シンボル形式としての神話
17
0
0
全文
(2) . 北海道教育大学紀要 (人文科学・社会科学編) 第51巻 第2号 ISc ) Vo l lofHokk :頭doUni dsoc i i Journa i好ofEducat i iロesを on (Ht 江1 a ences Iman vers .2 ‐ 51, No. 平成 13 年 2 月 Februa ry, 2001. シンボル形式としての神話. 篠. 木. 芳. 夫. 北海道教育大学釧路校哲学研究室. カ ッ シーラ ーの神 話 論. カ ッシーラーの神話論は, 彼の全体的な哲学的立脚点を離れては理解できない‐ シンボル形式の哲学は, 周知のようにカントの超越論的哲学を出発点として構想されている‐ 超越論的哲学の核心の一つは, 存在論 を, 存在の認識の可能性の制約に関する反省に切り替えたということ, それによって形而上学の伝統的な形 態を転換したというところにある‐ 「存在論は, 物一般のア・プリオリな綜合的認識を体系的な理論として 示 しう る と 称 して いる が, …… …存 在 論と いう 誇 ら し げな名 称 は, 純 粋 悟性 の単 なる 分 析論 と いう 控 えめ な 名 前 に席 を譲 ら ね ばな ら な い」 とカ ン トは言 っ て いる1 ‐ カ ッ シーラ ー もカ ン トの 〈思 考様 式 の 革 命〉 と は, 「既 知の 所 与 と 見 な さ れて いる 対象 か ら出 発 する の で はなく, … … … な に にも ま して 確 実 だと み な さ れて い. る認識の法則からはじめなければならない‐ 存在論的形而上学が考えているような意味での存在のもっとも 普遍的な諸属性を規定するのではなく, 悟性を分析することによって, 客観性がひとりそのもとでのみ定立 さ れる よう な, 条 件 で あ る 判 断 の 根 本形 式 をつ き と め … … … な け れ ばな ら な い」 と いう こ と で あ る2 ‐ カッ ソ ー ラー は, カ ン ト哲 学 の 中核 をな す この原 理 を 採用 しはする が, 次 の 四つ の点 で こ れ を根底 か ら改 変 して いこう と する3 ‐. 第一に, カントは 『純粋理性批判』 において, 対象を単に自然科学の諸概念を用いて規定しているだけで ある. 哲 学 は, カ ン トの よう に科 学 的認 識 という モ デル に した が っ て の み方 向 づ けら れる べき もの で はない.. 自然科学的概念だけでは, 客観性は汲み尽くされないのである. 「たとえ認識という概念がどれほど普遍的 かつ 包 括 的 に捉 え ら れよう と, 認識 と はや はり, 精神 による 存 在 の 把握 と 解 釈の 全 体 のう ち にあ っ て つ ね ,. に一つの形式付与の仕方を示すにとどまる」 のである (--27 )‐ カントの超越論的分析論がわれわれに提 示する対象は, あらゆる客観性をそっくり表しているわけではなく, とりわけ数学的物理学の概念と原理に よって把握され記述される客観的法則性の形式を示しているにすぎない. 「数学的.自然科学的な存在が現 実 の す べて を汲 み尽く す こ と はでき な いの であ っ て, そ れと いう の も, 精神 とそ の 自発 性 の 活動 の すべ て が. そこに包含されるわけではないからである」(二一30 ) . 認識は, それ自身明確かつ精密に規定された原理に よって導かれる, 多様を形態化する一つの働きであるが, こうした知的綜合のほかに別の形態化の様式も存 在するのである‐ 科学的に世界へ接近する通路のほかに, 安定した形象へと結晶する複数の世界解明機能を 考 える こ と ができ る の だ‐ カ ッ シー ラ ー に よ れ ば, カ ン ト自 身 この対 象の 概 念 があ まり に狭 す ぎる こと にす. ぐ気がついていた‐ 『実践理性批判』 ・ 『判断力批判』 は, 他の客観性の領域を説明する試みであると言え る‐ カントは, 前者において倫理的自由の領域を吟味し, 後者で芸術と有機的自然の形式の領域を検討して いる‐ カ ッ シー ラ ー の シ ン ボル 形式 の 哲学 は, カ ン トの思 想そ の もの の なか に伏 在 する この傾 向を 他 の文 ,. 化の主要な領域もまたそれ独自の客観性をもつものであると考えることによって受け継いでいく試みなので ある‐ すな わち, 芸 術・ 言語 ・神 話 ・ 宗教 ・ 技 術の 領域 である‐ した が っ て カ ッ シ ーラ ー に よ れ ば カ ン , ,. トのコペルニクス的転回は, 単に論理的判断機能だけにかかわるものではなく, 精神の形態化作用のあらゆ I.
(3) . 篠 木 芳 夫. る方向とあらゆる原理に同等の根拠と権利をもって関わりをもつことになり, こうして理性の批判は文化の ). 批判 となるの である (- -31 カ ン トとカ ッ シー ラーのつ な がり を端 的に言 い表 して いる 「理性 の 批判 は文 化の批 判 と なる」 と いう よく 知 ら れたこ の言 葉 につ いて、 オ ル トは、 そ こ に はカ ン トの 批判 的観 念 論の 原理 的深 化 と いう 解釈 と、 カ ン ト の 見 解 へ の 補 足 と いう 解 釈 の 二 つ が 考 え ら れる と言 う4 . 後 者 の 解釈 に よ れ ば、 カ ン ト は今 日 わ れ わ れ が 目 の 当 た り に して いる 文 化 現 象 や 精神 科 学 の 事 実 を知 らな か っ た し、 予 想 する こ と も でき な か っ た の だ か ら、. 理性批判は文化の批判によって補完されるという解釈である‐ 自然と文化という二つの概念が狭い意味では 区別されるように、 自然科学と文化科学のそれぞれの課題も区別されねばならないということである。 しか し、 理性の批判が文化の批判になるということのうちには、 カントの問題設定の深化が含まれている、 とオ ル ト は言 う‐ カ ッ シ ー ラ ー が 「普 遍 的 な世 界 概 念 か ら で はなく、 む しろ 普 遍 的 な 文 化 概 念 か ら」 (- -32). と言うとき、 それは、 世界という現実性が文化という現実性として理解された、 しかも、 そのなかで自然科 学の世界概念の意味がすべて矛盾なく存続している文化という現実性として理解されたということなのであ る. つ ま り、 シ ン ボル 形式 の 哲学 が 目指 して いるの は、 純 粋 に学 問 的 な、 世 界の 厳密 な 概 念把 握 で はなく、. あらゆる方向の世界理解なのである‐ 第 二 に, カ ッ シー ラ ー は,〈物 自体〉 と いう カ ン トの 想 定 を新 カ ン ト学 派 の 伝 統 に した が っ て 形 而 上 学 的. 残津とみなす. 「物の根本的性質というよりは物に関する知の根本的性質は,〈それ自体自身〉 であるなにも の も 意味 しな い‐ そ れ は, 純粋 な 関係 の な か で は じめ て 現 実の も の と な る こ と が できる の であ る‐ 〈認 識 す る〉 と いう こ と は, わ れわ れにと っ て は く制 約 する> ということ. すなわち, 多様を悟性の綜合的統一のも. とで把握するということである. 認識のどんな対象の制約も, それゆえ認識の純粋な機能のうちに含まれて さ て と いう こ いる」5 ‐ ヘー ゲル 流 に言 えと , 直接 性 (無 媒 介 性) はいつ で も す で に媒 介 れて しま っ い る,. とになる. 存在を認識関連から切り離し,認識から独立に存在するものと考えるのはナンセンスなのである. 実体的な本質態の領域というものは存在しないのだ. 存在に関する一切の概念が, 具体的な認識状況のなか ではじめて作られるのであり, 存在はこの状況と関数的な関係にあるのである‐ 第 三 に, カ ン トに お いて は対象 は, 感性 の 多様 を悟性 の カテ ゴ リー が綜 合 的に 統一 する こと に よ っ て 構成. されるものである‐ それは, 心意識がカテ ゴリーを直観と結合させることを意味する. 直観と結びついたカ テ ゴリ ー を, カ ン トは図式 と呼 ぶ. カ ッ シーラ ーの シ ンボル 論 は, 本質 的に は, カ ン トの 図式 論 のこの 考 え. 方を変形したものであると言える‐感性的直観 と悟性的概念というカントの二つは綜合されて図式となるが, そ れがさ らにカ ッ シー ラ ー によ っ て 感性 と意 味の 綜合 から なる シン ボル にと っ て代 わ ら れるの である. た と )‐ す え ば言 葉 は, 一 呼 吸の 息 と い っ た 物 質 的な も の で あり, かつ 意 味 をも っ た 知 的 な 存 在 で ある (- -86 べて の シ ン ボル は, そ れ が神 話 的イ メ ー ジ であ れ芸 術 的イ メ ー ジであ れ, 自 然言語 の言 葉 であ れ科学 の 方程. 式であれ, それによって知覚の多様のうちになんらかの綜合が作り出される手段であるという点で, 同類の ). も の なの である (- -83~91. カント的な意味での概念は, われわれの経験が想定しうる一つの形式にす ぎない. 意味構造は概念構造と 一致 する わ け で はな い‐ カ ッ シー ラー によ れ ば, すべ ての意 識 過 程 はシン ボル 過程 と して解 釈 さ れね ばな ら. ない. すでに 『実体概念と関数概念』 において, 「われわれの全知識は, それ自身としてはいかに完全なも のであるうと, 対象そのものを提供するのでは決してなく, 諸対象とそれら相互の関連についての 〈記号〉 6と述べている‐ また,『シンボル形式の哲学』 では 「記号は思考の単に偶然的な外皮に をしか提供しない」 と どま る も の で はなく, そ の 必 然 的・ 本 質 的 な機 関」 であ る と言 わ れて いる (- -42)‐ シン ボル は, 思 考 の 附属 的な 道具 なの で はなく, 一切の 思考 がそ れ をと お して生 ま れる 媒体 なの だ. シン ボルな しに は, わ れ. われは特殊のうちに普遍を把捉するという思考の基本的な作業さえも遂行することができない‐ 人間の経験 2.
