は
里
見
ヰ
.‑ミ
':J、穏
時間とは一休如何在る
もの
であ
らうか︒モして法華経の説相
のう
ち忙
顕は
れてゐる時間の性格は如何なるもの
であ
らう
か︒
その前に一般に例教で時聞は︑如何に取扱はれているかを批評的忙把えつL︑仏教時間
翻の
定 礎 を 試
みよ
>
フ
。
先づ部派悌教に於ける時間観であるが︑それは ︑先づ時間様態の区別根撮から問題にさ
れる︒即ち︑
過去
︑現
在︑
未来の区別の根拠が聞はれるととである︒時
間様態
の区別根拠は
折 門
学
的に︑決して安易主事柄ではない︒内在
的時
間
観がとられ︑超越的時間観がとられるK
従っ
て︑それん\K困難なものを時間観に与
へた
︒それは
とに
角︑
経 同
支
部
等の如く現在一念論者と一式
はれ
る︑
二世
川 県 を
説く立場からは︑過去 ︑現在︑未来の区
別は
︑ 過 去 と
未来とは無であ
り︑現在のみ有であるとすることによ
って
説
かれる︒無と有は全く異質であ
り ︑
その
限り未来と現在︑現在と過去と
は断絶せるものであり︑非連続であるo然し時間仕何らかの流れであり︑持続である限り未来と現在︵過去と現在﹂と
の異質性を指摘するのみでは︑時間は成立ナるを得在い︒そとに︑未来と現在
戸過
去
と現
在︶
との等質性
を帯
びて登
. 38…
場ナるのが︑種子である︒種子は現在に有るが︑過去の
. 功
能
であり︑未来の功能であると説かれる︒現在にありなが
ら︑未来と過去の無の性格を荷えるものである︒有の現在に無の性格を有つ種子があって︑時間の連続性は始めて可
能であらう口かくて経部等の時間観は非連続の連続を説くものである︒ζれに対して有部の時間観は連続の非連続を
説くものである
︒三世実有
︑法体恒有を主張して︑時聞に於ける基体としての法体
︵実
体︶
の常
恒性
ゐ岳
民去
の町
宮町
﹀
を説堂︑連続の契機を強調し︑作用F
現象
︶
の有無によって︑過去︑現在︑
未来の区別を説くを有部正統の説とす
る︒此の有部の時間諭は客観的時間論の性格を帯びて
ゐる
︒有部数学の理論体系が
︑
形 市 上 学 的 に は 多 元 論 で あ り ︑
認識論的忙は二元論である
こと
は︑時間の考へ方K︑客観的性格を帯
びし
める
︒
﹁ 識
は二縁によりて生ヂ﹂と言
ふのは︑主観的友根と客観的な境とのこ縁によりて識が生やJるとの謂であり︑主観の外に客観的対境が存在ナるとと
を同艇は友い︒そして此の客観忙対して︑距離を取りづL︑客観的存在の上で時間を見ようとナる︒モこに時間の等質
化 ︑
空間化の性格が見られる︒法体恒有の主張がなされる初期の構想のうちには︑空間的意味が多分に含まれている
ととは否めない︒時間を空聞に置き換えたものとして︑法
体恒有の思想が解せられる所以である︒
﹁恒
有ー
の概念
が︑別論的整合性を得て︑時間の常恒性
とし
て主張せられるようになっても︑此の実休の常
恒性
には
︑
等質性と空間
性は
否定せらるべくもない乙そとには自然必然性の性格のみ強く︑自覚的実存の行為
たる
業も
︑
かLる
客観
的心然性
の閃
果連鎖のうちで眺められる︒﹁世の別は業によりて生十﹂るのであ
p
︑人間的行為の契機を無視してゐるわけではなく︑業感縁起と呼ぽる程K業を強く打
出し
てゐるのではあるが︑有部の客観的時間観の
中で
は︑
との業も強く時
聞を決定してゆく程の力とならない︒此の時聞は︑恒有は法体に支持されて︑等質的に流れてゆくのであり︑その点
では︑業と雄も︑恒有な法体の常恒性の上で︑始めて持紙をなし得るのであり︑業が先駆的決意性として︑時聞
を可
39
…
柏 町
在らしめるのでは在い︑かLる客観的等質的時聞は︑如何なる瞬間にも︑永遠に触れるととは
ない
︒
此の時間のう
ち忙ある限り︑常に有限者として流されてゐるのみであり︑因果
の連
鎖の下で推移してゐるのみである︒時聞からの
解脱
が︑
かLる客観的時
間の
世界たる有為法から﹁生﹂じたる結果で友く
﹁ 証
﹂せられた結果であるとして︑自然必
然性の関係から︑自覚的関係に︑突如として取換えられなければならないのは︑有部の時聞が客観的時間たるととを
物語るものである︒生械の関係は︑謂はど︑自然科学的な自然必然性の関係であり︑証る
関係
は︑
自覚
的行
為の世界
を示ナものであり︑前者と後者とは︑女一冗の異る世界である︒後者は前
者と
具︑
り︑何等
か︑
知的
︑ 意志 的たものを
要
求ナる領域である︒色法即ち物質の客観的存在を
素制
的に信じて疑はない
此の
二
元 論 の 体 系 に あ っ て は
