殷の紂王諸話私考 か︒ 此の論稿では︑この問題を明らかにするために︑紺王説話の原初
形態を︑尚書について考へ︑それが如何に形成され展開して行くか ニ の過程を︑墨子を検討することによって解明するのが目的である︒
︱特に尚書︑墨子を中心として︱
項
井
上
源 吾
中国の古典には︑屡聖王の治を謳歌する話があり︑それと同時
に酷悪な暴君の説話が物語られて居る︒例へば︑文武の聖王に対し
ては︑桀紺の暴王があったとされて居る︒ここでは︑かかる説話を
吟味するために︑とくに殿の紺王をとりあげたのであるが︑後世暴
君の典型とされる殿の紺王も︑中国最古の経典である尚書の中で
は︑眉墨の紺王に対する態度は︑極めて寛容である︒気随の行為を
責めるよりは︑寧ろ自らの問題として取り上げて居る如くであり︑
自門説話の原初形態が見られるにしても︑漸く繭芽の段階を示して
居るに過ぎない︒管見によれぽ︑股の二王が暴君として遅しい姿を
現はすのは︑墨子によって語られてからの如くである︒かくて此の
説話は時代と共に漸次積み重ねられて行ったやうである︒かかる附
加潤色に対しては︑塗上直なるものが我が内藤湖南博士によって唱
へられ︑中国の顧頷剛氏にも略同様の意見があることは周知の如く ︵註こ である︒加上覧はまことに千古の卓見であることに相違ないが︑か
かる附加潤色は︑いかなるものを契機として発生したのであらう 史記殿本紀を見ると︑其の終末に次の如ぎ殿の紺王についての説 ︵三︶ 話がある︒ 毅王帝乙が崩じて︑子の辛が位についた︒是れが帝辛である︒世間では これを紺と言った︒帝討は生れつき︑悪がしこく︑聞見甚すみやかで︑材 力人にすぐれ︑素手で猛獣を生どりにするほどであった︒又智慧があっ て︑諌言をも聞き入れず︑非行をも善とするだけの弁舌を備へ︑臣下にそ の能力を誇り︑天下に名をとどろかせた︒紺は自分より偉い者は居ないと 思った︒紺は酒を好み音楽に耽って︑婦人を寵愛した︒とくに姐已を偏愛 した︒姐已の言ふことは訳もなく從ふといふ有様であった︒又紺は師漕⁝に 命じて新しいみだらな舞楽即ち北里の舞︑靡々の楽をつくらせて宴楽に耽 つた︒︵かような遊宴の為め入費多く︑はては︶重税を課して酷しく取り 立てたので︑鹿ムロの金庫には銭があふれ︑鐘橋の倉庫には米穀が積み重ね られた︒紺は影壁奇物を漁り集め︑それが宮殿に充満した︒そこで沙丘の 苑台を広め︑多くの野獣や鳥類を集めてその中に養った︒尉は鬼神を慢つ て祭杞もろくにせず︑多くの酒を集めて池をつくり︑肉を掛けて林の如く し︑男女を裸にしてその間を相逐はせて遊び︑長夜の宴をした︒このため 百姓は怨み︑諸侯には命を奉じない者も出てきた︒そこで紺は刑罰を重く したが︑その中には炮烙の刑といふものもあった︒紺は西伯昌︵周の文 王︶九侯郡侯の三入を以って三公とした︒九院に美しい娘があり︑所望に よって紺の所に行ったが︑その娘は淫を好まなかったので︑紺は怒ってそ の娘を殺した上に︑九侯を酷︵殺して塩漬にする︶にした︒郡侯はこれを
諌めたが︑紺は那侯を哺︵殺して乾肉にする︶にした︒西伯昌はこれを聞
33 一
一
いて︑ひそかに嘆いて居た︒紺の臣下の⁝票侯虎はこれを知って︑紺に告げ
た︒そこで紺は西伯を羨里に幽囚した︒西伯の臣下の閾天たちは美女︑奇
物︑善馬をさがし求めて紺に献上して西伯を許されんことを願った︒そこ
で漸く西伯は赦免された︒西伯は囚はれの身から放たれて︑洛西の地を紺
に献上して︑炮烙の刑を除かれんことを願ひ出た︒討はその請を許し︑弓
矢斧銭を賜ふて︑從はぬ国を征伐する里馬と︑西伯の位を与へた︒紺は費
中をとりたてて政治をした︒費中はよく諌ひ︑利を好んだので︑股の人々
は親しまなかった︒紺は又悪説を用ひた︒悪来もよく謀議した︒かういふ
ことから諸侯は益々紺をはなれて行った︒西伯は国に帰り徳を修め︑善を
行ったので︑諸侯は多く紺に叛いて︑西伯の保護を受けるやう.になった︒
かくて西伯の勢力は益々大となり︑一方紺はだいぶその櫻威を失った︒王
子比千は約を諌めたが︑きき入れられず︑商量は賢者で百姓から愛された
が︑紺はこれを廃した︒この頃︑西伯は熱論を征伐してこれを滅した︒紺
の臣下の祖サはこれを聞いて︑周を答めた︒祖歩は周の実力の大を恐れて
急ぎ紺に告げて︑ ﹃天の加護はすでに我が殿より過ぎ去った︒賢者にきい
ても︑大亀にト占しても吉を告げるものはない︒しかし股の先王は必ず殿
王に深い加護を与へられよう︒ただ淫虐なる行のために︑王は自ら滅亡の
淵へ落ちて居るのである︒かやうなわけで︑天は我が殿の国を棄て去らう
として居る︒今我が殿の国民は安んじて食も得られないが︑これは王が天
の心を知らず︑人の道にふみ從はないからである︒このごろ殿の民は︑一 入として股の滅亡を欲しないものはない︒毅の民は﹁天は必ず紺の乱行を
怒り︑威をくだして股を滅亡させるにちがひない︒あのやうな紺の悪行に
対して︑どうして天は手をこまねいて居られよう︒一度天の降威があれ
ぽ︑紺王は直ちにほろびよう﹂と話して居る︒﹄と申し上げた︒紺王はこ
の祖ヂの言葉に﹁我が生には天が祐助を与へて居られる︒天の加護がある
