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中央学術研究所紀要 第18号 133森岡清美「大衆長寿時代の人間と宗教-死生観の変化と先祖供養」

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資料として内容を書きましたものと表とか図を並べましたものを一枚準備いたしましてお手元にお配り戴い ておりますので、それに従って申し上げたいと思います。 さて、ごく最近のことですが、トッドというフランスの学者が、﹃第三の遊星、家族構造とイデオロギシステム﹄ という書物を書いています。彼は、一六○○年から一九○○年までの間は、家族構造が宗教とか政治の理念を決定 したという仮説に立って、この書物を著しました。これは大変大胆な仮説ですが、少なくとも本日表題に掲げた死 生観というものは、実際に人がどのように生き、そして死んだかという事実、言い換えると時代々々の死亡のパタ ンによって基本的に規定されていた、とみてよいのではないかと考えるしだいです。 そういう立場から死生観を考えることにし、まず死亡パタンがどのように変化してきたかということを眺めて うふ、﹃ノに考えております。 んな大きな主題ではとてもお話しできそうもありませんので、副題のような趣旨のものをお聞き取り戴きたいとい ご依頼戴きましたときに取りあえず申し上げましたのがこの主題でございますが尋あとで考えてみますと葦こ ります︽︾ この度は中央学術研究所第二二回学術総合会議の特溌講演のご依頼をいただきましてたいへん光栄に存じてお

大衆長寿時代の人間と宗教

死生観の変化と先細供養

森岡清美

133

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まず、資料の図1をご覧ください。これはヨロッーハの場合、ドイツないしベルリンの事態です。ドイツの、今 日大変活躍している代表的な社会史学者アルッル・イムホフ氏が作った図ですが、三つの図からできていますの で、上から順に解説したいと思います。 一番上の図は、一七二○年から一九八○年、つまり最近段階までのドイツにおける平均寿命、生まれたときの平 均余命を以て平均寿命というわけですが、その推移であります。これをご覧戴くと、一番古い一七二○年あたりか ら一八八○年頃までは、棒グラフの高さはほとんど変わっておらず、大体三○歳台というのが当時の平均寿命であっ たことがわかります。ところがその後、とくに今世紀の初めになると、四○歳台の中頃まで高まり、その後どんど んと寿命が延びて、今日では七○歳前後、ということになっています。これは一九八○年ですから、我々の入手で きる、より最近の数字でいうと、男子が七一歳、女子が七八歳と、日本より少し下ですが、大体七○歳台というこ とになります。ですから、平均寿命が長いこと三○歳台であったのが、今世紀の初めからどんどんと延びて、今日 では七○歳台になっているわけです。日本では、ご承知のように八○歳前後というところです。 次に、いまの図の下に五つ、妙な形の図が並んでいますが、これはベルリンに関する五歳階級刻みの男女別死亡 数です。亡くなった人を五歳刻みで並べて、下は一番幼いところから、上は老人に至るまで、年齢の順序に従って パセンテイジを図にあらわしたものです。左端は一七一五年から一九年、次は一七九○∼九四年、次は一八七五 パの資料も引用しつつ申し上げてみたいと思います。 みましょう重死亡パタンによって死生観が規定されるという仮説の適用は洋の東西を問いませんので、ヨロッ 一、死亡痘夕ンの歴史的変化 134

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大衆長寿時代の人間と宗教一死生観の変化と先祖供養 years years Lifeexpectancyatbirth lnyearsinGermaIy rfiMiii

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寺IA 7− 剣14 1 7 5 0 1 8 0 0 1 8 5 0 1 9 0 0 1 9 5 0 1 9 8 0 出典ArthurE.Imhof,《、FromtheOldMortalityPatterntothe NewImplicationsofaRadicalChangefromthe16thto the20thCentury,《《B"".Hist.〃α/.,59(1985),p.2. 図1過去3世紀にわたる死亡パターンの推移(ドイツ) 135 Berlil] 陣rlOOO antsin