(4) . シンボル形式としての神話. は, す べて 記号 と 結 びつ いて いる. 周 知の よう に 『人間』 に おいて は, 人間 は 〈シン ボル を操る 動 物〉 と定 義 さ れて いる7 ‐ シ ン ボル は, 人 間的経 験 を理解 する 鍵 なの だ‐ 第 四 に, 純 粋悟 性 概念 と純 粋直 観 に よ っ て, カ ン トの よう に経 験 を構想 する の は, そ れ はそ れで いい. た. だ, カテ ゴリーと直観形式の様相が, その都度の意味領域に応じてその彩りを変えるという洞察が欠けてい る. シ ン ボル は孤立 して存 在 する こ と はなく, 互 い に 結 合 して いる. 「意 識 に お い て はい か なる 内容の 定 立. も, まさに定立というこの単純な働きによって他の内容の複合的全体をも共に定立することになら ざるをえ な いと いう こ と が, 意識 の 本質 その もの に属 して いる の である」 (一 一63). 各々 の シ ンボル は, シ ン ボル 体 系 の な かの-要 素 であ り,神 話 ・宗 教 ・言 語 ・芸 術・歴 史・科 学 と い っ た 文化 の 主要 な領域 から な っ て いる.. その各々は, 知覚の多様が綜合のもとにもたらされる複数の仕方を表している‐ たとえば空間は, 神話的意 識においては科学的思考におけるのとは違った仕方で経験されるのである‐ われわれは同じ一つの図形ない し模様を, あるときは芸術的装飾として, またあるときは幾何学の図形として, さらには宗教的象徴として 捉 える こ と が できる‐ した が っ て, 空 間関係 ・ 時間 関係の 直 観形 式 ある い は因果 関係 な ど一定 の思 考形 式 を,. その具体的な意味と用法において特徴づけるためには, その質的性質そのものを指定するだけではなく, そ れ が お か れ て いる 体系 全 体 の 指 定 も しな け れ ばな ら な い. そ れ が 〈様 相 指 標〉 であ る (- -60以 下). こ れ につ い て は, あ と でさ ら に論 じる つ もり で ある.. われわれは神話を,その可能性の制約を批判的一超越論的に解明すべき一つの事実とみなさねばならない. われわれは, 神話の形而上学的基礎だとか神話の歴史的・社会的・心理的起源だとかを問題にすることはで きな い. な ぜな ら, そ の場 合わ れわ れ は, 批判 論 ・超越 論の地 平 を離 れて しまう こ とに なる から である. そ. うではなくて, 神話的意識のすべての形態において維持される, 「精神的原理の統一性」を問うことが肝要な のである (二一41 ) . 神話的意識を批判的・超越論的に規定するということは, すなわち, それを世界の客 観 化 の 特 殊 な 仕 方 と して 理 解 す る と いう こ と に ほ か な ら な い (二 一45). しか し, カ ッ シ ー ラ ー に よ れ ば, 神 話の 統一性 に 関する 問 い は,いつ も な にか個別 的 なもの の な か に迷 い込 んで しまう 危 険に さ らさ れて いる‐. 民俗学は, すべての個別的な神話的形成物の根底に普遍的に妥当する原理を見定めることが自らの課題であ るとし, 天体神話や自然現象に関わる神話を一つの原理によって説明すると主張される. 神話形成の統一性 を歴史的文化圏の統一性として捉え, そういう文化圏が神話の基本的な諸主題の共通の源泉であって, そこ を中心にして地球上の全域に伝播したとする考えもある. さらにまた, 神話の原理の統一性を心理学的に捉 え, 神話は人類の精神の全財産であるから, その統一性は結局人間の「心」の統一性とその行為の等質性によ っ て説 明 さ れる と いう 見方 も ある‐ しか し, そ れ が自 然の 対象 領域 であ れ, 歴 史の な かの ある 特定の 文 化 圏. であれ, あるいは心の特殊な基本的能力であれ, 求められている単一性が要素にすりかえられているのであ り, シンボル的な 〈意味〉 の世界を生み出すような特徴的な形式のうちにその単一性が求められているので はない‐ それに対して批判的認識論は, 「認識の対象の無限性あるいは心的能力の多様性にもかかわらず, 認識というものを一つの理念的全体として捉え, その全体を構成する普遍的諸条件を探し求める……これと 同じ方法が,〈意味〉 という精神的統一体のすべてに適用されうるのである」(二一57 ) ‐ 神話的経験は意識 の ある 統 一 的 な 視点 を示 して いる の だ か ら, 必 要 なの は, この 視点 の 〈様 態〉 を捉 え, そ の諸 条件 を理 解す る こ と なの である. 現 在 で は, 神話 は単 一の 解 釈 で は説 明 し尽く せ な い 多義 的なテ キス トである と いう 認識 が広 がり さま ざ , ま な立場 か らの研 究 が共存 して いる. 哲 学 の立 場 の 数 だ け, 神話 理 論 が存 在 する こ と になる. タイ ラー や フ. レイ ザーは, 神話の起源を慣習や儀礼行為に求めたし, マリノスキーは社会生活を規制し伝統を維持する 〈憲 章〉 と して 神話 を性 格 づ けた‐ さ らに, 神 話 を童 話 ・ 伝 説 ・ 風 刺 と い っ た文 学 ジ ャ ンル に 入 れ たり, 自. 然や社会や人間生活の説明であるとする人もいる. たしかに, 神話は文化的社会生活のなかでさまざまな機 3.
