吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠
著者 田中 伝
雑誌名 美術研究
号 410
ページ 15‑37
発行年 2013‑09‑13
URL http://id.nii.ac.jp/1440/00006027/
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠一五
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠
田 中 伝
はじめに一、作品概要二、詩句・図像との対照
(
()「離騒」との齟齬
(
()「九歌」
「湘君」「湘夫人」との合致
(
()《九歌図》との対照
三、「離騒」としての「九歌」四、『離騒図』と『図本叢刊』
(
()蕭雲従『離騒図』とその復刻
(
()霊華と正木直彦
(
()『図本叢刊』収録書からの図様転用
五、《離騒》の独自性︱近代日本絵画における中国絵画受容の一断章として︱
おわりに
はじめに
《 離 騒 》
(一九二六年、図版 りそう(~
()
は、 明 治 後 期 か ら 昭 和 初 期 に か け て 活
躍した画家吉川霊華
(一八七五︱一九二九)の代表作として知られる
)(
( 。
本作は、 この作品に付けられた画題《離騒》を根拠に、 中国古代の詩集『楚
辞』に収録される「離騒」を絵画化したものとする見解が主流である。これ に 対 し 本 稿 で は、 本 作 の 実 際 の 典 拠 は、 「 離 騒 」 で は な く、 同 じ『 楚 辞 』 に
収録される「九歌」第三篇「湘君」及び第四篇「湘夫人」であることを、詩
句との対照より提示する。また本作が「九歌」を主題とする絵画《九歌図》
から図様を転用していることを、現存作例との対照より明らかにする。そし
て「 九 歌 」 を 描 き な が ら《 離 騒 》 と い う 画 題 を 付 け た 理 由 を、 『 楚 辞 』 の 注
釈書や関連文献より示す。更に霊華が、本作の制作直前に刊行された『離騒
図 』、 そ し て 同 書 を 収 録 す る 絵 入 り 漢 籍 の 復 刻 叢 書『 図 本 叢 刊 』 諸 本 を 参 考
した可能性を検証することで、本作の制作背景を明らかにし、その史的意義
を再定置する。
一、作品概要
《 離 騒 》 は、 大 正 十 五 年 に 東 京 府 美 術 館 で 開 催 さ れ た 第 七 回 帝 国 美 術 院 展
覧 会
(十月十七日︱十一月二十日、以下帝展と略称)に 出 品 さ れ た。 霊 華 に と
っ て 本 作 は、 明 治 四 十 四 年 の 第 五 回 文 展 に 出 品 し た《 菩 提 達 磨 》
(関東大震災で焼失)
以 来 二 度 目 の 官 展 出 品 作 で あ る。 帝 展 委 員 藤 懸 静 也 を し て、 「 こ
れ ま で 諸 展 覧 会 に 出 陳 さ れ た 傑 中 に も 屈 指 の も の 」「 超 帝 展 的 作 物 」 と 評 さ
せた本作は、他の委員からも絶賛をもって迎えられ、帝国美術院賞の候補に
美 術 研 究 四 一 〇 号二六
も挙げられたが、作者自身が帝展委員であったことから見送られることとな
った
)(
( 。帝展出品後本作は、前田侯爵家、細川侯爵家、大倉喜七郎などが購入
を 打 診 す る も、 最 終 的 に 霊 華 と 親 交 の あ っ た 実 業 家 鈴 木 新 吉 の 所 蔵 に 帰 し
た
)(
( 。
本作の制作の大略は、帝展出品直後に著された藤懸静也による霊華自身か
らの聞き書きと、本作の制作より五十年以上を経た後に記された霊華の未亡
人季代の述懐によって、その一斑を伺い知ることができる。それによれば、
本作は小下絵のみを用い、実質一週間ほどで描き上げられたのだという
)(
( 。こ
れ以外に、本作がどのように作られたのかを示す資料は存在せず、その制作
背景はほとんど不明である。
本作は対幅を成し、紙本に繊細な墨の描線が引かれ、淡彩が施される。右
幅
)(
( の中央やや右寄りには、この作品の最も大きな主題と見なされるひとりの
女 が 配 さ れ る。 白 衣 を ま と い、 蘭 を 手 に し て ゆ っ た り と 空 中 に 浮 遊 す る 姿
は、 観 音 の 像 容 を 彷 彿 さ せ る。 事 実 こ の 翌 年 に 描 か れ た《 観 自 在 菩 薩 》
(一九二七年、所在不明)
に お い て、 こ の 女 性 の 姿 が 楊 柳 を 手 に し た 観 音 に 転 用
されている
)(
( ことからしても、画家自身が、この女を意識的に聖なる存在とし
て描いていることは明らかである。女の後ろにはふたりの侍女が毛扇を女に
差しかける。女の左側には、女に付き従うかのように一頭の龍が描かれる。
これらのモティーフは、画面向かって右上より左下にかけて流れる雲の上に
乗る。雲の下方一面には謹直な線描による水波が引かれ、龍と侍女を引き連
れた女が雲に乗って水上を移動するという、幻想的な光景が展開される。
天の世界とも思しき情景を描く右幅から一転して、左幅に描かれるのは、
視 点 の 大 き く 下 が っ た 地 上 の 世 界 で あ る。 画 面 の 下 お よ そ 三 分 の 一 を 占 め
る、大小の岩石の点在する地面では、ひとりの男が馬を曳いている。何かに 気付いて後ろを見やるような仕草をする男の視線の先には、右幅に描かれる のと類似した姿の龍が、遠方で雲をまとって飛翔している。右幅で設定され た観者の視点が俯瞰気味であったのに対し、左幅では対象を真横からとらえ ている。岩場の後方には、画面最上部まで水域が広がっている。この水域に 視線が遮断されることで奥行きを喪失した画面は、モティーフ全てが横向き の配置なのとも相俟って、平面的で静謐な空気感を漂わせている。 画中の細部に目をやると、その細緻な描き込みには、なんらかの具体的な 典拠の存在を想起させるものがある。ここでまず、本作の細部描写と対照し たいのが、 正倉院御物である。例えば、 比較的色味を抑えた彩色の右幅の中、
女 の 頭 上 に 戴 か れ た 豪 奢 な 金 冠
(挿図()
は、 そ の き ら び や か さ に お い て ひ
ときわ目を引くが、 その形状は正倉院御物の冠の残欠のそれを彷彿させる
(挿図
()
。 ま た、 侍 女 が 差 し か け る 毛 扇 は、 口 金 や、 挟 木 の 中 央 に 止 め ら れ た
挿図 ( 《離騒》右幅 部分
挿図 ( 《礼服御冠 残欠》 正倉院
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠一七
挿図 ( 《離騒》右幅 部分
挿図 ( 《漆塗塵尾》 正倉院
挿図 ( 《離騒》左幅 部分
挿図 ( 《金銀平文琴》背面 部分 正倉院
鋲 ま で も 細 か く 描 き こ ま れ て い る
(挿図()
が、 こ れ も 正 倉 院 に 納 め ら れ る
塵尾
(挿図()
