドロス につ い て. 秩序 の 回復 と いう, 407年 か ら425年 ま での歴 史の な か にオリ ュ ン ピ オ ドロス が描 い た筋 書き を 読 み 取る こ と は容 易 であ る が, オリ ュ ン ピ オ ドロス がこ の筋 書 き の最 後 を飾 る 場 面 と して位 置 づ けた の が425年 の テオ ド 3 ) 専 シオス による イ タリ ア 遠 征 軍 の 派 遣 と, 西 ロ ー マ 帝 国 皇 帝 ウ ァ レ ンテ ィ ニ アヌ ス3世 の擁 立 であ っ た2 ‐. ら西方帝国の政情に関心を集中させ, 東方帝国の事情については叙述の大筋を彩り飾る挿話として自身の個 人的体験を述べるにとどまっ ていたかれが, 425年の出来事を伝える最後の断片では一転して東方帝国で企 4 ) て ら れた 軍 事 行動 に叙述 の 視点 を移 し, 東 か ら西 へ とそ の 後 を追 つ て いる 理 由も こ こ にある2 . オリ ュ ン ピ オ ドロス と 同 時代 の 教会 史家 ソク ラ テス によ れ ば, この 年, 借 称帝 ヨハ ンネス 殺害 の 報を受 け た テ オ ドシオス は 観戦 中の 競馬 を中 断さ せ, コ ンス タ ンテ ィ ノ ポリス 市 民 と とも に賛美 歌 を歌 い な がら 教 会 ) オリ ュ ン ピ オ ドロス の 史 書 は 5 へ と 向 か い, そ の 日 の残 り を感 謝の 祈 り を 捧 げる こ と に 費 や した と いう2 . こ のよう に東 方 帝 国の こ の栄 光 の 時 に, この 栄光 を 意識 しつつ 書 か れた, 勝利 者 テ オ ドシオス に捧 げら れた 6 ) 425年 直 後 の 極 め て早 い 時期 に 史書 は完 「頒 詩 ( ane r ) とも 言う べ き趣 を 持 つ て い たの であ る2 chus 」 p gyi . 2 7 ) 「 と考 え た 歴 成 さ れ, テ オ ドシオス に 献 じら れた 史」 で は なく 「歴 史 の ため の 素材」 と いう 史家 の言 い . 葉 もある い は, 献呈 を 急 い だあ まり の, 一 種 の弁 解 と して 受 け取 れな い こ とも な い. フ ォ ティ オス の 断片28に は415年 頃アテ ナ エ に旅 行 した オリ ュ ン ピ オ ドロス が当 地 の 修 辞 学 の 公 教 師 (ソ 8 ) オリ ュ ン ピ オ ドロ ス の 古 典 古 代 の 文芸 へ の 造 詣 フィ ス テス) の 人 選 に 介 入 した こ と が伝 え ら れて いる2 ‐. の深さを暗示する交友関係の広がりを示す例としてしばしば挙げられる挿話であるが, たとえ関係者の間に 多くの知己を持っ ていたとしても, 全くの部外者である私人が都市参事会の専権事項に属したこの種の人事 に簡 単 に 介 入 で き た と は思 わ れ な い‐ この 時 の ア テ ナ エ で の か れ の 行 動 は, 属 州 アカ エ ア 総督 ( I oconsu pr ) Achaeae. ある い はイ ッ リ ュ リ ク ム 総監. (praef ), 更 に は 皇 帝 も しく は そ の側 近 の い i l l i i t ectuspra e or ol c yr. 9 ) オリ ュ ン ピ オ ドロス は 421年 にア テ ナ ず れ か の 指 示 に 基 づ い たも の で あ つ た と 考 える の が穏 当 であ る2 . , イ ス = エ ウ ドキ ア が宮 廷 入 りす る 前 か ら, 従 つ て, キ ュ ロス の登 場 する 以前 か ら, 既 にコ ンス タ ンテ ィ ノ ポ リ ス 政 府 の 要 人 と してそ れ な り の 地 歩 を築 き 上 げて いた の であ る‐ 既 に触 れた よう に412年 頃 には か れ が フ ) 0 ン 族の も と へ 外 交使 節 と して 赴 い ている という 事実 も こ の こ と を裏付 けてく れる3 . テ オ ドシオ ス2世 の 治 世 は, ア テ ナ エ の ソ フィ ス テス の 娘 と して ギリ シ ア の 文 化 的, 精神 的 伝 統 の な か で 育 て ら れた アテ ナイ ス = エウ ドキア の宮 廷 入 り に象 徴 さ れる よう に, 政策 と して の ヘ レニ ズ ム へ の 回帰 が決 1 ) オリ ュ ン ピ オ ドロ ス の 史 書 が西 方 世 界 に対 す る 定 的 な 一 歩 を 踏 み 出 した 時代 で あ つ た と 言 わ れ て いる3 ‐. 東方世界の優位性を誇らかに宣言するものであつ たとするならば, かれの史書は同時に, 世界帝国ローマの 一元的支配のもとで失われていた, 西方世界とは異なつ た独自の個性を持つ た世界としての東方世界の自覚 を促 す こ と にもつ な が っ た と言 う こ とも できる と思 わ れる‐ こ の意 味でも 当 時の コ ンス タ ンテ ィ ノ ポリ ス , 宮 廷 にお ける オリ ュ ン ピ オ ドロス の存 在 は大 き か つ た に違 いな い‐ カメ ロ ン に倣 っ て言 え ば オリ ュ ン ピ オ , ドロス は, 既 にヘ ロ ドトスス の 時代 か ら ギリ シア の伝 統 が根付 いて い た こ と で知 ら れる 古代 末期 の エ ジ プ ト. のテバイ地方が生み育んだ詩才を頒詩作家として生かし, 富と名声を求めて帝国各地に散って行った 『遍歴 2 ) の 詩 人達』 の な か でも 最 も 遠く ま で旅 し, 最 も 遠く ま で見 通 した詩 人 であ つ たの で ある3 .. n. ) 3 史 料紹 介: フ ォ ティ オス の 『文庫』 第80項3 1‐ オリ ュ ン ピ オ ドロス の 史書22巻 を 読 ん だ‐ こ の 書 は ロー マ の 皇 帝 (βα” スeり ) ホノ リ オス が7 回. 目 で テ オ ドシ オス が2 回 目 の 執 政 官 職 (ひ7 rαてe m) にあ っ た 年 か ら 説 き 起 こ し, プラ キ ディ ア と コ ンス タ ンテ ィ オス の 息 子 であ っ た バ レンテ ィ ニ アノ ス がロー マ の支 配者 であ る こ とを宣 言 した年 に ま で 及 ぶ. こ の 著 者 は テ バイ 人 であ り, 出 身 は アイ ギ ュ プ トス の テ バイ, か れ自 身の 言 によ れ ば本業 は詩 人 で, そ の奉 ず.