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年ですが、この三つの図の形が非常によく似ています。前世紀の終わりに至るまで、大変よく似た死亡の年齢別分 布であったことがわかります。それはどういう特色を示しているかというと、一番下の一歳未満のところがズッ と横に長い、つまり乳児死亡が非常に多かった。例えば、一八世紀の初頭では、男児女児それぞれ約二○%、合計 で死亡の約四○%になります。一九世紀の終わりぐらいだと、乳児死亡が男児女児それぞれ約三○%、合計約六○%、 死者の半ば以上が乳児であったことを示しています。そして、それより上はどの年齢層でもならして死者が出てい るということです。ところが今世紀に入って、一九二五年、一九七五年と二つ図に出ていますが、かつて一番多かっ た一番下のところがグッと減り、今日ではここが一番少なくなっています。乳児死亡率が非常に低下したというこ とであります。そして、死者はだんだん高齢層にまとまってくるという推移が見られます。前世紀までのパタン は、死者は高齢者というわけではなく、むしろ幼い子供達が多数亡くなりました。そのあと、どの年齢層でも死者 が出て、老年層でもチョイチョイあるという程度でした。ところが、今日ではむしろ、死者といえば老年にかたま る、ということになったのであります。それを中段の図が示しているわけです。 一番下の図は、ベルリンだけについてですが、死亡率の推移を示しています。人口千人に対するその年の死者数 をもって死亡率といいます。大体一八八○年ぐらいのところに点線でも引いて戴くとわかりますが、死亡率は前世 紀の間にやや下降しますけれども、終わり頃までのところは、全体として死亡率が高い。それに対して今世紀に入 りますと、グッと死亡率が下がるということがはっきりします。もう一つ顕著なことは、前世紀の死亡率のあり方 が、鋸の歯のよ震うにギザギザになっているとい、うことです。これは、年によって死亡率の開きが大きいことを示し ています。飢鐘とか伝染病が流行った年には、沢山の人が死ぬ。今日は単に死亡率が低いだけでなく、年々の死亡 率の変動幅がごく小さいという状況です。ただ今世紀、二回だけ飛び出たところがありますが、最初の一九二○年 136

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大衆長寿時代の人間と宗教一死生観の変化と先祖供養 図2は一七七三年から一八六九年まで、江戸時代ほぼ百年近い問の、美濃国の西条村という、岐阜県の南の輪 中地帯に位置する大体八○戸ぐらいの集落の宗門人別改帳を資料とした、慶応大学の速水融氏の研究です。この図 を見ると、先程見て戴いたベルリンの一九世紀の図と酷似していることがわかります。つまり、乳幼児死亡が非常 なるわけで、非常に高い数字を一記録したことになります。 界大戦による死亡であって、世界大戦のときには五○パミルまでいっていますから、パセントに直せば五%と に近いほうは、第一次世界大戦のときです蕊もう一つ一一九五○年の少し前にあるのは、言うまでもなく第二次世 以上三つの図から明らかになることは、一九世紀の末頃までは短命であったということ、これが第一・第二に、 死亡はどの年齢でも起こったが、とくに乳幼児死亡が多かったということ、第三は、年毎の死亡率の変動幅が大き かったということです。それに対して二○世紀に入ってからは、まず第一に長寿となった、第二には死亡が老年層 にかたまってきた、もう幼い人が死なないですむようになってきた、第三は、死亡率が低いだけでなくて、年毎の 変動幅が非常に小さくなったという、三つの対照的な状況が判明するわけです。資料を整えていませんので、第四 点は書いていませんが、一九世紀までは地域毎の死亡率の違いが大きかった。何故かといいますと、飢鐘が起こっ ても食糧の移動、輸送が、交通手段の未発達と政治的割拠のため、思うようにいかず、人が沢山死ぬ地域と、そう でない地域というアンバランスが生じ易かった、つまり死亡率の地域的な差が大きかった。しかるに今世紀になる と、地域間の差が小さくなりました。 一九世紀末から今世紀にかけて死亡パタンがこういう大転換をしてきたということを、ョロッパについてド イツ、ベルリンに例をとって申し上げましたが、それでは、日本はどうか、ということになります。図2をご覧戴 きたい くレーノ ノノー のです。 137

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に多く、男児女児それぞれ一五%↑合計三○%を越えるという状態です。そのあとどの年齢階層でも死亡がありま すが、五○歳未満で比較的少ないのは、出稼ぎが多くて若い人が割合少ない村だったからです。 次に刃3。真宗大谷派の往還寺という、檀家が約七○○戸ぐらいの寺が、高山市の南、飛騨国の南の入り口にあ 次に図3。真宗大谷派の往還寺とrl檀家が約七○○戸ぐ たる地域にあります。山村地帯の寺ですが、二六○年ほど連綿 と詳細に記録された過去帳がこの寺にあります。過去帳という のは、ご承知のように亡くなった人の俗名と戒名、続柄、死亡 年月日と年齢を記録するのが普通ですが、往還寺ではそれに加 えて死亡原因を一記録しています。このようにきちんと記録され た過去帳を飛騨高山の須田圭三という町医の方が分析して、図 3を発表しました。図の書き方がたいへん変わっているのでわ かりにくいのですが、一七七二年から一九六○年頃までの推移 を示しています。一九四○年ぐらいのところに上から下へ線を 引いて戴くとよくわかるように、それまでのところは一歳から 五歳、これは数え年ですが、この死亡の比率が非常に高い。と ころが一九四○年以降は、急に下がってきています。それに対 して下の方、高齢者の死亡の比率の方は、一九四○年以前はそ んなに高くありませんが、その後急に高くなっています。上か ら二番目の段に二一歳から三○歳の年齢層の比率が点線で示し 年 齢

