身 延 山 短 期 大 学 学 報
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私の学歴をと、若し問ふ人があれば、 日蓮宗芳四 区宗学林 から中檀林を経て、東京二本懐の大胞団林の課程を履修し 其 の 間内 外の学を少しばかり拾ひ喰ひしたとた答へナる以外にはありま せん。呼名は具って居 つでも 大檀林 といふの は今日の大学に匹敵ナるのかも知れないが、省みてあれも や っ たこれも 読んだ といふ丈であ っ て、それが自分の学と して掌損されたかと云はれると面恥しい様な気がナるのでありまナロ然し 共の学窓 に学び 得 、 た 事 柄 が 間 後 五 十 余年間 の私の土台となって居るのでありまナ。 それを想ふと、宗門子弟忙は漏る L 所在く学窓に於ける研債の時を与へたいと若い頃から念願し、直接間接に宗門 教育の面に力を致したつもりでありまナが、意余って力足 ら ざるを慨いて居りまナ。 祖山の 教育機 関と直接の連繋を持つに 至 りましたのは昭和十八年からでありまナが、時恰も国家の激変時に際り、 学校教育も亦一大変転を見たのでありまナ。其の間山の内外の非常なる協力に依って踊の歩みの感はありまナが、徐 々に内外の充実を見て居る事は有り難い事でありまナ。然し将来宗門の柱となるべき︿材を教養ナベき機関として は、実にお耽しい状態でありまナロ本年は私の米 需 の報恩 記念事業と し て 、 御 廟の備 整に全力を 傾けたいと思びます が 、 つ H ふいて此の御廟を守り、宗風宣揚の和党を生む母体たる学校の整備・ 拡 充を計る 事 に 希 望 を つなぐを念願と し 、 嘗 て 西 谷の御聖廟 に近い殆んど全域が学棟に依って埋もれた如くに、 東谷 の一部か ら寺平に亘って学棟 の 櫛 比ナ る 状 を 険 に 一 削 い て 居 り ま ナ 。””””1111111111111111111111111’1111’1111111111111”’"'’n’””1m1阿E町官胃111M1n1n11111nn1m1nmrm11mm11n”nuur司””””””mmm’t’1111n1111’t””’”mn
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略
歴
明治 二 年 九月九日愛知県西春日井郡新川町深見房十郎 三男に 生 る こ 八 六 九 ︶ 明 治 十 一 年 十 一 月 愛 知 県 海部郡甚目寺町中萱津実成寺前々 住 職岩室日 一 思 上人に就ねて得度修学 明 治十七年 四 月 愛知県宗学 林入学 ︵ 第四教区 ﹀ 二十年 三 月卒業 明 治二十年四 月 第 四 区 中檀林入学︵愛知 県 ︶ 二 十 三年 三 月権 少 講義に叙せられ卒 業後 、檀林教師 に任ぜられ、少講義に昇叙。 明治二十五年四月東京大国林に入学、五月権 中調 義に昇叙 明 治 廿 八 年 一 月 廿 七 日 愛 知 県 津 島 市 今 市 場 町妙延寺住職、十月情韓語学校試験合持、 明治廿九年 三 月 大檀林卒業、権僧都に昇叙 明治 三 十 年 大 本 山 本国寺貫主 旭日苗上人、総本山身 延 山法 主 物部日厳上人 等 に 随行し全国布教、飼後布教活動に 専念す 。 明治川二年十二月一日日蓮宗大檀林学寮 監督に任 ず 。 明治刈四年二月廿 三 日 抄 唾 寺 退 住 、 同 三 月 一 日依願 免大檀抹寮監、同七月廿四日、高知 市 要法寺住職。高知県録司に 任 ず 。 明治品川九年七月宗会議員に、同九月身延山門末議員に当 選 。 明治四十 三年 四月十日要法寺退住、同月大阪雲雷寺住職、向 山村 、 教 化 活動に専念 大 正 十 二 年 七 月 一 日 第 十 教 区 布 教 監 大正十四年五月二十八日門末議会副議長に就任 、 僧正に昇叙 昭 和 七 年 ご 月 身 延 山 常 置 会 議 長 に 就 任 昭和九年十一月二十八日日蓮宗財務部長に就任 昭和十年 = 一 月 一 日 雲 雷 寺 退 住 、 東 京 瑞 輪 寺住職︵第四 十二惟 ︶ 昭和十二年 六 月 十 日 権 大 借 正 に 叙 せ ら る 。 昭和十八年十一月五日瑞輪寺退住、総本山身延久遠寺 住職︵第 八十四世 ︶ 昭和十八年十一月八日身延山専門学校長に就任 昭和十九年九月十九日日蓮宗管長に就任、同月大僧正に 昇叙 昭 和 二 十 五 年 四 月 一 日 身 延 山 短 期 大 学 長 に 就任現在に 及 ぶ 。 ︵ 十歳 ︶F’h . . ...宅>・・"‘ . . 降 、 . . . . ~-· ~ λ 頃 -~割•" ,~ t ..~ ~~ Al") 学 長 近 京ヨ佐玉,,
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聖人の本尊に就ては今や法仏の論静も漸く収り、 勧請式等に関ナる実際問題に突入 した様である υ か L る要望に答 へ た の が 、 立大創立五十周年記念号の山中喜八氏の ﹁ 日 蓮 聖 人 品 工 茶 説 解 説 ﹂、並に昨年末の し 望 一月 、 鈴木 、 影 山 、J
本 諸氏の遺文中心の研究︵崎報一O
二 、一
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四 ︶ で、聖人本尊に関ナる研究は粗ぽ尽された犠である。 1 舗で古来の本尊論を見れば観如透師の本尊義、優陀那輝師の虞略弁等の本質論の外、且設に島智良師に依て編輯され 充、本尊論資料の 身 延︵ 一 二 二 一 ﹀ 諸 山 ︿ 七O
︶両編に百数篇の相伝があり 、 叉其の中には諸︷ 一 示 、 三 秘 、 = 一 七 日伝、宗祖 本 仏の各 一 、本 絵 、立 像の各二 の外は大半が本尊 憂茶羅 の相伝並に口伝で、 そ の 他 に 受 持 港 頂 に 関 ナ る 数 篇 を 見 る が、それに依れば自ら聖人の本尊が憂 茶 羅中心であったことに気附 くの である o 就中 憂茶羅 口惇中に胎蔵八葉九尊と 連関するこ篇は 、 往年双榎学報所載の小林日華師の﹁大憂 茶羅 私考﹂左共に聖人の本尊の研究に 対 ナる何等かの一示唆 では在からうか o 何 となれば聖人が本尊の 造像 に就て 市に﹃木絵二像﹄と 仰せ ら る L ととは、勿論木 絵の両様式を容 認せられたものであるが、 若し木像としては弘長元年伊東感得の随 身 仏の外 御在世中に於ては 、 文 永 七 年 の 真 問 仏、建 治二年の四条 金吾、弘安二年の日限女、並 K 富木般の凶菩薩造立か見ら れるが、開宗以来の忍難の御 生涯に於ては、造像のととは容易の事でなかったに相違ない。何れにしても真間仏の文永七年は更に考へる余地があるようで あ る 。 若し絵像に在ては未だ御在世に於てはとれを聞かぬ故に、随って此の場合の木絵は紙木の意と解し 、 絵とは長茶羅 を指ナものであらう心か L る聖人 の憂 茶 経は 山中 氏蒐集の t もの、現在百廿= 一 幅中文、永二五、建治二て弘安七七で、 文、戒に於ても十年七月の佐渡始顕︵身延焼失︶以前に、文、水八年十月の立本寺の依智本尊を始めとして八幅を見るの で あ る の 随って聖人の本尊はその殆ん
