再発見 にかかる 崇源院︵二代将軍徳川秀忠夫人︶ 墓石 の 碑文考
髙 橋 修
一 問題の所在表題の崇源院とは江戸幕府二代将軍徳川秀忠の正室であった江︵一五七三~一六二六︶のことで︑崇源院は彼女の死後の贈名である︒二〇一一年にはNHK大河ドラマ﹁江~姫たちの戦国~﹂の主人公として取り上げられ︑それ
を契機に彼女にまつわる調査・研究が進展し︑新しい視点からの伝記が相次いで公刊されている現状にある
置していた︒﹁伯父に信長︑義兄に秀吉︑義父に家康︑そして天皇家も血縁にもった江は︑いわば戦国時代の﹃スー 女千姫は豊臣秀頼の妻に︑五女和子は後水尾天皇の中宮となり︑いずれもその時代を牽引した重要人物達の中心に位 彼女は近江の戦国大名浅井長政と織田信長の妹である市の間に生まれ︑その姉には豊臣秀吉の妻であった茶々︑長 ︒ 1
パーセレブ﹄﹂といえよう
彼女は寛永三年︵一六二六︶九月一五日に江戸城内で死去し︑同十八日に遺体が徳川家の菩提所である増上寺に移 ︒ 2
され︑一〇月一八日の葬儀の際︑彼女の遺体は火葬に付された︒同二二日に増上寺において納経誦経︑一一月二八日に従一位を追贈された︵﹃徳川実紀﹄・﹃徳川諸家系譜﹄二︶︒増上寺徳川家霊拝所内にある彼女の宝塔は後代のもの
で︑彼女が埋葬された当時の墓石は︑一九五八~六〇︵昭和三三~五︶年に実施された増上寺徳川家墓所の考古学的調査により発掘された
は土塀で囲われていた︒宝塔の形状は八角堂形の石塔であった︒宝塔を取り除き︑地下を掘ったところ︑五個の巨大 掘の﹃報告書﹄︵六〇~三頁︶によれば︑後者の崇源院宝塔は当時︑周囲よりも一段高い区画の中にあり︑その周囲 の覆屋︑崇源院霊拝所があり︵いずれも第二次世界大戦の戦災により焼失︶︑北廟に崇源院の宝塔があった︒右の発 増上寺の敷地内は本堂をはさんで大きく南廟と北廟に分かれ︑南廟には徳川秀忠︵台徳院︶の霊拝所・宝塔及びそ ︒ 3
な石造物がバラバラの状態で出土した︒それらは何れも宝篋印塔の部材で︑寸法を積算すると高さは五メートル以上にも及ぶ︵一丈七尺︶巨大なものであった︒塔の上から四番目の部分︑すなわち塔身部は櫃形をしており︑周囲には文字が刻まれ︑その刻文を判読するとこの宝篋印塔は崇源院のものであることが確認された︒つまり発掘により発見された宝篋印塔こそが崇源院埋葬時の本来
の墓で︑発掘段階で現存していた八角堂型の宝塔は後代の製作によることが明らかにされたのである︒さらにこの櫃形の塔身部の内部は箱状にくり抜かれ︑内部には檜板で作られた箱が納められていた︒箱の内部は火葬骨や木炭等が納められており︑その骨を分析した結果︑崇源院は細心で小柄︑華奢な体つきであり︑歯の噛耗の状態から︑やわらかい食べ物を多く接収するという︑いわば貴族等の上層階級に属する生活を送っていたことが判明し
た 4
︒この塔身部は彼女の石棺の役割を果たしていたのである︒右にみたとおり︑本発掘成果は崇源院についてはもとより増上寺に埋葬された徳川将軍とその一族にまつわる様々
な知見が得られ︑学術的に重要な意義を有したものであった︒だが︑その後︑崇源院の宝篋印塔に用いられた石材の所在が不明となったことで︑実物資料に基づいた検証作業がなしえなくなり︑﹃報告書﹄以降は必ずしも十分に研究
が蓄積されたとはいえない状況が続いたのである︒かかる事態から大きく前進させたのが信玄公宝物館を中心とした二〇一四年の調査である︒同調査により山梨県甲州市に所在する古刹である恵林寺に崇源院の宝篋印塔の一部が現存することが確認された︒当時︑恵林寺境内の開山堂前に立方体状の石材が設置されていたが︑それが何の石であるのかは︑一部を除いて一般には広く知られていな
かった︵増上寺から恵林寺に移管された経緯は後述︶︒同館において︑石材の形状や周囲の刻文を﹃報告書﹄と比較対照したところ︑先述した火葬骨をいれた塔身部・石棺と同一であると結論付けられた︒ここに崇源院の塔身部・石棺︵以下︑﹁墓石﹂︶を巡り︑信玄公宝物館にて本格的な共同研究が開始されたのである
したのは︑彼女の墓石は昭和三〇年代の発掘調査で最初に発見され︑再度の発見とは︑この墓石が恵林寺境内にある ︒本稿表題に﹁再発見﹂と記 5
ことが近年︑学術的に明らかとなったことに拠るものである︒さて︑幸運なことに筆者も本研究に加わるところとなり︑墓石四周に刻まれた碑文の解読を担当した︒碑文につい
てはすでに﹃報告書﹄︵六二~三頁︶において翻刻文が収載されているものの︑当時の発掘調査が時間的・物理的にかなりの制約がある中で実施されたことから︑再検討の必要性が生じていた︒
このたび︑あらためて墓石実物の実見調査をなし得る機会に恵まれたことにより︑崇源院の墓石そのものに関し︑多面的な角度から様々な論点を導き出し得た︒そこで︑本稿ではまず︑墓石碑文について新しい翻刻文を提示し︑あ
わせて従前ではなし得ていなかった碑文の現代語の解釈も試みることとしたい︒次に︑この碑文解釈を前提としながら︑彼女の墓石がなぜ地下に埋められ︑その上に新しい宝塔が設けられたのか︑その歴史的背景について考察を加え
ることとする︒以上をもって本稿の目的としたい︒近世期の徳川将軍や大名の墓所についての研究は考古学の分野で近年︑目覚ましい進展をみせている
︒いわゆる文 6
献史学の立場からも積極的に調査研究成果を積極的に情報発信する時期にさしかかっており︑それらの成果を総合的に捉え返すことで当該期における葬送とそれを巡る観念の歴史的意義を解明し得るといえよう︒とりわけ本稿で主題
とする崇源院のように近世初頭︑しかも女性の墓に関する調査研究は事例蓄積が少ない現状にあり︑かかる視点からも本研究は一定の意義を有すると考えられるのである︒
二 崇源院墓石碑文の読解
︵
1︶
