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『一握の砂』における三つの歌群が示す照応

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(1)

   

『一握の砂』における三つの歌群が示す照応

       

啄木が捉えた刹那のいのち

鈴   木   綾   華

     初めに

啄木には『一握の砂』(東雲堂/明治四十三年十二月)と『悲しき玩具』(東雲堂/明治四十五年六月)という二冊の歌集があるが『一握の砂』は唯一生前に出版されたものであり、啄木が編集まですべてを手掛けている。収録歌は明治り、と、在、岡・渋民時代、三章は明治四十一年の秋に作られたもの、四章は北海道時代、をそれぞれ歌ったものとなっており、啄木がこれまで辿ってきた人生の時期全てをこの一冊の歌集においてみることができる。また、東京での現在が歌われているは、め、本稿では一章「我を愛する歌」、五章「手套を脱ぐ時」に焦点を当てていく。は、が「容・題・て、いる。著者の手元の歌だけでつながらぬ時には、その場で詠出してそれをつなげたようである。 と述べているように、情、る。に「ローグとしての意味と機能を持たせ ていることを述べ、各章の章頭と章末に配置された歌の照応を指摘している。本稿では、序章にあたる「我を愛する歌」の冒頭歌群〈砂山十首〉と、最終章にあたる「手套を脱ぐ時」の末尾にく 日本文学ノート 第五十四号

(2)

る歌群〈公園歌群〉および〈愛児を悼む歌〉の示す照応について論じていきたい。

     第一節

  〈砂山十首〉におけるこぼれおちる今とその感傷性    東海の小島の磯の白砂に     われ泣きぬれて     蟹とたはむる        (制作明治

41年6月

24日/初出『明星』明治

41年7月号)

   頬につたふ     なみだのごはず     一握の砂を示しし人を忘れず     (制作明治

41年6月

23日/初出同前)

   大海にむかひて一人     七八日     泣きなむとすと家を出でにき     (制作明治

41年7月

18日/初出『明星』明治

41年8月号)

   いたく錆びしピストル出でぬ     砂山の     砂を指もて掘りてありしに      (初出『スバル』明治

42年4月号)

   ひと夜さに嵐来りて築きたる     この砂山は

『一握の砂』における三つの歌群が示す照応啄木が捉えた刹那のいのち

(3)

   何の墓ぞも       (制作明治

41 11 19日/初出『新天地』明治

41 12月)

   砂山の砂に腹這ひ     初恋の     いたみを遠くおもひ出づる日     (歌集初出)

   砂山の裾によこたはる流木に     あたり見まはし     物言ひてみる        (歌集初出)

   いのちなき砂のかなしさよ     さらさらと     握れば指のあひだより落つ      (初出『スバル』明治

43 11月号)

   しっとりと     なみだ吸へる砂の玉     なみだは重きものにしあるかな    (初出同前)

10   大といふ字を百あまり     砂に書き

    死ぬことをやめて帰り来れり     (歌集初出) 日本文学ノート 第五十四号

(4)

冒頭の二首が制作された明治四十一年六月二十三、二十四日は、突如興が湧き徹夜で膨大な数の短歌を作った日である。日記には以下のように書かれている。明治四十一年日誌  六月二十四

昨夜枕についてから歌を作り初めたが、興が刻一刻に熾んになつて来て、遂々徹夜。夜があけて、本妙寺の墓地を散歩して来た。たとへるものもなく心地がすがすがしい。興はまだつづいて、午前十一時頃まで作つたもの、昨夜百二十首の余。        り、スに気持ちを動揺させる。こうした状態の中で創作に行きづまりを感じ、自身を喪失していった 時期であった。木股知史はこの十首に「海辺に漂泊するイメージ を指摘しているが、その「漂泊」に関する背景としては、岩城が冒頭一首目「1  東海の小島の磯の白砂に」の評釈にあたって述べている「啄木は明治四十年五月四日、父一禎の宝徳寺再住運動から「石もて追わるるごとく」故郷の渋民村を出て函館に渡り、大森浜に苦き漂泊の涙をそそ いだ経験がう。し、  る「は、および場所を示すものではないと考える。岩城之徳は「1  東海の小島の磯の白砂に」を「赤心館時代の啄木は一年前に直面した大森浜での漂泊の悲しみを回 宿しているが、今井は砂山十首を回想歌ではなく「自己の現在の生を凝視し、凝視の根源性ゆえに、時に意識が一首内において過去、というよりも生の根源的問題におよび、さらに現在に統合される、かかる意識の降幅を種々のイメージに形象化する歌なのである。 と解している。歌集冒頭に配置された砂山十首ないし冒頭歌には回想歌という意味だけでなく、歌集全体にかかるイメージや今井の論にあるような砂山十首にかかる生命へのイメージが多分に託されていると考えられる。これは、太田登が指摘するような啄木短歌にみられる「泣きぬれるほかない感傷性」が「刹那における〈いのち〉と〈こころ〉を愛惜するというか