(5) . 篠 木 芳 夫. 能 を引き 受 ける こと が できる‐ しか し, そう いう 視点 に は神話 的思 考の 統 一性 が欠けて いる‐ カ ッ シー ラ ー. によれば, 哲学の仕事は神話の可能性の究極的な制約を明らかにすることである‐ 人間の経験は多種多様で あるが, 哲学は, その個々の形式にとらわれることなく, 理性や縄験の権利要求が有効なものとされねばな ら ない 法廷 なの である‐. 思考形式としての神話. 『シンボル形式の哲学』 第二巻 「神話的思考」 の第一部 「思考形式としての神話」 と第二部 「直観形式と しての神話」 は, 未開社会における神話的 〈対象意識〉 はいかなる構造のものであるのか, その構造はどの よう に形成 さ れる の か を論 じて いる. カ ッ シー ラー は, 第 一 章の 冒頭 で, ゴー ヘ ン やナ トル プと い っ た マ ー ル ブル ク 学 派 の カ ン ト解 釈 の 伝 統 に した が っ て, く対 象〉 につ い て 次 の よう に述 べ て いる‐ 対 象 はす で に で き あ が っ た もの と して, つ ま りそ の ある がまま の即 目態 に お いて 意識 に <与 えら れる〉 もの で はなく, 表 象. の対象に対する関係は意識の自立的自発的な作用を前提にしている. つまり, 対象とは意識の綜合的統一に 先立って存在するものではなく, 意識の基本装置, すなわち直観と純粋思考の諸条件の力を借りて果たされ る形成作用の所産である‐ 〈シンボル形式の哲学〉 は批判主義のこの根本思想を採用し, さらにこれを拡大 しようとするものにほかならない. それは, 対象意識のカテ ゴリーを単に理論的-知的領域にだけ求めるの で はなく, およそ 多様 な 印象の カ オス から 一つ のコ ス モス が, つ ま り ある 特 徴 をも っ た類 型 的 な一つ の 〈世 界像〉 が形成 さ れる と ころ で はすべて, こう したカテ ゴリ ー が働 いて いる にち がいな い とする 考 え か ら 出発. する. そのような世界像はいずれも, 単なる 〈印象〉 をそれなりに明確で一定の組織をもった 〈表象〉 に作 ) りかえるという独自の客観化作用によってのみ形成される (二一75 . 神話的意識において 〈客観性〉 を構 成 する と さ れる 形式 のう ち, カ ッ シーラー は 〈思 考形 式〉 と して, 原 因・ 統一性 ・ 数 多性 ・ 共在 ・ 隣接 ・継. 起などを挙げている‐ 神 話 を シン ボル 形 式の 一つ と して 理 解 する と いう こ と は, 神 話 は経験 を形 づ く る 仕方 の 一つ である と 解釈. することである‐ そのか ぎりで神話は現実に対してある種の秩序を与えるものであるが, その際神話は物の 形態すなわち相貌に向かうという特徴がある. われわれが強烈な感情に打ちひしがれると, 世界に対するわ れわれの見方は特殊な仕方で色づけされてしまう. 愛している者悲しんでいる者は, それぞれが世界をそれ ぞれ別様の仕方で規定されているものとして経験する. 神話的思考は, さまざまな表情をした形態に向かう というかぎりにおいて, 感性的-質的である‐ それはたとえば数学が与えてくれるような一切の分析的前提 条件以前のものである‐ カッシーラーは, 神話に見られる相貌的形態を伴った 〈表情機能〉 と, 言語におい て捉えられる客観的な く表示機能〉 , それに科学の体系というかたちで把握される抽象的な 〈意味機能〉 と を区別する. 感覚的意識に対する学の関係についてヘーゲルの考え を 『精神現象学』 から引用したあと, 「学の生成全体の真の出発点, つまり直接態における学の端緒は, 感性的なものの領域というよりは, むし )‐ ヘ ー ゲル の言う 知覚 世 界 なる も の は, ろ 神話 的直観の 領域 である」 と して, こ れ を批判 して いる (二 一13. それ自体抽象の所産であり, 所与に対する理論的加工の所産でしかない. 学の端緒は 〈物〉 とその 〈属性〉 の世界であるよりもむしろ, 神話的諸力の世界, 悪霊や神々からなる世界であるというのである. さ らに, 無 差別 の 論理 と でも いう べき もの が, 神 話 の 特 徴の 一つ である‐ 神 話 は仮象 と現 実 との違 い以前. の状態にいつまでもとどまっている. 神話は, 単に主観的に表象されたものと現実に知覚されたものとの区 別を知らない‐ 夢と現実, 生と死, 記号とそれによって示された事柄とを厳密に区別しない‐〈像〉 は く事 物〉 を表 してい る の で はなく, 事物 そ の もの なの で ある‐ した が っ て, 「す べ て の 儀 礼 は根 源 的 に はけ っ し 4.
(6) . シンボル形式としての神話. て単に 〈寓意的〉 , 模写的, 表出的意味をもつものではなく, どこまでも実在的な意味をもつものだという こ と に なる」 (二 一93)‐ ここ で重要 なの は, 「そう した 区別 は, も はや神 話 のう ち に生 き て いる も の で も存. 在しているものでもなく, これを前に据えて反省しているだけのわれわれ観察者がはじめて神話のうちに投 ) という認識である‐ げ入れるものなのである」(二一9 2 神話的思考のうちには,〈複合的な〉 表象結合が認められる‐ 「ここでは, まだあらゆるものがあらゆるも の から生 じてく る こと が可 能 なの で ある. な ぜな ら, あ ら ゆる もの があ ら ゆる もの と 時 間 的な い しは空 間 的 に接 触 しう る か ら である」 (二 一105 ). カ ッ シー ラー がこ こ で, フ レイ ザーの 〈共 感 呪 術〉 (類 感呪 術 と感 染 呪 術 を含 む) につ いて 述 べて いる こ と は明 ら か で ある8 . 神 話 的 意 味 に おいて 相 互 に 〈接 触〉 し合う もの は,. 根本的には多種多様であることをやめたのであり, 実体的統一性を獲得したのである. たとえば, ある人の 髪の毛, 切られた爪, 着物, 足跡にも, その人の全体が含まれているのである‐ これが, 人ののこす痕跡へ の攻撃は, 全体としてのその人に危害を加えうるとする感染呪術の考え方である‐ 同じ文脈のなかにある部 分 とそ の 全 体 と の こ の 〈融 即〉 P印H膨i p誠onの 関係 は, 類 と 種, 普 遍 ・ 特 殊 ・個 と いう い わ ゆる 理 念 的な 関 係 に お い て も 働く9 . すべ て の 生 き 物 は共 同 体 を な して いる と いう の が トー テ ミ ズム で あ り, 人 間 と いう 種. は動物や植物と同一であるという前提に基づいている‐ また, 「神話的思考にとっては, 感覚的現象におけ ) る類似性さえあれば, それがあらわれている諸現象を 〈類〉 にまとめあげることができる」 (二一147 ‐同 等性や類似性は, けっ して単なる関係概念や反省概念ではなく, 一つの実在的な力であるというこの神話の 基本的な考え方は, すべての模倣呪術 (類感呪術) に認められる‐ ソシュールが 〈顕在的連辞関係〉 と 〈潜 在 的連 合 関係〉 と して 展 開 した 〈差 異〉 を, のち に ヤコー ブソ ン が失 語症 の 二つ の 型 にあて はめ たの はよく. 知られている. その際, 彼は 〈隣接性〉 に基づく 〈感染呪術〉 と 〈類似性〉 に基づく 〈類感呪術〉 とを区別 0 こ の 〈共 感〉Sympa して いる‐ こ れ ら は, 精 神 活 動 の 二つ の形 態 である と さ れて いる の である1 hyと 〈変 t . 身〉 Me協mo 1phoseは神 話 的 経 験の 構 造 の 特 徴 であ り, 彼 ら はこう いう か たち で因 果 律 を経 験 する の だ と言 える (二 一114 ). 神 話 的思 考 に 〈原 因〉 と 〈結 果〉 と いう 一 般 的カ テ ゴリ ー が欠 けて いる わ け で はな い. 経. 験的-科学的世界像も神話的世界像も同じ因果性のカテ ゴゴリーをもっている‐ 両者の違いは様相のそれで ある (二 一133 )‐ 言 い かえ れ ば, カ テ ゴリ ー が図式 化 さ れる 仕 方 が違う の である‐ 神 話 的意識 が用 いる 因果. 性の概念は, 知覚的連想に基づいている‐ 二つの出来事が因果的に関係しているとみなすためには, 神話的 意識 に と っ て は, そ れ が 時間 的に継 起 して いる か空 間 的に並存 して いる と いう だけ で十 分 である‐ カ ッ シー ラー に よ れ ば, Aと いう 特 定の 状 態 がA1と いう 時点 で知 覚 さ れ, 虚≧と いう 時点 でBという 別 の 状 態 が 続 いて. 起こるこの継起がどれほど頻繁にくり返されても, AとBとのあいだに因果的関係を確立するには十分では ない (二 一101 )‐ 科 学 的思 考 にお い て は, 特 定 の 契機. a. は全体の状態Aから孤立しており, Bにおける特定. の 契機bと 結 びつ いて いる‐ aとbが互 い に原 因 と 結 果 と して存 在 して いる と いう ため に は そ の 結 び つ き が , 自 然 の 普 遍 的 な 規 則 の 一 例 で あ る と 考 え ら れ る よ う に AとBを 分 析 しな け れ ばな ら な い 科 学 で はpos t , ‐ hoc u8級 hocergo propterhoc [こ れ に隣接 ,ergopropterhoc [こ れの あ と に, したが っ て, こ の ゆ えに] やj. して, した が っ て, こ れ の ゆ え に] は避 けな け れ ばな ら な い虚 偽 で ある が 神 話 で は従 う べ き 規 則 なの だ ,. (二一10 ) 3 . 科学では, 一定の原因だけが一定の結果もたらすと考えられるように, 特殊な原因と特殊な結 果との間に普遍的な関係を確立することができると考える. 神話ではあらゆるものがあらゆるものの原因と なり うる と考 え ら れて いる‐ な ぜ なら, あ ら ゆる も の があ ら ゆる もの と 空 間的・ 時間 的 に隣 接 して いる か ら. である‐ だから, 科学的思考が 〈変化〉 という言葉を使いそれを一つの普遍的規則から理解しようとすると こ ろ で, 神 話 的思考 は 〈変 身〉 Meじ l i no 1phoseを しか見 ないの である.. 5.