墓石の翻刻本墓石の基本的なデータについて︑小野正文氏の研究に基づきながら︑筆者の関心に沿ってまとめると次のとおりとなる︒崇源院の墓は塔身球形宝篋印塔という形状であり︑墓石はその一部である︒法量について︑高さは八二・四~八四・五センチ︑横は一三七センチである︒墓石上部の縁の部分が削ったままの凸凹した状態にあることから︑本来はその上部に反花で飾られていたことが想定される︒墓石表面の一部に漆喰と金箔が付着していることから︑崇源院の宝篋印塔全体の本来の姿は全体的に金箔が貼られた荘厳華麗なものであったと推定されることである︒以上を踏まえて︑次に碑文の翻刻を掲げる︒なお︑解読にあたっては小野正文氏と共同で実施したことを銘記す
る︒︵北面︶① 多少修善奉持斎戒② 起立塔□ ︵像□ 飲カ︶食沙門
③ 懸繒燃燈散花焼香④ 以此廻向願生彼国︵東面︶⑤ 天下和順日月清明⑥ 風雨以時災厲不起⑦ 崇源院殿一品太夫人昌誉大禅定尼尊儀⑧ 国豊民安兵戈無用⑨ 崇徳興仁務修礼譲︵南面︶⑩ 其有得聞彼仏名号⑪ 歓喜踊躍乃至一念⑫ 当知此人為得大利⑬ 則是具足無上功徳︵西面︶⑭ 夫尊像者三仏同証⑮ 密意恒沙功徳照用⑯ 已然真宗秘蹟稍異⑰ 右令寔以終窮極謐
⑱ 斉凡秘術世伏是宝⑲ 祚万歳天地久□ ︵長カ︶黎⑳ 民快楽永々㉑ 寛永三年九月十五日㉒ 桑誉了的叟謹書翻刻にあたり︑旧字の部分は当用漢字にて表記している︒各行の上に付した〇内の数字は︑行論上︑説明の便宜のた
めに付した合番である︒︵北面︶︵東面︶︙とあるのは︑発掘された段階における墓石各面の方位である︒
︵
2︶
墓石の読み順﹃報告書﹄では︑この碑文の読み順を次のとおりとしている︒⑦が碑文全体の表題︑本文一行目は⑤とする︒すな
わち⑦↓⑤・⑥↓⑧・⑨↓⑩~⑬↓①~④↓⑭~㉒とする︒墓石全体の表題とみられる⑦のある東面を墓石の正面とし︑東面の右側の文︑すなわち⑤を本文一行目︑以下︑時計回り方向に読み進めて南面最末行︵⑬︶に至り︑そこか
ら北面に飛んで順に読み︵①~④︶︑西面を裏面と見立てて読む︵⑭~㉒︶という順番と捉えていたことになる︒だが︑それでは読み順が︑特に東↓南↓北↓西へと面から面への読み順が錯綜しており︑不自然な感を抱かせるも
のがある︒あらためて︑読み順について検討を加えることとしたい︒まず︑﹃報告書﹄のとおり⑦は墓石全体の表題であるから東面は正面︑その真裏の西面には墓石の年代と碑文作者︵㉑・㉒︶が記されているので︑裏面に当たると考えられる︒増上寺の敷地は︑東側から西側に向かってなだらかな丘陵地となっており︑西側に向かうに従い︑標高が高くなっている︒寛永期の江戸の様子を描いた﹁江戸図屏風﹂︵国
立歴史民俗博物館蔵︑﹃図録﹄一二〇~二頁掲載︶における増上寺の描写によっても︑西側は斜面上に森林が主として描かれ︑寺域内の伽藍はいずれも東面を向いている︒したがって墓石も東面を正面︑森林を背負う位置となる西面
を裏面と確定し得る︒東側を正面とすることで︑崇源院の墓に対面する人は西側の浄土に向かう形となる︒さらに彼女の宝篋印塔全体に金箔が貼られていたことからすると︑塔全体が陽光に荘厳に照り映え︑正対する人に対し︑さな
がら浄土を仰ぐような感覚を抱かしめたと推測される︒こうした点にまで配慮・熟慮を重ねた上での配置であったと考えられるのである︒以上から︑墓石は元々︑立てられた方角のとおりに埋められたといえよう︒次に碑文の読む順序であるが︑⑦﹁崇源院殿一品太夫人昌誉大禅定尼尊儀﹂は墓石が誰のものであるのかを明示し︑また︑墓石の碑文全体の主題であることを意味しているから︑正面︵東面︶の中央部に配置されたと見做し得
る︒したがって﹃報告書﹄のとおり︑読む順序としては⑦が最初となる︒本文部分の読み順について︑先に結論を述べるなら︑北面①から時計回りの方向で︑すなわち北面↓東面↓南面↓西面の順に読むものと捉えられる︒その理由として︑碑文の文章そのものに注目すると︑北面・東面・南面の文面は﹁無量寿経﹂という経典からそのまま引用し︑墓石の配列順序が経典の文章上の順序と一致しているからである︒﹁無量寿経﹂とは浄土三部経の一つであり︑それは﹁無量寿経︵大経︶﹂・﹁観無量寿経︵観経︶﹂・﹁阿弥陀経︵小経︶﹂の三経典から成る
る 経典ということになる訳である︒以下︑墓石碑文と﹁無量寿経﹂の経典上の意味とを対照できるよう︑訳文を掲出す ︒いずれも浄土宗の根本聖典であり︑浄土宗大本山の一つである増上寺にとって最も重要な 7
①多くの善行を積み︑八斎戒︵在家信者が仏教徒として精進するために行う戒︶を行い︑ ︵北面︶ ︒〇内数字は先に掲出した碑文の各行と対応している︒ 8
② 塔を建て仏像を造り︑僧侶に食べ物を捧げて供養し︑③ また︑懸繒︵絹の天蓋を仏殿に懸けること︶︑燃燈︑散花︑焼香をすること︑④ これら仏事の供養をすることで︑極楽往生を願う︒︵東面︶⑤ 天下はよくおさまり︑日月はさわやかで︑⑥ ほど良い時に雨が降り︑風がおき︑激しい災害は起こらなくなった︒⑧ 国土は豊かで︑民心は安定し︑武力に訴える必要はなかった︒⑨ 徳は崇められ︑思いやりの心が振るいおこされ︑礼儀や謙譲がよく守られていた︒︵南面︶⑩ 阿弥陀如来の名を聞くことで︑⑪ たとえ一念でも静かな清らかな信を得るものは︑⑫ 計り知れない喜びを得ることが出来る︒⑬ これこそまさにこの上ない功徳である︒北面は﹁無量寿経﹂の中︑﹁三︑浄土に往生せん者の修すべき行業﹂という章の中の句である
︒当該箇所は浄土宗 9
の開祖である法然の﹃選択本願念仏集﹄においても三輩念仏往生について説いた部分で引用・言及がなされている︒仏道修行上の素質・修行の優劣は上・中・下輩の三種に分けられるが︑いずれも念仏によって往生を遂げることが出来ると論じた箇所である
篋印塔を建てることが崇源院の成仏につながるという塔建立の目的に合致する文句であるからであろう︒なお︑翻刻 ︒北面でこの句が引用されたのは②﹁起立塔像﹂により④﹁以此廻向願生彼国﹂という︑宝 10
