平成 28 年度修士論文
低温ヘリウム気体中における
ND n + (n= 1−3) の移動度
首都大学東京大学院 理工学研究科
物理学専攻 原子物理実験研究室 指導教員 田沼 肇
山崎 達朗
概要
緩衝気体を満たした容器(移動管)に均一電場をかけ,そこにイオンを入射すると,気体分 子との衝突を繰り返して熱化したあと,電場の向きに沿って一定の速度で移動する.このよ うに通常のビーム実験では困難な数eV以下の実験を可能とする手法を移動管法と呼ぶ.移 動管を極低温(4.3 - 77 K)に冷却すると0.5 - 10 meV程度の極低エネルギーでのイオン―
粒子間の衝突が実現する.この極低温移動管法によって,通常のイオンビーム実験では困難 な極低エネルギー領域におけるイオンと気体分子との相互作用ポテンシャルやイオン衝突の ダイナミクスが研究できる.これまで様々な単原子イオンや二原子から四原子程度の小さな 分子イオンについて,低温He気体中でのイオン移動度を測定してきた.これまでに測定し た中ではH+, He+, N+を除く単原子イオンについては低電場領域で移動度が分極極限Kpol
と呼ばれる一定値に漸近していくのに対しN+2 を除く分子イオンは低電場領域でKpolを下 回る値を取ったり,移動度が極小構造を持つなど,様々な特異的な挙動を示すことが観測さ れた.これらイオン種による移動度の違いの原因として,ポテンシャルの異方性による一時 的な回転励起による運動量移行断面積の増大が考えられている.特にOH+,OD+では移動 度の極小領域で大きな同位体依存性を観測した.これは,回転定数の違いに起因するものだ と考えられている.また移動管では,C+ など幾つかのイオンでは,基底状態と準安定状態 が到着時間スペクトルの上で分離されて検出されており,移動度と理論的な計算との一致も 確認されている.
これまで同じ原子に幾つかの水素が結合した形の分子イオンとしては,CH+n (n= 1−2), OH+n (n= 1−3),OD+n (n= 1−3),NH+n (n= 1−4)について移動度の測定を行ってき た.これらの中でNH+ とNH+3 だけは到着時間スペクトルに2つのピークが観測された.
イオン検出部では四重極型質量選別器を用いて∆M = 1の分解能で質量数を分析して,同 じ質量をもったイオンを限定して測定しており,不純物の可能性も考えられないことから,
電子的な状態の違い,すなわち基底状態と準安定励起状態の分離が観測されたと解釈した.
そこで,本研究ではHをDに置換したND+n (n= 1−3)について,77 Kおよび4.3 Kのヘ リウム気体中での移動度を測定した.
ND+の到着時間スペクトルでは,NH+と同様に77 Kと4.3 Kのどちらの気体温度でも,
低電場領域においてピークの分裂が観測された.NH+ とND+ はBorn-Oppenheimer近似 の下ではヘリウム原子との間の相互作用ポテンシャルは同一と考えられるので,ピークの分 裂は予想されていた.しかし,OH+ とOD+ で観測されたような大きな移動度の違いは見 られなかった.OH+ およびOD+ の移動度の極小は,一時的な回転励起とそれを妨げる極 端に強いヘリウムとの相互作用ポテンシャルの異方性によると考えられている.量子化学計 算によるとNH+およびND+ とヘリウムの相互作用ポテンシャルは,OH+ およびOD+の ものよりは異方性は小さく,一時的な回転励起妨げないため,典型的な二原子分子イオンと
3
同様な振舞をすると考えられる.
ND+2 では,NH+2 では見られなかった到着時間スペクトルにおけるピークの分裂が観測さ れた.ピークの分裂は電子基底状態と準安定励起状態によると考えられるが,この同位体 依存性の原因は自明ではない.NH+2 の変角振動モードに関する分子内ポテンシャルの理論 計算[52]の報告によると.基底状態X3B1 はH-N-Hの角度θ = 150◦ 付近に極小を持つ が,第一励起状態a1A1 の極小はθ = 110◦ 付近にあり,2つの電子状態のポテンシャルは θ = 95◦付近で交差しているということがわかる.この励起状態は基底状態とスピン多重度 が異なるので準安定状態と見なすことができる.そして,この準安定状態の変角振動に関す る基底状態のエネルギー準位を考えると,軽い NH+2 より重いND+2 の方が零点振動準位が 低いはずである.基底状態のポテンシャルとの交差エネルギーよりも零点振動準位が高けれ ば,交差点を介した脱励起の可能性が高くなるが,逆に低ければ準安定励起状態として長寿 命となることが考えられる.また,図??より基底状態のほうが励起状態と比べ,より直鎖に 近い構造をとっており基底状態の方がalignmentが起こりやすく結果移動度が大きく出てい るのではないかと推察できる.一方,ND+3 では,NH+3 で気体温度4.3 Kでの非常に低い電 場強度のときにのみ見られた,電子状態の分離は観測されなかった.