からこそかうして生きて居るのだ︒﹂と言って反省の色は見えなかった︒
祖タは帰って﹁四王は諌めてもむだである︒﹂と言った︒この時すでに西
伯は卒して︑その子武王の時代になって居り︑武王は東方を征伐して盟
津に至ったが︑諸侯で股に叛いて武王の所に集まる者が八百人もあった︒ 諸侯は皆﹁諸王を征伐せよ﹂と言ったが︑武王は︑﹁汝等はまだ天の命を 知らない﹂と言って︑国に帰ったのである︒紺王は愈女淫乱がつのり︑微 子はしばしば諌めたが聴かれなかった︒そこで大師少師らと共に相謀って 遂に殿の国から立去った︒比干は﹁人臣たる者は死を託って争はなければ ならない﹂と言って︑紺碧を強く諌めた︒紺は怒って︑﹁聖人の心には七 つの穴があると聞いて居る︒その穴を見たいものだ﹂と言って︑比干を解 剖して︑その心を見た︒箕子は灌れていつはって狂人となり︑奴となった が︑紺は又これを囚へた︒股の太笛少師はかかる討の乱行を見て︑祭器楽 器を持って周に亡命した︒かかる成行を見て周の武王は遂に諸侯を率みて 紺を討伐した︒紺も亦兵を発してこれを牧野に防いだ︒甲子の日野の兵は 敗れ︑討は走って鹿台に登り︑宝玉でちりばめた衣をきて︑火中に投じ た︒かくて遂に周の武骨は紺の首を斬り︑これを白旗の上に懸け︑紺の愛 妃の姐已を殺し︑丸子の囚を釈し︑土を積みて泣笑の墓を明らかにし︑商 容の閾を表し︑紺の子︑武庚賞誉を諸侯にとりたてて紺の祭杞をつずけさ せた︒︵このやうにして悪王はほろび︑聖王の治とはなったのである︒︶
二
以上の如く史記股本紀は︑紺の悪を物語って余す所がないが︑司
馬遷は此の説話を如何なる典拠によって構成したか︒これに就いて
はいろいろ考へられるが︑既に中国最古の経典の一である尚書に紺
王の事が語られて居る︒即ち次の如くである︒
︹西伯隅田︺ 王日︑民政︑羽生不二命在天︑
︹微 子︺ 我用沈醜怪酒︑回目敗厭四二下︑殿圏不小山︑好艸
羅姦究︑卿瓦師師非度︑凡有事罪︑ ⁝⁝吾一毫日干
荒︑⁝⁝彿通其者長旧有位入︑
︹牧 誓︺ 今聖王受︑惟婦言転用︑浮野豚騨祀弗答︑昏棄民王
父母弟不迫︑
︹牧 誓︺ 惟四方之多罪通逃︑是崇︑是長︑是認︑是以為大夫
34 一
一
︹酒 ︹酒
︹召 ︹多
︹無 ︹多
︹立
此のやうに︑
︵一︶酒に整腸す︵微子︑
子︑牧誓︑
を信用す︵牧誓︶︵五︶天命を過信す︵西伯繊黎︑
心を祭祀に用ひず︵牧誓︑
で︑前掲の
せられよう︒
帝王を祭って居たと言はれて居るからして︑
同一内容のものと言ふことが出来る︒然らば︑
説かれて居る事は︑
おろそかにしたと云ふのである︒ 卿士︑稗暴虐干百姓︑島島究半商邑︑ 詰︺ 黙諾後嗣王酪身︑⁝⁝誕惟厭縦淫平野非郵︑用燕喪 威儀︑⁝⁝野荒膜干酒︑ 詰︺ 厭心融雪︑不克垂死︑皐在野邑︑越駿国訴無罹︑ 誰︺ 厭終智蔵療在︑ 士︺ 在韓後嗣王︑誕岡顯干天︑⁝⁝誕淫厭洪︑岡顧干天 顯民会︑ 逸︺ 殿王受之迷乱︑酌干瓢徳︑ 方︺ 以爾多方黒髪図黒黒命︑屑有漏︑ 政︺ 鳴呼︑其在受徳瞥︑惟董刑暴徳之人︑同干厭邦︑乃 惟庶習逸徳之人︑同干厭政︑ 尚書にも紺の悪を数へて居るが︑之を要約すれば︑ 海草︑無蓋︶ ︵二︶貴戚旧臣を用ひず︵凹 型詰︶︵三︶小肥を登用す︵微子︑牧誓︑立礼︶︵四︶婦言 酒詰︑多方︶︵六︶ 多士︶の六条となる如くである︒ところ ︵二︶︵三︶︵四︶の各項は要するに政治を怠った事に帰 又︑殿に於ては天の観念はなく︑ただ宗祖神や祖先の ︵五︶と︵六︶は結局︑ ︵四︶ 尚書に於て繰り返し 殿の紺王は︑酒に沈要し︑政治を怠り︑祭祀を
三
尚書が古より﹁詩書﹂と呼ばれて︑詩経と共に中国最古の典籍の
一である事は︑言を侯たないが︑しかし今本尚書の中にも新古の層
があって︑一概に言はれない事は既に先学の指摘した所である︒即 ち現存する尚書は五十八篇より成って居るが︑其の初めには尭舜の 二典があり︑中間所謂周初の言置があって︑運命を載せ︑巻尾に呂 刑︑文侯之命︑費誓︑秦誓などの諸侯の書を加へて居る︒ところ で︑これら五十八篇の中︑三十三篇は︑前漢恵帝の時︑秦の博士で あった九十余歳の伏生によって伝へられた所謂今文尚書であり︑自 余の二十五篇は︑魏晋の頃に形を整へられた所謂古文尚書で偽古文 と呼ばれるものである︒然らば︑今文尚書が古文尚書よりも古い成 立を持つものであることは明らかである︒而してかかる成立の問題 は今文尚書三十三篇の中にもあるのであって︑周初の五詰即ち大 骨︑難詰︑酒詰︑召詰︑洛詰の五詰が︑其の古奥な文辞︑記述内容 からして︑尚書全篇の中︑もっとも初期に成立したものである︒尭 典︑導流︑萬貢等の如く︑年代的には思詰に先立つ諸賢の方が︑実 は後から加上されたものである︒町上は実に儒家思想の発展と共に 後から後からと漸次積み重ねられたものである︒即ち尚書に於て︑ 最も古い成立を持つものは五諾であり︑次に典誤が附加され︑巻末 モ に六国の事が加へられて成立したのである︒さすれば︑吾々が前に 援引した尚書の微子︑無逸︑牧誓︑財政︑多方︑多士の諸篇は︑後 出のものであり︑史料としては五詰の古きに及ばないのである︒而 してこれらの成立は︑津田左右吉博士が指摘された如く︑戦国の初 期︑即ちほぼ前書世紀の終りごろで︑それから後︑潤色され追加せ られて所謂尚書の諸篇となったものである︒ かく見てくれば︑殿王紺についての所伝をもつ最古の典籍は︑ 酒詰と召諾の二篇であることがわかる︒酒詰では︑前にも見た如 く︑︐紺が酒に沈油したこと︑天命を過信した事が述べられ︑召諮で は翼壁旧臣をないがしろにした事を説いて居る︒然らば︑酒詰︑召 諾の指摘する事柄には︑何等かの積極的な実証が可能であらう か︒
