◎連載論説
歴 史 と 神 話 へ の 視 座
疑 古 派 禺 天 神 論 の 検 証 か ら の 再 出 発
(中)中 島 敏 夫
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四
こきつこう中国における疑古派の論説は︑一九二六年︑顧頷剛(一
八九三〜一九八〇)の論文によって幕が切って落とされ︑
この論説によって中国全学界︑引いては中国社会全体︑さ
らにはある程度グローバルな︑中国上古史に対する認識が
全く一新される事態が将来した︒その経過は上篇に紹介し
た︒その二極に分かれた認識は今日まで後を引いている︒
特に中国と日本では︑双方が大きく二分した状態が続いて
いる︒拙論中篇以下では︑疑古派を代表し︑その原点となっ
た顧頷剛のその論説を取り上げ︑その論旨が今現在の時点
でどこまで有効であるかを検証していきたい︒論文の内容 をまず紹介する︒関連論文は以下である︒
こしぺん﹃古史辮﹄第一冊に掲載された関連論文は次である︒冒頭
の数字は﹃古史辮﹄中で付与された番号︒論文名・筆者名
の後の()内の頁は原本﹃古史辮﹄第一冊中の頁︒
㈲﹁銭玄同に與え古史を論ずる書﹂顧頷剛(五九‑六六
頁)
⑳﹁顧頷剛先生に答う書﹂銭玄同(六七‑八二頁)
㈱﹁顧韻剛君﹃銭玄同先生に與え古史を論ずる書﹄を讃
えんれいんでの疑問﹂劉揆黎(八ニー九二頁)
り ㎝﹁顧頷剛先生の﹃古史を論ずる書﹄を讃んだ後で﹂胡
きんじん董人(九ニー九六頁)
㈹﹁劉胡爾先生に答う書﹂顧頷剛(九六‑一〇二頁)
歴 史 と神話への視座(中)
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㈹﹁國學を研究するに先ず知るべき事﹂
二‑1O五頁)
幽﹁古史を討論し劉胡二先生に答う﹂
五‑一五〇頁) 銭玄同(一〇
顧韻剛(一〇
㈱は㈲に対する銭玄同の返書︒劔は劉披黎の反論︑働は
胡童人の反論︒㈲と㈱は顧頷剛のそれらに対する再反論で
ある︒
ここでは︑このG㊦(以下では﹁前=と略称する)と幽
(﹁前二﹂と略称)について見てみる︒G⑤と㈹の両論を区別
する必要がない場合は両論を﹁前論﹂と略称する︒他にも
若干の銭玄同と顧頷剛の論が載るが︑主要にはこの両論で
ある︒これからさらに約十年後の一九三七年六月﹃古史辮﹄
第七冊下篇に童書業との共同執筆の次の論文が発表される
(﹁後論﹂と略称する︒﹁前論﹂﹁後論﹂を区別する必要がな
い場合は全部を﹁顧(氏)論﹂と称す)︒
こんう⑬ゆ﹁鯨禺の傳説﹂九五頁) 顧韻剛・童書業共同執筆(一四ニー一
この﹁後論﹂では﹁前論﹂の立場が基本的に踏襲される
と共に若干の修正がなされている︒これ以外にも関連した
論文は数多いが︑以下︑これら論文に焦点をしぼって検討 する︒できる限り既成観念によらず︑
にそって紹介したい︒ 客観的に論文の内容
﹁前=論では︑清朝の崔述ら疑古派の業績を高く評価す
る一方︑まだその疑古が不十分で︑その疑古を徹底する必
要があることを強調する︒さらに崔述が経書を基準にして
信史(真の歴史)か否かの判断をしていることに異を唱え︑
経書も︑後の﹁傳(伝)﹂(経書で経文に施された注釈︒()
