フランス革命における保護主義(3)
その他のタイトル The Protectionism during the French Revolution (3)
著者 吉田 静一
雑誌名 關西大學經済論集
巻 8
号 5
ページ 336‑356
発行年 1959‑01‑20
URL http://hdl.handle.net/10112/15616
出されることなく︑
(3)
一序論ー│問題の輸廓ーー贔
二
﹁ イ ー デ ン 条 約
﹂ と 国 民 的 諸 産 業 三 保 護 主 義 政 策 の 展 開 い一七九一年二月︱二日の新関税率︹以上八巻一号︺
ー一七九三年九月ニ︱日の
たと
え︑
﹁航海条令﹂
その
ステ
ッ︒
フは
︑
革命
11反革命戦争といういわば外 一七九三年三月一日交戦諸国からの輸入禁止令
︹以 上前 号︺
③︱七九三年九月ニ︱日﹁航海条令﹂
四
﹁ 大 陸 制 度
﹂ へ の 展 塑
︹以 上本 号︺
これまでのところで︑われわれは︑すでにみてきたー│'経済的自由主義のイデオローグ・ジロンダンの政権のも
( 5 3 )
とにあっては︑革命の当初より国民的生産者層によって要求せられていた保護主義政策は︑現実の政策としてうち
ステップそのための﹁欠くべからざる一段階﹂として後代の歴史家によって評された英仏通商条
約の破棄が︑ジロンド政権のもとにおいてなされたにしても︑
的衝撃に促発されてのみ︑ふみ出されたものであった︑ということを︒保護主義政策その極点としての﹁航海
︑︑︑︑︑︑︑︑条令﹂が︑現実の課題として日程にのぽりはじめるためには︑九三年五月三一日1六月二日のジロンダン追放を契
(2)
吉
フ ラ ン ス 革 命 に お け る 保 護 主 義 ( ‑
︱ ‑
︶
田
静
゜
らなかったし︑五月二九日︑フランス共和国の状態に関する報告のなかで︑バレールは︑
強調しなければならなかったのである︒そして︑このバレールのブレーンが︑﹃モニトゥール﹄誌上で︑国民的諸
( 5 6 )
産業を擁護しつつ︑保護主義のための論陣をはっていた熱烈な保護主義者デュシェールであったという事実を︑こ
フラ
ンス
革命
にお
ける
保設
主義
︵吉
田︶
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の動議にたいして︑国民公会は︑ しかし︑国民公会も︑国民的生産者層を基動力としつつフランス全国に力強く流れていた保護主義政策要求の底
流に︑あくまでも逆流しつづけることは︑その底流を︑むしろふまえるこ
とこそが︑同時に革命フランスを維持し︑推進することをも意味していたからである︒事実︑九三年五月二0
日に
は︑外交︑航海委員会が﹁航海条令﹂を準備し︑国民公会に提出することをもとめる︑ブゥルドン・ドゥ・ロワー とができるのである︒ つをとってみても︑われわれは︑ 機とする公安委員会の﹁独裁﹂をまたなけれはならなかったのである︒そのことを理解するために︑われわれは︑今度は﹁航海条令﹂に焦点を合わせて︑あったジロンダンによって︑
いま
いち
度︑
さらに商業委員会を追加しなければな この過程をえがいておかなければならない︒
さきに指摘したところからもほぼ推察しうるように︑ジロンダンの支配する国民公会の初期においては︑
条令﹂というアイデア自体︑何ら顧慮されることがなかった︑と言っても言いすぎではない︒いやそれどころか︑
商業立法については︑反対傾向を示す指標をさえ︑われわれは見出すのである︒たとえば︑未だ幼弱な国民的諸産
( 5 4 )
業にとっては︑自らの再生産軌道を確立すべき媒介環としての地位を占めていた植民地貿易が︑植民地に無関心で
アメリカ合衆国に開放せしめられた︵一七九三年二月一九日︑五月一九日︶という事実一
﹁航海条令﹂にたいして激しく対立せざるをえないジロンダンの運命を︑語るこ
できなかったはずである︒というのは︑
これを承認し︑
﹁航海条令﹂の必要性を
﹁航
海
ここでは︑まだ︑ i n
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の企図を一切しりぞけることであり︑且つ︑
﹁ 航
わが国の商業とわが国の船舶とにきわめて有害な︑仲介沿 こで再び注目しておくことも︑無駄ではないであろう︒それは︑バレールの報告がさきの底流をふまえてなされたということ︑そればかりか︑この段階までくるともはやさきの底流が︑国民公会内部にも深く浸透していたという
それ
以降
︑
こうした動きが︑五月三一日ー六月二日のジロンダン追放によって︑さらに促進せしめられたであろうことを推
航海委員会において﹁航海条令﹂草案の作製がすすめら
れ︑七月三日︑マレック
Ma