35 一
一
四
殿代の入々は︑鬼神を⁝敬し︑とくに祭杞を重んじたと言はれて居
る︒羅振玉の股虚書契考釈にト辞を分類して居り︑一代習俗の一端
が窺はれるが︑それによれぽ︑射乳五百三十八︑台命三十二︑享
六︑出入一三七十七︑田猟一三九十六︑征伐六十一︑年月三十四︑
風雨一百十三︑雑四十七とあり︑祭祀に関するト占が最も多い︒殊
に祭祀関係の記録は︑絶対多数を占めるのみでなく︑他の事は比較
的軽く見られた獣骨に於てト占される場合もあるが︑祭祀のことは
常に神聖視された亀甲が用ひられて居る︒而して此の中には殿王室
の宗祖神や先祖の諸帝王の名が見出されるのであって︑祭祀が極め セ て重大なる行事であった事を物語って居る︒此の祭祀の中に︑五祀
と呼ばれるものがある︒五祀といふのは︑三次に従って︑干支順に
先王をまつる五種の祭祀で︑その開始から終了までに約三十六旬を
要し︑整然たる体系を以て行は承るものである︒最初に祀統一旬が
あり︑これがいはば前の祭りである︒つずいて多系十一旬︑翌系十
一旬が世次と干支順を逐ふて行はれ︑最後に祭系︑櫓糸︑脅糸が相
連続し雁行しながら行はれるから十三旬を要し︑その全期間はあは
せて三十六旬となる︒即ち此の祭祀はその一巡する期間がほぼ一年 の長期に亘るのである︒これを見れば︑毅代に於ける祭杞は︑此上
なく荘厳丁重に取扱はれて居たことが窺はれる︒礼記表記に︑﹁殿
人尊神︑率民以事鬼︑先鬼而後礼﹂とあるのは︑かかる殿代の特質
を道破した言葉なのである︒
この神聖なる祭杞に当って︑神前への供物の一として酒が用ひら
れたと考へられる︒ト辞に︑ 乙卯︑貞早大乙︑ ︵一〇︶ 口需要莞口人︑讐一念︑卯牢又一牛︑ ︵=︶ □轡十□讐十□什□︑ ︵=囎︶ 癸卯︑貞弾三百︑三百︑用︑ 等とあるが︑警は酒の一種であり︑礼記表記には﹁拒凶ヒ工事上帝﹂ とあり︑釈文には﹁讐香酒﹂と述べてある︒説文には﹁響以下三四 艸募芳条二月降神也︑広口︑口器也︑中象米︑乞所以扱之﹂と説い て居る︒即ち轡は租を以て醸造した酒に香草を加へた芳香の強い酒 である︒租は説文によれば﹁墨黒三楽︑一一二米序詞﹂とある︒即 ち一一米は当時の主要糧食であったと思はれるが︑殿人はこれを以 て酒を醸造して︑自にたたへて神前に供したのである︒しかしてト 辞の中には︑此の自数が三六から数十歯︑中には一百自の多ぎに上 るものもある︒酒にはこの外に一一と言はれるものがある︒ 丙成︑ト葭新豊用︑ 下下豊田︑ この豊は即ち醗である︒醗は漢書楚元王伝の薬注によれぽ︑ ﹁甘 酒也﹂とあるからして︑速成の甘酒も神前に供せられて居たのであ
︵ニニ︶
る︒尚此の神前に酒を供した事は︑今日股嘘等より出土する所の股
銅器は︑その大部分が酒器であって︑この酒器には勿論日用品もあ ると思はれるが︑多くは祭儀に当って使用されたと思はれる事から ︵一四︶ も証されるのである︒
これらによれば︑酒を用ひて︑祭祀を営む事は︑股代の習俗であ
って︑神酒は宗教儀式の必需品であり︑宗教観念上欠くことのでき
ないものであったのである︒鬼治政治とも特色づけられる股代社会
では︑政治もまた祭祀の形態を以て行はれて居たのであって︑政治
的な支配は同時に共同祭祀の受容︑王朝祭祀に対する参加協同とい ︵一五︶ ふ形を以て表現されて居たのである︒そこで酒を除外した所には︑
円満な行政は遂行し得られなかった事が知られる︒果して然らば︑ 酒を用ひる事は︑顧頷剛を待つまでもなく︑紺王一人の悪ではなく
36 [
[
︵一六︶ 股代社会一般の通習であったと言ふ事ができる︒しかし︑周初五詰
の一つである酒詰に︑豊里が酒に沈油した事が述べられ︑︐又笑初の
金文である大孟鼎にも略同様の事が述べられて居る︒即ち大憲鼎に
引用して居る孟が周康王から賜はつた策命中には︑ ﹁我聞︑殿墜
命︑惟股公侯田︑与馬蝉百里︑率難干酒︑故喪官紀︑﹂と言って︑
殿王紺の亡国の原因として股の辺境地方の侯と田との諸侯が殿の中 ヒ 央政府の官吏らと共に酒宴に耽ったことが教誠されて居る︒かかる
古記録が伝へて居る事から見れば︑紺王が酒宴に耽り︑為めに官紀棄
乱の事実が存在したことはもとより否定できない︒しかし︑酒詰の
文や此の策命を平静に読めば︑殿軍紺の行為を批判するよりは︑寧
ろ周王朝そのものの問題として取り上げられて居る如くである︒周
知の如く︑股を滅して国を樹立した周王朝は︑別個の文化を持って 居たのではなく︑股の文化をそのまま継承したものであった︒天や
祖先の祭祀に当って︑酒を供することもその例外ではなかったであ
らう︒しかして﹁殿質周文﹂の語もある如く︑その文化は︑殿にも
益して文飾を加へて行った事が想像される︒かくて︑祭祀ひいては
