トマス派自然法の起源に関する研究 : 自然法にある反省「中世法思想および新トマス古義法理に関する小研究」(20)
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(2) . vol .23 No .・. journalof Hokka ido Un ivers i i ty of Bducat i t on (Sec on I B). Sept . ,1972. ト マス派 自然法 の起源に関する研究 --ある自然法の反省 「中世法 思想および新 トマス主義 法理に関する小研究」20. 高. 坂. 直. 之. 北海道教育大学旭川分校法学政治学教室. Naoyuki KosAKA; A Study on the Source of TI ic NaturaI Law 叫--some Reaect i。ns of NaturaI Law, I0mist. 那80 i Z Zc /““s汐γ“叱“解 ” ser ‐rみの7“S es 20. 日. 次. 1. はじめに ロ. 近 世 に お ける トマス 派 自 然. 法衰退の原因 m, 中世法思想の再認識-- とくにトマス派自然法の再生 I V. トマス派自然法の淵源. 1 , 永久法について--アウ グス テ ィ ヌス と の ニ ュ ア ソ. ス 2 , 神法の地位と役割 V. 近代自然法の反省. 自然法の歴史は, 人類が絶対的正義を追求してきた物語であり, その失敗の物語でもある 過去 , 2 ,500年にわたっ て自然法概念は, いくたびも形を変えて現われた, その間, あるときは人びとか ら拒絶され, またあるときはあざ笑われながら, 理想追求の一表現として現 在まで継続している , しかし近世にはいっ てから自然法理論は, 鋭く対立する諸法理に阻まれた せいもあろぅか 問題は , ま だ そ の大 部 分 が 氷 解 さ れ た, と い う こ と に は な っ て い な い,. たえず変化してい る社会的, 政治的状態に応 じて, 自然法の観念も御多分にもれず, 当初からみ れば, かなり変容したものになっ てきた. 変わらないままに存在する唯一の 「もの」 は, 人びとが 実証法よりも高位の何ものかに対 して感ずる 「魅力」 だけである, この魅力は, しばしば現存の権 . 威をその対象として, これを正当化す ることに役立った し, また権威に反抗することも, この魅力 の対象とされたもの である, 自然法が, これま で幾多の機能を果た してきたことについて疑う者はあるまい. それはローマ人 i iv i l の古い市民法 ( usc e) を, 広い世界共通の組織に当てはめさせた主要な道具であった, また それは, 中世の教会とゲルマ ン皇帝との争いにおいて, 双方が使用 した有力な武器でもあっ た, 自 然法の名において国際法はその効力が保持さ れ, またその名の下に絶対主義に対抗して, 個人的自 由の強い要請が生じたのである, ことにアメリカの裁判官た ちが, 従来, 束縛を受けなかった個人 の経済的自由に対し, 国会があるていどこれを制限する法の制定をもくろんだときに, 憲法解釈上 これに断固反 対したのは, 実に自然法原則への強烈な要望からであったといわれている. 一 14 一.
(3) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和4 7年9月. ある学者のいうように, 自然法の全理念が具体的な政治上の抱負を偽善的に偽装す る も の と し て, これを論難することは容易であろう, 現にそのような政治上のかけ ひきに自然法理念が利用さ れた事例も時にはなかったわけではない, しかし自然法には, それ以上おそらく無限の価値ないし 有用性が存在する。 たとえ自然法が, 各民族の理想や時の重要な勢力の流れに密着した時代の理想 を公式化する唯一の方法であるとはいわれなくても, その主なる方法であったことは事実である, 中世の大学における神学, 哲学の教授の時代のよ うに, 社会組織そのものが厳格で, 他にこれ を制 約するものがない時代において は, その理想も静的かつ純 粋な内容をもっ ていた, ところが現代自 然法学説の大部分は, 自然法の理想を相対的, 形式的のものとしている, しかもそれらは, その前 後の時代と世界を満足させえない単なる 「ある時代の要望」 を表明しているにすぎない。 註) なるほ ど, いかなる時代, いかなる地域においても, より高次のあるものを求め, 価値の相対性 を意識しない者はないと思う, 一般に人間の社会的, 政治的, 生活において見られる不正と欠陥を 克服するため, これまで継続されてきた無駄な追求, 無益な言動をあ ざけることができるように, 自然法そのものをあざけるのは簡単である, 西欧文明は社会の不正, 不備を解決するためには, た しかに一つの極端から他の極端へ動く以外に方法を見いだせなかった, 人間が, ある絶対的理想にあこがれる熱望は, いかなる時代においても, その反応が現われなか ったことはない, ことに幻滅と懐疑の時代, 勃発寸前の反乱の時には, とりわけそうである. それ ゆえ自然法理論は単に理論的考察としての存在であるというよりは, しばしば強力な政治的ない し 法的発展を予告してきた存在でもあった, 自然法のもつ ダイ ナミクスは, まさにそれである。 中世の自然法はすべてスタティ クな存在であり, とくにトマス派 自然法は法学と神学の接点にお いて見いだされると誤解する者は, トマスがアリストテレスの実証主義をとり, 自然 法 の 中 核 に 「理性」 と 「自由意志」 を置いた理論展開に対 し, 故意に目を被うたとしか思われない。 自然法の 根源は第一原因に繋がるものであれ, その実体的要素において も第一原因の繋がりがなければ解明 できないとすることは, 少なくともトマスのものではないと思う。 要は, かれの説く 「真の理性」 ia) 「共 通 善」 (bonum commune) 「自 然 傾 i io) 「意志」(voluntas) 「良 心」 (consc ent (recta rat inat io) i l sinc 向」 (natural. な ど の 科 学 的 再 確 認 い か ん に か か る 問 題 で あ る, お よ そ ト マ ス 派 自 然. 法に関するかぎり, その 「実体」 とその 「根源」 とを混同してはならない。 両者は全く研究次元を 異にする命題である. この小論においては,トマス派自然法にかかる問題の多い「実体」の研究を しばらく離れ,以下その 「根源」 の究明に焦点をしぼるとともに, 自然法自体についての反省をいささか試みることにした。 註 J18, I Theory vv i edmann,Lega ,17{ , PP ’ Jew York ,1953 .Fr ,3rd ed. 1 1. 1 8世紀以後, 自然法理論が衰勢の一途をたどったことは, よく知られている。 それは, 義務至上 主義の客観的自然法に関するストア 流のトマス派教義が, トマスの本義にそむく多くの誤っ た自然 6世 法観念を派生した ことによっ て, その地位を奪われた からである。 トマス主義自 然法の逸脱は1 紀から始まった, この逸脱が, うかつにも自然法と, 一 方的な主観論のみに基づく道徳の命令とを 提携させ, また自然法をして独断的な社会契約, あるいは独特の社会経済的命令と, そ の行動を共 に させ た の で あ る,. 6世紀以降, カ ソリ シズムが提唱する学問体系のなかで述 このストア流トマス派自然法の教養は1 べ られてきたけれ ども, 他方それが広く無視されていた事実をも知らねばならない, というのは当 一 15 一.