に酷似する。器物以外では、 左右両幅に描かれる龍
(挿図()
が、
正 倉 院 御 物 の《 金 銀 平 文 琴 》 背 面 に 表 さ れ た 龍
(挿図()
と 造 形 要 素 を 共 有
していることにも注目したい。両者は、単に龍の形状における相似のみなら
ず、龍がまとう霊芝雲の描写においても同等の表現要素を有している
)(
( 。霊華
は大正八年に帝展の推薦を得て正倉院拝観の資格を得て以降、毎年秋に行わ
れる正倉院の曝涼には欠かさず出向いている
)(
( ことからすれば、こうした描写
は、正倉院御物を直に拝観した成果と見なすことができよう。
また、左幅に描かれた男のまとう袖口をたっぷりととった衣や、纓をリボ ンのように垂らすチューリップ状の冠といった服装は、実際の中国の風俗と い う よ り も、 中 国 や 異 国 を 描 い た 絵 巻 物 中 に 描 か れ る 人 物 の そ れ に よ り 近
い。こうした異国風俗を描いた絵巻の中でも特に本作との近似性を指摘でき
る の が、 鎌 倉 時 代 に 活 躍 し た 宮 廷 絵 師 高 階 隆 兼 が 描 い た《 玄 奘 三 蔵 絵 》
(藤田美術館蔵)
で あ る。 こ の 絵 巻 中 の、 高 昌 国 王 が 玄 奘 を 出 迎 え る 場 面
(巻第二第五段)
に 登 場 す る、 灯 火 を 手 に 王 を 先 導 す る 官 吏 の 姿 に 注 目 し た い。 こ
の 男 の 姿 を 左 右 反 転 さ せ る と、 本 作 の 男 の 姿 と 相 似 す る の で あ る
(図版(、
挿図
()
。 両 者 は そ の 仕 草 や プ ロ ポ ー シ ョ ン、 そ し て 冠 よ り 垂 れ 下 が る 纓 の
描写が近似するだけでなく、裾の輪郭が弧線を繫げるようにして描かれる点
においても共通する。このような絵巻からの直接的な転用を伺わせる描写か
美 術 研 究 四 一 〇 号一八
らしても、本作の一面が、霊華の大和絵学習によって形作られていることを
理 解 す る こ と が で き る。 霊 華 は、 隆 兼 の 描 い た《 春 日 権 現 験 記 絵 》
(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)
を も 含 む 多 数 の 絵 巻 物 の 模 写 を 所 蔵 し て い た こ と か ら
)(
( 、 絵
巻物中の人物パターンも、相当数彼の掌中にあったと考えられる。
以上見てきた通り、本作の画面のそこかしこに、霊華が実見しえた古物・
古画からの引用を確認することができる。本作のこのような表現は、古典研
究に没頭し、画壇の風潮から距離を置いた「復古の画家」という、霊華に対
する一般的なイメージと合致しうる要素といえよう。また作品全体の構成に
目をやると、両画幅の間には、聖と俗、天と地、動と静、女と男という象徴
的な対比が見られる。これ以外にも、右幅が、女の冠や羽扇の金具以外には
抑えた色味が用いられているのに対して、左幅の馬具や龍には、右幅よりも
鮮やかな絵の具による彩色が施されており、描画面における左右の対比も伺
える。場面的には関連性の全くないようなこの両幅を結びつけるのが、女が
左を見下ろし、男が右上を仰ぎ見ることによって生じる、ふたりの眼差しの
交錯である。これによって、この男と女の間に何らかの特別な関係の存在す
ることが暗示されている。 以上をふまえた上で問題となるのが、この作品の主題が一体何なのかであ る。次章では、本作に対する先行する言説を改めて検討しつつ、考察するこ ととしたい。 二、詩句・図像との対照
(
()「離騒」との齟齬
《 離 騒 》 と 名 付 け ら れ た こ の 作 品 に 描 か れ た 男 女 に つ い て、 藤 懸 静 也 は 中
国 古 代 の 詩「 離 騒 」 の 登 場 人 物 に 則 り、 女 を
虙妃
(宓妃)、 男 を「 離 騒 」 の
作 者 屈 原 と 見 な し た
)((
( 。「 離 騒 」 は、 中 国 戦 国 時 代 の 南 方 の 地 で あ る 楚 の 詩 十
七巻をまとめた詩集『楚辞』の巻第一に収められる詩で、正式名称を「離騒
経 」 と い う。 作 者 は、 時 の 楚 の 政 治 家、 詩 人 の 屈 原 と さ れ る。 「 離 騒 」 は、
その前半部では作者の出自と華やかで清廉な前半生、後半部では佞臣の讒言
に よ る 追 放 と 失 意 の う ち に 死 を 決 意 す る ま で が 詠 わ れ、 『 楚 辞 』 を 代 表 す る
詩として知られる。藤懸が右幅の女に比定する
虙妃は、同詩の後半部に登場
する洛水の女神である。
藤懸の説に対し、細野正信は右幅の女を、屈原に良き君主にめぐり会うで
あ ろ う こ と を 予 言 す る 巫 咸
(神巫)に 比 定 し、 左 幅 の 情 景 を、 同 詩 の 終 盤 に
登場する「蛟龍を麾いて津に梁かけしめ 西皇に詔げて予を渉さしむ」の場
面を絵画化したものではないかと推測した
)((
( 。
本作の主題について藤懸と細野両者の説は相違するが、本作の典拠を「離
騒」とする見解においては、一致を見ている。これ以降の画集や関連文献に
おいても、本作が詩の「離騒」を典拠とするという説は、基本的には踏襲さ
れた。その理由はいうまでもなく、本作の題名が詩の名と同じ《離騒》だか
らである。この点は自明とされ、議論が発生することはなかった。しかし、
挿図 ( 高階隆兼筆《玄奘三蔵絵》巻第二 第五段 部分(反転画像) 藤田美術館
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠一九
改めて本作の画面内容を、典拠とされる詩「離騒」の文言と対照させると、 食い違う部分が存在することに気付かされる
)((
( 。
まず右幅の女について見ていきたい。藤懸によれば、この女は
虙妃とされ
る。しかし、原典とされる「離騒」において
虙妃は、美貌に驕り高ぶる、淫
乱 と 背 信 に 塗 れ た 女 と し て 描 写 さ れ、 堪 り 兼 ね た 屈 原 は 最 終 的 に、 「 来 れ 違
さり 棄 て て 改 め 求 め ん
(こんな女など捨ててほかを探そう)」 と い っ て の け る の
である
)((
( 。果たして霊華は、この悪女を、本作に描かれるような聖なる存在と
して描いたのであろうか。一方細野はこの女を巫咸と推測する。しかしこの
人物の登場は限定的で、しかも詩中では性別すらはっきりと描写されない。
またたとえこの人物を女と仮定しても、本作に描かれるような屈原との特別
な関係が示される相手でもない。この巫咸を本作の女に当てはめることも、
やはり難しいといわざるをえないだろう。同詩には他にも、有
娀の佚女、有
虞の二姚といった美女たちが登場するが、いずれも屈原は会うことすら叶わ
ず、絵画の主要モティーフに起用されるほどの存在感はない
)((
( 。そもそもこの
「離騒」という詩において、理想の妻とは理想の君主の隠喩であり、それを