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1 男 子 356例 女子 367例 40 3() 20 10 U U U % 1 5 1 0 5 0 0 5 1 0 1 5 % 出典速水融『江戸の農民生活史」NHKブックス、1988年、105頁。 図2死亡年齢別分布(1773∼1869) 13差

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大 衆 長 寿 時 代 の 人 間 と 宗 教 一 死 生 観 の 変 化 と 先 祖 供 養 てありますが、これが急に 上がっているのが一九四○ 年代、太平洋戦争中の戦死 者を反映するものである買う かと思います。それはとも かく、一九四○年くらいま で、つまり戦前までは幼い 人達の死亡が多く、高齢者 の死亡は比較的少ないのに、 それが戦後大変かわってき たことが、ここに示されて いるわけです。これは局地 的な研究ですが、ベルリン ないしはドイツに対応する 資料といえましょ、7。 全国的な資料としては、 一九二○年、大正九年に第 一回の国勢調査が実施さ 出典須田圭三「主要業績集」須田病院、1987年、1()9頁。 図 3 死 亡 総 数 に 対 す る 年 齢 層 別 死 亡 者 の 比 率 表11920,1940,1960,1980年の年齢層別死亡分布 60-7475歳以上 1 6 8 2 0 1 2 3 2 2 9 3 1 4 6 総 数 0 − 4 1 0 0 3 7 1 0 0 2 8 1 0 0 9 1 0 0 2 年 次 大正9(1920) 昭和15(1940) 昭和35(1960) 昭和55(1980: 15-29 ●4詮1L nU QJ 45-5書 銅4反﹄巨哩⑪△胃且 ﹃Il PhU

4462

11 11﹃1入1且1L ハⅡUn/白RJQJ (資料厚生省「人口動態統計」) 139 帯電 6∼10 才示十 才涼-J ﹄少 弘 才 肥 五一 四一 一興U’ 九一 八一 七一 ︷ハ一 五一 四一 一八○一 九一 八一 / 、〆、21∼30

==二一一ヘーーーニニ=謡テ皇些

4∼50才 3Tミ誇一=---今多全一=ニニー一三一-ご=一一 61∼70

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先程↑図2﹄図3で江戸時代から戦前戦後に及ぶ局地的な統計をご覧戴きました“それに対して表司一峰大正九 年から今日まで六○年間の変化をお目にかけたわけです。昭和一五年、三五年の説明は省略しましたが、これは丁 度いい具合に大正九年パタンから昭和五五年パタンへの推移を示すような数値になっています。これを見ると、 日本も先程お目にかけたドイツと同じような傾向を示していることが判明します。ただ、ドイツは一九世紀の終わ りから二○世紀にかけて、そのような大きな転換を記録したのに対して、日本では数十年遅れて戦前、あるいは戦 中から戦後にかけての大きな変化であったという違いがあります。 れ、幸いそれ以降の全国的な数字があります。 それが表1として掲げたもので、大正九年から最近に至るまで、二○年の間隔で数字を掲げました。この表は死 亡年齢を一五歳で刻んでいます。ただし、乳幼児の死亡率が以前は非常に高かったので、零歳から四歳まで、これ は五歳未満の意味ですが、それと五歳から一四歳までと、一五歳未満を二つに分けています。これをご覧戴くとお わかりのように、大正九年の段階では、五歳未満が三七%で、五∼一四歳の五%を合算すると、一五歳未満の死亡 が四二%に達することになります。ところが六○歳以上は合算しても二四%。従って、死亡者のなかで六○歳以上 が四分の一にとどまり、他方、一五歳未満が四割を超えたという時代であったわけです。先程のドイツの一九世紀 までのパタンに酷似していると考えられます。ところが一番下の一九八○年、最近の段階を見ると、○∼四歳が わずか二%、五歳から一四歳が一%で、一五歳未満は合計三%にすぎません。他方、七五歳以上が四六%、六○か ら七四歳までが三一%、合計して六○歳以上が七七%ということになっています。今日では幼い人は死なないで済 むようになり、死亡は老齢層にかたまるようになったというパタン、ドイツでいうと二○世紀のパタンが、こ むようになり、死亡は老齢再 こに示されているわけです。 140