『一握の砂』における三つの歌群が示す照応啄木が捉えた刹那のいのち

(5)

れの人生観、生命観、短歌観とわかちがたく結びついている という論からも補強することができるであろう。た、は「  り、く「て、る。は、』(た「の「」「を〈ら「のである

注1

は、イ「」(起稿)にもみられる。さうして私は旅から旅とさまよつて来た。来し方を思えば泣きたくなる。泣けない。私の様な者はいつそ死んだ方が可いと思ふ。死ねない。自分で自分を呪つたり、罵しつたりした処で、私は矢張私だ。如何もならない

注注

この漂泊者という自覚は、五章「手套を脱ぐ時」中の「深夜にひとり街を歩く」歌群にみられる、放浪者という意識にも通底している。この漂泊・放浪の意識は先にも述べたような啄木の実人生から得たものであろう。それは、焦燥感や不安が孤独感へと変わっていく都市の中で、文学に見放されてもなお、みじめに生を消費していくしかないような抗えない人生の中を、一人漂うしかないのだという意識ではないだろうか。ここで、泣きたいが泣けない、死にたいが死ねない、という同列の表記と繰り返しの表現に注目したい。これらの願望は啄木が現実の苦痛やみじめさに直面したとき、そこから逃れたいという思いから生じている。つまり泣くことと死ぬことは全くの同質ではないにせよ、啄木にとって現実から逃れるための手段という同じ認識にあったのではないだろうか。砂山十首における泣きぬれるしかない抒情主体からは、そうした啄木の切実な苦しさが窺える。辺、は「は、を根源的に問うイメージ

注1

を持つと述べている。 日本文学ノート 第五十四号

(6)

る「は、  て、も「り、る。て「る。

注1

し、は今井と同様の見解を示しつつ「いのちあるものは、すべて時をこぼして生きてゆかねばならないことがかなしいのである。

注1

と自己の解釈を展開している。と、す「は、との対話」(『創作』第一巻第九号/明治四十三年十一月一日)にみられる「一生に二度とは帰つて来ないいのちの一秒だ。おれはその一秒がいとしい。たゞ逃がしてやりたくない。それを現すには、形が小さくて、手間暇のいらない歌が一番便利なのだ。

注1

という啄木の短歌観と生命観との重なりがある。り、は「で述べてきたが、啄木における海のイメージについてもう少し詳しく触れていき、なぜ海は泣きぬれることのできる詩的空間なのかという問いについて考えてみたい。に「鳥、」(号「詩()」

注1

る。た。り、人、い、い、る。いて誰なのか分からない。彼女は紅の衣を着て、毎日船首に立ち行く手を眺めている。海は「漣一つ起たず、油を流したように静か」であるが、空に「幾億万羽の白い鳥」が現れ「一様に羽搏をするので、それが凄まじい響きになつて聞こえる。」。その白い鳥たちが船首に立つ恋人のもとに降りてきて掌にある黄金の指輪に代わる代わるに接吻していくのだが、接吻していった鳥たちは白い羽の生えた人の顔になっていき、最後の一羽が指輪に接吻すると恋人は叫び倒れてしまう。黄金の指輪をくわえて飛び立つ白い鳥に向かって啄木が「白銀の鏑矢」を射ると、その白鳥は海に落ち「涯なき太洋が忽ちに一面の血紅の海」となる。しかし鳥の屍だと思い見ていた次の瞬間、それは「燃ゆる様な紅の衣を海一面に拡げた、恋人の顔」になっていた。船は矢の如く走り、恋人の顔から遠ざかっていく。「空には数知れぬ人の顔の、

『一握の砂』における三つの歌群が示す照応啄木が捉えた刹那のいのち

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羽搏の響きと、巾裂く如く異様な泣声。」という文でこの詩は終わる。今井は、恋人が俯いていて顔を見えないよう描くことで、啄木と恋人の間の距離を強調すると指摘しており、啄木と距離のある恋人とは「美しかった過去の最大の象徴

