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大同市南郊平城遺跡出土青銅葡萄童子装飾高脚杯

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著者 石渡 美江 著者別表示 Ishiwata Mie

雑誌名 ヘレニズム〜イスラーム考古学研究

巻 2020

ページ 55‑68

発行年 2020‑12‑31

URL http://doi.org/10.24517/00061639

(2)

大同市南郊平城遺跡出土青銅葡萄童子装飾高脚杯

Stem cup with grapevine and human figures excavated from Datong

石渡 美江 Mie Ishiwata

はじめに

大同市南郊工農路北側の平城遺跡は、文化大革命中の1970年大同市博物館によって 発掘され、この遺跡から大型の礎石や筒瓦、石臼などが出土していて、かなり大きな建物 があったことが、報告されている(1)。平城遺跡の出土遺物の中には、海獣文八曲長杯、

青銅草花人物装飾高脚杯、青銅葡萄童子装飾文高脚杯、人物メダイヨン植物文碗、などの 多くの銀器や青銅器があった。これらの銀器や青銅器について、夏鼐はササン朝ペルシア や東ローマの銀器の風格をそなえているとされている(2)。

平城遺跡からは大型の礎石や同じ遺跡から出土した浮彫人物文硯が、大同市で1965 年に発掘された司馬金龍墓から出土した四点の石彫柱礎の文様と似ていることから、銀器 や青銅器も5世紀中頃のものであると考察している(3)。従って、この遺跡は、北魏の 洛陽遷都以前の遺跡であるとしている。平城遺跡から出土した資料のうち浮彫人物文硯は、

5世紀中頃のものであると思われるが、銀器や青銅器の年代は、必ずしも遺跡の年代と一 致しない。銀器や青銅器は宝器として集められたものもあり、人物メダイヨン植物文碗や 海獣文八曲長杯のように遺跡の年代と同時代のものもあるが、それより以前のものも含ま れている。

一方、この他に中国で南北朝時代に発掘された西方銀器や青銅器を見てみると、大同 市小站村圪塔封和突墓出土狩猟文銀皿(3-4世紀)、大同南郊107号墓出土人物メダ イヨン植物文碗(5-6世紀)、甘粛省靖遠出土葡萄 ・ 人物文銀皿(3世紀)、青海省西寧 市上孫家村上孫家塞墓地出土銀杯(3世紀)固原市李賢墓出土人物文水差(5-6世紀)、

新疆ウイグル自治区焉耆県出土駝鳥文銀皿(5-6世紀)(4)などがあり、年代も製作 された地域も異なる物であることがわかる。これらと同様に平城遺跡の銀器や青銅器も文 様や製作された地域、年代が一定ではなく、それらを詳細に考察する必要がある。また、

これらの銀器や青銅器は隋唐銀器に先立つ資料であり、南北朝時代の東西文化の交流を示 す資料として、深い意義を持つものである。

孫陪良は青銅葡萄童子装飾高脚杯が発掘された1970年代に発表された当初大英博物館 に所蔵されている葡萄唐草文壷(6-7世紀)の文様が似ていることから、青銅葡萄童子 装飾高脚杯もササン朝ペルシアの銀器の文様によく似たもので、イラン東部のホラサーン

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であるが、来原はわからないとしている(5)。また、孫危は、葡萄と童子についてギリ シアから始まり中央アジアに伝わったものであるとし、バクトリアの酒神バッカスに関連 していて、パルティアの時期に東イランで盛行したものであると考察している。その例と してアフガニスタン、シバルガンのティリア・テペ遺跡から出土したエロス像を挙げてい る(6)。

一方、1980年代には、K,パルラスカが青銅葡萄童子装飾高脚杯の装飾と器形は、帝 政ローマ初期の銀器と類似していることを指摘している(7)。ただ、この時代には、展 覧会などに青銅葡萄童子装飾高脚杯が出品されていても、童子の葡萄収穫図の面だけが展 示されていたので、文様の全体を知ることは出来なかった。

2000年代になると、青銅葡萄童子装飾高脚杯については、B.マルシャークと稲垣肇が 考察している。B.マルシャークと稲垣肇は、青銅葡萄童子装飾高脚杯について、胴部の 鳥を伴う葡萄唐草文に円文を伴う文様は、ディオニューソス信仰に起因し、ローマ末期の 葡萄収穫図の文様に相当するとしている。また、羊に乗る童子や羊を担ぐ童子は、キリス ト教徒に喩えた良き羊飼いの寓意であるとしている。そして、両氏ともこの青銅葡萄童子 装飾高脚杯をバクトリアで製作されたものであるとしている(8)。B.マルシャークは、