政治的にも堕落の兆が見え︑聰明なる尊公は︑周王朝の定命を翼っ
て︑康叔への訓戒として示されたものが酒詰であり︑此の言葉はま
た周王朝一般へのものとして重臣百官らに受容されたであらう︒又
周公のかかる唱道は︑策命へも影響を及ぼし︑之が殿勤王の滅亡と バ 関連づけて物語られたと見るべぎである︒
五
さて︑然らば股の紺王が天命を過信したと周公が述べて居る事
は︑如何に考ふべきであらうか︒思ふに︑かかる形而上的信仰の問
題は︑紺王よりもむしろ周智その入の問題ではなかったか︒尚書五
号を見れば︑周公は天を言ふこと極めて多く︑しかも其の天は常に 胃王朝との関連に於て語られる︑実に天こそは周公の信仰の中核で あったと思はれるのである︒しかして︑周公の天に対する思惟は︑ 単純ではない︒例へば︑ 天休干寧王︑興我小邦周︑ ︵大詰︶ 天乃大命文王︑殖戎殿︑誕︐受厭命越豚邦厭民︑ ︵康詰︶ 鳴呼︑皇天上帝︑改厭元子︑薙大国股之命︑惟王受命︑無主惟 休︑亦無明惟憧︑ ︵召詰︶ 天亦惟休門前寧人︑ ︵大詰︶ 今王六義豚命︑我書聖葱二国命︑柔柔功︑ ︵召詰︶ などに於ける天は︑周の王室に篤ぎ佑助を垂れるものとして語られ ているが︑又一方
天目枕︑ ︵大詰︶ 越天一枕︑ ︵大詰︶
天畏葉枕︑︵康諾︶ 天降三三周邦︑ ︵大弓︶
弗弔天降割干我家不少延︑ ︵大詰︶
は︑私情遺愛のない天であって︑後方の例は天が周室に災厄を降し
たことを言ふのである︒天は周室に恩寵を垂れた︑しかしその天は
実にまた災厄をも降す畏るべき天なのである︒いみじくも平岡武夫
民がその名著﹁経書の成立﹂の中で述べられた如く︑周面に於ける
天は二元的な矛盾した性格を持つた存在である︒天は王朝を興しも
するが︑また同時にそれを滅ぼしもする性質を持つものである︒周
公に於ける天は︑いずれの王朝にも専属するものではなく︑いずれ の王朝をも左右する所の超氏族的な存在として把握されて居る︒周
公の言は︑畑鼠がこの天の厳粛性を忘れて︑いかなる時に於ても股王
室に祐助をのみ垂れるものと自負して居た事を述べたものである︒ 然らば︑如何にして天の期待に添ひ得るか︒それには︑驕慢︑怠 惰︑奢侮︑或ひは酒への沈滴を棄て︑敬慎︑勤勉︑倹約し︑酒を以
37 一
一
て専ら耳垂と孝養にのみ供すべぎ事が強調される︒平岡武夫氏によ
れば︑天の概念は殿代にはなく周代に始まる︒実に天の観念は殿周
革命を契機として生れたものである︒そこで︑天命が王朝の興亡に コ 関連して言はれるのは当然である︒この事から考へると︑殿王紺が
天の佑助を過信したと言ふ周公の言葉は︑即ち周公の理念であっ
て︑紺王よりは寧ろ周王朝当面の問題であったと考へられるのであ
る︒
六
次に紺王が貴戚旧臣を用ひずといふ事は︑何等かの証拠があるで
あらうか︒
周初青銅器の一に亜孟がある︒これに就いて貝塚茂樹氏は︑その むニ 大著﹁中国古代史学の発展﹂の中で︑次の如く説かれて居る︒この
器は︑燕侯旨の部下の亜が宝貝の賞賜を受けて製作した器である
が︑その文の冒頭には亜夢中に習気なる文字を入れた標識が附せら
れて居る︒之は亜なる者が︑暴侯の子孫であるか︑或は箕侯の旧領
に封ぜられたか︑少なくともこの身侯の祭杞を奉ずるを職としたこ
とを示すものである︒逸周書には︑武王が殿を滅した後︑召公に命
じて殿帝紺により幽囚されて居た殿王室の賢者箕子を放免したこと
が書かれてある︒この箕子こそ金文の黒熊に外ならず︑亜孟は召公
の弟たる燕侯旨の竪子旧領を安堵する政策を表はすもので︑逸瓦書
の記事は燕侯旨による旧領宣撫の歴史事実を兄たる召公と結び付け
た伝説の片鱗を存するものであらう︒又暴露の名は︑些末の帝乙︑
帝辛時代のト辞の中にも見出されるとして次の如ぎ例を示して居ら
れる︒ :::貞︑曇日乙酉︑小臣呼量︑
⁝⁝潜考員侯︑二面⁝⁝ このト辞は断片であって︑上部が欠けて居るので︑全文意が不明 であるが︑異侯は商王朝に属した諸侯の名であることは明らかであ る︒異は紀の仮借とせられても居るが︑股代末期ト辞に表はれる箕 ののニ 侯は即母子と解すべぎである︒果して然らば︑所謂股の三仁の一入 である箕子はその実在が証されて確実に史上の人となるわけであ る︒しかし何が故に発駅は霊室の運命に殉ぜずして︑新王朝たる周 に帰順したかは︑遽かに決定し難きことであるが︑恐らく紺の庶兄 と言はれて居る微子との関係があるであらう︒史記股本紀には﹁尉 淫乱不止︑微子数諌不聴︑乃与大師少師諌遂去﹂として箕子との関 連に於て説く如くでないが︑尚書省子に捨ては︑父師は三子︑少師 は比干とされ︑又史記微子世家では︑箕子︑比干ともに微子の親戚 と言はれて居るが︑ともかく此の三者が緊密なる関係にあったこと こニ は明らかである︒しかして︑此の微子一派と殿頬骨との間に意見の 相違があったではないかと考へられる︒史記殿本紀には︑殿王朝の 中期︑帝陽甲の頃︑二代に亘って王朝に内紛葛藤ありし事を記録し て居る事からも︑殿末殿王朝の困難な時期に当って︑意見の対立し たことは考へられない事ではない︒而して︑此の対立が国運を賭す るが如き大事の時に激化したと考へることは決して一方的な見方で はないであらう︒肘の淫乱の為めであるとする史記の説はしばらく 措き︑最も強く考へられる事は︑紺王の東夷征伐に関してである︒ 紺王の東夷征伐は実に殿王朝の国力を尽した大戦役であったと考へ られて居る︒適量農の近著﹁毅代社会生活﹂によれば︑この東征は ︵二旨︶ 一力年の長期に亘ったものである︒李亜農はその中でト辞によつ て︑詳さに尉王の行動を跡づけて居るが︑しかし東夷との決戦の機会 はなかったとして居るが︑恐らく股紺王の東征は数次に亘ったであ らう︒この東夷征伐の目的に就いては︑股王后が異常に田猟を好ん