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大 衆 長 寿 時 代 の 人 間 と 宗 教 一 死 生 観 の 変 化 と 先 祖 供 養 では、ドイツあるいはョロッパに遅れただけかというと、そうではなく、おそらく日本の特色を考慮しなけれ ばいけないように思われます。日本では戦前の、ドイツでいえば一九世紀のパタンを﹁老少不定﹂と名づけ、今 日のように皆が長寿になり、亡くなるのは高齢者、言い換えると、生まれた人の七○%までが七○歳に達するパタ ンを﹁大衆長寿﹂と呼ぶならば、この転換は老少不定の時代から大衆長寿の時代への転換とい、うことになるわけで す。日本の場合、この転換の端境期というか、分水嶺のところに非常に特色のある事件が起こっています。それは 第二次世界大戦です。この時代は、老少不定とか大衆長寿にからめて言うと、﹁死一定﹂の時代といえます。あるい は死と対面した決死の時代というか、そういう時代が日本ではその狭間にありました。特攻隊等で前線に出撃した 人の遺書、これは例えば﹃昭和の遺書﹄という形で出版されていますし、もっと前には﹃はるかなる山河に﹄や﹃き けわだつみのこえ﹂に出ていますが、そういうのを見ると、当時の若者は本当に死に対面した世代であることがわ かります。戦犯刑死者の遺書、これは﹃世紀の遺書﹄という形で刊行されていますが、これを見てもきびしく死と 対面した人々の声が聞こえています。また広島、長崎の原爆の被災者達、これはずっとその後も日々死に対面した、 そういう日々を送ってこられたわけです。従って戦後にずれ込むのもありますが、大きく見ると時代の転換期に、 決死の時代、死一定の時代というか、死と対面した時代を日本は持っている。そ、うい、7時代をドイツは転換の時点 で持っていないのではないか。このように考えると、全く同じではありません。けれども、大きな傾向としては同 一の歩調をとっている、というふうにみてよいと思います。したがって、起こる時代に差はあっても、全世界的な 規模で起こった、ないし発展途上国では起こりつつある、あるいは将来起こる転換であると、考えるしだいです。 14息

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このような死亡パタンの今昔というものを頭においた上で老少不定の時代を少し考えてみたいと思います美︾ いろいろな書き物の中に、なるほど老少不定の時代だったなあ、という感じがするもの、もしくは老少不定とい うことを考えると一層よくわかる思いのする文章が沢山あります。有名なものをいくつかここに掲げてみます。 まず兼好法師の﹃徒然草﹂ですが、兼好法師がこの﹃徒然草﹂の最初のほうを書いたのが三六歳くらいです。ご 承知のように、兼好法師は一四世紀の人であって、﹁命長ければ辱多し。長くとも四十に足らぬほどにて死なんこそ、 めやすかるべけれ﹂︵第七段︶といっております。彼自身はもっともっと長く生きましたが、当時は乳幼児死亡の段 階を過ぎて成人に達した人も、四○歳ぐらいの寿命が、大体の相場ではなかったかと思います。 ところで兼好法師は﹁無常の来る事は、水火の攻むるよりも速かに、遁れ難きものを、その時、老いたる親、い とけなき子、君の恩、人の情、捨て難しとて捨てざらんや﹂、つまり死が忽ちに来るということをいっています。無 常というのは死のことです。これは第五九段で、その次に掲げた文章は第一五五段ですが、﹁生・老・病・死の移り 来る事、またこれに過ぎたり﹂、文章が省略されていますが、﹁これ﹂というのは四季の移り変わりを指しています。 ﹁四季は、なお、定まれる序あり。死期は序を待たず。死は、前よりしも来らず、かねて後から迫れり。﹂大変気味 の悪いことをいっていますが、伝染病などが入ってくると、本当に人間の命は傍いものであったのです。 一四世紀後半から一五世紀になると、世阿弥の﹁敦盛﹄には﹁人生五十年、下天のうちに較ぶれば夢幻のごとく なり。﹂という有名な言葉がありますが、乳幼児死亡の段階を通って生き残った人の寿命が、せぜい五○年という時 代であったことを暗示するように思われます。 二老少不定の時一代 14更