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全休が憂 茶 羅本尊であったのであ る 。 されば寓代亀鏡録等に憂 茶 羅本尊は折 伏時代在る故に、法論等の場合に取扱が簡易なり等の説は、後世に 至 って造像本尊を備仰した結果であらう。 併し聖人自らは伊東の御難以来、常に自ら随身仏を奉持せられたのにも拘はらや J、経王御前等に授与せられた御守 も あったが、常に弟子慢那に本尊として憂茶羅を授与せられ、且つ新尼御前御返事に 見 る 如 く 、 ﹃経文のごとく不信 2 の人にわたしまいらせ十﹄等と、その受 授 が厳格に行はれたことは、 とれ憂茶羅を本尊とナることが 、 聖 人 の 忍雌弘 通に直接に関係し も 凡 か らであらう。何となれば羅 茶 塁本尊が聖人一期弘通の綱格た る﹁立 疋安国論 ﹂の 主張に基くか ら である 0 ・勿論如伺なる宗教にしても個人の安心立命党る 生命の依恰を無視したものはあり得ないが、就中聖人の奈 教は個人よりも犬衆の安心立命を主眼とし、 且っその事実を立正安国の文字が明かに示ナ処である o 就 中 論 の 第 七 位 口 聞 に 夫国は 法に依て昌え、法は人に 因って貴 し。国亡び人減せば仏 を −散が崇むべき、法を誰が信や Jぺきや。先づ国家を 祈りて須らく仏法を立つペし。 と述べ、更に第九の主窓口には汝早く信仰の寸心を改めて、速かに実乗の一普に帰せよ。然れば 三 界は皆仏国なり。仏国其れ衰 ん や。乃至土に破 壊無くんば身は是れ安全にして心は是禅定ならん。 等主述べられし如く、 一論の主張は国土の成仏を目的とし、個人の成仏は全く附随的に取扱はれた様であ る 。 更にとれを広く五六部の中に見れば、関目紗の 大願を立てん日本国の位をゆづらん、乃 至 我日本の柱とならむ、 眼目とならむ、大船となら む 。 との叫びは、上行の再 誕 としての聖 人の大闘 で あ った。若し本尊紗には所期を﹃本時の浄土﹄と述べ 、 ﹃ 本 尊 為 休 ﹄ と憂茶羅を示し、最後に安国論の二難を 挙 げ て 此時地洞千界出現し て 本門の釈尊の脇士となって 一 閤 浮提才 一 の 本 尊 此の固に立 つ ベ し 。 と述べて居るが、 此の本尊とは在世 霊 山 八 口 問 脱益の貌を本 尊 と し て 、 之 れと同一の浄 土 の 末 法実現 を意味す るもの 3 で、且く在世の浄 土に寄せて一閤浮提第 一 の本尊と 述べたもので、先の文に﹃彼脱 此 棋 ﹄ の脱の意でなく、全く末法 の種の脱広布を述べた文で、今の本尊は観心本噂末法脱益の意で、文は本 尊 でも本門の戒 壇 の成就を桁 表 した文と解 ナべきである。更に撰時紗は最後に安国論に依る 三 度の高名を述べ終って 、 日蓮が法華 経 を信じ始めしは、 日本国には 一 滴 一 微麗のご とし。法華 経 を二人 三 人十人 百 千高億人、唱 へ 伝うるな らば、妙賞の 須禰 山ともなり、大 浬興の 大 海ともなる べ し 。 仏にな る通は此よりほかに 又 もとむる 事な か れ 。 等と個人の成仏は四海 帰 妙忙侠つべき ことを明にしたのである。若し最後の報恩紗には 天 台伝教の弘通せざる正法と して、初めて本 門三大秘 法を明かにし、 日本乃至漢土月氏一閤浮提に人ごとに 有智川県智をきらはや 、 一同に他事をナ て L 南無 妙法蓮華経と唱ふベ し。乃 至
日蓮が惑悲膿大ならば、 南無妙法蓮華経は高年の外未来までも流るぺし。 等 と 四 、 海 帰 妙 に 依 る 、 本門戒壇成就の時を朋し、 ﹃日本国は一同に南無妙法蓮華経なり﹄ と述べられて居る。 随って 本尊紗の ﹃ 今 本 時 婆 婆 世 界 、 乃至所化以同伝﹄ の四十五字の具体的相続とは 、 正しく次の ﹃ 其 本 尊 為 ν休 乃 至 表 一 ︸ 迩 仏 連 土 一 也 ﹄等の八十九字の、 在世霊山脱益の相貌を示図したる 蔓茶羅 に外ならぬのである o さ ればか L る在世脱益の 相貌を 末法に於ける妙法 流 布 に 依 る 、 四 海帰妙 即ち国土成併の 亀鑑 たる本門の本尊とし て 止揚したことは、乙れ全く立 正安国の主張に由来するものである。きれば如説修行紗には具体的にとの意を述べて 天下寓民諸乗一仏乗と成て、妙法独り繁昌せん時。寓民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば 、 吹 く 風 枝 を な ら さ 歩、雨壊を砕かや、 代は義農の世となりて、 今生には不鮮の民難を払ひ 長生の術 を 得 、 人法共に不老不死の理顕は れ時を各々御賢ぜよ。現世安穏の証文不 v可 ν有 ν疑 者 也 。 4 等 と 神 力 口
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減後の如説修行は悶中 、 林中、樹下 、 僧切、瞭野を隔て歩 、 悉く仏陀の三処道場即ち寂光土実現への懸 識なるととは 、 以上の諸文に依てとれを知ることが出来よう o 曾て綱要 導 師が安国論 、 本尊紗、修行紗は全く同致の意 なりと述べられたのも全くとれがためである U 若し富士門流に戒壇本尊の義があるが、 とれを戒壇勧 請と 解するは訣 で、末法に 実現さ るべき浄土 、 即ち戒 壇 の 相貌としての本 尊の意 でなくてはならぬ。二 、
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くづ出現の仏休﹄を以て、盛点実成の仏陀をなし、 一 念 = 一千生仏一体の義に寄せて﹃一念 = 一千の仏と申ナは法界の成 仏と一式事にて候ぞ﹄と行儀には触れや一念三千に依る 法 界成仏を期したのは、 とれ自ら安国論の三界仏国の意に外在 ら ぬ の で あ る . 若し昭和定本は文永=一年に境紗庵目録等の如く、益ロ無畏紗︵逗子尼書 J を系げて居るが、全書には大日経義釈並に 観智犠軌の多宝仏不二大日等、覚禅紗︵聖人誕生五年、 お京総の覚禅禦︶ の法華秘棋︵ 仏 全 、 四六︶等見ゆる如き説 を見る外、﹃此法門詩法の根本也﹄等と真一言破を見る点等からは、文永九年以後に系けるべきであらう。若し文永七年 の 無 国 立 三蔵紗に は 日本国の念仏大体留り了ぬ、乃至当世の高僧真言師等は・;・!手に印を結び口忙真言は請すれ
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も、其の心中には義 理を弁へる事・なし。末代悪世の愚人は念仏等の難行易行等をば描て、 一向に法華経の題目を南無妙 法蓮華 経 と 唱 へ 6 給 ふ ベ し 。 ﹀ ﹂哨題紗と同様の行儀を述.へ ヨ た に 真 一ず 一 円 師 等大 日如来を御本尊と定 め釈迦 如 来を下 し、念仏者 等 が附繍陀仏を一向に持て釈迦如来を描たるも、教 主 騨 尊 の比丘比 丘 尼 也。元組の誤を伝来るなる ペし。此の釈 迦如来は 三 の 故ましまして、他仏にかはらせ給ひて、婆婆 世界の一切衆生の有縁の仏となり給ふ 大 賞世尊は我 等 が尊 主 也、先づ御本尊と定むべし。乃至必先 づ 釈 尊 を木画 の像に顕はして御 本尊 を定めさせ給ひて‘其後力おはしま さば禰陀等 の位仏にも及ペし 等と先づ主師親三徳に寄せて、唱題紗の第二義の上に釈尊本尊観を注し、更K
芳 三 一 義 忙 も 触 れ た の で あ る 。 かくの如く聖人は佐前に於ては、大休釈迦を本尊、 題目モの行儀と祖ぽ定めたが、此に唱題紗の構想の最初の法師ロ 聞 に 拠 る 法 華 経 本 尊 、 神力品に拠る題目本尊と後の釈尊本尊説とは自ら人 法 の別を生じ、随って往年見たる如き聖人 の本尊に人 法 論を生ナるは当然のことである。 とれは同じ 法 華 経 で は あ る が 、 既に本尊妙に ﹃在世本門末 法 之初一同 純同仰彼脱此観也。彼一品二半此但題白五字也﹄ 等 と 指 摘 せ る 如 く . 釈尊所説の 法 華と聖人付嘱の 法 華とは自ら別で なくしてはならね。 とれを明にしたのは佐渡遠流に 依 る上行の開顧であり、最初にとれを明示にしたのか佐渡才一書 先る文永八年十一月の富木入道殿御返事である。即ち同書に 仏滅後二千二百余年忙月氏漢土日本 一 悶浮提の内 K 、 天 親竜樹返内 銑冷 然外適時宜 一五々。天台伝教は組釈し給 八 ど も 、 弘 一 一 残 之ニ大事の秘 法 を此固に初め弘 ν 之 、 日蓮宣非 二其人−乎。経云有四 導 帥一名上行云々 と述べられたる 如 く、聖人 末法 弘通の 法 華経とは神力別付の結 要 四伺の一大秘 法 たる妙 法 五 字 で あ り 、 書 量 口 聞 に ﹃ 此 大良薬色香 美 昧 皆 悉 具 足 ﹄ ﹃是好良薬今留在此﹄等左説けるものに外ならないのである。