(4) . vo 1 .23 No .1. 1of H0kka ido Uni i ーourna ion I B) i ty of Bducat t s ver OQ (Sec. Sep七 つ 1972. 時, 多くの法学者は, それをカソリック神学の補助的知識にす ぎないと受け取って, これにあまり 科学的信 悪性をおいていなかったからである. そのためこの教養は,1もはやそれまで享有していた 威信も服 従をも次第に得られ なくなり, ついにトマス派自然法の一般的衰退の機が熟するに至った といわれている, ー ) しかもこれに追い討 ちをかけられたように自然法はす べて, 今世紀初期に見 ら れた自然法浸食の発展に全く屈伏 して しまった. 浸食の明らかな原因と思われるものを, ア ドラー l (M. Ad er) 博 士 は 次 の と お り 示 して い る,2 ) 1 ( ) ナ シ ョ ナ リ ズ ム の 勃 興 ; すなわちポーダソ ( i J n) とその後継者による主権理論や, .Bod iani エ ラ ス ト ゥ ス 説 (Eras t sm) の 発 展 が 原 因 して, 「よ り 高 位 の 法」 理 論 は, 絶 対 王 制 に よ っ て 排. 除さ れたこと. 国家はあらゆる反対者を粉砕 し, 法の根拠はこれを力と命令に求めたことである . ‘Leviathan” と な て 現 わ れ た の は き わ め て 自 然 で あ た それがホッ プ ス (T. Hobbes) の ‘ っ っ , , 2 ) 資本主義の発生: 産業革命により, いっ そう促進された 「富の追求」 が正当視されたのは, ( 富は聖寵の 「しる し」 であり, 賢慮の徳の報酬であるという偽りの理由からであった. それが ブル ジ ョ ア ジ ← の 勃 興 と プ ロ レタ リ ア ー ト の 階 級 闘 争 に 派 生す る の は 当 然 の 経 路 で あ ろ う そ して そ , ,. れがまた権力 への渇仰と唯物主義への傾向に貢 献したことはいうまでもない. {矧 相対主義; これによ れば絶対, 普遍, 客観的基準や不変的存在概念はすべて否定され, 主観 主義がこれに取って代わるのである. その結果, 終局の真理を発見する可能性に絶望 し, 真理の存 在を拒否することになっ た, 4 { ) ルソーとロマ ン主義者たちの反主知主義; た しかにル ソー 一派の 「理性」 攻撃は, 古典的基 準と基督教的基準を拒否しながら, 「良心」 とか 「徳」 のような言葉を口先きばかり使用すること に よ っ て, こ れ ら の 基 準 の 拒 絶 を 隠 蔽 して い る, こ の ル ソ ー に よ っ て 始 め ら れ た 本 能 , 衝 動 そ して. 変わりやすい陶酔的な感情の讃美崇拝が, いっ そう 「理性」 の不信と沈論を進める結果になった, l シ ョ ー ペ ンハ ウ ア (A,Sc Ni l openhauer) l , ニ ー チ ェ (F. W. e[zscle) や ベ ル グ ソ ン(H. Bergson). に徴するまでもない. そこに, 法は命令であり, 力 (おそらく物理的なものでなく, 人民の投票を 通 して得たもの) は正義である と確信する根拠がある, {5 } 現 代 社 会 科 学 の あ る 反 対 傾 向 : コ ント ( 1 . A, M. F . ×, Comte) を は じめ, か な り の 学 者. によって熱心に提唱された 「科学時代」 到来の予 告は, 神学や哲学ばかりでなく, あらゆる方面に 科学的方法論を導入させた, スペ ンサー (H ) の統率の下に, 社会生活への進化的な生物 r ,Spence 学的研究 方法の適用は, 社会科学の発展に大きな影響を与えたと信じられている. しかしあらゆる 科学の発達のなかで, あるものは, 歪曲 した手段によっ て自然法の腐食をいっ そう促したことを知 lme らねばならない. ホーム ズ (0 ) 判事が 「人間と一粒の砂または猿との間に, 本質的 s . W,Ho 相違を見いだせない」 といったことも, 至極当然であると思われている, およそ分析の偏重と過度 の唯物主義は, これも度のすぎた 専門的分化と結 びつき, 自然法を冷笑する立場になるのは当たり まえである. その結果, 多くの人類学者は, 宗教を未開人の迷信の遺物と考え, これをそこまで引 き下げるべきだという. また多くの生物学者は, 人間を化学的要素の集合体とし, 同じく物理学者 の な か で も, 人 を 単 に エ レク トロ ンと プ ロ ト ンの 複 合 体 に す ぎ な い と す る 者 が で て き た. そ のほ か. 心理学者, 政治学者や経済学者 な ども, それぞれの学問的 領域から, 人間について独特の発想を用 意している. かく して 社会科学は自然科学の方法を盲目的に取り入れ, あげくの果ては人間全体の 的確な判断を見失っ て しまっ た, 圏. 自由放任主義と進化論との共働: 適者生存を示すことによ って生存競争理論は, マンチェス. タ ー 学派 (Manchester schoolofeconomi cs) の 自 由 放 任 理 論 と う ま く 適 合 した, しか しか れ ら の. いう 「進化」 が, 一般に神のごとき絶対性を有すると認められるかぎり, それは神聖冒涜にまで発 一 16 一.