(7) . 米 田 利. 浩. る宗教において異教徒 (E入入りレ) であっ た. 表現は明瞭だが, 冗漫で脈絡がなく俗悪な鏡舌へと陥ってい る‐ そ の ため こ の 書 を史書 に分類 す る の はふ さ わ しく な い. 恐 らく か れ自 身この こ と に気 づ い て い た.・か れ. はこの作品が史書ではなく史書のための素材となるものだと明言している が, これほどまでにかれ自身にと ってもこの史書の体裁は不格好で個性のないものに映っ ているのである. 確かに文体上の体裁はなにも取り 繕われてはいない, ただどこかで誰かが簡潔な表現に出会うことがままあるだけである. 過度の俗悪さと唾 棄すべき文体にあってこう した表現も卑俗な表現のなかに完全に埋没している‐ かれ自身はこの作品を歴史 4 )を 付 加 して い る か れ は ホノ リ オ の た め の 素 材 と 呼 ん で いる が, にも か か わ ら ず, か れ は 巻 に 分 け序 文3 ‐ ス と プラ キ ディ アの 甥 であ り ア ルカ ディ オス の息 子 であ っ た皇 帝 テ オ ドシオス にこ の歴 史書 を 献 じて いる. 2‐ か れ はま ずス テリ コ ン に 関 して, ア ルカ ディ オス とホノ リ オス の 後見 人 にふ たり の父 親 である テ オ ド シオス 大 帝 (βE。β。 ” 。. 。. 〆EγαA。. 5 )によっ て任じられたかれがいかに大きな権力を握った ) 自身3. か につ いて 詳 しく 述べ て いる. ま た 同 じく テ オ ドシオス の はか ら い に よ っ て か れ がセ レナと 婚姻 を結 ん だ次 第‐ そ の 後ス テリ コ ンが自 分の 娘 のテ ルマ ンテ ィ ア を姿 あ わせ る こ と によ っ て 皇帝ホノ リ オス を婿 と した こ. と. また, かれが更 に大いなる権力を獲得し, ローマ人のために多くの民と戦い多くの勝利をもたらした次 第とかれによって皇帝の側近に取り立てられたオリュ ンピオスの血に汚れた人の道にもとる好策によって斬 殺刑に処せられたこと‐ 3. ゴ ト トイ 族の首 領 辱 リスαpxo ) の アラリ コス はス テリ コ ン によ っ て ホノ リ オス の ため にイ ッ リ ュ リ コ ンを 防衛 する ため に呼 び寄せ ら れた が- 父 帝の テ オ ドシオス によ っ て 同地 はホノ リ オス の支 配下 に 組み 込ま れた か らであ る -, こ の アラリ コス がス テリ コ ンの殺 害 と自 分 に約 束さ れて い た も の が手 に入 らな か っ た こ と を理 由 にロー マ を包 囲 し略奪 したこ と‐ か れ がこ の都 市 か ら莫 大 な財 宝 を掠 め 取り, かつ ロー マ に居 た ホノ リ オス の 妹 の プ ラ キ ディ ア を 人 質と したこ と‐ ま た 占領 に先 立 っ て, ロー マ の 貴 人の ひとり で当 時 総. 者を皇帝に宣したこと. アラリコス がこの挙にでたのは前述した理由によってだけではなく, 同じく ゴトトイ族の出身であり, 少数 監 職 (87 rαpズoてり() にあ っ た- - ア ッ タ ロス という の がか れの名 前 であ っ た-. の 手 勢 しか率 い て いな か っ た にも か かわ らず, 半神 を思 わせ, 戦 っ て敗 れる こ と を知 らな か っ たサ ロス ー か れのも と に は高々200か ら300の 兵 しか配備 さ れて はい な か っ た 一 にも原 因 があ っ た‐ ア ラリ コス と は敵 対 関 係 にあ っ た こ とか ら ロー マ 人 はか れと の 間 に友 誼 関係 を結 んだ が, こ の こ と がア ラリ コス の 敵意 を いや がう え に も増 大 させる こ と にな っ た‐ 4‐ ロー マの 包 囲 に 際 して住 民 達 の あ い だで は互い の 食らいあ い がお こ っ た こ と. 5‐ アラリ コス は, ス テリ コ ンの存 命 中, 軍 役 の 報酬 と して40ケ ンテ ナリ ア を 得 てい た こ と‐ 6. ス テリ コ ンの死 後 か れの 伴侶 であ っ た セ レナも ま た アラリ コス のロー マ 攻撃 の元 凶と見 なさ れ絞殺さ れた こ と. ま たこ れ に先 立つス テリ コ ン殺害 後 にふ たり の息 子 であ っ たエ ウ ケリ オス が殺害 さ れた こ と. 7. 「ブウケ ッ ラリ オス」 (Boひにeススαp‘oゞ) という 言葉 は ホノ リ オス の 時代 に はロー マ 人 兵士 の み な ら ず, 一部 の ゴ ト トイ 兵 士 の こ とを も 意 味 して い た こ と. ま た 同様 に 「フォ イ デラ トイ」 (≠o epαてo‘). 6 ) の語は種々雑多な兵士からなる混成部隊を意味していたこと3 - 8‐ ス テリ コ ンを お と しい れ た オリ ュ ン ピ オス は宮 内 長官 (〆α % ぴてpo. てのり o≠≠‘に‘めし) と な り,. その後この職を解任されたが, 再 び返り咲き, その後再度解任されたかれは, プラキディアを要っ たコンス タンティオスによって, 両耳を切り落とされた後に棒刑に処せられ殺されたこと‐ このように正義の女神 (り & にり) は最後まで邪悪な者を罰することなく放置してはおかなかっ たこと. 9‐ ロ ダ ガイ ソス 配 下 の ゴ ト トイ 族 のう ち 主 だ っ た者 達 は 「最 良 の 者 達」 (o7 rで‘〆αてoc) と 呼 ばれ, そ の 数 は約1万2千名 にの ぼっ た が, ロ ダガイ ソス を撃 ち 破 っ た 後ス テリ コ ン はか れ ら と同盟 関係 を結 ん だこ と-.