5
目次
第1章 序論 7
1.1 移動管法 . . . . 7
1.2 移動度 . . . . 8
1.3 運動量移行理論 . . . . 9
1.4 イオン中性粒子間相互作用ポテンシャル. . . . 13
1.5 低エネルギーイオン分子衝突 . . . . 17
1.6 原子イオン・分子イオンの移動度 . . . . 19
1.7 移動管の応用 . . . . 24
1.7.1 イオンの電子状態分離 . . . . 24
1.7.2 イオン分子反応 . . . . 27
1.7.3 イオンクラスター反応 . . . . 28
1.7.4 Ion Mobility Spectrometry . . . . 29
1.8 目的 . . . . 30
第2章 実験装置 31 2.1 構成 . . . . 31
2.2 冷却部 . . . . 33
2.3 イオン入射系 . . . . 36
2.4 移動管 . . . . 37
2.5 イオン検出系 . . . . 39
第3章 測定方法 41 3.1 温度測定 . . . . 41
3.2 圧力測定および補正 . . . . 41
3.3 移動度測定. . . . 42
第4章 測定結果と考察 45
4.1 到着時間スペクトル . . . . 45
4.2 低温ヘリウム気体中のND+ の移動度 . . . . 46
4.2.1 到着時間スペクトル . . . . 46
4.2.2 ND+の移動度 . . . . 49
4.2.3 移動度の同位体依存性と面積強度の割合 . . . . 53
4.3 低温ヘリウム気体中のND2+ の移動度 . . . . 56
4.3.1 到着時間スペクトル . . . . 56
4.3.2 移動度 . . . . 58
4.3.3 移動度の同位体依存性と面積強度の割合 . . . . 62
4.4 低温ヘリウム気体中のND3+ の移動度 . . . . 65
4.4.1 到着時間スペクトル . . . . 65
4.4.2 移動度 . . . . 67
4.4.3 移動度の同位体依存性 . . . . 71
4.5 移動度の同位体依存性について . . . . 72
第5章 結論 79 付録. 1 低温ヘリウム気体中のND4+ の移動度 . . . . 80
1-1. 到着時間スペクトル . . . . 80
1-2. 移動度 . . . . 82
1-3. 移動度の同位体依存性 . . . . 84
参考文献 87
7
第 1 章
序論
1.1 移動管法
緩衝気体を満たした管状の金属容器(移動管)に均一電場をかけ, そこにイオンを入射す ると,気体分子と衝突して熱化したあと,イオンの群れ(ion swarm)は一定の速度で移動 する.この時のふるまいから衝突過程を調べる実験手法を移動管と呼ぶ. 移動管法では移 動度や拡散定数などの輸送特性を求めることができるほかに, 運動量移行断面積や, 回転・
振動励起断面積, 付着断面積, 電荷移行, 様々なイオン分子反応の反応速度定数を求める こともできる. 通常のイオン分子衝突のビーム実験は, 広範囲の衝突エネルギーで行われ ているが,10 eV未満の衝突エネルギー領域では空間電荷効果による制約などにより大き くビームが発散してしまうので非常に困難である. これらとは異なり, 衝突エネルギー数 百µeVから数eVでの実験を可能としている移動管法は低エネルギー領域において非常に有 効な手段となる. また,低エネルギー領域でのイオン分子衝突実験方法としては,移動管法 の他に流動残光法,ビーム合流法,イオントラップ,ビームガイド法,イオンサイクロトロ ン共鳴法などがある. この中でも移動管法は適応できる領域にあまり制限がなく, 平均値 ではあるが全散乱断面積の情報を得ることが出来る等の優れた特徴を持っている.
