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Civic Education in secondary schools before World War Ⅱ Katsuhiko Kimura*

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昭和前期の中等段階に於ける公民教育

−昭和 12(1937)年の「公民科教授要目」改訂を巡って−

木村 勝彦*

(2008 年 11 月 30 日受理)

Civic Education in secondary schools before World War Ⅱ

Katsuhiko Kimura*

(Received November 30, 2008)

1 はじめに

 本稿は戦前の公民教育,とりわけ中学校段階の昭和 10 年代の公民教育について 1937 年の教授 要目の改訂を中心に検討することを目的とする。この時期,日本は 1931 年の満州事変の勃発,

1932 年の思想問題に対処するための国民精神文化研究所の創設,そして 1935 年の天皇機関説問題 に伴う国体明徴運動の発生とそれに対する教学的対応として教学刷新評議会の設置など教育に対 しても国家的統制を強めつつあった。

 その意向を受けて 1937 年に出版された文部省による『国体の本義』は小山常美によれば「シン ボル問題と権力問題における天皇主義化,対外問題における大日本主義の維持強化,現人神観及 び神国観の復活強化と家族国家観の維持という傾向」を持ったとされるが *1,それを前提に,同年,

中学校,実業学校,高等女学校及び師範学校の教授要目が改訂された。このときの改訂は中学校 の場合,「愈々国体ノ本義ヲ明徴ニシ一層国民精神ヲ作興シ兼テ時代ノ進運ニ伴フ教授内容ノ刷新 充実ヲ期スルノ趣旨ニ基クモノ」*2とあり,旧教授要目に対して「国体明徴」「国民精神の作興」

を旗印に時代の風潮にあわせて改訂したものであった。この時の中等学校に対する公民科の内容 は「旧要目四年に於て可成り重点を置かれた社会生活に関する事項が,精神的生活に関する事項 となって五年に編入せられたことである。・・即ち自由主義的・個人主義的傾向を避けんとしたもの」

とされ *3,例えば斉藤利彦によれば「『国体』観念こそが,公民科の教育内容の統一的編成原理と して把握されることとなった」と評価されている *4

 その後,公民科は教育審議会の答申を受けて,1943 年の中等学校令で中学校,高等女学校及び 実業学校については国民科修身の中に「吸収」されることになる。同じく斉藤によれば,これは 統一原理としての「国体」観念が単元構成の実質的なレベルで教育内容の拡散をもたらした結果,

茨城大学教育学部理科教育研究室(〒310-8512 水戸市文京2-2-1)

[付記]本研究は科研費[19530777]の助成を受けたものである.

*

(2)

形式的なたてまえ的賛美が改訂要目に与えられ,結果的にこれらのことが公民科の自壊を導いた とされる。このように,公民教育は 1937 年の改訂を経て変質し,天皇主義的色彩が強くなった結 果,1943 年の改訂で教科としての存在価値がなくなり,修身に吸収されたと説明される。しかし,

この時期の公民科の位置づけについては,主として,教授要目ないし諸雑誌における行政官の論 考の検討など教育行政レベルでの検討が主流であり,一方で,教育現場のレベルまで含めた検討 は十分ではないと思われる。

 本稿ではそのための予備的な作業として,教育行政レベルと教育現場レベルをつなぐ役割を担っ た二つの中等教育に関する研究会の事例を検討しする。そこでは,1931 年の公民科設置直後から 大正デモクラシー的な意味合いが強いとされるその性格とは若干のずれを持ちながら現場教員の 間では議論が行われていたこと,さらには上記のような国体明徴の主張が 1937 年以降,議論され ながらも,現場では,教科書の使用,要目内容の統一性等の教育内在的議論,さらには公民的訓 練の強調など多彩な議論が行われていたことに留意して,この時期の公民教育論及びその実践に ついて検討したい。

2 昭和 12(1937)年の「公民科教授要目改訂」について

 まずその前提として 1937 年の要目改訂について検討しておく。この要目改訂は,例えば当時の 文部省普通学務局長であった菊池豊三郎の言葉を借りれば「今日我が中等学校に於ける諸学科目 の教授に於て愈々国体の本義を明徴にし,一層国民精神を作興することを旨とし,兼ねて今日の 時代の進歩に即するよう其の内容に改善を加へることを緊要としたのである。」ということであり

*5,従来からの指摘のように,行政側の意識としては「国体明徴声明」の現実化に伴う処置であっ たことは間違いがない。またそれに伴って 1935 年に設置された教学刷新評議会は「国体観念・日 本精神を基本として日本文化ならびに外国文化の内容を検討し,教育学問の精神内容を刷新する 方途を講ずることを目的とした」ものであり *6,翌年に出された「教学刷新ニ関スル答申」前文 では「教育ニ関スル勅語ノ渙発アリテ,教学ノ根本コレニヨツテ昭示セラレ,爾来コノ大詔ノ遵 法ニ努メタリト雖モ,時勢ノ然ラシムルトコロ欧米文化ノ模倣ハ依然トシテヤマズ,ソノ影響ス ルトコロ広ク,延イテ思想混乱ノ因由トナリ,教学ノ欠陥ヲ招来スルニ至レリ」として教育界の 思想混乱を「欧米文化の模倣」であると捉え *7,そのための機関の設置をまず提起している *8 これは国民精神文化研究所として後に実現することになるが,さらに教学刷新の具体的な施策と して「第二 教学刷新上必要ナル実施事項」の中で学科目の内容に関して次のように述べている。

 「ト,中等学校ノ修身科並ニ公民科ニツイテハ,ソノ統合ヲ図リ,忠孝ノ大義ヲ弁ヘ,遵法ノ精  神ヲ徹底セシムルコト肝要ナリ。」*9

 すなわち,上記のための方策として中等学校の公民科は修身科と統合すべきであるとされてい たわけである。結果的には 1937 年の時点では公民科は修身との統合はなかったのであるが,この ような状況から考えると,このときの要目改訂はその前提としては国体明徴運動の趣旨を公民科 として具体化する必要があったと政府・文部省は考えていたことがまず指摘できる。したがって 内容的には明らかに 1931 年に設定された中学校教授要目での公民科の内容とは異なることになる。