(8) . テノぐイ のオリ ユ ン ピオ ドロス につ いて. 10 ‐ アラ リ コス が病 を得 て 没 し, か れの 妻 の 兄弟 であ っ たア ダウ ル フ ォ ス が後 継 者 とな っ た こ と‐ 11 ‐ 干 か ら びた パ ン が ブウ ケ ッ ラ トス (βoひにEA入αてo ) と呼ばれていたことを著者が伝え, ブウケ ッ ラリ オス と いう 兵士 の異 名 につ い て, そ れ がこ れ に由来 する と ころ から笑 いも の に している こ と. 12 . 俗称 帝 の座 (てひpαンリ バ ) に かつ ぎ上 げら れた コ ンス タ ンテ ィ ノ ス がホノ リ オス のも と に使節 を 派. 遣し, その意に反して軍隊によって強いられて帝位に就いたと釈明して承認を求め 帝位を共有することを , 要請 した が, こ れ に対 して, 難 事 に直 面 してい た皇 帝 が当座 の 間 共 同 統治 を 受 け入 れた こ と コ ンス タ ンテ . ィ ノ ス が現 地の 軍 隊 によ っ て擁 立 さ れ皇 帝 を宣 した の は ブレ ッ タ ニ ア地方 にお い てであ っ た. プ レ ツ タ ニ ア で はホノ リ オス の 7 回目 の 執 政官職 就任 に先 立 っ て 軍 の 反 乱 が起こ り マ ルコス なる 者 が皇 帝 に宣 せ ら れた , ‐ しか しか れは軍 隊 によ っ て 殺さ れ, 代 わ っ て グラ ティ アノ ス が擁立 さ れた が 4ヵ月の後にかれもまた軍隊 , に疎ま れ殺さ れる に及 んで 帝位 にの ぼっ た の がコ ンス タ ンテ ィ ノ ス であ っ た. コ ンス タ ンテ ィ ノ ス は ユス テ ィ ノ ス と ネ オ ビガス テス を 将 軍 (ぴてpαてりγo ) に任命した後にブレッタニアを離れ 塵下の軍隊ととも , に 海 を渡 り, 海 に面 した ガ ッ リ アイ 人 の最 初 の都 市 であ る ボノ ニ ア と いう 都 市 に はい っ た こ の都 市 に と ど ‐ ま っ た か れ は ガ ッ ロス と アク タノ ス の 地 の 全 軍 隊を 配下 におさ めイ タリ ア と ガラ ティ ア と を隔 てる ア ルペ オ イ 山脈 に至る ま で の 全 ガ ラ ティ ア の 地 を手 に入 れた‐ か れには コ ンス タ ンス と ユリ アノ ス という ふ た り の 息 子 が い た が, そ のう ち の コ ンス タ ンス を か れ は副 帝 (にα “ αp) に任 じ 続 い て 同 じ頃 ユリ アノ ス に は , , 「最 高貴 顕 の者 (リQ jβE ね び” ”o ) という称号を与えた‐ 」 13 ‐ ア ッ タ ロス がホノ リ オス に叛 旗を ひる がえ して皇 帝 を宣 しラ ベ ンナ郊 外 に陣 を 敷き, か れの も と に, あ た かも 皇 帝 に対 する 使 節 で も ある かの よう に皇 帝 ホノ リ オス によ つ て エパ ルコス でパ トリ キ オス の ヨ ビ , ア ノ ス3の, 二 軍 の 総 帥 (ぴてpαてりγ。. eにαてEpα. のp) の ポタ ミ オ ス, 書 記 官 長 (汀p‘〆と忙りp “. 6リンα〆Eの. ) であ っ た ウ ァ レス, 財 務 官 (にひα‘ぴて-. てのレ リoてαp‘①レ) で あ っ た ユ リ ア ノ ス が, 使 節 と し て. 派遣 さ れた こ と. か れら はア ッ タロス に共 同 統 治 の 申 し入 れの ため にホノ リ オス か ら 派遣 さ れた こ と を説 明 した‐ ア ッ タ ロス はこ れを 拒否 し, 代 わり に ホノ リ オス が危 害 を加 え ら れる こ と なく 島であ れ どこで あ れ ,. かれが望む好きな場所で余生を送ることを許した‐ ヨビアノスは喜んでこれを受け入れただけではなく 皇 , 帝ホノ リ オス の 身 体 の 一 部 を害 しても よ いと 申 し出 た が ア ッ タ ロス は 自 ら進 ん で帝 位 を 退く 皇 帝 を 傷つ , , けた と いう 先例 は こ れま でな か っ たと, か れを 叱 っ た‐ ヨ ビ アノス は何 回も 交 渉 をお こな っ た がな にも 得る と ころ がな いま ま にア ッ タ ロス のも と にと どま り ア ッ タ ロス の パ トリ キ オス と 呼 ばれた この 間 ラ ベ ン , ‐ , は プライ ナで ポシ トス のエ ウ セ ピオス が実 権 を握 っ た が 間も なく か れは ア ッ ロ ビ コス の 議 言 を 得 て 公 け に ,. 裁かれた上で皇帝の面前で棒打ちの刑に処せられ殺された‐ この後アッタロスはアラリコスに従わなかつ た 故 をも っ て 帝位 か ら退 けら れ た‐ 特 にホノ リ オス の使 節 であ り な がら寝 返 っ たヨ ビ アノ ス がこ れに大 きく か か わ っ た‐ ア ッ タ ロス はア ラリ コス のも と に私 人 と して と どま る こ とを 選 ん だ そ の後 間も なく か れは 帝位 .. に返り咲いたが, 再度廃されラベンナに至って右手の指を切り取られたうえで追放刑に処せられた ‐ 14 . この 直 後 にア ッ ロ ビコ ス が プ ライ ポ シ トス の エ ウセ ビオ ス の裁 き を 命 じ処罰 した 科 で 皇帝 の 命 令 によ り そ の面 前 で 処刑 さ れ た こ と‐ ま た 俗 称 帝 (てひpαしリo() の コ ンス タ ンテ ィ ノ ス が ホノ リ オス と 和 を結 , ぶ た め にラ ベ ンナヘ と 急 ぐ途 中 でア ッ ロ ビコ ス の 死 を知 り 恐怖 か ら引 き返 した こ と , ‐ プレ 15 邑である ティ ア の主 レギオ ン につ いて ツ コス が か アラリ 同地 ら シケリ ア ヘ 渡ろう と した が 阻止 ‐ , さ れ たと 史家 が述 べ てい る こ と‐ か れによ れ ば こ の 地 に奉納 さ れてあ っ た神 像 が 海を 渡る こ と をさ ま た げ , たと いう. か れの 怪 し げな 言 によ れ ば こ の神 像 はい に しえ の 人々 によ っ てアイ トネ の 火と 海 か らの 蛮 族の ,. 侵冠を防ぐため に奉納されたものであっ た. ほんの一歩足を踏み出せば絶えて消えることのない火があり , 逆 に ほ んの一 歩 後 づ さ り したと こ ろ には尽 きる こ と の な い 海水 があ っ た 後 にこの神 像 が破 壊 さ れた た め に . シケリ ア は アイ トネ の 火 と蛮 族の 災い を蒙 っ た. こ の神 像 を破 壊 した の は シケリ ア にあ っ たコ ンス タ ンテ ィ.