されば聖人はか L る神力別 付 の 要法 た る 法 華経を以て、末 法 の重病を 治 ナる仙薬と呼んで、専ら題目の修行を 説 かれた所以である。されば翌年 一 一 月 の 最 蓮 房 へ の 革 本成 仏 口 決 忙 は 、 か L る 書量 の 良 薬 た る 法 華経を以て一念三千妙法五 字 となし 当性の習ひそこないの学者ゆめにもしらざる 法 門也。天台妙導楽伝教内にはかどみさせ給へどもひろめ給はや、 一色一香との L し り 惑耳 驚心と さ L やき給 て 、 妙法蓮華 と云ふべきを円 頓 止観とか へさせ給き 、 等と述べられて、佐前 K 専ら末 法 下粧の要 法 たりし一秘の妙法は、佐後 K 至 っ て 色 香 味 の 一 二 秘 の 開 展 を 見 、 漸 く 割 引 ’ 益 の色香としての本尊と行儀とを分別するに至り、 一 秘の妙 法 五字は色香の題副本尊の二 法 となり 草木にも成り給へる口 詩 且 町 一 一 品の釈尊也、経一式如来秘密神通之カ云々。 法 界は釈迦如来の御 身 に非歩と 一 式事なし e
乃
至一念三千 法 門をふりナ L ぎたてたる大曇茶羅なり。 7 ・・・等と述べられたのである、 きれば同年九月四条金吾殿御返事には 日蓮が弘通する 法 門はせまきやう在れ どもは在はだふかし、其故は彼の 天台伝教等の所 弘 の 法より一重立 入先る故 也、本門書景品の三大事とは是也。 等 と 誇 同 首 一 の 良 薬 の 色 香 味 を 、 恐らく天台の三重七箇の中の 法 華 深 義 の 、 同教 三 身 、 寂光土義、蓮華因果の意に寄せて、 一 一 一大事と本門の 三 秘を密表せられ 、神力別付 の 妙 法 の上に色の題自の外に香の本尊たる大憂茶羅の二 法 を見るに至 ったのであっ党が、・味の戒壇は晩年を期されたのである。 かくの如く神力別付の一秘妙 法 五字の良薬が色香味の効能を起ナに就ては 、文永十 年五月の義浄房御書に 蕎 景品の 法 門は日蓮が身に取 て先のみあること ぞかし。天台伝教 等 も組しらせ給へども、言に出して宣ベ給は歩、 竜樹天親等も亦如 ν 是 。 需 量口問の自我備に云﹃一心欲見 仏 、 不自惜 身 命﹄云々。日蓮が巳心の仏界を此の文に依て 8 顕ナ也。其故は 需 回 一 一 川の事の一念 三 千の三大秘 法 を成就せる事此 経 文 な り 。 等 と 、 一 秘 の 妙 法 は不借身命の信の発動に 依 り即ち妙 法 を南無ナること 、 南無妙 法 蓮華経の七字 ム ﹂ な る こ と に 依 て 要 法 の五字は 法 界を体相とナる﹃草にも木にも成る仏﹄たる大憂羅 茶 と も 在 り 、 またとれに対ナる行儀の題目ともなり、 更に所期の仏果、売る戒壇とも在 っ たのである。か L る不惜 身 命 の 南 川 県 即 ち 信 こ そ 、 とれ正しく本門の妙戒たる本円戎 で 、 教 行 証 御 堂 固 に は 矢 張 、 要 法 の五字に寄せて本円戒が説かれて居る。されば撰時紗に大集 経 の白法隠波の後に、法 華 経 の肝心たる南無妙 法 蓮華経の大白 法 の 広 布 ナ . へ き ζ と を 述 べ て 、 例 せ ば 神 力 口 問 の 十 神 力 の 時 、 十方世界の一切衆生一人もなく、婆婆世界に向って大音声をはなちて、南無釈迦牟尼 例南無釈迦牟尼悌、南無妙法蓮華経南無妙法薩華経と一同にさけびしが如し
と は 、 一秘の妙法は五字であるが、信楽に依て七字と・なれ ば題目 と同時に 本尊 と も なる所以を示さ れたものである。
三 、
構
想
と
開
目
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以上忙依て唱題般の構想たる、末 法 の本尊と行儀は 一 位 共忙題目を以て表現せらる ζ とが知られる。由 来 神力別付 の 要法はと れ 法華経の五玄結要の法であるが 、 七字の闇目は不惜身命の南無を媒介として、 ﹃ 懇光照無量 、 書命無数 劫、久修業所得、乃至 毎自 作 是 念 ﹄ の本悌 と も 在 る 故 に 、 御義 口伝に 題目を以 て ﹃ 無 作 三 身 の宝号﹄と説ける如 く 、 露目亙本側の称号忙外在らぬのである。 きれば妙法憂茶雑供 養 に は 妙 法薩華 経の御 本 尊 供 養 候 。 此 憂茶羅は文字は五字七字にて候へども 、 三 世諸仰の御師、乃至生死海の船也 、 成悌 得道の導師也 。 此大 量茶羅 は 柳誠後二千二百二十余年之内未だひろまらせ給はや J 、 重病には 仙 薬をあたうべ し 9 とも、亦諸法実相紗には 法界のナがた妙法蓮華経五字にかはる 事な し、釈 迦多宝の二仰と一式ふも、妙法五字より用の利益を施し給ふ時 、 事 相にニ仰と顕はれて宝 塔 の 中にしてう在 e つき合ひ給ふ白乃至 、 されば釈迦多宝と云ふも用の例也 、 妙 法 蓮華 経 と そ 本併にては御座候 へ 。経云﹃如来秘密神通之力﹄是曲、乃至一間浮提芳 一 の御本尊を信じさせ給へ と も 説 き 。 更に新尼御前御返事には 此 の 御本尊は教主釈尊五百腫点劫より、心中忙 を さめ給ぴ 、 世に出現せ さ せ 給びても四 十余年 、其 後叉法華経の中 にも遮門はせナぎて、宝塔品より事をこりて寺 景 品に説き顕し 、 神力ロ同属累に事極りて候しが 、 : ・ : 上 行 菩薩 等を 請出品K
召し出させ給。て、法華経の本門の肝心たる妙法蓮華経の五 字 をゆづらせ給。て、 あなかしとあなかしζ 、我減度の後正法一千年像法一千年に弘通すべからや。末法の始に;::此五字の大憂茶羅を身に帯し、心に存せ ば 諸 王 は国を扶け寓民は難をのがれん 等と何れも末法付属 要 法 たる一秘の五字或は七 字 に 寄 せ て − 本門の本尊たる大憂 茶 雑と述べられたのである。 されば文永十年七月八日古来佐渡始 顕 ハ 身 延曾蔵、絹地長五尺八寸 二 分、巾二尺六寸一分、遠消日亨模写 、 御本尊 写真帳 ︶ 以前の 憂茶 羅は山中氏﹁御本尊目録 ﹂ に依れば、文永八年十 月 の京都立本寺の首閤 二 明王を始め、文永九年 六月の京都妙法寺、京都本能寺、 小泉久遠寺 r崎 報 一
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二 の 一 、 一 八 、 一 九 ︶ 、 三 保本成寺、巣鴨本妙寺、京都頂妙 寺の六幅は首題二仏 二 明 王 の同一勧請式 、 次で第八の平賀本土寺︵無年令 ︶ 二例二明 王 外右に智積十羅剰、左 K 普賢 文殊、鬼子母神‘更に讃文として妙楽輔行の﹃当地身土の﹄の文を添へ給へる 。 通称一念三千御本尊 ︵ 崎報企上、六︶ 等は、恐らく上述の所謂妙法五字七 字 の大量 茶 羅に相当するものである 。 就中最後の憂 茶 羅はその通称より 、文 、 永 九 ・ 10 年の草木成俳口決の﹃一念三千の法門をふりナ L ぎたてたる大憂 茶 羅﹄が想見されるが 、恐 らく士 、 水十年の平賀の本 噂等に相当するものでは在からうか 。 上 述 の 如 く 一 一 一 秘の二法たる本尊即ち 憂茶 羅と行儀の題目とは神力 別付の 一大秘法売る妙法五字を七字の闇目として 表現されたのであるが、若し教行証御書 K 依れば 此法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、= 一 世の諸併の高行寓善の功徳を集めて為二五字−、此五字の内に宣不 ν 納 一 一 高 戒 功徳 一乎 等と本門の妙戒も亦五字を以て表現するが、若し唱題紗の二法を明にしたのは開目紗であらう。関白紗は古来本尊紗 忙対して人開顕の御書と呼ばれて居るが、 乙れは正しく神力品に於て別付せられ売る、末法の法華経の行者の人格を明にしたからであるしかく本紗に末法の導師を明にナると同時に、 その付蝿せられたる末法所弘の二法をも、併せて 明 忙 せられたの で あ る 。 