内は以下も﹁﹂による原文引用以外は原則として中島の
付記)と同様に︑前の史に対しては︑その﹁傳﹂(注釈)の
役割を担うものに過ぎないとした︒戦国時代の諸子が自ら
の主張のために古人を装って発言したと同じように︑戦国
を潮る孔門(孔子と門下)の人の話も古人を装うものであ
ることに変わりないと言う︒次いで︑顧韻剛の基本的な観
点つまり﹁時代が下がれば下がる程︑そこで述べられてい
る伝説中の人物は歴史的に古い人物となる﹂とするいわゆ
る︿累層的古史観﹀(﹁累層地造成的古史﹂)︑あるいは︿古
代累層加上説﹀ともいう︑が述べられる︒﹁薪を積むが如き
きゅうあんのみ︑後に來る者上に居る﹂である(﹃史記﹄汲賠傳の
語)︒具体的には︑春秋初年︑最古のものは禺であった︒後︑
尭・舜がその前に設定され︑さらに戦国から西漢にかけて
多くの偽史が作り出されて︑尭・舜の前に多くの帝王が加
えられた︒すなわち︑秦の婁公(在位︑前四二四〜前四一
置68
四︒()内の年代は以下も引用者中島の付記)の時︑黄帝
が祭られ︑方士が出て︑発・舜の前に黄帝が設定された︒
けいじでん許行が出て︑黄帝の前に神農が立てられた︒易の﹁繋欝傳﹂
ほうぎふっきが出て︑神農の前に庖犠氏(伏犠氏)が立てられた︒さら
には李斯が出て︑庖犠氏の前に天皇・地皇・泰皇が立てら
せいほんれた︒﹃世本﹄が出て︑すべてが黄帝の子孫ということに
なった︒﹃春秋命歴序﹄で︑天地の開關から春秋末まで︑天
皇十二人︑二百二十六万年になった︒漢代には苗族と交流
ができ︑苗族の始祖の盤古が天地開關の人になった︒
結局︑古代の文献で証拠として徴し得るものはなく︑信
史がどうか実際には証明できない︑ただ我々に可能なこと
は︑伝説の︑時代ごとの経歴を見ていくことだけである︒
時代を追って文献ごとに︑その内容によっての史の記述が
必要であり︑自分としてはそれを書きたいと述ぺている︒
﹁前=論は︑禺に関する本論に入ると︑以下のように述
べる︒
西周から春秋初までの当時の人達は︑悠久な古い時代に
対する推測は持っていなく︑周族の始祖以外に共通の族の
始祖の意識はなかったが︑ただ︑かれら自身の始祖以外に
禺というものだけは認識していた︒それは︑﹃詩経﹄商頒・
長獲に﹁洪水芒芒として︑禺︑下土の方を敷く︑⁝⁝帝は
子を立て商を生ず﹂とあることから分かる︒これは禺につ いての最も古い記録である︒これは﹁商(殿)の国家は上
帝(天上の帝)が建てた﹂ことを言うものであり︑その上
帝が禺に命じて洪水に対し土を敷かせ︑その禺が開いた地
に商(股)を建てたことを詠むものである︒つまり︑禺は
上帝が派遣し降りてきた天神である︒この詩は︑西周半ば
に商の末喬が建てた宋国の人が自分たちの祖先を祭った祭
祀の歌である︒禺は商人にとっては天神であった︒これが︑
ひきゅう周族にとっては︑魯頒・聞宮の詩(春秋期の詩)では﹁是
かしょうれ后稜を生み︑⁝⁝民を偉(し)て稼稻せしめ⁝⁝下土を
えんゆうの奄有(広く占有)し︑禺之緒(いとぐち)を績(つ)ぐ﹂
と詠じられており︑周族の始祖后稜が稼稿(穀物の栽培)
を始め︑下方の土地を全て有し︑禺の始めた後を継いだと
き詠むものである︒この魯頒・悶宮詩が詠まれた春秋の僖公(在位︑前六五九〜前六二六)の時には︑禺はすでに人王に
転化しているのである︑としている︒﹁前=論は︑﹃論語﹄は信用性ある文献だと認める︒禺
以前の人物とされる尭・舜は﹃論語﹄以前には存在しなかっ
たとし︑それが﹃論語﹄において禺の前に尭・舜が存在す
ることになったのだとする︒さらに﹃論語﹄の後に孟子・
こうようぽ墨子のく輝譲説Vが出てきて︑﹃尚書﹄中の﹁尭典﹂﹁皐陶護﹂﹁禺貢﹂の篇ができ上がったと考える︒それら篇によって︑
尭と舜の間に父婿の関係︑舜と禺の間に君臣関係ができあ
ぎょうえつがった︑としている︒﹃論語﹄の﹁尭日篇﹂には尭・舜・
16g‑一 歴 史 と神 話 へ の視 座(中)
禺の三人が出るが︑この﹁尭日篇﹂は後人の続作になるも
のであって︑﹃論語﹄そのものとは区別しなければならな
い︒要するに︑﹃尚書﹄中の﹁尭典﹂は信じるに足りず︑﹃論
語﹄より﹁尭典﹂の方が後の作であるとの結論の上にその
論を展開させるのである︒以上が﹁前=論の内容である︒ こんd禺の父は縣であるとの伝承があるが︑もともと禺は
縣と関係のない存在である︒
e禺は︑尭・舜の後を継いだ人物とされるが︑もとも
と尭・舜の臣下ではなく︑後になって臣下とされるよ
うになったものである︒
匹70
﹁前一こ論は︑論をさらに詳細に展開させている︒さらに
この十年後に︑﹁後論﹂において︑その間の人々の反論に答
える意味合いからも内容上の修訂を加え︑より充実させた
形として結論的な意見が述べられている︒ただ﹁後論﹂で
は若干の修訂部分を加えてはいるが︑基本的な観点での変
更はない︒以下に︑この﹁前二﹂論と﹁後論﹂について︑
内容をかいつまんで紹介する︒紙幅の都合上から︑禺の天
神性に重点をおき︑他の点については簡単な紹介に止どめ
る︒ここで出された結論は次の諸点である︒ 禺が歴史的な実在の人物ではなく︑もともとは天神であっ
たとするその根拠は次の点にある︒
禺に関する最も古い文献資料は﹃詩脛﹄﹃尚書﹄であり︑
次のように出る︒(顧韻剛論文には資料原文のみが掲げられ
ている︒だが︑この拙論が必ずしも専門家だけに向けられ
たものではないので︑資料原文は必要な場合のみ引用する
に止め︑普通は︑原文は引用しないで︑訓読に若干の解釈
を施すか︑もしくは訳文を掲げた︒特に﹃尚書﹄は難解で︑
語意にも多解あるが︑一解と顧氏の解を示すに止めた︒)
a禺はもともと天神であり︑実在の人物ではなかった︒
b禺は本来︑夏王朝とは関係のない独立した存在であっ
た︒
かいけいせっこうc禺の来源は︑南方︑特に越(會稽H現︑漸江省紹興
市)の地の神であった(﹁前二﹂論)︒後︑﹁後論﹂で︑
せいじゅうこの点は修正され︑西戎(西方の異民族﹁戎﹂族)の
神であったとされる︒ ﹃詩纒﹄()内は全て引用者中島の追加付記︒以下同︒
しんここれでん小雅・信南山:信たり彼の南山︑維れ禺之を旬す
(﹁信﹂は﹁まことである﹂︒南山は終南山︒陳西省西
安市南方の山︒﹁旬﹂については後述︒普通は﹁郊外
の田﹂﹁(領地を)治める﹂意と解される語)
ぶんのうゆうせいほうすいこせき大雅・文王有聲:豊水東に注ぐ︑維れ禺の績なり
こうけい(豊水は︑周の都︑鏑京11陳西省西安市11西郊の川︑