アレキサンドリアにあるギリシア・ローマ美術館に所蔵されているローマ時代の銀器の図 像を、4世紀頃に青銅葡萄童子装飾高脚杯の図像としてバクトリアで模造されたものであ るとしている(9)。しかし、同様の銀器あるいは青銅器は、バクトリアで出土した例が 見られない。

今回の発表では、青銅葡萄童子装飾高脚杯について図像を精査し、図像の年代や意義、

どの地域で製造されたのかを考察する次第である。

1.青銅葡萄童子装飾高脚杯について

青銅葡萄童子装飾高脚杯は、高さ11.5cm、口径9.6cm、脚径5.4cmで、胴 部や脚部などに鍍金がされている。器形はカンタロス杯の把手を取ったもので、胴部が少 し伸びている。口縁部下には、円形に刻みを入れた連続文を、胴部と底部を繋ぎの部分に は硬化したアカンサスの連続文を装飾し、底部の膨らみを帯びた部分には別のアカンサス を配し、脚部には硬化したアカンサスで装飾している(図1)。底部の膨らみを帯びた部 分には別のアカンサスは、パルミラから出土したアーチの断片やレプティス・マグナの天 井の断片の装飾に用いられている。

胴部には、葡萄の樹の枝が上下に絡まり唐草文を形成し、絡まった唐草文の間に5面の メダイヨンを作り、その中に葡萄を収穫するエロスを3面に挿入し、残りの2面に山羊に 乗るエロスと羊を担ぐエロスを挿入している(図2、3)。

孫陪良、孫危の両氏は葡萄を収穫するエロスを、ギリシア起源にして、バクトリアの酒 神と関係があり、このような風俗が盛行しているのはパルティアの時期のイラン東部ホラ サーンであるとしている(10)。そして、大英博物館所蔵の葡萄唐草文壷を例に挙げて(6

世紀)、大同の青銅葡萄童子装飾高脚杯の文様と似ているけれど、その来原は解らないと

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している。ただ、文様の細かい分析はしていない。中国では、この青銅葡萄童子装飾高脚 杯をササン朝ペルシアで製作されたものとして扱われてきた。

 一方、前述のようにK,パルラスカが青銅葡萄童子装飾高脚杯の装飾と器形は、帝政ロー マ初期の銀器と類似していることを指摘している(11)。また、B.マルシャークと稲垣 肇は青銅葡萄童子装飾高脚杯をローマ末期の文様であると指摘して、製作地をバクトリア であるとしている(12)。このように文様や製作地をササン朝ペルシアのホラサーンや バクトリアにしているが、イラン東部やバクトリアではこのような杯の出土例が今だかつ て見つかっていない。

2.各地から出土した葡萄唐草文装飾の銀器

 まず、葡萄唐草文と人物の文様を各地から出土した銀器等を挙げて見ることにする。葡 萄唐草文と人物、動物などを装飾した銀器や青銅器の出土例は非常に少ない。それは銀器 や青銅器が日常生活品であると同時に宝器的なものであり、持ち主が変わることなどに よって鋳潰されることなどがあり、土器のように大量に出土することが少ない。

 エジプト、アレキサンドリア美術館(グレコ・ローマ美術館)所蔵の人物葡萄唐草文杯

(1世紀)は、台付きのコップのような器形の杯に、葡萄唐草文を4面S字状に配置して、

上の場面にディオニューソスが右手にテュルソスを持ち、左手にリュトンを掲げ、サチュ ロスが双管アウロスを吹いている。下の場面ではエロスが葡萄を収穫している。次の場面 では上下ともエロスが葡萄を収穫している。3面では、上に収穫した葡萄を背負人物、下 にはエロスの葡萄収穫が描かれている。4面では、上に3人の人物が桶の中で葡萄を踏ん で、下で2人のエロスが壷の中に葡萄ジュースを受けている(13)。

 また、中国甘粛省靖遠出土の鎏金銀盤(3-4世紀)(図4)には、銀盤の内側を外周、

内周、中心の部分に区切り、外周部分に16組の葡萄唐草文をS字状に配置し、その中に 蜜蜂、鳥、イナゴ、蝸牛、蜥蜴、蠍、鳥、昆虫、爬虫類などを挿入している。内周には、