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によって報告されるところにまではこんだのである︒
マレックの﹁航海条令草案に関する報告﹂は︑航海︑商業︑公安三委員会の名においてなされた︒それは︑五月
二九日のバレールの報告を︑さらに具体的に展開させたというべきものであった︒
さて︑かれは︑この報告をつぎの言葉ではじめ、先ず「航海条令」の目的を明らかにするー—ー。
﹁われわれが提案する航海条令の主要な目的は︑わが国と他国との交易のうち海運における間接航海
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岸貿易
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e ーそれが︑現在にいたるまで︑わが国をして︑
ヨーロッパの一切の制海権の寛
大な朝貢者たらしめていたのだー│元J︑終局において︑廃止せしめることである︒この条令は︑また︑共和国の一
地方から他の地方への同様の交易にさいして︑運送を排他的におこなう権限を︑わが国の船舶に留保することをも
(57) 目的とする︒﹂
ある︒それは︑ ﹁航海条令﹂の意図が︑仲介貿易の排除にのみ限定され︑革命フランスとの関連性は︑稀薄で
のちに︑バレールによって果されるはずである︒しかし︑このマレックの報告においてさえ︑ 察するのに︑それほどの困難はない︒
実際
︑
ことを物語っている︑という意味においてであるC フラ>.ス革命における保護主義︵吉田︶
の基石でなくてはならなかったのである︒
( 5 8 )
までもない︒
しかし︑﹁航海条令﹂が果すべき課題は︑そればかりではなかった︒むしろ︑﹁航海条令﹂の使命は︑アンシアン
・レヂームの師を打破した革命フランスの国民的諸産業に︑確固たる再生産軌道を与え︑公共的繁栄と私的繁栄と
フ ィ ス カ リ テ
を同時にもたらすべき媒介環たるところにあったのである︒ーー・﹁封建制とそれに不可分離の財政制度との朝から
解放され︑国王︑貴族︑僧侶から解放され︑自らのつくり出した信念以外には頼らず︑且つ地上のいかなる権力を
も認めないという幸福な状態をむかえたフランス・'…•このような事態におけるフランスは、航海条令によって、国
フランス革命における保護主義︵吉田︶ たのである︒そして︑ 国
制度
﹂
とが
︑
たぶらかされず︑
いま少し言うならば︑ 海条令﹂によって批判されるべき対象が︑
プロイピンすン
ー﹁この二重の禁止は︑
は︑おそらく︑世界共和国
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制度にしか適合しないe
のそれ以上に実現困難であることは︑誰もが感じているところなのだ︒したがって︑
ことができたと言えよう︒言いかえるならば︑
への傾斜を深めていたのに反し︑ 言うまでもなく︑
このような自由
ェコノミストの素晴しい夢に
われわれにとって賢明なことであるし」ー~その批判は、自由貿易
論
11
﹁世界共和国制度﹂の相即性をもち出すことによって︑自由貿易論者
11
﹁エコノミスト﹂の﹁反国民性﹂をつく
﹁エコノミスト﹂の立論が︑
︑︑
︑︑
ここでは︑何よりも革命フランスが優越せしめられなければならなかっ
﹁エコノミスト﹂とは逆に︑革命フランスの維持こそが︑﹁世界平和﹂
﹁航
海条
令﹂
が︑
経験と理性の光に照らして︑
こうした論理展開のための基礎であったことは︑言う ﹁華罷な理論﹂を駆使して﹁世界共和 もとより完全なものでないとはいえ︑ かれらの特殊な議論の立て方︑かれらの華麗な理論を評価するこ そして︑人類の共和国が︑︒フラトン 疑いもなく︑無制限の商業的自由という原理に反している︒ きわめて明白に示されている︒
しか
し︑ 自由貿易論である︒
まさ
に︑
恐れ
に︑
者︑水夫︑商人︑ とらわれる必要はないであろう︒祖国の一般的利益︑ れを理論的に装備した自由貿易論とは︑ ﹁公共的︑私的繁栄﹂︑
ここ
に︑
フランス革命における保護主義︵吉田︶
なかったのである︒しかし︑ ﹁航海条令﹂の中心的課題があった︒したがって︑
﹁航海条令﹂は︑まさしくか
﹁祖
国の
ラブ
ルー
ル︑
内における公共的︑私的繁栄の芽が一切︑急速に発展するのを︑やがてみるであろう︒﹂
アンシアン・レヂームとそ
﹁公共的︑私的繁栄﹂を妨げていたがゆえに︑しりぞけられなければなら
︑︑
︑
ここで何よりも注意しなければならないことは︑公共的繁栄が同時に私的繁栄である
とされていることである︒アンシアン・レヂームの政策が︑公共的繁栄の仮面のもとに︑それを侵しつつ少数の私
的繁栄のみを追求させていたことに想いを到すならば︑このことの重要性は明らかであろう︒アンシアン・レヂー
ムを打倒した革命フランスは︑公共的繁栄の基礎を︑そうした少数の私的繁栄のなかに見出すことに反対すべきは