文中︑②部分で□とした箇所について︑この墓石は湧水が溜まった箇所から出土したために摩耗が激しい箇所があり︑実際には判読し得なかった部分である︒﹁無量寿経﹂の文言と対照し︑翻刻文で︵ ︶内に記したとおり読みの可能性として補った︒東面は同経典の中︑﹁五︑三毒・五悪の苦しみを誡しめ︑浄土を現見せしめて信を勤む﹂という章の中の句である
一つである﹃造伊勢二所太神宮宝基本記﹄にも引用されている 国家鎮護のための文言として古くから様々な箇所で用いられ︑仏教だけでなく伊勢神道の基本経典﹁神道五部書﹂の ︒ 11
県︶山上において本文句により天下太平を祈ったという伝承が地元には残されている ︒また︑徳川氏の始祖である松平親氏が天ヶ峰︵愛知 12
る﹁安国院﹂の名称及び増上寺境内にあり家康を祀る場所である﹁安国殿﹂の名称のそれぞれ典拠となった句でもあ ︒さらに︑徳川家康の院号であ 13
る 14
︒当該句は伝統的に国家鎮護にかかわる常套句であり︑特に徳川家にとっても特別な意味を有する︒このように護国的内容の句であることから碑文の一部に︑それも墓の正面である東面に配置されるように選択されたものと考えら
れる︒崇源院という将軍夫人の墓所に最も相応しい句といえよう︒南面は同経典の中︑﹁結語﹂︑すなわち経典全体の結論にあたる章の中の句である
特に重要視していた部分である 当該箇所を﹁経ノ大意︑コノ文ニアキラカナルモノカ﹂と記し︑﹁無量寿経﹂全体の趣旨︑すなわち結論部分として ︒法然も﹃三部経大意﹄において 15
︵墓石の読み順︶ 置されているといえよう︒墓石の読み順は次のとおりと結論づけられるのである︒ がることの尊さ・重要性について述べた箇所から引用され︑﹁無量寿経﹂で説く文脈の流れに沿って墓石の語句が配 以上から︑北面は世俗の人の修行について述べた箇所︑東面は理想の土地の姿について述べた箇所︑南面は仏にす ︒ 16
東面中央部の表題︵⑦︶↓北面︵①~④︶↓東面︵⑤・⑥↓⑧・⑨︶↓南面︵⑩~⑬︶↓西面︵⑭~㉒︶
(
墓石の読み順を右のとおり確定した上で︑次に碑文全体の現代語訳を試みることとしたい︒〇内数字は先に掲出し 3)墓石の試訳 た碑文の各行と対応しているが︑訳の都合により厳密には対応していないことをお断りしておく︒︵東面中央部︶⑦ 崇源院殿一品太夫人昌誉大禅定尼尊について︵北面︶①
︵崇源院 が極楽に往生できるようにするために︶多くの善行を積み︑身を清め︑② この塔を建て仏像を造り︑僧侶に食べ物を捧げて供養し︑③ また︑懸繒︵絹の天蓋を仏殿に懸けること︶︑燃燈︑散花︑焼香をし︑④ これら仏事の供養をすることで︑崇源院の極楽往生を願うものである︒︵東面︶⑤
⑨ ⑧国土は豊かになり︑民心は安定し︑戦争もなくなる︒ ⑥ほど良い時に雨や風がおき︑激しい災害は起こらなくなる︒ ︵そうすれば︶天下はよくおさまり︑日月はさわやかで︑ ︵崇源院
は︶徳を崇め︑仁を興し︑礼儀と謙譲の精神に努めた︒︵南面︶
⑩ 彼女のこうした行いから︑崇源院という戒名を得たのである︒⑪ ︵彼女 は︶計り知れない喜びを得ることが出来︑⑫ さらにこの戒名により︑深い恵みが︵彼女に︶もたらされるであろう︒ ⑬ これこそまさにこの上ない功徳である︒︵西面︶⑭
︵増上寺 に安置されている徳川家康の︶尊像は阿弥陀三尊と同じである︒⑮ 数多くの功徳をなすとの意がひそかに込められている︒⑯ いまだに浄土宗の教えにまつわる秘術はそれぞれ異なっているが︑ ⑰ このことについて最終的な結論を出して︑詳しく解き明かすことができれば︑⑱
⑲ ︵ また︑︶これら秘術を統一させたならば︑世の人々はそれを謹んで受け入れるであろう︒ 係・文脈の中で用いられてきたものである︒これらを崇源院の菩提を弔うという墓石全体の文脈の中で用いること 既述のとおり︑﹁無量寿経﹂の語句から崇源院の墓に相応しい語句が選択・引用されているが︑本来は経典の前後関 ㉒桑誉了的が謹んで記した ㉑寛永三年︵一六二六︶九月十五日 ⑳庶民の喜びは永久に続くことになる︒ ︵右の事柄が実現できれば︑︶宝祚万歳︵天子の位がいつまでも続くこと︶・天地長久︵天地は永遠に続くこと︶︑
で︑本来の経典上の意味とは異なる解釈を施し得る︒まず北面から見ると︑この箇所における文句の本来の意味は世俗の人の修行の在り様について論じたものである
が︑墓石全体の主題が崇源院を弔う目的の文言と捉え︑右のように解釈した︒東面は正面にあたることから︑先述のとおり将軍夫人墓に相応しく護国的文言が選ばれ︑墓石全体でも特に重要な箇所である︒そのことから⑨﹁崇徳興仁﹂の部分は﹁崇源院﹂という戒名の基となった語句と解釈した︒さらにそのことを踏まえ︑東面⑨から次の南面⑩の流れについて︑経典では別々の文脈に用いられていたものを︑一体の文章と捉えることとした︒本来⑨の読みは﹁徳を崇 あがめ仁を興し︑務 つとめて礼 らいじょう譲を修む﹂︑⑩は﹁其 それ彼 かの仏 ぶつみょうごう名号を聞くことを得 うること有りて﹂である︒⑩の﹁彼の仏名号﹂とは経典の文脈では﹁阿弥陀如来﹂のことを指すが︑墓石全体の趣旨 からすれば︑これは﹁崇源院﹂という戒名を指すと捉えられる︒そこで︑⑨・⑩の読みを﹁徳を崇 あがめ仁を興し︑務 つとめて礼 らいじょう譲を修む︒それ有 ゆうとく得の聞こえにより︑彼 かの仏 ぶつみょうごう名号なり﹂と一連の文章とし︑﹁︵崇源院は︶徳を崇め︑仁を興し︑礼儀と謙譲の精神に努めた︒彼女のこうした行いから︑崇源院という戒名を得たのである﹂と﹁崇源院﹂という戒名の由来を示した箇所と解釈した︒つまり︑当該箇所は﹁無量寿経﹂で説く阿弥陀如来の有難さを表すと共に︑崇源院
の菩提を弔うという二重の意味を込めた︑よく熟考された文章と捉えられるのである︒最後の西面について︑まず翻刻の⑲﹁天地久□黎﹂とした箇所は︑墓石現物を実見したところ︑摩耗が激しいた
め︑文字の有無そのものが判断し得なかった︒ただ︑﹁久﹂字と﹁黎﹂字の間に一字分の間隔が明けられていることも確認され︑﹁武運長久﹂等の常套文句が入る箇所であることから︑翻刻文で︵ ︶内に記したとおり読みの可能性