(9) . 米 田 利 浩. オス と プラ キ ディ ア の領 地の 管 理 官 に任 じら れたアス ク レ ビ オス であ っ た. となり 次 い で正 帝 (βα寵 スeひ ) に官せられた 16 . 借称 帝 の コ ンス タ ンテ ィ ノ ス と そ の 息子 でま ず副 帝 コ ンス タ ンス の ふ たり が 敗走 し, 蛮 族 と首 尾 よく和 平 を結 ん だス トラ テ ゴス の ゲロ ンティ オス が親衛 隊 (り てのりβo”ed ” ”のりでαぎ ば ) 出 身 の か れの 息 子 の マ ク シ モス を 皇 帝 に宣 した こ と. そ の後, か れ は コ ン ス タ ンス を追 い詰 め て 死 にい た ら しめ, さ ら に 父親の コ ンス タ ンテ ィ ノ ス の 後 を追 っ たこ と‐ この 出来 事の 間 に,コ ンス タ ンティ オス とウ ル フイ ラ がホノ リ オス によ っ てコ ンス タ ンテ ィ ノ ス 討伐 の ため に 派遣 さ れた. か れら はア レラ トス を 攻 囲 し, 息子 のユリ アノ ス と とも にこ の地 にい たコ ンス タ ンテ ィ ノ ス を封 じ込め た.. 修道院へ逃げ込んだコンスタンティノスは長老に任じられ, 身の安全についての誓約が取り交わされた後, 市 の 城 門 は攻 囲軍 に開 か れた‐ コ ンス タ ンテ ィ ノ ス は息 子 ととも にホノリ オス の も と に送 ら れた が, コ ンス タ ンテ ィ ノ ス が親 族 を 殺害 した こ と でか れら に対する 恨 み を忘 れな か っ たホノリ オス はラ ベ ンナま で30ミリ ア の地 点 で誓約 を 破り か れらの 殺害 を 命 じた. ゲロ ンテ ィ オス は, ウ ル フィ ラ とコ ンス タ ンテ ィ オス が到 来. するに及んで逃走しようとしたが, 自軍の兵士達を苛酷に扱っ てかれらの叛乱を招き, 逃げ切れなかった. 兵士達はかれの屋敷に火を放った‐ しかしかれは叛乱をおこした兵士達に対して激しい戦いを挑んだ‐ アラ ノイ族出身のかれの従僕のひとりもかれと共に戦った‐ かれは, このアラノイ族の従僕と自分の妻とをふた り の望 み に従 っ て殺 した後 に, 自 らも 命 を 断 っ た‐ 息 子 のマク シモス は この こ と を知る や 同盟 関係 にあ っ た. 蛮族のもとへと逃れた. イ 族の ゴア ル と ブル グンティ ア 17 . ヨ ビノ ス がいま ひとつ の ゲルマ ニ アの ム ン ディ ア コス にお い てア ラノ ノ イ 族 の首 領 ◎ クスαpxo ) の 称号 を得 て い た グンテ ィ アリ オス の 支 持 を得 て 帝位 を倦 称 した こ と. ア ッ タ ロス にか れの傘 下 に加 わる こ と を勧 め ら れたア ダウ ル フォス は 大軍 と とも に合流 した が, ア ダウ ル フォス の到 来 を喜 ばな か っ た ヨ ビノ ス は 合流する こ と を勧 め た ア ッ タ ロス を 暗 に非 難 した. サ ロス もま た ヨ ビノ ス に 合流 しよう と した が, こ れ を知 っ た ア ダウ ル フォ ス は1万 の 兵 を率 い て, 18名 か ら20名 の 手 勢 を伴 っ た だ. けのサロス を迎え撃っ た‐ サロスは英雄的かつ賛嘆に価する戦い振りを示したが最後に投げ網によっ て生け 捕 ら れ, その 後殺 さ れた. サ ロス は ホノ リ オス と は 疎遠 な 関係 にな っ て い た. か れの 腹心 (60〃Edて ばo. ). であったベッレリ ドスが殺された時, 皇帝からは殺害についての何の釈明もなく, また殺人罪の訴追もなか っ た か らで ある. き) 達 の弓 術 の 才 につ い て詳 しく 述べ て いる こ と‐ 18 . 史家 が ドナ トス と ウ ンノ イ 族及 びか れらの 族長 (pり. 更に, かれがこの種族と ドナトスのもとへ使節として赴いた次第‐ かれは方角を見失い危険にさらさ れたこ の航海について大仰に述べている. また ドナトスが誓約を裏切 られ好策によって斬殺さ れた次第とこの暗殺 に激怒した族長達のなかの第一人者であったカラトンが皇帝からの贈り物によってなだめられ平静さを取り 戻した次第‐ この史書の最初の10巻の内容は以上の通りである. ビ が ダウ ルフ ォ ス の 意 に反 して, 自 分の 兄弟 の セ バ 19 . 後 半部 分 は 次の 記 述 で始ま っ て いる‐ ヨ ノ ス , ア ス ティ アノ ス を皇 帝 に宣 してア ダウ ルフ ォ ス と 敵対 関係 にはい っ た こ と‐ ア ダウ ルフ ォ ス はホノ リ オス のも. とに使節を派遣して借称帝の首と和平の締結を約束した.使節が帰還するのを待ってこの誓約は果たされた‐ セ バ ス ティ アノ ス の首 は皇 帝 のも と に送 ら れ, ヨ ビノ ス は ア ダウ ル フォス に よ っ て 包 囲さ れ 降伏 した‐ か れ もま た皇 帝 のも と に送 ら れ, エ パ ル コス の ダル ダノ ス が自 ら手 を〈 だ して か れを殺 し た‐ か れ らの首 は とも )の 郊 外 に捨 て ら れ た こ の 地 で は 以前 に コ ンス タ ンティ ノ ス とユ リ アノ ス も 斬首 さ れ, 8 にカ ルタ ゲネ3 . , ,. またテオ ドシオス大帝の治世に帝位を借称したマクシミノス とエウゲニオスが斬首刑に処された場所でもあ っ た.. を特 に後 に 彼女 を 要る こ と になる コ ンス タ ンティ オス によ っ て 20 . ア ダウ ルフ ォ ス は プラ キ ディ ア の 返還. 強く迫られた. しかしア ダウルフォスは, 自分との約束, 特に, 穀物供給のそれが履行されないままになっ 8.