注1

であると述べている。航海の時間が分からないほど長いという叙述にも「航海とは啄木の人生の航路を表すであろうが、かつて帰属したやさしい世界とはすでに時間的距離も分からぬほど遠い

注1

のだと述べている。優しく美しい詩的世界とはすでに離別した啄木は、自身の意思で進ませることのできない「て、し、人「る。る「」「雲」「金色の太洋」「黄金の指輪」という色彩の鮮やかさに対し、天上への飛翔を願った詩人啄木を彷彿とさせるかのよて「」「る。た、異様な鳥が羽ばたき、不気味で異様な世界へと転じ不安を漂わせる。死を思わせる「黒」「海」「船」というイメージは「黒き箱」(『明星』明治四十一年十一月号

注1 という詩にも登場する。語り手がふるさとの港を出て七日後に、矢のように走る船の上から、海に漂う「黒き箱」を見るという内容である。その中に入っているのは「唇紅き黒髪長き/生首か。読む人もなき/文字書ける尊き経か。/はた、空し虚か。知らず。き、て、つ、箱。そろしきかの黒き箱。」と、ここでこの詩は終わる。鳥、と「い。て、詩的空間だということが強調されるとともに、二篇の詩から読み取れる死のイメージは砂山十首にも通底するイメージだということができるのではないか。海や砂について生存の意味を問うイメージがあると今井は指摘するが、生存の意味を問うことで死への願望も現れるといえはしないだろうか。  は、で、る。は「

11

り、鳥、 日本文学ノート 第五十四号

(8)

の海」で今井が述べていたような航海に自身の人生の航路を表すという点において類似が見られる。海とは、広大な自身の人生であり、そこを進んでいくということは、死へと向かっていくことでもある。砂山十首には、東海から蟹へのクローズアップに見られる対比や、大海や嵐のように、自身の力では抗うことのできない大きな存在が多く用いられ、その中で小さくみじめな自己との対比がなされている。己の力ではどうにもならない人生という時の流れの中で、夢と抒情にあふれていたかつての世界にはもう戻ることのできない啄木が生きる意に満たぬ現在は、生と死が紙一重のむなしい現在なのである。「4  いたく錆しピストル出でぬ」「5  ひと夜さに嵐来たりて築きたる」にも死のイメージをはらむ「ピストル」とる。え、多いことは、主体の漂泊する海には生命や希望に溢れた場所という前向きな意味はなく、自身の人生を嘆き、死にたいがためにさまよう場として設定された詩的空間であることを示している。砂山十首をしめくくるのは、死のうと思い海へと来たがそれをやめて家へと帰ってきたという「

歌。 る。は「て、 10  大といふ字を百

1注

る。に、は、も、その生を自ら手放すことはできなかったのだ。詩的空間に自身を投入し己の生と向き合おうとする啄木の姿は、泣きたいが泣けない、死にたいが死ねない、というような姿であり、そうした抒情主体が泣きぬれるために漂泊する海辺で、広大な人生を彷徨するしかない自身の生をあわれんでいる。砂のようにとらえきれず手のひらから零れ落ちてゆく時間に現れる、刹那のいのちとこころを愛惜することは、啄木にとって、みじめな生の中で泣きぬれるしかない自己の痛苦をやわらげるものであったのではないか。砂山十首における抒情主体は、海辺を漂泊しながら、常に海や砂を通して自分自身の生を見つめ問いかけている。生とは何か、とでも言うように自分自身の歩んできた人生を顧みて、そのみじめさを悲しむ啄木の姿が浮かび上がってくる。

『一握の砂』における三つの歌群が示す照応啄木が捉えた刹那のいのち

(9)

     第二節

  〈公園歌群〉における生活の切れ間に浮かぶ瞬間と現在 以上のような砂山十首にみられる、意識を自己の内部に集中させて自身やその生をあわれむというような強い感傷性は、歌集の最終章における公園歌群には見られない。   むらさきの袖垂れて

    空を見上げゐる支那人ありき     公園の午後       (初出『創作』明治

43 11月号)

   をさなごの手ざわりのごとき     思ひあり     公園に来てひとり歩めば       (初出同前)

   ひさしぶりに公園に来て     友に会ひ     固く手握り くち に語る        (初出同前)

   公園の木の間に     小鳥あそべるを     ながめてしばし憩ひけるかな     (初出同前)

   晴れし日の公園に来て  日本文学ノート 第五十四号

(10)

    あゆみつつ     わがこのごろの衰へを知る      (初出同前)