(3)

 では以上のような位置づけを持った改訂の前後に,現場ではどのような議論が行われていたの か。いいかえれば「国体観念の明徴」を旗印に「根抵から覆つた」とされる 1937 年の要目改訂が 現場ではいかに受け止められていたのか,ということについて,ここでは東京高等師範学校に事 務局を置いていた「中等教育会」と広島高等師範学校附属中学校に事務局が置かれていた「中等 教育研究会」という二つの中等教育に関する研究会での議論を中心に検討したい。これらは当時,

中等教育に関する研究会としては代表的なものであり,現場での議論を考えるのに重要だと考え たからである。なお後者の広島高等師範学校附属中学校の「中等教育研究会」では,当時,公民 科主任であった及川儀右衛門が中心的な役割を果たしていたこともあり,併せて及川の公民教育 観についても検討したいと考える。

3 中等教育会(東京高等師範学校)における公民教育に関する議論

 まずここでは東京高等師範学校内に事務局を置いていた中等教育会主催の研究会を取り上げた い。中等教育会は,1908 年に設立され,1931 年時点で会員数およそ 1500 名とされており,当時,

中等教育に関する中心的な研究会であった *10。そのときに公民教育に関連して論議されたのは①

「全国中等学校教員修身及訓育協議会報告」(1924.11)(以下,「修身及訓育協議会」と称する),②

「修身及公民科協議会」(1928.6),③「全国中等学校公民科教員協議会」(1937.3)である。

 1924 年に開催された「修身及訓育協議会報告」はその名の通り,修身教育を中心に議論するた めのものとして開催された。すなわち文部省諮問案として「中等学校に於ける道徳教育を一層有 効ならしむる方法如何」が中心的な議題であった。ただし,「協議題第 1 号」の「中等学校に於け る公民教育の方案如何」では,公民教育に関する議論が行われた。

 また,1928 年に開催された「修身及公民科協議会」では文部省諮問案として「中等教育に於い て国体観念を涵養する良案如何」が提出され,それに対する議論が行われた。ここではその名の 通り,公民科及び修身科における国体観念の涵養の中で主として思想問題に関して議論が行われ たのである。そして 1937 年に行われた「全国中等学校公民科教員協議会」では「中等学校公民科 新教授要目の趣旨の徹底に関し特に留意すべき点如何」という文部省諮問案を中心に討議が行わ れた。

 ここでは,まず 1837 年に開催された「全国中等学校公民科教員協議会」(1937.3)における議論 を中心に前2者にもふれる形で検討する。この時の協議会は中学校の教員を中心に東京高等師範 学校,東京文理科大学,文部省関係者など,およそ 200 名が参加して3日間にわたって行われた。

協議内容は先記したように 1937 年の要目改訂にどのように対応するかということが中心であった。

しかし,その時の論調は例えば「最も根本的かつ全体的な改正」と評された *11改正という評価と は若干論調が異なっていた。例えばこの会議の冒頭では樋田文部省図書監修官によって今回の諮 問の説明が行われたが,その中では次のように述べられている。*12

「斯要目の趣旨は三月末に訓令として要目が出,通牒として趣旨も出てゐるのでこヽに 改めて 申す迄もありませんが,唯念の埓に申添へたい事は,要目は改正されましたが,公民科それ自 体が変つたのではありません。公民科については別に定義はないが,省令によりその要旨が明

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に示してあります。訓令の要目改正によって省令が変るものではありませんから,その要旨は 省令によるべきであります。それでは要目が変ったのは何であるか。これは要目としては変つ てゐるが,これによって公民科の本来の目的が殺揚されたものと御考へ願ひ度いのです。」

 もちろん,当局側の説明である以上,ある程度割り引いて考える必要はあるが,今回の改正は 前回からドラスティックに変わったものではなく,本来の役割を持たせたものであるという説明 であった。そして,この点に関して参加者の意見はそうした変化を当然のことととして受け取っ ていた。例えばこれに対する意見として伊藤新太郎(茨城県下妻中学校教諭)はこの方向に賛同 しつつ,「特に政治生活に関して,根本観念に対し日本的立場に於ける理解を与へることが大切で,

これが教場より社会へ即抽象より具体へと進のであり,経済生活,政治生活にも影響を及ぼすの であります。特に統治権に関してさうでありまして,我が国の他国に異なる点を強調しなければ なりません」とのべ *13,また中川秋坪(新潟高等女学校教諭)はそのことを前提として「新要目 では公民は非常に修身に近づきつヽあり,両者を区別するのは不都合であります。」として修身と の統合問題に触れている *14

 この件については上記のような簡単な意見陳述の後,委員付託による答申案作成に入り,3日 目の午後に答申が報告されている。この際にも意見や質問を受け付けているが,目立ったものと しては稲田正次(東京高等師範学校教授)の「公民科では立憲自治の国民といふ事を入れるべき である。この事はファッショが起り独裁政治が我国体も適合するかの如く考へる傾向があるが断 じてよろしくない」という提案が目立つ程度である *15。結果的には,特に反対意見もなく,原案 をそのまま承諾する形になった *16。すなわち,「最も根本的かつ全体的な改正」とされながら,そ の点については十分な議論が行われることなく,受け入れられたことが知られる。

 それでは,なぜ根本的かつ全体的な改正である要目の改正があまり議論なく受け入れられたの か。そのことを考えつつ,次に 1928 年に開催された「修身及公民科協議会」と 1924 年に開催さ れた「修身及訓育協議会」での議論いに触れたい。