12人の人物胸像を配し、中心部分に青年のディオニューソスがテュルソスを持って獅子 図1.青銅葡萄童子装飾高脚

杯 大同出土

図2.山羊の乗るエロス 図3.羊を担ぐエロス

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の背中に乗っている。この銀器はクシャーン朝やクシャーノ・ササン朝のギリシア文字の 銘文が書かれているために、バクトリアで製作されたものとしているが、筆者は東地中海 沿岸地域で製作されたと考えている(14)。

 1931年にエール大学とフランス・アカデミーによるシリア、ドゥラ・ユーロポスの 合同調査で、葡萄唐草文の小さな銀壺が発掘された。葡萄唐草文銀壺(3世紀)は、首の 長い小さな壷で、頸部分にアカンサス唐草と花の咲いている植物を配し、肩から胴部にか けて葡萄唐草の中の枝の下に、女性4人と男性5人のディオニューソスのマスクを挿入し ている(15)。

 メトロポリタン美術館所蔵、アンティオキアの聖杯(6世紀)(図5)は台付きの杯で、

内側と外側の二重の容器になっている。外側の容器の口縁部下には、花飾りの連続文を一 周させ、その下の胴部に葡萄唐草文をS字状に配している。S字状の葡萄唐草文の中には 羽を広げた鷲、鳥、蝸牛、イナゴ、子羊、兎などの動物を挿入し、キリストを中心に12 人の人物を挿入している。12人の人物は、古典時代の哲学者のように表され、背もたれ の高いイスに座っている。おそらく、キリストと聖人を表したものであろう(16)。

 次に、ササン朝ペルシアの葡萄唐草文の銀器を挙げてみる。大英博物館所蔵人物葡萄唐 草文壷(5-6世紀)(図6)は、壷の前と後ろにそれぞれ葡萄の樹が左右に枝を広げ、

樹の枝の下に鳥が向かい合っている。上の枝には葡萄収穫する人物、収穫した葡萄を運ぶ 人物、葡萄を食べるジャッカル、尾の長い鳥を配置している(17)。

 テヘラン国立博物館所蔵葡萄唐草文銀壺(6-7世紀)は、大英博物館所蔵の資料とほ ぼ同じ器形で図柄も同じ葡萄の枝であるが、枝の先に葡萄の他に植物の蕾や実がついてい る(18)。

サックラー美術館所蔵の葡萄唐草文円盤(6-7世紀)は中心のメダイヨンの中に鳥を 配し、メダイヨンの上下に葡萄の樹が茂り、その間に葡萄の実を啄むジャッカルと樹の上 にいる鳥を配している。同じくサックラー美術館所蔵の動物葡萄唐草文銀皿(6-7世紀)

図4.葡萄唐草文鎏金銀盤 甘粛省靖遠出土  3―4世紀

図5.アンティオキアの聖杯 メ トロポリタン美術館蔵 6世紀

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は萼のような物から葡萄の樹が二本絡み合って、一本は途 中で左右に分かれ枝を唐草状に広げ、もう一本は上に伸び て左右に唐草状の枝を広げている。葡萄の樹の最上段には 大きなチューリップの花がつき、上段の枝にもチューリッ プの花の側面、真上から見たものを付けている。葡萄の木 の下の左右にアイベックスが前足を樹にかけ、唐草の間に 鳥がいる(19)。

メトロポリタン美術館所蔵、葡萄唐草文長杯(6-7世 紀)は、長杯全体に葡萄唐草文がスクロールしている。ス クロールした枝の先には、葡萄の葉や実、チューリップの 花等が付き、その中に葡萄を啄む鳥、ジャッカルがいて、

中央に葡萄の神(ディオニューソスか)あるいはシレヌス を配している(20)。

図6.人物葡萄唐草文壷 大 英博物館蔵 6-7世紀

メトロポリタン美術館所蔵、葡萄唐草文銀碗(6-7世紀)は、葡萄唐草文の中に葡萄 収穫と葡萄を踏みつけワインを仕込む様子、熊のような動物が葡萄を食べる様子などの他 にスクロールした下枝の上に鳥、兎、鳥の巣などが描かれている(21)。