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大衆長寿時代の人間と宗教一死生観の変化と先祖供養 ﹁朝ニハ紅顔アリテタニハ白骨トナレル身ナリ・﹂本当に無常迅速です。﹁スデニ無常ノ風キタリヌレ、ハ、スナハチ ●e◆●●昔早●。巳●■■●■●■●ら●●■●●●●●●●■。●&■色口串●●●今口号。●■●●o フタッノマナコタチマチニトヂ、ヒトッノイキナガクタエヌレバ、紅顔ムナシク変ジテ桃李ノョソヲィヲウシナヒ ヌルトキハ、六親春族アッマリテナゲキカナシメドモ、更ニソノ甲斐アルベカラズ。⋮サレバ、人間ノハヵナキ事 ■o●●。●●●■。● ハ、老少不定ノサカヒナレバ、タレノ人モハヤク後生ノー大事ヲ心ニカケテ、阿弥陀仏ヲフカクタノミマヒラセテ ⋮﹂という、真宗門徒の葬儀には必ず読まれて会葬者の袖を絞らせる場面になるわけです。傍点をふった﹁朝ニハ 紅顔アリテタニハ白骨トナレル身ナリ・﹂というのは、﹃和漢朗詠集﹄のなかの少将藤原義孝の七言詩の一聯﹁朝に 紅顔あって世路に誇れども、暮に白骨となりて郊原に朽ちぬ﹂から採ったものです。これは冷泉天皇の女御に日本 第二の美人、第一が誰か私は知りませんけれども、第二の美人と評される方がいて、その人が僅か二五歳で亡くなっ たのを悲しんで中陰に詠んだもので、それを写しているわけです。次の傍点部分コノタッノマナコタチマチニトヂ、 ヒトッノイキナガクタエヌレバ、紅顔ムナシク変ジテ桃李ノョソヲイヲウシナヒヌルトキハ﹂、これは本願寺第三世 覚如の子存覚の法語を下敷きにしたものです。先人の言葉を引用していることに敢えて言及しますのは、﹃和漢朗詠 集﹄は二世紀初頭の成立、﹁在覚法語﹄は一四世紀の作品ですが、二世紀∼一四世紀と同じような死にたいする 感覚を一五世紀の蓮如の時代も持っていたことに注目したいからであります。引用したということは普段から口ず さんでいて自ずと出てくるもので、ことさらに写したわけではないはずであります。今日の学生のようにあちこち の論文から寄せ集めたものでレポトを作るのとは、成り立ちが違うわけです。さらに明治期には、この﹁白骨の お文一について﹃白骨章説教﹂という本さえ出版されたりして、今日に至るまでずっと人々の共感を呼んでいるこ 次に、 います。 ﹁朝二 一五世紀後半に活躍した本願寺蓮如の﹁白骨のお文﹂を挙げておりますが、これは多くの方がご存じと思 F一 4 1人

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それではなぜ老少不定であったかということですがまず戦乱。戦乱がおさまった時代でも飢鯉がある。飢隆 がなくても伝染病が猛威をふるいました。この時代の主な死因は、餓死とか事故死でない場合、急性感染症、細菌 性の感染症でした。例えば赤痢とか疫痢、腸チフス、パラチフス、コレラ、ペスト、庖惰、などの急性感染症によっ ます。 次に本門仏立講、 正期に出来ています。 とは、同じ死亡扇歩タンが背景にあ三↑たことを暗示します。 それから専修寺尭秀、この人は江戸時代の真宗高田専修寺の第十四世門主ですが、﹁春ノ朝二花ヲモテアソヒシ人 モ、タニハ北苦ノ風ニナリ、秋ノタノ月ヲ伴シ輩モ、暁ニハ東岱ノ雲ニカクレヌ﹂という文言を含む御書を製作し ています。大変技巧を凝らした面白い文章で、やはり葬儀のときに読まれたようです。蓮如のお文の向こうを張っ て作られたものでしょうが、蓮如のお文のように会衆の心にアピルすることは少なかったのではないかと思われ |春若草の摘みくらべ夏砂鵬のかち渡り共に仕合し我友のはかなくなりし悲しさよ すがる御法の一筋に君を祈らん朝な夕我等の友はとこしえに法の御国にたのしかれ﹂ という文句です。小学校ぐらいの子供を中心としたのが薫化会なのですが、今日ではそのくらいの子供に歌わせ るのに、この歌はフィットしないのではないでしょうか。この時代はまだ、小学校の年齢になっても亡くなる子が かなりいたとい、7、そう“いう時代を反映していると言えるのであります。 以上目に付いたものをいくつか挙げてみましたが、老少不定の時代を映し出した文章が、沢山あるということに ご注意戴ければ幸いです。 それでは、なぜ老少不︷ 本版仏立講という本門法華宗系の新興教団かありましてその仏立薫化一会に一薫化哀悼歌﹂というのが大 144

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大衆長寿時代の人間と宗教一死生観の変化と先祖供養 て亡くなった︽︺環境衛生が劣悪で医学も発達していない時代ですから、ひとたび伝染病が入ってくると、その地 域の老若男女を問わず、総ての人の背後に死の影が毒く、そういう時代でした。ですから弱い者は幼い者も老いた 者も、共にその犠牲となりました。この時代の人々はそれほど長く療養することなく、一週間とか十日、ペストな どは三日ぐらいで、極めて短期間に勝負がついた時代です。蓮如のお文にあった﹁朝ニハ紅顔アリテタニハ白骨ト ナレル身ナリ﹂というのは、今日ならこの人は交通事故にでも遭ったのかということになりましょうが、ひとたび 伝染病に冒されると、朝元気だった子が夕にはグッタリして、一日か二日の間に亡くなってしまう。従ってお文の 文言は、まさしく遺族の実感をとらえていた、そういう時代であったわけです。 伝染病の猛威に加えて、当時は子供に対する世話が行き届きませんでした。農繁期など、田植えや稲刈り、ある いは養蚕と、仕事に追われて子供を放っておくことが多かったのです。しかも育児に関する知識もまだまだ幼稚で、 それでいて放置するわけですから、病気でも入ってこようものなら子供はひとたまりもない、という時代でした。 そのような状況が加わって先程お話した死亡パタンを形成したわけです。 当時は死が非常に身近かであった。事故死以外は殆ど在宅死であったということもありますが、死が、幼・少・ 壮・老を選ばないということから、そのように感じられたわけです。幼くして親を失った子、幼い子を失った若い 母親、頼りにする息子に先立たれた老婆、そういう悲しい例が数多く出ました。それが例外的な不幸ではなく、何 処ででも見られたことから、﹁悲しみの日常性﹂とこれを表現することができます。ふだんは生計のために労働に追 われて忙しく、表面には出ませんが、心の奥底には悲しみが居すわっている。そういう悲しみの日常性を特色とす る時代であったといえるわけです。いうなれば浮世、すなわち憂き世と感ずる。憂きことは死別の悲しみを中心と するものと考えていいかと思うのです。ですから、来世というのは、人が死ねば来世へ行くといった、現世の次に 145