 まず 1928 年の「修身及公民科協議会」についてであるが,このときの諮問案は「中等教育に於 て国体観念を涵養する良案如何」であった。周知の如く,この時期は第一次世界大戦後の好況が 収束し,1923 年には関東大震災後の戦後恐慌の中,社会不安の深刻化の親展に伴って,政府によ る思想問題対策の一環として,「国民精神作興に関する詔書」がだされた。すなわち「思想善導」

のもと,国体主義,国家主義の教育を通して,沈静化を図ろうとしていた時期でもあった。1925 年には治安維持法が施行され,それが同年の京都学連事件,1928 年の三・一五事件等に同法が適 用されるという時期でもあった。

 このときに,例えば文部省督学官であった木村善太郎は次のように述べている *17

「本案を提出した理由は,中等教育に於て,従来国体観念の涵養が,閑却されて居たからと云ふ 訳では,決してありませぬ,御承知の如く,欧洲大戦乱以来,独我国のみならず,世界的思想 の動揺を来し,我国までも波及し,我国の思想界も亦多大の混乱を惹起しました。端なくも,

其の点が,学校方面にも影響を及ぼし,中等學校に於てではないが,其れ以上の學校に,面白 からざる傾向を見ましたことは,教育に関係せらるる方々の,特に憂慮せらるる所と思ひます。

其れに就ては,国体観念の養成に於て,一層研究を進め,又之に對する施設を施すべきものが あるのではなからうか。従来此の点について,充分研究もせられ施設も施されて居るにも拘らず,

(5)

本案を諮問案として茲に提出する所以であります。」

むろん,これは公民科のみに関する議論ではない。周知の如く,この時期はまだ中学校には公民 科は設置されておらず,文政審議会で設置に関する議論が進行中であったことと関連しての議論 であった。しかし,その点についても同じく木村は 「其のみでは,充分でありませぬから,中等 教育に内容に亘つて,改正の必要がある。それで,中等教育の内容に関する調査会を作り,制度 改正案を立て,文マ マ制審議会に調査を願つて居ります。其の案の中心問題は従来の中等教育は,準 備教育に流るるの弊がありますから,之を改めて,実際社会に立ち,国民の中堅として活勤し得 る人格を備へた人を作る事を目的とすることにあります。之と共に,思想混乱の問題も,一は,

国体観念の養成に努むるにも拘らず,徹底しない。更に一層,国体観念を明らにし,忠君愛国の 心を強くすることが大切であるからは,或は学科目の上にも,幾分の改正を施し,公民科を設け,

修身,公民の両科以外の将にも,国民道徳,国体観念の養成にも,一層力を入れることにしたい と思つて居ります。」と述べ,国体観念の養成と公民科の設置が密接な関係であることを述べてい る *18

 こうした説明に対して,参加者間で議論が行われたが,意見としては,国体観念の養成を支持 する意見が多かった。例えば諮問案については3名の参加者が意見を述べているが,原愛雄(岡 山県師範学校教諭)は「従来の教育は,余りに形式的,知識的に傾き,国体観念の涵養を期すべく,

不充分であつた事を痛切に感じ,一層国体観念を明らかにすることを思ふものであります。」と述 べ *19,また伊藤長七(東京府立第五中学校教諭)も他国の国体との比較,情感の養成を重視する 必要を述べつつ,「我国体の萬邦無比たる所以は,既に小学時代から理解し,信じて居るのであるが,

高等教育を受け,其の間,冷たき実社会の空気に触れると,ややもすれば,其の信念に動揺を来 すやうになる。此の点に艦み中等教育に於て,国体観念を養成するに当つては,生徒に産業的,

経済的の方面の知識を与へ,自づから,其の方面に興味を起さしめ,将来其の方面より誘惑の乗 ずべき隙なからしむることが大切である。即ち,国体観念の養成に,産業的,経済的の根底を与 へることが大切であると信じます。」として方法的な提案をしている *20。 

 結果として,この諮問案については,例えば公民科に関するところについては「国体観念ハ国 民精神全体ヲ総合的ニ組織セルモノナルヲ以テ教育ノ全体系ノ上ヨリ之ヲ涵養スルコトを努メ単 ニ之ヲ或ル教科ノコトヽシテ限ルコトナク修身,公民,歴史,地理,国語漢文等ノ教科ニ於テハ 特ニ此ノ点ニ意を用ヒ且ツ此等ノ連絡統一ヲ図ルコト」とされることになった *21。このように 1928 年段階でも,社会的状況を背景に,こうした会議では国体観念の養成が教員の間で,主張さ れていたと見ることができる。

 この時には,その他の協議題として「中等教育に於て思想問題を如何に取り扱ふべきか」が議 論されており,そこでも同様の状況の中で議論が展開されていた。このことから考えると,1937 年の要目改正に先立って,教員の間では,国体観念の養成ということはある程度,許容できるも のとして考えられていたということが推測され,それが故に要目としてはかなりの変容があって も大きな抵抗なく,受け入れられたと言うことが言えるのではなかろうか。

 さらにそのことは 1924 年の「修身及訓育協議会」においても同様であった。この会議では後述 するように,公民教育に対する建議案が取り上げられているが,それと同時に協議題として「国 民精神作興に関する詔書の御主旨をして中等学校に徹底せしむる方法如何」が議論され,公民教

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育に関する建議とは対照的に反対意見もなく,決議が採択されている。そこでは例えば「1. 国体 の審議を理解せしめ詔書の御主旨を精神的に奉体する根本的態度の養成に努めこと」「5. 形式的 注入を避け自発的に詔書の御主旨を実行するやう指導すること」などとされているのである *22 これも直接,公民教育についてではないが,ここでも国体観念の養成とということはある意味で 自然なこととして受け入れられていたということが言えよう。