一般に用いられる移動管装置は,電場に従いイオンが流れる方向に対し,上流にイオン 源,下流に検出器がそれぞれ設置されている.イオン源で生成されたイオンは移動管内に入 射され,移動管内の電場により輸送され移動管内を通過し検出される.パルス化したイオン の群れが移動管内を通過し,検出されるまでの時間を測定することで,速度分布を持つイオ ンの到着時間から平均移動速度,移動度,拡散係数を求めることができる.イオンが気体分 子の中を移動すると二次イオンの生成も当然考えられ,二次イオンも一次イオンと同様に移 動管内を移動してくる.この場合移動しているイオンの種類を同定することが重要であり,
1962年にMcDanielet al.によって,移動するイオンの選別のため移動管に質量分析器が組
み合わせた移動管(DT)+質量選別器(MS)という構成の装置が開発された [1].しかし
この装置は電子衝撃型のイオン源が移動管内部にあったため,移動管内に満たされている気 体分子を親ガスとするイオンについてしか実験を行うことができなかった.様々な入射イオ ンで実験を行うために 1966年に Kanekoet al.は,イオン源を移動管外部に配置し,さら に入射イオン選別のために質量選別器をさらに組み合わせた MS + DT + MSという構成の 装置を開発した [2].このことにより,求めるイオンだけを分離して入射することが可能に なり,生成された二次イオンの質量スペクトルを測定することで,反応速度定数の測定も可 能となった. 現在の移動管法に用いられる装置の殆どはこの様な構成をしている. 初めこ そ,室温のみの限られた移動管装置も,極低エネルギーでの衝突実験を可能とさせるために 温度可変型の装置も開発された[3].本研究で用いた極低温移動管質量装置は最低到達温度 が1.9Kであり,移動管としては現在世界で最も低いエネルギーでの領域での測定が可能で
ある[4, 5, 6].このように極端に低いエネルギーでのイオン―分子衝突は,星間空間におけ
る物質進化の鍵を握る過程としても重要であると考えられている.通常の移動管法で行われ るエネルギー領域では,弾性衝突であるが4.3 K付近の極低エネルギー領域では非弾性衝突 によるイオンクラスターなどの生成や移動度での量子効果の観測が期待されこれまで様々な 研究がなされてきた[4, 7, 8, 9, 10, 11].
1.2 移動度
イオン源から移動管へ放出されたイオンは,イオンの入射方向に印加された均一電場によ る加速と,標的となる気体中性原子との衝突による減速を繰り返しながら一定の平均速度を もち運動する.その結果,熱エネルギー程度までエネルギーを失い,標的粒子の温度と相関 したエネルギー分布を持ったイオンの群れ(ion swarm)が形成される.このときイオンの 平均移動速度vdは電場の強さE にほぼ比例することが知られている:
vd =KE (1.1)
ここで比例係数K を移動度(mobility)と定義する.移動度は緩衝気体の数密度 N にほぼ 反比例するので,標準状態(0℃,1 atm)の数密度に換算することで他の圧力の測定結果と 比較することができる:
K0 = P 101325
273.15
T K (1.2)
= N n0
K (1.3)
ここで,P は気体の圧力(単位:Pa),T は気体の温度(単位:K),n0 は標準状態における 理想気体の数密度を表すLoschmidt定数(2.68678×1019 cm−3)と呼ばれる基礎物理定数 である.移動速度 vd は電場と数密度の比E/N に比例し,この換算移動度K0 を用いて次
1.3 運動量移行理論 9 式のように表される:
vd =n0K0E
N (1.4)
これを換算電場強度と呼び,移動度を議論する上で非常に重要なパラメーターであることが 知られている.通常,E/N の単位にはTd(Townsend,1 Td = 10−17 Vcm2)が用いられ る.以後,移動度といえば,換算移動度K0のことを指し,議論していくこととする.
1.3 運動量移行理論
この節では移動度を運動量移行理論に基づいて考察していく.イオンの持つ電荷をeとす ると,移動管内でイオンは緩衝気体との衝突によって繰り返し運動量を損失するが,一方で 電場によるイオンの運動量の増加もある.そこでイオンの加速と、ガス原子との衝突による 運動量の損失が等しいと仮定する.つまりイオンは一定速度で運動していることになるの で,移動速度vd が決定されることになる.電場から受け取る運動量は容易に計算できるが,
衝突によって失う運動量を直接求めることは難しいので近似的に計算する.弾性散乱に於い て,1回の衝突によって失うvr方向の運動量は