ずのものであったのであり︑
はずだからである︒ そのことは︑また直ちに︑革命フランスがふまえるべき階級的基盤をも明らかにする
マレックもこの点を見逃さず︑明確にこう表現しているー︒
カ ピ タ リ ス ー コ ミ ッ ツ す ネ ー ル
﹁諸君は︑もはや︑数百人のコスモポリィト的資本家︑エゴイスト的業者ーかれらにとっては︑
海条令のないことが︑かれらの巨大な財産のもっとも実り多い原理であったのだーー・の私的利益を傷つけるという
祖国のラブルール︑マニュファクチュリエ︑労佑
諸君に労佑と︒ハンとを確保する一切の真のサン
1 1キュロットの利益︑ここにこそ︑
迫るものがあるのだ︑ここにこそ︑諸君の討論にもっぱら作用を与えるものがあるのだ︒﹂
﹁航海条令﹂'ーー革命フランスを確保すべきはずの﹁航海条令﹂は︑
クチュリエ︑労仇者︑水夫︑商人﹂を階級的基盤としていたのである︒逆に言えば︑
れらのためのものであったのである︒ 諸君の決断を 一 四フランスに航
マニュファ
した
のは
︑
とこ
ろで
︑
マレックのこの報告にたいして︑反対論が全くなかったわけではない︒この段階では︑未だに︑
海条令﹂にたいする反対論は︑根強かったとさえ言える︒もっとも︑その反対論は︑もはや︑たとえば自由貿易論
からするような︑原理的なものではありえないfさきにもふれたように︑自由貿易論は︑すでに︑その浸透力を全
﹁航海条令﹂によって︑
断絶しはしないかという憂慮から発するものであった︒その憂慮がかなりの程度の真実性を含み︑
に大きかったかは︑デュシェールの反批判にもかかわらず︑﹁航海条令﹂草案そのものが︑再び︑公安︑航海︑商
(59) 業三委員会に回付され︑三委員会の再検討を要求された事実が︑明らかにしている︒しかし︑それはともあれ︑三
マレックの報告のニヶ月後︑九月ニ︱日になされたバレールの報告において︑実を結
んだ︒バレールのその報告は︑言うまでもなく︑直接には﹁航海条令﹂を提案するためのものであったとはいえ︑
それに結実せざるをえなかった革命当初からの保護主義運動の理念を︑そのなかに凝縮させている︑というべきも
のであった︒この意味からするならば︑その報告は︑われわれが︑かなりの比重をかけて詳細な分折を加えるに足
るものであるとしても︑決して言いすぎではないであろう︒
バレールの報告は︑さきのマレックの報告にひきくらべるならば︑
にたいする意識が︑きわめて強烈である︒そのことは︑かれの報告が︑
かがい知ることができよう︒ーー'﹁市民諸君︑国民公会が︑フランスの自由︑
一七九二年九月ニ︱日である︒国民公会が︑商業の自由︑
ないのは︑同じ日一七九三年九月ニ︱日である︒諸君にとって︑
フランス革命における保護主義︵吉田︶ 委員会合同による再検討は︑ く失つていたからである︒むしろ︑反対論は︑
一 五
フランスと中立国との関係が︑悪化ないし
そのゆえにいか
つぎの言葉ではじまっていることかも︑う
いやむしろョーロッパの自由を宣言
いやむしろ海上の自由を宣言しなければなら
政治的共和国
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をうちたて
︑ ︑
﹁航海条令﹂がもつ革命フランスとの関連性
﹁ 航
平等の革命フランスと反革命の盟主イギリス︑﹁世界の平和と人類の幸福﹂を使命とするフランスと﹁諸国民の諸
権利と利害とをないがしろにする﹂イギリスーー←Jのコントラストのなかに︑革命フランスの優越性
1 1使命感と反
英意識との癒着を見出すことは︑容易であろう︒イギリスにたいする経済的隷属状態のもとで遂行され︑しかもそ
の当のイギリスが反革命戦争の盟主であるという情況のもとにおいては︑革命の正当性の主張は︑必然的に反英意
識と結びつかざるをえなかったのである︒ ムウェルの魂の跡があり﹂︑
フラ
ンス
革命
にお
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保護
主義
︵吉
田︶
ただけでは︑充分ではない︒諸君には︑商業政策
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ーー
iこの普遍的な言薬は︑他日︑世界
( 6 0 )
平和と人類の幸福とをもたらすにちがいないーー'をうちたてることが残されているのだ︒﹂この言葉のみをもって
しても︑われわれは匝ちに︑バレールにあっては︑﹁航海条令﹂が革命フランスの脈絡のなかでとらえられている
その優越性を ことに気づくにちがいない︒先廻りしてもう少し言うならば︑ここでは︑﹁航海条令﹂が革命フランスの世界史的
優越性という既成事実︵﹁フランスの自由﹂/.︶と使命感︵﹁世界の平和と人類の幸福﹂/.︶とのもとに︑