として補った︒後考に委ねたい︒⑭﹁夫尊像者三仏同証﹂の﹁三仏﹂とは浄土宗は阿弥陀如来を本尊とすることから︑阿弥陀三尊と解釈した︒その
ことで︑﹁尊像﹂とは阿弥陀如来像ということになるが︑増上寺には徳川家康が崇敬した黒本尊︵阿弥陀如来像︶が安置され︑近世期には増上寺において家康と黒本尊︵すなわち阿弥陀如来︶等とが一体の存在とする思想が存在して
いた このことを踏まえ︑⑭~⑱の解釈については︑当時においては︑増上寺同様に将軍菩提寺となる寛永寺が台頭して ︒以上から当該箇所を右のとおり解釈した︒ 17
おり︑また︑教団内においても増上寺住持を巡り内部的軋轢が存在したことや︑様々な争論があり︑運営面においてなおいくつかの課題に直面していた
墓石の日付㉑については︑冒頭で述べたとおり︑崇源院が死去した﹁寛永三年九月十五日﹂と記されている︒だ 増上寺︵浄土宗︶の守り的な意図を崇源院墓石に込めたものと捉え︑前述のとおり訳出した︒ ︒そのことから当該文句は︑徳川家康の宗教的権威を利活用しながら︑日本及び 18
が︑⑦に﹁崇源院殿一品太夫人﹂とあるとおり︑彼女が一品︵従一位︶を朝廷から追贈されたのはその二箇月後の同年一一月二八日であった︒したがって︑本碑文が作成されたのはそれ以降となる︒下限については︑寛永四年九月五日に﹁崇源院殿周忌法会始る﹂︑同一五日に﹁崇源院殿御法会萬部経今日結願なり﹂︵﹃徳川実紀﹄︶とあることから︑同年九月までには崇源院墓が完成していたといえる︒したがって︑墓石碑文︑また墓そのものは寛永三年一一月末か
ら同四年九月までに完成していたと考えられるのである︒碑文の作者である﹁桑誉了的叟謹書﹂㉒については︑﹁了的伝﹂においてその略歴がまとめられている
瑞泉寺に入り︑大誉順的の下で剃髪した︒後に源誉存応︵のちに増上寺第一二世住持・同寺中興の僧︶の下で受戒し ︵一五六七~一六三〇︶は増上寺第一四世住持︵一六二五~三〇︶である︒甲斐国出身︑姓は近藤氏︒幼少期に甲府 ︒桑誉了的 19
た︒了的は存応の信任が厚く︑元和二年︵一六一六︶には京都金戒光明寺住持となった︒存応の遺書に﹁︵了的は︶是天下無双学士﹂と記され︑そのことで徳川秀忠の信任も厚く︑寛永二年︵一六二五︶には増上寺住持となることを命じられた︒同三年に江︵崇源院︶が死去した際︑﹁執行薨事︑奉授 崇源院一品大夫人之法号﹂とあり︑彼女の葬礼の導師を勤め︑﹁崇源院﹂の法号を授けたことが記されている︒同四年九月に崇源院追福のための万部会を行い︑
以後︑増上寺万部会のはじめとなった︒同七年八月に死去︒了的は﹁征夷大将軍家光公︑并駿府亜公卿帰師過前代﹂とあり︑秀忠はもとより三代将軍家光︑弟の徳川忠長︵い
ずれも崇源院の息子に当たる関係︶からの崇敬も厚かったとある︒崇源院の墓石を撰文するのに最も相応しい人物が選ばれたということになろう︒
三 崇源院墓の変遷を巡る歴史的背景前節で検討した崇源院の墓石について︑それは冒頭で記したとおり︑昭和三〇年代の調査で発掘されたものである︒換言すれば︑一七世紀初頭に造立されてからある段階で地下に埋められたことになる︒そこで本節では︑彼女の墓石が何時︑如何なる事情の下に埋められたのか︑また︑その歴史的背景はどのようなものかを明らかにしたい︒管見の限り︑当該問題についての最初の専論は田辺 泰氏によるものである
︒同論は約八〇年前に発表されたもの 20
で︑当該期には増上寺の発掘調査もされておらず︑十分な資料利用環境が整っていないという制約の中で執筆されたものであるため︑現代の視点から論評を加えるのは公平を欠くのは十分に自覚している︒ただ︑問題の所在を明確に
するためには︑言及しなければならない重要な研究であるので︑以下に検討を加えることとしたい︒本問題に関連した田辺氏の論文の主張は①寛永年間に崇源院の霊拝所︵寛永三年着工・同五年完成︶と宝塔︵本稿
の宝篋印塔を指す︑寛永三~四年頃造立︶が建設・造立された当初は︑両者は北廟の敷地内に近接して設けられていた︒それが︑正保四年︵一六四七︶に︑台徳院︵徳川秀忠︶霊拝所の再造営を契機として︑崇源院の霊拝所は台徳院
のそれに隣接して︑すなわち南廟の敷地に建設された︒以上が霊拝所と宝塔が南廟と北廟に分かれている理由とする︒②正保四年に崇源院霊拝所が︑翌慶安元年︵一六四八︶に同宝塔が再造営された理由は︑三代将軍家光と対立し
ていた彼の弟の徳川忠長がその建設に携わっていたからであり︑忠長を疎んだ家光によって両者は解体・再造営されたとするものである︒
まず︑田辺説①についてであるが︑既に内藤 昌氏が寛永年間における当初の建設段階から︑宝塔は北廟に︑霊拝所は南廟の敷地に存在したことを︑増上寺敷地内の利用状況から結論づけている
描写では 先にも触れた寛永一一~二年頃に成立した﹁江戸図屏風﹂︵国立歴史民俗博物館蔵︑﹃図録﹄一二〇~二頁掲載︶の 解に賛同するものである︒ ︒筆者も次の理由により内藤氏の見 21
押紙の表記は﹁台徳院殿御仏殿﹂︶隣接する形で崇源院霊拝所︵同屏風押紙の表記は﹁崇源院霊屋﹂︶が描写されてい ︑すなわち寛永年間における増上寺においては︑北廟ではなく南廟の敷地において台徳院霊拝所に︵同屏風 22
る︒内藤説のとおり︑寛永期の造営当初より彼女の霊拝所は南廟に立地していたことは確実である︒霊拝所と宝塔が立地的に分離している理由については︑当時の遺骸に対する穢れ意識が作用しているものと考えら
れる︒この点については次に掲げる﹃本光国師日記﹄︵寛永九年正月二九日条︶が示唆的である︒上意ニハ︑相国様墓所卵塔之上に堂建︒上様も諸人も参詣可有之か︒又別に御尋立候て︑御位牌立可有御参歟︒先規可申上由︑国申は︑塔頭と申は︑卵塔之ほとりと書候て︑卵塔に建候寺ヲ申候︒昭堂ト申ヲ建候て︑其には木像にても絵像にても︑位牌にても立候︒是へ常には御参候︒墓所へは︑盆なとの外︑忌日年忌之外には常には御参な