   思出のかのキスかとも     おどろきぬ     プラタスの葉の散りて触れしを   (初出同前)

   公園の隅のベンチに     二度ばかり見かけし男     このごろ見えず       (初出『東京朝日新聞』明治

43年7月

28日号)

   公園のかなしみよ     君の嫁ぎてより     すでに ななつき来しこともなし      (初出『創作』明治

43 10月号)

   忘れられぬ顔なりしかな     今日街に     捕吏にひかれて笑める男は      (初出『東京朝日新聞』明治

43年7月

人の姿の中に描き上げている   は「を、 28日号)

11 と述べている。「4  公園の木の間に」の歌には「「しばし」は、表現上は小鳥の遊ぶのをながめていたやすらぎの時間経過をいうが、同時に、前後の歌との関係で、その無心の休息が、作者の忙しく疲れた

『一握の砂』における三つの歌群が示す照応啄木が捉えた刹那のいのち

(11)

ど「る。

11

る。ら、は、生活の時間ないしは精神がなかなか休まることのない都市の中で、ほっと息をつける憩いの場であることが分かる。またそうした場でありながら、同時に、公園は都市を象徴する空間でもある。憩いの場である公園で啄木は「友」と会う。そのことが歌われている「3ひさしぶりに公園に来て」について今井は「「口疾に語る」には、一つは話題がたまっていた意でなつかしさの表現であるが、同時に作者の気ぜわしさをも伝える。と「せ、い、者の現実を暗示。

11

と解している。この歌の友は北原白秋であると言われており、それは以下のような白秋の回想のためである。彼の死の一年前、私は思ひがけなく、浅草のルナパアク園庭で彼と邂逅した事があつた。彼は私を見てやあと顔をかがやかした。而も固く握手しながら口疾に二人はしやべつた。これは彼の歌にもある。(初出『短歌雑誌』大正

12年9月号   2

11

今井は「公園」をかつて啄木がいた文学至上の世界とそれを夢みる生き方を象徴するものとみて、白秋との会話から自身がすでにそこにはいないために、懐かしさとかなしみを感じているという見解を示す。公園は都市のシンボル的な空間でありながら人々が昼間に憩う場でもある。啄木はしばしの憩いに訪れた公園で、日常生活の中にぽっかりと空白ができる瞬間に、なつかしく優しい、甘美な記憶やかつての世界のことを思い出し、それる。  も、る。は「姿く。か」で、放心の間、遠い日のころのような甘い気分に包まれていたことを暗示。またキスの思い出を落葉に象徴させて、現実の作者の落胆の意識を暗示。

11

するのだと述べている。キスについてうたったものが同じ章に収められている。つくづくと手をながめつつ 日本文学ノート 第五十四号

(12)

おもい出でぬキスが上手の女なりしが       (初出『東京朝日新聞』明治

43年3月

岩城はこの歌の「キスが上手の女」とは釧路時代交友のあった芸者小奴であろうと指摘している 31日号)

11

また、啄木の明治り、た。」「た。」「た。

11

れ、の再会に対する喜びや、啄木にとっての小奴という人物、その関係性にみられる心地よさ、優しくうっとりするような時間を過ごしたことが窺える。公園歌群では、公園に憩うふとした瞬間に思い出される過去の世界を描きながら、そうした過去を思い出す現在の瞬間、または自己に視点がある。心に浮かんだ記憶や感情を思いながら、感情・身体の衰えや忙しい生活の中に身を費やすしかできない自己の現状を静かに哀惜しているのだ。現状の自己について満足しているわけではないが、かつて自身が夢みていた抒情と文学の世界へ戻ることはできない。啄木は様々の事件を経て、生活や家族と向き合わざるを得なくなったのだ。様々な事件というのは明治三十七年、父一禎の住職罷免による経済基盤の崩壊に始まる。経済状況が揺らぐ中、同じ年に堀合節子と婚約し、翌年の明治三十八年に結婚する。家を支える責任が生まれた啄木は、職を求めて北海道へと向かい、一家で北海道各地を転々とする生活が続く。しかし文学に対する意欲を抑えきれずに、妻子と年老いた母を残して明治四十一年に単身上京。小説を書きながらしばらくの間半独身者生活を楽しむも、しびれをきらした家族が翌年明治四十二年上京する。しかし上京後、節子は体調を崩しがちになる。加えて姑との間には確執があり、きびしい生活に耐え続けながら、夫啄木の文学的将来を信じ、支え、その全てを受け入れてきた妻節子は、ついに娘京子を連れ家出をする。この節子家出事件によって啄木は心を入れ替え昼夜仕事に徹するようになるのだ。文学で身を立てるのだと心を燃やしていた少年啄木は、嫌でも現実にのしかかる重荷を引き受けなければならなかった。それでも文学から完全に離れることはできなかった。だから啄木は一般の労働者と同じく日夜働きながらも、生活