さらに強め︑確かなものにするものとして︑とらえられているのである︒こうした把握様式からするならば︑革命
フランスの﹁航海条令﹂は︑決してイギリスのそれのたんなる模倣ではない︒なぜなら︑イギリスの航海条令は︑
︑
︑
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︑
﹁王
政革
命﹂
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の只中に出されたのに反し︑フランスのそれは︑﹁民主革命﹂
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の只中に出され︑必然的に﹁自由とそれが生み出した平等との性格をもつであろう﹂からである︒
︑︑
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自由と平等は︑普遍的理念である︒とするならば︑フランスの﹁航海条令﹂は︑﹁世界の平和と人類の幸福﹂のた
︑︑
︑︑
めのものにほかならない︒ところが︑イギリスの場合は︑それと全く異る︒イギリスの航海条令は︑
﹁纂
奪者
クロ
﹁諸国民の諸権利と利害とをないがしろにしてうちたてられた﹂からである︒自由・
いやそればかりではない︒革命の正当性の主張は︑さらにイギリス撃滅
六
上の自由を宣言したのち︑
は︑かれがもつ歴史的制約を感じるのであるが︑しかし︑
フランス革命における保護主義︵吉田︶
海条令﹂との関連性を︑読みとっておかなければならない︒ それはともかく︑
つい
に︑
海上の自由にまで立ち至ったのだ︒﹂ っては︑うけ入れられなかった︒しかし︑ く
りも
のは
︑
の正当性としてさえ︑立ちあらわれてくるのである︒たとえば︑
一 七
こうしたバレールの説明に︑われわれ こうである︒ーー﹁われわれを飢餓におとしこめ
るもの︑われわれを蹂躙するもの︑われわれから自由を奪い︑われわれの素晴しい革命の果実を食い荒すものを蹂
カ ネ
躙することに︑不道徳なものは少しもないのだ︒﹂したがって︑﹁かれらの金には槍の鉄を︑かれらの軍隊には銃
イ モ ラ リ テ
剣を︑かれらの騎兵には大砲を︑航海条令には航海条令を﹂向けることに︑何らの不道徳性も含まれず︑むしろそ
うした行動は︑直ちに革命の正当性を証しだてるものとしてさえ︑とらえられていたのである︒言うまでもなく︑
そうした論理は︑革命当初からの︑そして国際的極限状況に追いこまれることによってさらに倍加せしめられた︑
国民感情そのものであったと言うことができるであろう︒
ところで︑それでは︑こうした国民感情は︑なぜ今までとりあげられなかったのか︒その間の事情については︑
われわれがすでにのべてきたところから︑ほぼ推察しうるであろう︒バレールは︑しかし︑かれなりの視点から︑
それをつぎのように説明する
o
ー̲﹁創り出すことよりも︑うちこわすことに専念した立憲議会は︑フランス共和│
国についても︑海上の自由についても考えなかった︒わらうべきアングロマニー︑蹂躙的で貪欲な通商条約が︑わ
れわれを制していた︒⁝⁝立憲議会は︑航海条令のきわめて長い草案を︑最初の立法議会におくり渡した︒このお
ハノーヴァ家の王位を攻撃することよりも︑カペー家の王座を打ち倒すことに専念した国民議会によ
ハノーヴァ家の王位を攻撃する順がやってきた︒われわれは︑人間と地
ここでも︑革命フランスの確立と﹁航
しか
し︑
こうしたいわば強硬手段は︑﹁航海条令を補うもの﹂にすぎない︒とするならば︑ よっても︑明らかなところである︒ 航海条令﹂にさらに立ち入って分折しなければならない︒ 保護政策とであった︒こうした二重の側面は︑
フランス革命における保護主義︵吉田︶
さて︑われわれは︑さきに革命期の通商立法がもつ二重の側面を︑
もし誤りがないとするならば︑
とこ
ろで
︑
イギリスの産業を撃退するばかりかそ は︑敵性商品・商船の報復的排除による敵性諸国への経済的打撃とフランス産業に利益をもたらすべき積極的産業
﹁航海条令﹂を︑革命期の通商立法の極点におくわれわれの考えに
そのなかにも見出されるはずである︒それを見きわめるためには︑われわれは︑
そうする場合︑先ずもって︑バレールのつぎの言葉が︑われわれに役立つであろう︒ー│'﹁われわれ
が諸君に提案する航海条令は︑断固たる正しい手段である︒それは︑各国民の諸権利に基礎をおき︑もっとも明白
な︑もっとも抗し難い諸君の利害に基礎をおいている︒それは︑国民公会のもっとも緊急な義務︑すなわち︑祖国︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑の繁栄をうちたて︑不具戴天の敵をしりぞける義務に基礎をおいている︒﹂この言葉だけからでも︑われわれは︑