(5) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和47年9月. 展する可能性をもつ. これが自然法を曲解す ることと, 密接に関連するのである, 7 ) 功 利 主 義: 自 然 法 に つ い て ベ ソタ ム (1 ( ,Bentham) は, こ れ を趣 意 の は っ き り しな い, し か. l l も誤解を生じやすいものと見ていた, ミ ル…○,S ) の哲学も, かれの古典的自由観に もかか . Mi わらず, 個人に対し一定限度の行為のみを許しているにすぎない. その行為とは, 国家の功利主 義 原則の下に統轄される人びとが, いかなる時にも個人的に許されるのを適当と思わせ る 行 為 で あ る. そこには, できるだけ広い分野の功利性を要望しながら, はじめは支配的な自由放任政策をと り, あとになると国家が各人に命令するようになるという最初のごまかしがあ った, それではしょ せん法は主権者の命令であり, 決して理性の具体的表現とはいわれない, in) と そ の 後 継 者 た ち に よ る, ベ t { ) オ ー ス テ ィ ン派 の 法 理: ジ ョ ソ・ オ ー ス テ ィ ン (J 8 , Aus. ソタミ ズムの法領域における展開は有名であるが, そこにも, もちろん法を主権国家の命令とする ことに対する挑戦はなかった, ) 人間行為の合理性を否認し, 人間の自由意思を否定する理 論 の 跳 梁: マルクス, エンゲル { 9 ス, トロッ キーや レーニ ンの経済的決定論は急速に浸透したが, それはまた唯物史観による自由意 思の攻撃によってさらに促進された。 そして合理化論者に対するこの新しい傾向をますますあおる ように, 第一次世界戦争が幻滅とシニ シズムを招来してくれた. この傾向は, つまるところ, いか なる人の理 生も, たとえそれが行動によ って獲得されたものであっても, それはその人の真の理性 ではないと したことである. 要するに, それはあらゆる合理化運動に対する懐疑であ った. 回. プ ラ グ マ テ ィ ズ ム; この思想の偉大な闘士 デューイ ( ) は, いうまでもなく教育 J .Dewey. 方面に大きな影響を与えているが, かれの自由論と, 紀律や基準を嫌悪するその態度は, JfJ , ルソ ーから直接引き継いだものである, それは功利主義と力を合わせ, 能率を極度に尊重して, 短期間 の目標に人びとを満 足させる結果, 本源的な目的という緊要な問題には, あまり関心を示していな い. したが って プラ グマティストは全体主義へ向かうような社会の流れについて, しばしば意識 し な か っ た と い わ れ て い る. 画. em): 周 知 の と お り, そ れ は1870年 に 法 学 教 授 方 法 に お け る ケ ー ス ・ シス テ ム (casesyst. ハ ー ヴ ァ ー ド大 学 で 始 め ら れた, い ま で は アメ リ カ に お け る 法 学 教 育 そ の も の を 示 す と い っ て よ. い, もちろんその利点を認めるのにやぶさかではないが, 法のより深遠な問題を見のがし, 哲学を 無視するオースティ ン一派に支配され, 法を社会科学と道徳から隔離する点, まさに反自然法的で ある, 倒的 8世紀の後半から20世紀の前半にかけて, 制定法が圧, ◎ 制定法の氾濫: 洋の東西を問わず1 権 の 強 に多数定立された. 原因は, 自由放任政策の廃止, 人道主義運動, 婦人と組織労働者の 利 化, 個人主義の衰退など, つまり は漸増してきた都市社会の必要からであろう. しかし問題は, 制 定法のおびただしい数量と, それに付与された公共性のために, 制定法だけが唯一の 「法」 である かの ごとく見られてきたことである. しかもそこにうかがわれる濃厚な技術的性格は, 制定法のほ とんどが理性とも道徳とも関係がないというように, 大方の人が観念しだ したことである, 人びと はこうして自然法を忘れてしまった, 3 9世紀末期の偽自然法によ る真の自然法への疑惑: スコラ哲学における自然法やアメリカ建 Q ) 1 国者たちの自然法思想は, ローマのそれのように心理学その他の学問と揮然一体をなす, それぞれ 9世紀末期近くから始ま った恐るべき物質的繁栄 独創性の強 いものであった, しかし欧米において1 が, 人びとを冷酷な個人主義へ追いや った事実は隠蔽できない, これに対して, 法的救済政策が真 剣に講じられた のも, 至極も っともである. 4条の 「正当な手続」(due アメリカでは, 自由立法に対する防御の目的から, 合衆国憲法修正第1 - 17 一.
(6) . VO1 ,23 No .I. i do Univers i i lof Hokka i Journa t t t on (Sec on I B) y of Educa. Sept , ,1972. ) 条項が, 各法の原則として定立された, それが法廷の専横を防 ぎ, 現状維持の防波堤と oc e s s pr なったのである. この 「正当な手続」 条項の解釈が, 他の一連 の修正箇条よりも, 効果においてよ り包括的に, H. ス ペ ンサー哲学の保守的自由放任主義を憲法のなかにしみ込ませたとい わ れ て い る. アメ リカでは 「正当な手続」 条項 の下に, 問題のある成文法を無効にする動きが 次 第 に 強 ま 927年の7年間は, その前の52年間よりも, 社会, 経済立法の領域における法令が り, 1920年から1 多数無効とされた。 そのため, あたかもその条項は自然法的原則であるかのごとき観を呈 し, かな りの識者が, そう信じていたとのことである. ところが最近, 自然法学者によ って, この条項は社会的, 経済的支配階級の利益のために用いら れ, しかも人道主義立法の障害物として利用されていたという議論が起こり, 現在それを認める傾 向がますます強くな ってきた, これが認容されると, それでは何が真の自然法かという困難な問題 が浮んでくる, これが自然法概念への哲学的介入を再現させたのである, そ してさらにそれを推進 したのは, 唯一の自然法を求めてやまない感情的な 「義憤」 であ った. こうして一時軽視された自 然法の法哲学的研究, とくにトマス派自然法の究明が, 終戦を契機として再度脚光をあびるに至 っ た の で あ る.. 註 1) B. F. Brown . ,3~4 ,PP , TAB 入超粥rd Lα勿 ReαdB New York,1960 ‘Uni fおs i たのz″〆 上破り P‘ t 2) M. Adl t t z eo o力勿,in ‘ v re Dame Na uraILawl ns ute er fハ z .of Noヒ , 丁力β Docかわ ” Proc eedings . 67(J68 . ,pp , 1949. 近年, 全世界を通 じて自然法の再生を見たことは, いまさらいうまでもない. それはとくにヨー ロッパにおいて, いろんな形で力強く復活した. フラ ンスでは, 実証論者の社会学的法理から新ト is r マ ス 主 義 法 理 ま で, か な り の 振 幅 を 示 して い る, ま た アメ リ カ で は, モ リ ス ・ ゴ ー ヘ ン (Mor. R.Cohen) の倫理的合理主義自然法をあげねばならない. 自然法理論の興味は, スコラ的, 非スコ ラ的を問わず, 40年代の初 めに大きく急激に広ま った, とりわけ, アメリカにおける新スコラ的法 哲学運動は, 目ざましいものがある。 現在はさほ ど大きな成果を収めているとはいえないが, 少な くともそれはアメ リカ文化の完遂に着実な機能を果た してきたといえる, ー ) しかもその 運動 は単に アメ リ カ ば か り で な く, イ タ リ ー, フ ラ ンス は も と よ り, ドイ ツ, ラ テ ン・ ア メ リ カ に お い て も,. 地味ながら堅実に展開されている. 自然法の復興は, つまり今世紀の二大世界戦争の結果, 法的, 政治的行動の様式としての実証主 義が, その無効性をさらけだした ことを意味する. 今世紀初期における多くの法実証主義者は, あ る固 定 した道徳秩序を絶対的公理として, その継続を純真に頼みとしていたものである. ところが この二大戦争は, 全世界を通 じて, 法学者の道徳的信念に対する一大挑戦を生じさ せ た, そ の 結 果, 実証主義者のひとりよが りの自己満足は, 国家を超越した正 しい理性と自明な個人尊厳の原則 にもとづく基準の追求に屈服 したのである. ここにおいて政治的正義と法的正義のための公式を発見 しようという 運動が広く展開されるに至 ,実際的貢献は, ョ‐ った, それが自然法理論の復活を導いたのである. 社会学派の目的論的功績と ing) に, ア メ リ カ で は パ ウ ン ド (Roscoe Pound) に よ l ロ ッ パ で はイ ェ リ ソ グ (Rudorf von j l er. って, きわめて巧みに首唱された. しかしかれらの主張は, 少なくとも非実証論的な社会学的 「理 想主義」 を求める法的要請を満 足させるには, 明らかに不適当である, ) この要請に答えることの 2 できるものは, ひとり自然法哲学をおいてほかにはない. なかでもトマス派法理こそ, 現在流布し 一 18 -.