求めながらもどこにも存在しないという絶望こそが詩のテーマといえる
)((
( 。い
わ ば、 「 離 騒 」 を 題 材 と し な が ら、 神 と 見 紛 う 女 性 を 描 く と い う 行 為 そ の も
のが、原典の主旨から大きく齟齬しているのである。
次 に 画 中 の 副 次 的 な モ テ ィ ー フ で あ る 龍 の 存 在 に 着 目 し た い。 画 中 の 龍
は、右幅では女に引き連れられ、左幅では水上を飛びまわっており、非常に
印象的に描かれている。しかし、原典であるはずの「離騒」に、龍はほとん
ど登場しない。たしかに細野の主張するように、同詩には蛟龍に橋を架けさ
せる場面が存在する。だが、詩の中でも決して重要ではないこの場面を、対
幅の一方として描く必要があるようには考えられない。更に問題なことに、 龍の登場場面と、細野が右幅の女性に比定する巫咸の登場場面は関連性を持 たないため、左右両幅の連携が取れず、対幅という作品の形式が全く意味を 成さなくなってしまう。 以 上 の よ う に、 《 離 騒 》 に は、 原 典 で あ る は ず の「 離 騒 」 の 内 容 が 反 映 さ
れていないのである。実際本作の画面内容が詩の内容と乖離していることに
藤 懸 は 気 付 い て い た。 し か し 藤 懸 は そ の 理 由 を、 「 霊 華 君 の『 離 騒 』 は、 屈
原 の 離 騒 に よ つ て 得 た る 感 想 か ら 画 い た も の で、 離 騒 の 内 の 一 事 件 の 説 明
画、或は離騒の挿絵といふやうなものではない。従つて離騒の如何なる部分
を絵にしたといふのではない
)((
( 」からであると解釈するにとどめている。もち
ろん藤懸のいうように、原典の文言の逐語的な絵画化が、文学作品を典拠と
する絵画にとって不可欠な要素ではない。とはいえ、 詩の 「離騒」 と、 《離騒》
と名付けられた本作との間に横たわる溝は、あまりにも深く、あまりにも決
定的である。
(
()「九歌」
「湘君」 「湘夫人」との合致
藤懸が本作に対する見解を発表したのとほぼ同時期、美術評論家の脇本楽
之軒は、 『東京朝日新聞』 紙上の帝展評において、 本作の主題と典拠について、
藤懸とは異なる以下のような見解を提示した。
抑もこの画は、楚辞中の九歌によつて、構想したものかと思はれ、雲中
美 人 の 一 図 は 湘 夫 人、 水 辺 に 馬 を 撫 し つ ゝ 龍
(朝日の象徴であるが)を
迎ふるは屈原その人かと思はれ、これを『離騒』と名けたのは、単にり
耳に入り易からしめんためであらう。また近時支那より舶載した元画離
騒 の 一 巻 が あ る
(自分はその一部分しか見て居ない)が、 作 家 は こ れ に 刺
美 術 研 究 四 一 〇 号二〇
衝されてこの作あるか否か、それも知らない
)((
( 。
脇本は本作「九歌」中の「湘夫人」に取材するものと推測し、それにもか
か わ ら ず 本 作 の 画 題 を《 離 騒 》 と し た の は、 「 単 に り
(俚)耳 に 入 り 易 」 い か ら で
あろうとする。脇本はまた、 本作が 「近時支那より舶載した元画離騒の一巻」
に刺激を受けて制作された可能性を示唆している。脇本の唱えたこの見解は
従来顧みられることがなかったが、最近島尾新も、本作の典拠を「九歌」中
の「湘君」ではないかとの見解を提示している
)((
( 。以下では脇本・島尾の主題
に 関 す る 見 解 に 賛 意 を 示 し つ つ、 本 作 が「 九 歌 」 中 の「 湘 君 」「 湘 夫 人 」 を
典拠としていることをより実証的に明らかにする。
「九歌」は、
「離騒」と同じく『楚辞』に収録される詩で、屈原の作と伝わ
っている点も 「離騒」 と同様である。この詩は、 屈原が沅湘に落ち延びた際、
現 地 の 祭 祀 で 用 い ら れ る 歌 が 野 卑 な た め 優 美 に 改 作 し た も の だ と い わ れ、
神々を祀る歌とされる一方、自身を放逐した王に対する屈原の風諫ともされ
る
)((
( 。「九歌」 は十一篇の詩によって構成され、 これより見る 「湘君」 「湘夫人」
は、 その第三篇と第四篇に当たる。この 「湘君」 「湘夫人」 両篇は、 その内容 ・
用句の近似から一対の詩として理解されている。両篇は、解釈の難しい「九
歌」の中でも、人称が複雑に入り乱れることにより特に難解なものとされる
が、後世の注釈では、屈原が湘水の女神を求めても、その姿を見ることので
きない愁いを詠った詩であると解釈された。
以 下 に 画 中 の 描 写 を 七 項 目 に 分 け、 詩 の 文 言 と 対 照 す る
(括弧内の右/左の表記は、右幅/左幅内の描写であることを示す
)((
(
)。 ①龍を引き連れた女
(右)こ れ は「 湘 君 」 第 九・ 十 句「 飛 龍 に 駕 し て 北 に 征 き
邅 めぐつ て 吾
洞 庭 に 道
す」と符合する。また、女の乗る雲が右上から左下へと対角線状に下降して
描かれることによって、まるでこの女が、天空から左幅に描かれる地上へと
降りてくるかのような印象を観者に与える。この描写は、 「湘夫人」 第一句 「帝
子 北 渚 に 降 る 」 と も 結 び つ く。 こ の「 帝 子 」 が 誰 を 指 す の か に つ い て は 歴
代の 『楚辞』 注釈書によって諸説あるものの、 主に中国神話の聖王堯の娘で、
夫の舜の死に殉じて湘水に沈み女神となった娥皇と女英の姉妹、あるいは妹
の女英のみを指すものとされる
)((
( 。この句は、祭祀によって湘水の女神を降臨
させるとの意味に解釈されることからすれば
)((
( 、画中の表現をこの句の反映と
とらえても違和感はない。
②遠くを見る男
(左)画中の男は目を遠くにやり、水の流れを見ているようでも、龍の飛ぶ様を
眺めているようでも、右幅の女を見やっているようでもある。これは先に挙
げ た「 湘 夫 人 」 第 一 句 に 直 接 す る「 目 眇
びようびよう眇 と し て 予 を 愁 へ し む 」 を 示 す と
考 え ら れ る。 南 宋 の 洪 興 祖 の 注 釈 に よ れ ば こ の 句 は、 「 眇 眇 は 微 な る 貌。 神
の 降 り て、 望 め ど も 見 え ず、 我 を し て 愁 へ し む る を 言 ふ な り。 」 と あ り、 湘
水の女神の降臨を望めどもその姿を見ることが叶わず、愁いにふける屈原の
様 子 を 示 す も の と さ れ る
)((
( 。 遠 く を 見 つ め る 男 の 姿 は、 「 湘 君 」 第 十 三 句「
涔陽 を 極 浦 に 望 め ば 」、 ま た「 湘 夫 人 」 第 十 一・ 十 二 句「 荒 忽 と し て 遠 く 望 み
流水の潺
せんかん湲たるを観る」の反映とも受け止められる。
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠二一
③侍女