(7) . 篠 木 芳 夫. 直観形式としての神話. 神話と科学は,<思考形式〉 たとえば原因といった思考のカテゴリーの様相が異なるというだけではなく, く直観形式〉 もまた異なる. 直観において構築される感覚的経験は, 神話的意識においては,〈聖と俗〉 との 区別によっておこなわれる‐ 空間や時間そして数の区別は. この二分法の系統的表示によってなされるので あ る. した が っ て 神 話 も, 〈聖 と 俗〉 と いう 基 本 的 対 立, 言 い か え れ ば 〈並 はず れ たも の と 日常 的 な も の〉. との対立から生まれる (二一第二部第一章)‐ 神話においては空間は, 聖と俗による存在の差異化に応じて 〈強調された空間〉 として浮かび上がってくる. 幾何学的空間を支配している等質性に対して, 神話的な直 観 空 間 で は, そ れ ぞれの 位置 と方 向に, い わ ば特 殊な アク セ ン トがそ な わ っ て いる. そ してこ の 強弱 は, 俗. と聖の分離に帰着するのである (二一17 ) 5 . 純粋認識の空間においては空間全体の部分的空間に対する関係 ) は, 根本的には関数的に考えられている‐ これに対して神話の空間は徹頭徹尾構造空間である (二一181 ‐ 強弱は次のような働きをする. 第一に, 神話的空間は世界全体に一つの構造を与えるための図式として機能 ). た と え ば, ズニ 族の 〈神 話 的 -社 会学 的世 界像〉 によ れ ば, 空 間の 全 体 が, 東 ・ 西・ して いる (二 一177. 南・北および上下の世界と, 世界の中心点である中央の七領域に区分される. 次に, 古代メキシコ, 古代バ ビロニア, 中国に見られる占星術は, 神話的宇宙論の体系である‐ それによれば宇宙は神々に支配されてお り, 惑星の動きは人間の行動に影響を及ぼす‐ 第三に, 神話的空間は宇宙誌との関連で強調された空間であ る こと が明ら かとな る‐ 神話 は存 在の 根源 につ いて 語 る‐ そ の 際, 人 間の 躯 幹 と 四肢 は他の す べての 空 間 的. 区別が間接に転写される座標系なのである‐ 神話的思考は宇宙を一つの有機的に組織された全体として捉え るから, その全体は人間の身体とその有機的組織のイメージにしたがって見られる. 客観的世界を自己の身 体の各部分の関係に類比的に 〈模写する〉 ことこそ, 神話的宇宙誌のやり方である‐ たとえば,『リグ・ヴ ェ ー ダ』 の 讃 歌 に は, 世 界 が ブ ル シ ャ と いう 人 間の 身体 か ら どの よう に して 生 じて き た か が描 か れて いる (二 一184 ).. 聖と俗の区別は, 「神殿」t l emp umという表現を得るに至る‐ 神殿は空間的連続性から切り取られ, 他の 領 域 か ら 区 別 さ れ, 神 に 聖 別 さ れ た 領 域 で あ る. Tem は ギ リ シ ャ 語 の 〈切 る〉 に 由 来 す る (二 一201). l Temp um はま た, 天 空 全 体 を言 い 表 す こ と も で き る‐ 天 は前 方 が南, 後 方 が北, 左 の 方 位 が東, 右 の 方 位. が西という具合に分けられた. 天空全体もひとまとまりの聖別された領域であると考えられる. つまり, - l 個 の 神 的存 在 に住 ま わ れ, 一 個 の 神 的 意 志 に よ っ て 統 治 さ れるt emp um で ある よう に思 わ れる. そ の ほか, カ ン トール が指摘 した よう に, ローマ に おける 幾 何 学 も神 話 にそ の 根源 を探る こ と が できる な ど, カ ッ シー. ラーは, 多くの例を示して神話的空間の特質を述べている. 神話的時間は, いわ ば 〈聖なる時間〉 つまり祝祭の時であり, 出来事の等質的経過を中断し, そこに一定 の分離線を導入することになる‐ それらの時間部分は, けっ して単一で等質的な, 純粋に外延的な系列を形 成 する わ け で はなく, そ れ ら時間 部分 のひ とつ 一つ に 内包 的充実 がそ な わ っ て いる. 誕生 と 死, 妊 娠, 出産, )‐ 成 人, 結婚 一-- その す べて が, 特有の 通 過 儀 礼と加 入 儀礼 によ っ て 標 づ け ら れて いる (二 一216~217. 〈数〉 はそれ自体等質的なもの, 一様なものであり, 個々の個数はそれが全体系のうちで占める位置から 生 じてく る 差異 以外 に は, 互 い にい か なる 差 異も 示 さない‐ と ころ が, 神話 的意識 に おいて は, 数 え られう. るものはその内容上の違いによって, つまり特定の数量につきまとう特殊な直観的内容と特殊な感情的色調 によって, 多様に差異化され, いわばそれ自体の色調をもったものとしてあらわれてくる. それぞれの数が その固有の本質, その固有の個性的な性質と力をそなえているのである. そして数は, 宗教特有の意味付与 ) 0 3~28 の媒体ともなり, 無差別に神話的な解釈や崇拝の対象となりうるのである (二一27 . 6.
(8) . シンボル形式としての神話. 生活形式としての神話. 〈生 活 形 式 と して の 神 話〉 に お い て, カ ッ シ ー ラ ー は神 話 的 意 識 に お い て 〈主 観 的 な も の〉 が いか に して 構. 成されるかを論じている. 彼は自我の概念を, 神話的意識のおける魂・自己・共同体・人間性というかたち で考察 して いる‐ 魂 につ いて, カ ッ シー ラ ー は四つ の 段 階 を 区別 する. 第 一 の基 本 タイ プは, ポリ ネ シ アの )‐ この 場 合, 魂 は マ ナ, 北 アメ リ カの アル ゴン キ ン族の マ ニ ト ゥ, イ ロコイ 族の オ レ ン ダである (二 一301 〈活 動 力 そ の もの〉 と考 え ら れて おり, 生 き て いる も の に も生 き て い な いも の に も, 精神 的 な も の にも 物 質. 的なものにも適用される. 霊魂そのものは分離された実体と考えられるのではなく, 生命そのものの内在的 要 素 と考 えら れて いて, 主 観 的 なもの と客 観 的 なもの との 分 離 はな い‐ 死 の 国 は生 の コ ピー に す ぎな いと考 え る の が, 第 二 の タイ プ で あ る. 『イ ー リ ア ス』 で ア キ レ ウス に パ ト ロ ク ロ ス の 影 が 現 れる と き, そ れ は. 「等身大で姿も, 愛らしい目もそのまま, 声もそのまま, そして昔と同じように身体に着物をまとって」 い る (二 一303 )‐ こ こ で は, 影 である がゆ えに霊 魂 は固有 の 自立 的特 徴 をも た ずそ の存 在 と属 性 の すべて をも. との身体から借りてきている‐ 霊魂に関する神話的思考の第三のタイ プの特徴は, 霊魂が一ではなく多と考 えら れて いる と いう こ と である‐ 生 活 の ある 局面 か ら別 の 局面 への 移 行{子 供 か ら大 人 へ の移 行1は, 新 しい 自我 の 獲得 を伴う と考 えら れて いて, 通過 儀 礼 が 行 わ れる (二 一309 ). カ ッ シー ラ ー に よれ ば, 人 間 が自然. 的-生物学的存在と倫理的人格とを原則的に区別することを学んだとき, 根本的な変化が起こった. 死者は 死の神 オ シリス の 前 に 歩み 出る とき, 彼 が死 に おいて 勝利 をお さめる か否 か は正 義の 尺度 で決 め ら れる‐ 道 徳性 が決 定 的な の である. 悪霊 に対 する 恐怖 は, 神々 へ の 信仰 と崇 拝へ と高め ら れて いく (二 一312~313) . ここ で は, 霊 魂 は単 なる 自然力 である こ と をやめ, 〈道徳 的主 体〉 と なる の で ある.. 神話的意識の弁証法 神話の弁証法が生じるのは宗教においてである. 宗教もまた, 感性的な記号や像を利用するが, それらがそ の 意味 を完 全 に汲 み尽く す こと ができ な い手段 である こ と を知 っ て いる (二 一445 )‐ 宗教 は神話 に 由来 する.. 宗教は神話を用いなければならないにもかかわらず, 神話に対して批判的な態度をとる‐ 旧約聖書において は偶像 が禁止 さ れており, イ ン ドの ウ パ ニ シ ャ ッ ドの 宗 教 で は絶 対者 は客観 的 なもの の 否 定 と して あ らわ れ. る. また仏教でも神話は思想的明解性に到達できなかったという神話批判が背後にある. したがって, 宗教 は純粋な意味と造形的な表現との分裂によって特徴づけられていると言えるのである‐ 「神話的な像=世界 を越え出ようとする努力と, まさしくこの像=世界との不可分な結合と固着とのうちに, 宗教的過程そのも のの一つの基本的契機があるのである」(二一466 ) ‐ 中世の文献には, 経験的現象について四つの解釈学的 操 作 が 存 在 する (二 一473~477 ). 歴 史 的 ・ 寓 意 的 ・ 比 除 的 ・ 神 秘 的 解 釈 で ある‐ 第 一 の 解 釈 に お いて は,. 特定の出来事がその純粋に経験的な事実性において捉えられ, 他の三つの解釈においてはじめてその真の内 容の道徳的-形而上学的意味が明るみに出される‐ 精神が現実のうちに見るものは, その直接性における現 実そのものではなく, そこにその間接的な現われを見いだす超越的な意味なのだ‐〈意味〉 と 〈像〉 との相 互浸透と相互対立は, 宗教的なものの本質に属している‐ ここに, 宗教的思考の根底にある像と意味の分裂 が解 消 さ れる 可能 性 が出て き て いる. だが, この 分 裂 は 他 の シン ボル 形 式 すな わち 芸 術に お いて も調 停 さ ,. れるのである‐ 芸術の場合, 像はまっ たく像そのものとして理解される. 意味は像を作るときはじめて構成 される‐ 像と意味の分裂の問題を真に克服できるのは, 美的意識だけなのである (二一481 ) ‐ 神話的意識の弁証法は, ここまでは像と意味の弁証法として再構成された. だが, 宗教は個人の道徳的目 7.