(7) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和47年9月. ている潤いのない荒涼たる諸法理に代わるべきものと信 じて疑わないが, われわれに対する法実証 主義者の痛烈な批判も, け っ してゆるがせにできない問題である, 目下, 自然法, ことにトマスのそれに対する攻撃は, これを三つ の方面から受けている, まず第 一に, それは 「研究のための研究」 であり 「道徳の野蛮性」 を露呈しているにすぎないという反論 である. 第二の攻撃は 「近代性の欠如」 を理由に, 第三は 「この研究の価値内容に関する疑念」 を 攻撃材料にして向か ってくるものである。 3 ) 思うに 「研究のための研究」 は確かに価値ではなく, また価値になりえない, しかし, お よ そ 「価値」 は, 限られた社会であれ, その構成員が貴重視する 「もの」 にこそ生ずるという べきであ る, とすればわれわれの追求する知識が無価値でありようわけがない. また, われわれには学問選 択の自由が保障されている。 この選択の初めに当た って倫理的に無色な態度は許されない, ほかの 研究を排して現在の研究を重要とするところに 「価値」 の決定, 「善」 の決定がある. われわれの i i b l lnv e Hand ) が導いてくれる」 研究は 「自由な研究さえしていれば, あとはく見えざる手 > ( s という責任逃れのものではない。 自己を懐疑し, 自己を批判することは, なにも中世法思想を学ぶ者にと って目新しいものではな い, それが自己破壊につながるのではなく, かえって自己発展への道程であることは 明 ら か で あ る. 中世の欠点をすべて認め, その法外な政治的支配権を認めながら, 他方, 中世以後の法学なり 政治学なりの業績に多大の敬意を表することが, むしろこれまでの一 般的傾向でもあった, だが, それでもなお中世の法理念には, 他の法科学では満た しえない正当性, 重要な役割があると主張で きる, その意味においてわれわれは, 中世と断絶できる ものでない. 人間に人間らしさが認められるかぎり, 人間は過去と未来とを共に持 っている生き物である。 長 いあいだ地球だけに閉じこめられていたのが, いまやその限界を越えようとしている生き物, 目を 見はるような革新に驚き, 過去に対する罪の意識と現在, 未来に対する不安に取りつかれている生 き物である人間は, ますます敬度な法・政治理念から顔をそむけられない生き物である, とはいえ な い で あ ろ う か。 in Luther Ki t キ ン グ (Mar ng) 師は道徳法に訴え, 人種差別立法が無効であることを 論証する t Marcuse) は, 産 業 資 本 た めに, ア ウ グフ 、テ ィ ヌ ス と ト マ ス を 引 用 した. マ ー キ ュ ー ズ (Herber. 主義を個人の最も好ましい発展を阻害するものとして, 数々のデータを分析しながらこれを攻撃す ich Fromm) は, 共 産 主 義 は 人 間 疎 隔 を 克 服 し, ヒ ュ ー マ ニ ゼ ー シ ョ ンを 促 る,4 ) ま た フ ロ ム (Er. 進すると, これも巧みな実証論を開陳 している, ) しかし, かれらの表現する用語がいかに新 しく 5 然法理論に対し 人間性概念を修正した その内容は過去の自 ても, , , ある目的論的価値を付加して い る に す ぎな い.. およそ民主理論に関する現代の著述家たちは 「自然権」 よりも, むしろ 「人権」 な る 表 現 を 好 み, 「人間性」 よりも 「人間尊重」 の字句を選びたがる. かれらにとって, ナチのような暴虐行為 は 「反自然的」 であるというよりも, むしろ 「非人間的」 行為として目に映ずるのであろう. つま り自然に反する犯 罪であるというよりは, 人間性に反する犯罪といいたいらしい, こういった違い ‘human i t s“ という理想的な観念から生じながら, 一方は自然法論者が用いた同 a は, いずれも ‘ じ方法を取らないだけの相違で ある。 ) 6 と も あ れ 最 近 に な っ て, 自 然 法 な る用 語 は, 単 に ヨ ー ロ ッ パ や ラ テ ン ・ ア メ リ カ の 旧 教 文 化 圏 ば i tain) の か り で な く, 広 い 分 野 に 好 ん で 用 い られ る よ う に な っ た, こ と に マ リタ ン (Jacques Mar. ような新トマス主義哲学者が提唱する自然法理論は, 基督教民主党の綱領やイ デオロギーに直接の ) は, 「自然権」 をかれの思考の枢要 r aus s 影響を与えている, 政治哲学者シュトラウス (Leo St 一 19 一.
(8) . Vo l . 23 No .l. ion I B) ido Uni i ion (Sec f Hokka lo t t journa s ver y of Educat. な 焦 点 と し,7 ) リッ プマ ン. (Walter Rippmann). Sept . ,1972. ‘The Publ ic Phi l も, か れ の ‘ osophy” に お い. て, 自然法は純粋な立憲民主主義に避けられない哲学的必須条件であると論 じている. ) 8 ダール (Robe l t Dah ) もいうように, 自然法に関する最も重要な公式表示と文献は, 過去のも r の--ときには非常に離れた過去のもの--のなかに見いだされる, ある場合, 自然法理論は, 時 代遅れになった世界観と古い事際上の知識に頼っているといわれるかも知れない, しかし政治的お よび道徳的価値の批判領域において, 価値ある知識は, 最近の著書以外に見られないと思うのは鰍 慢である. 過去の (現代からかなり離れた過去でも) 深遠な著作のなかには, 現在未解決の問題の 何たるかについて, われわれの注意を喚起したものが少なからずあ った, そして, そ れ ら の 著 作 は, 答えを求めて苦闘する独創的な考えに, かなりの, あるいは最上の成果をもたらしてきたはず である, ) 今世紀後半におけるトマス派自然法の復活は, それゆえ決して偶 然でない. 9 註 1) B. F,Brown, 噂.c鷲. , ,30 ,P 2 ) W. Friedmann, の, df, ,17~18 , ,pp d ‘ ‘ e の雄 治の肌e 3 ) 日 米 フ ォ ー ラ ム, 第17巻,,第 2 号, 1971, 41~51頁 (from B. D, Hirsh,jr ge 如 . , Vq′ ・ Amer “ 月“ i i t ences ”の2紡ぎ郷,in. ; can Academy of Ar sand Sc , , 1970). ton 4 ’ zの 賜お“ e D‘粥e“”o ) H. Marcuse .6 , のz , Bos . ,P ,1964 f ′ 5) E. Fromm, rゐB Sのz e sode j .236, ,p ,1955 , New York i i dge i s 6) P. E,Sigmund, 人履物‘mZLα乙 び わz Po熔化αZ T! o z増膚, Cambr z . , ,1971, PP,Vi~v , Mas f P C 〆 猛禽如 h i 1 5 3 e 入 超加 ZR / 膚 9 r e 7) L,St a c α ” c a o raus s g 川 か, g , , , , ′ ′ 虐y, New York e p‘ゐ”c PZ o s堰〉 8 ) w, RiPPmann, r〆 z Z ,8& 11. ,195 ch l d 1 , N.J ′ Z ‘に郷 Aれα夢瀞s 9 odeγ” Po ) R. Dahl ,vln, , ,P , 1963 , ル名 , Bngewoo Ciぼs. トマス派自然法からの発想によれば, 国家は必要による人間性の創設にかかり, 人間の自由意思 の介入なく しては実現できないものである, しかしそれは, 行動の自由がもたらす単なる独断的行 動の結果ではない。 