く候と申候へハ︑僧正も其通と一統に御申候︒則被立 御耳尤と御意之由右の大意は︑徳川家光が寛永九年に死去した﹁相国様﹂︵徳川秀忠︶の墓をどのように整備すべきか︑﹁国﹂︵金地院崇伝︶や﹁僧正﹂︵天海︶に先例を下問している︒崇伝が回答するには︑次の
a・ b二つの施設があるとする︒まず a墓の塔を建てることであり︑﹁塔頭﹂というのはこの塔のほとり︵﹁頭﹂には﹁ほとり﹂の意がある︶に建てた寺の
ことを指す︒次に
b木像︑位牌や絵等を安置する昭堂を建設することである︒前者
段は参拝しない場所であるのに対し︑後者 aはお盆や忌日・忌年以外には普 bは常に人々が参拝する場所であるとする︒この回答に天海も賛成したこ
とから︑家光も同意したのである︒別言すれば︑
aは本稿でいう宝塔に相当し︑実際に遺骸や骨が埋葬されており︑
bは同じく霊拝所に相当し︑位牌
や尊像等が安置され︑普段の参拝は
地に霊拝所が︑彼の遺骸はその南西に位置する小高い丘の上に埋められ︑その上に堂がそれぞれ建設されていたので bの方ということになる︒徳川秀忠の埋葬方法は﹃本光国師日記﹄のとおり︑平
ある︵﹁江戸図屏風﹂押紙の表記は﹁台徳院殿御廟所﹂︶︒両者は空間的に離れて立地していることから︑遺骸への穢れ意識が伺える︒浦井正明氏によれば︑将軍の葬儀や埋葬には現将軍は立ち会わず︑また︑天皇家同様に将軍の葬儀が夜儀であることも︑参道に白布をひくことも︑何れもそれは遺骸の穢れを避けるためであったとする︒また︑上野寛永寺でも︑将軍墓は霊拝所と宝塔とに分かれ︑将軍であっても宝塔の区域には足を踏み入れることはなかったという
たことは崇源院の葬儀にもそのまま当てはまることから︑遺骸︵遺骨︶に対する穢れ意識が存在したことは確実であ ︒同氏が述べ 23
る︒﹃徳川実紀﹄寛永三年一〇月一八日条における崇源院の葬儀の描写にあって︑﹁行列は一番大松明﹂︑葬列が通る沿道の﹁両方に燭をかゝぐ﹂とあるから夜儀であり︑﹁御寺︵増上寺︶より此所︵麻布の茶毘所︶まで千間が間︑こ
もの上に白布十反をしき﹂と参道に白布をひかれており︑また︑秀忠・家光共に葬儀には参加していない︒彼女の場合も浦井氏の所説と同様な形で葬礼が執行されたのであり︑そこに遺骸︵遺骨︶に対する穢れ意識の存在が認められ
よう︒また︑﹁江戸図屏風﹂にあっても︑また天保五・七年︵一八三四・六︶刊行の﹃江戸名所図会﹄にあっても︑増上
寺を鳥瞰的に描いた図はいずれも南廟を中心に︑諸伽藍の描写に意を注いでいる︒それに対し︑北廟の︑とりわけ歴代将軍及びその家族の宝塔が立てられた箇所についてはいずれも雲・霞で覆う等により︑描写すること自体を避けて
いる︒遺骸︵遺骨︶に対する忌避意識が一般的でもあったことが伺える︒そうであるなら︑霊拝所と宝塔は建設・造立当初よりそれぞれ離れた箇所に設けられたと解釈する内藤説の方に賛意を表したい︒両者を空間的に隔てる必然性が近世初頭より存在していたのである︒そしてそのまま戦災で焼失するまで︑南廟に霊拝所︑北廟に宝塔が設けられ続けたことになるのである︒次に田辺説②であるが︑そもそも崇源院霊拝所を徳川忠長が建立したとする根拠が不明という問題がある
詣していたことから︑むしろ彼は同所に深い敬仰の念をさえ抱いていたことが読み解けるのである 一四年間︑破却をしなかったのか︑その理由が判然としない︒家光は忠長死去後にあっても崇源院礼拝所を何度も参 あった為め家光は快しとせず﹂であるのであれば︑何故に忠長死去から再造営を行う正保四年︵一六四七︶までの約 建の理由は︑将軍家光と弟忠長との確執による感情に基づくもので︑寛永五年の最初の造営が︑忠長によるもので 光と政治的に対立して失脚し︑寛永一〇年︵一六三三︶に自刃する︒もし︑田辺氏が説くように﹁正保四年霊牌所再 ︒彼は家 24
永期の旧霊拝所の建物は鎌倉建長寺に移築された 設・建立された︒霊拝所については正保三年九月頃に造り変えに着手し︑翌正保四年三月には新霊拝所が完成し︑寛 に増上寺南廟の敷地に彼女の位牌を安置した霊拝所が︑北廟の敷地に彼女の火葬骨を納めた宝篋印塔がそれぞれ建 以上を前提として︑崇源院墓石を巡る経緯をまとめると︑次のとおりとなる︒崇源院の死後︑寛永三~五年頃の間 ︒ 25
籠が損壊し︑慶安元年︵一六四八︶五月に家光は造り変えを命じた ︒宝篋印塔については正保四年の地震により︑その周囲の石垣や燈 26
四年年五月一八日条に﹁こたびの地震にて台徳院殿︑崇源院殿御墓辺の石垣并石灯倒傾せしかば修治すべしと︒ ︒﹃徳川実紀﹄から該当箇所を引用すると︑正保 27
其奉行を八木勘十郎守直︑高木筑後守正次に命ぜらる﹂︵傍線筆者︑以下同︶︑慶安元年五月一四日に﹁崇源院殿宝塔改造の奉行を小姓組仙石右近久邦︑書院番石尾七兵衛治昌に仰付らる﹂とある︒そのことで︑これまでの宝篋印塔は地下に埋められ︑その上に本稿冒頭で触れた八角堂形の石製宝塔が建立されたということになる︒その完成時期の詳細は不明であるが︑後に挙げ
る理由から同年中には完成していたと考えられる︒
それでは何故︑正保四年~慶安元年にかけてという時期
に霊拝所や宝塔の再建設がなされたのであろうか︒田辺説②のように家光と忠長の不仲に帰すべき問題でないとすれ
ば︑如何なる理由が想定し得るのであろうか︒本問題を解
くにあたり︑両施設とも彼女の菩提を弔うためのものとい
う目的があることを念頭に置けば︑慶安元年は徳川秀忠一
表1 17世紀初~中期における江戸近郊での大規模地震一覧
年代 震度 マグニチュード
元和元年(1615)6月1日 5強 6 1/2
元和2年(1616)4月9日 4 7.0
寛永4年(1627)1月21日 5強
寛永5年(1628)7月11日 5弱 6.0
寛永7年(1630)6月24日 5弱 6 1/4
寛永10年(1633)1月21日 4 7.0
寛永12年(1635)1月23日 5弱 6.0