されば開目鉛には最初に先づ五重相対に約して 、内 外大小権実本迩に失で教観相対に就て 但此経に二箇の大事あり、倶舎宗成実宗律宗 、 法相宗三論宗等は名をもしらや J 、 華厳宗と真言宗とのこ宗は倫に盗 で自宗の骨同とせり 。 一 念 三 千の法門は但法 華 経 の 本 門 寺 田 一 吾 川 の文の底に し づ め た り 。 間樹 天親知て しかもいまだ ひろいいださ歩、但我が天台智者のみこれをい柁けり。 等と末 法 所弘の法体たる寺景品の是好良薬を以て、等量女底の一念 三 千の秘法となし、以で開教以来の 如 説 の弘通を 述 べ 、 ﹃ い よ /\ 重 科 に 沈 む 、 還 て 此 事を計りみ れば、我 身 の 法 華経の行者にあらざるか﹄ の疑問に対し 、 勧持品二 十行の備に 依てと れ 証 し 、 方 便 口 m の略開 三 顕 一 の文を以て一念 三 千の典拠となし、 女 で ﹃ 欲 聞 百 六 足 道 ﹄ の文を出 し 文の心は四昧三教四十余年の間 いま売きかざる法門をうけ給はらんと 請せ り 。 此文に ﹃ 欲聞具足道﹄ と 申 ナ は 、 11・一 ← 人 経 に 云 ﹃ 薩 者 名 一 一 具足義 一﹄等云々。無依無得四論玄義記云﹃妙者訳 一式 二 ハ 、胡法以 ν 六 為 一 一 具足義 一也 ﹄ 等 云 々 。 士 口 蔵疏 一 五 ﹃ 妙 者翻 為 ニ 具 足 一 ﹄ 等 云 々 。天 台 玄義 八 云 ﹃ 薩 者 党語此翻 レ 妙 也 ﹄ 等 云 々 、 竜獄菩薩大智度論千巻の肝 心 云 ﹃ 薩 者 六 也 ﹄ 等 一五々、妙法薩華経と申は漢詩也 。 月氏には 薩達膳 分陀利伽蘇多 撹と 申ナ 。 一 正 口 無畏 三 蔵の法華経の肝心真 言 一式 Z 仰
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目 印 口 一 一 擁 護 、 ゲ ロ 日 空 川 県 相 無 願 、 −u
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一 決定成就︵静然竹林紗一五 H 大正七六、覚禅砂 H 悌 金 四 六 、 諸 尊 真 吾 一 口 伺 義 紗 、 小 野 仁 海 真言集 等 に 見 ゆ ︶ 此 真 吾 一 口 は 南天 竺 の鉄塔の中の肝心の真言也 ︵ 行林の釈後に出ナ︶等と述べ。右の大経等の二経二論二釈の六文に寄せて、妙法蓮華経を以て六度高行、 十 界 具 足 、 一 代 の 肝 心 一 、 一 念 = 一干の大綱骨髄・即ち南無妙 法 蓮華 経 の題目を以て、神力別付の如来秘密神通之力の法華真言の意を釈成して行儀の 要 法 も ん る 本 門 の 題 目 と 在 し 。 衣に下巻に至って寺金品の﹃然善男子我実成併以来﹄の文を引き、華厳、阿舎、浄名、大集 ・ 大 目、仁 王 、 無 量 義、方便等の女を引き、右畜骨 量 の文を以て 一 一宇 一 口 に 大 虚 妄 な り と や ぶ る 文 な り 、 此 過 去 常顕はる時諸仰皆釈尊の分身なり 。 乃至等賞品をし らざる 諸宗の者は畜 に同じ 不知恩の者なり 等と説き、前来の諸妙に見へし本尊畏茶羅としての五字七字は、 正しくこれ本門の本尊たる寺田 一 息 口問の釈尊なる意を問 ’ ' 12 ・・・ かし。か tふる本尊とその行儀たる題目の 二 法を以て、末法に悌国建立の行 法 たる所以の根祇を論証し 具に は立正安国論にかんがへたるが如し 。 証する所天もすで給へ、諸難にもあえ身命を期とせん ︽ 乃 至 犬願を立 ん、日本国の位をゆづらん 等と上行再誕として、 三 界悌国の浄土建立の三大誓願を立てられたのである 。
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帰 結 かくてか L る末法弘通の本門の本尊と、 八宗の 本尊 との相違を明にしたのが、関白砂に次ぐ文永九年の八宗違目紗 である。全紗には先 づ 文伺九の﹃働於 ニ 三 世 一 等有 二 三 身 一 、 於 ニ 諸 教 中 一秘 ν之不 v 伝﹄の女を引き 詩量 の本側は法報応三身具足ナるととを 明 か に し 、 且っか t h る 三 身は元とれ = 一因 悌性に依 る となし、先づ 衆生 の悌性に就て 小乗 不 レ 論 一 一 例 性 有 無 − 。 華 厳 方 等 般 若大 日経等 、 衆生本有 一一 正 悶 併 性 −無 二了因 縁 困 、 法 華 経 自 本 有 二 三 一 四 悌 性 二 女 何十 云 正 因 悌性 ︵法身性也 ︶通 二 互本当二 縁 了悌性 種子本有非 v適 ν今也 等 と 述 べ 、 華 厳 = 一 論法相の三 宗 も釈 尊 を本尊とするも常住の悌 身 に 非 ら やと な し 、 真言 の大日法 身 には釈迦と同 体異体の義 あ り 先づ例陀の主師親三徳を以て法報躍の三身如来と在し。 八 宗 中 倶舎成実律の 三 宗 は釈迦応身を 本尊 と し 、 となし、浄 土 宗 は 嫡 陀本尊 となす 等と八宗の本尊を掲げ 、 就中華 厳 、 真言 の本尊に就て 、 蓮 華 コ 一 味経 、 大 日経義釈 、 華厳経等を引き、二宗の本尊も或は法 身常 住は説くも 三 身 の 常住は 説か歩、独り天台の 一 念 三 ヰ の み 衆 生 の 三 悶 桝 性 、悌 陀の三 身 を説く所以を明にし。衣の観 心 本尊紗に於て 三 秘の二法に 寄 せ 、 受 持譲 与 に 依 る我等の成仰 を 明ナ様 拠 と し た の で あ る 。 13 されば文永十年四月の観心本尊紗は、 送 状に﹃日 蓮 賞身大 事﹄とも﹃榔滅後二千二百 ご 十余年未 ν有 一 一此 書之 心 − ﹄ と も 述べらる L 如く 、別付の妙法の行法に 就てその 行儀 と本尊とを最も明に せ ら れたのである。当紗は最初に止観の−念 三 千の出処に就て 八問 答に依てこ れ を 明 し、衣で九十の 二 問答に於の百県千如と一 念 = 一千の 別 を判じ、木 絵 二 像 の 本 尊は全く一念 三 千に依るととを 述 べ 。 更に教主釈尊の 実 在を証ナるは、 全 く本門の ↓ 念 三 千にありとなし、 華版 、 仁 王、金 剛 般若の 三 経 、 起 信 、 唯 識 の 二 諭を掲 げ て 、 日 疋 等には来吃 一 念 三 千を 明 さ や と 説 き ロ更に華 厳 経 の 一 一 一 無 詫 別 、 並に大日経の毒畳 一最深秘処等と説く華厳真言の二宗も、弘法の 二 教諭に指摘せる如く 、 全 く諦 盗 醍醐の戯諭に外な ら ホ J と な し 。 無 田 市 義 観 普 賢 の 文 忙 寄 せ て 、 一念三千本有の 三 因 に 依 る有情成併 、木 絵 像の開眼の根 撮 を 明 か に し 。 十 界 衆生の成悌は全く一念 ご 一 千の妙 法 に在り となし、先 づ 無 景 義 経 の ﹃ 雄 ν 未 レ 得 v修 − 一 行 六 波 羅蜜 二 六波 羅蜜 自然在前 ﹄ の