つまり国家は人間の行動を通 して, その存在と形体を得たということである, それは直接神の行為による創造ではなく, すべていろんな人間的要素に依存しているというべきで ある. したが って民主主義, 君主主義を問わず, また国家主義, 連邦主義のいずれであれ, 政体に 関する諸原則は 「神権」 を有するわけがない. しかし, たとえ各国家の組織構造および行動は, すべて 「人定法」 (Lex humana) に よ る か ら, i ) には準拠 しないと しても, およそ国家の組 vina 福音書に示された実定法である 「神法」(Lex d 織, 構成およびあらゆる対内, 対外政策は, 人間の性質と目的の概念から生ずる自然法の第一原理 i i ima p inc r a) に従わざるをえない. この自然法原理は直接明白であり, 全宇宙の秩序であ (pr p る 「永久法」(Lex aeterna) の 認 め る と こ ろ で あ る. こ う して わ れ わ れ は 中 世法 理 の な か で, 正 義 と力との関 係という一つの決定的な問題に想到する, 歴史の繋明期に当た って原始的文化を作りあげた人びとは, 不変の神法と, 単に変異する人定法 との間に区別を設けられなか った, また, 外部に現われた行動を律する法と, 良心を支配する道徳 法との区別も, まことにあいまいである, あらゆる法は神にその起源を発 した. 社会およ び個人生 活の全秩序は, 神によ って制定さ れた秩序であり, 種族の神々によって聖なるものとされ, 保護き れ て い た の で あ る, した が っ て 古 代 ギ リ ツ ァ 人 は, 当 時 の ゴー ル (Gaul) 人, ゲ ル マ ン人 やイ ギ リ. ス諸島の人びとと同様にす べての法 (裁判の, 道徳の, 儀式の法) は神法であ った, それらはみな 秘跡の性質をも っていたといえよう. その初期の時代においては法に区別なく, すべてが人間の椎 - 20 -.
(9) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要(第一部B). 昭和47年9月. 理を越える神法にほかならなかったから, 聖職者が一種の神秘科学としての法学を発達させ, また かれらは裁判官として行動していたのである. 古代, 中世においては聖職者 が (基督教徒もまた) 正義の執行者であ ったためか, 福音書においても, 聖職者である裁判官に関する書は, 主に関する 書の前に位置 している. この根源的な神学的 (いわ ば司 祭の側に立つ) 法を推進させ, これを顕著 な ら しめた も の は, 実 に そ の 法 の 「不 変 性」 に ほ か な ら な い.1 ). 自然法の観念は, 理性が 「あらゆる法は不変ではありえない」 と悟 ったときにのみ起こるも ので ある, すなわち法はす べて不易で神聖な 「神法」 ばかりでなく, 人間の定立による変異する法もま た存在することを知ったときに起こった. この人定法は人間の意思にもとづき, 実際上, 道徳上の 服従を要求し, 強制力をもつ人的権威を確立しないわけにはいかない, 結局このことは, 政治的権 威の最上の組織, つまり国家の最善の型に関する問題へと, われわれを導いてくれた. ところ が人 定法, ひいては自然法が導くいま一つ逆の方向がある. それは自然法が, 各種族の神秘的な神々を 廃することによ って, ある種の 「啓発」 に貢献し, そ して理性を, 全知全能の法制定 者 が 与 え た 「永久法」 の理念へ向かうように導いてきたことである. ここでいう全知の法制定者とは, 同時に 全能の意思と完全な理性を意味する. アウ グスティ ヌスによれば 「人間がみずから道徳的決定 をす るように, 一種の道徳的啓蒙により, かれらは永久法の不変原則を徐々に教えこまれた」 ) のであ 2 る.. ここにおいて中世, とくにトマス派自然法のよ って来たる淵源は, 「永久法」 と 「神法」 である こ と を 知 る. 1 ,. 永 久 法 に つ い て - - ア ウ グス テ ィ ヌ ス と の ニ ュ ア ンス. 人類を支配する自然の理性ともいうべき自然法は, 全能の理性によ って支配されている宇宙の秩 序, あらゆる事物の支配の理念である永久法の一部に該当するものと して考えられる, それゆえ人 間の領域においては, 永久法は, すなわち自然法でなければならない. つまりわれわれ が自然法に 従 う こ とは, 永 久法 に 従 う こ と に な る. そ こ で ア ウ グス テ ィ ヌ ス は 「永 久 法 は, わ れ わ れ が そ れ に. 対して常に一致 しなければならない最高の理念である」 3 ) とい っている, しかもこの 最 高 の 理 念 S i ( ummar ato) と呼ばれる法は, 何ぴとにとっても変化することなく, また永遠的で あ る と い う, 永久法とは, それによ ってあらゆる事物が自らにふさわしく秩序づけ られることが正 しいとさ れる法であるから, 悪しき者は 悲惨な生活を, 善良な者は至福な生活を, その報いとして与えられ る法でもある, とかれは理解した, 「神国論」 においては, いかなるものも, 決して 宇宙の平和を つかさ どる至高の創造者であり支配者である 「もの」 の法を回避できない, 4 ) といっている. かれによれ ば自然法は, 特別な啓示によらずに, 理性を用いることによ って, あらゆる人に発見 l ogus) が さ れ る法 で あ る か ら, 一 つ の 普 遍 の 法 で あ る. そ して そ れ に よ り, モ ー セ の 立 法 (Deca. 与えられなか った異邦人は裁かれ, 罪びととされるという. かれはまた, この自然法を信心深い人 l ege Dei aetema) と して 説 い た, な ぜ な ら, 理 性 に び と の心 の な か に書 か れ た 「神 の 永 久 法」 (. まさった人間が良心のなかに感得する自然法諸原則の根源は, 絶対の真理 (Gods Truth) にほか ならないからである. この永久法からモーセを通してイスラエル人に与え られた法が写されたとす る.5 ). 人定法はいかに多様であっても, それは人間の行為を共通善 (bonum commune) に向かう秩序 へと導くという 点において一つである. したが って, この秩序の理念である永久法は当然一つでな け れ ば な らな い.6 ) ア ウ グス テ ィ ヌ ス に と っ て, 永 久 法 に 起 源 を 有 しな い 俗 世 間 の 法 に は, 何 ら正. 当性も合理性も存在しないことになる. もっとも, かれが最後の40年間に書いた作品には, どこにも実定法が効力ありとすれば, それは 1一 一2.