で居たが故に︑好猟場の獲得がその目的であったとせられる平岡武
38 一
一
︵二五︶ 夫妻や貝塚茂樹氏の意見がある︒しかし︑重代の巡守田猟には何等
かの宗教観念が附随しない事はないからして︑単に遊猟の為めとだ
け見る意見には賛成でぎない︒ところで︑近時︑貝塚氏はその著
﹁中国の古代国家﹂の中で︑殿尊重の東夷征伐は経済的な目的を持
つものであったとして次の如く論じて居られる︒ト辞には殿の最後
の帝王で後世から暴王の典型と見られる紺王は︑人︵夷︶方に対し
て大討伐軍を起し︑山東半島を征服したことが記録されて居る︒二
王はよく勝利を静めたが︑国力を大いに疲弊させたため︑西方の周
国にこの間隙をつかれて︑遂に亡国の破目に陥ったのである︒毅王
命がこのやうな国運を賭して山東地方の人方に大軍を送って征服し
ようとした理由は︑たぶん奢修的な装飾品としてよりは︑むしろ貨
幣の用途をもつて居る宝貝の貿易を人方の影干を廃して直接に自国 マ の手によって行はうといふ点にあったであらうと想像される︒
かかる国運を左右する如き征伐に対して国論が一致しないのは︑
当然の事で︑微子一派の人々は之に反対の立場を取り︑膨めに領国
の勢力は両断され︑天下の三分の二の心服を得て居た周王朝に対し て不利な立場にあったことが考へられる︒かくて︑牧野に於ける股
周両朝の決戦に際会して︑微子一派は周王朝に内応して︑周王朝の
天下平定の後に旧領安堵の命を得たかと思はれる︒されば︑史記に
言ふ微子箕子王子比干の事は︑曇る程度の真を伝へて居るかも知れ
ないのである︒
七
このやうに見てくれば︑暴君の典型とする史記所伝の殿辻王につ
いての説話は︑後来の附加が多く︑又五詰の中に語られて居る事も
全面的には信じ難いのである︒
周知の如く︑尚書五諾は盛周の当主たる文言武王を主として讃頒 せずして︑すべて周公の言葉として語られて居る︒盛周の王業を干 するのであれば︑周王朝の基盤を形成した文王︑また之を承け︑よ く天下統一の大業を完遂した二王を讃へ︑文武を主として語らせる べきではないか︒然るに︑尚書五諮は武王の弟たる皆皆を主人公と して居る︒これは実に尚書五言が周公の理想を奉ずる面々によって ニセ 定著されたことを示すものである︒而して︑周公は魯に封ぜられ た︒爾来︑魯は周公の子︑伯禽の後喬が君臨して居る国である︒か かる事から魯の人々は︑周公の勲功をたたへ︑偲びつつ生きたので あって︑周面の理念は魯の国の強い伝統となったのである︒後に魯 の国には孔子の如き聖人も出たが︑孔子が夢に見たのは周公であっ ニペ た︒又その理想とする所は︑周公の定めた周初の文化であった︒韓 ニぬ 宣子は魯に行って︑大黒氏の古書を見て﹁周心尽在魯 ﹂と言ひ︑ また尚書が孔子に関係づけて説かれて居る事は︑かかる伝統と深い のニ 連繋にある事を示すものである︒かく考へると尚書五爵の定立が︑ 周公を奉ずる魯の人々によつて成された事は疑ひない所である︒而 して︑此の場合︑周公を顯忽せんが為に︑周公の理念に反するもの として殿紺王が取扱はれたと考へられる︒紺王の悪として数へたも のを裏返せば︑それは周公の理念である︒而して︑周公の理念は︑ また原初儒家の理念の表明である︒中国の透額剛は﹁成則中華︑敗 則為冠﹂の諺を引いて︑殿王紺の敗軍こそ尉王を悪王たらしめたと 言って居るのは︑穿ち過ぎたる見方かとも思はれるが︑また一面の ピニ 真理を伝へたものであらう︒かくて︑紺王説話は︑その原初に於て さへ︑原初儒家の手によって潤色された部分があることを認めない わけには行かないのである︒
八
この殿の紺王が︑暴君として逞しい姿を現はし︑紺王の物語が純
39 }
一
然たる暴君説話として取扱はれるに至ったのは︑墨子にはじまる如
くである︒
墨子︑非攻篇に次の如き説話がある︒
︵股の国は︶雷名に至って︑天は紺の徳をよみせられなかった︒それは
紺は暴慢を行ふに当り︑正しい時を失って︑夜中に至ることもあったから ︵三二︶ である︒このため十日間も薄に土が雨のように降り︑九鼎が遷り止まり︑
婦妖が宵いで︑鬼が宵吟じ︑又女が男に変り︑肉が雨のように降り︑又棘
が往来のはげしい国道に生えるといふ妖変があったが︑これは討王が益々
放縦に流れたからである︒ ︵この頃︑周の国では︶赤鳥が国を与へられる
符信をロにくはへて︑周の岐社に降りたつて︑ ﹁天は周の文王に命じて股 ニコこ を伐ち︑国を保たせようとして居る﹂と言った︒又奉真が賓客として来ら
れ︑黄河からは緑図が出てぎ︑牧場からは栗毛の神馬が献上された︒武王