女 を 引 き 、 法 華 の 一 念 信解受持の義となし。次で 既に開白 紗に 題目を以て寓竹具 足の真 一 言なる意を釈 成 せ る、法華浬 提 等 の二経二論 二 疏の六文に列ね、 間 目 を以て六度高行 具 足の妙法とな し 私加 一 一 会 通 一 如 v額 二 本 文 六 雄 ν踊 文心釈 尊 因行果徳 二 法、妙法蓮華経 五字具 足 。我等受 一 一 持此五字−自然議 一 一与彼因果 市 川 面 白 ’ EJ ノ ワ d1 ド 等と 述 べ 、 固目の 行儀に依る受持譲 与 を明かにし。更に法事の六文と妙楽弘決の ﹃ 当知 身 土 ﹄ ︿ 本土寺憂 茶 維の讃文︶ の交を以て十界の 成 怖 を証 し 、 ﹃ 今 本 地 ﹄ 等の四十 五字に依 て 、 一 念 三 千十界常住の意を証したのである。 か く て 闘目の行儀に 依 て 、 十界の 成 側 、 一ニ 界 仏 国 将 来 ナ . へ き 本 尊 、 即ち憂 茶 維を明か す に 当って 此本 門 肝心於 二南無妙法蓮華経五 字 ヘ 悌猶文 殊薬王等不 ν 付 二 属 之 一 。 何 況 其巴下 乎。但有 一 一 地 涌千界 ︸ 説 ニ 八 日 間 − 付 ニ属 之 等 と先づ神力別付の行儀に寄せ七 字の題同を 明 し 、 更 に 衣 K 本門の本 尊たる憂 茶 羅 を明 ナ前提と なし。八 口 川 に 依る要 法付属の儀相を以て、直ちに本門の本尊たる八口 m 所 願の 憂 茶羅 と 説 き 、 要法 K 寄せ てその 憂 茶羅の 相を述ぺ て 北 バ 本 尊 為 ν体本阿裟盤上室塔居 ν 空 、 塔 中妙法蓮 華経左右 釈迦 牟尼 悌多 宝併 、騨 尊 脇 士上行等 四菩 薩 、乃 至 如 v 是本 尊在世五 十 余年無 v 之 、 八年之間但限 ニ 八品 等と本 師の 婆婆たる憂茶羅を説 かれた の で あ る 。 と れ 全 く 宝 塔 口 問 に 依 る 、不 空 の観智 儀軌の 法華 憂 奈 の儀相 ︵ 崎報八 七 ﹁ 両密の法華 憂茶 雑に就て﹂参照
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依った も の で あ る。若 し 儀軌の芳三重の中胎 八 葉中の中胎に就ては 胎 上 置 ニ ギ 観 波 塔 − 於 一 一 其 塔 中 一 回 二 釈迦牟尼如来多 宝如来 同 臨 而 坐 − ︿ 正 蔵 一 九 、 五 九 五 ︶ と述.へ、塔中の両尊を以て中胎の悌 身 と在ナも、更に入 道 場の下に至り、突如二尊の外に 決 定如来を出し 14…
失 当 即 諦 − 一 無 量 決 命 決 定 如 来 真 言 一 七 週 、 作 一 一 是 念 − 一 言 、 願 一 切 有 情 皆 獲 − 一 如 来 畑 山 田 軍 需命 ・ 、 晃 一一 日 疋 願 一 巳 即 諦 ご 真 一 ず 一 口 一 日 Z 曲 目 印 ﹃ ・ ω H U 釦江田
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害修行者毎日六時、 時 別 諦 二 此 真 言 一 七 週 、 能 延 二 世 帯 命 一 能 滅 工 夫 書 決 定 悪 業 二 獲 得身心軽安− 、 離 ニ諸昏沈及以慨怠 一受 二 持此妙法蓮華 経 − 速 得 二 成 就 − 。 へ 全 上 五 九 六 ︶ 等と見ゆるが、 先の唱閤紗の構想の本尊行儀は、 右の儀軌の逆の女矛である。今若し関目紗に於ける末法の行備に就 て見るに 、 諸文引用中真言に就ては 、 右の儀軌の決定如来の延命真言忙依らやして、k
掲の如き普侃⋮畏の 法 華肝心真 言を以でしたととは留意すべきである。若し聖人の本尊紗の譲与段の釈は真言に替える肉果具足の五 字 を以てナる も、受梓譲与の釈は全く儀軌の﹃受 一 一 持妙 法 蓮華 経 − 速 得 ニ 成 就 一﹄ の釈と合致するもので、唱題紗の構想は此処にモの 完成を見たのであった。 これ聖人が本噂紗を当身の大事と遊ばされる所以である。 15 若し蔓茶羅の中尊忙就ては、蓮華三昧経は、別釈の方便口 m の下には決定如来を両部不二の大日となし、誇回 一 吾 川 の 下 に は 妙 法 蓮華久遠英成、本来多宝塔中湛然常住、其名 ニ 川 県 田 市 . 誇 決 定 如 来 二 手 結 一 一 法 界定印 −首有 一 三 悌宝冠 一 、 京 釈迦胎蔵 大目、右多宝金剛大日、東門上行南門無辺行西門浄行北円安立行、東南北門賢西南文殊悶北観音東北嫡勅 ︵ 略 引 ︶ 等と述ペ’若し台密静然 こ一 四 一 l 一 一 五 一 ニ ︶ の行林抄十五の 法 華 法 の下には、観智儀軌を以て両部 合説 の軌となし 師 伝 云 、 無 骨 一 一 蕎決 定如来者 即久遠 誇景 悌 也 、 即鰐迦也。亦可 ν週 二 切諸諸悌久遠実成 二 式 々 、 乃 至 、 抑此 法 本尊 師説不同、或云無量 帯決定 如来、或 一 式 稗 迦 、或 一玄普賢。此等之中正所一 一伝受 一如何。私云師 云法 花 大 、 回 目 憂 茶 確 意 、専 以 ニ 釈 迦 − 可 ν 為 一 一 本尊 一、 所 以 者何於 一 一 法 華経 一時 一 一 情説教主一。於 一 一 品正 常続中台尊六畳間 二此悌 一求 − 一 他尊 −哉 。 ︵TK 蔵 七 六 ︶等 と 述 べ 、 叉 東 密の覚捕紗の 法 華経の下には 師 、 主 説也、二例共成二毘慮遮那−故、雌 二 二 悌 一即 日 疋 一 悌 也 法 身 悌 故 、 一切諸悌皆是大日如来也。 仏 全 四 六 、 六
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三 ︶ と 述 べ 、 更 に 法 花諸流の下には 一 、 塔 法 身、多 宝 報身、釈迦応 身 也 レ塔三身 即 一 体 口 也、是可 ν知 一 一 本 尊 ︸ 非 一 三 仏 所乗物 一 。 一 、以 二 釈迦 −用 二 本 尊二 有 三 一 伝 一 一成 只 霊 山 釈迦也 叉大日所変釈迦也 o t ︵ 全 上 、 六 一 一 一 一 一 ︶ と 伝 へ 、 叉 法 花 秘決の下には 或 一 式 加 ⋮ 無 蕎 決 定 如来者則多 宝 如 来 也 。或云宝生尊云 々 。 叉云阿 繭 陀 如来 。 此如来者以 三釈迦多宝冥会身− 、 号 − − M I − m 寺 決 定 如 来 − 、 即金剛界自性 法身 智挙印大日出 υ 乃 至決定 如 来天 台阿繭陀 東寺大日云 上 、 六 六 六 ︶ 16. と述べ、更に台密の承証の阿裟婆紗五こには 或 一式 無 量 詩 決定如来者釈迦報身云々。禰陀釈迦不審事也。但釈迦為 v 正云々口大原 法 華決云是釈迦顕本遠寺身也 u 資 然将 来経 者、或云 二 如 来 法 一 也。或 云 ニ 阿 嫡 陀 法 − 也、非 一 一 此如 来 法 − 也 。 ︵ 仏 金 二 六 、 八 O 一 ︺ 等 とは台東両密に於ける 法 華憂 茶羅 中尊の異 説 である。随ってか L る両密の 説 異に対し、聖人は末 法法華経専 修の行 者として、是 等 の 謬解 を 是 正 し 、 経説の 如く如 法 に樺成せられたのが聖人の本門の本尊といはなければな ら 向。随 つ て 本 尊紗は唱闇紗の構想を、正しく﹃ 事行の五字本 門 の 本尊﹄と三 秘の二法K
寄 せ て 完 成したものといふ・ へ きであ る 。 ︵ 未 完 ︶建
設
め
の
吟
味
の
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− 1 1純
粋
宗
学
問
題
学
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領
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り る室
妙