(10) . テ バイ の オリ ユ ン ピオ ドロ ス につ い て. ていたので, 彼女を引き渡そうとはせず, 和平関係を断ち戦うことを決意した‐ 21 . プラ キ ディ ア の 返還 を 要 求さ れ た ア ダウ ル フォス が既 に約 束 済み の 穀物 を そ の代 償 と して 要求 したこ. と‐ 手持ちの穀物は提供を約束していた量には満たなかっ たにもかかわらずプラキディアと引き換えに引き 渡す約束が交わされたが, 蛮族のかれの方もこれに従う姿勢を見せながら, マッサリアと呼ばれる都市に迫 り, 謀 をも っ て 同 市 を 占領 しよう と した‐ ア ダウ ル フォ ス はこ こ で勇 猛 果 敢 の 誉 れ高 い ボネ フ ァ ティ オス の. 射た矢で傷ついたが, 辛うじて死をまぬがれ自陣の幕舎へと逃げ込んだ. 同市は喜びにあふれ, ボネファテ ィ オスは称賛と歓呼を受けた‐ 22 . ア ダウ ル フォス が, プラ キ ディ ア と の結 婚 を進 める にあ た っ て, コ ンス タ ンテ ィ オス が彼 女 の 返 還 を. 求めた時よりもより一層法外な要求をつきつけたこと‐ 要求が認められなかったことを彼女を引き留めるた め の 格好 の 口実 とする た め にで あ っ た. 23 ‐ コ ンス タ ンテ ィ オス がラ ベ ン ナ にて 以 前 か ら指名 さ れて い た (6 “ ‘γリαてo() 執 政官 (ひガαてo. ). に登 り, か れと 同 時 にコ ンス タ ンテ ィ ヌ ポリ ス では コ ンス タ [ン] ス が執 政 官 とな っ た こ と‐ コ ンス タ ンテ. ィ オスは執政官の職務に要する経費を十分まかなうに足りるだけの金貨を, 帝位を借称しようとして殺され た ヘラ ク レイ アノ ス の財 産 か ら手 に入 れた‐ しか しか れ が手 に した額 は期 待 した ほ どで は な か っ た‐ 金貨 は たか がた20ケ ンテ ナリ ア ほ どしか発見 さ れな か っ た か らで ある が, しか しか れの 不動 産 は2 千リ トラ にま で な っ た‐ こ の財 産 の 全て を わず か一 度 要求 した だ け でコ ンス タ ン ティ オス はホノ リ オス か ら受 け取 っ た‐ コ. ンスタンティ オスは姿を見せる時は伏し目で不機嫌そうであっ た. 目は大きく, 首筋は長く, 頭も大きかっ た‐ 馬に乗ったかれは体全体を馬首の方へとかがめ, この格好で横目使いであたりをうかがっ たが, このよ うな外貌は誰の目にも, 世人の言う, 借主然としたものに映っ た‐ しかし, かれは食事や饗宴の際には, 快 活で愛想がよく, よく食卓の前で遊び戯れる道化にもひげをとらないほどであっ た. 24 . カ ン ディ ディ アノ ス の勧 め と 尽力 によ っ て ア ダウ ル フ ォ ス と プラ キ ディ ア と の 婚姻 が1月 の 始 め に都 市 ナ ル ボ ンの 同市 の 有力 者 であ っ たイ ン ゲニ オス なる 人物 の邸 宅 でお こ な わ れ たこ と. プラ キ ディ ア はロー. マ風の装いと皇族の衣服で身を包んで婚姻の間に座り, 彼女のかたわらにはアダウルフオス が式典用の外衣 (ズスαレ バ ) をま と い ロ ー マ 風 の 装 い で 共 に座 した‐ 婚 礼 の 引 き 出 物 の 一 部 と して, ア ダウ ル フ ォ ス は絹. 織物に身を包んだ50人の眉目秀麗の若者を贈っ た‐ かれらはそれぞれ両手にふたつの大きな丸い盆を持っ て い た が, そ の ひと つ は 金 貨 で満 たさ れ, もう ひとつ の 盆 は 貴重 で 値 のっ けよう が ない ほ どの 宝 石 で満 たさ れ てい た. ゴ ト トイ 族 が 占領 したロ ー マ か ら 略奪 した財 宝 で あ っ た‐ 続 い て 祝 婚歌 が歌 わ れた‐ ア ッ タ ロス が ま ず 歌 い, ルス ティ キ オス と フ ォ イ バ ディ オス がそ れ に和 した‐ 婚姻 の 宴 がは じま り 同席 した蛮 族も ロー マ. 人も共に踊り喜びあっ た. 25 rαpzo ) と な っ た ア ル ビノ ス が, 既 に こ の ‐ ゴ ト トイ 族 による ロー マ 占 領 後 に ロ ー マ 市 の 総 監 (67. 都市が復興をなしとげ, 都市人口の増加故に住民への食料供給が充分ではないと記録していること‐ 事実, 9 )を記 録 して いる か れは 1 日 で1 万 4 千 人の 人口増 加3 ‐ 26 . プラ キ ディ ア か ら 子供 をもう けた ア ダウ ル フォス が, こ の 子 にテ オ ドシオス の名 前 を与 え, 以 前 にも ま してロ ー マ 人と の 友 誼 関係 の樹 立 に尽く した が, コ ンス タ ンテ ィ オス と か れに 組する 者達 の妨 害 にあ い , か れと プラ キ ディ ア との 熱 意 は 実 らな か っ た こ と‐ 子供 が死 ん だ時, この 子 の た め にふ たり は大 い に嘆 き 悲 しみ, 銀 の極 に納 め てバ ルケ ッ ロ ン郊 外 の とある 教 会 堂 に葬 っ た. こ の 後, ア ダウ ル フォス も ま た 日 課 であ. っ た自分の馬の世話をしている最中に厩舎の中で殺された. 下手人は昔の怨恨を晴らす機会をうかがってい た ドゥ ピオスという名前の ゴトトイ族の従僕のひとりであっ た. かれは以前はゴトトイ族 の一支族の族長 (pりき) に 仕 え て い た が, こ の 族 長 がア ダウ ル フ ォ ス によ っ て 殺 さ れた た め, ア ダウ ル フ ォ ス に仕 える よ う にな っ た‐ こう して か れは最 初 の主 君 の仇 を討つ た め にふ たり め の 主 君 を 殺 害 した の であ っ た‐ ア ダウ ル 9.