は位につかれて︑夢に三神を見られた︒神は武王に向って︑﹁自分は前か
ら毅王紺を酒におぼれさせて居る︒汝は往って股を攻めよ︒自分は必ず汝 ︵三四︶ を勝たしてやらう﹂と言はれた︒そこで武王は股を攻めたのである︒武王
は商より周に帰られると︑天は撫肩に黄鳥の旗を賜はつた︒二王が殿との
戦に勝たれたのは︑天の賜物をよくおろそかにせられなかったからであ
る︒野性はその後︑諸神を分臥し︑又股の先王を祭られたので︑四方の夷
は勿論︑天下の人々は皆喜び仕へたのである︒かくて武王は昔の股の湯王
の聖業を継承されたのである︒ 又明鬼打には︑
昔︑四王紺は天子となって︑天下を治め︑富貴をぎはめて居たが︑上は
天をそしり︑鬼をあなどり︑下は天下の万民を困しめて居た︒即ち老人 ︵三台︶ は棄ててかへり見ず︑小児を殺し︑罪なぎ人を焚擁し︑孕みたる婦人を解
蔑するやうな悪事を行ったので︑よるべな・ぎ人は頼りにする所もない有様
であった︒かかる次才であったから︑天は武王に命じて殿を征伐して︑そ
の罰を明らかにされたのである︒ ︵その戦の様をいへば︶恒産は戦車百両
を択んで︑一騎当千の勇士四百人をのせ︑先ずこれに符節を授け観兵して
出征し允︒殿人億これを牧野に防いだ︒この戦で武王は︑尉の悪事︑費 中︑悪来を手つから生けどりにした︒ために股軍は皆敗走した︒薄歯は紺 を追はれて︑遂に股の宮殿で紺を捕へその首を斬って︑これを赤環にか け︑これを白旗に載せたのである︒⁝⁝⁝⁝ 思うに︑紺は︑天子の尊にあり︑天下の広きを治めて居り︑又費中︑悪 来︑崇重虎の如き人を殺すほどの勇士があり︑入民の数も兆億を数へて︑ 山野に満つるほどでありながらも︑鬼神の怒りには勝てなかったのであ る︒ とある︒ 墨子に語られた此の二つの説話は︑之を一つに併せると首尾一貫 したものを成す如くであるが︑この二話は墨子が他の箇所で屡説し て居る股の紺王の悪事をふまへて構成されたものであらう︒即ち墨 よ 子は紺の悪行を数へて︑﹁訴天正鬼﹂︵法儀︑尚賢︑天志︶とか︑ 下 上 下 ﹁訴侮上帝山川鬼神﹂ ︵天志︶とか︑﹁賊人﹂︵法儀︑天竺︑ 天志︶ とか︑或は﹁兼悪天下之百姓﹂︵法儀︶﹁賊殺万民﹂︵尚賢︶﹁暴 中 下 下 逆百姓﹂︵非命︑非命︶﹁移其百姓之意﹂ ︵春信︶とか︑又﹁不糾 其耳目之淫︑不慎其心志之辟﹂︵非命︑非命︶﹁修為声楽︑塩押其 通﹂︵貴義︶と述べて居るが︑先後を論ずれば︑恐らく紺を悪とす るこれらの語が初めに伝へられて︑後に具体化した前の物語が生れ たと思はれる︒而して︑墨子の説話は︑史記のそれと比較すれぽ︑ 相当の距りが見出される︒史記と共通の説話分子は︑ただ紺王が鬼 神に不敬にして百姓を苦しめた事︑周の三王が紺の頭を白旗に懸け ︵三六︶ たといふ二点に過ぎない︒其他では登場人物に於て︑費中︑悪来︑ 崇侯虎が悪臣として語られて居り︑史記にも同様であるが︑史記に 於て︑説話構成上︑相当重要な位置を占める箕子︑微子︑王子比干 は見出せない︒又︑墨子︑非命篇では︑紺は田猟を好んだとある が︑史記では︑沙丘の苑台を広めて︑多く野獣輩鳥を取って之を置
いたとして︑著しい相違を見せて居る︒前掲墨子の説話にな出ない
40 一
一
が︑紺が酒薬に沈喧した事は︑非命篇に﹁曾於酒楽﹂とか︑ ﹁湛玉
酒楽﹂と述べて居るから︑史記の﹁好酒淫楽﹂と合致するにして
も︑墨子の紺王説話は︑未だ完成したものではなく︑説話成立の過
渡期の様相を示すものと見るべきである︒
九
墨子に於ける紺王説話の特質は︑祥瑞と祇変を説くことである︒
即ち紺王の悪行に対しては︑
十日雨干薄︑九鼎遷止︑婦妖宥出︑夢野宥吟︑有女為男︑天雨
肉︑棘生写国道︑
といふ妖異の出現があり︑一方これに対する周王朝の側には︑
赤鳥街珪︑降周之上社︑泰顯来賓︑河出緑図︑斗出荒聖︑⁝⁝夢
見三神︑ の如き祥瑞が示されて居る︒墨子に於けるかかる例は︑この紺王説
話の直前に︑三苗の大乱と夏王桀の話がある︒三苗の大乱では︑
日有宥出︑車身三朝︑龍生於廟︑犬嬰乎市︑夏氷︑地響及泉︑五
穀変化︑
と語られ︑この時︑萬は天命を奉じて有苗を征したが︑それには︑
四電誘抵︑有導入面鳥身︑若理以侍︑盗矢有苗之祥︑
といふ変異があり︑母型王桀の場合も︑
日月不時︑寒暑雑至︑五穀焦死︑鬼皇国︑黒髪十里余 と言ふ祇変が見られた︒かかる例を見れば︑暴君の治世にはその滅
亡を予告する不祥の前兆が示され︑聖王出現の時は︑祥瑞吉兆が見
られるといふ信仰に基づいて構成された説話の如く思はれる︒
十