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あるものではなく雪現世の隣に来世が併存する、また現世と来世かいわば交錯する、交流する、そういう時代であ りました。柳田国男氏が昭和二一年に﹃先祖の話﹂というたいへん有名な本を書いていますが、この中で﹁死の親 しさ﹂ということを言い、顕幽二界の交通が頻繁であるとい、うことを書いています。これは私から見ると、先程言っ た老少不定の時代から大衆長寿の時代に変わる分水嶺の時期に、過ぎ去りゆく時代の先祖観の特色に確かな表現を 与えたものといえるのであります。 ところで、創文社という出版社のPR誌﹃創文﹄の表紙裏に、東大教養学部の西洋史教授・木村尚三郎先生が﹁文 化の風景﹂というエッセイを連載しておられます。図4は本年一○月号の挿絵写真を使わせていただきました。そ の説明も木村先生によるわけです。さて、図4は北フランスのコンピエニュ市のサン・ジャック教会堂にある、 一五世紀の木彫のマリア像です。マリア像といっても一種のピエタですが、十字架に架かつた我が子イエスの傍ら にあって、悲しみに立ちつくす表情が、顔に、そして手に見事な形で表現されています。目を閉じて口をギュッと 師 誌一創文﹄の表紙裏に東大教養学部の西洋史教授・木村尚三郎先生が一文 られます。図4は本年一○月号の挿絵写真を使わせていただきました。そ 、図4は北フランスのコンピエニュ市のサン・ジャック教会堂にある、 像といっても一種のピエタですが、十字架に架かつた我が子イエスの傍ら 顔に、そして手に見事な形で表現されています。目を閉じて口をギュッと 結んで悲嘆にくれている表情。合わせられた手の手首のところで 細袖口が無造作にまくり上げられ、赤い袖に白い裏地が付いていて、

剛体にまとったブルのコトが悲しみの聖母マリアを包んでいる

母︽わけです。当時のョロッパでは農業技術が成熟して、開墾運動 理一一一がストップした。従って、生産の拡大は止まりましたが、それに 峰睦も拘らず人口が増加した結果、食糧が不足し、栄養失調から子供 悲季がまず犠牲になり、ペストその他の伝染病で死んでいきました。

4く

図我が子の死を歎く母親のひたすらな悲しみが、イエスの傍らに件 146

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大 衆 長 寿 時 代 の 人 間 と 宗 教 一 死 生 観 の 変 化 と 先 祖 供 養 んで悲しむ聖母マリアの悲しみと、二重写しになっているのです。そうしたことがこの像を初め、一四世紀から一 七、一八世紀にかけての絵画、音楽等に、沢山反映されていると、木村先生は解説しています。日本でも同様だっ たのではないでしよ、フか。郡上節の一節に﹁郡上のナ八幡、出ていくときは、雨も降らぬに袖絞る﹂というのが あります。江戸期の郡上八幡に百姓一撲が起こって、中心になった人達が多数捕えられた。捕えられてゆく一撲の 首謀者達を送る悲しさと二重写しになって、我が子を失った母親達の悲しみが、この歌を口ずさみつつ盆踊りを踊 り、盆の月を仰ぐときこみあげてくる。それが﹁雨も降らぬに袖絞る﹂とい、うことではなかったかと思われます。 こうした老少不定の時代には、死とか死後が社会システムのなかに組み込まれ、様々な形で発現しました。例え ば、その時代の大家族形態は、死のショックを吸収する効果を持っていたと考えていいと思われます。当時発達し た先祖供養ないし死者供養の様式、儀礼もまた、死の衝撃を和らげるためのものであったと考えてよかろうかと思 います.先祖︵死者︶供養の機能として、①儀礼により悲しみをあらわに表現してよい機会を与える、②儀礼によ り遺族にある種の社交生活を強制することによって過度の悲しみから遺族を守る、③教えによって死の不条理を受 け容れるのを助ける、④全体として死者との交わりを助ける、以上四項を挙げることができます.いちいちの説明 は省きますが、①はイギリスの社会学者ゴラ扇⑦○吋①ユが、﹃死と悲しみの社会学﹂という本の中で展開して いる考え方、②は、有名なフランスの社会史家アリエス弓.シ国肝︶が﹁死の歴史﹂という著書で展開している考え 方です。要するに、老少不定の時代の死者供養は、死のショヅクに対して人々を守り、また死の悲しみを超えて人々 が立ち上がるために必要な、儀礼と人生および死に対する考え方を提供したのであります。 147