∆(µvd) =µvr(1−cosθ) (1.5)
と表すことが出来る.ここでvrをイオンと分子の相対速度,µを換算質量(M m/(M+m), M:分子の質量,m:イオンの質量),θは重心系における散乱角である.vrにはランダムな熱 運動が含まれているが,多数回の衝突について平均を取ればvr = 0になり,イオンの平均移 動速度vd のみが寄与することが判る.したがって衝突一回あたりの平均的な運動量損失は
µvd(1−cosθ) (1.6)
と表すことが出来る.そこで単位時間あたりにθ ∼θ+ ∆θの角度範囲に散乱される衝突の 平均回数は
N vr2πq(θ, vr) sinθdθ (1.7)
と書ける.ここでvrはイオンと分子の相対的な速さの平均値,q(θ, vr)はvrと散乱角θ に 依存する微分散乱断面積である.したがって,式(1.5)および式(1.7)をかけ,さらに全散乱 角θ について積分すれば運動量損失が求まる:
µvdN vr2π
∫ π 0
(1−cosθ)q(θ, vr) sinθdθ (1.8)
ここで運動量移行断面積(momentum transfer crosssection)QD(ε),平均衝突エネルギーε, 衝突頻度ν(ε)を以下のように定義する:
QD(ε) ≡2π
∫ π 0
(1−cosθ)q(θ, vr) sinθdθ (1.9) ε ≡ 1
2µv2r (1.10)
ν(ε) ≡N vrQD(ε) (1.11)
ν(ε)の単位はs−1 である.ゆえに,イオンが移動管内を一定速度 vd で運動しているとす ると,電場による運動量の増加と緩衝気体との衝突による運動量の減少は釣り合っている ので,
eE=µvdν(ε) (1.12)
と表すことが出来る.これからイオンと分子の相対エネルギーεについて考えていく.vを イオンの速度,V を分子の速度とすると,イオンと分子の相対速度の2乗平均は
vr2 = (v−V)2 =v2+V2 (1.13) と書ける.ここでは中性気体分子はランダムな運動をしていると考えられるので V = 0で ある.また,分子は熱運動をしているので
1
2MV2 = 3
2kT (1.14)
と表すことが出来る.ここでk はBoltzmann定数である.次にv2について考えてみる.電 場が弱ければイオンは熱化して気体温度によって決定される熱運動をするとみなすことがで きるが,電場が強くなると熱運動に加えて電場の影響を考える必要がある.任意の電場の強 さにおけるv2 を計算できるように,エネルギーのつりあいの関係を求める.イオンが単位 時間あたりに電場にされる平均の仕事はeEvd である.それはイオンが電場から得る単位時 間あたりの平均のエネルギーに等しい.一方,イオンの一回の衝突あたりの平均のエネル ギー損失は
1
2mv2− 1
2mv′2 (1.15)
と表すことができる.ここでv′ は衝突後のイオンの速さである.運動量のつりあいの式を 導いたのと同様に,衝突頻度をかけることによって単位時間あたりのエネルギー損失が得ら れるので,エネルギーのつりあいの式は
1 2m
(
v2−v′2 )
ν(ε) =eEvd (1.16)
1.3 運動量移行理論 11 と書ける.次にv′2 を求める.まず,イオンと分子の重心の速度vcm と相対速度vrは以下 のように表せる:
vcm = mv+MV m+M vr =v−V これらを用いるとv とv′は
v =vcm+ M
m+Mvr (1.17)
v′ =v′cm+ M
m+Mv′v (1.18)
と表すことが出来る.運動量保存則よりvcm =v′cmであり,さらに弾性衝突を仮定すると エネルギー保存則よりv′2r =vr2となる.これより式(1.17)および式(1.18)を用いることで 以下の式が得られる:
v2−v′2 = (
vcm M m+Mvr
)2
− (
v′cm M m+Mv′r
)
(1.19)
= 2M
m+Mvcm・(vr−v‘r) (1.20)
ここでイオンと分子が剛体球であり,さらに散乱が等方的に起きていると近似すると,衝突 後の速度v′rの平均はゼロになると考えることが出来る.式(1.20)について平均をとると,
v2−v′2 = 2M
m+M(vcm・vr) (1.21)
この式に,式(1.17)と式(1.18)を代入すると vcm・vr = mv+MV
m+M ・(v−V) (1.22)
= 1
m+M
(mv2 −M V2+ (M −m)v・V)
(1.23)
ここで(M −m)v・V の項についてはV = 0なので平均をとるとゼロになることが判る.