墨子の書を読んで窺はれることは︑政治の場に於ては︑暴王と聖 王の対立として把握せられて居ることである︒道徳に対するに反道 徳的なるもの︑一は倫理的であり︑一は倫理隠魚を滅するものとし て規定されて居る︒例へぽ︑ 昔之聖王︑萬湯文武︑兼愛天下之百姓︑ と言へぽ︑必ず之に対するに︑ 暴王桀紺幽属︑兼悪天下之百姓︑ ︵法儀︶ と述べる︒此の例は︑とくに尚賢︑天志︑貴義︑糾問の諸政に顯著 である︒而してかかる三代聖王に対する三代暴王の内実は︑尚賢篇 の次の一文に帰するのである︒日はく︑ 徳行之厚︑若萬湯文武︑不鋤瑠也︑王公大人︑骨肉之親︑壁痔 聾︵暫︶︑暴如桀紺︑不加失脚︑ と︒墨子にあっては︑文武の聖王は︑よく天下の百姓を兼愛し︑天 を尊び︑鬼に事へたものであり︑道徳の極致である︒之に対して︑ 桀紺は︑天下の百姓を兼悪し︑天を詣り鬼を侮る暴王とされるので ある︒ 周知のやうに︑墨子思想の根源に横はるものは︑鬼神の観念であ る︒墨子の信ずる鬼神は︑義を好み不義を悪む︒あらゆる倫理道徳 は︑この鬼神より起つるものである︒ ︵単勝︶然らば︑鬼神︵天︶ の志が︑万民を兼愛するものであること論を侯たない︒︵天志︶︒而 してこの兼愛の理念よりして︑その非攻︑尚賢︑非楽らの理論が導 き出されたものである事は︑ここに事新しく述べる必要はない︒墨 子によれぽ︑泰平の理想は︑他人を見ること己の如くし︑他国を見 ること己れの国を見るが如くする所に出現する︒然らば︑兼愛の理 は︑人類相愛の理であって︑この理念を具現したのが︑尭舜乃至は 文武の聖王である︒之に反して︑人類相克の悲惨なる世にしたのが 桀紺である︒墨子はかかる考へから︑紺王説話に於てその行為につ
いて︑
41 一
一
播棄黎老︑賊諌骸予︑楚毒無罪︑瓠刎孕婦︑
と旦ハ体化して述べたものであらう︒又︑文武らの聖王は﹁尊曲事
鬼﹂とし︑審理の暴王は﹁詣贈号鬼﹂と語ったことも︑その鬼神崇
拝の端的な具象化であろう︒又兼愛の理想実現の為めには︑賢臣の
補佐が欠くべからざるものと考へられるので︑之を尚賢篇で説き︑
又君主には教育感化が重大であるからして︑所染篇にて︑﹁門馬戯
言由伯陽︵中略︶股紺染於崇侯悪来﹂と挙例したのである︒
かく見てくれぽ︑墨子に於ける紺王説話︑ひいては聖王暴君説話
は︑墨子の理念に協ふやうに附加潤色が試みられと思はれる節が多
いのである︒
さて︑前に見た如く︑墨子には紺王についての二つの説話が見ら
れるが︑又説苑反胆心には︑墨子の語として次のやうな説話を引い
て居る︒ 墨子日︑漸漸鹿台︑糟丘酒池肉林︑宮塵事画︑彫琢刻鐘︑錦鱗
鐘堂︑金玉珍璋︑婦女優侶︑鐘鼓管絃︑流興信禁︑而天下愈端︑
これを見れば︑墨子には紺王に就いての三つの説話が伝へられて
居たと言へる︒かかる三様の説話が伝請されるのは︑如何なる事情
からであらうか︒
墨子の学が一時人心を風靡し︑儒家を圧倒せんとする勢であった
事はよく知られて居るが︑その学徒も多く︑墨子公等篇に﹁臣之弟
子禽滑麓等三百人﹂と言ひ︑韓非子顯学篇には﹁孔墨之後︑儒分為
八︑墨離為三﹂と云ひ︑相里氏︑相夫氏︑郡摂氏の名を挙げて居
る︒狩野直喜博士は︑墨子の書は︑其の門流の者が聞く所を記録し ︵三八︶ 附加したものとされて居る︒周知の如く︑聖心時代は記録によるよ ︵三九︶ りも一層多くが伝論に依存して居た︒ 一に伝請時代と言はれる所以 である︒国語の如きも︑戦国時代に︑諸国の宮廷に王子貴族の子弟 ハ に教へるために伝はつて居た教訓的な物語りを集めたものであり︑ 七国の王子達は家庭教師からこの先王の故事を教訓に仕組んだ喩へ ︵四一︶ 話である語をぱ習って暗回して居たといふ︒そこでこの薬王説話 も︑その初めは夫々の学派に伝論されて居る問に附加され潤色され て︑異る説話が形成されたであらう︒而して後に之が定著されたと 考へられるが︑当時の著作は一篇一篇を以て成り︑後人が之を編輯 して一家の書となせることが多いからして︑墨子の書も亦恐らくか ハニ かる事情にあると思はれる︒筆者は︑墨子にある紺王についての三 説話は︑かうして成立したと考へるものである︒ 次に先に示した墨子にある祥瑞の思想は︑馳駅の古典を見れば︑ 既にその片鱗を孟子の中に見ることができる︒即ち孟子は万章章句 に於て尭舜の禅譲に関して︑天と入との相関を語って居るが︑呂氏 ハ ニ 春秋にはこれが複雑にして顯著になって居る︒而して︑その応同篇 には﹁及文王之時︑天先見火︑赤鳥街丹書︑集干周社﹂とある如き は︑墨子非運篇の文と極めてよく類似して居る︒かかることから考 へると祥瑞思想を含む説話が︑墨家の手によって定立されたのは︑ 略呂氏春秋の定立と前後すると考へてよいかと思はれる︒
結
語
以上によって︑直々殿の紺王説話の成立とその展開の方向が明ら
かになった︒之を概言すれぽ︑史記に語られて居る紺王説話は︑そ
の中に若干の真は認められるにしても︑いかに後代の附加潤色が多
きものであるかが窺はれる︒顧頷剛は︑尉の悪は後世になれば︑七 ︵四四︶ 十を以て数へられると言って居るが︑所謂後代の加里が時代と共
に︑又思想の展開につれて行はれるものである事が知られるのであ
る︒ところで︑経典尚書の中で数へて居る討の悪は︑僅々数十に過
ぎないのである︒而して尚書の言ふ尉の悪も︑多くは周公の思惟に
よったと思はれる節が多い︒周面の理念とされるものは︑即ち原初
42 停
一
儒家の理念であったと思はれるからして︑周公を聖人と仰ぐ原初儒
家は︑その理念を濯ぐるものとして︑紺王をとりあげ︑具体的に挙
例を以て説いたのである︒紺が果して悪王であったか︑否かは︑
未詳のことに属することは︑前述したが︑それはともかく原初儒
家の理念によって︑紺が悪王とされる契機が見出される︒ところが 此の紺王説話は︑墨子に至り︑その理念を妨害するものとして再