ここで念のために﹁航海条令﹂が︑さきの二重の側面を併せもつべきものであったことを︑理解しうる︒しかし︑
注意しておかなければならないことは︑この二重の側面は︑決して別々のものではなかったということである︒そ
れどころか︑.この両者は︑革命フランスの確立を軸にして︑分ち難く結びついていたのである︒そのことは︑たと
えば︑敵性商品の抑留が︑直ちに﹁フランスの繁栄により適切で︑より有効な﹂手段として考えられていることに
的な目的は︑別のところにあったはずである︒バレールは︑先ずもって︑ ﹁航海条令﹂の基本
それを﹁一般的視点﹂から︑
るーー﹁わが国の通商制度
sy
st
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e
co
mm
er
ci
al
を強大ならしめること︑ ヘクシャーに拠りつつ指摘しておいた︒それ
一 八
こう整理す
‑,
報告
は︑
① 間 接 貿 易 の 排 除
11
直接貿易の確立︒ の保護・育成︑③ して︑各国民に︑ れに代えるにわが国の産業をもってすること︑航海手段を増大せしめること︑驚くべき海軍力を創出すること︑そ
n
︑ユ
ニケ
フランスと直接通商しなければならないことを︑教えること︒﹂もちろん︑こうした一般的提言
をするにあたって︑バレールが︑
ほどには︑破廉恥でもなく︑活澄で︑勤勉なわが隣国の船舶の賃借人になるほどには︑疲弊してもいないのではな
費用で︑太洋を走り廻るのをみるにまかせ︑
る、奢修と飾物との奴隷にされるがままにまかせるべきではないのではなかろうか。」ー~を、表象として浮かべ
とこ
ろで
︑
この
こと
は︑
フランスのつぎのような事態ーすなわち︑
そし
て︑
さきのバレールの一般的提言を︑
ように︑三点に集約することができるであろう︒ われわれのもっとも残酷な敵が︑
この貪欲な産業家たちが︑たえずフランスのために製造させ.
さらに立ち入って︑われわれなりに整理し直すならば︑
すなわち︑①
植民地貿易の確保︑がそれである︒言うまでもないことだが︑
その基底において支えるべき国民的諸産業を軸にして︑相互に関連し合っている︒
きながら︑われわれはさらに立ち入って︑
いた
る処
で︑
この点に言及している︒たとえば︑
フラ
ンス
革命
にお
ける
保護
主義
︵吉
田︶
ていたであろうことは︑言うまでもない︒ かろうか︒われわれは︑
一 九
われわれの
つぎにみる
これら三点は︑革命フランスを
このことをあくまでも念頭にお
さきの三点を︑バレールの報告のなかで確認しておくことにしょう︒
︑︑
︑︑
︑
﹁航海条令﹂のいわば直接の目的であった︒したがって︑
こうである。ー—'「他国との交易のうち海運における一
切の間接航海
n a v i
g a t i
i n o n
d i r e
c t e
の企図をしりぞけるべき手段としての航海条令⁝⁝︒﹂あるいは︑ 間接貿易の排除
11
直接貿易の確立︑ かれら︵イギリス︶の水夫を傭うにまかせ︑
(2)
﹁フ
ラン
国内産業 ﹁われわれは︑外国産業に従属する
はなかった﹂のである︒そして︑
(3)
スは︑あらゆる間接貿易
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ce
de
se
co
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ai
n︑自国船以外の船舶による貿易を︑排撃しなければならな
い︒われわれに必要なのは︑直接貿易
co
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であ
る︒
﹂
言うまでもなく︑間接貿易の不利益︑それが
もっ﹁反国民性﹂は︑通商条約と革命の経過そのものが︑明らかにしたところであり︑逆に︑直接貿易の有利性は︑
(61) イギリスの経験が教えていたところであった︒
岡.国内産業の保護・育成︒間接貿易の排除は︑
し︑国民的諸産業の展開を促す︒
こうである︒ーー'﹁わが国の水夫のために︑かれらの仕事をとっておこう︒⁝⁝わが国の水夫たち︑船主たちは︑
かれらの惨めさを非難し︑貪慾な外国人たちにたいする優越をかちとる権利をもたないのか︒⁝⁝イギリス人は︑
もはや︑かれらがわが国から購買する以上には︑羊毛にせよ︑棉にせよ︑われわれの使用のために︑紡ぐことのな
からんことを︒外国人は︑もはや︑わが同胞が︑かれらと同様に製造し︑運送しうるものを︑わが国にもたらさざ
ァ ト
らんことを︒そのときにこそ︑諸君は︑多数の仕事場と完成されたマニュファクチュールとを︑船舶と水夫とで満
ちみちた港を︑もつであろう︒わが国の国境を︑閉ざそう︒わが国海運を︑使うだけ使おう︒そこに︑提案中の条.