『一握の砂』における三つの歌群が示す照応啄木が捉えた刹那のいのち

(13)

の中に現れる刹那の感情を短歌にうたう。「短歌なんぞは煙草と同じ効能しかない」(明治四十一年七月十八日・吉野章三宛書簡

11

と言いながらも、うたわずにはいられなかったのだ。歌集の最終章に収められたこの歌群は、冒頭における海という詩的空間にみられた、激しく強い感傷性ではなく、諦めにも似た静かで穏やかな空気の中で、生をこぼして生きている自身の現在をうたうために、公園という場が設定されたのではないだろうか。砂山十首において、生を凝視しながらみじめに摩滅してゆくしかない自己をあわれみ、そうした現実を泣くためないも、る。は、て、が、る、という啄木のまさしく現在を映し出している。一時の休息の後に、再び都市の時間の中に戻ってゆかねばならない生活者、という背景も踏まえると、公園と海とが異なる詩的空間の広がりであること、またそこに内包される作者のかなしみの違いがより明らかであるといえる。

     第三節

  〈愛児を悼む歌〉にみられる刹那のいのち

愛児を悼む歌の歌群は、第五章の最終部に急遽追加された八首である。この歌群によってうたわれるイメージは再び生のはかなさへと帰着していく。は、が、月四日に誕生した真一は、同月二十七日にわずか二十四日の短い人生を終えた。歌集の序には以下のような文章がある。また一本をとりて亡児真一に手向く。この集の稿本を書肆の手に渡したるは汝の生れたる朝なりき。この集の稿料は汝の薬餌となりたり。而してこの集の見本刷を予の閲したるは汝の火葬の夜なりき

11

真一の亡くなった翌日の二十八日には友人の宮崎郁雨に宛てて手紙が書かれている。背景長男真一事兎角発育思はしからず加養に手を尽し居候ひし処遂にその効なく昨夜零時半死亡仕候、当夜は夜勤 日本文学ノート 第五十四号

(14)

のため深更帰宅致候ひしに、今二分間許り前に脈がきれたといふとこにて、早速かゝりつけの医師を迎え注射を乞ひしも何の反応なかりし次第、その時はまだ体温生時と変らず何うしても死んだと思はれざりし事に御座候、一家度、候、(略

1注

啄木は妹に対しても二十八日に手紙を書いているのだが、夜勤だったことや自身の帰宅する「二分許り前に脈がきれ

11 こと、まだあたたかい体温のあったこと、この世の光を二十四日間見ただけで死んでしまったことなど、郁雨宛の手紙と同様のことがほとんど同じ言葉で書かれている。その日、啄木は夜勤で真一の最期に立ち会うことができなかった。このことがなおのこと息子の死を信じがたくさせているのだろう。突然の生の終わりに対してどう向かい合えばいいのかわからない、悲しみだけが一挙に迫ってこない、そういった啄木の思いが愛児を悼む歌には表れている。   夜おそく

    つとめ先よりかへり来て     今死にし を抱けるかな       (初出『スバル』明治

43 12月)

   二三こゑ     いまはのきはに微かにも泣きしといふに     なみだ誘はる        (初出同前)

   真白なる大根の根の肥ゆる頃     うまれて     やがて死にし児のあり        (初出同前/制作明治

43 10月4日)

『一握の砂』における三つの歌群が示す照応啄木が捉えた刹那のいのち

(15)

   おそ秋の空気を     三尺四方ばかり     吸ひてわが児の死にゆきしかな    (初出『精神修養』明治

43 12月)

   死にし児の     胸に注射の針を刺す     医者の手もとにあつまる心      (初出同前)

   底知れぬ謎に むかひてあるごとし     死児のひたひに     またも手をやる       (初出『スバル』明治

43 12月)

   かなしみの強くいたらぬ     さびしさよ     わが児のからだ冷えてゆけども    (初出同前)

   かなしくも     夜明くるまでは残りゐぬ

    息きれし児の肌のぬくもり      (初出同前)  は、に「 日本文学ノート 第五十四号

参照

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