吟味されるに至り︑急速に展開した︒墨子に於ける紺王は︑全く悪
王の典型として語られて居る︒而して︑墨子は之を抽象に止めずし
て具象化を試みた︒この具象化は︑世上に見る暴悪な入間を写して
こそ其の効果は顯著である︒かくて墨子は︑紺王を酒と女を好み︑
人を苦しめる一箇無頼なる入間像として形成したのである︒聖王の
出現には祥瑞あり︑悪王には凶兆があって︑その滅亡を予示する といふ信仰がある︒あたかも墨子は聖王たる武甲を説き︑悪の典
型たる紺王を説く︒いかにも祇変瑞祥の出現にふさはしい︒そこで
瑞祥の思想を導入したと思はれるのである︒かくて︑糾王説話は愈
々その内容を豊富にしたのである︒しかし墨子に於ける紺王説話は 未だ完備したものでなく︑その過渡期の様相を示して居るに過ぎな
い︒ これらに依って見れば︑儒家は儒家なりに自らの理念のために紺
王説話を構成し︑墨家は墨家として︑これまた自家の理念に合致す
る如く説話を取扱って行ったのである︒それ故に︑この紺王説話
は︑夫々の学派の政治的な理想の一つの投影であると言ふことがで
きよう︒ 註
︵一︶内藤湖南博士の説は尚書稽疑にあり︑﹁研幾著録﹂に罷めらる︒又
支那学︑一ノ七︑顧瀬踏の説は︑古史弁自序︑五二頁︑平岡武夫
氏の訳本︑ 一二〇頁に詳は・しい︒
︵二︶︵三︶︵四︶︵五︶︵六︶︵七︶
︵八︶︵九︶︵6︶
︵二︶︵三︶︵三︶(一l)
二五︶︵エハ︶
(一
オ)
(一
ェ)
庸王説話を吟味するには︑尚書︑墨.子の外に︑尚孟子皇子其他先秦
の典籍を検討すべぎである︒とくに尚書の方向にあると思はれる儒
家の態度を知る必要があるが︑紙面の都合で他日を期することにし
た︒ 説話の解釈は意を以て訳した所が多い︒以下墨子の文もこれに從
ふ︒ 顧韻剛︑紺悪七十事的発生次才︑古史弁矛二冊八三i八四頁︑な
ほ天の観念についての論述は︑郭沫若の先回天道観之発展に詳し
い︒又十批判書でも略同様のことを述べて居る︒
平岡武夫氏族︑経書の成立︑一五四一一五五頁の文によった︒尚
この論稿はこの書に啓発された所が多い︒
津田左右吉博士著︑儒教の実践道徳︑二〇四!二〇五頁
平岡武夫氏︑経書の成立︑七八頁
白川華氏︑甲骨金文学論叢︑初茜︑八頁
郭沫若︑殿町町着︑ =三二︑なほ後出の﹁豊﹂についてのト辞も郭
氏のこの書にあるものである︒
生動玉︑股虚書契後篇︑七︑五
近作賓︑小屯︑股虚文字甲編︑三四〇〇
羅振回︑三三書契︑前編︑五︑八︑四
李亜農︑股代社会生活︑四四頁
同上︑ 四五−四六頁
白川静心︑甲骨金文学論叢︑初集︑二〇寒
威七二︑紺悪七十事的発生次将︑古史弁巧二冊︑八三頁
貝塚茂樹民︑中国古代史学の発展︑二六四−二六五頁
孔伝は︑酒詰について︑康叔が殴民を治めることになったが︑殿の
民は紺の感化を受けて︑酒を好み︑務を怠ったので︑これを誠める
ために鳥撃が作ったとするが︑藥伝の注は︑康叔を訓曝したものと
見て居る︒しかし︑これはむしろ周公が周王朝・のために︑ 一般官吏
を誠めるために作ったと考ふべきものかと思はれる︒
43 一
一
(一
縺j
(二
Z)
︵三︶
(一O︶
(二
O)
(二
l)
(二
?j
︵三ハ︶(二
オ)
(二
ェ)
(二
縺j
(三
Z)
(三
黶j
(三
)
(三
O)
平岡武夫受勲︑経書の成立︑一八七−二〇二頁を参照したα
同上︑一八七−二一七頁
貝塚茂樹民︑殿末男初の東方経略に就いて︑東方学︑矛十冊︑七四
頁︑この文は︑ ﹁中国古代史学の発展﹂に牧めらる︒
同 上 史記︑殿本紀には﹁帝陽甲之時︑殿衰︑自余丁以来︑廃適而更立諸
弟子︑弟子或争相代之︑比九七乱︑﹂と述べて居る︒
李亜農︑股代社会生活︑七頁
平岡氏の意見は﹁経書の成立﹂二二二頁に︑又貝塚氏の見解は股末
画筆の東方経略に就いて︑三三一三四頁に詳細である︒
貝塚茂樹氏︑中国の古代国家︑五八頁︑ここで貝塚氏は主として経
済的な面より解明して居られる︒勿論これも重要なる因子であるこ
とは認めるが︑しかし宗教観念を考へる余地はないものであらう
か︒やや経済に重きを置かれた憾みがあることはおほひがたい︒
平岡武夫氏︑経書の成立︑三〇五頁
論語︑述而篇に﹁子日⁝⁝久夷︑吾不復夢見周公︑﹂とあり︑孔安
国は︑﹁明盛時︑夢見周公︑早行其道也︑﹂と解して居る︒又衛霊
公篇では︑顔淵が政治の法を問ふたのに孔子は﹁服周之舅﹂と言ひ
包成は﹁周之礼文整備也﹂と注して居る︒
左氏伝︑昭公二年の條
史記︑孔子世家に﹁孔子之時︑周室微而礼楽廃︑詩書欠︑追述三代
之礼︑序書伝︑上紀唐虞之際︑下至膠公︑編次其事﹂とある︒
顧額剛︑紺悪七十事的発生次才︑古史弁才二冊︑八三頁
孫諭譲︑墨子問話︑巻五︑一六丁表︑孫論譲の説に從ひ︑序を享の
誤と見て解した︒序一本作享︑と言って居る︒
謡孫譲︑墨子問話では泰顯は孟子にいう太公避紺云々の太公ではな
いかと言って居る︒ ︵巻五︑一七丁表︑︶なほ︑巻二︑尚賢上︑
︵四丁表︶にも詳細に説いて居るが︑むしろ泰真の神ではないかと
考へられる︒泰真は太真とも言はれ太極神らしいから︑祥瑞を言ふ
(三
l〉
(三
ワ〉
(三
Z)
(三
オ)
︵畳︶(三
縺j
(四
Z)
︵四一︶(四
)
(四
O)
(四