これで1回の衝突あたりに失う運動エネルギーが導かれた.さらに衝突頻度ν(ε)をかける と単位時間あたりの運動エネルギー損失が求まる.したがって式(1.16),式(1.21)および式
(1.23)より,エネルギーのつりあいは
eEvd = mM (m+M)2
(
mv2−M v′2 )
ν(ε) (1.24)
と表される.さらに運動量のつりあいの式(1.12)とエネルギーのつりあいの式(1.24)から イオンの平均運動エネルギーを導くことが出来る:
1
2mv2 = 1
2M V2+ 1
2mv2d+ 1
2M v2d (1.25)
右辺の第一項は中性気体分子の熱運動エネルギー,第二項は電場から得たイオンのドリフト 運動エネルギー,そして最後の第三項はイオンがランダムな方向に運動するエネルギーを意 味している.以上よりイオンと分子の平均の相対エネルギーεが求まる.式(1.10),( 1.13) および( 1.25)より,εは
ε = 1 2µvr2
= 1 2µ
(
v2+V2 )
= 1
2M V2+mvd2 (1.26)
と表すことが出来る.ここで,実効温度(effective temperature)Teff を次式のように定義 する:
3
2kTeff ≡ε = 3
2kT + 1
2M vd2 (1.27)
実効温度は1953年にG. H. Wannierによって導入された[12].E = 0の極限では右辺第二 項はゼロになり,イオンが完全に熱化することを示す.また,移動度を E/N の代わりに 実効温度 Teff の関数として表すことで,異なる気体温度での測定値を比較することが出来 る.ただし,この式は弾性衝突を仮定していることに注意しなければならない.また電場 が強いときには,より正確な実効温度はいくつかの補正項がつく.さらに正確な平均衝突 エネルギーを得るためにはイオンの運動エネルギーの分布関数を知らなければならないが,
Skullerud によってモンテカルロ計算された式(1.25)のエラーは最大でも20 %以内である
[13] これまでの議論から実効温度Teff および運動量移行断面積QDを用いると移動度K0
は
K0 = vdN n0E
= eN n0µν(ε) = e
n0 ( 1
µvr
) ( 1 QD(ε)
)
= e n0
( 1 3µkTeff
)12 1
QD(Teff) (1.28)
と書き下すことが出来る.すなわち移動度は,実効温度Teff の平方根および運動量移行断面 積QDに反比例する.上式を導くにあたっては,イオンと分子の相対的な速さ vr はすべて 平均のvrであるとして計算してきたが,実際にはイオンは速度分布を持ち,中性気体分子 も気体温度に対するエネルギー分布を持つことを考慮に入れなければならない.以上のこと
1.4 イオン中性粒子間相互作用ポテンシャル 13 を考慮して,Boltzmann方程式より導かれたのが次式である:
K0 = 3e 16n0
( 2π µTeff
)12
1 +α
Ω(Teff) (1.29)
ここでαは補正項で,通常α ≪1である.また,Ωは相対エネルギーの分布を考慮して運 動量移行断面積QDを平均した量で,衝突積分(collision integral)と呼ばれる.ΩはQDと 以下の関係で結ばれている:
Ω(Teff) = 1
2(kT)−3
∫ ∞
0
QD(ε) exp (− ε
kT )
ε2dε (1.30)
1.4 イオン中性粒子間相互作用ポテンシャル
移動度は以下の方法で相互作用ポテンシャルから直接計算できる.イオンと中性粒子の相 互作用ポテンシャルをV(r)とする.ここではV(r)が球対称でイオンと中性粒子の距離r にのみ依存する場合を考える.これは中性粒子が単原子分子,イオンが原子イオンの場合に 相当する.このとき重心系における散乱角Θは古典力学によれば以下のように表せる.
Θ(ε, b) =π−2
∫ ∞
r0
√ b
1− br22 − V(r)ε dr
r2 (1.31)
この散乱角Θは偏向関数(deflection function)と呼ばれ,相対的な衝突エネルギーεと衝 突係数bに依存する.最近接距離r0は
1− b2
r2 − V(r)
ε = 0 (1.32)
の解として得られる.また,微分散乱断面積q(θ)と衝突係数bには次の関係がある:
q(θ, vr) sinθdθ =bdb (1.33) この関係を使うと式(1.9)の運動量移行断面積QD は次式のように書き換えられる.
QD(ε) = 2π
∫ ∞
0
{1−cos Θ(ε, b)}bdb (1.34)
さらに式(1.30)および式(1.29)を適応する事で,相互作用ポテンシャルV(r)から一意的
に移動度K0を求めることが出来る.以上を踏まえ,相互作用ポテンシャルとイオン移動度 の関係性について定性的に考察していく.
相互 作用 ポテ ン シ ャ ル
V(r)核間距離
r領域1
領域2 領域3
図1.1 典型的なイオン中性粒子間相互作用ポテンシャル.
運動量移行断面積
QD領域3
領域2
領域1
衝突エネルギー
図1.2 典型的な運動量移行断面積の衝突エネルギー依存性.
1.4 イオン中性粒子間相互作用ポテンシャル 15
移動度
K 0領域3
領域2
領域1
実効温度
Teff 図1.3 典型的な移動度.
図1.1は典型的なイオン-中性粒子間の相互作用ポテンシャルの核間距離依存性を表した ものである.領域3である数Å以上の遠距離では分極力やvan der Waals力などの弱い引力 が働き,領域1である近距離だと粒子がお互いに近づいてくると電子雲同士のクーロン反発 により強い斥力が働く.図1.2は衝突エネルギーに対する典型的な運動量移行断面積を表し ている.エネルギーが高い領域1と低い領域3では傾きが異なり,その中間のエネルギー領 域2では両者をつなぐために急激な変化をしている.また,図1.3は共鳴電荷移行反応を起 こさない非対称系における典型的なイオン移動度を表したものである.実効温度が低いとこ ろでは移動度は平坦部を持ち,実効温度が増加するにつれ移動度も増加するが,さらに実効 温度が増加すると移動度は極大を持ち減少して行く.それぞれの領域において,移動度の実 効温度依存性を考察して行く.