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︵一﹀本誌第 三十号に﹁ われらなにをなす べ き か ﹂ を ︵ 現代と対決す る ものとし て問 題 学 的に考える﹀と副題 し て 、 い さ L か論じたが、今ひきつどいて、 さらに深く吟味してい か う 。 現 代と 対決しよう と ナ る に は 、 立正安国の正も国も 、 現代といふ現 実 の 場 聞にもた ら してまさにどうあるのか 、 本 当にどうあるべきな の かといふ問題とされる。すでに国については事 実 的与件として モ れは世界的 世界史的 切 実な 一 環であると左を直視し認識ナぺきとい ふ結論 の 一 は何人 も疑ない で あらう 。 また結論第 二 の敗 亡の事 態に到らしめた 内因についての精神的自 責 は、全日蓮門下にとっての 当然の 自覚点であ る こ と 。 在ほ念のため補 遺 ナるならば、宗国は 当然宗姐の精 神 を 中 一 阪 とせる社 会 集団たると同時に歴史的伝統を も っ 。然し い か 在る事態に出逢ふと も 宗祖の精神に基いての進転でなくてはならぬ こ と乍ら 、 客体 ・ 主 体ともに有 為 転変ナろ現 実 は 決して モ の 直進は許さ れ ぬ らしい。モとでやむなき 安 凶変容停滞はまねがれ白色乙ろ‘ いかに処すべき その際 、 か。と L に先師先匠の 身大 の努力 と 制 限 刻 在 背 心 の あ っ た所以 u それ理けに 共 の倣代を荷ふものは、須くよ h v 一 周深い 宗祖の精神への内省 と 対内外の対 策 施 略が練ら れね ば 在 ら ね 。 こ L 忙苅もをろそかである限 り 、 安 協から安協へ、安 容に変容を重ね、停滞は退歩となり、方向転換か百八 十度 の転進 と な っ て は.形態はあるが如くし て精神は 閑散 霧消 17…
し、或は頑石忙化し去る。内外ともに何が何や ら と 尋 ね 求 めることはを ろ か、模 索 さへしない で 平 然 た る に於い て は 社会から 迷 信邪教 視 されても至極当然 。 と と に 犬 、 戦 で 外 し れ ら の 国 家 体 制 経 済 教育等の革命的改廃の下に、 民 衆 生活の 転変と狂へる心情にまた /\迎 合していかねばならぬとせば 、 い は ピ 迷信 邪教化さねば立ちゆかぬとせば 、 否そ れも 亦やむを得ぬと 認容 す る と せ ば 、 さき の 小論の 趣旨 仕 全く 、 と ん で も ない世 迷 言に すぎまい 。 た し か に 、 一 点の 希 望 の 星 さ へ 仰がぬ暗黒の裡に、荒涼た る 大 地 の 上 に 、 内 部 崩壊 と外部破 壊のみ るかげ なき宗 団の 一 屋 に 息 づ い て 、
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~ の 抽 象 論議は許されまい 。 た N L 信 や る 。 そ の 犬 、 義 が、悌但相承の血脈なりとせば、 いかなる妖 一 芸 のうちにも 、 またい かなる頑石の中へも、 あくまで浸透していくととを。立正安国・ 三 秘・婆婆即寂党の一ケの 法門 が真 実 で あ る な ら ば、それが諸 法実 相 に 根 ざ し 悌 祖 の ← へ 悲 に め ば え も ん る 限 り は 、 との現 実 といふ与件に 、 どう対 決 するかの 道 は必や有 り得る 筈。たと仏 、 ﹁ 世 に 義 人 な し 、 一人もなし ﹂ い な 、 世に人な し 一 人もなくし て . 狂乱し情騰する 炎をの み昆る 18 としても、たった独りでも虚空に+へ地に求めて往かう 。 いやいよ/\求め つ ピけねばならぬ 。 まことに、爪上の土が 堕 落して十方の地土に か へったとしては 、 川 開 始断劫の宿 福 をふみ に ぢ る 。 極難値遇のとの 法 で あ る 。 六 雑 九 易 と あ る 0 ﹁ 若 シ 八万四千 ノ 法 蔵十二部 経 ヲ持ツテ 、 人 ノ 為 メ ニ 演 説シ テ諸 ノ 聴カ ン 者ヲ シ テ六神通ヲ得セ シ メ ン ロ 能 ク 是 ノ 如 ク ス ト雌モ 亦未ダ難シ ト セズ。我ガ滅後ニ一於テ此経 ヲ 聴受シテ其 ノ義 組ヲ問ハ ン 。是レ則チ雑シトス 。 ﹂ ﹁ 円 蓮 が強義、経文に符号せり。﹂とはよく肝に銘じをかうではないか 。 ︵ 一 一 ︶ ﹁宗砲に遅れ ﹂ とはよく一言はれてゐる。現代宗門にとっての新標語ではなく、 実 は い つの時代に於いても必十 宗団の生きては たら く 間発であり 帰結でなく てはな ら ぬ 。 一 間性でなく て はならぬ。それは前述の通り、世界のどん 在宗教にも通附する第一信条であるが、 実際問題に限 会 し て 、 て 、a − レ 14 、A、
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カ手カ 全 か 加 ⋮ か 、 二 者 樺一的決断をせまられるとき、との第一信条で処し得るか裁き得るか y 、 そ れ λ \ の宗団の現実的唯一 の在 り 方なのである。之が現代ほど、 か に 重 大な根本問題とな っ てゐるととは未柁曾 っ て ・な か っ た で あ ら う 。 即 ち 、 祖 誠二百年ご ろまでは宗内の門流アツレキを 苧 み在がら も①。進展して きたそのあげく、京都廿 一 本山は叡山徒の 戦火に茨 一雄 となる ② 。 まもなく安 士宗論 、不 受不施 問題は国家権力 と対決 、周 従 に終る ③ 。 明 治 以 後は近 代 の 国家 体 制に 完全掌握された④。 そ の 後 . 舶来の科学文化と資本 主 義的金権力は 何ものを も左右 した ⑤ 。 今 度 の 大戦後 は、国 家ぐるみ、外固または世界情勢の風波に翻弄されてゐる⑥。た y 今の宗団は七百年間、重ね
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\ 、 、 六 変 震 動 の 軍 一 圧 変 容 を受けて現に在るのである。そこは正直に厳かに見つめたい。のどもとすぎれば熱さを忘る 、 といふ乙となく、 大 空 在尊い犠牲はた Y 過去の 夢 とはせや、功罪 と も に、内省と機悔を以て子日に明日に生かされねばならぬ。 まして 冥 々に宗祖の教団に精神に 受 けた傷 痕変態は改悔修正されねばならぬ。 ①は宗祖門下の自覚心情にまつべきは無論。 ② 他宗 教 に対ナるとき、和戦両様とも公正に堂々と 主 張 ナ . へ き こ と 。 ③④の政 ・ 教関係は、国家権力との 対決 、 あ の 場合どう あ る べ きかは . 迂遠 な土日噺でなくて、永 遠 院考へる べき課題 で あ らう 。現代は人権尊重と信教自由、新憲 法 で 保証されて問題ないやう に みえる が、果して現 状 の ま L で よ い か 、 か左りの問閤があ ら う 。 殊に国家諌暁の宗是か ら し て どうすべきなの か 。 ⑥之は急に今 どうかうできる乙とではない 。通俗に 切 実在 問 題としては坐活現実をい かに切り拓くかといふ 事 売 が 、 之 も本宗の信仰に 本 づ く 主義 による新 生活運動より正当にしてE
つ賢 明な方 策 はあるまい。勿論難 易 はとはぬ。また 精神生活︵思想信仰︶の問題は当然身を以て信条と 主 義を験証す . へ きであらう。 宗祖 の教に 本 づく信条が身を以て験v
、
19証される過程に於いて 成 果に於い て そのま L 、 何よりの宗教問動︵色読︶在 の で あ る 。 力強い布教々化の実践であ る 。 要は信 条 が明確に強 盛 在信念とたるかどうかに関はる 。 ととろが故に重 要 在陥 穴 を 見 出すので あ る。暁代は 、 生活も思想も教育もす べ て、科学の洗礼を 受 けている以上、 信仰の伝統的教 学 の 基 盤が科学的研究に 浸蝕さ れて 、 単 純 強盛 な信念の火は燃えようもない 点 である 。 悌 教 の 中 で 最 も公 正 な教判に 立つ教権 主 義 も、信仰 と 研 究と の 間 に ある大きな溝躍を どう埋 める か 、 ど う飛躍 するか。ま じ め に考 へ れ ば 考 へ るほ ど 、 避 け よう も な い宿 命 と 見 る 。 即ち 依経絶対 主 義の 依 経が悌 説で はな く後 人の作 文 であると せ ば 、 仰とい ふ権威 忙随 順 し来 っ た 者 の幻 滅は 如何 。 また 最 も現 証 主 義 K 立 たれた 宗祖の 出現が、帥減 年 代 の新 学 説 か ら 四 百年の大 差 を生じ て 像 法 後 期に当 る とせ ば 、宗姐 絶 対 主 義 も 成立 しな く な ら う 。 一 般の各 宗 でもそれ ん \ 従 来 の 伝 統 教学 忙 多少の 影響や 修 正 は 琵 れぬと しても 、 も と /\ 機情 本位 の主観 的 立 宗なれ ばど うと で も 会通さ れようが、 経典 本位の客観的にし て 現 実 々 証主義の予言 の宗教とし て の 本 宗 は 、 彼ら に 比して幾層倍 の打 撃 でな くて はな ら ね 。城 代 忙 対 決せんとするとき 、 我々はす在ほにこ の 陥 穴 を 認 めな くては な ら ぬ 。 ︵ 三 ︶ 今且 ら く目を転じて 、 本 宗 学 上にお ける諸 問 題 を 一 往 ←へ 略 に 整 却 して み る 。 ︵ 便宜的私見︶ A 刀T