寛永20年(1643)10月26日 4 6.2
正保2年(1645)11月15日 3
正保4年(1647)5月14日 5弱~5強 6.5
慶安元年(1648)4月22日 4 7.0
慶安2年(1649)6月20日 5強 7.0
慶安2年(1649)7月25日 5弱 6.4
万治元年(1658)4月3日 4
万治2年(1659)2月 4 6.875
寛文2年(1662)5月1日 3 7.425
寛文7年(1667)7月3日 3 6.2
寛文8年(1668)7月21日 3 5.9
※ 宇佐美龍夫編『わが国の歴史地震被害一覧表(改訂版)』
(日本電気協会、2010年)に基づき作成。
七回忌であると同時に︑徳川家康の三三回忌︑崇源院二三回忌に当たっていたことは注目される︒同年には大規模な恩赦が実施され︑幕府の﹁仁政﹂を全国に知らしめる絶好の機会であった
︒ 28
かかる事情にあったために︑当時の幕府にとって︑年忌法要は確実に成功させなければならなかったといえよう︒先述のと
おり慶安元年五月一四日に崇源院の宝塔の再造営を家光は命じているが︑ほぼ同じ時期の同年五月二二日に﹁松平伊豆守信綱并に松平出雲守勝隆に︑この九月 崇源院殿廿三回により︑万部の御法会行はる︒その総奉行命ぜられ︑伊丹康勝入道順斎も
その事沙汰すべしと仰付らる﹂︵﹃徳川実紀﹄︶としている︒このことから︑彼女の宝塔の再造営と年忌法要の準備とは一体の下に進められたと見做し得るのである︒霊拝所の再建設も同じ事情によるものであろう︒結果として同年九月五日に﹁崇源院殿廿三年の御法会明日より行はる﹂︑同二二日に﹁三縁山万部御法会結願によて︑ 崇源院殿霊牌所に詣給ふ﹂︵﹃徳川実紀﹄︶とあり︑これら諸事業は幕府の当初の目論見とおり︑無事に終了したことになる︒以上か
ら︑法会が実施されるまでには︑遅くとも慶安元年八月下旬までには新宝塔︵八角堂形宝塔︶が完成していたと結論づけられるのである︒
それでは︑慶安元年の再造営の際︑寛永期の宝篋印塔は何故︑地下に埋められなければならなかったのであろうか︒既に引用した正保四年五月に︑地震により宝塔周辺の石垣等が破損したという事実に注目すると︑当該期前後は
表2 5年ごとの地震件数一覧
年代 地震件数
1614~1619 2
1620~1624 0
1625~1629 2
1630~1634 2
1635~1639 1
1640~1644 1
1645~1649 5
1650~1654 0
1655~1659 2
1660~1664 1
1665~1669 2
際立って大規模地震が多発していることに気付くのである︒阪神・淡路大震災のマグニチュードは七・三であり︑これを基準に近世初頭におけるほぼ同規模の大地震を表
1としてまとめ︑その件数を五年ごとに集計したのが表
2であ
る︒一見して明らかなとおり︑他の年代は〇~二件程度であるのに対し︑宝塔や霊拝所を再造営した一六四五~九年の間は五件と突出して大規模地震の回数が多いのである︒表には掲出し得なかったが︑小規模地震も含めれば︑その数はもっと増えるであろう︒前近代の東アジアの政治思想として︑大規模災害が発生するのは︑天が為政者の悪政を懲らしめるためと見做す﹁天人相関﹂という考え方が存在した︒現代社会のように災害を純粋な自然現象と捉えるの
ではなく︑そこに人間社会の政治の問題を密接に関連づけて解釈する考え方である
鎮め・地震や疫病流行の被害からの救済・雨乞いとさまざまな時に造立された 中世期にあって石塔を建立したのは︑死者の菩提を弔うための他︑﹁納経・病気の平癒・天下国家の安泰・悪霊の 相次いで発生したのは︑徳川幕府の政治に問題があるからと人々に観念される危険性があったということになる︒ ︒したがって当時︑大規模地震が 29
﹂のである︒前節に試訳として提示し 30
たとおり︑崇源院の墓石碑文には彼女の菩提を弔いながら︑鎮護国家の願いをこめて造立されたものであるとした︒だが︑もしそれが大地震の発生によって倒壊すれば︑それは幕府安泰のシンボル的意味合いが反転し︑幕府の悪政ぶ
りに対する天譴であることを証拠だてるものとなる可能性があったのである︒冒頭で論じたとおり︑この宝篋印塔は五メートルを超える大きさであったことから︑構造的な安定性という側面においては難があったのであろう︒表
1・ 首脳陣の間には存在していたに相違あるまい︒ 2のとおり︑当時は大地震が頻発していたから︑宝篋印塔倒壊という事態は十分に起こり得るものとする見解が幕府
そこで家光を中心とした幕府首脳陣は︑右述の事態を未然に防ぐため︑安定性を欠く宝篋印塔を自ら解体して地下に埋め︑その上部に代わりとして三メートル程度と比較的丈が低く
︑構造的にも安定した形である八角堂形の宝塔を 31
建立したと考えられるのである︒さらに︑宝篋印塔と宝塔を比較すると︑前者は全体に金箔が貼られた華麗な外観であったのに対し︑後者は石材そ
のものの意匠による地味な外観という変化をきたしている︒これは寛永一八・一九年︵一六四一・二︶の大凶作︑それに伴う同一九・二〇年︵一六四二・三︶の大飢饉により︑全国的に人民が疲弊していたことと関係するものと考え
られる
国観の形成に迫られていた る必要性があったことから︑外国︵特にキリシタン国︶との戦争を視野に含めながら︑徳川家康を中心とした日本神 態に対応するために︑また︑﹁過去の弾圧を正当化して百姓らを宥め︑新たな対抗勢力を再設定して国内結集を遂げ﹂ 寛永期後半頃の徳川家光の政治課題は︑明から清へと交代する﹁華夷変態﹂という東アジア秩序の大変動という事 政﹂を象徴的に示すものとして︑それに相応しいものとしてあえて質素な造りに変えたということになるのである︒ 豪華・華麗な意匠のものを建造することに対し︑遠慮意識が働いたものと思量されるのである︒先述した幕府﹁仁 ︒飢饉による疲弊への対応として幕府としては積極的な倹約策を励行しなければならない状況においこまれ︑ 32