 そして,むしろこれらの一連の会議で議論が活発だったのは,公民科と修身科との統合の問題,

そして入試にかかわる問題等であった。修身科との統合の問題については中等教育会では以前か ら議論が行われていた。例えば 1924 年開催の「修身及訓育協議会報告」では先記したように協議 題で「中等学校に於ける公民教育の方案如何」が取り上げられ,公民科の必要性,履修の形態に ついて議論されている。この協議題は,既に実業補習学校において「公民科教授要綱」が制定さ れたことを背景に取り上げられたものであり *23,いったんは答申案が作成されながらも結果的に 留保となった *24

その後この案は,1929 年の「修身及公民科協議会」で中等教育会内部の「中等学校修身及公民 科教授要綱調査委員会」の案として報告された後,1937 年には「中等教育会提出議題」として「修 身科と公民科とを統合するの可否如何」として再び提出され,議論が行われている。

 このときには,内容的に両者は異なるのだから,統合すべきでないという意見や逆に国体明徴 という趣旨が同じであるから,公民科と修身科を統合して皇民科にすべきだという意見が出され るなど甲論乙駁の状態であった *25。会議では結果として,委員付託となり,答申案は統合に反対 する案を作成し,結論を得ている。

 一方,このときには入試との関係についての議論も行われている。この時,上級学校の入学試 験科目に公民科を加えることに対する提案として三つの建議案が出され,それについて議論され たのである *26。これは従来,公民科が授業の中で軽視されていることに対する対策の一つとして 提案されたものであった。例えば,同じ号に掲載された戸田貞三による「公民科視察所見」によ れば,公民科に対する提案として専任の教師を各学校に置くこと,教材を内容との関連で学習者 の経験内容を教師が十分理解すること,特別教室等学校内の設備を考えること,教授上の必要な 資料を備えることを視察内容として提案しているが,逆にいえば,当時はそうしたことが不充分 であったということになる *27。さらには当時は「中学校から高等学校への進学は困難を極めた。」

という状況であり,年限短縮の問題とともに進学問題が後の教育審議会での重要な議論になるほ どであった *28

 以上のように,中等教育会の大正期から昭和期にかけての議論を通して言えることは,公民科に おける国体観念の養成に対して教師側がそれほど抵抗感を持っていなかったのではないかというこ とである。現場の感覚から言えば,むしろそのことよりも修身科との関係の中での公民科の科目と しての位置づけや実際の取扱の困難さ,そして入学試験との関わりの方が関心事としては大きかっ た。そのことが国体観念の養成という視点が大きなものとして 1837 年の要目改正に出されながら も,それほど大きな抵抗を受けることがなかった一つの要因ではないかと思われるのである。

 次にもう一つの中心的な協議会である広島高等師範学校附属中学校による中等教育研究会での 公民科に関する議論を検討したい。

4. 中等教育研究会(広島高等師範学校附属中学校)における議論

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 同校による中等教育研究会は,「大戦後国民生活の飛躍的発展と国民思想の新動向に鑑み,中 等学校の教授訓育の実際にも新たに改善刷新すべきもの多く,之に関する各種問題の討究研鑽 を行ふ機会を設くるの緊要なるを思ひ,全国中等学校有志の賛同を得て中等教育研究会を創設 するに至った」ものであり *29,1920 年に創設され,1932 年からは機関誌として『中等教育の実 際』を発刊することになった。また研究会もほぼ年に1回の割合で行われていたが,公民科に 関するものとしては第 11 回の研究会が「公民科研究会」(1935.11)として開催されている。こ の研究会では西日本を中心に中学校・高等女学校関係者が 100 名弱参加していた。このことか ら先記した東京高等師範による中等教育会と並んで現場に対して一定程度の影響力を持ってい たと考えられる。また『中等教育の実際』第8号(1934.3)の公民教育特集号の中に「公民科批 評授業並びに批評会記録」*30が掲載されている。おそらく校内研究会だと思われるが,この二 つの研究会の記録から当時の現場の教員の公民科に対する意識の一端を考えたい。なお,「公民 科研究会」については 1937 年の教授要目改訂の前に当たる。すなわち 1937 年の教授要目の改 訂を受けたものではない。しかし,このときには先に触れたが,1935 年8月と 12 月にはいわゆ る天皇機関説事件を受けて「国体明徴に関する政府声明」が出された時期でもあった。また,こ れら二つの研究会ではともに同校教諭であった及川儀右衛門が「公民科」の授業を公開しており,

さらには「公民科研究会」ではその他に検討課題を設定して文部省に対する提言内容を中心に 議論が行われていた。

 まず第一に指摘できることは,上記のような時代背景の中で行われたことに対して,例えば国 体観念等に関することが殆ど話題になっていないことである。例えば 1935 年の「公民科研究会」

では,及川の「司法」の授業とその検討会の後,公民科に関する調査の報告があり,さらに5つ の協議題について議論が行われている。その時の協議題は , 公民科教科書と時事問題,中学の4年 制短縮論についての問題,公民科と入試科目との問題などであって,特に国体観念に関する問題 は取り上げられなかった。そして結果的に,文部省に建議として提出することになったのは中学 校に於ける公民科の教授時数の繰り下げ・減少への反対と高等女学校に於ける「公民科」時数の 増加の要望,更には入試科目として加えることへの希望などであった *31。また,この会議に先立っ て,全国の中学校,高等女学校千数百校に対してアンケート調査を行っている。それにによれば,

方法的な事項についての聞き方によるものであったためか,中学校で多かったのが「民法等の取 り扱い」や「網羅主義で指導精神が明瞭ではない」ことなどであり,また高等女学校からのもの で多かったのが,「配当時数が少なすぎること」であった。またそれ以外では「教授内容の重複」