︑ そ と に
支
配している時聞か
ら逃
れ︑何らか永遠に触れるため
には
︑
身体性
の破
壊︑即ち衣身減智より他に方途
は無
かつ
もん
に
違
ひない︒自覚的実存は︑寧ろ此の身休性により︑行
為の契
機を通して︑時間のうちにあ
って
︑永遠に触れる
こと
が出
来る筈である︒然るに
︑身
体性の金き否定の上に︑始め
て︑
水遠
に
触れると考えた
のは
︑
その時間論が︑
客観 的時間観 であるが故の限界に外在らない︒かkる限界と誼んで︑歴史的時聞は︑かLる
客観 的 時 間 観 の
う
ちか
らは出て来な
ぃ︒行為の契機の薄弱な︑等質
的︑自然的時
聞には医史性を見出ナべくもない︒
有部の時間観の特性は︑その休系的基械が笑
休概
念を
以っ
て把えられているこ
と よ り お とる︒若
し実
休概念を中 心とナる休系は古代的であり︑近代的体系は︑関係概念を主軸とナるものであると一一 百 ふ
こと
が許るされるとナれば︑
・40 ・・・
有部の思想休系は古代的性格を有っと言えよう︒縁起︑相関の関係とその意志的否定を以って出発した悌教が︑部派
併教の休系的整合理を求める時代K︑古代的思想型に定礎した一例であり︑従って︑悌教の否定の論理の上で
︑ 山
間
克
服さるべきものを有うてゐたわけである︒龍樹が極力批判の対象とした所以である日空の
絶対
無に媒介されない時間
は︑単なる通俗的若しくは客観的時間観に堕ナる他は在く︑何らか実存の根源的時聞に触れることは出来ないであら
ぅ︒大衆悌教が竜樹の空思想の媒介を必須
とナ
る
所
以は
︑
とLにある︒時間は把えることの出来ないもの
であ
る︒
と
れを把えんとナるとき客観
化が
起り
︑
時間の空間化が始まる︒そとでは︑真の根源的時間︑ベ
ルク
ソ
ンの
所謂
﹁流
れ
る時間﹂は逸せられる︒通俗的時間︑生活の日常性K於ける空開化された時間︑公衆時間とも言はる
べき
もの
L効用
性は否定せられ庭︑せらるべきではないのは勿論であるが︑そのために根源的時間が無視さるべ
きではない︒
否こ
の根
41
源的時間から︑自然的出来事も歴史的事件も通俗的時間も可能になるので
ある
︒
竜樹の
中論
︑
去来
品 ︑
観時品等に於
ける時間否定は︑客観的時間観の類落性を指摘し︑実存の深い底を示して︑根源的時間が空に媒介されるべきを示ナ
点で意義が認められる︒
四
此の空観に媒介されながら︑二世無の立場と郁子説を採りながら︑法体恒有説の連続性の契機を止揚して︑休系を
整備した
もの
は︑阿頼耶識思想である口過去と未来とは無いとの二世無の立場と過未
の功
能
とし
て
の種
子を採って︑
法体恒有説の示唆ナる連結性を体系のうちに︑包むためには︑矛八識としての阿頼耶識が恒に転やること暴流の如き
ものとして要請せられる︒経部等の二世無︑種子説が常識的立論の域を出でない傾向を
有ナ
るに
対して︑法体恒有説
と阿
頼耶識説
とが
︑
形而上学的傾向を帯びるととは故なしとしない︒叶才
六識
説と二世無と種チ説を説︿経部等の説が
常識的なるに対して︑実
体を
説く有部説︑純粋
経験
的意識
とも
云ふべき第八阿頼耶識を説く唯識思想は形而上学的操
作に
於て
一歩
︑進ん売ものと言へるであらう︒
過去え未来とが種子として︑現在のうちにあると説
いた
経部説に︑己に内在的時間
観 の 崩 芽 が 見
ら
れる
が︑
頼耶
識思想に於て︑時間は内在的となった︒阿頼耶思想に於ける時間観は︑内在的時間観として性格づけ
る乙
とが出
来るであら
う ︒
経部説に於ける連績面の陵昧性と有部に於ける非連続副の薄弱性とを補ったもの
が ︑
阿頼耶思想に於
ける内在的時間と言えよう︒時聞が内在
と超
越︑
連績
と非連織
との
二律背反的性
格 を 有
っとナ
れば
︑
内在的時間観
は︑超越の酎K
於て
︑向︑不徹底を勿れないであらう︒
五
未だ徹底を依く内在的時間観は︑華厳
の教
説に
於て
︑その超越耐が強く意識的にされたと言える︒種子の六
一 義
に於
ける阿頼那識思想の解釈と五教章の縁起因門六義法に於ける種子説を対比して見ても
このと
とを伺ふに足ると思ふ︒
阿頼耶識説の種子の六義
が︑
平面
的︑
詑列的在るに対して︑後者
のそ
れが︑謂はば立体的︑在るを見るのである︒極
子そのもの六義の性格を見るととによ
り ︑
その
二律背反的性格と超越的性格を示してゐる︒空有︑有力無力︑待縁不
持縁によって剰那滅︑恒随転等の六義を釈ナる操作のうちに︑内在的超出の相を示してゐるυ種チは剥那減等六義を
宮司聖
阿
・42.