(9) . 篠 木 芳 夫. 己責任と結 びつく点が重要である. 宗教は, 自らの行為に責任をもつ個人の発見に通じている‐ その点で, カントが理性の弁証論を道徳性へと止揚するのと平行関係にある‐ 理性の思弁的使用は, カントの弁証論で は, さまざまな矛盾に陥った. 理性を実践的に使用するときだけ, われわれは弁証論を免れることができる の であ っ た. カ ッ シーラ ー は神話 的意 識の 弁証 法 を止 揚 する ため の モ デル を, カ ン トの弁 証 論 か ら借り てく. る‐ 神話的な禁忌の規則は, さまざまな種類の純粋性を目標としているが, そこでは物の純粋性が問題にな っている‐ それに対して, 宗教的戒律によって要求されている純粋性は, 心的態度の純粋性であり, それゆ え自己責任をとらねばならない行為の問題なのである‐ 以上のように, 神話から宗教への移行には, 二つの次元がある. すなわち, 神話的像意識の宗教的象徴表 現への 変化 は, タ ブー から戒律 への 移 行と 対応 して いる の である‐. 二. 若干の批判的考察. ヴィ リ ー ン は, マリノ ス キ ー を引 用 しつ つ, カ ッ シ ーラーの 神話 論 が原 始 的心性 につ いて おこ な っ た議 論. には, 未開社会の人々がその日常生活のなかで採用している技術や思考の種類を十全に尽くしていない, と 1 指摘している1 . それによれば, 原始共同体には経験に基づいた, また理性的に作り出された相当量の知識 の蓄積がある. 農業やカヌーの製作のような実際の活動や技能において, 原始人は理性的に系統づけられ経 験的基礎をもった規則を採用している. 彼らは, 天候の穀物への影響, 土壌の状態, カヌーを作るときに は 素 材の 重要 性, 安 定性 の原 理, 水圧 な どにつ いて 熟知 して いる, とマリ ノス キ ー は言 っ て いる‐ この よう な. 経験的知識のほかに, 原始人は呪術的儀礼や神話をもっているのである. 原始人は生活上の仕事を成し遂げるために経験的知識に依拠するが, 生活上の予見できない不測の事態を 避けるためには呪術や神話に頼るのだ. 経験的知識や技能に, 呪術的儀礼が添えられるのである. もちろん, 原始人が真に体系的な科学をもっているということではない‐ 原始人は二つの思考様式を採用しているとい う こ と である‐ 一つ は理性 的・ 経験 的, もう 一つ は神 話 的思考 様 式 である. も しマリノ ス キー の 観察 が正 し けれ ば, カ ッ シー ラ ーの 神話 論 は原 始 人の 心性 の 単 に部 分的 な説 明で しかな いと いう こと になる‐ 彼 ら は直. 接実際的行動に携わるときには, 神話的思考とは別の仕方で世界を見ている. たとえば, 神話では彼らは単 純な連合に基づいた原因という概念を採用するかもしれないが, 実際の行動では原因という特定の要素を孤 立さ せ, そ れ を特定 の 結 果 と結 び つ けている‐ カ ッ シー ラー の 神話 論 で は, この 一方の 契機 が抜 け落ち て い る が, こ れ は, ヴィ リ ー ンによ れ ば, カ ッ シ ーラ ーの議 論の 難点 と いう より も議 論の 幅の 問題 である.. 神話的意識においては, 経験的知識や技能が神話的思考様式を侵食するということがない‐ 双方が矛盾す ることなく独立に成り立っているのである‐ 経験的知識と神話的思考には,それぞれ独自の守備範囲がある‐ した が っ て, 神話 的意識 にと っ て は, 神 話 も 経験 的知 識 も どち らも 〈真理〉 である だろう‐ ギ ュ ス ドル フ に. 2なのであった. 構造の維持に強 よれば、 「神話時代の人間にとって, 神話は神話ではなく, 真理そのもの」1 い関心を注ぐこのような未開社会ないしは伝統社会に対して, 科学的思考に信頼をおき変化や進歩を求める 近代社会の人々は, 神話を作り話つまり虚偽と考える. ただし, 古今東西, 神話のみの社会と科学のみの社 会に裁然と分けられるわけではない‐ 近代社会においても, 資本主義がその矛盾によって崩壊しすべての人 が平等な社会が成立するという 〈共産主義の神話〉 , アーリア人だけが他国民を支配する資格をもっという 〈ナチズムの神話〉 , その他さまざまな神話が存在する. 個人のレベルでも, 日常生活を科学的思考にしたが って営む人が, キリスト教徒であれば処女受胎とか復活といった教義を信じている‐ 未開社会でも近代社会 でも, 人間は人生と世界に意味と価値を与える何かが必要なのであり, 神話はそれを物語というかたちで教 えて いる と いう こ と が できる‐ 科学 技 術の 文 明社会 を 時と して 危機 に 陥れる の が, のち に述 べる よう にカ ッ 0 0.
(10) . シンボル形式としての神話. シー ラ ーの いう 〈国 家の神 話〉 である‐ カ ッ シー ラ ー がカ ン トの 批 判 的 ・ 超 越 論 的方 法 論 に 依拠 して いる こ と は, 上 述 した よう に 明 ら か で ある‐ カ ン トが数学 的 自然科学 の 事 実 をふ ま えて, その 可 能性 の制 約 を問題 に した よう に, カ ッ シ ーラ ー は神 話の. 事実をふまえて, それに即して神話の可能性の制約 を明らかにするという方法をとった. だ が, その ため に は言う ま でも なく, 彼 は神話 の事 実 を掌 握 して い たの で なけ れ ばな らな い‐ で は, カ ッ ソ ーラ ー はどの よう に して世 界 中 に散 在す る神 話 の 事実 を手 に入 れる こ と が でき たの であろう か‐ こ れ につ いて は, 山 口 昌男 氏 の 興 味深 い一 文 がある‐ 氏 は 「人類 学者 の は しく れと しての 私 な どに は, カ ッ シ ーラ ー がいか に して あ の 膨 大 な 人類 学 の デー タ を集 積 する こ と が でき たの であろう か と いう こ と は, 長 い間の 疑 問 3 であ っ た」 と 告 白 し, カ ッ シ ー ラ ー の 秘 密 がワ ー ル ブル ク 文 庫 に あ っ た こ と につ い て 詳 しく 述 べ て いる1 .. ワール ブルク研究所は, 美術史家ア ビ・ワール ブルクの蒐集した膨大な文献を中心に創設されたもので, ピ ー タ ー ・ ゲイ に よ れ ば, ワイ マ ー ル 精神 の 最 高 の 栄光 で あり, 最 も 特徴 的な 現 れの 一つ で あ っ たM . ワ ール ブル ク の 仕 事 は, ギリ シ ア ・ ローマの 古典 を研究 しそ れ がルネ ッ サ ンス に与 えた影響 を正 確 につ か むと いう. ことであったが, 彼の関心の中心は美術史を中心にした 〈精神史〉 であった. すなわち, 彼は明断な問題意 識 をも っ て, パ ノ フス キ ー がイ コ ン (図像) 学 と いう 言 葉 で一 般化 したイ コ ン を基本 的 に重 要 な主題 と考 え た‐ 図像 学 と は,〈かたち〉 の な かに 〈意味 = 精神〉 を読 み 取り,〈かたち〉 をと お して 古代 ルネ ッ サ ンス に お ける 〈再 生〉 を分析 する という 方 法 をとる 学 である‐ しか も, ワ ール ブルク の方 法 は, 単 にテ ーマ 的 にあ. るいは図式的に作品を説明するのではなく, つねに細部を構成する要素の詳細な検討の上に樹てられる. そ れ は 〈神 は細 部 に宿り た もう〉 と いう 信 念 に基 づ いて いる. 図像 学 の 問 題 を は っ きり 焦点 に据 え たの はワー ル ブル ク である, と言 える の である‐ 彼 は精神の 研 究 を西欧 という 文化 的コ ンテ キス トか ら解き 放 っ て, 比. 