(右)女の後ろに描かれる侍女は、 「湘君」第十六句「女
じょ嬋
せんえん媛として余が為に太
息 す 」、 ま た「 湘 君 」 第 三 十 六 句「 ま さ に も つ て 下
か女
じよに 遺
おくら ん と す 」 と い う
詩句に示された侍女の姿と考えられる。
④岩石の点在する水辺と飛龍
(左)大 小 の 岩 石 が 点 在 す る 水 辺 と、 そ の 上 を 飛 来 す る 龍 の 姿 は、 「 湘 君 」 第 二
十 五・ 二 十 六 句「 石
せきらい瀬 は 浅
せんせん浅 た り
飛 龍 は 翩
へんぺん翩 た り 」 に 対 応 す る。 更 に こ の
場面では、男が水の流れと龍に眼をやるという仕草が注目される。後漢の王
逸 の 注 に は、 「 屈 原 憂 愁 し、
覜 ながめ て 川 水 を 視、 石 瀬 の 浅 浅 と し て 疾 流 し て 下
るを見るに、まさに至る所有らんとす。仰ぎて飛龍の翩翩として上るを見る
に、 ま さ に 登 る 所 有 ら ん と す 」 と あ り、 憂 い 悲 し む 屈 原 が、 石 瀬
(石の多い浅瀬)
を 流 れ る 水 と 飛 龍 の 姿 を 眺 め る 場 面 で あ る と、 細 か な 情 景 の 解 釈 を し
ている
)((
( 。王逸注の内容は、左幅の描写と見事に合致する。
⑤二頭の馬
(左)「
湘 君 」 第 二 十 九・ 三 十 句 に は、 「
鼂に 江 皐 に 騁 騖 し て 夕 に 節 を 北 渚 に 弭
あしたていぶとどむれば」 とあり、 馬を馳せて水辺を疾走するさまが描写される。ほかにも 「湘
夫人」第十五 ︱ 十八句「朝
あしたに余が馬を江皐に馳せ
夕に西
せいぜい澨に済
わたる
佳人の予
を召すと聞き
まさに騰
とう駕
がして偕
ともに逝かんとす」 にも同様の情景が見られる。
特 に 注 目 す べ き は 後 半 の 二 句 で あ る。 「 佳 き 人
(湘水の女神)が 私 を 招 い て い
ると聞き、馬を馳せてともに行こうとする」とあることから、画中の屈原は
思い人である湘水の女神との遠乗りを待っているため、馬が二頭必要なのだ
と理解できる。 ⑥男の粗末な帯
(左)男は縄のような粗末な帯を締めている。 「湘君」第三十三 ・ 三十四句には、
「 余 が 玦 を 江 中 に 捐
すて
余 が 佩 を 醴 浦 に 遺
すつ 」 と、 愛 の 誓 い の 為 に 玦
おびたまと 佩
おびものを 捨 て た と あ る か ら 、こ れ に よ っ て 腰 回 り が 簡 素 に な っ た の だ と 考 え ら れ る 。
⑦女が持つ花(右)
「 湘 君 」 第 三 十 五・ 三 十 六 句 に は「 芳 洲 の 杜 若 を 采 り、 ま さ に も つ て 下 女
とじゃくとに 遺
おくら ん と す 」 と あ り、 「 湘 夫 人 」 第 三 十 七・ 三 十 八 句 に も「 汀 洲 の 杜 若 を
搴
とり
ま さ に も つ て 遠 き 者 に 遺 ら ん と す 」 と あ り、 愛 し い 相 手 に 杜 若
(ヤブミョウガ)
を 贈 る 情 景 が 描 写 さ れ る。 画 中 の 女 が 持 つ 花 は 屈 原 の 象 徴 で あ る
蘭に変更されてはいるが、屈原の詩には、蘭と同じく杜若が清廉たる高士を
象徴する植物として登場するため、置き換えが行われたとしても不思議では
ない
)((
( 。
このように、本作の画面内容の多くが、 「湘君」 「湘夫人」の詩句によって
解釈可能である。これよりすれば、右幅の女を、まさに地上に降臨せんとす
る湘水の女神、そして左幅の男を、女神の降臨を待ち望む屈原に比定するの
が最も適切といえよう。こうした観点に立つと、本作全体の構造も、詩の主
題の反映ととらえることができる。先述の通りこの詩は、湘水の女神を求め
てもその姿を見ることのできない屈原の愁いを詠んだものだと解釈された。
本作ではその屈原の愁いが、対幅という形式によって示されているのではな
いだろうか。両幅を掛け回すと、右幅の湘水の女神と左幅の屈原は、互いを
慕って見つめ合っているようにも見える。一方、作品そのものが左右に引き
裂かれていることによって、愛しい相手との「目交い」は決して叶わない。
美 術 研 究 四 一 〇 号二二
更に、左幅に描かれた龍が、右幅で女神の脇に侍る姿と同じポーズをとって
いることも示唆的である。これにより、左幅の真の情景は、実は右幅のよう
であるにもかかわらず、屈原の視覚はその姿をとらえることができていない
かのような印象すら与えられる。まさにそれは、この詩における「神の降り
て、望めども見えず」という解釈の鮮烈な絵画化といえる。いうなれば、本
作の対幅という形状は、神の世界を感得することのできない屈原の絶望を示
すものであり、そしてその形状のために必然的に生じる右幅と左幅の間の物
理的な空隙は、神と人との間に横たわる断絶の表徴として機能しているので
ある。霊華が、 「湘君」 「湘夫人」両詩、及びその注釈書の内容を自家薬籠中
のものとした上で、その絵画化に取り組んでいることは、以上からも理解さ
れる。 (
()《九歌図》との対照
前 節 で は、 画 中 の 描 写 を「 九 歌 」 の「 湘 君 」「 湘 夫 人 」 中 の 詩 句 と 対 照 さ
せることで、本作がこの詩を忠実に絵画化したものであることを示した。た
だし、霊華が『楚辞』とその注釈書の文言のみを用いて作品を構築したとは
考え難い。本作の成立のためには何らかの図像的な典拠も存在したと考える
のが自然であろう。
中国絵画には「九歌」を主題とする《九歌図》が数多く存在し、その多く
が 北 宋 末 の 文 人 画 家 李 公 麟
(字伯時・号龍眠、一〇四九︱一一〇六)の 作 品 に
範を取ることで知られる
)((
( 。これらの作例の日本における伝来状況は詳らかで
はなく、現存作例はごくわずかだが、渡辺崋山筆の伝称を持つ《九老九歌画
巻》の存在が『東洋画題綜覧』中の図版より確認されることからすれば
)((
( 、日
本において《九歌図》が流伝していなかった訳でないことが理解される。
挿図 ( 張渥筆《九歌図》部分 上海博物館
更に注目されるのは、先に挙げた脇本の帝展評にあるように、本作制作当
時の日本に 「支那より舶載した元画離騒の一巻」 があったということである。
当該作品について脇本はわずかに記すのみで、その作品の画面内容や、脇本
がどこで観覧したのかについても不明である以上、この「元画離騒」と本作
との影響関係を判断することは不可能である。しかし、この作品が「元画」
であること、そして本作に対する様式的な影響を脇本に想起させる図様を有
し て い た こ と か ら す れ ば、 元 時 代 の 白 描 画 家 張 渥 の 描 い た《 九 歌 図
)((
( 》
(挿図()
の 系 統 に 属 す る 作 品 で あ っ た と 推 測 す る こ と が で き る。 衣 若 芬 が「 神 仙
図像」型に分類するこの系統
)((
( の作例は、雲水より湧現する神々の姿を、李公