(10) . VOー .23 No .・. i do Univer i i i l 。f HOI ka f Bducat t t Journa on I B) on (Sec く s yo. Sept . ,1972. igione” に お い て 永久法または自然法に適合しなけれ ばならぬとは述べていない。 “De Vera Rel も, かれは控え目に 「立法者は (も し善良に して賢明ならば) どんな行為を命令し, または禁止す. るかを, 永久法の不変原則をしん しゃく して決定する」 7 ) と述 べているにすぎない。 アウグスティ ヌスは, も し支配者が不賢明または邪悪で, 法を定立する際に永久法を無視するならば, それらの 法は効力もなく, 人民はそれらに服従する義務はない, とはい っていない. またかれは, 人民に, そのような実定法が有効で服従す べ きかどうかを, 自然法または永久法を考慮 して, かれら自身の た め に 決 定 す る 権 利 を 認 め る, と も い っ て い な い. こ れ ら に つ き は っ き り 答 え て く れ た の は トマ ス で あ る,. アウ グスティ ヌスには, 人類が永久法に順応 し, それに埋没することにより, かれらの存立を全 うして, 合自然性を獲得することになる. かれが自然法を人間精神における永久法の 模像であると した8 ) の は こ の 意 味 で あ る.. 人 類 は 永 久 法 に 対 して, い わ ば 受 動 的 で あ る と い っ て よ い.. トマ. ‘Summa Theologica“ la l lae q D l スは永久法に関し, 主として ‘ , , .93, ( e ege aetema) を 中 心 に, その理論を展開しているが, 悠久たる秩序に対して果たすべき人類の役割, つまりそ の参与に ia トマ ス は 純 粋 に el lt 力 点 を お く, と い っ て 永 久 法 に つ き, ア ウ グ ス テ ィ ヌ ス は 明 ら か に oboedi ,. i i i t t r c o の関係にあるという意味ではなく, 両者は微妙な程度の差があるにすぎない. トマス pa pa は永久法を論ずる際に, よくアウ グスティ ヌスを引用 しているのが, 何よりの証拠であろう. . それは人間におし ・ては 受動的に自 全知全能の本性に合致するその意志として永久法がある場合, 然法であるといえる. しかしそれは永久法の人間に関する領域においてのみ, 自然法がこれに 「該 当」 するという意味であり, これと 「同一」 であるという趣旨ではない. 自然法は人間の意志と理 性によ って獲得しうるのに対し, 永久法は全能の理性が創造 した普遍の秩序をいい, 両者はいわば 命題としての次元を異にしている からである, ius ) は, 自然法の不変性を示すために 「たとい神が与えられ な く て も グロティ ウス (H ot . Gr i deus non da tu (et r s e r ) 自然法は妥当する」 といった. 9 ) ここにおいて永久法と自然法とが完全. に分離され, 人間理性の自律性, 合理主義的自然法の発展をみたわけである, トマスの永久法, 自 然法分別の意味は, もちろんこれと真向から対立する. 前にも触れたように, かれは人間の自由意 志と真の理性の働きによって感得される自然法は, 永久法の霊的波造物支配の原理に当てはまると したにす ぎない. かれは永久法をも って, 最高の統治者による政治計画とするから, その下部組織である支配者が なす全政治企画は, 永久法から引き出さねばならない. つまりあらゆる法は, 真の (正しい) 理性 に符合するかぎり, 永久法にその起源を有する. かれは 更にアウ グスティ ヌスを引用 して, 次のよ うにいっている. 「人定法において, もしそれが人によ って永久法から引き出されるものでないな imum lest jus tum acl t i egi n temporalilege nihi らば, それは正 しくもまた合理的でもない」( , ibi derivaverunt 1omines s quod non ex lege aeterna l ,. s 粥“, rたのZ l lae q 93 a 3) , , al , . ,,. トマスは人間以外の被造物は, 無意識に永久法に順応するものであるから, 永久法に反する方法 で行動する自由はないと した. ただ人間のみが, この永久法違反の行為をな しうる. したが って人 間は, 自己に関するかぎり永久法の何たるかを知らねばならないが, がんらい人間は永久法につい て, 皆多少の知識をも っているはずである, なぜならわれわれ理性的被造物は, 理性の力によ って 自然法に関する知識をす べてある程度は獲得できること, そして自然法は人間性と人間の自由な行 1 ゑのム 為の領域にかかわる永久法の 一分野に適合する ものだからである. (S“粥. 7 ,la llae, q.91, a .2) そこで道徳律の永遠にして超越的な基礎, すなわち永久法をあらゆる法の 出発点としなけれ ば な ら な い. 一 22 一.
(11) . 第 23 巻 第 1 号. 北海道教育大学紀要 (第一部B). 昭和4 7年9月. l i eg s cor- 永久法 (さらには自然法) に対立するような実定法は, それは法でなく, 法の堕落 ( io) で あ る (S“粥. rゑgo乙, la l lae rupt , 2) 実 定 法 は 正 しい 理 性 に 従 っ て 定 立 き れ る ,q , 95, a. こ関, し, 実定法が永久法から生ずるものであることは疑いない, かぎり法の実質を有する, この点ひ l i 実定法がもし理性に反するものであれば不当な法 ( ex in qua) といわれ, それはもはや実質的に iae cuiusdam) の 性 質 を 有 す る。 (SZ“”. t s viol 法 で なく, む しろ あ る 種 の 暴 力 (sed magi e l l r力のん la llae, q. 93, a, 3, ad 2um). トマスによ って強調された実定法における人格性の精神的な側面は, 明らかに永久法に順応 した も の で あ り, そ れが 現 代 の 充 足 的 ヒ ュ ー マ ニ ズ ム と 呼 応 す る こ と に な る,. 2 , 神法の 地位 と役割 l 永久法, 自然法そして人定法という法の三段構造のほかに, 実証法たる 「世俗法」 ( ex tempo- l i ex divina) の 解 説, そ して そ の 永 )- --人定法一一に対比させて同じく実証法たる 「神法」 (l ra s 久 法, 自 然法 との 関 係 に つ い て は, す で に ア ウ グス テ ィ ヌ ス に よ っ て 先 鞭 が つ け ら れ て い た. か れ. は 「パ ウロが いうように, モーセを通してイスラエル人に与えられた神法でさえ, 堕落した人間を 救済することはできない. なぜなら神法は, これにそむく罪を原罪に加えることによ って, 人間の 罪の重荷が加重されるにすぎないからである」 ー ) という, まして書かれない自然法は, 実定法であ o る神法よりも, 救済の媒介物として作用する可能性は少ないとみなければならない. これを可能な らしめるのは, 信仰と基督の血の秘跡であるとかれは説いた. それゆえ不信者が自然法の規律を完 全 に 遵 守 して も, 真 の 徳 を 得 るわ け に は い か な い と い っ て い る, l ianus) の 半 ば ペ ラ ギ ア ニ ズ ム (Pe l agiani sm) 的 傾 向 を 論 難 か れ は ロ ー マ 皇 帝 ュ リ ァ ヌ ス (Ju. したなかで, 「あなた (ュリアヌス) は, 基督への信仰からでなく, 自然法によ って神を喜ばせる ある種の人間の先導をしています。 