較文化史的視点において再構成するか, またはイコンのなかにある意味性を探り当てるモデルとして非西欧 世界とくに未開社会の神話=象徴をモデルとする. まさにこの同じ方法を, 哲学のなかにもちこもうとして いた の がカ ッ シ ー ラ ー で あ っ た‐ カ ッ シー ラ ー が ワー ル ブ ル ク 研 究 所 を は じめ て 訪 れた と き, 『シ ン ボル 形 式 の 哲 学』 の 構想 はち ょ う ど彼 の心 の な か で形 を整 え は じめ てい た. だか ら, カ ッ シーラ ー と ワ ール ブルク 研 究 所 との 出会 い は, 劇 的 なもの と なら ざる を え なか っ たの である‐ 山 口氏 に よ れ ば, 自分 がま っ たく 独自. な立場で打ち出したと思った哲学上の方法が, 今まで無関係だった人間の集めた本の種類, その配列の方法 によ っ て 一 挙 に示 さ れたカ ッ シー ラ ー は, 衝撃 を受 ける と 同 時 に, その 呪 縛 に 身 を ゆ だねる しかな い自らの 危機 を感 じたの だと いう‐ ワ ール ブル ク は, カ ッ シ ーラ ーの 必要 と する 資料そ の もの を用意 して おい たの だ‐. 文化の事実と文化の哲学との合目的的な出会いとでも言えるであろう‐ そしてその成果が 『シンボル形式の 哲学』 第二巻 「神話的思考」 なのである‐ カ ッ シー ラ ー は神 話 を理 解 しよう と する と き, く り 返 す が, 理 論 的基礎 をカ ン トの超 越 論哲学 のうち に見 て いる. カ ン トに よ れ ば, すべ ての 認識 は空 間 と 時間 と いう 直観形 式, 因果性 ・ 実 体性 ・ 相 互 作用 と い っ た 一 連 の カ テ ゴ リ ー に 基 づ いて いる‐ この こと は, 対象 はある一 定の 仕方 で空 間 的・ 時間 的 に規定 さ れて おり , ま た, 包 括 的な 因果 連 関のう ち に あり, 現 象 が変化 して も 同一 である と いう こ と であり 対象 がこの よう な ,. 直観形式と一連のカテ ゴリーによって規定されているとき, その対象はわれわれに客観的なものとして与え ら れて いる と いう こと を意味 する. 直観 形式 と カ テ ゴ リ ー は, そ れゆ え, 一切 の 総験に先 立 っ て対象 の 客観. 性とは何であるかということをわれわれに教えてくれる‐ というのは, 現実の対象を経験するためには, わ れ わ れ は対象 が いか なる も の で な け れ ばな らな いか を知 っ て い な け れ ばな ら ず 直 観 形 式 とカ テ ゴ リ ーこそ ,. が対象が対象であるための条件だからである‐ それゆえカントは, 直観形式やカテ ゴリーを 〈可能的経験の 制 約〉 と呼 び, こ れ を経験の 対象 と対象 の 絹験にと っ て ア プイ オリ に必 然 的 なもの と 考え たの である. さて, カ ッ シーラ ー はす で に述 べ た よう に, ワール ブル ク 文 庫 との 出会 いによ っ て膨 大 な量 の民 俗学 的 資 9.
(11) . 篠 木 芳 夫. 料 を自 由に閲覧 する こ と が でき た. そ の とき, カ ッ シー ラー に は次 の よう な問 い が投 げかけ ら れて いた. す な わち, わ れ わ れの表 象 と は著 しく 異 なり, わ れわ れ にと っ て はせ い ぜ い夢 と しか思 われな いこ と が, 神話 的意 識 にと っ て は客観 的に 与 えら れたも の とみ な さ れて いると いう こ と はい かに して可能 で ある か, と. カ. ッシーラーの答えは以下のとおりである. 「その客観性は, 神話の背後にひそむ形而上学的な存在のうちに あるのでも, 経験的-心理学的存在のうちにあるのでもなく……, 神話が遂行する客観化の様式と形式のう ). す な わち, カ ッ シーラ ーに よ れ ば, 神話 的世 界 は 〈単 なる表 象〉 からなる世 ち にこそ ある の だ」 (二 一45 界 である が, 認 識 の 世 界 に して も, そ の 内容, そ の 単 なる 素 材 か ら み れ ば 同 じこ と で ある‐ そ して, 「科 学. 的自然概念に到達するのも, われわれがおのれの表象の背後にその絶対的原像, 超越的対象を捉えることに よってではなく, われわれが表象そのもののうちに, また表象そのものに即して, 表象の秩序と継起とを規 定しているようなある規則を発見することによってなのである. 表象がわれわれにとって対象的性格を帯び るのは, われわれが表象からその偶然性を剥ぎとり, 表象のうちにある普遍的なもの, ある客観的-必然的 な 法則 を際 立た せる とき である. した が っ て, 神話 につ いて も客観 性の 問 い を問 いう る の は, わ れわ れ が神 話 にも, そ こ に 内在 する 規則, そ れ に 固有 な く必 然性〉 を認 める こと が できる か という 意 味 に おいての こと ). 神話 もま た, カ ン トのそ れと は様相 を異 に して いる と はいえ, 徹頭 徹尾 一 定の 直観 で しかな い」 (二 一45 形 式 とカ テ ゴ リ ー によ っ て 統 御 さ れて いる -と いう の である. た とえ ば神 話 的空 間 に お いて は, 上下, 右 左,. 東西南北はそれぞれ客観的な意味をもっており, 神話的因果性は類似性や隣接性に基づいており, ときには 神々 の 意 志 へ還 元 さ れる, と いう 具 合 で ある. だか ら, カ ッ シー ラ ーに よ れ ば, 神話 的意識 の 根底 に は, 科. 学的啓蒙によって形成されたわれわれの意識と同様に, 包括的で閉じられた直観と概念の体系があり, 経験 の多様性はそのような秩序へ組み込まれうるし, 事実それこそが神話的経験一般をはじめて可能にしている と いう の である. 神話 的意識 と わ れわ れの 意 識 と を区別 する の は, 客観 化の 〈段 階〉 の違 い である. カ ッ シーラ ー は, 神 話. の客観性は低次のそれでしかなく, 本来の真理の前で消失すべく定められているように思われる, と述べて いる. 「科学的認識の最初の曙光とともに, 神話の夢と呪術的世界は永久に姿を消し, 無のなかへ沈んでし )‐ だ が, カ ッ シーラ ー にと っ て, 神 話の 根本 的な主題 のう ち に 精神 的形成 作 まう よう に思 わ れる」 (二 一46. 用の特定の様式, つまり偶然的ではない必然的な様式があらわれているか ぎり, やはり 〈対象性〉 一般への 途上にあるのである. したがって, 「神話の客観性は, 神話が所与の存在の模写ではなく, 形成作用そのも のに固有な典型的様式一--それによって意識が感性的印象を単に受容する状態から脱出しこれに対崎する )‐ した が っ て, 神 話 はた よう になるそ の 様式 - -一 だと いう と ころ に, そ の根 拠 をもつ の である」 (二 一47. とえ本来的な仕方でではなくとも, すべての真理認識が前提とする超越論的な制約を含むかぎり, 真理を所 有 して いるの である. 言 い換 え れ ば, 神 話 は現 実的な も の は何 である か, 真理 と は何 である かと いう こ と に つ いて, 一定の 構想 をも っ て いるの である. 以 上 が, カ ッ シ ーラ ーの 基本 的な 考 え方 である‐ クル ト・ ヒ ュ プナ ーに よ れ ば, カ ッ シ ーラ ー の 神話 解 釈 は二つ の仮 説 に 立脚 して いる. 第 一 に, カ ン トに. よって立てられたア プリオリな直観形式と思考形式は, すべての可能的経験とすべての可能的意識とに対す る必然的な制約である‐ 第二に, 神話に始まる展開の最頂点が, カント的制約と一致する科学的存在論であ 5 なぜ な ら た と え ばデカ ル トにお け る‐ しか し, 第 二 の 仮 定 は科 学 史の 事 実 に 明 ら か に反 す る, と いう1 ‐ ,. る主体と客体との分離, 自然の数学化, 慣性運動などの基本前提が少なくとも部分的には十六世紀の神学的 思弁の結果である ばかりでなく, 相対性理論や量子力学も形而上学的・神学的な哲学的確信に立脚している か ら である‐ した が っ て, カ ッ シーラ ーの第 二 の 仮説 は, 科学 史の 観点 から して 成 り立 た ないの であり, 神. 話から科学への移行の歴史は, 意識が自らの制約にますますはっきりと気づくようになる論理的過程として 理 解 する こと はでき な いという の である‐ 10.