麟風の白描画によって表現する点に特徴がある。この「神仙図像」系統の作
例を本作の右幅と対照すると、白描を主体とした表現や、水上を行く湘水の
女神の姿に共通する要素を見て取ることができる。脇本の述べる通り、霊華
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠二三
が こ う し た 作 例 に イ ン ス ピ レ ー シ ョ ン を 受 け た こ と は 、大 い に 考 え ら れ よ う 。
この「元画離騒」のほかに、霊華が過眼しえた《九歌図》としては、李公
麟 款《 九 歌 図 巻 》
(所在不明、挿図()
が 挙 げ ら れ る。 こ の 作 品 は、 清 末 民 国
初 の 大 収 蔵 家 裴 景 福
(字伯謙、一八五四︱一九二六)((
(
)の 旧 蔵 品 と し て 知 ら れ、
裴 の 歿 後、 日 本 の 政 治 家・ 実 業 家 で 中 国 古 書 画 の 収 蔵 家 と し て も 著 名 な 山
本 悌 次 郎
(号二峯、一八七〇︱一九三七)が、 裴 の 遺 族 よ り 購 入 し 日 本 へ 渡 っ
た
)((
( 。とはいえ注意せねばならないのは、裴の歿年が本作の制作と同年だとい
う点である。これより、霊華が日本で実作品を閲したとは考え難い。だが、
こ の 作 品 は 裴 の 存 命 中 の 民 国 十 二 年
(一九二三)に 刊 行 さ れ た コ ロ タ イ プ 版
図録によって既に世に知られていたことからすれば
)((
( 、霊華がこの図録を通じ て《九歌図》を知っていた可能性はある。 このように、本作と本画の《九歌図》は、その表現要素や全体の雰囲気に おける近似が認められ、また日本においても実見できる作例が存在した。し かし一方で、両者が共有する細部の図様レベルにおける類似点は、必ずしも 多いとはいえない。ここで改めて本作と《九歌図》諸作例との比較検討を行 った結果、本作との直接的な図様的近似が認められるのは、明末に刊行され た版本『程氏墨苑
)((
( 』に掲載された《九歌図》であることが明らかとなった。
同 書 は 萬 暦 年 間 に 活 躍 し た 墨 匠 程 大 約
(字君房、一五四一︱一六一〇以降)が
編 纂 し た 墨 譜
(墨面に描かれた絵のカタログ)で、 人 物 画 家 と し て 著 名 な 丁 雲
鵬
(字南羽、一五四七︱一六二八)ら が 作 画 を 担 当 し た。 同 書 巻 第 一「 玄 工
上 」 に は、 「 九 歌 」 に 材 を 取 る「 東 皇 太 一 」「 湘 夫 人 」「 大 司 命 」「 東 君 」「 雲
中 君 」 五 図 が 掲 載 さ れ る。 こ の 中 で 本 作 と の 類 似 性 を 指 摘 で き る の が、 「 湘
夫 人 」 と「 雲 中 君 」 の 二 図 で あ る。 ま ず「 湘 夫 人 」
(挿図(0)
を 本 作 の 右 幅
と対照させると、衣を風になびかせ水上を行く女の図様に近似性が認められ
るほか、水波をリズミカルに画面全体に描き込む背景の描写も類似する。更
に「 雲 中 君 」
(挿図(()
に も 注 目 し た い。 画 面 右 上 か ら 左 下 に か け て 対 角 線
状に流れる雲に乗り、眷属の龍を画面向かって左脇に引き連れた「雲中君」
の 構 図 は、 《 離 騒 》 右 幅 の そ れ と 酷 似 す る。 ま た 主 要 人 物 を 対 照 さ せ る と、
片や中年のふくよかな男性、片や妙齢のほっそりした女性という違いはある
ものの、その着衣やポージングは、同一といっても良いほどの相似を見せる
(図版
()
。 こ の『 程 氏 墨 苑 』 は、 日 本 で は 江 戸 期 に わ ず か な が ら 舶 来 し て
おり
)((
( 、後に詳述する通り、霊華が本作を制作するごく近い時期に復刻刊行さ
れてもいた。
本章では、 《離騒》 が実際は、 「九歌」 の第三篇 「湘君」 及び第四篇 「湘夫人」
挿図 ( 李公麟款《九歌図巻》部分 所在不明
美 術 研 究 四 一 〇 号二四
を典拠とすることを、詩文と画面内容との対照より明らかにした。また、本
作が「湘君」 「湘夫人」の文言のみならず、 《九歌図》の図様を転用している
ことも示した。このように検証すると、なぜ霊華は「九歌」の絵を描きなが
ら、 《離騒》という題名をつけたのかという問題に突き当たらざるをえない。
これは霊華の単純な勘違いによるものなのだろうか。しかし本作の表現が、
意味もわからず詩句を絵画化しただけのものではないことは、詩の主題を余
すところなく反影させた画面内容からも明らかである。あるいは脇本が述べ
る よ う に、 「 離 騒 」 の 語 が 鑑 者 の 耳 に 馴 染 ん で い た と い う 理 由 の み に よ る も
のなのだろうか。次章では、霊華が「九歌」の画を「離騒」と名付けた理由
を考察する。 三、 「離騒」としての「九歌」
結論から先に述べる。霊華が「九歌」を主題とする作品を《離騒》と命名
し た 理 由 は、 事 実「 九 歌 」 は「 離 騒 」 で あ る た め と 考 え ら れ る。 「 離 騒 」 と
いう語は本来、特定の詩を指す固有名詞ではなく、詩のジャンルを指す言葉
である。これについては、北宋の文人で、自身も『楚辞』に関する著作をな
した晁補之が、以下のような簡潔な説明をしている。
劉向の『離騒』 ・『楚辞』十六巻、王逸これに伝す。按ずるに、八巻は、
皆屈原憂に遭ひて作りし所ならん。故に首篇を「離騒経」と曰ひ、後編
を皆「離騒」と曰ひ、余を皆「楚辞」と曰ふなり
)((
( 。
挿図 (0 程大約編・丁雲鵬絵『程氏墨苑』巻第一「湘夫人」
挿図 (( 『程氏墨苑』巻第一「雲中君」
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠二五
文中で言及される八巻とは、屈原の作と伝えられる「離騒経」 「九辯」 「九
歌 」「 天 問 」「 九 章 」「 遠 遊 」「 卜 居 」「 漁 父 」 を 指 す。 こ の 八 巻 を「 離 騒 」 と
いい、後世に作られた残りの詩を「楚辞」と称するという。この理由につい
て晁補之は、これらは屈原が憂いに遭った時に作った詩であるためとする。
憂いに遭った時の詩を 「離騒」 と称するのは、 「離騒」 が 「離憂
(憂ひに離 あふ)」
と同義とされていたためである
)((
( 。つまり「離騒」とは本来、憂悶を詠う詩の
意味であり、それが後に「屈原の憂いを詠った詩」に転じたのである。この
「分類語としての離騒」という観点からすれば、確かに「九歌」は「離騒=
屈原の詩」といえる。
このような「分類語としての離騒」は、いくつかの『楚辞』の注釈書に明
記される。その中でも特に主要なものが、後漢の王逸の注を南宋の洪興祖が
補 注 し た『 楚 辞 補 注 』
(挿図(()
と、 南 宋 の 朱 熹 集 注『 楚 辞 集 注 』
(挿図(()
である。このふたつの注釈書は、先に晁補之が挙げた八巻から「九辯」を除