祖
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-教 文 史 学 献 実l
I l 根 編 「−l
本 集 集 { 阿 宗 ・ 団 入学 考
l l 証 原 宗 二 始 姐 育 教 伝 誌 団 記 ① ② ︵ 相 書 学 ︶l
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20・B ⑤ 宗団 一
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史学l
宗 門史 丁教学史l
︵ 通 叙 的 ︶ 下教学 1 1 1歴史宗学︵発展的伝統的︶ − F本女傍正ふ くめ て ﹀ ⑥ a v b v ⑦l
対外l
︿ 比 較 ・対政 ・対顕 ︶l
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、
ー 体系l
概 説 ー 事 . 項 | 論題的諸項目C
現代教学 i ︵現実問題の場における ︶⑧ ① 明治 以後 、 科学的研 究の成果 は相 当 充 実 。 ②とれは未売しの感あり 。 ③昭和定本の遺文により 一 往 劃 期 的 、 精密な検 討 は こ れ か ら か 。 ④右により 、 とれからか 。 ⑤年表の一 ・ 二とテキ ス ト風のものの み 、精確は 後日にま つ 。 ⑥最近に 一 の 試は出たが、②以後の 基礎が整へら れ て始め て 本格的のものとなる。 ⑦ へ 専 門 的 の も の 一 ・ 二 あるが 、 二百年 、 五百年前のもの、伝統中心に科学前のもの 、 その影響 下に便 宜上のテキ ス ト 風のもの o 然し休系は根本宗学か ら 、自然に 顕現する主体 的に肢体と面白を具 へ た も の でなく てはなら ぬ 。 b 、 之は従来の先向先匠 、 大なり 小 なり 、 門流伝統 の 中に私見私釈 を 逗 うさ れてゐる o 従て 三 秘信行にも 一 定を見 21ぬのは無論 。 c 、仰 教中他宗との宗論者・問答・見聞等の類は多いが、儒教や基 教 に対ナる者少い 。 今日 でも 稀 有 。 ⑨現代といふ揚でいか に時代を認 識し 、自ら自覚行動ナるかといふ休 系的綱領 ・ 対 策は殆んど問聞になってゐ な い 。 ともかく、此の内閣的省察こそ、 さきの重要友根本問題 K 当 っ てゐるのであらう。純 粋宗 学における問題学的領 域 は と L に ひ ら か れ る 所 以 。 ︿ 四 ︶ 今年は併減 二 五
OO
年記念として、大々的に世界的耳目を集め て 催 さ れ る 由 、 所は今や全世界を動かし つ L あ る 二 の精神 、 一は西欧的ジユネヴ精神 、 一は東亜的パンド ン 精神、その東 亜 を代表するイ ン ドと そ れをめぐるセイロ ン ・ ピルマ等の仰教由縁の地域がその国力をあげて 大 聖釈尊の御精神を追憶し感 銘 せ ん と ナ るのである 。 結 構 の事な がら、我々 K はわりきれない深い意味を味はされる所以は前述の如くである。 いはゆる立正平和運動も世界的意味の 立 正 安 国 も 、 との二ケの大事をどう会通し、飛躍できたか。世の中はいよ/\複雑 憧奇K
. 、 法 花 経 を 毒経 呼ぽはりす る者 、 薬経としてか勝手に切りとって調剤する者、 反 古 # ん と け な ナ も の 、 またお題目の新興宗教は問 答 無用にひろ が る 。 ともかく順逆をとはや、 法 花信仰の波紋は大き く 泥沼に描かれ て いく。之をどうみるか 。 ど う 導 く か 。 法 花 経 とは何ものぞ。その仏 教とは 、悌とは伺ものぞ 。我々は 幸 K して宗祖によりて本仏 K 抱かれんとナるならば、 その仏 とは、仏教とは法花経とはといふ問に本当に親切に正確に答へなければならねのである。それを答へ得るとき乙そ 、 従来の問題学的領域も 、 国家も世界も真の平和と文化 K か Y やくのではないか。乙の絶対叡智からの解決でなくて、 党ピ曲会や苦しい弁護では、肝心の自体の行動も 安協と変容と退転脱線を重ね 、 ついに邪教迷信を退 治 る ど こ ろ か 、 自らそのあとを逐ひゆくより外は在く、世界は全く地餓 畜 の ご 一 道と化ナは必定。 ・22…︵五︶ではあらた め て 、 乙の根本問閣は、どう提起さるべきか 。士づ 、宗学はその 主体 性を失うではな らぬ。主休性 が 分 ら ぬ といふな ら 何よりもま っ先きに求めねばならぬ。現実の自己主休と宗祖の御精神の絶対主体 とを快復すると と 。 そ の 道 は ︵ 一 部 岨 の 御精神への絶対給仕よ り外にない。即ち ﹁ 宗 岨に 還 れ﹂とは、宗 祖の 純 粋 精 神 を 、 夢遊病 的想 依 や盲信狂熱でなく、普遍的構造忙於て犯充ナる ζ と。宗祖の求められたものは何か、求める態度、努力等々口それを 現 K 生きてゐる自 身 の休験的心情生活に於て自覚ナる。時代社会一般の健全性に照らし合はナ ζ と。給仕・同化は、 信 ・ 行 ・ 学連関の進転にまつ口宗祖 において我れ 生 くるととも
K
、宗 祖 、 われに於て生きたまうといふ感応の境地K
の み 絶対叡智の光明は放たれる。その光りの下でのみ 、 この根本問題はどう提起されるか、 そ ζ 忙深重の意味がにぢ み出るのである 。 もとより、我々は幼児の乳房をさぐるもの。しかしいくつになっても一屑や膝から離れぬ子供でもとまらう。給仕は 進転し向上し成長して欲しい、悌祖を脊負ひ奉るほどに。そういふ 主 体的立揚・自覚的叡智からのみ、 乙の問題に対 決できるであらう。 会二 、 九 、 七、
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本宗の本尊問題に就いては、古来よりやかまし︿論議を重ねて来たものであって、其の 法 休論に於ては仰を中心と す べ きであるとの結論K
至ったが、然し勧請の形態に於ては各寺院・教 会 により各自異 った形式の本尊を勧請して ゐ るととろが・沙在くないやうである。 則ち 木像本尊 、 憂茶羅 本 尊 、 一 間 像 本 尊 、 等 の別があり、更に 木 像 の中にも一尊四士 ・ 二尊四士及び一塔両尊在どの 牒式があり憂茶羅に於ても十界羅列や一遍首題の別が見られ、 叉画像にあって も同じく 虞略 の異りが 認めら れ る 。 れ ら の 中で何れを本 尊正境 と し て 勧請ナべきであるかと 一式 う に 、 北 ハ の 説 は 必 4 yしも一定していないものの如くである カ ミ 一方現実面では各寺院共木像本尊をもって勧請してゐる例が圧倒的に多く、然 も其の大部 分は宗祖始顕 の 妙法大 品 五 卦 羅 の 木 像 化によ っ て 占められてゐるやうに思はれる。 ハ 此 等 の 外 に 宗 組 一 一 鮮 の み れ 一 成 は 憂 茶 羅 一 一 帽のみを奉安して ゐ る 寺院もあ る が 、 と れ は 比較的少なく特殊な場合 、例 へば戦災等 によって堂 宇 を失い仮 本堂 に 祖 師 一 一鮮のみを安置 し て ゐる時 や或はまた 、 木堂の外 K M 刊帥堂を梢へて 別 に初師のみを奉安して ゐ る場合などである。前者は都市K