(12) . シンボル形式としての神話. 第 一の 仮 説が言 う よう に, も しカ ン トの 直 観 とカ テ ゴ リ ー がすべ ての 可 能 的経 験の 制約 で ある と す れ ば, そ. のことから第二の仮説が帰結する. すなわち, 「カントの直観や概念に匹敵する神話的直観や概念, たとえ ば空間, 時間, 因果性などについての直観や概念は, カント的直観や概念の, 多かれ少なかれ, 暖昧で明断 でない先駆者でしかありえないということである. さもなければ, 人々が神話的に現実を表象する仕方は, 人々 が, た と え無 意識 にせ よ, こ の現 実の 経 験 を組織化 する 仕方 と は, いか なる 論理 的連 関 もな いだろう し,. 人間の意識は不可解な精神分裂症のうちで生きていくことになる」 ‐ 第二の仮説が否定されている以上, 第 一の 仮 説 も 維 持 で き な い. と いう の は, 偽 なる こ と{第 二 の 仮 説1が真 なる こ と[第 一 の 仮 説1か ら帰 結 する こ. とはありえないからである‐ 同様に, 神話は科学の単なる先駆者であるがゆえに, 科学よりも低級な段階に ある と いう 主 張 もま た維 持 でき ないもの と なる. 以上 が, ヒ ュ プ ナーの カ ッ シ ーラー 批判 の 要旨 である‐ ヒ ュ プ ナー は, カ ッ シー ラー の 第 二の 仮 説 す な わち 認識 進化 論 は成 り 立 たな いと いう‐ しか し, 近代の機 械. 論的自然観も現代の相対論や量子論も形而上学的・神学的確信に立脚しているからといって, その認識論上 の進展そのものを否定するということができるであろうか‐ 近代科学への途上で, 人間は意味というものを 断念し, 概念を公式に, 原因を法則と確率に取り替えた. 現代の物理学は, ニュートンの絶対空間・絶対時 間の否定をはじめパラダイムの変換を成し遂げた‐ もちろん, 科学もまた人間の思想である以上, 形而上学 的残 洋 を完 全 に 払拭 する こ と はでき ない かも しれな い‐ だが, その こ と は営々 と して営 ま れて きた 自 然認識 の 進展 そ のも の を否定 する こ と に はな ら な いの で はな い だろう か‐. カントの直観形式と思考形式がすべての可能な経験の必然的制約であるとすれば, 空間・時間・因果性と いった神話的直観や概念はカント的直観や概念の暖昧で明断でない先駆者でしかない,とヒュ プナーは言う. たしかに, 神話的直観や概念は, 科学的直観や概念へと発展してゆく低次の段階にあるという, 認識進化論 的 見方 がカ ッ シ ーラ ーのう ち にある こ と は否定 でき な い. しか し, 神話 的直 観形 式 や 概 念と 科 学のそ れ と は. 低次の段階と高次のそれという違いにとどまらない. 神話的意識にとっても必然的な直観形式と思考形式が 存在するが, われわれのものとは く様相〉 を異にしているのである‐ 「経験的-科学的世界像と神話的社会 像 と を相 互 に比 較 して みる と, 両者 の 対立 は, 現 実 を考 察 し解 釈 する の にま っ たく 異 な っ たカ テ ゴリ ー をつ かう 点 にある の で はな いと いう こと がす ぐにも 明ら か になる‐ 神話 と経 験 的-科 学 的認 識 が 異 な っ て いる の は, そ の カテ ゴリ ー の性 質 や 特性 に よる の で はなく, そ れらカ テ ゴ リ ーの様相 に よる」 (二 一133) こ と を忘 れ て はな らな い. カ ッ シー ラ ー は 〈様相〉 につ いて, 『シ ン ボル 形 式 の哲 学』 第一巻 で は, 「わ れわ れ は, あ. る空間形態, 線や形のある複合体を, ある場合には芸術的装飾として, 他の場合には幾何学的図形として把 握 す る こ と が で き, こ の 把 握 に よ っ て 同 一 の 素 材 に ま っ た く 別 の 意 味 を 与 え る こ と が で き る の で あ る」 ) と述 べ, あ る 講 演 で はより 具 体 的 に, 「美 的 な観 察 態 度 がホ ガース の 美 しい線 を見 る と こ ろ でも, (- -61. 数学者の目なら一定の三角関数の似姿, たとえば正弦曲線の似姿を見ることになりますし, 一方数学的物理 学者であれば, まさにこの曲線のうちに, おそらく周期的振動の法則のような一定の自然経過の法則を認識 6 同様 に 神 話 的思 考 のう ち にも ま っ たく 独特 な空 間の 捉 え方 する こ と になる で し ょ う」と説 明 して いる1 . , , があ る の だ‐ 「そ れ は空 間 的 視点 に した が っ て 世 界 を 組 織 し く方 向づ ける〉 一つ の や り 方 であ っ て, 経 験 的. 思考において宇宙の空間的組織化がおこなわれる仕方とは明確に,その特色に応じて区別される」(二一6 ) 2 ‐ た一般的思考形式にしても 〈因果性〉 といっ , これを科学的思考のレベルにおいて考察するか, 神話的思考 の レ ベ ル に お いて考 察 する か によ っ て, や はり ま っ たく 違 っ た様相 を呈 してく る の である. 同 じ様相 にある. 直観形式と思考形式が, 暖昧で不明断な状態から明断判明な状態へ移行するというのではない. 経験のこの 制約に関する神話的意識とわれわれの意識との違いは, 暖昧とか明断とかの違いではない. 神話的意識もま た, たと え ば因果 連 関につ い て は明 断な意識 を も っ て い た はず だ から で ある‐ ヒ ュ プ ナ ー に よ れ ば, カ ッ シ. ーラーはカントの超越論的哲学に立ったがゆえに, 神話的思考と科学的思考を認識進化論的に結びつけざる 11.
(13) . 篠 木 芳 夫. を え な っ た の だと して いる が, 彼 はカ ッ シ ー ラ ー の 〈様 相〉 と いう 考 え方 を度 外 視 して いる よう に 見 える‐. 様相を考慮に入れれば, われわれはく不可解な精神分裂症〉のうちで生きていくことにはならないのである. ヴィ リ ー ンも言 う よう に, 神 話 的思 考 と 経 験 的思 考 は, 昔 も 今 も 人々 のう ち に 同居 して いる. だか らこそ, カ ッ シーラー は現代 に おける 〈国家の神 話〉 を語 らな けれ ばなら な か っ たの である‐. カントの 『純粋理性批判』 における主観は, すべての人に共通な理性, 普遍的主観であった‐ それは, 自 然科学の真理性に基礎を与えるためである‐ カントにかぎらず, 近代的主観は自然科学的認識の普遍妥当性 を 基礎 づ ける ため に,〈誰の も の でも な い X〉 で な け れ ばな ら な い. とこ ろ が, 趣味 判 断 に お いて は事情 が 違 っ てく る. そ れ は快 ・ 不快 の 感情 に 基づ いて いる が, 快・ 不快 は人に よ っ てそ れ ぞれ違 う か ら である. で. は, 芸術の価値判断はまったく主観的で窓意的であるかというと, そうではなく一定の価値判断の基準があ る. 互 いに争う に して も, 一 定の 基 準 がある. そ れを決 める の は, こ れま での 芸 術 体験 か らく る 一 定の 〈共 7 通 感 覚〉 で あ る. カ ン トは, 美 的判 断 に お い て 普 遍性 を 与 える の は, こ の よう な 共 通 感 覚 で ある と いう1 .. しかし, この共通感覚は歴史的かつ地域的である‐ しかも, たえず変化する. 趣味判断は, 多数の主観によ る判断であって, カントが科学に帰したアプリオリな普遍性はなく, 単に時間的・空間的に規定された共通 感覚 に よる しかな いも の である‐ トマス ・ク ー ン は科学 的真 理性 をつく っ て いる の は, データ やそ の 解釈 で はなく て, パ ラ ダイ ム である と 8 この パ ラ ダイ ム という 概念 は カ ン 言う. データの 解 釈 はいつ でも パ ラ ダイ ム を前 提 と して いる の である1 ‐ , 9 トの いう 〈共 通感覚〉 に よく 似 て いる, と柄 谷行 人 は言 い, こ れが他 者 の 問題 である こと を指 摘 している1 .. 「たとえば, われわれは 『万葉集』 を読むとき, 近代ロマン主義の文学に慣れた観念で読んでいます. しか し, 奈良 時代 ある い はそ れ以前 の 人たち は, わ れわれ と は違 っ た 〈共 通 感覚〉 をも っ て い た はず です. で は, わ れわ れが 『万 葉集』 を 〈分 かる〉 と いう こ と は, お か しいの で はな い か. ま ず, 古代 の 人々 の 〈パ ラ ダイ. ム〉を知る必要がある. 