アメリカ、クリーブランド美術館所蔵の葡萄唐草文銀碗(7世紀)は、壷の中から葡萄 の樹が生えていて、それぞれが左右に枝を広げスクロールしてメダイヨンを作り、その中 に楽器を持った人物、狩猟している人物、格闘技をしている人物などを挿入し、樹の上に鳥、

鳥の巣などを配している。メトロポリタン美術館の資料と同じような構図である(22)。

 葡萄唐草文と人物、動物などを挿入した銀器を挙げてきたが、エジプトやシリアなど の銀器には、葡萄唐草文の中に小動物、葡萄収穫とワイン作り、ディオニューソスやその 仲間、マスクなどが挿入され、キリスト教が盛んになるとキリストや聖人などに取って代 わるようになる。ササン朝ペルシアの葡萄唐草文の銀器は、実や葉などの他にチューリッ プの花莟が付くようになる。兎、鳥などの小動物にジャッカル、アイベックスが挿入され る。葡萄収穫とワイン作りは同じであるが、狩猟、格闘技など東地中海地域と異なったも のも挿入され、地域と時間による異なった特色が見られるようになる。

2.青銅葡萄童子装飾高脚杯の文様について

 前述のように、銀器や青銅器の中には、大同で出土した青銅葡萄童子装飾高脚杯の図像 と同じような図像の容器は見られなかったので、装飾文様を他の資料から見ることにする。

 

A,葡萄唐草文

葡萄の枝や蔓をスクロールさせ、交差させてメダイヨンを形成させる唐草文は、帝政 ローマ時代の建築装飾に見られる。北アフリカのリビア、トリポリの東方にあるレプティ ス・マグナ遺跡は、ローマ帝政時代の皇帝セプティミウス・セヴェルスを輩出した都市遺 跡で、元老院議院、バシリカ、四つの神殿などの建築が建てられた。その一つであるバシ

(7)

リカの柱(2―3世紀)には、下方に大きなクラテールの中から葡萄の樹が生えて左右に 分かれ、途中で交差してメダイヨンを作り、上方に伸びていている。メダイヨンの中には、

下から豹に乗るディオニューソス、葡萄の房をつかむサチュロス、踊るメナド、シレヌス、

裸の女性、パン神、葡萄を摘む大きなエロスなどが表されている(23)。

 レバノン東部のバールベック遺跡のバッカス神殿(2-3世紀)の門の外枠には、葡 萄唐草文に装飾されている。バールベックはフェニキア時代から続いている都市で、紀 元前4世紀に太陽神ヘリオスを祀るようになったので、ヘリオポリスと呼ばれている。ア ウグストゥスの時代にローマの植民都市となり1世紀にユピテル神殿、2世紀にバッカス 神殿が建てられた。バッカス神殿の内陣の入り口の装飾には、葡萄の枝が交差する中にメ ダイヨンを作り、マイナスのような女性やディオニューソス、パン神などを装入している

(24)。

シリアのパルミラ遺跡は、1―3世紀に隊商都市として繁栄し、バール神殿や列柱道路、

凱旋門など多くの建築が作られた。ベール神殿の奉納シーンが彫られた梁には、葡萄唐草 が横にスクロールして、その間に葡萄を啄む鳥を装入している。また、パルミラの地下室 墓のアライネ墓には、6人の家族の饗宴を表している彫刻が発掘されている。饗宴図の中 央人物の衣服には、前面に縦二列に交差する葡萄唐草文に鳥を装入し(図7−1)、袖のカ フスに葡萄唐草文に葡萄を収穫するエロスを装入している(図7−2)。ルーブル美術館所 蔵のヤルハイの胸像は、パルミラから出土した墓の蓋に使用された彫刻で、同じように衣 服の上に羽織るベストに葡萄唐草文に啄む鳥とエロスが描かれている。パルミラはローマ とパルティアの中継ぎ貿易を行っていたので、イラン系民族の衣服を着ているが、文様な どにローマ文化の影響が見られる(25)。

 シリアの東部にあるカナワト遺跡から出土している建物の梁(2-3世紀)の一部は、

現在ルーブル美術館に所蔵されているが、梁の文様はアカンサス葉を中心に配置し、その 左右に一重の葡萄唐草文の中にエロスの葡萄収穫文を装入している。この梁の彫刻はシリ ア東部にあるスウェダ博物館にも所蔵されている。スウェダ博物館の彫刻には、アカンサ ス葉の中に裸の女性像が表されている(26)。