(11) . 米 田 利 浩. フォス は死 に臨んで自分の弟にプラキディアの返還と, 可能ならばローマ人と自族との友誼関係を樹立する ことを命じた‐ しかし継承の慣例に従ってではなく陰謀と権勢によって後継者となっ たのはサロスの兄弟の 0 )の 保 護 の も と にお か れて い た ア ダウ ル フ ォ ス と 先 妻 と の シ ン ゲリ コ ス であ っ た‐ か れ は司 教 シ ゲサ ロス4. 間に生まれた子供達を力ずくで奪いとったうえ殺害し, 更にア ダウルフォス を侮辱するために王妃のプラキ ディ ア を他 の 捕 ら わ れ 人 と 一 緒 に して馬 の前 を徒 歩 で歩 かせ た. 行 進 は 町か ら12里 程 (びり” ” 。し) にま で 及 ん だ. しか しな が らか れ は7 日間の支配の後に殺害され 代わっ てウァリアが ゴトトイ族の指導者(り ‐ , γE〆oし) に選 ばれた.. 2 7 r “ り〆①レ)の ウ ァ レリ オス なる 人物 か ら 教 え ら れ た 蛮 族 を 阻止 す る た . 史家が高位の身分(oてのりE7 め に奉納 さ れた 銀 で作 ら れた彫 像 につ いて の 話 を語 っ て いる こ と‐ か れ は次 のよう に述 べ ている 皇 帝コ ン , ス タ ンテ ィ オス の 治世 に トラ ケ を統 治 して い たウ ァ レリ オス は財 宝 発見 の 報 を受 けた. ウ ァ レリ オス は 問 題. の場所へと赴き, 現地の住民から同地が神に捧げられた場所であり, そこには昔からの祭儀に従って彫像が 奉納されていることを聞き知った. このことを皇帝に報告したかれは発見された財宝を掘り出すようにと指 示した返書を受け取った.そこでこの場所を掘り起こしたかれは全体が銀で作られた3つの彫像を発見した‐ 蛮族の姿をした彫像は, 両手を後ろにまわし, 色とり どりの蛮族の衣服を身にまとっていた‐ 髪を長く伸ば した頭は蛮族の住む方角である北を向いていた‐ これらの彫像が掘り出されるや数日のうちに ゴトトイ族が 初 め て トラ ケ 全土 を襲 っ た. 更 に時を 経 ず して ウ ンノイ 族 と サ ル マタイ 族と がイ リ ュ リ コ ンと トラ ケ をも 牒 躍 する こ と と な っ た‐聖 なる 地 とさ れたこ の 場所 が トラ ケ とイ リ ュ リ コ ンと の境 界 にあ っ たか ら である.3つ 1 ) の彫 像 は,そ の 数 か ら考 え て,恐 らく はこ れらの 蛮 族の 全て を 阻止 する ため に奉納 さ れたも の であ っ た4 .. 28 ‐ 史家がかれ自身の体験した航海について詳述し, 辛酸の苦しみと不運に見舞われた模様を語っている 2 )ソ フィ ス テ ス の 地 位 こ と. か れ はま た ア テ ナイ へ と 赴 き 自 分 の 熱 意 と 骨 折 り で, 渋 る レオ ンテ ィ オ ス を4 に就 け た こ と を伝 え て いる. ま た か れ は ソ フィ ス テス の 身 につ ける 外 衣 (てp‘βのレ) につ い ても, ア テ ナ イ にお い て は, ソ フィ ス テス 達 の判 断 によ っ て 良 しとさ れな い 限り, そ れが誰 にでも 与え ら れる もの で は な く, 特 に外 人 に は許さ れて はい な か っ た こ と, さ ら にま たこ の 栄 誉 は ソフィ ス テス 達 の 間の 慣例 に則 っ て執. り行われた秘儀によって確かなものとなったことを伝えている‐ ところでこの秘儀の次第は次のようなもの であった‐ まず候補者の全員が年齢の別なく公衆浴場に連れて行かれた‐ かれらのうちトリボンにふさわし い年齢に達している者達がかれらを先導した師によっ て中央に押し出された. そこで争っ て前に出ようとす る者達とそれを阻止しようとする者達の押し合いへしあいの混乱のなかで, 邪魔しようとする者達の全員が 次のように叫びあっ た, 『留まれ, 留まれ, 沫浴するな.』 これに抗した者は先導したくれた師の名誉にかな うこの争いの勝利者と見なされた‐ その者は長時間にわたっ て延々 と続く定式化された儀礼的な討論が終わ っ た後で温室へと導かれ, そこで体を清めた後で衣服を身に着けトリボンをまとう権利を得た‐ かれは直ち にトリ ボンをまとい, アクロミテスと呼ばれる学堂の指導者達への相当額の報酬の支払いを約束して, 高名 で尊敬を受けている人々に囲まれ浴場から離れた‐ 29 . ウ ァ ン ダロイ 族 が ゴ ト トイ 族 の こ と を ト ゥ ルロイ 族と 呼 んでいる こ と. 飢 鐘 に苦 しめ ら れた 時 にか れ ら がウ ァ ン ダロイ 族 か ら 金貨 1 枚 で 1 ト ゥ ルラ の 穀物 を買 っ た こ と に由来する. 1 ト ゥ ルラ と は3ク セス テ ス に満 た な い量 である‐ 30 . ヒス パ ニ ア がウ ァ ン ダロイ 族 の 孫園 を受 けた 時, ロー マ 人 は城壁 で 囲ま れた都 市 に避 難 した が, か れ. らの間には飢餓が蔓延し, その結果人肉の食らいあいがおこっ たこと. 4人の子供を持つ母親は, 子供のひ とりを残りの子供達に食べさせて救いの糧としようとして結局は子供達全員を食べてしまい, 民衆によっ て 石打ちの刑に処せられた‐ 31 . マ ギス トリ アノ ス のエ ウ プル ティ オス が ゴ トトイ 族の 首 領 辱 クスαpxo ) の称号を得たウァリアの 10.