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そのような環境衛生の改善に加えて栄養の改善、それから医療技術、特に予防医学の進歩が大きな意味を持っ ています。今や乳幼児をはじめ、年若くして命を失うことなく、七○%以上の人が七○歳まで生きることができる 時代になっています。今日の主な死因は急性感染症から、脳血管疾患とか、一般に癌とよばれる悪性新生物、心疾 患、高血圧性疾患など、いわゆる成人病ということに変わってきました。また、かつて僅かな患いでアッという間 大衆長寿の時代になった原因はいろいろあります定飢鐘および急性感染症を克服することができたこと、子供 に対する世話が行き届くようになったことを挙げなくてはならないと思います。今日では行き届きすぎて過保護が 却って問題になっていますが、戦前の農村では放置もよいところでした。東北で﹁えじこ﹂という藁製の大きな入 れ物に幼児を入れて、半日も放っておくことが農繁期にはふつうのことでした。そんな状況から少しは世話ができ るようになったということが、乳幼児を死亡から救い出す重要なモメントです。急性感染症の克服については、ま ず環境衛生の改善が挙げられましょう。日本で伝染病が流行った最後は昭和一二年で、このときは発疹チフスが流 行して患者が三万二千人を超え、死者も三千人を超えたほか、天然痘、コレラも椙微を極めて沢山の死者が出たの ですが、この時は進駐軍の命令でDDTの大量散布を行って鎮圧しました。その後日本にはこのような大規模な流 行病がなくなったのであります。 さて現代は大衆長寿の時代です。アメリカの経済学者ガルブレスが、現在を経済学の立場から﹁不確定性の 時代﹄と呼びましたが、人口学の上からは﹁確定性の時代﹄です。別の言い方をすれば、大衆長寿の時代でありま 一二大衆長寿の時一代 L48

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大衆長寿時代の人間と宗教一死生観の変化と先祖供養 その結果、今日では死が遠ざかったと言えます。それは七割ぐらいの人が病院で、日常生活から離れたところで 亡くなるという単純な意味ではなく、一般に死が遠ざかっていると言われています。死による悲しみが日常生活か ら殆どなくなって、極めて身近な人だけの悲しみとなっている。悲しみの非日常化というか、かつて人々が日々悲 しみをいだいていたのが、今日では殆ど感じなくなっています。かつて宗教の布教に欠かせない三つの要件として、 これは群馬県安中教会の江川栄というキリスト教の牧師から聞いたことですが、まず燃えるような信仰、つぎに教 えに対する充分な理解、そして第三に、人の悲しみがわかるという三つのことが挙げられました。これは、老少不 定の時代にこそ大切なことであったわけです。しかし今日では悲しみが非日常化している。だから学校での﹁いじ め﹂のような、人の悲しみがわからないというほかないようなことが起こる。そう短絡的に断定することはできま せんけれども、少なくとも悲しみの非日常化というのが今日の一般的動向ではないか。また来世志向の衰滅という ことも、これに従って生じているといえます。 大衆長寿の時代がきたため、我々は長期に亙る人生設計ができるようになっています。かつては長期の人生設計 をしても、いつどこで死ぬかわかりませんから、それは殆ど無意味でしたが、今や長期に亙る人生設計が積極的な 意味をもつようになりました。それに加えて、経済生活が安定し消費生活が向上したことから現世志向が卓越して きて、様々な現われ方をしています。例として墓地景観の変化を挙げれば、かつては陰々滅々たる土葬墓地、土葬 でなくても、例えば高野山の奥の院に至る両側の墓のように黄泉の国の入口も斯くやあらんと思われるような墓地 が多かった。ところが、今日はたいへん様変りして、四季とりどりの花が咲く、ピクニックにでも行けそうな、い り ま す に鯵くな︵↑たのか今日では比較的一長期の:あるいは慢性の疾病が主な死因とか二ていることも、大きな変化であ 149