デすリー令の全理論があるのだ︒﹂こうして︑国内産業が振興せしめられれば︑雇傭量は増大し︑原料の需要も増加する︒
そし
て︑
フラ
ンス
革命
にお
ける
保護
主義
︵吉
田︶
それとともに︑国内流通︵市場︶は拡大し︑
植民地貿易の確保︒
﹁植民地なしには︑商業的繁栄 一方で自国海運業を促進せしめ︑他方で自国の国内市場を確保
﹁航海条令﹂の真の意図は︑そこにあったと言わなければならない︒たとえば︑
フランス経済は︑復興せしめられることとなるのである︒
この段階におけるフランスの国民的諸産業にとっては︑
産のための媒介環をなしていたことは︑さきにも指摘した通りであった︒まさに︑
﹁われわれ自身で植民地貿易をすること︑ いまだ植民地貿易が︑
それは︑⁝⁝船舶資材を増大せしめる 四〇
その再生
もとめないであろう︒﹂ がヽ
を/
.﹂
こう
した
発想
が︑
福祉にもっと全く同様の利害を︑ ことであり︑わが国と外国との通商に力をそえるにちがいない貴重な資源を︑われわれに確保させることである︒が︑フランスの国民的諸産業を保護・育成することに帰結した︑と言って誤りではないであろう︒国民的産業こそは︑すでに自由と平等という世界史的優越性をかちえた革命フランスを︑基底において支えるべきはずのものであっ
たの
であ
り︑
もっている︒ことに北部の諸国民が︑ ﹁航海条令﹂の狙いが︑ただたんにフラン ﹁航海条令﹂が意図したところのものを︑みてきた︒それらは︑
﹁航海条令﹂の焦点も︑当然そこにあてられるべきであったのである︒
しかし︑バレールの報告にさらに接近してみるならば︑われわれは︑
ス一国のみに限られていないことに気付く︒すなわち︑それは︑すでにョーロッ︒ハ的規模においてさえ考えられて
いるのである︒たとえば︑こうである︒ーー﹁ヨーロッ︒ハ人諸君︑中立国の諸君︑諸君は︑われわれがフランスの
それなりの現実認識ー│'すなわち︑
ルタゴは︑イタリアを苦しめた︒ロンドンは︑ヨーロッパを苦しめている︒﹂︶︑その結果としてヨーロッパ大陸各国の資本
一様に直面せざるをえなかった販路梗塞ー国民的諸産業の衰退化という現実認識ーー・から発していることは
ほぼ推察しうるところであろう︒そして︑こうした現実認識と発想とからするならば︑つぎのような﹁航海条令﹂
ミッション
の使命が生れてくるのも︑当然のことなのである︒ー﹁われわれは︑航海条令によって︑人民と人民との結合を
強めることをしか︑また︑貪欲なイギリス人が横奪せんとしてズタズタにした商業関係を直結させることをしか︑
フラ
ンス
革命
にお
ける
保護
主義
︵吉
田︶
さて︑われわれは︑三点にわたって︑ そこに︑航海条令の所産﹂があったのである︒
四
いずれも
フランスの国民公会の声をきかれんこと
︑ ︑
イギリス資本によるョーロッパ大陸市場の攪乱︵﹁カ
れたのであった︒それは︑つぎのようなものであった︒ ことは︑必ずしも困難ではないであろう︒ ーロッ︒ハ的規模において考えられていたのである︒そこに︑
﹁航海条令﹂のいわば理念を表現したものに ﹁貪欲なイギリス﹂にたいする反対行動を共通の場としたョーロッ︒ハ大陸の結合ーー'﹁航海条令﹂は︑すでにョ
コンチネンタル・>ステムのちのナポレオンによる﹁大陸制度﹂の原型を見出す
とこ
ろで
︑
第一
条︒
第二
条︒
これまで︑やや立ち入ってみてきたバレールの報告は︑
ほかならなかった︒このバレールの報告につづいて︑直ちに﹁航海条令﹂が提案され︑万場の拍手のもとに可決さ
﹁国民公会は︑公安委員会の報告をきいたのち︑
フランスと平和状態にある諸国とフランスとの間に現存する航海条約および通商条約は︑
って何らの変更も加えられることなしに︑
一七九四年一月一日以降︑
ランスの他の領土において建造されたのでなければ︑
求すべき権利をもたない︒もし︑
して没収される︒ つぎのごとき法令を出す︒
その形式と内容とにしたがっで実施される︒
いかなる船舶も︑もしそれが︑ この法令によ
フランスにおいて︑もしくは植民地およびフ
フランスのものとは見なされず︑フランスの船舶の特権を請
す フ イ ツ ェ
それが︑全くフランスに属さず︑高級船員および乗組員の四分の三がフランス人