別のことばでいえば, 古代人が, われわれの勝手に感情移入できないような〈他者〉 で ある と考 える 必要 がある. しか し, 多く の 文 学者 およ び愛 好者 は, そ んなこ と は考 えな い‐ 問題 は, そ れ な ら, わ れわ れ が 『万葉 集』 を分 かる こ と は, つ い に不 可 能 だろう か と いう こ と で ある」. この こ と は, パ ラ ダイ ムな い しは く共 通 感覚〉 が 異 なる 文化 をも っ た 人々 との コ ミ ュ ニケ ー シ ョ ン は可 能 か, 理解 は可能 か, と いう 問題 である‐ 異 な っ たパ ラ ダイ ム な い しは共通感 覚 の あ い だでの 通約 可能 性 の 問題 である. カ ッ シ ー. ラーが 〈様相〉 というとき, それはある空間形体がある場合には芸術的装飾として, 他の場合には幾何学的 図形として把握できるというように, 同じ文化圏においても視点の変化に応じて生じるシンボル形式の多様 性を意味するが, 他方, 一定の歴史的・地域的制約のもとで人々が共通感覚ないしはパラダイ ムによって生 み 出 す文 化 の 様態 を も 意味 して いる (- -61~62). カ ッ シ ー ラ ー の 『シ ン ボル形 式の 哲 学』 は, 異 な っ た パ ラ ダイ ム ない しは 〈共通 感覚〉 を理解 しよう とする 一つ の試 み である と いう こ と が できる であろう.. 国家の神話. 神 話 をシ ン ボル 形式 と して 解 明 した あと, カ ッ シーラ ー は神 話 的な もの をフ ァ シ ズム の 危険 と結 びつ けて. 解釈してゆく. 奇跡を起こす神秘的なものの威力こそ神話のもつ統制的機能であるが, カッシーラーによれ ば, 高度に発達した複合的社会にも同様のことが当てはまる. 途方もない経済的・社会的危機に際して, 神 話は人々に情緒的同意を与えることで政治的な機能を果たす. 現代の神話は, 技術的に産み出される. ナチ ズム が次 第 に力 を得, そ の 力 を強化 する 際, コ ミ ュ ニ ケー シ ョ ンと いう 技 術 的手段 が いか に重要 であ っ た か と いう こ と はすで に指摘 さ れて いる と こ ろ である‐ 全 体主 義 的 タイ プ の 政 治 家 は, 一つ の 人格 であり な がら. 同時に技術者でありかつ呪術師でなければならない. 「この新しい政治的神話は, ひとりで生育したもので 12.
(14) . シンボル形式としての神話. はないし, また豊かな想像力の野生の果実でもない‐ それは非常に老練で巧妙な技師によって作り出された 人工品なのである‐ 新しい神話の技術を発達させることは, 二十世紀, つまり, 現代の巨大な技術の時代に おいてはじめてなされたのであった. 爾来, 神話は現代におけるほかのいずれの武器--機関銃や飛行機‐ 0 - を作 る の と 同 じ意 味 で, ま た 同 じ方 法 で製作 さ れる の である」2 ‐. 全体主義国家では, 言葉そのものが魔術的機能を果たす. しかも, 合理的分析を要求するような表示機能 は排 除 さ れ, そ れに儀 礼 がと っ て代 わる‐ ナ チス 独 裁の あ い だ, ドイ ツ で は儀 礼 がき わめて 強 力 に用 い ら れ. た‐ 挨拶の規則から宣誓に至るまで, 集団の行進から日常生活の-こま-こまに至るまで, つねに儀礼的形 式が社会心理学的に利用された‐ 現代の神話は, 未開社会の神話と違って全体主義国家という文脈のなかで はじめて有効となるのであり, 人間に対して権力を行使する. 全体主義の文脈のなかでは, 政治的指導者の . 2 1 「予言的能力は, 新しい統治技術の本質的要素である」 ‐ そして, こうした機能の基礎を用意したのは, カ ッ ソ ーラ ー に よ れ ば, 哲 学 で ある. シ ュ ペ ン グラ ー は, 自らの 哲 学 を予言 と して遂 行 した‐ 彼 はわ れ わ れの. 一切の文化的理想の没落と崩壊が不可避である ことを説いた. 現存在の被投性を説くハイ デガーとこのシュ ペ ン グラ ー と は, 運 命 を歴 史の 威 力 と する と こ ろ で 共 通 して いる. カ ッ シー ラー は, 「文 明 の 没 落 と不 可避. の崩壊という暗漉たる予言を内容とした歴史哲学や, さらに人間の主たる特性の一つをその被投性のうちに 見るような理論は, 人間の文化生活の建設や再建に寄与する望みをすべて断念してしまっている」 と批判し 2 て い る2 ‐. 以上が現代の政治的神話の本性 についての論述であるが, カッシーラーは神話が社会において果たしうる 3 すな 創 造 的機 能 を十 分 認 識 して い ない の で はな い か, と ヴィ リ ー ン はG ・セ ッ バ を引 用 して 論 じて いる2 ‐. わち, ある社会の安定性と耐久性は, その社会の制度の合理性や憲法の原理の卓越性にすべて帰せられうる もの で はな い, と いう の である‐ 一 九二 〇年 のオ ース トリ アの憲 法 およ び ドイ ツの ワイ マ ー ル憲 法 は, 技 術 的優 秀性 と 合理 的 構成 の 模 範 であ っ た が, 寿 命 は短 か っ た‐ イ ギリス ・ アメ リ カ ・スイ ス ある い はス カ ン デ. ィ ナビア諸国というような政府の持続性は, 憲法や制度の優秀性によるというよりは, 確立された政治的秩 序の象徴化が優れていたことによる‐ この観点からすると, 最も合理的な現代の国家は, 上から国家の神話 を押しつけねばならなかった反合理主義的全体国家よりも 〈神話的に〉 優越しているという. 国家の神話に 基づく全体主義の社会と, 憲法の原理に基づく自由な社会との違いは, 前者における政治的神話の存在およ び後者におけるそれの相対的欠如に帰せられるものではない‐ 違いは, 全体主義社会では神話は理性の代わ り を し, 社 会 は全 体と して 神 話 的イ メ ー ジの なか で動く と いう こ と である‐ 一 方, 自由な社 会 で は, 神話 は. 理性の附属物にす ぎない‐ 神話は自由な社会でも働きはするが, いつでも理性の批判にさらされている‐ 自 由な社会における政治的神話は, 社会の原理を想像力によって具体化したものである‐ そのような神話が受 容 可能 で ある か否 か は, 神 話 が社 会 の 原 理 を どれ ほ どう まく 具 体化 して いる か どう か に か か っ て いる‐ 全 体. 主義社会では, そのような法廷は存在しない‐ 神話はそれ自身真理と見なされ, 別の神話に基づいて正当化 さ れる‐ 政 治 的神 話 の 論理 は未 開の 神話 の 論理 と 同 じである と する カ ッ シー ラ ーの見 方 は, おそ らく 正 しい. であろう‐ しかし, 政治的神話は, 社会における危険で破壊的な力となるという彼の見方は, 部分的にしか 正しくない‐ 神話は想像力による象徴化の手段として機能しうるし, 自由な社会で団結力を生み出すのに役 立つ. 全 体 主 義社 会 にお いて 神 話 が どの よう な役割 を演 じる か につ いて, カ ッ シーラ ーの 分析 はおそ らく 正 しい と言 っ て い い‐ だ が, 神 話 は国家の 合理 的な 概念 と両 立 しな い と する と ころ に問題 がある と 言 わね ばな ら な い であろう‐. ア ドルノ, ホ ル クハイ マ ーの 『啓蒙 の 弁証 法』 は, 科 学 技術 的矢α性に よ っ て最 高の 段 階 に到 達 した かの よ う にみ えた文 明 が, なぜ 理性 の 対極 とも いう べき ナ チ ズムの 野 蛮 と不合 理へ と 逆転 したの か を主題 と して い 13.
関連したドキュメント
(2) (2) 内在的性質< 内在的性質< KCN KCN である>は、他の である>は、他の
教育・保育における合理的配慮
これらの定義でも分かるように, Impairment に関しては解剖学的または生理学的な異常 としてほぼ続一されているが, disability と
ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配
と言っても、事例ごとに意味がかなり異なるのは、子どもの性格が異なることと同じである。その
実習と共に教材教具論のような実践的分野の重要性は高い。教材開発という実践的な形で、教員養
あれば、その逸脱に対しては N400 が惹起され、 ELAN や P600 は惹起しないと 考えられる。もし、シカの認可処理に統語的処理と意味的処理の両方が関わっ
「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない