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厩 な る 縄 絶 つ 駒 の 後 る が へ

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(1)

厩なる縄絶つ駒の後るがへ

   一 防人歌に﹁密なる縄絶つ駒の後るがへ妹が言ひしを置きて悲し

も﹂という歌がある︒この歌の上三句︑序に当る部分は一六六一

年の︑下河辺長流﹃万葉集管見﹄に到ってほぼ現代風の解釈に変

ってきた︒即ち︑      たへ︵朱︶ 此うたは︑馬やにつなける駒の縄 て薫るは︑早きもの也︒を

 くるがへはをくる\かは也︒旅に︑夫の出行とき︑其妻のした

 ひて︑をくるましきょしいひしといふこと也︒

 魚期に︑ふしたる馬の起ることなといへり︑残ましき僻こと

 也︒と受け取ったわけである︒ここにいう﹁僻こと﹂は注釈︵仙覚︶

に発していた︒

注釈 ナハタツコマトハ︑ウマノブシタルヲ︑ナハヲキリタレハ

  タツトィフ

万葉抄 厩にふしたる駒の縄もたちておくるかことく︵我を起か

   はといひしいもを︶

ときて﹃管見﹄の解が現われるわけである︒ ﹃拾穂抄﹄は仙覚を

受けついでいるが︑契沖は長流をそっくり受けついでいる︒

直管記 うまやなるなはたつこまのおくるがへいもかいひしを

   厩につなける駒の︑縄断て馳るは早きものなり︒おくるか

   へは︑おくる\かはなり︒旅に夫の出行時︑その妻のした    ひて我もおくれんものかは︑たちてはせゆく駒のことくを   ひゆかんなと︑なくくいひつるを︑おきてきぬるかかな   しきとなりとあって︑以来この系列が ﹃筍記﹄ ﹃量目﹄ ﹃啓示﹄ ﹃略解﹄

﹃問抄﹄ ﹃古義﹄と続いてきた︒これで大綱は出来上ったわけで

あるが︑長流と契沖の共謀である﹁縄断て馳るは早きものなり﹂

の部分が微妙なせいで︑以後のものも︑その関係がはっきりしな

い︒なるほどく縄絶ちてかけるVくらいだから威勢がよくて速い

という性質は引き出されよう︒とすると︑それに関係して﹁おく

る﹂は主として時間的におくれるということになろう︒そうして

みると上三旬は︿⁝⁝馬が時間的におくれる一ものか﹀という

具合になって︑それと﹁旅に夫の出行時︑その妻のしたひて我も

おくれんものかは︑たちてはせゆく駒のことくをひゆかん﹂を重

ねてみると︑この妻は夫より先になってしまうだろう︒時間的に

おくれるものかは︑だったら︿共に行かん﹀だけでいい︒

 その上﹁たちてはせゆく駒﹂といってくると︑この﹁たちて﹂

は仙覚の﹁ナハヲキリタレハタツトイフ﹂に似て︑縄断つ1起つ

と言っているように聞える︒

 この歌では﹁早きものなり﹂とは積極的には言ってないのでは

ないか︒したがって︑ ﹁駒のことくをひゆかん﹂という時弊・空間をとり戻すイメージもないのではないか︒ ﹁⁝⁝と︑なくく

厩なる縄絶つ駒の後るがへ︵渡部︶

(2)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第三十号

いひつるを︑おきてきぬるかかなしきとなり﹂は動かし難いか

ら︑ ﹁おくる﹂は主として空間的に後に残されるという状態を言

っているのではないか︒

 さて︑近頃の解釈を一覧しておくと︑

大系馬屋の馬が縄を切って外に出て行くように﹁あとに残され

   るものですか﹂と言ったのを︑

では序部と言葉の連なりが︑これだけでは不親切で︑二者の関連

の基礎を補足しなければなるまい︒

全註釈 縄を絶ち切る駒のように︵勢いよくある意である︶

注釈 馬屋にみる駒が縄を絶ち切って飛び出すやうに

校注 縄を切って駈け出す駒のように︒一︑二旬︑ ﹁懸るがへ﹂

   を導く比喩的序詞

と似てきているが少し違うものに︑

私注 馬屋の仔馬が飼主の外出の時︑縄を切って後を慕ふといふ

   ことが︑実際あるのであらう︒それをオクルがへの序とし

   たのである︒

全集 駒︵乗用の雄馬︶が縄を振り切って逃げて行くように︵残

   っておれようか︶

とある︒パターンは固定してきている︒ ﹃校注﹄にいうように

コ︑二句⁝⁝比喩的序詞﹂の形である︒しかし︑例えば先の﹃大

系﹄の﹁外に出て行くように﹂1﹁後に残されるものですか﹂を文

霊的に完成するためには︑ ﹁外に出て行くように﹂の内部に既に

﹁後に残されるものですかと﹂が含まれていなければなるまい︒

 今まで幾度もくり返してきたことであるが︑上三句︵序と名づ

けられるもの︶は一つのまとまったイメージを持っていたのでは      すないか︒ ﹁駒のことく﹂ ︵契沖など︶ではなく︑駒が重るがへ 一六

というという主述の形で︑挙るがへ︑後るがへというが駒の性質

として同時存在しているのである︒ここまでが序のイメージなの

であるが︑第四句に﹁妹が﹂介入しているので修辞学的には第三

句までが歌のリズムなのである︒第三句は上の句と下の句に共存

し︑関連する︒

 ﹁オクル﹂は万葉集に次の様に存在する︒

 巻九雑歌﹁大宝元年辛丑の冬十月︑太上天皇・大行天皇︑紀伊

国に幸す時の歌十三首﹂ ︵=ハ六七〜一六七九︶の次に﹁後人歌

二首﹂ ︵一六八○〜一六八一︶とあって︑これは﹁おくれたる人

の歌﹂とよまれる︒

一六八○ あさもよし紀伊へ行く君が真土山越ゆらむ今日そ雨な

降りそね

一六八一 後れ居て我が恋ひ居れば白雲のたなびく山を今日か越

ゆらむ ﹃全集﹄に﹁後人﹂1後に残された人︒家人︒ ﹁後居而﹂i後

ルはあとに残るの意︒とある︒ ﹁後に残っていてわたしが恋い慕っているとき﹂と解釈されている︒

 ﹃時代国国高大辞典﹄に一後れる︒後に残される︒時間的・空

聞的に後になることにいう︒

 今でも︿おくれる﹀は右同様である︒といって︑万葉の﹁後

人﹂は一時問遅れ︑二日遅れの量的時問・空間の遅れではないら

しい︒それよりは﹁後に残された人﹂と﹁旅人﹂との心理的関係

(3)

 らしい︒即ち﹁後れ居て1我が恋ひ居れば﹂の形を基底とするら

 しい︒ 一一五 後れ居て︵遺居而︶恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈

 廻に標結へ我が背

 とあっても︑これはく歌﹀というものであって︑後を追って行く

 行動ではない︒そうした心理的な性質によって︑ 三六五 iうまそつまつく家恋ふらしも =九二 一あが馬なつむ家子ふらしも

 という共同幻想の表現が可能になるわけであろう︒違った表現で

 は︑ ﹁後れたる﹂ ︵三二九一︶は﹁留まれる我は﹂ ︵三二九二︶

 となる︒

 一七八五 ⁝⁝群鳥の群立ち去なば留り居て我は恋ひむな見ず久

 ならば 一七八六 み越路の雪降る山を越えむ日は留れる我をかけて偲は

 せ と︑はっきり﹁留り居て﹂ ﹁留れる我を﹂と現われる︒ ﹁後れた

 る﹂がこれと同意だから﹁馬そつまつく﹂という進行渋滞が﹁家

 恋ふらしも﹂というく関係Vを呪的に顕現させうるわけである︒

 オクルは右様の共同幻想を基礎にした︑歌的表現である︒

  ﹁おくるがへ﹂という本稿の一句はオクル伝統の最後に現われ

 る︒ 妬後れ居て恋ひつ\あらずは追ひ及かむ

 3 蹴       田子の浦の  544@       紀伊の国の

長崎大学教育学部人文科学研究報告第三十号

68繧鼡盾ト我が恋ひ居れば白雲の

77繧鼡盾ト我はや恋ひむ春霞

肥     印南野の 1

41

86繧鼡盾ト長恋せずはみ園生の

44・g辺に人の行ければ後れ居て 19t日野の浅茅が原に後れ居て

3 56繧鼡盾ト恋ひば苦しも朝狩の

3 75tの日のうら悲しきに後れ居て

3 25鳥川川門を済み後れ居て

4 29c⁝群鳥の朝立ち去なば後れたる

3 80c⁝後れたる︵後有︶菟原壮士い

……c⁝立ち別れなば後れたる君はあれども

84

00c⁝朝立ち去なば後れたる我や悲しき

4 57ワそ鏡見飽かぬ君に後れてや

21ェ十梶掛け漕ぎ出む舟に後れて居らむ

3 77ッじこと後れて居れど良きこともなし 3

一七

(4)

厩なる縄絶つ駒の後るがへ︵渡部︶

 ユ 09あさりして溜るる間に恋ふといふものを 3 ユ 03後れにし人を偲はく思泥の崎 1 む 78浜も狭に後れ並み居て臥いまろび 一 こう並べてみると︑オクルは殆ど歌語︑それも相聞用語の⁝つで

あったことを推測してもよいと思われる︒一例︑一八〇九﹁後れ

 たる菟原壮士﹂を除いては︑︿後に残された﹀状態であることが

判るし︑右の一例とて︿後に残された﹀と解釈して悪いわけでは

 ない︒  こうして﹁おくるがヘト妹がいひし﹂の言い方だって︑東歌の

相聞の基底に存在してよかったろう︒巻十四の防人歌の中に︑

三五六八 後れ居て恋ひば苦しも朝狩の君が弓にもならましもの

 右の二首︵三五六七︑八︶︑問答︒

とあって︑初二句は万葉相聞語句の一環をなしている︒そしてみ

られるように︑防人︵という旅人の︶歌は︑当然残るものの歌︑

東国歌との相聞をなすようになっている︒それがく青るがへ﹀表

出の伝統としてあった︒

 大神大夫︑長門守に任ぜらるる時に︑三輪川の辺に集ひて宴す る歌二首

 一七七〇 三諸の神の帯ばせる泊瀬川水脈し絶えずは我忘れめや

 一七七一 後れ居て我はや恋ひむ春霞たなびく山を君が越え去な

 右の二首︑古集の中に出づ︒

とある古集がはっきりしないが︑歌は一七七〇が題詞に沿って︑        一八その環境に従ってはいるが︑それなりに一般的な歌であるし︑一七七一は送別歌として︑︿宴歌﹀として伝承されていたような歌である︒次の︑ 大神大夫︑筑紫国に任ぜらるる時に︑阿倍大夫の作る歌一首

一七七二 後れ居て我はや恋ひむ印南野の秋雨見つつ去なむ子故

を参考にしてみれば右様な推測ができる︒また少し表現は変って

も︑ 藤井連︑任を遷されて京に上る時に︑娘子の贈る歌一首

一七七八 明日よりは我は恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去

なば 藤井連の和ふる歌一首

一七七九 命をしま幸くもがも名下山岩踏み平しまたまたも来む

とある︒一七七八の初句は﹁後れ居て﹂と等しい内容であろう︒

そしてこの ﹁娘子﹂は︑①藤原宇合大夫︑遷任して京に上る時

に︑常陸娘子の贈る歌一首︵五一=︶の﹁娘子﹂に似ていようし︑また②遊行愚婦蒲生娘子の歌一首︵四二三二︶などの ﹁娘

子﹂に似ていよう︒こうした表現は儀礼的な送別歌にずっと存在

していたものと思われる︒

 ﹁娘子﹂のいる関東地方にも右様の歌い方はあったろうし︑そ

の場︑送別儀礼の場は勿論東国の人々を含んで形成されていたから︑こうした表現が一般性を持つのは当然であった︒儀礼は生活

の・感情の基準なのである︒その東国の人々の東歌︵送別歌︶に

対して︑一七七九が答歌であるように︑防人歌も答歌・相聞であ

ってよかったろう︒例えば︑

一七七一 後れ居て我はや恋ひむ春霞たなびく山を君が越え去な

(5)

一七七八 明日よりは我は恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去

なばばと︑後に残される東国の人が歌うとすれば︑

四四〇三 大君の虚宿み青雲のとのびく山を越よて来ぬかも

と防人歌が詠われてもよいだろう︒防人歌は東歌への相聞であ

る︒だから︑

 東歌︵の防人歌︶

三五六八 後れ居て恋ひば苦しも朝狩の君が弓にもならましもの

 と︑本稿の防人歌

四四二九 厩なる縄絶つ駒の後るがへ妹が言ひしを置きて悲しも

は相関するであろう︒この言い方がとにかく防人歌にしか見えな

いことからは︑国司などの送別を除いては︑東国内では︑正式に

は防人などの旅立ちくらいがく旅Vとして特別に意識されていた

ことが推測される︒

 だが本稿の﹁厩なる縄絶つ駒の亘るがへ﹂が万葉全体の水準に

位置するわけではない︒なにしろ︿馬が後に残されるものかはト

言う﹀のである︒これは驚天動地の境地である︒ ﹁オクル﹂は当

然人間であり︑東国では女であるはずであった︒そこを﹁駒の﹂

と持ってきた︒この力業は人麿くらいではどうにもならない運命

的なものである︒︿馬が後れんものかはVと言う︒これは馬の意

志である︒そこまで文を仕上げて行ってみたいが﹁情熱︑医者は

これを破壊はできる︑だが作りだす力はないのです﹂というのは

 ﹃エクウス︵馬︶﹄ ﹁ピータ⁝・シェーファー﹂の中の精神病医

者の科白であったろうか︒

厩なる縄絶つ駒の後るがへ︵渡部︶

 万葉集では次のように馬が︸欄される︒ ︵次欄︶

 万葉集では大体︑馬は乗用として表現されるのであるが︑その

基盤に立ちながらも︑乗用を越え光表現になったり︑あるいは序

詞や枕詞と思われるものの中に出てきたりして︑馬そのものから

はこの方が︿馬の文学﹀になっている︒例えば乗用の ﹁馬並め

て﹂といった表現では重点は外にあり︑馬の表現としては機能し

ない︒対して乗用を越える様な詠み方︑序詞などに含まれては︑

馬はその性格を現わすのであり︑その性格を人間の把握にゆだね

る︒乗用の場合と違って︑人間の感情との交流の中に馬が生きる

わけである︒ 大津皇子の塊ぜし後に︑大伯皇女︑伊勢の斎宮より京に上る時

 に作らす歌二首

一六三 神風の伊勢の国にもあらましをなにしか来けむ君もあら

なくに

一六四 見まく翻り我がする君もあらなくになにしか来けむ馬疲

では馬は乗用を越えていよう︒馬が人との交流の中に生きてく

る︒ 貴族歌集としての万葉集の中で︑宮廷人・律令官人に乗用とし

て対象化される馬が︑その馬としての姿を見せるのは︑当然宮廷

人からの脱落︑律令官人からの拒否という環境に於てである︒

﹁見まく直り我がする君﹂ ︵大津皇子︶がいないから︑その悲し

のみの中に︑失われた階級の中に馬が姿を現わす︒貴族官人の

く死Vにおいて馬は生きるわけである︒

一九

(6)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第三十号二〇

97

8憶

4110

80

l 4家5 8 10

78揩R0 06旅19

91

12

馬歌 73 12

馬 柵 馬 物 盛人

の 自 乗大 馬 竜 馬 馬

09

17

78 Q7 R7 32 R3 R5

厩 馬

96@76 39

30@32 34

柵 物 厩

馬 馬 早 浦人

22

爪家 41

81

4372

29 44

   呂青駒 6麻  13人

黒駒

71

l12

78 32

41 34l

赤駒

0武4良

53ケ80憶

41 11

10       40@69 78 3436

25@30一32 35353560コ17入 卿 妻

42蛯S4防

49

l

5金36

搬鼎

垂52郎 麻5女 }

  三下 皇 呂皇4伯9麻5持4中16大23人71家

77

凋憶

48 11

集 集歌 歌呂 

47モW9麻

10氓P2人

  92卿継11豊 原

02{91 螂脇 10タ11藤

6人04

92ヤ11

59 18 01 22 20m03

17ウ21

52

26

54 26 53 26

54 31 96 30

  ㎜㎜集醐

21l97

24@30 000﹂ 300 9Uウ飼767置

噌⊥244FO︻Dn◎∩δ

71 12 35 7884 53 33 3334 45 55 5533 33 33 33︷一

39

35

4429

h

17@38

33@35

14 33 14 33

37

35

e

99

91 3 39 86@57

38@39

24 4

4206

繍単調姻家

49

寺家

巻一二三四五六七八九十十一十二十三十四十五十六十七十八十九二十

(7)

馬く讐擁 と︑馬が主格に立つ訓み方と︑馬が対象格にとられる訓み方とが

 現在ある︒乗用の馬というのは当然対象格に︑人間とその表現に

手毅のように存在している︒としたら︑とにかく馬が生きるのは

 主語格に立つ時であろう︒その時︑人は馬によって対象化される

 かも知れない︒主語になっている馬︒

   3青駒が足掻きを速み 1

 65我が乗れる馬そつまつく 3

晒ぬばたまの黒馬の来夜は

 む 3赤駒の越ゆる馬柵の 5

   04馬も行かず人も行かねば 一 ユ 一9我が馬つまつく 一   19我が馬なつむ 一 ユ 一4赤駒のあがくたぎちに 一 ユ 42我が待つ君が馬つまつくに 2 ヨ 42馬はあれど 2 む 51赤駒があがき速けば 2   06赤駒のい行きはばかる 3

厩なる縄絶つ駒の後るがへ︵渡部︶

09n柵越し麦はむ駒の

3

31部nの来夜は

3 32?オげの馬のいなきたてつる

3

32?オげの馬のいなく声

3

38sかむ駒もが

3

45薰ヘたぐとも

3

53瑞Hむ駒のロ止まず

3 53ォ悩む駒の惜しげくもなし

3 53ヤ駒が門出をしつつ

3 53梵Hむ小馬のはつはつに 或本麦食む駒の 3 53ミろはしを馬越しがねて

3

54ヤ駒があがきを速み

3

54?クへから駒の行このす

3

26ヤ駒のはらばふ田居を

4 42ネはたつ駒のおくるがへ 人間の文明に含まれてしかなと︑みられるように︑人に詠まれ︑ 4

         一=

(8)

長崎大三教育学部人文科学研究報告 第三十号

い動物︑馬がそのことによって既に対象的把握の姿を現わしてく

るのは当然であり︑多かれ少なかれ︑万葉の馬もそうして存在し

ている︒それでも馬が主格の場に立つ場合は︑文学というものが

本質的に持つ︑あの異質なものを身にきらめかせる︒即ちこれは

案外︑此方側からの発想を越えて︑異質の向う側が姿を見せる方

法でもあろう︒この世の︿文明﹀には馬が主語であるということ

はありえないことなのであるから︒

 もう一つには序詞の中にいる馬である︒序の一般形式として景

物十本意という形を考えれば︑馬はその自然的性質をもって景物

としてあり︑それを基にして︿心﹀を表現するわけだから︑心情

という本意は馬の性質に似てあることになる︒これはある言い方

をすれば︑異質︵向う側︶によって︑文明という此方側が対象化

されることでもあろう︒これはなんと文学的そのものではない

か︒その序詞を最も高い比で使い︑その中に最も多く馬を含ませ

たのが東国歌であったことも記憶しておこう︒

 これは生産共同体と共同幻想の中に存在した馬であった︒馬を

生産共同体と共同幻想の中に連れ戻してみる︒

 笠朝臣金村塩津山作歌二首︵の中︶

三六五 塩津石打越え行けば我が乗れる馬そつまつく家恋ふらし

 この形は﹁旅行中馬がつまつくのは留守宅の者が思っているし 二二

るし︑という俗信があった﹂ ︵﹃全集﹄︶ことによっているらし

い︒この俗信の中ではく家のものが私を思っているVこととく馬

つまつく﹀は割合親しくつき合っている︒

=九一 妹が門出入りの河の瀬を孕み吾が馬つまつく家思ふら

しもでは馬がつまつくのは条件によっている︒馬は乗用となり︑俗信

は消滅している︒

=九二 白壁ににほふ真土の山川に我が駒なつむ家恋ふらしもでも﹁瀬を速み﹂から﹁山川に﹂と普遍的︑一般的になってきて

いる︒ ﹁山川﹂になつむなら﹁家恋ふらしも﹂の呪力は弱くなろ

う︒合理性を前提にすれば歌の感情が変化する︒

二四二一 くる路は石踏山は無くもがも吾が待つ君が二つまつく

では俗信や馬の呪術性は全くなくなって︑自らの利益が優位な文

明的︑秩序的感覚が並べられる︒右に掲げた歌が巻七から巻十一

に到るまでのものであることは︑万葉が巻次を追って乗用の系列

をなしていることを示そう︒

 馬がつまつくということは余りない︒なにしろ四本足である︒

つまつくのは異例に属するし︑進行の停滞性を示す︒ ﹁なつむ﹂

も意識は似ている︒行く馬への阻害は逆算すれば︑それは出発し

た家に帰着する︒そこで﹁家思ふ﹂と﹁馬つまつく﹂が一致する

のであろう︒そのつまつくが直接自分ではなく︑馬であるのは︑

自己を越えたものを動物から受けとっていたわけであろう︒いわ

ば馬は見えないものを見ていたわけで︑それは律令文明︑秩序内

人間が︑その秩序の外に放棄した能力であった︒

 馬のもつ秩序以前の感覚が家人の心を現前させるわけである︒

(9)

自己の限界を越える様に︑遠隔にあるものとの交流を可能にする

のは︑そこに共同体の性質があった故であり︑その性質を︑秩序

内人間より馬が持っていたという図式である︒

 さて笠金村には﹁霊亀元年︑歳次乙卯の秋九月︑志貴親王の莞

ずる時に作る歌一首﹂がある︒

二三〇 梓弓 手に取り持ちて ますらをの さつ矢手試み 立

ち向かふ 高円山に 春野焼く 野火と見るまで 燃ゆる火を

何かと問へば 玉梓の 道来る人の 泣く涙 こさめに降れ.ば

白たへの 衣ひっちて 立ち留まり 我に語らく なにしかも

もとなとぶらふ 聞けば 音のみし泣かゆ 語れば 心そ痛き

天皇の 神の皇子の 出でましの 絵馬の光そ ここだ照りたる

 この歌と次の巻十三の歌を対照してみると︑

三二七六 百足らず 山田の道を 波雲の 愛し妻と 語らはず

 別れし来れば 速川の 行きも知らず 衣手の かへりも知らず馬じもの立ちてつまづきせむすべのたづきを知らに

もののふの 八十の心を 天地に 思ひ足らはし 魂合はば 早

来ますやと 我が嘆く 八尺の嘆き 玉書の 道来る人の 立ち

留まり 何かと問はば 答へ遣る たづきを知らに さにづらふ 君が名言はば 色に出でて 人知りぬべみ あしひきの 山よ

り出つる 月待つと 人には言ひて 君待つ我を

と似た表現がみられる︒先の三六五に関しては﹁馬じもの 立ち

てつまづき﹂がある︒

 そしてまたこの三二七六に対して︑

三三四四 この月は 君来まさむと 大賢の 思ひ頼みて いつ

しかと 我が待ち居れば もみち葉の 過ぎて去にきと 玉梓の

 使ひの言へば 蛍なす ほのかに聞きて 大地を 炎と踏みて

厩な︐る縄絶つ駒の後るがへ︵渡部︶  立ちて居て 行くへも知らず 朝霧の 思ひ迷ひて 丈足らず 八尺の嘆き 嘆けども 験をなみと いつくにか 君がまさむと 天雲の 行きのまにまに 射ゆ鹿の 行きも死なむと 思へども 道の知らねば ひとり居て 君に恋ふるに 音のみし泣かの中の﹁八尺の嘆き﹂は前の歌と二例しかないものである︒この挽歌や先の三二七六の歌が金村の前に在ったのではないか︒いわば巻十三の世界を金村もまた生きていた遺物である︒ そうしてみれば唯一の俗信形﹁馬そつまつく﹂一﹁家恋ふらしも﹂は巻十三の世界を残すものであった︒ ただ巻十三︑前掲の﹁馬じもの一立ちてつまづき﹂は原文﹁馬自物立而爪衝﹂で︑例えば﹃注釈﹄では﹁馬じもの立ちてつまつく﹂︑ ﹃全集﹄では﹁馬じもの立ちてつまづき﹂となっている︒終止形にするか︑連用形にするかは︑ ﹁この歌は﹃せむすべのたづきを知らに﹄を境として︑内容的に二つに分かれている﹂ ︵全集︶ので︑その部分を旅に出た男の側のものとするか︑後の部分の女の側にひきよせて考えるかによるだろう︒ ﹁おそらく別々の二首が融合して一首の歌となったものであろう﹂ ︵全集︶とすれば割り切るのは難しい︒それにしても︑ 馬のやうに立ってつまついた︒ ︵注釈︶ 馬のように立ったままつまづき︑ ︵全集︶という解釈はよく判らない︒ ﹃全集﹄には﹁ここではつまついて倒れることをいう︒﹂と頭注にある︒なお同書には﹁馬追物﹂について︑ ﹁⁝⁝ジモノは︑〜でもないのに︑〜ででもあるかのように︑の意で比喩に用いる︒﹂という︒ ︿馬でもないのに︑馬ででもあるかのように﹀というのは馬へ

二三

(10)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第三十号

 の蔑視を含むのであろうか︒

  石上乙麻呂卿︑土佐国に配さるる時の歌三首︵の中︶

 一〇一九 石上 布留の尊は たわやめの 惑ひに因りて 馬自

 物 縄取り付け 鹿じもの 弓矢囲みて 大君の 命恐み 天離

 る 夷辺に罷る 古衣 真土山より 帰り来ぬかも

 では流人の状態に﹁馬じもの縄取り付け﹂また﹁准じもの弓矢囲

 みて﹂といっているのであるから︑とにかく否定的な意味合いで

 あることは間違いない︒

  八八六﹁犬時母能﹂︑四四〇八﹁鹿子自物﹂ ︵以上二例︑ ﹁従

 属・謙譲の態を示す﹂と時代別国語大辞典上代篇はいう︶︑二六

 一﹁白雪仕物﹂︑二五八○﹁男土物﹂︑祝詞﹁鵜事物﹂︑一四詔

 ﹁畏自物﹂等種々ある︒

  いまそれらの種々相については一応おいて︑ここの﹁馬じもの

 立ちてつまつく﹂は馬の下賎︑不器用︑配慮のなさ︑いわゆる馬

 鹿さといった︑そうした否定性をさしているのではないのではな

 いか︒馬がつまつくのは家人︵愛妻︶が私を思っているからだ︑

 と例の俗信が既にあって︑その馬のように私がつまつくのであろ

 う︒だからこの私のつまづきは家人の思いなのだという形であ

 る︒  ﹁立ちてつまつく﹂で切れる︒だから同時に︿家人の思い﹀が

 立ち上がる︒そのイメージが﹁せんすべのたづきを知らに﹂以

 降︑即ち家人・女の姿である︒ ﹁せんすべのたづきを知らに﹂と

 初まる歌はすぐ前の三二七四にある︒全集に︑二首の歌︑男女の

 歌の融合した形というのは右様な旦ハ合なのではないか︒

  ここでヒトはウマの世界を生きることができそうになる︒なに

秩序内存在でなければ人は男であって︑女の世界を生きることが        二四できそうであり︑女であって男の世界を生きることができそうであり︑夫であって妻であることができそうである︒男.女.ヒト・ウマが共同体性を持っていればいい︒︿オモヒVというのは等質なものの相互性である︒ 笠金村は巻十三の世界を生きたことがあったらしい︒この十三の世界では馬がもっとも多様し︑したがって乗用という単一化をくい止めている︒

三二七八 赤駒を 厩に立て 黒駒を 厩に立てて それを飼ひ

 我が行くごとく 思ひ妻 心に乗りて 高山の 峰のたをりに

 射目立てて 鹿猪待つごとく 床敷きて 我が待つ君を 歪な

 吠えそね

では赤駒と黒駒と︑それらを厩で飼い︑という風に馬は多彩化

し︑加えるに寒心︑犬まで加わっている︒

 長歌三三一二の反歌

三三=二 川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬の来夜は常にあら

ぬかも 長歌三三一四の或本反歌

三三一六 まそ鏡持てれど我は験なし君が徒歩よりなつみ行く見

れば三三一七 馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我は二

人行かむと続き︑そしていななく馬が出てくる︒人間が言葉であるといっ

(11)

たほどにいななくことが馬なのであろう︒そのいななきが失われ

る時︵人間では言葉が失われる時︶︑ウマであったものが失われ

て馬が成立してくる︒人がウマを失う時は︑言葉が人を失う時で

もあった︒

三三二七 百小竹の 三野王 西の厩 立てて飼ふ駒 東の厩

立てて飼ふ駒草こそば 取りて飼へ 水こそば 汲みて飼へ

なにか然 大分青駒のいなきたてつる

 反歌三三二八 衣手大分青駒のいなく声心あれかも常ゆ異に鳴く

 ここにウマが生きた姿を現してき︑それに伴って︑いなく声を

︿奇異﹀に受けとっているヒトが成立してくる︒このウマとヒト

との関係は﹁挽歌﹂標目の中にある︒三野王がなくなったらし

い︒三野王︵美努王︶は栗二王の子︑橘諸兄・杜漏女王の父︑和

銅元︵七〇八︶年五月︑従四位下で没︒皇族.律令官人︑その馬

は乗用把握として表現されるのではない︒

 歴史的な条件が言葉を決定するのではなく︑言葉が歴史である

ものをあらしめるのである︒いわば人間は言葉以外に思い出すも

のはない︒多分ここは挽歌︵人の死︶の中でヒトとウマの関係が

蘇生した︑もう歴史を構成することがなくなったという挫折状態

のなかで︑未だかつて歴史を構成したことのないヒトとウマの関

係が現われたということである︒それが万葉集にただ︸例くいな

なくVが存在する意味であり︑この言葉によって歴史が対象化さ

れ︑破片化するのである︒

 ウマの復活が人の秩序を混乱させる︒馬が言葉を話さないこと

と︑人が法律に似て言葉を話すことは多分似たことなのである︒

ウマがいななけば︑ウマとヒトの関係が姿を現し︑同時に人と馬

厩なる縄絶つ駒の後るがへ︵渡部︶ との関係は破産し︑狂乱する︒人は一たび三三二七︑三三二八の世界を身に引き受けると︑だから三十三の世界などは︑歌はその形式のバランスを崩し︑内容は煩悶状を呈する︒三二五七 或本には︑この歌一首を以て﹁⁝⁝⁝﹂歌の反歌と為す︒三二六一 今案ふるに︑この反歌は﹁君に逢はず﹂と謂へれば理に合はず︑宜しく﹁妹に逢はず﹂と言ふべし︒三二八四 今案ふるに︑ ﹁妹によりては﹂と言ふべからず︒まさに﹁君により﹂と謂ふべし︒三二七六 前半と後半との間に関連がなく︑おそらく別々の二首が融合して一首の歌となったものであろう︒ ︵全集︶三二七八 別々の内容が不完全なままに結合して︑一首の歌とみなされるようになったのであろう︒ ︵全集︶三三〇五    一反歌三三〇六−三三〇七反歌三三〇八1 の﹁右五首﹂

柿本朝臣人麻呂歌集三三〇九

       という形︒

三三

O謳

禔℃O一九長歌の挿入関係

三三三七 三三四〇 反歌の異同関係

三三三八     三三四一

     三三四二

     三三四三

 の﹁右九首﹂の形︒

二五

(12)

長崎大学教育学部人文科学研究報告第三十号

 これは狂乱の巻である︒亡霊に呪われた巻である︒同じ巻十三

内でも︑高度に完成されたく人間性V︑殆ど美談である歌の中で

は︑馬は次の様に現われる︒

三三一四 つぎねふ 山背道を 心夫の 馬より行くに 己夫し

 徒歩より行けば 見るごとに 音のみし泣かゆ そこ思ふに

 心し痛し たらちねの 母が形見と 我が持てる まそみ鏡に

 蜻蛉領巾 負ひ並め持ちて 馬追へ我が背

反歌三三一五 泉川渡り瀬深み我が背子が旅行き衣濡れひたむか

或本反歌三三一六 まそ鏡持てれど我は験なし君が徒走よりなつ

み行く見れば

同三三一七 馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我は

二人行かむ

 の﹁右四首﹂も整然としているわけではない︒或本反歌の二首

が唱和の形になっている︒そのことはとにかくとして︑右の歌は

人々に愛読されるのにふさわしく決して悪い仔情ではない︒夫婦

のく愛情Vといわれるものが︑人情に合うように詠まれている︒

 そしてこの︿愛情﹀には乗物としての馬が絶対的に存在してい

なければならない︒乗物として疑いもなしに定着している時に︑

人の愛情も仔情も安定してくる︒これは巻一以来︑律令官人が育

てた馬への把握に等しい︒この把握と︑愛情や人間性といわれる

ものはピタリと重なる︒

 ここでは馬は主格に立つことは決してない︒その主人が文学性

を獲得することも恐らくあるまい︒馬が復活するのは我々の知っ

ているあのく人間性Vというものが失われる時である︒

 三三一四の作者・女に馬の飼育が含まれてはいない︒鏡の生 二六

産︑織布にも関係はあるまい︒親の経済の中に女が含まれ︑その

中で馬を買う︒そこに人は人間性や愛情をみる︒だが人間には動

物との関係を抜きにして多分言語表現は不可能なのではないか︒

万葉集などというものが最初の仔情集であった民族は多分呪われ

た民族なのであろう︒

 それにしても馬が愛という人聞性完成の手段であったとは︑も

ってメイすべきなのか︒ここで馬はいななかなくなったのである

が︑同時に言葉が人間を失った︒

 鳥は動物分類に入るのかどうか︒番号だけ並べてみると︑巻十四・三五一= 烏/三五二二鶴/三五二三鶴/三五二四鴨

/三五二五 鴨/三五二六 鳥/三五二七 小鴨/三五三八 水

鳥となっていて︑その大小を順に並べたわけではないだろう︒劇

についで︑三五二九 等夜の野に兎ねらはりをさをさも寝なへ児

故に母にころはえ

三五三〇 さ雄鹿の伏すや草むら見えずとも児うが金門よ行かく

し良しも三五三一 妹をこそ相見に来しか眉引の横山辺ろの猪なす思へる

三五三二 春の野に草食む駒の口止まず我を偲ふらむ家の児ろは

三五三三 人の児のかなしけしだは浜渚鳥足悩む駒の惜しげくも

なし三五三四 赤駒が門出をしつつ出でかてにせしを見立し家の児ら

(13)

はも三五三五 己が命を凡にな思ひそ庭に立ち笑ますがからに駒に逢

ふものを三五三六 赤駒を打ちてさをびき心引きいかなる背なか我がり忌

むといふ三五三七 くへ越しに麦食む小馬のはつはつに相見し児らしあや

にかなしも

 或本歌日 馬柵越し麦食む駒のはつはつに新肌触れし児うしか

 なしも三五三八 広橋を馬越しがねて心のみ妹がり遣りて我はここにし

 或本歌発句日 小林に駒をはささげ

三五三九 あずの上に駒をつなぎて危ほかど人妻児ろを息に我が

する三五四〇 左和多里の手児にい行き逢ひ赤駒が足掻きを速み言問

はず来ぬ三五四一 あずへから駒の行このす危はとも人妻児ろをまゆかせ

らふも三五四二 小石に駒を馳させて心痛み我が思ふ妹が家のあたりか

 動物が小さいものから並べられている︒これは馬などの大きな

ものが︑編者にとって重かった︑手ごわかった感覚を示すもので

あろう︒兎より親近度が遠かった︒それがこのように奥の方に待

たされた理由であろう︒馬は重いから編集作業で後廻しにされ

た︒ 東歌では右の十五例の外に︑駅厩︵三四三九︶︑馬柵︵三五三

厩なる縄絶つ駒の後るがへ︵渡部︶ 七︶︑駒︵三三八七︶︑駒︵三四四一︶︑駒︵三四五一︶がある︒とにかく十三首に一匹︑案外馬が多い︒ 東歌では序詞の中にある馬︑意味上ではしばしば括弧の中に入れられる馬も︑本意の中の馬も︑馬の性格では同等である︒馬の現実感では差違がない︒序詞の馬も虚構ではない︑ということは︑ここでは序詞は修辞といわれには少し異質なのである︒ 春の野に草食む駒の口止まず我を偲ふらむ家の児ろはも 人の児のかなしけしだは浜渚鳥足悩む駒の惜しげくもなしの駒は同質で受けとられる︒馬が生活に近いのである︒ ﹁春の野に草食む駒の口止まず﹂といった風に︑馬を野の中に︑主格に立たせて捉えたものは未だ存在しなかった︒これは風景描写ではない︒律令官人にはまたこれはく景Vにさえ捉えられないものである︒二〇一三 秋風は涼しくなりぬ馬並めていざ野に行かな萩の花見とは遠近法が全く違う︒この二匹の馬は違った馬である︒奈良時代東国農民は馬を持てなかった︒その故に東歌の馬は貴族的主情に含まれるとする考え方もある︒しかし歴史的条件が言葉を成立させるのではない︒言葉が歴史を成立させるのである︒ 東歌では︑草を食べている駒の﹁口止まず﹂と妻︵妹︶が口止まず︑私を偲んで喋っていることが一致するのである︒この環境を私は土山同体性といってきた︒他の巻には入の乗る馬はいるが︑馬の乗る人はいない︒この共同体性において︑ 赤駒が門出をしつつ出でかてにせしを見立てし家の児らはもが可能になる︒ ﹁出でかてに﹂したのは馬だった︒ここでは人が馬に似る︒馬が原形なのである︒先に﹁馬革物 立而爪衝﹂が

二七

(14)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第三十号

あった︒︿馬自物 門出をしつつ出でかてにせしを﹀見送るのは

だから家の児・妻なのである︒

 なにが人間の危機感・緊張であったのか︒

 あずの上に駒をつなぎて危ほかど人妻児ろを息に我がする

 あずへから駒の行このす危はとも人妻児ろをまゆかせらふも

こんな危機感が人間にも存在した︒人妻への衝迫と馬への衝迫が

それほど違わなかった︒こんな状態を持つものを共同体性とい

う︒エロチックの中で光景が生きてくる︒エロに自然・景が染ま

る︒このエロと光景の融合した鮮烈度が東国の人々のく生活Vで

あったのだろう︒言葉が動物と人間の関係として45度に立ちのぼ

る時︑言葉はそのまま︿性﹀である︒

 小石に駒を馳させて心痛み我が思ふ妹が家のあたりかも

に到ると︑人間の言語表現でも稀な部類に入ろう︒言葉は馬︵動

物︶にそって登りながら︑ ﹁思ふ﹂ ︵恋︶という人間の悪徳を取

り込む︒この言語の持つ宿命︒ここでは一首の歌は斜めに︑45度

角に傾いている︒これが人聞の言語表現の位相なのではないか︒ 右様な東歌の馬は先にみた大伯皇女︑笠金村︑三野填たちの︑

欠落した律令文明の馬と似ていはしまいか︒右様なものを辿って

行けば︑馬が在ったこと︿存在﹀に行きつくはずである︒そこに

あるのは﹁春の野に草食む駒﹂という主語格に立つ馬であろう︒

この存在性︑始源性は文明の死の前途︑文明の転倒においてある

だろう︒ ﹁駒の口止まず﹂を使って本意というものが成立する︒

いわゆる序詞が本意の喩だといわれる︒しかしこの表現からは︑

本意の人聞性こそ序詞であるものの喩なのではないか︒人間が馬

に似ているのである︒それが﹁春の野に草食む駒の日止まず﹂と

いってきた意味である︒動物が原形だから︑人間は動物に似てい 二八

るしかないのが︑本来的言語表現というものである︒

 みくくのに鴨のはほのす児うが上に言をろはへて未だ寝なふも

という様に︑ ﹁鴨のはほのす﹂と鴨が主語格に立ってそれ自らに

独立してくると︑人間は﹁言をろはへて﹂と動物からの喩のよう

に︑言語表現が成立してくるのである︒本意の喩として序詞が人

工的に作られるのではない︒

 動物が主語格の上に立つと︑人間の感情は本来的なもの︑動物

的なものからの喩となるのだろう︒

 アズー1崩岸の危険であることを何かの責任であると考える文明

の性質は︑馬には決してありえない︒その馬を引き受けるには律

令などでは間に合うまい︒共同体の性質とは必ずそうした矛盾を

内包しているものである︒

 巻七に﹁旋頭歌﹂というのがあって︑この旋頭歌は民謡性を持

つ歌体とされている︒その中に︑馬に関連した歌があって面白

い︒ =一七三﹁馬乗衣﹂は馬を詠んでいるわけではなく︑馬に関係

した人間事である︒その﹁君が馬乗衣﹂を﹁さひづらふ漢女を据

えて縫へる衣ぞ﹂という歌い方が面白い︒これは個人の作歌力を

越えている趣がある︒

 一二八九﹁馬安め君﹂という歌も面白い︒馬の乗用性が越えら

れている︒

 一二九一﹁この岡に草刈る童なしか刈りそね在つつも君が来ま

(15)

さむ御馬草にせむ﹂なども馬は乗用であるなどという意識はさら

さらない︒

 右の三首も︑乗用として対象化してない分だけ馬への共同性を

持つわけであろう︒短歌で失われつづけるウマを都では旋頭歌形

式という去り行く歌体にこめたに対し︑東国ではそのウマを新来

の短歌形式にこめた︒

 巻十五に馬なし︒十六に二匹︑十七以降家持の乗用の馬︒そし

て巻二十に防人の歌︒

 四四二五から四四三二の﹁右八首昔年防人歌﹂は他の防人歌に

比して︑農耕生産共同体的な横の関係が強く出ている︒即ち防人

と妻︑背と妹の関係で詠まれていて︑ ﹁障へなへぬ命にあれば﹂

と上を向いて発想された歌は一首しかない︒

 防人歌も相聞性のいわば恋歌なのであるが︑恋歌であるからに

は親︵母︶や子が肯定的に姿を現わすことはないはずなのに︑そ

れらを含めて歌っているのは︑防人歌の場の共同体性の強さによ

るだろう︒

 そうした共同体性の中で﹁厩なる縄絶つ駒の後るがへ﹂も成立

している︒ ﹁厩なる縄絶つ駒﹂は厩なる駒と縄絶つ駒の融合︑合

一した形で︑︿厩にいる︑縄を断ち切る駒﹀である︒その︿駒

が︑後れんかは﹀︵後に残されようか︑残されはしない︶という

わけである︒ ﹁縄絶つ駒﹂が﹁後るがへ﹂を同時に引き出してい

る︒

厩なる縄絶つ駒の後るがへ︵渡部︶     サ 駒が後に残されようか残されはしない       ト         後に残されはしない     ムモ  妹が言った︒という形である︒駒と妹が重なっている︒ 馬でなくとも︑すべて文明とは人に対象化されたものである︒世界内存在としての人間の表現でしかなくとも︑馬が主語格に立つ時︑一寸は馬によって人聞が対象化されてもいいのかも知れない︒それが宇宙の秩序へ近づく<文学﹀というものの方法である︒︿馬が⁝⁝というように︑人が⁝⁝といった﹀と︒ 東国には馬が主語格に立つ歌が既にあった︒ 赤駒が門出をしつつ出でかてにせしを見立てし家の児らはも

﹁赤駒が出発の折 出しぶっていたのを﹂と﹃全集﹄ではいう︒

馬も出しぶるのであり︑馬が主語格の上に立つ世界では︑人はそ

の模倣をするのである︒

 ここまでくると﹁厩なる縄絶つ駒の後るがへ﹂のことが判る︒

実はここはく厩なる縄絶つ駒が﹀︿選るかはと言う﹀までが主+

述︑景物的には一連のものなのであるが︑途中に﹁妹が﹂が入る

ことによって︑いわゆる序詞は三句までのイメージに抑えられ

る︒  厩につながれていた︑縄をたち切って飛び出す駒が︑後に残

  されようか︑残されはしない⁝⁝というように

      と妹がいったのを

となる︒ ﹃私注﹄の解が近い︒馬が主語格に立てば︑当然物を思い︑言うことは可能である︒人が対象化される︒人は馬の喩であ

る◎ ﹁厩なる縄絶っ駒の後るがへ﹂は勿論︑日常の嘱目が基礎にな

二九

(16)

長崎大学教育学部人文科学研究報告 第三十号

っている︒馬を使う時︑主人が馬柵を外し︑厩に入って︑馬にロ一

輪をかけようとした途端︑ましてその手綱を捉える暇もなく︑馬

は主人の横をすり抜けて︑必ず主人より先に︑外に飛び出すもの

である︒ここを﹃全集﹄のように﹁縄を振り切って逃げて行く﹂

としてもまた事実である︒

 犬で実験してもよい︒犬小屋の扉を開けると︑犬は必ず人の先になるように勢よく飛び出すものである︒だから人は︑その後ろ

から首紐︑手綱をつけることになる︒

 犬や馬は主人の︑その日の仕度によって︑それに伴う自分の行

動を取ろうとする︒今︑主人は前の川に顔洗いに行くのでも︑水

汲みに行くのでもない︒旅仕度である︒だとしたらく後に残され

ようか︑残されはしないVというのは一般的︑日常的生活の現実

である︒そこでは遅れようか︑遅れはしないの形もまた事実であ

る︒しかし歌ではオクルは残されるであったこと縷述の通りであ

る︒ ﹁厩なる﹂は厩に飼っているの形象である︒ ﹁縄絶つ﹂の具体

性は不明︒日常︑縄でつないでおくわけでもあるまいから︒とに

かく︑縄を絶ち切ってであろう︒後を慕う強さが示されている︒

主人に後に残されまいと外に飛び出す日常の様子が捉えられてい

る︒ ﹁置きて悲しも﹂

 なんのへんてつもない語句であるが︑もし叙上のようにこれが動物と人間との関係としての言語﹁厩なる縄絶つ駒の一後るが

へ﹂と言ひしをうけている︑即ち二者の90度角の真中を45度の斜

線で登るものに属するとしたら︑この﹁かなし﹂は人間が発言で

きた唯一純正の﹁悲し﹂であったろう︒馬からの喩のように人間 三〇

﹁妹﹂が存在するから︑人間は理性などによるどんな待遇を受け

ることもできず︑カナシとして位置づけられるのであろう︒馬は

自らの存在を秩序づけできない︒その破片のようにある人間だから確実に悲しいのである︒今︑人はく悲しVの使用をもて余して

いるか︑誤用するしかない︒奈良時代の当時にしたって事は同じ

であって︑既に日本列島には言語表現の不可能性だけがあったろ

う︒そうした中で︑右の﹁悲し﹂は言語学的に︑唯一の正しい使

用法によっていた︒

       ︵昭和五十五年十月三十一日受理︶

参照

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