多く 後者は大寺院でないと見るととが出来ない場合が多い。︶ か く の 如 く本宗の本尊勧請形態は胡杵統一決定を見てゐないが、然し本尊の実体に就 い て は﹁ 本門 の 教 主 釈尊﹂た . 24 ・・ とる ととに異論 はない やうである 。 ととろが 最近 、 日蓮 正 ︷ 一 が に 属 ナ る 富 士 大石寺の 在家 団 体 売 る 創価 学会 で は 本 宗 の 本 尊 ︵ 特 忙 身延 山 ﹀ を し て 、 それ を雑乱勧 請 であると 難 じ 、 其 の宣伝忙懸命 な ことから再 び 此の問題 が ク ロ ー ズ ・ ア ツ プされるに 至ったの である 。そこ で と れより些か 本 宗 の 本尊 勧請形態に就いての考察を 試みや うと思う。即 ち 其の順 序として 第 一
K
﹁ 総 勧 請 ﹂ K 就いて考へ 、 衣ぎに ﹁ 別 勧 請 ﹂ と称せられてゐるものについて 其 の性格を調 べ 、 更 に 此 等 二者と ﹁ 雑乱 勧請 ﹂との相違に及び、併 せ て 憂 茶 雑 中 の 諸神︵ 天 照八幡 ・ 鬼 子母神 等 ︶ 忙 J説 い て検討を 加 へ た い 。 先づ総勧請 について 見る な らば 、 と れ は 宗祖 始顕の 十 界 羅 列妙 法 大 憂茶羅 に其の源を発 ナ るものであるが 、 こ の文 字 25…
憂茶械は共第に絵画化され或は叉木像化 さ れてゆく傾向 を たどった。即ち 最 初は一部分︵ 天蓋 ・ 蓮 台 ・ 四 天 王等 ︶ が 固化 さ れ 、 続 いて中 尊首題 以外は 悉く 絵固化 さ れるよ うに なり 、 早 くも宗祖 滅 後七 十 六年の延文 二 年 ︵ 一 、 三 七 五 ︶ に は 大 覚 犬 僧正筆 ︻首題のみ ︺ の 憂茶羅 ︻ 京 都 ・ 法 華 寺蔵 ︺ が 諸尊全 部 一 回 像 化 さ れてゐる へ 註 1 ︶ 。 との画 像 化 は 木像 化 の如くには流布しなか っ た忙しでも、相当に古い時代か ら 行はれて 来 たも の で あ る こ と が知 ら れうる c またとれと同じく 大 憂 茶 羅 の 木 像 化も 早くから行はれ 、 一 部 分︵釈迦俳 ・ 四 菩薩︶は 宗 祖 御在世当時 既に 見るとと が 出 来 る が 、 木格 的に奉 安され始めたのは宗祖滅後 凡 そ四 五 十年頃からの や うである ︵ 註2
︶ 。 木像 化 の 最 初 の 形 は 中 尊 の 題 目 を 室 田 空 現 し 、 モの左右忙釈 迦 ・ 多宝の二併を配したととろの所 謂 一 塔両 尊 忙 し て 、 のち次矛に 諸 神を 迫 加 していったやう忙思はれる。と ζ ろが叉 一 方ではこの 大憂 茶 羅の木像 化 と は 別K
、 本尊 抄の正倣二千年之間一小乗杭尊副業阿難ず 一 脇 士 つ o 権 大乗民仕繋 ・ 法 華 一位 迩 門吐釈段以 −
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殊 普 賢 等 − ギ ニ脇 士 一 U デ セ 風 一忌 像 − 一 一 あ 有 二 害 責 口 恥 仏 −o
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一 入 末 法 一 始此仏 像 可 ν令 一一 出 現 − 敗 。 ︵ 七 一 一 二 ︶ 此時地 涌千界 出 此ポ門府早 為J
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士 一 、一閤浮提芳 一 不 尊 可 ハ 立 ニ 此国 一 o − 此 等 仏造 ︵ 七 二O
︶ 等 の 机 文を 中心とし て一尊 四 士の木像が造倣さ れるやうにな っ た 。 との一尊に於ては宗祖自らもとれを伊東で感得せ ら れ 、 後年身延御 入 山 の 時 も 、 持 仏 堂に安置され て 一 期 常住 に 随 身せら れ て を り、また檀越にあ っ て も富 木 ・ 太 田 等 の諸氏は何れも 一 尊 を奉安してをられた︵註3
︶。而も建 治三年 ハ 一 二 七 七 ︶ 以後四保氏が先 づ 四 士 を副造してよ り、他の諸 氏も叉順衣と れに 習って一尊 四 士の形式を用ゐるやうに在った。即ちこ れは四 保金吾釈迦 仏供 養 事 ︵ 一 、 一 八 二 頁︶によって同氏が一尊を造立してゐたととが明らかであり、更に 本 化別頭仏 祖 統 紀 によれば 四 保 三 郎左衛門頼 基 、 一 尊 四 菩 薩ノ木像ヲ造 リ、高 祖之 ガ点眼 ヲ 為 ス 、後チ 身 延端揚坊ノ 本尊 ト ス ︵ 七 ノ 二O
︶ とあって宗組が開眼を在されたことになっている 。 然し此 等 は 大豊茶羅に於ける如 く 、 宗 祖 の親しく 執刀彫刻せら れ 党証在は不明であり、此の為かとも す る と 大憂茶羅 に 偏 執 し て 造像 は宗 祖 の意に背くが如くに考へる者も現れ、彼の ﹁ 板 憂茶羅 以外は 本尊 に非十﹂と主張する創価 学会の 如きは、其の代表的なものと 云 うことが出 来ゃ う 。ま た宗 祖 の 造倣忙対ナる本義の上から見るならば、たとへ親刻の木像がたかったにしても造 像 の 聖 意が存したことを看過するわ けにはゆかない。即 ち 日 限女 K 対 し て は ﹃ 釈 尊 一体を造立ナる人は十方世界の諸仏を作り奉る人なり﹄ハ一、六一一一 一 一 ︶ と述べて其の造立の功徳を示して賞美せられ、また富 木 氏が四士 造立 を窺ったのに対しては﹃ 本桝本 脇士 造 り奉る ベ 台 ﹂ 時 也 ﹄ こ、六四八︶と其の認可を与へてをられる実例より見ても判然としてゐる。若し宗組の 本意 が憂 茶羅 以外 は本尊として奉安ナ. へ きものでは在いとナる在らば、 此のやう在揚合に必や峻 厳 なる教示があるはやであらう。 か く…
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・如上の観点忙立つ時、既に御在世から 造像 の企てがあり、また富 木 ・ 太田・四僚等の諸氏が順衣一尊に四士を添造し た事実と先の 本 尊抄・四菩薩 造立 齢 等 の 祖 ・ 文 か らして、宗 祖 の 造立に対ナ る 御本 意は一尊四士に中心が置かれたやう 忙 思 は れ る 。 然して再び大量 茶羅の木像 化忙就いてであるが、 愛で先づ本宗寺院の本尊勧請様式を大観するに 、 それメ\多少の 相 違 とそあれ 大体 に 於 て 大憂茶羅の諸 尊を 木像 化した 様式が主 と して用 ゐられているやうであ る。即ち 並 ハ 本尊 為 ν体本師裟婆上 宝塔居 ν空 、 塔 中妙 法 蓮華 経左右 釈迦牟 尼例 ・ 多宝 悌・釈尊脇士上行等四菩薩、 文殊摘助等 四菩薩 巻 属居 二 末 座 二 迩 化地方 大 小諸 菩薩 寓民処 二 大 地 一如 v見 一 一 雲 閣月卿 ニ 去 云 。 ハ 七 一 二 ︶ との机文に基き首題の妙 法 を中心にして釈迦多宝の両尊と 本 化 の 四 士を配し 、更に北 ハの 他 大憂茶羅 中の諸仰諸神を 木 像化して適宜添加してゐる様式忙して 、 広略の差はあるが 大 旨とれ忙属しているものと云へる。所調 、 と れが 本宗の ﹁総勧請﹂であって此の集定形式は右の如く、既に祖女忙拠り大量 茶羅 忙 基づ い て其の 木像 化したも のである か ら 、 との総勧請はもとより 妄義 の存ナる理由はないのである 。但しこ れを 先の一尊 四 士本 尊と比 較 ナ る 時 は 、 総勧請は 脇 士や附属の諸神が多く誼座してゐる為に 、感性 上や L 多神教的な想を起 さ せ ることは否めないであらう 。又両者の関 係について見 る な ら ば、総勧 請と一噂凶士は共 に 木像 本 尊としての立場から見るときは 、 と れを広略の 差 として考 へ るととが出来るのではない売らうか 。 木