(12) . テノぐイ の オリ ユ ン ピ オ ドロス につ い て. も と に和 平協 定 の締 結と プ ラ キ ディ ア の返 還 を求め て派遣 さ れたこ と. ウ ァ リ ア は進 んでこ れを受 け入 れ , 60万 の 穀物 がか れのも と に送 ら れた‐ ま た プラ キ ディ ア は解 放 さ れ エ ウ プル ティ オス に よ っ て 肉親 である , 兄 ホノ リ オス の も と に引 き 渡さ れた‐. 32 . アテナイ人の間で書物を謬着けする際の謬の量が問題となっ た時に, 著者の友人で書誌に精通 してい た フィ ルタ ティ オス が実例 を示 して 高 い評価 を受 け 市 民 によ っ て彫 像 を贈 ら れたこ と , ‐ 33 ‐ オ ア シス の 町 につ い て, 著 者 が多く の 不思 議 を 語り, ま たそ の 温和 な気 候 につ いて触 れて, 同地 で は 癒 癌 持 ち がい ない だけ で はな く 他 か ら来 た者も 温和 な 空気 の た め にこ の 発 作 から免 れる と述 べ て いる こ と ‐ ま た広 大 な砂 漠 と こ の地 に掘 ら れた 井戸 につ い ても 言 及 して か れ は次 のよう に述 べ て いる 200か ら300テ , , ク ス, 時 に は500テク ス の 深 さ にま で掘 ら れ た井 戸 の 口 か ら は 水 が流 れ と な っ て 噴 出 し 共 同作 業 に従 事 し ,. た農民は順番にこの井戸から水を汲み自分の農地に与える‐ 果実はいつも木々 にたわわに実り 小麦はどこ , の小麦よりも品質が良く雪よりも白い. 大麦の種蒔きは時には年2回行われ 黍の種蒔きは常に年3回行わ , れる. 農民 は, 夏 は3 日 目 ごと, 冬 は6 日目ごとに自分の農地の漉概をおこない 肥沃な地味が保たれてい , る‐ 曇 り 空 になる こ と は 決 してな い. か れ はま た 農 民 達 の作 っ た水 時計 につ い ても 言及 して いる か れは . , )と 呼 び 3 かつ て こ の 地 は孤 立 した 島 であ り, ヘ ロ ドトス がこ の 地 を 「至福 者 の 島」 (”αにαpリレリリα。‘) 4 , ま た オ ル フ ェ ウス とム サイ の物 語 を 書 い た ヘロ ドロス はこ の 地 を フ ァ イ アケス 人の 地 と 呼 んで いる と述 べ て いる‐ 更 に, こ の 地 が 島であ っ た こ と を か れはテ バイ 地 方 か らオ ア シス ま で連 なる 山塊 か ら石 に付 着 した貝. 殻や牡蛎貝が発見されることから証明し, また広大な砂漠が常に拡大を続け3つのオアシスを満たしている こ と か らも 証 明さ れる と して いる. か れは3つ の オ ア シス がある と 言 っ て いる が こ のう ち 大 き いふ たつ の , オ ア シス は, ひとつ は 遠 方 に, いま ひと つ は近く にあ り 互 い に100里 程 離 れて 向 か いあ っ て いる 3 つ め , . の小 さな オ ア シス はこ れら ふ たつ か ら 大 きく 隔た っ た と ころ にある か れは 島であ っ た こ と の 証 拠 と して 魚 ‐ を街 え た鳥 を見 る こ と があ り ま た置 き去 り の まま の魚 を見 る こ とも ある こ と を 挙 げて いる この こ とか ら , ‐ , 海 は そ れ ほ ど遠 く で は な い と推 論さ れる‐ か れはま た ホメ ロス が こ の 地 に近 いテ バイ 地 方 の 出 である とも 述 べ て いる‐ 34 ‐ 皇 帝 ホノ リ オス が11回目の 執 政官 とな り, か れと 共 にコ ンス タ ンテ ィ オス が2 回目 の執 政官 と な っ た 時, ふ たり が プラ キ ディ ア の 結 婚 式 を執 り 行 っ た こ と しか し彼 女 はコ ンス タ ン ティ オス を 強く 嫌 い こ の ‐ , こ と がコ ンス タ ンテ ィ オス の 彼 女 の召 使 達 へ の怒 り を引 き起 こ した 結局 執 政官 職 に就 い た 日 に 皇 帝 で . , , あ り 兄 でも あ っ たホノ リ オス が嫌 がる 彼 女 の 手 を 取 っ て コ ンス タ ン ティ オス の手 に委 ね 絢欄 たる 結 婚 式 が , 挙 行さ れた. ふ た り には子供 が生 ま れホノ リ ア と名 付 けら れ 続 い て生 ま れたふ た りめ の子 供 は ウ ァ レン テ , ィ ニ アノ ース と名 付 けら れ た‐ ウ ァ レ ンテ ィ ニ アノ ス は ホノ リ オス の存 命 中 に, ブラ キ ディ ア が兄帝 を 説 き 伏 せ た こ と によ り, 「最 高 貴 顕 の 者」 の 称 号 を得 た か れ は 更 に 皇 帝 の 没後 に帝位 を 倍 称 した ヨ ア ンネス が ‐ , 没 落 した後, ロー マ にて 皇 帝 を宣 した‐ ホノ リ オス は不 承不 承 な が ら コ ンス タ ン ティ オス を 自分 の共治帝に 任 命 した. プラ キ ディ アも ま た 自 分 の 兄 と伴侶 の 両 方 か らア ウ グス タ の 称号 を得 た 続 い て ホノ リ オス の . , 甥 で 東方 帝 国を 支 配 して い たテ オ ドシ オス のも とへ コ ンス タ ンテ ィ オス の 皇 帝 登位 を宣 言 した布 告 が送 ら , れ た が, 受 理さ れな か っ た‐ コ ンス タ ンテ ィ オス は病 い に倒 れ 皇 帝 と な っ た こ と を 後悔 した 好 き な よう , ‐. に好きな所へ出掛 けて不在にすることがもはや以前のように安全ではなく また 慣れ親しんでいた気晴ら , , しに興 じる こ とも 皇 帝 には 許 さ れな か つ た から で ある 結局7ケ月 間帝位 にあ っ た 後 に か れは 『既 に六 は . , , 満 たさ れた. 七 が始ま る』 と 夢 の 中 で告 げら れた通 り に 胸 の病 い で 没 した 皇 帝 登位 が認 め ら れな か た つ , ‐. が故の東方帝国に対する怒りとかれが目論んでいた遠征も かれの死とともに消え去っ た , ‐ 35 . ゴ トトイ 族の 首領 辱 リスαpzo ) であ っ た ウ ァ リ ア が没 し, テ ウ デリ コス が支 配権 を相 続 した こ と.. 36 . 著者が航海で辛酸をなめる苦しみを味わった末に辛うじて救い出されたこと. この時の体験と してか 11.