当該期は寛永の大飢饉が発生したことで全国的に人民の疲弊は極度に達し︑幕政に対する反発から社会不安も絶え ︒ 33
ず︑実際に家光から家綱への交代期には慶安事件をはじめとした社会的事件が発生している︒これらは対応を誤れば容易に幕府の存亡にもかかわる政治問題に発展し易い危機的状況下にあったのであり︑その対応策の一環として︑崇源院墓の改造も位置付けられるといえよう︒なお︑本稿では論じきれなかったが︑崇源院墓は様々な意味で過渡期的存在であり︑後の確立された葬制からみれ
ば︑異例な点が多い︒一例として︑一七世紀末頃から武家上層においては土葬が主流となるが︑彼女は火葬である︒墓石碑文にしても︑後代には彼女のような願文的なものはなくなり︑年代と被葬者の名前や略歴の記載となる等︑定
型化・簡易化が進展する︒高さも五メートルを超える巨大なものは姿を消し︑丈が低くなる傾向にある︒その背後には葬送儀礼の確立と共に︑死生観の変化も横たわっている
略を説明すると︑次のとおりとなる 最後に︑そもそも何故︑増上寺にあった崇源院の墓石が山梨県恵林寺境内に伝わったのであろうか︒その経緯の概 要な事例になると考えられる︒ ︒崇源院墓石の研究はこうした問題を解き明かす上でも重 34
恵林寺に現存していた崇源院墓石もこうした一連の経緯の中から一九六八年に譲られ︑同寺境内に石塔等と共に搬 部分を残している︒ られていったのである︒その際の記録が必ずしも十分だった訳ではなく︑どこに譲られたのかは現在でもなお不明な ︵一九七五~︶からこれら石塔類の大量放出がなされ︑その大部分が関東を中心とした全国の寺院や希望者に引き取 ︵一九七九年完成︶の整備により︑膨大な石塔類を保管することが物理的に困難となったため︑昭和五〇年代初頭頃 西武園に移されたこれら墓石・燈籠類は︑希望者にはその一部が分け与えられていた︒その後︑所沢の西武球場 族の宝塔と共に︑地下から発掘された崇源院の墓石も一括して搬送されたのである︒ 最終的にそれらは西武鉄道に引き取られ︑所沢の西武園に移されることとなった︒その際に︑解体された徳川将軍家 あって︑将軍とその一族が死去した際に全国の諸大名から献燈されたもので︑およそ一千基以上もあったとされる︒ 再開発にあたり問題となったのは増上寺にあった膨大な石燈籠の保管場所についてである︒石燈籠とは江戸時代に 寺徳川家墓所の学術調査もその一環として実施されたものであったのである︒ 再開発計画が西武鉄道によって立案された︒そのことに伴い︑将軍墓の改葬がなされた︒本稿冒頭にて紹介した増上 一九六四︵昭和三九︶年の東京オリンピック開催を控え︑かつての増上寺寺域の一部にホテル建設をはじめとした ︒ 35
送された︒現在確認される限り︑恵林寺境内には一三基の宝塔と徳川将軍墓の石材類が存在する︒本稿で論じた崇源院の墓石は︑一部を除き︑一般にはそれが彼女の墓石と知られることもなく︑時間の流れの中で︑その歴史的価値は忘れ去られていった︒江︵崇源院︶の生涯は数奇を極めたが︑彼女の墓石それ自体も不可思議な縁に導かれながら流浪を重ねたのである︒昭和三〇年代に増上寺の地下から掘り出されてからは所沢に︑さらに山梨県の恵林寺に移され
たという変転の経歴をたどったのである︒だが︑彼女の墓石の長かった旅もここでようやく落ち着くこととなった︒二〇一五年に墓石は信玄公宝物館内に搬送されて︑常設的に展示がなされるようになり︑一般の人々に広く公開されるようになったのである︒あわせて学際的な調査が実施され︑学術的視点から光が当てられたことで︑広く注目を集めるようになった︒これを契機に様々な観点から崇源院の墓石について︑ひいては当時の徳川将軍の葬送儀礼や死生観の在り様について調査・研究が進むことを願ってやまない︒
註
NHKプロモーション︑二〇一一年︑以下﹃図録﹄︶等︒ 1福田千鶴﹃江の生涯﹄︵中公新書︑二〇一〇年︶︑﹃二〇一一年NHK大河ドラマ特別展江~姫たちの戦国~﹄︵NHK・ 2﹃図録﹄
の主催者﹁ごあいさつ﹂より引用︒
を参照︒ 寺については﹃港区考古学ブックレット3港区の江戸時代Ⅱ台徳院霊拝所跡の考古学﹄︵港区教育委員会︑二〇〇九年︶ 3鈴木・矢島・山辺編著﹃増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体﹄︵東京大学出版会︑一九六七年︑以下﹃報告書﹄︶︑その他増上 4鈴木尚﹃骨は語る徳川将軍家・大名家の人びと﹄︵東京大学出版会︑一九八五年︶九四~六頁参照︒
と記すのは︑当該稿に拠る︒本共同研究の成果は恵林寺を会場に﹁恵林寺講座﹂として次のとおり一般公開がなされた︒い 5小野正文﹁崇源院の石棺﹂︵﹃第二回恵林寺講座﹄信玄公宝物館︑二〇一五年︶参照︒以下︑文中において﹁小野正文氏の調査﹂
ずれも貴重な報告内容であり︑本稿執筆にあたり有益な示唆を受けた︒〇第二回恵林寺講座 二〇一五年五月一七日・小野正文氏﹁崇源院の石棺﹂・髙橋 修﹁再発見にかかる崇源院墓石の碑文考﹂〇第三回恵林寺講座 二〇一五年一〇月三一日・松原典明氏﹁近世武家社会の女性の墓﹂・西海真紀氏﹁崇源院と甲州﹂右の他︑筆者は同年三月二八日に実施された二〇一五年度山梨郷土研究会第一回例会︵於 山梨県立図書館︶の場において﹁再発見にかかる崇源院墓石の碑文考﹂とし口頭報告を行った︒本稿はこれら口頭報告とその際の会場との質疑応答︑また︑その後の調査研究の知見を基にまとめたものである︒
の世界﹄︵二〇一三年︶︑大名墓研究会編﹃近世大名墓の成立﹄︵雄山閣︑二〇一四年︶等参照︒ 6例えば︑松原典明﹃近世大名葬制の考古学的研究﹄︵雄山閣︑二〇一二年︶︑坂詰・松原編﹃季刊考古学・別冊二〇近世大名墓 7﹁
無量寿経﹂については粂原勇慈氏より御教示をいただいた︒記して謝意を表する次第である︒以下︑浄土三部経については︑中村・早島・紀野訳註﹃浄土三部経﹄上・下︵岩波文庫︑一九六三・四年︑以下﹃岩波文庫版﹄︶︑渡辺照宏﹃お経の話﹄︵岩波新書︑一九六七年︶︑坂東性純﹃浄土三部経の真実﹄︵日本放送出版協会︑一九九五年︶参照︒