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わゆる公園墓地になっています。 葬送儀礼も大きく変化しています。ただ葬送の後の年忌については、かつて一周忌、三回忌、七回忌、とずっと あって、三十三回忌もしくは五十回忌、つまり弔い上げといわれるときまで、何回も繰り返して法事が行われまし た。そのとき人々は故人を思い出して、一種のカタルシス︵感情発散による浄化︶を体験できた。つまり、何回も 繰り返しての法事の必要性が、生きている人の側にあったと言えるのです。亡くなった人の成仏のためとなってい ますが、生きている人のカタルシスのために必要であったという面を忘れてはならぬ、と私は思うのです。 今日では現世志向が卓越していますから、法事が少なくなったと思われますが、それにしては年忌等は割合に行 われているようです。曹洞宗の﹁宗勢総合調査﹂などによると、年忌は比較的励行されており、けっして廃れたり 衰えたりはしていません。私は、それについてどうも年忌の意味が違ってきたのではないか、という仮説を立てて います。人間は﹁自分は何者か﹂という説明、自己確認、セルフ・アイデンティティを絶えず必要とする生物です。 対外的自己確認としては、所属する最も重要な集団に言及する、例えば﹁成城大学の森岡です。﹂というような、こ れも一つの自己確認なのです。もう一つ、対自己的な、自分自身に対しての自己確認は、何か聖なる存在との関連 において自分を確認する、ということではないかと思います。聖なる対象に言及することは、日本人においては先 祖、亡くなった親に言及することによって自分の位置を確かめるということになりやすい。年忌などは親類縁者が 集りますから、対自己的な自己確認をするかっこうの機会となります。墓参りなど伝統的な宗教行事を比較的よく する年齢層は、NHK調査などによると、六○歳以上の人、あるいは主婦なのです。これは年をとったからという こともありましょうが、年をとると所属する団体がなくなりますから、そこで一層自己確認のためには先祖、故人 となった親を手掛りにする必要があるのではないか。年忌が比較的励行されていることは、このような点を示唆す 150

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大 衆 長 寿 時 代 の 人 間 と 宗 教 一 死 生 観 の 変 化 と 先 祖 供 養 に残り少なくなる、新しい友人はもうできません唇従っ て孤独が増す時代であります。また、自由な時間はふ えてきますが、むしろ無為に苦しむというか、為すべ きことのないのに苦しむという時期になってきます。 ここで孤独に苦しむ人に仲間を提供し、無為に苦しむ 人に活動を提供することが必要になってきます。 我々は生涯にわたって学習をするわけですが、若者 から大人になる時期には、社会的生産のための学習を 最後に一言付け加えて置きたいと思、﹁ノのは大衆長寿時代の人間の一生において、二つの過渡期が長期化してい るということです。一つは若者から成人、大人になる時期です。元服というと時代がかってきますが、例えば小学 校を出るとすぐ仕事をするなど、比較的簡単に成人の役割に入るのがかつての姿でしたが、今はなかなかそうはい きません。慶応大学の小此木啓吾先生などは、モラトリアム人間などと言って、この時期が長くなったために生じ た若者の特色を要約しています。もう一つ長くなっているのが、ご承知の通り、中高年の時期、引退から後の時期 であります。この時期はかつてはもっともっと短かった。人生六○年とい、﹃ノか、図5にも示されているよ畳﹃ノに、乳 幼児死亡を免れた人にとって六○歳が平均寿命であった時代には、退職後の余命はそう長くはなかったのですが、 今日はたいへん長くなっています。しかも長くなったこの時期は、だんだん孤独が深まってゆく時期でもあります。

子供は別居する、配偶者とは死に別れる、友人は次第5

るよ、﹃ノに思われま︽す。

零届;晶謬喜圏蕊蕊霊薬

生 命 表 の 年 次 資料「第16回生命表」 「昭和55年簡易生命表」 図5平均寿命の推移(1899∼1985 151

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するのに対して今日では死への準備としての学習も必要にな一ってきているのではないな一死ぬことを習うという ことではなく、死ぬまでの時間を如何に有効に使うかについて、我々は出来あいの手本を持っていないので、それ を学びとる必要があると思います。生産活動のための学習は教育機関がやっていますからそれでいいわけですが、 最後の死への準備としての学習を担当するところがどこにもなかった。敢えて言えば、それを担当するのが宗教で あり、新しい意味において宗教はもっとここに注目すべきではないか。言い換えれば、かつて生者のために死者供 養をしてきた宗教が、今は大衆長寿時代にふさわしい、生きる人のための新しい機能を開発することが求められて いるのではないか、と思うわけであります。 説明としてはあちらこちら省きましたし、それに少し込み入ったことも申しましてご理解戴きにくかったかと思 いますが、時間も参りましたようなので、これで私の任務を終らせて戴きたいと思います。 ご静聴有り難うございました。 ︵本稿は昭和六三年一二月一八日第二二回中央学術研究所総合会議における特跳講演の筆録を先生に加筆して 頂いたものである。︶ 152

参照

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