領域1〜3での原子イオンと単原子イオンの粒子間ポテンシャルは近似的に V(R) = Cm
rm − C6
r6 − C4
r4 (Cm >0) (1.35)
と表せる.第一項は,斥力ポテンシャルでnの値はは8〜12が妥当であるとされている.第 二,三項は,引力であり前者は分散相互作用,後者は,分極相互作用である.まず領域3を 考える.実効温度の低い領域3においては平均的な衝突エネルギーが非常に小さいことから 散乱は遠方で起きていると考えられる.ゆえにこの領域では,第二項である分極相互作用に よる力が支配的になり,実際の相互作用ポテンシャルV(r)は以下の式で表すことが出来る.
Vpol(r) =−7.20e2α
r4 eV (1.36)
ここでαは緩衝気体原子の分極率(単位:Å3)である.従って有効ポテンシャルVeff は次 式で与えられる.
Veff(r) =−7.20e2α r4 + εb2
r2 (1.37)
上式は極大値をもつが,この極大値に一致するエネルギーで粒子が入射してきたときは,
相対速度の動径成分が 0になるため入射粒子は永遠に標的粒子の周りを周回する事になり,
散乱角 Θは負の無限大まで発散する.この古典力学的な現象はオービティングと呼ばれて いる.このときの衝突係数を臨界衝突係数といい次式で表される.
borb =
(4×7.20e2α ε
)14
(1.38)
このborbを半径とした円の面積
σorb=πb2orb (1.39)
をLangevin断面積という.このような低いエネルギーの衝突では,運動量移行断面積は
Langevin断面積で近似的に与えられる.このとき式(1.30)より衝突積分Ωは
Ω ∝
( e2α kTeff
)12
(1.40)
と表される.また,式(1.29)より移動度は K0 ∝T−
1 2
eff Ω−1 (1.41)
という関係にあるので,移動度の実効温度依存性が無くなり,一定値を取ることになる.
このときの移動度は分極極限(polarization limit)と呼ばれ Kpol≡K0(E/N →0, T →0) = 13.853
√αµ cm2V−1s−1 (1.42) で与えられる.従って実効温度が非常に低い領域(すなわち低エネルギー衝突)では移動 度はKpolに漸近すると考えられる.また,これはLangevinが1905年に初めて計算したた めLangevin limitとも呼ばれる[14].
領域1においては,衝突エネルギーが高くなることからお互いの粒子の電子雲が重なり クーロン斥力が生じるので引力相互作用はほとんど無視でき,式1.35で斥力である第一項 がポテンシャルとなる.このときの運動量移行断面積は実効温度と以下のような比例関係に ある.
QD ∝ (Cn
ε )n2
∝ (Cn
Teff )n2
(1.43)
1.5 低エネルギーイオン分子衝突 17 図1.2中の領域1におけるQDの傾きは-2/nとなるこのときの移動度は
K0 ∝T−
1 2
eff Ω−1 ∝T
2 n−12
eff (1.44)
という関係にある.n ≥ 8であるので Teff の指数は負となり,実効温度が大きくなるに つれ移動度は減少するようになる.1.3 において低温(領域3)と高温(領域1)における 移動度の増減の境界である領域 2では移動度は極大を持つことが予想される.それは相互 作用ポテンシャルにおける谷の部分に相当し,運動量移行断面積の衝突エネルギー依存性が 引力相互作用によるものから斥力相互作用によるものへと大きく変化している部分に相当し ている.移動度の極大に対応する実効温度は,相互作用ポテンシャルの深さをε0 とすると Teff = (2/3k)ε0に近いといわれている.
1.5 低エネルギーイオン分子衝突
移動管内部では入射イオンと緩衝気体分子が反応し,様々な生成物が検出される.生成物 のスペクトルから様々な低エネルギーイオン分子反応についての情報を得ることが出来る.