を問題視したものや「抽象的内容を5年生に設置すること」など,内容の順序性についてであり,

ここでも国体観念に関する問題は直接には前面には出てこなかったのである *32

 このように,これらの会議では国体観念についての議論は殆ど出てこなかったのであるが,そ うはいっても,国体観念の強調を教員が意識的に避けていたということではない。その一例として,

このとき授業公開をし,いわばこの研究会の中心的な役割を果たした同校教諭及川義右衛門の教 育観を簡単に検討しておきたい。及川は,当時,同校で公民科の担当者であり,またその論考で も公民科の位置を自覚的に考察していた人物であった。

 及川は昭和初期から論考を諸雑誌に執筆しているが,それらをみるとその教育観は国家の特殊

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性を意識した特質を持つべき公民科が,方法的にどのような観点から授業化されていくべきかと いう視点に立っていたということがまず指摘できる。例えば,1931 年の論考では公民科にとって 重要なものとしてまず国家への参与ということを挙げている *33。そして及川にとってその国家と は西欧とは異なり「立憲政治及び自治制度を採用して,皇業輔翼といふ新しい組織を創造しよう といふもの」であり *34それに沿った教科として存在すべきだとされていたのである。この考えは,

その後も国家に対する強調点は強くはなっても,例えば基本線は変わっていない。例えば,日本 と他国との違いについて次のように述べている *35

「我等の国家に於ては,個人の営みが州とか連邦とかいふものを経ないで,すぐ国家の歩みに直 接するやうな態様にできてゐるから,公民科の教育もこの特殊性に立脚しなければならぬ。」

 したがって当初から例えば公民科の内容の配列に関しても国家を先頭に置く形を主張していた のである *36

 このように,その実践では,極端な国家主義的な方向性を示さなかった及川儀右衛門でさえも,

国家の特殊性を重視する姿勢は崩さなかったということができる。ただ,注意すべきはそのこと を教条的に教え込むことを主張していたのかというとそうではなかった。彼は公民教育の方法的 な部分について,しばしばその論考で文部省の意図を批判し *37,授業の中で時事問題の積極的な 取扱を主張し,また実践もしたことを述べておかねばならない。その理由については現実感の重視,

概念や言葉のみの教授に対する批判などを挙げている *38。それでも,その中身についてはあくま でも公民科の役割を国家・社会への協力的な参与という点に置いていたのである *39。こうした論 述から伺えるのは,単純に国体明徴を教え込もうとしている姿ではなく,実際の授業の中でどの ように国家から示された理念と現場との乖離を考えようとしていたかという発想だったのではな いかと考えられる。 及川は先に述べたように二つの研究会で自分の授業を検討対象として公開し ているが,それをみても以上のことは推測できよう。例えば,1933 年の校内研究会では「農村と 都市」というテーマの授業が検討対象となっていた。それによれば,あまり政治性が強くない内 容ではあるが,農村のイメージを考えさせるところから入り,データを使用してその実態をつか ませ,現在の農村の問題を都市中心の現状にあることを強調して終わらせている *40。これは事実 把握から問題の原因を追及する形になっており,極めて客観的な授業構成になっていたといえる。

そしてこのときは授業検討と関わって授業の方法的な評価及び思想問題についての質疑があった が,及川は農村と政治に関わる問題を取り上げても問題はないことを述べている *41。また 1935 年 の研究会でも自らの授業を公開しているが,こちらは先記したような詳細な記録が残っていない。

題材は「裁判所 司法」でありその目的は「司法の意義を知らしめ司法権独立の必要たる所以を 會得せしむ」ことであった。そしてその際,どのように授業を構成したのかというと及川自身の 説明によれば,具体的な実例,見聞から入ること,題材を裁判所に絞ること,実例として大津事 件を引用すること 等が挙げられている *42。むろん,その目的は「天皇の御精神,君民一体の融 合一致,国民の輔翼」としており *43,当時の政治的状況に沿ってはいたが,それにしても行政側 の理念を現場としてどのように吸収しようとしていたのかということについての有り様を示して いたと考えられる。

 なお,及川は 1938 年の論考では国体明徴一辺倒に傾いていく状況に対する批判的な考えを述べ ている *44。このことはあくまで推測としてではありるが,教育行政が「国体明徴」の形式的な強

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化に傾くことに対して現場として対応しづらくなっていたことを表明してるのではないかと考え られる。及川は 1938 年から広島高等師範教授に転出することもあり,その後は公民科に関する実 践的な論考は見られなくなる。

4.おわりに

 以上,1937 年の公民科教授要目の改訂を巡って二つの研究会を事例として現場での反応を検討 してきた。そこから伺えることは,中央の行政側が大きな変革として考えている国家観念の強調 に対しては,現場では実践的問題との対応というクッションによって受け止められていたのでは ないかということが,一応のここでの結論である。特に本稿は中学校を中心に考えてきたが,中 等教育における公民科の位置づけについてはすでに 1931 年の公民科設置の時点から実業補習学校 公民科教授要綱に比較して国家の位置づけが強く出ていたと指摘されていること,したがって現 場では 1937 年の改訂に関しては国体観念の強化という上からの要請をあまり抵抗なく,受け止め つつも,実際の授業を前提に方法的な問題に関する方がむしろ関心としては大きかったのではな いかと考えられる。もちろん,それ以降,戦時体制の強化とともに現場での受け止め方は次第に 変化していくことになると思われるが,そうした経過を辿ることが今後,必要ではないかと考え られる。本発表では,事例として今だ十分な資料分析を行えず,仮説的な結論でとどめざるを得 なかったが,今後,先ほどのような観点から検討を続けたいと考えている。

*1 小山常美『天皇機関説と国民教育』(1989, アカデミア出版会),pp.385-386.

*2 「師範学校,中学校,高等女学校教授要目改正ニ関スル件」(1937.3), 石川謙他『近代日本教育制 度史料2』

(1964, 講談社),p380.