図7-1.葡萄唐草を装飾した衣 服 パルミラ、アライネ墓

図7-2.葡萄唐草を装飾したカフス パルミラ、ア ライネ墓

(8)

 トルコのアンティオキアから出土した「パリスの審判」を描いたモザイク(2世紀)の 周りには、交差する葡萄唐草文を配し、その中に鳥 、 蝗、人物の顔などを入れている(27)。

 北イラクにあるパルティアの要塞都市遺跡であるハトラは、紀元1世紀頃から3世紀に 宗教都市、隊商都市として栄え、3世紀半シャープール一世によって破壊された。中央部 の神殿の聖域から石製の葡萄唐草文浮き彫りが発見されている(28)。この浮き彫りは 部屋の、中央に駱駝に乗った女性を配し 、 その周りに連続して太い葡萄唐草文が配置され、

その上にパンパイプや縦笛、タンバリンなどの楽器を演奏している人物を表している。ま た、ハトラから出土した貴人像の彫刻には、衣服やリュトンなどの文様に葡萄唐草文を装 飾したものがある。

 1世紀にヴェスビオス火山の噴火で地中に埋もれてしまった町ポンペイから出土したカ メオガラスのアンフォーラは、乳白色のガラスをパーツごとに文様を並べ、その上に紺色 のガラスの壷を型にはめて作ったものである。文様は、壷の中から二本の葡萄の樹が生え 左右に分かれ上に伸びていて、その間にバラの花が枝に囲まれて6個並び、上の方で鳥が 止まっている。別の場面では、クリーネに座り、杯をもったエロスと竪琴を奏でるエロス、

その左右に葡萄を収穫するエロスが左右から生えている葡萄の樹に囲まれている。他の場 面では、葡萄を収穫するエロスと葡萄を踏みつけているエロスが描かれている(29)。

 ヴァチカン美術館に収蔵されているコンスタンツァの石棺(4世紀半)には、葡萄唐草 文の中に葡萄の収穫図などが描かれている。コンスタンツァはキリスト教を国教にしたコ ンスタンティヌス大帝の息女で、その石棺は、ローマの北東部にあるサンタ・コンスタン ツァ廟(4世紀半)に安置されたものであった。石棺の文様は側面にスクロールしたアカ ンサス唐草に葡萄の枝がついて、葡萄の実がなっている。スクロールした唐草の中には3 人のエロスが葡萄を収穫していて、その下に孔雀と羊、花綱を持つエロスがいる(図8-

2)。正面には、左右に葡萄の樹が立ち、枝が上に伸びていて、その下で、3人のエロス が収穫した葡萄を踏みつけている(図8-1)。コンスタンツァの石棺が安置されたサンタ・

コンスタンツァ廟の周廊の窮㝫と二つのニッチには、葡萄唐草文の中央に女性の胸像が描 かれ、葡萄唐草の中には鳥が葡萄を啄み、その周りに葡萄の収穫やワイン作りの図が描か れている。

図8-1.コンスタンッアの石棺 ヴァ チカン美術館蔵、4世紀

図8-2.コンスタンッアの石棺 ヴァチカ ン美術館蔵、4世紀

(9)

 ボストン美術館所蔵、ガンダーラ出土の人物葡萄唐草文石版は、縦長の浮き彫りで上部 が壊れている。石版の下から、左右の枝が交差してメダイヨンを作る葡萄唐草文を形成し、

メダイヨンの中に弓を構える男、葡萄を踏む男、葡萄を収穫する男、女の胸に手を触れる 男、リュトンで飲酒する男を表現している。女の胸に手を触れる男、リュトンで飲酒する 男の図像は、仏教寺院の彫刻としてふさわしい図像とは言えない図像であるが、それらは ゾロアスター教の楽園の世界を仏教に持ち込んだもので、最も世俗的な楽園の世界が表さ れたのである(30)。また、他の葡萄唐草文石版には、二本の葡萄の樹を途中で結びメ ダイヨンを作り、その中に孔雀、山羊、鷲、鹿などを配したものがある(31)。