基督教会があなたを嫌悪する主なる理由は, まさにそれなので す」u) と難詰した, かれはく無神論者でも, ある道徳的判 断, すなわち善悪の識別とか, 人間がい かに振舞うべ きかの判断はなしうるが, このような判断をさせる正義の理念と形式は, 絶対的真理 (全知全能の真理)の 「影像」 あるいは 「影響」 である〉と説いている, 1 ) かれにと って絶対的真理 2 の影像は, すなわち神法であるから, 神法こそ正 しい判断の基準を示すものといわざるをえない, トマスはこの理論を更に昇華 し, これにい っそうの科学性を与えながら, 自然法ない し永久法と の関連を明らかにしている. およそ神法は, 人間のみに係わることにおいて, 永久法と異なり自然 法と類似していよう。 しかしそれが超自然的内心をつかさ どる書かれた法であるという意 味におい て, きわめて理性的な書かれ ざる法である自然法と一線を画している, i t t as ) にまで導くことを目的とする. (S““ つまり神 法は, 人間を永遠の幸福 (至福--bea z , l r卿oL 1a l 9 8 1 それが新約の法であるかぎり信仰の法 a ) a e 愛の法といわねばな らな q , , , . , lae q.107, a い. (S”“z , 108, a ,l ad2;q , r卿oL 1a l , 1) 旧 約 の 法 と して の 神 法 は, 人 び , 1 とに新約の法を約束させ, そして人びとを新約の法へ導くものである。 (&‘ “ 2 ,7ゐのん lallae, q,. 8 9 ) それゆえ新約の法によ って, 神法はついに完成されたというべきであろ う. .2 ,a この神法の助力があってこそ, は じめて自然法は万物支配の理念である永久法に順応 して, これ に参画できるのである. トマスは不文法である自然法を理性と意志によって獲得す べきことを教示 したが, 人間の理性なるものは, 環境により時流に沿 って変わらざるをえない. では真の理性は, これをどこに求めた らよいのであろうか。 中世の教会法学者は, 自然法と実定法たる神法の示すと io divina) を 培 う こ と に よ っ て 正 しい 理 性 (recta rat io) に 到 達 で こ ろ に よ り, 聖 な る 理 性 (rat き る と して い る,. およそ自然法と神法は, 「自然事項」 と 「自然および超自然事項」 という適用範囲の広狭はあ っ ー2 3一.
(12) . Vo l .23 No.I. i iver i lo ido Un i f Hokka t t Journa on (Sect on I B) s y of Bduca. Sept . ,1972. ても, その対象は同じく人間であるから, 両者共通の原則をもつことが多い. 旧約の神法である ianus) は 自 然 法 で あ る と 説 い て い る こ と な ど, 「十誠」 (Decalogus) を, グラ テ ィ ア ヌ ス (Grat まさにその例であろう. それゆえ神法はまた, ある意味において実定的自然法であるともいえる. そ して少なくとも実定法である神法の真意を汲みと ったのちでなけれ ば, トマス派自然法の胸底は 開かれないと覚悟しなければならぬ. かく してこそ, われわれは永久法の何たるかを知る 「いとぐ ち」 を つ か む こ と が で き る の で あ る,. 以上を通観するに, トマスは人間に対する神法の必須理由を四つの方面から論じていることが分 か る,1 3 ). まず第一に人間は, 各自のもつ自然能力を越えて 永遠の至福という最高の目的に向かって秩序づ lae ”. r卿 〆. け られ て い るこ と を 認 め な け れ ば な らな い. (S“’ ,5) と す れ ば, 人 間 ,la l ,q.5,a. は自然法と人定法のほかに, 神授された法によ って規律されるのは当然であること, t 第二に, 人間的行為 (ac ushumani) に 関 す る 判 断 は, 人 に よ っ て 違 う こ と が よ く あ る, そ の た め雑多な人定法も, 人間の判断の不確実性からくる不統 一がみられ, あるいは相互の矛盾さえ看取 めには, 誤りのない神授の書かれた される場合もないではない, , 人が行為, 不行為の基準を知るた 法が必要であるということ. 第三に人定法は, 外面的行為を規律するにすぎない, 内心の働きに効力をおよ ぼすのは神法であ る. 人定法について神法の付加が必要なのは, まさにそれであるということ. 第 四 に, トマ ス は ア ウ グス テ ィ ヌ ス の 「自 由 意 志 論」 を 引 用 し, (DB Z訪 伊o αγ鰯か ね L, 1,. c ,6) 完全無欠な人定法の不存在を強調し, すべての罪悪を取り除こうとすれば, かなりの善をも i jur ia 犠 牲 にす る お そ れ が あ る と い う, (ロ ー マ の 古 い 法 諺 summum ius . に も 対 応) , sum ma n. したが って, あらゆる悪徳を封ずるこの実証法 (神法) が, 感得するのに多少の知性を要する諸原 則を含む自然法のほかに, 必要とな ってくること, 以上である. つまり神法は, 人間がより高度な方法で永久法に参与できるように, 自然法に付け加えられたも のと理解 しなければならない. トマスの 「異教徒大全」 には, 自然法を補完するために人間に示さ L n C.117) s 7 7 g れ た も の と して 神 法 を 説 い て い る, (S”’ ’ 2 2α Cのz存α GB〃“‘ , ,1 ,. 註 2 Cα数磁化 rメのる智彦,St ’ e S卿蛇 i s 1) H. A, Rommen, TZ 2 ,153~155, ,Loui , , Mo , PP ,1950 乙 幼g nのdd/ B Age s o soPあ′“ 2 ) A. Hyman & J.J, Walsh, P賜′ . ,p.17 , New York ,1967 る8 3) DB ムま γo Aγ厳存ね L.1,C .6 . ‐ 玄 〆 4) De c 妙“〆e De . , X1x,4 i Z e 云おα‘α7 2α Sod可 たをαso タ z ヂ S‘ 5) H. A. Deane .87 . , Aき埋2瞬ぎ ,1963 ,P , T卿 PO , New York 〆 ≠ 6 oc ) りg 乙するeγo Aγ鋭存≧o .c ・ ,! ′を〆 7) De Ve氾 尺g o“e . ,xxxi ,58 L 1 8) De 上効e ro Aグる緒パリ . ,15 , . ,c As f z ‘′昭雄 α“〆 s ‘の’〆 9) H, Romme口 oメメ 猛海Z oか の雌 P廟′ o s oが現 t r an s ’ .by , Tんe 人毎加 川Z LαW, d L 4 T, R. Hanl 1 9 4 9 6 ey o n o n , . , , ,p ざ 10) DB Cぼ り鳶のe De . ,16 ,xxi ごγα ノ””の粥“ z 多 11) CO’ ・ , w, m,23 12 ) De Tγ加#”云e . ,21 ,xiv , Xv. . 〆 Z Z l l l ‘た〆 丁んg l l “ 動e W偽ご ed αe卿‘ PO oり’〆 e 13) R, W, Car e & A, J y y .v , Car , vo , , A 猛禽『oが qf ルZ London . ,p ,40 ,1950. V. 自然法の研究には, イ デオロ ゴー が 結 び つ き や す い と, よ く い わ れ て い る. しか し トマ ス 派 自 然 4一 一2.