*3 飯野稲城「改正公民科教授要目に就いて」『公民教育』7-4(1937.4),p.20.

*4 斎藤利彦「公民科の変質−昭和一二年における公民科教授要目改訂の内容と性格」『学習院大学 文学部研究 室報』34(1987),p.206.

*5 菊池豊三郎「師範学校,中学校及高等女学校の 教授要目の改正と新教授要目の運用について」『文部時報』

584(1937.5).

*6 国立教育研究所編『日本近代教育史 5 学校教育(3)』(1974, 文唱堂)「第七編 戦時期」pp.877-878.

*7 「教学刷新ニ関スル答申」(1936.10.29) 前文,石川謙他『近代日本教育制度史料 14』(1964, 講談社),p.437.

*8 「現下ノ時勢ニ鑑ミ,教学刷新ノ実ヲ挙グルタメニハ,一層教学ノ精神・内容ヲ重視シ,国体・日本精神ニ基 ヅク教育的学問的創造ノタメニ力ヲ用ヒ,叉コレヲ本トシテ十分ナル指導・監督ヲナス必要アリ.」同上「第 一 教学刷新ノ中心機関ノ設置」,p.437.  

*9 同上「第二 教学刷新上必要ナル実施事項 二 学校教育刷新ニ関スル実施事項 (一)学科目 ニ関スル事 項」,pp.436-442.

*10 東京文理科大学・東京高等師範学校『創立六十年』(1931),pp.309-310.

(10)

*11 近藤恭一郎「改正要目に見る日本的公民教育への志向」『公民教育』7-5(1937.5),p.39.

*12 「全国中等学校公民科教員協議会報告」『中等教育』87(1938.3),p.23.

*13 同上 ,p26.

*14 同上 ,p.27.

*15 同上 ,p.55. 稲田のこの発言はこの時期としては注目すべきものであるが,この点については別に検討するこ とが必要であると思える。

*16 この時の答申内容は以下の通りである。

  中等學校公民科新教授要目ノ趣旨ヲ徹底セシムルニハ特ニ左ノ各項二留意シ之ガ実現二力ムルコトヲ必要ト 認ム

一,担任者トシテ特二留意スベキ点

 (一)常二公民科ノ究極目的ヲ体認シ教授訓練二宮当ルコト

 (二)我ガ尊厳ナル国体ノ本義ヲ体シテ大同民タル資質ノ育成ニ力ムルコト  (三)新教授要目ノ趣旨ヲ体シ一層研鑽工夫ニ力ムルコト

 (四)全校的協カニ依リテ公民的訓練ノ実ヲ挙グルコト 二,富局トシテ特二留意セラレタキ点

 (一)公民科教員ノ資質向上

   (1)教員養成機関ノ整備拡充ヲ図ルコト    (2)教員再教育ノ施設ヲナスコト

   (3)教員ノ研究會,協議會ノ奨励助成ヲナスコト  (二)公民科ノ指導

(1)指導督学機関ヲ充実スルコト

(2)教授用資料ヲ常局二於テ作製配布スルコト  (三)公民科ノ重視

   (1)上級學校二於テモ汚公民科ヲ重要諮視シ入学者選考ノ場合等ニモコノ点ヲ顧慮スルコト    (2)規定ノ公民科教授時数ヲ他学科ニ流用セザルヤウ監督スルコト

 (同上 pp.68-69).

*17 「修身及公民科協議会記録」『中等教育』65(1929.6), p.19-20.

*18 同上 ,p.21.

*19 同上 ,p.25.

*20 同上 ,p.26.

*21 「答申 細案 八」, なお,この答申は「要綱」と「細案」からなっており,前文と「要綱」は以下の通りである。

  (同上 ,pp.63-64)

 中等教育ニ於テ国体観念ヲ涵養スル良案如何    答 申

 中等教育二於テ国体観念ヲ涵養スル方案

 教育勅語其ノ信仰歴代ノ聖訓ヲ奉ジ其ノ御趣旨ヲ徹底セシメテ国体観念ヲ涵養スル為二其ノ要綱及ビ細案ヲ  定ムルコト左ノ如シ

   要 綱

(11)

 1.国史ヲ本トシテ我ガ国体ノ精華ガ君民一体ノ愛ノ生活ヲ永遠二創造スルトコロニ存スルコトヲ明カニシ   之ヲ尊重スル念ヲ益々深カラシムルコト。

 2.我ガ国体ト現代ノ社会問題思想問題トノ交渉ヲ明カニシ此等ノ問題ハスベテ国体ヲ本トシテ解決セラル ベキモノタルコトヲ合理的ニ説明シ国体ニ對シテ疑惑ヲ存セシメザルコト。

 3.現代ノ世局ニシテ国体ニ関シ不健全ナルモノニ封シテハ正当ナル批判ヲ下シ之ヲ革新セントスル志気ヲ 作興スルコト。(この後に 20 の細案が記されている。)

*22 「全国中等学校教員修身及訓育協議会報告」『中等教育』50(1925.1),pp.100-101.

*23 上記,協議題調査委員であった池岡直孝による説明,同上 ,p.31.

*24 これは公民科を設定する案と修身科に公民科を統合する案が並立的に出されていたためである。「公民教有 中の教授に悶しては中等學校に於ける法制経済科に代ふるに公民科を以てせんとする案と法制経済科を廃し て公民科の内容を修身科中に包括せしめんとする案との両案あれども共に一長一短ありて軽々しく優劣を決 すべきにあらす」(「中等学校に於ける公民教育の方案如何」 『中等教育』50(1925.1),p.101.

*25 「全国中等学校公民科教員協議会報告」『中等教育』87(1938.3),pp.28-32 及び pp.60-61 参照.