いた七巻を「離騒」に分類する。これらはいずれも『楚辞』を読む上での基
本的な注釈書であり、和刻本も作られた。このような分類が実際に日本で理
解されていたのかについては、明治四十四年に刊行された、江戸初期の儒学
者 淺 見 絅 齋
(一六五二︱一七一二)に よ る『 楚 辞 』 の 講 述 本『 楚 辞 師 説 』 か ら知ることができる。本書の底本は、朱熹の『楚辞集注』である。先述の通 り こ の 注 釈 書 は、 「 九 歌 」 を「 離 騒 」 と 明 記 し て お り、 同 書 の 目 録 で も、 九
歌 を「 離 騒 九 歌 第 二 」 と 記 し て い る。 こ れ に つ い て 絅 齋 は、 「 屈 原 の は 離 騒
と云ひ其の風に作り、呼び名に呼ぶは楚辞と云ふ」と講述する
)((
( 。屈原が作っ
た詩を「離騒」と称することは、正確に理解されていたのである。
更に「離騒」の語の近代における理解を探る上で注目されるのが、日本画
家横山大観
(一八六八︱一九五八)が自伝 『大観画談』 中で語った、 《屈原》
(一八九八年、厳島神社蔵)
制作に関する以下の述懐である。
屈原の辞賦を集めた「離騒」という本がありませう、あれからとつたも
ので、島村抱月さんのお宅へ「離騒」をもつていき、その講釈をきいて
描きました
)((
( 。
大観が作品制作の参考にしたと述べる 「離騒」 は、 「屈原の辞賦を集めた本」
で あ る こ と か ら し て も、 『 楚 辞 』 巻 第 一 の「 離 騒 経 」 で は な く、 屈 原 の 詩 を
まとめた詩集を指すものであることが理解される。これを裏付けるかのよう
に、 《屈原》の直接的な典拠は「離騒」ではなく、 「九歌」第九篇の「山鬼」
挿図 (( 王逸注・洪興祖補注『楚辞 補注』巻第二「九歌章句第二 離騒」
(四部叢刊本)
挿図 (( 朱熹集注『楚辞集注』巻二
「九歌第二 離騒二至十二」(文淵閣 四庫全書本)
美 術 研 究 四 一 〇 号二六
だとする植田彩芳子の指摘がある
)((
( 。大観が具体的に何の本を参照したのかは
定 か で な い が、 「 離 騒 」 が「 屈 原 の 詩 」 全 般 を 指 す も の だ と の 理 解 は、 近 代
に入ってからも一定度は共有されていたと考えられる。
一方この「分類語としての離騒」という表記が、霊華存命当時に刊行され
た 『楚辞』 関連書から抹消されていったのも事実である。大正十一年刊行 『国
訳漢文大成 楚辞』
(国民文庫刊行会)では、 「離騒経」以下の七巻に「離騒」
の語は付されていない。また大正十三年刊行『漢文叢書 古文真宝、楚辞』
(友朋堂書店)
でも、朱熹註を参照としつつ、 「分類語としての離騒」を省い
ている。この「離騒」という分類は、訓詁学上では重要であっても、詩の文
意に直接関わるものではなく、却って詩題の混乱を招くと見なされ削除され
た の だ と 考 え ら れ る。 「 離 騒 」 が 屈 原 詩 を 示 す 語 で も あ る と い う 認 識 が、 必
ずしも共有されるものではなくなってきたことが伺われる。
以上より、本作の画題《離騒》にまつわる問題の根本に、作者と受容者と
の間に生じた「離騒」という語に対する認識の齟齬が存在すると推測するこ
と が で き る。 つ ま り 霊 華 は、 「 九 歌 」 も ま た「 離 騒 = 屈 原 の 詩 」 で あ る と い
う認識のもと、本作を《離騒》と命名した。しかしこの作品について最初に
言 及 し た 藤 懸 は、 本 作 の 画 題《 離 騒 》 と は、 『 楚 辞 』 巻 第 一 の「 離 騒 経 」 を
引くものであると錯誤したのである。また、本作の主題を「湘夫人」である
と看破した脇本も、本作の画題の意味については、あくまでも「離騒経」と
の兼ね合いでしか考えなかった。そしてその錯誤は後に至っても、その根本
の 部 分 を 検 証 さ れ る こ と な く 継 承 さ れ て い っ た。 《 離 騒 》 と 名 付 け ら れ た こ
の作品は、完成した直後より現在に至るまで、この彼我の認識の齟齬を、齟
齬と気付かれることすらなくきてしまったのである。 四、 『離騒図』と『図本叢刊』
(
()蕭雲従『離騒図』とその復刻
中国文学史の観点からすれば、霊華が本作を《離騒》と名付けた理由を以
上のように推測することができる。しかし、 ここで問題となるのは、 「離騒」
という語が屈原詩を示すという認識が一般的ではなくなっている本作制作当
時において、霊華は何を参照して本作を《離騒》と名付けたのであろうか、
ということである。本節では、この問題を解決する糸口として、本作と同じ
「離騒」の語を冠する絵入り漢籍の存在に着目することとしたい。
そ の 漢 籍 と は、 順 治 二 年
(一六四五)に 刊 行 さ れ た『 離 騒 図
)((
( 』
(挿図(()
で
あ る。 こ の 書 籍 に は『 楚 辞 』 の 文 言 と 簡 単 な 注 釈 の 他、 蕭 雲 従
(字尺木、一五九六︱一六七三)
に よ る 挿 絵 六 十 四 図 が 掲 載 さ れ る
)((
( 。 蕭 雲 従 は 明 末 清 初 に
活躍した文人画家で、日本では彭城百川や谷文晁ら江戸期の南画家に多大な
影響を与えた画譜 『太平山水図集』 の原画の作者としてつとに知られる
)((
( 。『離
騒図』は蕭雲従が制作した版画の代表作として名高く、後に清朝第六代皇帝
乾隆帝が編纂した中国最大の叢書である四庫全書にも収められた
)((
( 。
挿図 (( 蕭雲従絵『離騒図』
(順治二年〈((((〉刊)
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠二七
筆者がこの『離騒図』に注目した理由は二点ある。まず注目したいのは、 同書の構成とその書名である。同書は 『楚辞』 全十七巻から十巻を選入する。
収録された詩は、 「離騒経」から「漁父」に至る屈原作の七巻、 すなわち「離
騒」と、王逸によって屈原作の疑いがあるとされた「九辯」 「招魂」 「大招」
の三巻
)((
( である。これら十巻の詩と挿図が『離騒図』という書名のもとにまと
められ、その中には「九歌」も含まれる。仮に霊華が同書を閲したならば、
「九歌」の画を「離騒」と命名するのは適切である、という確信を強めるも
のになると考えられないだろうか。
このような推測を成立させるためには、霊華がその活躍期より三百年近く
遡る時期に刊行された『離騒図』を読むことのできる環境にあった、という
前提が必要とされることは、いうまでもない。ここで注目されるのが、この
『 離 騒 図 』 が、 《 離 騒 》 制 作 の 直 前 に 復 刻 さ れ て い る と い う 事 実 で あ る。 復
刻された刊本は、二例が確認される。第一例は、羅振常編『陳蕭二家絵離騒
図 』 で あ る。 編 者 の 羅 振 常
(字子経、一八七五︱一九四二)は、 近 代 中 国 を 代