低エネルギー衝突というと通常は衝突速度が1 au (2.19×106 m/s)以下の衝突のことを指す が,ここでは熱エネルギーからその100倍程度,すなわち1 eV以下の衝突を指す.このよ うな領域のイオン分子反応の反応断面積を決定する事は,原子物理学のみならず環境科学や 天文物理学等からも非常に要請が強い.Garrecらは温度可変型流動残光法を用いて23 Kま でのイオン分子反応
O++ N2 →NO++ N + 0.99 eV (1.45) の反応断面積を求めた[15].この反応は電離層において脱イオン化の反応速度を決定する重 要な反応として知られている.低エネルギー領域での反応断面積は式(1.39)で決定される
Langevin断面積によって決定されるが,この測定では反応断面積はそれより二桁程度小さ
な値が求められた.この原因としては衝突により振動状態や電子状態が変化して反応断面積 に影響を与えていると考えられているが,現在においても完全には結論は出されていない.
このように簡単な反応においても十分に解明されたとはいえず,今後もイオン分子反応の研 究は重要性を増してくると思われる.また,星間雲の温度は 10 - 100 K程度と言われてお り,このエネルギー領域におけるイオン分子反応は宇宙空間における分子の進化に大きな寄 与があると考えられ,様々なイオン分子反応の断面積が測定され天文観測のデータ解釈に利 用されている[16].
移動管法では緩衝気体分子の数密度が比較的高いため,通常のイオン分子反応に加えクラ スター生成反応も観測できる.イオンと中性分子が衝突しただけでは余剰なエネルギーを放 出しない限りお互いが結合することは出来ない.しかし,イオンと中性分子の形成する衝突 複合体に第三体が衝突すると,第三体が余剰エネルギーを運動エネルギーに変換することで
奪い去り,イオンと中性分子は結合することが出来る.このような反応は三体結合と呼ば れ,クラスター生成反応の主要なメカニズムであると考えられている.緩衝気体にヘリウム を使用した場合,三体結合反応は以下の反応式で表すことが出来る.
X++ He + He →XHe++ He (1.46) XHe++ He + He →XHe+2 + He (1.47) この反応を繰り返しすことでクラスターサイズは大きくなっていく.Tanumaet al.の測定 では,Kr2+ を移動管に入射して生成されたクラスターイオンを観測したところ最大でHe が40個結合したKrHe240+イオンが検出された[17].このように,低エネルギー領域では衝 突によってクラスターが破壊されにくいため,通常は結合しにくいHeなどの希ガスも大き なクラスターを形成することが出来る.他の移動管法を用いたクラスター反応の研究として
は,Furcheet al.による金の陽イオンおよび陰イオンのクラスターサイズ測定と理論計算に
よる構造の決定[18, 19],Tomaszet al.による水クラスターの観測[23],Tanumaet al.によ る4.4 Kのヘリウム気体中で生成されたCO2He+n,N2He+n,O2He+n およびCOHe+n の観測 [24, 31]などがある.
1.6 原子イオン・分子イオンの移動度 19
1.6 原子イオン・分子イオンの移動度
1.1でも取り上げたように,今までに測定された4.3 Kのヘリウム気体中における原子イ オンの移動度にはSandersonet al.によるN+,O+ およびCO+[31],Matobaet al.による C+,N+,O+,Li+,Na+,K+,Rb+,Cs+,Kr+およびXe+など様々ある[28, 36].図1.5
に4.3,77および296 Kヘリウム気体中における 7Li+の移動度の実効温度依存性を示す.
4.3,77 Kともに複数の異なるヘリウム気体圧力で測定されているが,圧力依存性はほとん どみられない.また,4.3,77および296 Kの移動度がほぼ同一曲線上に載っている.ま たTeff −→0 Kの極限ではKpolに漸近している.このように,原子イオンでは1.4 で議論 した 図1.3のような移動度を示す.
一方,4.3 Kヘリウム気体中における二原子分子イオンの移動度測定には,Sandersonet al.
によるO+2,N+2 およびCO+[32, 33],Hidakaet al.によるNO+およびCH+[37], Yamazoe et al.によるOH+ およびOD+[26], Mori et al.による NH+ [38]などがある.図1.6にこ れらの結果を示す.横軸は実効温度で縦軸は移動度と分極極限の比を示している.低温領域 においてN+2 は原子イオンの移動度と同様Kpolに漸近しているが,N+2 以外の7種類のイ オンの移動度はKpolより8− 18%も低下しているものや,極小構造を形成しているものが ある.これらの移動度の低下は,二原子分子イオンとヘリウムが非常に低いエネルギー(数 meV以下)で衝突した際に引き起こされる一時的な回転励起による運動量移行断面積の増大 の影響であることが,理論的研究によってわかっている[27, 28].低エネルギー衝突にける 領域においてイオンとヘリウムが衝突する際,イオンはヘリウムとの引力相互作用によって 加速される.そのとき,分子イオンがもともと持っていた運動エネルギー以上のエネルギー で回転励起すると,イオンは回転励起している間はポテンシャルの谷に束縛されることにな る.いずれ束縛から開放され散乱していくが,その散乱角は衝突径数に対してランダムにな るため,運動量移行断面積は一時的な回転励起が起きない場合よりも大きくなる.運動量移 行断面積と移動度は反比例の関係にあるため,これにより移動度が低下することを説明で きる.