でないならば︑あるいは敵にたいして加えられる正当拿捕の宣告をうけ︑あるいは共和国の法律にたいする侵害と
第三条︒外国のいかなる粗生産物︑製造品あるいは商品も︑フランスの船舶もしくはその原産国︑生産国あるい
は製造国の住民に属する船舶によって︑あるいは売却の通常港および最初の積出港によって︑
かげる船旗の国籍を有する高級般員および四分の三の乗組員によって︑直接にでなければ︑ フランス革命における保護主義︵吉田︶
その他国の船舶がか
フラ
ンス
本国
︑
四
フラ
ン
349 °
必ずしも︑現実にたいする有効性を有してはいなかった︒それは︑むしろ︑未だ﹁原理的傾向﹂を表明したものに
すぎなかった︒事実は︑何らかの除外例なしには︑
(63) る︒こうした事情のゆえに︑具体的情勢に適応した除外例が︑
によって規定され︑ここに﹁航海条令﹂が︑その全き姿を整えるに至ったのであった︒それは︑同時代人にとって
( 6 4 )
は︑﹁海運の基礎と見倣されるべきもの﹂であり︑後代の歴史家にとっては︑﹁その原理は︑爾後数世代にわたる︑
(65) ヨーロッパの政治活動の形式と在り方とを規定すべきはずのもの﹂であった︒
註
( 5 3 ) 保 護 主 義 政 策 が
︑ 国 民 的 生 産 者 層 に よ っ て
︑ 革 命 の 当 初 か ら 要 求 さ れ て い た こ と に つ い て は
︑ わ れ わ れ の す で に し ば し
カ イ エ
ばふれたところである︒しかし︑いまいち度確認しておくために︑陳情書から引用するならば︑こうである°││̲﹁いか な る 外 国 商 品 も
︑ フ ラ ン ス 商 船 と 協 力 し て そ の 商 品 を 供 給 す る 国 の 船 舶 に よ っ て で な け れ ば
︑ 輸 入 さ れ え ざ る こ と
︒ ま た
ナ ヴ イ ガウール9
外国の航海者は︑自国以外のいかなる港に向けても︑フランスにおいては被荷しえざること︒⁝⁝﹂︵ルーアン︶︒﹁
10
外 国 船 に よ っ て 輸 入 さ れ る 商 品
︑ お よ び 通 商 条 約 の な い 国 か ら 来 る 商 品 は
︑ そ れ が
︑ フ ラ ン ス 船 に よ っ て 輸 入 さ れ た 場 合 よ り も 重 い 関 税 に 従 わ し む る べ き こ と
︒
⁝
⁝3
︒ 通 商 条 約 を 結 ん で い る 国 の 船 舶 に よ っ て 輸 入 さ れ は す る が
︑ 条 約 を 結 ん フランス革命における保護主義︵吉田︶
こうした内容と理念とをうちに含んで︑ た︑いかなる粗生産物︑製造品もしくは商品をも︑ れ
る︒
スの植民地および領土に輸入されえない︒反するものはすべて︑船舶および積荷を没収され︑所有者︑積出人︑船
舶および積荷の代理人︑船長および船長代理にたいして︑連帯責任によって︑三︑000リーヴルの罰金に処せら
第四条︒外国の船舶は︑フランス本国︑
四
一七
九三
年一
0月一八日の﹁航海条令に関する条令﹂ フランスにとってむしろ有害であり︑適用不可能だったのであ フランスの植民地もしくは領土でつくられ︑生産されもしくは製造され
フランスの︱つの港から他の港に︑運送することはできない︒﹂
﹁航海条令﹂は可決されたのであった︒しかし︑この﹁航海条令﹂は︑
プランス革命における保護主義︵吉田︶
でいない国で積荷された商品には︑二重の関税がもとめられるべきこと︒﹂︵カレ︶
c
( 5 4 ) この点については︑これまた陳情書が明らかにしているところである︒たとえばーー
i﹁⁝⁝わが柏民地の諸港を外国人
にひらいた︑一七八四年八月三
0
日の
Ar re t du Co n s ei l は︑その原理において不得策であり︑日々の経験が示している
︑︑︑︑︑︑︑︑
ように︑その影響において母国を破滅させるがゆえに︑取り梢されるぺきこと︒﹂︵ダンケルク︶︒
( 5 5 ) B a r er e , R ap po rt su r l ' e t a t d e l a republique
fr a r n ; a i s e , l e
2 9
m a
i ,
17 93 .