 以上、主に葡萄の樹を左右に分け、交差させてメダイヨンを作る葡萄唐草文や横にスク ロールする葡萄唐草を挙げてきた。このような葡萄唐草文は、北アフリカから中央アジア のガンダーラまで、1-3世紀までに広く伝わり、仏教の東漸とともに5世紀頃に中国ま で伝わっている。ディオニューソスは、動植物の生育を司る豊穣の神であり、葡萄の栽培 と共に酒の神や演劇の神として信仰されていた。交差させてメダイヨンを作る葡萄唐草文 や横にスクロールする葡萄唐草の間に入る動物や人物は、レプティス・マグナのバシリカ の柱のようにディオニューソスやその仲間、葡萄収穫のエロスなど、ディオニューソスの 楽園を表したものが多くあらわされている。しかし、東に伝わって来るに従い、その地域 の楽園の図像や動物が描かれるようになる。3-4世紀になると、キリスト教徒はキリス ト教が公認されるまで、異教徒の図像であるディオニューソスの楽園を表した図像の中に キリスト教の図像を入れるようにしていた。 

B.羊、山羊などの動物

 青銅葡萄童子装飾高脚杯の文様の中には、山羊に乗るエロスや羊を担ぐエロスが描かれ ている。

 羊を担ぐエロスは、青銅器や銀器に同じような図像が見られないので、他の資料の中を 見てみると、石棺や墓の墓誌などがある。

 ヴァチカンのピオ・クリスティアーノ美術館所蔵の善き羊飼いの像(3世紀)は、一匹 の羊を担いでいる若い羊飼いを表した丸彫の彫刻で、左側に小さなバックを襷掛けしてい る(32)。このような像は、異教の羊を担ぐヘルメス像から借用されたものである。同 様な善き羊飼いの像(4世紀)(図9)は、ルーブル美術館などにも所蔵されている。また、

ベラチウスの石棺の墓誌にも、善き羊飼いの像が描かれている(33)。

 ヴァチカン美術館にある善き羊飼いの石棺(3―4紀)(図10)には、葡萄の木の下 で収穫するエロスと共に羊飼いの像が表されているものである(34)。この石棺の図像は、

石棺の中央と左右に羊を担ぐ羊飼いが小さなバックを提げ、羊を追う杖をもっている。た だ、像の立っている台座は、右側の像の台座にバッカスかサチュロスのような顔が向かい 合い、その間にティルソスが表され、左側の像の台座に、シレヌスとサチュロスの顔があ り、間にティルソスが表されている。中央の像の台座には、向かい合うグリフォンが表さ れている。羊飼いの像の間には、右側に大きな葡萄の樹が枝を広げている中に、上段に葡

(10)

の葡萄収穫とワイン作りの石棺(2世紀)は、葡萄の収穫図は前者とほぼ同じであるが、

山羊を引く2人のエロスが表されている(36)。この中でエロスが山羊を引いているのは、

犠牲獣としての山羊であり、山羊が生け贄として捧げられたのである。

 以上、羊を担ぐ羊飼いについては『ヨハネ福音書』『ルカ伝福音書』などに「百匹の羊 を持つ人がいたとする。その1匹がいなくなれば99匹を野原において1匹を見つけ出す まで探すに違いない。それを見つけると大喜びで肩にのせ家に帰ってきて、友人や隣人を 呼び集め、(見失った羊を見つけたから、一緒に喜んで下さい)と言う」と善き羊飼いの ことが記されている。善き羊飼いの図像は、古代末期のキリスト教徒に多く用いられたも ので、キリスト教の天国における死者の魂の憩いを象徴すると考えられている。

 一方、親の山羊の乳で子山羊を煮る儀式は「神になった子山羊が母親と一度一体化する ことによって神話のディオニューソスが冥界の母親のもとに降ったのである」とカール・

ケレーニイは記述している。また、山羊に乗った少年の場面について「山羊に乗った少年 は遊びをディオニューソス神話に昇格し、山羊に乗った少年を小さなディオニューソスに 昇格する場面である」とも記述している(37)。葡萄の樹の下で収穫 、 ワイン作り、犠 牲獣などが描かれる場面は、キリスト教以前のディオニューソス神話に基づく図像で、異 教徒の図像を借りてキリスト教徒を表現している。

3.おわりに

青銅葡萄人物装飾高脚杯はどこで作られたのか。B.マルシャークと稲垣肇がこの青銅 葡萄童子装飾高脚杯を5世紀頃に中央アジアで作られたものであるとしている。しかし、

羊を担ぐ羊飼いの図像は、3-4世紀の石棺や丸堀の彫刻に見られる。それはキリスト教 がローマで公認されていない時期に多く描かれたもので、公認された以後は、次第に描か