(13) . 第 23 巻ー 第 1 号 万. 北海道教育大学紀要( ーロ B) 第一部 旭 月 ・子ホ. 昭和47年9月. 法研究者にと って, この批判は, きわめて心外 というほかない なぜなら両者の結合 を許すと イ 。 , デオロギーは, 往々にして初めから自然法の結論を予定 してしまうことがあるからである ことに , 自然法研究者のなかで, 両者の結びつきに反対しない者がいる場合は なおさらである , . だがそうなれば, 自然法の研 究そのものがイ デオロギーに仕える 「しもべ」 の役に堕し 内容の , ないただの 「演技」 に終わることになりはしないか その結果 自然法研究者に残さ れたものはと 。 , いえば, 実体のないジェスチャーだけである. それが行きすぎると 自然法の研究に 疑惑の芽が生 , じ, それが高ずるにつれて研究者自身, 無力感 相対意識 ついには懐疑論に陥らざるをえない , , . 欧米のトミストたちは, あらゆる誹 藷を払いのけてこの懐疑論と戦い トマス派自然法の 科学性に , 自信をもたせ るべく努力してきたものである. い ったい科学性なるものは, 19世紀このかた, 人間性の喪失を招来する実証主義の 別 名 で あ っ た. 現在ではそれが, 技術による生活の非人間化という意 味にな っている もしこれ を肯定するな , らば, 自然法に科 学性などありようわけが ない. ところがトミスト た ち は こ れに 対 して反論 し , 続け, 時流におし流されそうになりなが らも, 周知のごとく敢然として戦ってきた そして自然法 . の科学性と健全性を決定する要因を, その価値諭的自信においたのである . 先哲による仮説が試めされて, その属する共同社会において他人に・ 伝承されると, その内容は人 によ って別な形をとり, それがまた試めされてそれぞれに表現される われわれは この過程のな , , かに価値関係を見いだしてきた. 新トマス主義自然法は このようにして個人と時間を超越 した貢 , 献を果たし, 正統な科学的性格を帯びて発展 してゆく, この認識的な面 を 謙虚さのない近代性や , イデオロギーの奴隷とす ることは, したが って当た らないと思う 実証主義を過小評価してはいけ , ないが, 人間の有限性を忘れ, 実証 の世界にのみ酔い痴れる法思索は 決してトマスのものではな , し・.. 近代的イ デオロギーとの直結を当然とする 自然法学者は その要素である 「意志」 「理性」 「正 , 義」 ないし 「合理性」 「合生産性」 などに対 して 科学的に精級な論究を試みてい る だがそれ ら , , のよ っ て 来 た る 根 源 に ま で 遡 っ て, か れ らは 究 明 しよ う と は しな か た そ こ に っ . , か れ らの お も い. 上がりが見 られると思う, なぜな ら究極の起源 に到達することにより 整然たる自然秩序の偉大さ , と, 不完全な人間性の未熟さとを痛感しないわけにはいか ないからである こうして自然法か ら . , あらゆる意味の arrogantia が払 拭されることに思いをいたすべきである . およそ人間が偉大な業績を築きあげるた めには, まずみずか らの限界を悟ることが先決問題であ る, 個人はもとより, 人類それ自体も有限であることを知らねばならない したが て無限を追求 っ , す る こ と は, フ ラ ス ト レー シ ョ ンを 起 こ す ば か り で な く , 自 分 自 身 はキ ろか人類全体をも破滅に追 いやる不遜な態度というべきであろう, 誤り易い 人間の 「理性」 に無 限の価値を認め 他の要 素は , すべて これを挟雑物として排除 しようとする近代自然法には そこに どうしてもおちい らざるを , , えない陥舞が見 られる. 近代自然法は中世を通り越して, 古代ギリシァ, ローマの世界に その模範を求めたことは周知 , である. しかしギリシプ人の自由観はどうであったか かれらは労働 を忌み嫌い 異邦人の奴隷状 。 , 態のなかに, 自分たちの自由を見いだしていたのである, このような身勝 手な個人主義的偏向が , 近 代 文 明 に 深 く 浸潤 して い る こ と は い う ま で も な い こ の 傾 向 を い そ う 強 化 した の は アメ リ カ っ . ,. の 「社会個人主義」 であるといわれている.註) 人間が真に自由で, 誰にはばかることなく, 人間的行為 をなしうるためには , 絶えず選択を迫 られ, 事物の優先順位を決定することが要求されなければな らない それには 決定に先行する主 , , 観的価値判断が, その鋭さ, 微妙さ, 洗練のてい どに違いはあれ 倫理的枠内から逸脱 しないかぎ , 「 25 一.
(14) . l vo .23 No.1. i ion (Seot i i do Uni l。 f Hokka s t on IB) 1ourna ver y 。f Educat. Sept . ,1972. り, それらを互いに認め合う 「寛容」 さが必要である. 公開討論の席上, ときおり見受けられる手 伝の小細工, あるいは無責任な煽動 行為などが, 前勝手な懇意的態度, 杓子定規の法律論, 自己宣. 問題の真面目な論議をその軌道から, いかにそらせてきたかを銘記すべきである. 自然法に冷厳な科学的完壁さを求めることは 至難であるかも知れない。 しか し深遠な法や政治の 科学的探求に疲れ果てた人をいつも暖かく迎えいれるものは, 「寛容」 に満ちた 自然法である. そ して, 神法の潤 色 を受け, 永久法に繋がるトマス派 自然法こそ, その要請に答えるも の と い い た い. 晩年になるにつれ, この 「のがれば」 (民数紀略, 35章, 6節) に微 妙に接近してい ったラー ト ブル ッ フ (G. Radbruch) は じめ 幾 多 の 著 名 な 学 者 の い た こ と が, 何 よ り の 証 拠 と な る で あ ろ. う. まことに思い半 ばに過 ぐの感にうたれる. )17頁. 1 日米 フォーラム, 第17巻, 第3号, 197 , (M,A, フィッ ツシモソズ, 「人文学と人間 教育」 α s にd 粥 Pぬ 『 ! A B A P びE e t mZ W〆効力堰s z ‘ α s e n r s v e 主として q の引用は , トマス・アクィナスの著作 . . , , LB匁た耀 け A McGuine Barry & 1 s s i M.1 D R f oxford j e r r たほか e a r 8 の羅英対訳によ r 1 9 4 . . , , . , っ , , , 瀞, T! 2 αs z o“ l ington ) s(ed l S Z s , , βαsぁ W“““gs ザ , D. Cり 1948; A, C. Pegi . T卿粥那 A r鰯粥α , Was Y する k N l 1 9 4 5 引用 したことを付記 Aq”i r 2v w その他から随時 s e o o ’ zqs . , , , ,. 駐. - 26 一.
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