表 す る 学 者 羅 振 玉
(字叔蘊・号雪堂、一八六六︱一九四〇)の 弟。 発 行 元 は 羅
が設立した上海の書肆蟫隠廬である。序の款記には 「甲子
(一九二四)孟春」 とあり、刊行時期もそれより大きく隔たらないと推測される。書名に「陳蕭 二家」とある通り、刊行された全四冊中、第一冊には明末に活躍した人物画 の名手陳洪綬
(字章候、一五九八︱一六五二)の 『九歌図』
(原本一六三八年刊)が収録され、残る三冊に蕭雲従の『離騒図』が収録される。大正年間には輸
入漢籍を取り扱う書店が東京にもあったことからすれば、霊華が同書を入手
できる可能性がある
)((
( 。
第 二 例 は、 大 村 西 崖 編『 蕭 尺 木 離 騒 図 』
(挿図(()
で あ る。 同 書 は 大 正 十
一年より刊行が開始された、稀覯な絵入り漢籍の復刻叢書『図本叢刊』のひ
とつとして出版され、 原本全十巻のうち、 挿絵の掲載される 「離騒経」 「九歌」
「 天 問 」 の 三 巻 が 二 冊 の 分 冊 形 式 で 復 刻 刊 行 さ れ た。 編 者 の 大 村 西 崖
(号帰堂、一八六八︱一九二七)
は 東 京 美 術 学 校 教 授 で、 多 数 の 著 述 や 美 術 書 籍 の
刊行で知られる
)((
( 。同書の第一冊の刊行は大正十四年十二月。霊華が《離騒》
を描く十ヶ月前である。翌年一月に刊行された第二冊の巻末には、原本を所
蔵 す る 漢 学 者 瀧 川 龜 太 郎
(字資言・号君山 一八六五︱一九四六)の 跋 文 が 掲
載される。これによれば、大村西崖が「流伝
綦 きはめて少」なかった『離騒図』
が瀧川の所蔵にあることを聞きつけ、 瀧川に頼んで復刻したのだとある
)((
( 。『離
騒図』の日本における流通の実像は不明だが、瀧川は当時第二高等学校教授
として仙台で教鞭を執っており、大村が当地まで借り受けに出向いているこ
とを考えれば、大村の活動拠点である東京周辺でこの書物を入手することは
で き な か っ た と 考 え ら れ る。 『 離 騒 図 』 が 日 本 で は 相 当 に 珍 し い 書 籍 で あ っ
たことが理解されよう。この『蕭尺木離騒図』は非売品であったため、流通
範囲は限定されていたことが推測される。
以上の事実をふまえた上で、同書に掲載された挿図を見てみたい。同書は
『 楚 辞 』 就 中「 離 騒 」 に 取 材 し た 挿 図 を 掲 載 し、 「 九 歌 」 の 挿 図 九 図 も 含 ま
挿図 (( 蕭雲従絵・大村西崖編『蕭尺木 離騒図』第一冊 表紙(大正十四年〈((((〉
刊)東京文化財研究所
美 術 研 究 四 一 〇 号二八
れ る。 そ の 中 の「 湘 君 湘 夫 人 」
(挿図(()
を 本 作 と 対 照 さ せ る と、 両 者 に
共通する要素の多いことに気付く。まず、湘水の女神が龍を従え飛来する同
書中の湘水の女神の描写は、本作の龍を引き連れた女神の姿と対応する。現
存する《九歌図》には、龍を従えた湘水の女神の図様が存在しないことから
すれば、霊華が同書の挿図の描写に触発された可能性は高いと考えられる。
また、湘水の女神が花を手に持つ点も共通している。その他にも『離騒図』
の全体の構成に見られる、ふたりの神が見つめ合う劇的な構図も注目に値す
る。 こ れ は、 《 離 騒 》 の 両 幅 を か け ま わ す と、 男 女 が 向 か い 合 い、 見 つ め 合
っているかのように見えるという構図と相通じるものといえる。龍に乗る一
方が斜め横を向き、馬に乗るもう一方が振り返りつつ真横を向くという人物
配置にも、本作と近い要素を感じ取ることができる。
以上、この『離騒図』は、本作の成立と極めて近い時期に復刻されている
こと、そして本作と『離騒図』の挿図との間には、影響関係が指摘されうる
ことを示した。ここで問題となるのが、霊華がいずれの刊本を入手しえたの
かについてである。筆者は、霊華が目を通したのは、日本で刊行された『蕭 尺木離騒図』であると考える。次節では、霊華がこの書物を入手もしくは閲 覧する蓋然性を、霊華周辺の人間との関係から探ることとする。 (
()霊華と正木直彦
『 蕭 尺 木 離 騒 図 』 と 霊 華 を 結 ぶ キ ー パ ー ソ ン と 考 え ら れ る の が、 東 京 美 術
学校第五代校長の正木直彦
(号十三松堂、一八六二︱一九四〇)である。
正木は 『蕭尺木離騒図』 を収録する 『図本叢刊』 と関係の深い人物である。
まず、東京文化財研究所が所蔵する『蕭尺木離騒図』に注目したい。この本
には正木の蔵書印 「十三松堂文庫」 朱文長方印
(挿図(()
の押捺が確認され、
同 書 を 正 木 が 所 蔵 し て い た こ と が 判 明 す る
)((
( 。 ま た 正 木 は、 『 図 本 叢 刊 』 第 一
回配本分
(挿図(()
から第四回配本分の題字を揮毫している。 この 『図本叢刊』
第一回配本分『蘿軒変古箋譜』の原本は、正木が校長を務める東京美術学校
挿図 (( 正木直彦 蔵 書 印「 十 三 松 堂 文庫」
(東京文化財研究所 本『蕭尺木離騒図』
第二冊)
挿図 (( 『図本叢刊』第一回配本分『蘿軒 変古箋譜』封面(大正十二年〈((((〉刊)
東京文化財研究所
挿図 (( 『離騒図』九歌伝第二「湘君 湘夫人」
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠二九
の所蔵本であったことが、刊行の際書籍に添付された報告書から判明する
)((
( 。
更に正木は『図本叢刊』の編輯・出版者の大村西崖と密接な交流を結んでい
たことが知られる。これらから、正木が『図本叢刊』の刊行に何らかの形で
関わっていたことも推測される。いずれにしても正木が非売品である『図本
叢刊』の頒布対象に含まれていたことは確実といえよう。
この正木が霊華と交流を持っていたことは、正木の日記『十三松堂日記』
より知ることができる。 『十三松堂日記』 に霊華の名が初めて登場するのは、
大正十三年一月二十四日条である。ここには、この前日の夜に霊華の画が仕
上がり、翌日の朝に裏打ちと写真撮影をした旨が記されている
)((
( 。正木が言及
す る 霊 華 の 画 と は、 こ の 二 日 後 に 挙 行 さ れ る 皇 太 子 裕 仁 親 王 の 成 婚 を 祝 し
て、東京府が献上した画帖《瑞彩》中の霊華担当画《梅薫る夕》と考えられ
る。正木はこの画帖制作の調整役を務めていたが、ここでひとつの騒動があ
った。霊華担当分の完成が遅れ、献上が延期されたのである。日記には、霊
華の常日頃の遅刻癖に対する愚痴と共に、その絵の素晴らしさに対する賛辞
も記される。正木の霊華に対するこうした書きぶりから、正木がこれ以前か
ら霊華と親交を持ち、その絵を高く評価していることが伺われる
)((
( 。正木の日
記にはこれ以降も霊華の名前が散見される。大正十三年における霊華と正木
の交流の中心にあるのは、推古会である。この会は正木・霊華の他に、岡田