(13) . 米 田 利. 浩. れは船の帆に激しく落ちかかり沈めよう とする星に似た光について怪異を伝えている‐ この輝く光を船乗り たち はウラ ニ ア と 呼 ん でいる と いう‐ か れはま た20年 間共 に暮 ら した オ ウム につ いて も 語 っ て いる‐ こ の オ. ウムは人間の動作で真似のできないものはほとんどなく, 踊り, 歌い, 名前で人をよんだりすることができ た と いう. 37 . 史 家 が 探 究 の た め に (cびてop‘α. 剥 ぎにα) テ バイ と シ ェ エ ネ に滞 在 して い た 時, タ ルミ ス の 蛮. 族 であ る ブ レンミ ュ エス 族の 首 長 と神 宮達 が, か れの名 声 に動 かさ れて, 面 談 を望 ん だこ とを伝 えて いる こ と. か れは 次 のよう に述 べ ている, か れ ら は私 を タ ルミス ま で連 れてい っ てく れた が, その 結 果, 私 は フィ ライ か ら5 日 の行 程 にある プリ マ と 呼 ばれている 町 にい たる ま での 地 を調 査 する こ と がで き た. プリ マ の 町 はかつ て は蛮 族 の地 か ら み てテ バイ 地 方 にある 最初 の 町 であ っ た が, こ の こ と か らロー マ 人達 は こ の 町を か れらの 言葉 で 「最 初」 を意 味す る プリ マ と 呼ぶ こ と にな っ た. 長い 年月 のう ち に フォ イ ニ コ ン, キリ ス, タ ビス そ して タ ルミス の 4つ の 町と 同様 に 蛮 族 が住 み着く よう にな っ た今 で も この名 前 が用 い ら れて いる. こ の 地 方 に はエメ ラ ル ドの 採堀 場 があ り, こ こ か ら ア イ ギ ュ プ トス の 族 長 (βαぴ 久 eひぢ) 達 のも と に大量 の エメ ラ ル ドがも た らさ れ たこ とを 教 え ら れた と か れ は述べ て いる. か れはま た次 のよう にも述 べ て いる‐ 蛮. 族の神宮達が私に見学を勧めてくれたが, 族長の許可なく果たせなかった, と. ベ れ た ア シア 出 身 のり バニ オス なる 38 . か れが皇 帝 ホノ リ オス とコ ンス タ ンティ オス の 治 世 にラ ンナ に現. 人物についての怪異な話を伝えていること. かれは最高の魔術師であっ た. かれは軍隊を使わずに蛮族を制 圧することができまたそうすることを約束したという. 後にはかれは約束をはたし名声を博したが, このこ とが皇妃プラキディアの知る ところなり, この魔術師は暗殺された‐ かれによればプラキディアが魔術師で あ り信 仰 を持 たな いリ バ オス が生 き 永 ら える な ら ば離婚 する と コ ンス タ ンティ オス に迫 っ た か ら だと いう. 人で, テ オ ドシオス 大 帝 の 時代 か 39 . コ ンス タ ンティ オス がカ ディ ア の 町パ ナイ ソス 出 身 のイ ッ リ ュ リ ア. ら多くの軍事行動に携わり, その後前述したように帝位に就いたこと‐ かれはプラキディアと結婚するまで は称賛に価する人物であり金銭にも淡泊であったが, 彼女との結婚後は金銭欲のとりこになっ た‐ 事実, か れの死後, かれが不当に私した財産に関する 訴えが各地からラベンナに多く 寄せられた‐ しかしホノリオス の優柔不断さとプラキディアとかれとの関係故に, 人々の訴えもその正当性も何ら資するところはなかった と いう・ た ンス タ ンテ ィ オス の死 後, 昂 じて, ふ た 40 ‐ ホノ リ オス の 実 の 妹 に対 す る 思 い が, 彼女 の伴侶 であ っ コ り の 過 度 の 親密 さ と長い 口 づ け と が多く の 人々 の 間 に忌ま わ しい 疑い を 生 じさ せる ま で にな っ た こ と. しか し, 逆 に, ス バ ドゥ サ と プラ キ ディ ア の 乳母 であ っ た ヘ ル ピ ディ ア の画 策 によ っ て ふ たり の 間 には敵 意 が生 ま れた‐ こ のふ た り は プラ キ ディ ア が最 大 の 敬 意 を払 っ て い た者 達 であ り, プラ キ ディ ア の 所 領 管 理官(に‐ oupαでのp) であ っ た レオ ンテ ィ オス の 後 ろ 盾 を得 て い た. 両 者 の 間の 敵 意 が 昂 じた 結 果 ラ ベ ンナ 市 内 で は騒 擾 事件 が続発 した- プラ キ ディ ア のも と に は, ア ダウ ルフ ォ ス 及 びコ ンス タ ンテ ィ オス と の婚姻 によ り. 蛮族兵がとどまっていた-. 両党派からの襲撃 が行われた. 結局, この敵意が燃え上がり, かっ ての愛情に 憎 しみ が取 っ て代 わ っ た結 果, 兄 に敗 北 した プラ キ ディ ア は自 分の子 供 たち とと も に ビュ ザ ンテ ィ オ ンに追 放さ れた. た だ ひと り ボネ フ ァ ティ オス だ けが彼 女 に忠 誠 をつ く した. か れ は任 地 の ア フリ ケ か ら可 能 な 限. り資金を送り, また援助の手を尽くした. 後の帝権の回復に際しても, かれはあらゆる貢献を惜しまなかっ た. ス β ! rてE〆β 魚 d g Jし) 没 し, 41 . ホノ リ オス が水腫 症 を 患 い 9月 の朔 日 の6 日前 に (ガpo e にα αし のり e7. 皇帝の死去を知らせる文書が東方へ送られたこと‐ しかしこの文書が送られている間にヨアンネスなる者が 帝位を借称した. 登位宣言に際してもあたかもかれの将来を予言するように 『かれは滅び, 立ち上がらない』 との声が聞かれたが, 民衆はこの声を否定するかのように 『かれは立ち上がり, 滅びない』 と歓声をあげた‐ 12.
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