*26 提出された建議案は以下の通り。

 1 上統学校入学試験科目に公民科を加へることを其筋に要求しては如何

 2 公民科は修身科と相侯つて学校教育の中心をなすものなれば上級学校入学試験に修身科又は公民科を課 する様其筋へ建議しては如何 

 3 公民科を上級学校入学試験科目中選択科目中にても加へらる々様典筋へ建議しては如何 (同上 ,p.12)

*27 同上 , 戸田貞三「公民科視察所見」同上,pp.3-7

*28 これについては米田俊彦『教育審議会の研究 中等教育改革』(1994, 野間教育研究所)「第 1 章 教育審議 会発足段階における中等教育の諸状況と改革課題」参照。

*29 広島文理科大学・広島高等師範学校共編『創立四十年史』(1942), (日本教育史文献集成 :2, 師範学校沿革史 の部 :8<1982>),p.223.

*30 この研究会については開催日時が明記されていないが,雑誌の掲載年月日から,1933 年に開催されたと考え られる。

*31 文部大臣宛の建議内容は次のようになっている。

  「文部大臣 松田源治 殿 十一月ヨリ同六日マデ三日間本学附属中学校ニ於テ開催セル第十一回中等教育研   究会公民科教授研究会ニ於テ先ノ通決議致候ニ付実現方御考慮相煩ハシ度及上申致

  候  記 

一,中学校ニ於ケル公民科教授ノ始期ヲ現行ヨリモ低学年ニ繰下ゲ若シクハ毎週教授時数ヲ減少スルガ如キ コトハ生徒ニ対シ公民的教養ヲ与フル上ニ多大ナ支障アリト認ム学制ノ改革ニ際シテハ深クコノ点ニ留意 セラレンコトヲ望ム

二,高等女学校ニ於ケル公民科ノ教授時数ヲ毎週二時間ヅヽトナスヨウ法規ヲ改正セラレンコトヲ望ムナホ 公民科ノ重要性ニ鑑ミ上級学校入学試験科目ニ公民科ヲ加ヘラレタキ旨相当多数ノ希望アリタリ」

  なお,協議題は以下の五つである。

 1.公民科教科書以外に時事問題の解説をなす必要ありとすれば其の範囲並に取扱の程度如何

 2.中学校四年制は公民科の教授を徹底せしむるに支障多し,之に反対の意思を表示するの必要なきや 

(12)

 3.高等女学校公民科教授時数を毎週二時間づゝとなすことを建議しては如何   4.公民科教科書を統一して国定となすの件  

 5.上級学校入学 試験中に公民科を加ふること     以上『中等教育の実際』15(1935.12),p.60.

*32 同上「中等教育公民科研究会要録 第一部 調査報告」参照。

*33 「公民科の主たる職能は,国家思想の涵養,社会生活の理解,経済観念の養成並に公民的徳操の陶冶により,

国家社会の諸種の機構や運営を理解し,その成員としてこれに参加し各自の責務を果たし得るうな教養を施 す点にある。」及川儀右衛門「公民教育の創設(二)」『学校教育』212 (1931.2),p.24.

*34 「国家組織の原理を異にしまた社会の形態を異にする我が国が,立憲政治及び自治制度を採用して,皇業輔 翼といふ新しい組織を創造しようといふものであるから,決して一朝一夕にでき上がるものでないことは勿 論である。」同上 .p.17.

*35 及川儀右衛門「価値転換と公民科教授要目」『公民教育』7-2(1937.2), p.53.

*36 「我が国の如く地方自治制から出会して中央の政治関係に及ぶ体制をとらすに(形式上はとも角として)中 央の政治関係が地方自治の趨向を決定するやうな国家に於ては,あながちに生活環境として郷土生活よりも 国家生活が縁遠いものと断定することができない。否仮に郷土生活が近縁の関係にありとしても,それが被 教育者の経験の針象として国家生活よりも価値と興昧とを感ぜしめるものとは限らない。・・・・併しなが らこれ等のいろゞな事情から考察して,わが中等教育に於て課せらるべき公民科の教材は,やはり上述の第 二案を骨子とするもの即ち国家家生活を出発点とし,その中心機能を基本として社会生活,郷土生活,家族 生活に及ぼし,それ等の生活が現代の国家に於て如何なる地位を占め,また如何なる意義を有するかを明か にすることができるやうな排列を採用する方が妥当であると思はれる。」前掲注 33,pp.30-31.

*37 「時の問題を公民科教授の実際にとり入れることの可否については,いろいろな議論を免れない所であると 思ひます。この点に関する文部省の態度は,大体に於て消極的で,公民科は事実を知らせることを主とし,

殊に現在の問題に直接触れて論議することをなるべく避けるやうにせよといふのであります。併しかういふ 註文は放送か或は大衆相手の講演などには尤もに聞えるが,実社会に漸く興味をもちかけた青年子女を相手 にして,国家社会に闘する一通りの理解を具へようとする我々の仕事は,さういつもいつも相手の質問を封 じ込めて置くわけにも行かず,またどの質問もどの質問も,不得要領な答弁答をして逃げるわけには行きま せん。殊に場合によっては,現在の社会にありがちな階級的な或は党派的な立場から,利害打算のみを本位 とするやうな種類のゆがんだ着眼,観察,批判などを是正して全体的な正しい適切な見解にまで導くことが,

公民科の負担すべき重要な分野であることを考へると,我々は時事問題に対してもっと積極的な態度をとる べきであると思ふものであります。」及川儀右衛門「公民科と時事問題」『中等教育の実際』15(1935.12),p.26.