三郎助、朝倉文夫、内藤伸、松田福一郎らを同人とする古美術鑑賞会で、大
正十三年六月十五日に第一回が開催され、同年十一月十五日に第二回が開催
された
)((
( 。翌十四年に入ると、両者には竣工が間近に迫った聖徳記念絵画館の
絵 画 制 作 委 員 と し て の 職 務 が 新 た に 加 わ る。 『 十 三 松 堂 日 記 』 四 月 十 日 の 記
事には、霊華を絵画制作委員に依頼する旨の記述が見え、同月十六日、両者
は憲法記念館で開かれた委員会に出席している
)((
( 。この他にも、本作制作直前 の大正十五年十月四日にふたりは、青山の根津嘉一郎邸で蔵品の観覧をして い る
)((
( 。 以 上 の よ う に、 『 図 本 叢 刊 』 と 関 係 深 い 正 木 が 霊 華 と 交 流 を 結 ん で い
たという前提に立てば、霊華は最新の刊行物である『蕭尺木離騒図』入手の
ため、正木に何らかの働きかけをすることが想定される。あるいは逆に、霊
華にこの本を紹介したのが正木だということもありうるだろう。いずれにし
て も 霊 華 は、 『 蕭 尺 木 離 騒 図 』 を 比 較 的 容 易 に 入 手 で き る 環 境 に あ っ た の で
ある。
このような見地に立った上で、改めて『蕭尺木離騒図』の挿図を見てみる
と、 刻工伊藤忠次郎の手によって復刻された、 原本以上に細勁な刻線による、
風に翻る女神の着衣の文様を確認することができる。中国で復刻された『陳
蕭二家絵離騒図』が、原本の景印、すなわち写真撮影による復刻のために、
細 部 の 描 写 が 潰 れ て し ま っ て い る こ と と 比 較 す れ ば、 『 蕭 尺 木 離 騒 図 』 に 表
現される細緻な刻線は、本作の女神の着衣に見られる流麗な線描による華唐
草文様
(挿図(()
により近しい感覚を見て取ることができる。
(
()『図本叢刊』収録書からの図様転用
前節では本作の制作直前に復刻された『蕭尺木離騒図』を霊華が参考とし
た可能性について検証した。ここで同書の周辺にも視野を広げると、更に興
味 深 い 事 実 が 浮 上 す る。 『 蕭 尺 木 離 騒 図 』 が 収 録 さ れ る 稀 覯 漢 籍 の 叢 書『 図
本 叢 刊 』 に は、 『 程 氏 墨 苑 』 が 納 め ら れ て い る の で あ る。 本 稿 の 第 二 章 第 三
節でもすでに検証した通り、 『程氏墨苑』に掲載される「湘夫人」 「雲中君」
の図様は、 本作の直接の図像的典拠であると考えられる。 『図本叢刊』 版の 『程
氏墨苑』は、原本全二十二巻の中から、第一巻及び第二巻を二冊の分冊形式
で復刻した。 「湘夫人」 「雲中君」を掲載する第一巻は、大正十二年四月に刊
美 術 研 究 四 一 〇 号三〇
挿図 (( -(() 《離騒》右幅 部分 挿図 (( -(() 『蕭尺木離騒図』九歌伝第二「湘君 湘夫人」
部分
挿図 (( -(() 《離騒》右幅 部分 挿図 (( -(() 『蕭尺木離騒図』九歌伝第二「湘君 湘夫人」
部分
挿図 (( 《離騒》左幅 部分
挿図 (0 林有麟撰・大村西崖編『素園石譜』
第二冊(大正十三年〈((((〉刊)東京文化 財研究所
吉川霊華筆《離騒》の主題と典拠三一
行された。霊華の環境を考えれば、同書が彼の手元にあった可能性も、極め て高いと考えられる。 この他にも『図本叢刊』所収書籍からの図様転用の形跡は見受けられる。 本作左幅下部には水辺の石が描かれるが、過剰に尖った石は山のようにも見 え、川辺の石としては不自然な印象を受ける。ここで第二例として、大正十 二 ︱ 十 三 年 刊 行 の 林 有 麟 の 石 譜
(鑑賞石のカタログ)『 素 園 石 譜 』
(原本一六一三年序)
を 挙 げ た い。 同 書 に 掲 載 さ れ る 石
(挿図(0)
と 本 作 左 幅 の 石
(挿図(()
と を 対 照 さ せ る と、 単 に 山 の よ う に も 見 え る 石 の 形 状 だ け で な く、 木 版
画というフォーマットのために必然的にそうならざるをえない、直線を繫げ
た鋭角的な輪郭や、線皴による岩肌の表現にも、近似する要素を見て取るこ
とができる。つまり、石の線的・鋭角的な表現は、版本に描かれた図様の忠
実な転用によって生み出されたものと考えられるのである。
五、 《離騒》の独自性
︱ 近代日本絵画における中国絵画受容の一断章として ︱
以上示してきたことから、霊華が本作をいかに制作したのか、その概要を
把握することができる。本作は、霊華が実見しえた正倉院御物や絵巻物、そ
して漢籍に掲載される図様を転用することによって構築された。本作は、霊
華という画家が認識しうる「古」の集大成といえよう。このように想像され
る 制 作 過 程 の 中 で 最 も 重 要 な 位 置 を 占 め る の が、 『 程 氏 墨 苑 』 と『 離 騒 図 』
である。丁雲鵬と蕭雲従という、明末から清初に活躍した画家の描いた「九
歌」の図様が、幼少時から漢学に親しんだ霊華に大きなインスピレーション
を与えたであろうことは、想像するに難くない。
絵 画 制 作 に お け る 中 国 絵 画 の 積 極 的 な 受 容 は、 霊 華 に 限 っ た も の で は な い。改めていうまでもなく、日本絵画は歴史的にも中国絵画の影響のもと発 展していった。そして中国絵画に対して向けられた日本の眼差しは、近代に お い て も 継 承 さ れ て い っ た。 近 代 日 本 画 壇 の 形 成 期、 岡 倉 天 心
(一八六三︱一九一三)
は、 北 宋 末 の 文 人 皇 帝 と し て 名 高 い 徽 宗 の 創 り 上 げ た 宮 廷 の 作 画
機構である宣和画院に対して意識的であった。宣和画院で宮廷画家の登用に
際して行われた画題制作による試験は、遂初会や日本美術院における課題制
作へと発展継承され、こうした環境の中、横山大観ら多くの画家たちが、中
国絵画に範を取った作品を描いていったことが指摘されている
)((
( 。本作も、大
局的にはこうした近代日本絵画史における中国絵画受容の文脈の中に位置付
けられるように考えられる。
しかし、注意しなければならないのは、こうした中国絵画を典範とする絵
画作例は、一部の南画を除くと、依然として古くより日本人が価値を置く中
国 絵 画 の 秩 序 体 系
︱︱こ れ を「 東 山 御 物 」 を 頂 点 と す る 秩 序 体 系
)((
( と 呼 ぶ こ
と も で き よ う
︱︱に 則 る も の が 多 か っ た の に 対 し、 霊 華 が 本 作 を 制 作 す る
際に典拠とした図様は、一九二〇年代に入ってから初めて日本人の前に公に
さ れ た も の だ と い う 点 で あ る。 岡 倉 の 薫 陶 を 受 け た 横 山 大 観 の《 隠 棲 》
(一九〇二年、茨城県立近代美術館蔵)
、 菱田春草
(一八七四︱一九一一)の《放鶴》
(一九〇四年、新潟県立近代美術館蔵)
、《 林 和 靖 》
(一九〇九年、茨城県立近代美術館蔵)