図1.4に分子イオンとヘリウムの距離rと配向角度χの定義と,図1.7, 1.8にN+2- Heと NO+- Heの相互作用ポテンシャルの計算結果を示す.これらから,N+2- He ではHeと結 合軸に対する衝突角度χの変化に対してあまり依存性を持たないが,NO+- Heではポテン シャルの極小に角度依存性を持つことがわかる.NO+- He以外にもN+2- Heを除く多くの 分子イオンはHeとの相互作用ポテンシャルに大きな角度依存性を持つ,すなわちHeとの 相互作用ポテンシャルに異方性があるといえる.N+2 はHeとの衝突の際に,回転するため のトルクがかかりにくいことがわかる.そのため,一時的な回転励起が起きにくく,移動 度は低下せずN+2 の移動度は原子イオンと同様にKpol に漸近していく.逆にNO+の移動
度は,一時的な回転励起による運動量移行断面積の増大により,移動度が低下する.また 図1.6で注目すべき点に,低温領域で一定値を取らないというCH+,OH+などの移動度の 特異な振る舞いがある.CH+ の移動度に関しては低温領域でTeff の低下に伴って下がり続 け,OH+,OD+ およびNH+の移動度はTeff ≒ 100 Kで極小を持ち,Teff →0 Kの極限で Kpolに漸近している.図1.9,図4.26にCH+- HeとOH+- He の相互作用ポテンシャルの 計算結果を示す[29].これらから,OH+- Heの相互作用ポテンシャルは原子がO- H- Heの 順に並んだとき,OH+ とHeの距離2.1 ˚Aにおいて80 meVという他の二原子分子には見ら れないような深さのポテンシャルの極小を持つことがわかる.また,O- Hの結合軸に対す るHeの角度が変わるとポテンシャルが急激に上昇するという大きな異方性を持っている.
この特異的なポテンシャルを用いてOH+ の移動度の極小構造を解釈すると,Teff が下がっ てゆくとまずは他の分子イオンと同様,一時的な回転励起の影響でKpolよりも移動度が低 くなるが,さらに低いTeff,つまり低い衝突エネルギーでは,特異的なポテンシャルの異方 性の影響で回転が起きにくくなり,回転が起きないために原子イオンと同様 Kpolに漸近し てゆくと考えられる.しかし,この仮説では,低温領域において移動度の値が減少し続ける というCH+ の移動度の挙動までは説明できない.
また,分子イオンの回転エネルギー準位は回転定数Beを用いてJ(J + 1)Beと近似できる.
回転定数Beは,OH+ はBe = 2.34meVであるが,OD+ はBe = 1.24 meVと小さいため,
回転励起が起こりやすく,移動度の違いが観測できると予想された.しかし図1.6より移動 度の違いは観測されたもののOD+ においても移動度の極小構造が観測され,回転定数のみ では極小構造の機構の理解までには至らなかった[26].本研究ではこの現象を理解すること を目的として,NH+ と分子構造の類似したD置換体であるND+ の極低温ヘリウム気体中
(4.3 K)における移動度測定を行った.
χ He
r
X+
O
図1.4 分子イオンとヘリウムの距離rと配向角度χ.
1.6 原子イオン・分子イオンの移動度 21
16 18 20 22 24 26 28 30 32 34 36
1 101 102 103 104 105
4.3K 3.7Pa 4.3K 3.9Pa 4.3K 4.5Pa 4.3K 5.3Pa 77K 50Pa 77K 55Pa 77K 60Pa 77K 70Pa
296K / R. A. Cassidy et al.
Kpol:19.17
Teff / K K 0 / cm2 V-1 s-1
図1.5 ヘリウム気体中における7Li+の移動度の実効温度依存性.
0.8 0.9 1 1.1 1.2 1.3 1.4 1.5
1 10 102 103 104
N2+ CO+ O2+ NO+
CH+ OH+ OD+ NH+
K 0/K pol
Teff /K
図 1.6 4.3 K のヘリウム気体中における二原子分子イオンの移動度と分極極限の比
の実効温度依存性.
図1.7 N+2- Heの相互作用ポテンシャル.
図1.8 NO+- Heの相互作用ポテンシャル.
1.6 原子イオン・分子イオンの移動度 23
図1.9 CH+- Heの相互作用ポテンシャル.
図1.10 OH+- Heの相互作用ポテンシャル.