*38 「公民科の教授に時事問題をとり入れる利益は,大体次の如き点にあると思ひます。

1,教材を具体化して教授事項に現実感を具へ理解を容易にすること。2,時の動きについての関心をもた しめ国家生活,社会生活についての自覚をよび起す機会をつかみ得ること。3,国難,非常時などいたづら に概念や言葉をふり廻す傾向を矯め,よく事変の真相を究め事物に對する着眼,観察,批判等につき適切な 指導をなす機会をつかみ易いこと。4,必ずしも生徒の多数が読むとは限らないけれど,新聞雑誌の記事を 読解したり,或は他人の講話などを素地を具へること。5,時事問題を掲示若しくは特別講話などの形に於 て取扱ふときは,公民科がまだ課せられてゐない下級の生徒に對しても,公民科的関心を早くからもたしめ 得ること。

(13)

 故に私はむしろ適当な方法によって,時事問題実際問題をとり入れて,公民科教授の実効を挙ぐべきこと を主張するものであります。」同上,p.27.

*39 「然らばそれ等の問題をどれだけの範園までとり上ぐべきかはつまり問題選択の範園如何,といふことにな りますが,それは一々具体的なものについてはとも角,概念的に空に申すことはあまり本意ではありません けれど,御参考までに只今私のとって居ります態度を申上げて見ようと思ひます。1,国家生活,社会共存 生活の立場から観察し得る事象を採り,国家についてはなるべく自国の特殊性とこれに對する自信,社会生 活については互助共栄の精紳を高調するやうな材料をとること。2,外国の事項については国情の差異及び 我が国との関係に重きを置き,世界の視聴を集めるやうな材料をとること。3,教化の價値高く生徒の人生 観や実生活によき指標を具へ,且つその理解力に適応するものを選ぶこと。4,なるべく多方面に亘り政治 経済等に局限しないが,同時にたゞ徒らに多きを貪らず,特にこの種の取扱をしなければ中学生としては大 多数が知らずに済み,またそれで差支ないやうな事変は拾ひ上げないこと。5,目先のかはつた新しい事件 のみ追ふことを避け,事件の推移で見定めがつかす,教師自身問題の真相について理解が不充分であり,種々 の臆測が下されるやうなものはとり上げないこと。6,どこまでも教授の資料であり教村の具体化のためで ある点に重きをおくこと。7,事実そのものをヌキにして単にこれに對する批判のみを具へることを避ける こと。」同上,p.28.

*40 「公民科批評授業並びに批評会記録」『中等教育の実際』8(1934.3),pp.76-86 参照。

*41 及川は議論の中で参観者から農村の開発については思想問題等にも関係してくるので現実の農村の問題を扱 うことに対して注意が必要である旨の意見が出たことに対して次のように答えている。

   「さき程から問題になりましたことについて申上げます。まづ思想問題ですが,たしかに言はなければ生徒 が気がつかずにすむのを,話したために妙な考を抱かせるやうなことが公民科には比較的多いと思ひます。

それについて概念的に要約して申上げることはむづかしいですが,とに角一般的には大体今日位の調子に やって行きます。それに對して何か違った考をもってゐる生徒があれば,それが思想的によほど強く傾いて ゐるものでない限りはきっと反証なりを挙げて質問して来ます。その質問の處理はそれこそ千差萬別でよい と思ってゐます。あるものは笑殺してもよし,あるものはもっと深く或は廣く考へて見よと反省を求めても よし,あるものは同じ組の仲間の生徒に答へさせてもよし,質問者の性情に応じて適宜にやって宜しいと信 じてゐます。」同上 , pp.96-97.

*42 「更に賞際取扱の点については,まづ(一)具体的な実例,見聞等から入ることを念とし,司法の定義的取 扱を避けて,裁判から帰納せしめようとした。・・(二)なるべく根本的な材料を整頓して,いたづらに間口 をひろげ多きを貧らない方針で,例へば裁判所のことは裁判一点ばりで,後に出て来る調停,供託,登記等 には触れることを避け,司法権の独立についても,最も重きを行政権との関係に置き,これを中心とし多岐 に亘らないやうにした。・・(三)実例として司法権の独立を説くに,児島惟謙と大津事件を引いたことは,

議論の余地もあらうと思ふが,この事件は単に国内の問題たるばかりでなく,事外交に関聯し,叉條約改正 を控えて對外信用国家の威信などに関する標式的なものと信じたからで,最近の事例にもないではないが,

殊更に引例として用ひることを避けたのである。」「第十一回中等教育研究会公民科研究会記事」『中等教育 の実際』15(1935.12),p.59.

*43 「それで裁判所といふ章に於ても,賞は単に裁判所乃至は裁判に関する法理を教えることでなくて,1. 司法 の作用を通じて表現せられる天皇の御精神 2. 裁判を公明正大ならしめ君民間の融合一致をはかるための 国法の局到な用意等を法の規定にもとづき明瞭に認識せしめ,従って 3. かくの如き同家の用意に対応す

(14)

る国民の輔翼,奉仕が如何にあるべきかを正しく自覚せしむることが,公民科として最も力を注ぐべき根本 でなければならぬ。」同上 ,pp.58-59.

*44 「近時の公民科教授要目改正に際しては,あまりに国体明徴一本調子になり,その事が決して不必要なわけ ではないけれど,併し機関説たる水禽の羽音におどろいて,京都まで逃げ変つた平家の公達を思はしめるも のがないでもない。国体を明徴ならしめんとして,徒らに概念的な法理諭などを弄ぶやうでは,むしろ角を 矯めて牛を殺すの愚に陥るのである。立憲自治の民といふのは,被治者たると同時に士たり大夫たることを 要する。否士たり大夫たりながら被治者たることを要するもので,皇運の扶翼には,遵法者たると同時に経 綸者でなければならぬ。奉教人でありながら同時に宣教人でなければならない。かヽる意味合ひから,公民 科は決して国体明徴のみに限定せらるべきではない。『法科的』なものを包含しつヽひろく経綸のための教 科,教育として,学校教育の内容なり志向なりを是正すべき軽からざる使命を負担することを忘れてはなら ない。」及川儀右衛門「忘れられんとする公民科の一面」『公民教育』8-5(1938.5),p.5.

参照

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