パレールは︑この蔀か告のなかで︑﹁蛉8碑唸朱
令﹂と母国・植民地間の関税障壁の撤廃とを強調している︒
( 5 6 )
デュツェールは︑一七九二年六月二九日から一七九︱︱︱年六月九日に至るほぽ一年間に︑﹃モニトゥール﹄誌上に︱一回寄
稿し︑保護主義の必要性を力説していた︒その内容は︑きわめて典味深く︑それ自体︱つの研究対象になりうる︒
Cf•
Nu ss ba um , o p . c i t
• , ( 5 7 ) M on it eu r, t om e
17 ,
p p.
44ー
45 .
以下のマレックの報告からの引用は︑すぺて同箇所からのもの︒
( 5 8 )
﹁航海条令﹂をその極点とする保談主義が︑革命フランスの経済的自立・強化を目指していたものであったことは︑す でにわれわれの明らかにしたところであるが︑そのことが直ちに︑﹁平和への途﹂を意味するものとしてとらえられてい る点については︑つぎの言葉をみよ︒ー│̲﹁つぎのことを希剤しよう
││l
諸君がつくろうとしている法令は︑好戦的海国 側がこうむる︑かれらの優秀船百隻の喪失にたいして有効である以上に︑諸君がかれらの側からの平和をかちとることに たいしてより有効であらんことを︒また︑現在︑諸君にたいして棋重な中立を維持している国々に関しては︑諸君の航海 条令の必然的結果が︑諸君とそれら諸国とを︑解き難い絆によって結びつけるにちがいないことを︑信じよう︒﹂
( 5 9 ) ただし︑イニツアティヴをとったのは︑公安委員会であり︑他の二委員会は無視されたに近かった︒
( 6 0 ) M on it eu r to me 1 7, p .
71 9.
以下バレールの報告からの引用は︑すぺて同書︑
pp
7 1 8
ー7
20 ,
722‑726からのもの︒
( 6 1 ) イギリスの経験が教えたとこるのものは︑そればかりではなく︑﹁航海条令﹂自体がそうであった︒﹁航海条令が通っ た一六五一年以来︑イギリスのあらゆる政治家たち︑あらゆる経済学者たち・:':は︑この条令にこそ︑イギリスは︑その 繋栄︑その海運の優越性を負うているのだということを認めている︒先例は与えられているのだ︑経験はつまれているの
だ⁝⁝︒﹂
( 6 2 ) G . Lefebvre,
0 p .
c i t . , p .
17 5.
四四
るはずのものであった︒
さて
︑
これまでのべてきたところでほぼ確認しうるように︑
四
ヘの 展 望
﹁航海条令﹂をその極点とする保護主義政策は︑諸
'( 63 )
Cf•
Nu
ss
ba
um
, o
p .
c i t . ,
pp
.
113ー
4,
G.
Lefebvre,
o p.
c i t . ,
Go
de
ch
ot
,
0 p .
c i t . ,
p .
35 6.
( 6 4 )
C
it
e
da
ns
Levasseur,
Hi
st
oi
re
d
u c
om
me
rc
e d
e I
a France,
r r .
p .
17 .
( 6 5 ) N
us
sb
au
m,
op .
c i t . ,
p .
27 7.
外国
︑
もの
とし
︑
﹁ 大 陸 制 度
﹂
ことに当時すでに圧倒的生産力を擁していたイギリスを︑フランスの国内市場から排除し︑
ランスの国民的諸産業を衰退の淵から回復せしめることを意図したものにほかならなかった︒しかもそのことは︑
同時に、自由•平等を基軸として革命フランスがかちえた世界史的優越性を、
四五 それを通じてフ
その基底において支えることにもな
しかし︑われわれはここで︑当然おきるはずの︱つの疑問にふれておかなければならない︒それは︑﹁航海条令﹂
へと結実していった保護主義政策が国民的生産者層の根強い世論を底流としていたことにほぼ誤りはないにして
( 6 6 )
も︑なぜ﹁革命政府﹂は︑保護主義政策の確保をフランス国民の﹁愛国心﹂に繰り返し訴えかけざるをえなかった
(6 7)
﹁原理的傾向﹂をもつにすぎないのであろうか︑あるいは︑なぜ後代の歴史家は︑ことに﹁航海条令﹂をもって︑
(6 8)
﹁︒フラトニックな宣言﹂にすぎなかったとせざるをえなかったのであろうか︒それらのことは︑間接的
にではあるが︑革命期の保護主義政策が︑必ずしも現実にたいする有効的手段としてその効力を発揮しえなかった
( 6 9 )
ルフェーヴルが克明に実証しているように︑この時期の保護主義立法は︑ことを︑推察せしめるであろう︒事実︑
フランス革命における保護主義︵吉田︶