図9.善き羊飼いの像 ヴァチカ ン美術館蔵 3世紀

萄収穫のエロス、下段に山羊の乳を搾るエロスと子山 羊を抱くエロスが表されている。この山羊は、親の山 羊の乳で子山羊を煮る生け贄のための山羊である。左 側には、別の葡萄の樹の下で、葡萄収穫のエロスと葡 萄を踏んでワインを作るエロスがいて、その上にワイ ンを飲む男女が表現されている。羊飼い以外の図像は、

ディオニューソスの楽園を表した図像であり、異教の 図像を借りてキリスト教徒の楽園を表現している。

 ローマのパラッツオ・ベネチアにある石棺(2世紀) は、葡萄の収穫とワイン作りの図像が描かれた石棺で ある。左右と中央に生えている葡萄の樹の下で、梯子 に乗り葡萄収穫をするエロス、葡萄を搾るエロス、山 羊を引くエロス、壷を持ち葡萄を持っているエロス、

葡萄を持つプリアモスなどが描かれている(35)。

 カンサスシティ、ネルソン・アトキンス美術館所蔵

(11)

れなくなっていった。石棺やカタコンベの墓誌などは、異教徒のディオニューソスの楽園 の図像を借りてキリスト教徒の楽園を表したものである。

ガンダーラでは、2-3世紀に葡萄唐草文を左右から絡ませてメダイヨンを作り、その 中に動物、鳥、葡萄収穫、ワイン作り、男女の交歓、狩猟などを装入した物が作られてい る。しかし、5世紀頃に作られたササン朝の銀器にも、2-3世紀の図像と同じ図像が見 られるが、犠牲獣の山羊や羊を担ぐ羊飼いなどは見られない。また中央アジアの5世紀頃 の銀器を見ると、ギリシア神話の題材にした図像が見られるが、キリスト教の図像が見ら れない。ササン朝ペルシアの宗教は、ゾアスター教であったが、アルメニアや中央アジア などの一部にキリスト教徒が住んでいた。5世紀末になるとササン朝もネストリウス派の キリスト教を保護したので、ササン朝領内や中央アジアにも布教された(38)。おそらく、

中央アジアでは、羊をキリスト教のシンボルにしていたが、羊を担ぐ羊飼いの図像は見当 たらない。

一方、器形を見ると、帝政ローマの銀器やガラス器などに同じ器形が見られる。しかし、

このような器形の杯は、中央アジアでは出土していない。従って、この青銅葡萄童子装飾 高脚杯は、帝政ローマ時代の東地中海沿岸の地域で作られたものと考えられる。

 では、青銅葡萄人物装飾高脚杯はどのように中国に流入したのであろうか。先に挙げた 研究者は、ササン朝領内を通り中央アジアに入り、5世紀初めに中国に入るルートを挙げ ている。しかし、黒海沿岸からコーカサスを越え、カスピ海を舟で渡り、メルヴに入りア ムダリアを舟で上り、バクトリアに入る「インドへの道」が古くからあった(39)。また、

3-4世紀には遊牧民の東西文化交流も盛んに行われていて、その後も黒海沿岸から草原 地帯を通り東ローマの使節も西突厥に来ているので(40)、その延長として中国に入る ルートも考えなければならない。

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83―-84頁。

2.夏鼐、1973年、「文化大革命中の考古新発見」『文化大革命中の中国出土文物』

図10.善き羊飼いの石棺. ヴァチカン美術館 3ー4世紀

(12)

181頁、朝日新聞社、東京。

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夏鼐、1983年、「北魏封和突墓出土薩珊銀盤考」『文物』第8期、3-7頁。

甘粛省博物館、初師賓、1990年「甘粛省靖遠新出東羅馬鎏金銀盤略考」『文物』第5期、

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出典

図1.『中国・美の十字路』大広(編) 2005年 図2.『中国・美の十字路』大広(編)  2005年

図3.『シルクロード大文明展―シルクロ-ド仏教伝来の道』1988年 図4.『中国・美の十字路』大広(編) 2005年

(15)

図5.図10.田辺理撮影 図6.Demagne.F. et al., 2007 図7.Tanabe.K., 1986, 図8.筆者撮影

図9.国立西洋美術館(編)、1989年、

参照

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