8﹃ 岩波文庫版﹄の訳を基にしながら適宜︑﹃日本思想大系 法然 一遍﹄︵岩波書店︑一九七一年︶での諸注釈も挿入して掲出した︒ 上︑一八七~八頁に掲載︒ 9章の名称は﹃岩波文庫版﹄訳註者が付したもので︑本稿も説明の便宜のためにそのまま引用する︒北面の句は﹃岩波文庫版﹄
10阿満利麿訳・解説﹃選択本願念仏集﹄︵角川ソフィア文庫︑二〇〇七年︶五九頁︵訳文︶・一八八頁︵引用文︶参照︒
11東面の句は﹃岩波文庫版﹄上︑二二七頁に︑訳は一二〇頁に掲載︒
12 高橋美由紀﹃伊勢神道の成立と展開増補版﹄︵二〇一〇年︑ぺりかん社︶第一章第一節参照︒
13松平英男編﹃葵のふるさと松平郷﹄︵松平郷文化財保存会︑一九九三年︶三五頁参照 14曽根原理﹁増上寺における東照宮信仰﹂︵井上他編﹃近世の宗教と社会﹄二︑吉川弘文館︑二〇〇八年︶参照︒
15南面の句は﹃岩波文庫版﹄上︑二三七頁に︑訳は一三二頁に掲載︒
16 註8﹃日本思想大系法然一遍﹄所収︒
17註 威﹄岩波書店︑二〇〇二年︶参照︒ は大桑斉﹁徳川将軍権力と宗教﹂︵網野・樺山・宮田・安丸・山本編﹃岩波講座天皇と王権を考える第四巻宗教と権 14曽根原前掲︒徳川家康をはじめ松平氏歴代を慈悲の君主とし︑さらに家康を阿弥陀仏とする神話が形成されたことについて
18﹃大本山増上寺史
本文編﹄第二編三参照︒
19﹃増上寺史資料集﹄一︑一八五~六頁に掲載︒
20 田辺泰「崇源院霊牌所私考」(『建築学会論文集』一、一九三六年)参照。
21 内藤昌﹃江戸図屏風別巻江戸の都市と建築﹄︵毎日新聞社︑一九七二年︶九九頁参照︒
22 同屏風の成立年代については黒田日出男﹃王の身体王の肖像﹄︵平凡社︑一九九三年︶第二部参照︒
類に属するとしている︒崇源院の場合もこのB類に該当する︒ の大名墓の上部構造分類によれば︑豊臣秀吉から徳川七代将軍までは埋葬のための墓域と拝殿が別造りとして区分されるB 23浦井正明﹃上野寛永寺将軍家の葬儀﹄︵吉川弘文館︑二〇〇七年︶七三~四・八〇~三頁参照︒なお︑註6松原前掲︵第一章︶ ︵寛永五年︶九月十一日 駿河大納言 上聞︑於当地者御仏事可執行候由︑御意ニ付而︑無其儀候︒然者︑三枝伊豆守差遣候︒委細口上ニ申含候︒恐々謹言 一筆令啓候︒仍於貴寺万部被仰付候由︑御苦身共候︒内々我等も可参候由︑存候処ニ︑崇源院様御玉屋申付候儀︑達 る︵﹃図録﹄一四一頁収載︶︒ 24徳川忠長が崇源院霊拝所を建設したとする根拠について︑管見の限りでは次の徳川忠長書状︵群馬・大信寺文書︶が想定され得
忠長︵花押︶
増上寺床下右資料文中の﹁崇源院様御玉屋申付﹂を増上寺の崇源院霊拝所建設と解釈したことで︑右の所説が流布したと考えられる︒だが︑祐天寺所蔵にかかる崇源院の位牌を納める宮殿の発見により︑右の資料は増上寺ではなく︑忠長の領国である駿河国内で崇源院霊屋を家光に無断で建立したことに対し︑勘気を被ったものと解釈されるようになった︵﹃図録﹄一六七~九・二一八頁︑齋藤慎一氏執筆担当︶︒したがって︑本資料は︑増上寺の霊拝所を忠長が建立したとする根拠にはなり得ないことになる︒
25註 18前掲一八七~九頁
参照︒
26神奈川県教育委員会編︵関口欣也氏執筆担当︶﹃神奈川県文化財図鑑建造物篇﹄︵一九七一年︶五五~六一頁参照︒
27註 20田辺前掲︑註
21内藤前掲︵一〇一~二頁︶によって既に指摘されている︒ 28谷口真子﹁恩赦をめぐる幕府権威と仏教世界﹂︵井上・高埜編﹃近世の宗教と社会﹄二︑吉川弘文館︑二〇〇八年︶参照︒
三五︶に仙台藩領内で大地震・大水害が発生した際︑それを当時の藩主伊達斉邦の失政への天譴とする捉え方が藩内に存在 二〇一二年︶第三章参照︒佐藤大介﹃少年藩主と天保の危機﹄︵大崎八幡宮︑二〇一七年︶第二章によれば︑天保六年︵一八 29 笹本正治﹃中世の災害予兆﹄︵吉川弘文館︑一九九六年︶一七二~三頁︑中島隆博﹃悪の哲学中国哲学の想像力﹄︵筑摩選書︑
したという︒﹁天人相関﹂は一九世紀に至ってもなお根強く存在した政治思想であったことが窺える︒ 30 水藤真﹃中世の葬送・墓制﹄︵吉川弘文館︑一九九一年︶六九~七〇頁より引用︒
31﹃
報告書﹄には崇源院宝塔の規模に関する計測値が掲出されていないため︑正確な数値は不明である︒ただ︑天英院︵六代将軍徳川家宣室︶の宝塔は崇源院のそれと﹁同じ形につくられている﹂ことから天英院宝塔の高さ三四〇センチという計測値が崇源院の場合にもある程度︑適用されるものと捉え︑本文のとおりとした︵﹃同﹄六三・八九頁︶︒
32 藤田覚﹁寛永飢饉と幕政︵一︶︵二︶﹂︵﹃歴史﹄五九・六〇︑一九八二・三年︶参照︒
33 野村玄﹃日本近世国家の確立と天皇﹄︵思文閣︑二〇〇六年︶第一部第一章参照︒引用は四四頁より︒ 34以上︑註6前掲諸稿参照︒
ては註 地への移設について﹂︵﹃甲斐﹄一〇九︑二〇〇五年︶を︑崇源院墓石をはじめ恵林寺境内にある石塔類の移設の経緯につい 三︑二〇〇五年︶を︑山梨県内のそれについての詳細は深澤喜延﹁東京・芝・増上寺徳川家霊拝所由来石灯籠の山梨県内各 二〇〇五年七月号︶を︑増上寺石塔の所在に関する調査・研究は伊藤友己﹁増上寺石燈籠群の考察﹂︵﹃東村山市史研究﹄一 35以下︑次の諸稿に拠る︒増上寺石塔類の全国流出の経緯は﹁浄土宗大本山増上寺の石燈篭一千基は何処へか﹂︵﹃寺門興隆﹄
増上寺石燈籠類の所在調査を全国的規模で丹念に実施し︑その成果を﹁増上寺の石灯籠﹂という 5前掲小野正文氏の調査︑深澤勇編・発行﹃美天ござる﹄︵二〇〇六年︶をそれぞれ参照︒なお︑右の伊藤友己氏は
HPサ イトにおいて随時︑更新しながら発表している︵http://tourou.information.jp/︶︒
キーワード崇源院︵江 徳川秀忠夫人︶︑増上寺︑宝篋印塔︑恵林寺︑信玄公宝物館