『緋文字』論
著者 谷本 泰子
雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学
巻 28
号 1
ページ 21‑34
発行年 1979‑11‑15
その他のタイトル On The Scarlet Letter
URL http://hdl.handle.net/10105/2467
奈良教育大学紀要 罪28巻 第1号(人文・社会)昭和54年 Bull. Nara Univ. Educ, Vol.28, No.1 (cult. &soc.), 1979
『緋 文 字』論
谷 本 泰 子 (外国語教室) (昭和54年5月1日受理)
は じ め に
19世紀中葉、 「アメリカン・ルネッサンス」と呼ばれる時期に、エマソン(Ralph Waldo Emerson)やソロー(Henry David Thoreau)やホイットマン(Walt Whitman)などの言わ
トランセンデンfl)スト
ゆる超絶主義者たちが、人間の内なる光と可能性について熱心に論じ、高らかに歌っていた頃、
ホーソン(Nathaniel Hawthorne, 1804‑64)は17世紀二ュ‑イングランドのピュリタン社会を 舞台にした諸作品の中で、人間存在にまつわる暗い罪を描き続けた。このホ‑ソーンがピュリタ ン作家であるか否かということがよく論じられる。 「ポーソーンのピュリタン的罪の意識は文学 的想像力の産物であり、彼の本質的な精神状態を示すものではない。彼は素朴で良心的で平凡な 人間であった」とする意見もあり(HenryJames'など)、また「ポーソーンはピュリタン作家 である。ただ、彼の生きた19世紀のロマン主義的な時代風潮を意識していた」とする意見もある (RandallStewart12 など)O また、よくなされる方法として、ホ〜ソーンの作品に描かれた偏 狭で無慈悲などュリタン像を示すことによって、 「ホ‑ソーンはピュリタンに批判的である。だ から彼はピュリタン作家ではない」とする意見もある。読者や批評家の意識によって比重のかけ 方はさまざまだが、 I+‑ソーンがピュリタン的要素とロマン主義的要素の両方をかねそなえた作 家であったことは誰しも異論のないところである。
ホ‑ソ‑ンが小説家として興味深いのは、アメリカの17世紀的ピュリタニズムと19世紀半ばの ロマン主義を、その個性の中に同時にそなえていることである。ホーソーンの初代の先祖は、信 仰の自由を求めて17世紀の初めにアメリカに渡ってきたウイリアム・ホーソーンであり、二代目 の先祖はセイレムの魔女裁判の判事の一人として名を残したジョン・ホーソーンである。代々セ イレムの町に住みついた旧家に生れ育った19世紀の小説家ホーソーンは、ピュリクエズムを身近 なものと感じずにはいられなかった。彼は先祖のピュリタンたちとの関わり合いについて『緋文 字』 {The Scarlet Letter)の序文(HThe Custom‑House )の中で語っている。彼は少年時代か ら、先祖のピュリタンの世界を現実よりももっとリアルなものと感じ、先祖の栄誉を誇りに思う と同時に、彼らが犯した罪(クエーカー教徒迫害や魔女裁判など)を我がことのように恥じてい た。ホ〜ソーンの血の中にピュリタニズムが流れていたと言うよりも、人一倍鋭敏な感受性と豊 かな想像力が彼を過去の世界へ惹きつけたのであろう。ホ‑ソーンはピュリタンたちを批判的に 描くときも、自らをその代理人と感じずにはいられなかった。その意識が彼の多くの作品の基調 をなしている。その意味ではたしかに彼はピュリタン作家であった。しかし、やはりホ‑ソーン は1 9世紀のホ‑ソーンであり、ニューイングランドを中心にして高まりを見せたロマン主義的 な思想とは無関係ではいられなかった。まずェマソン、ソロー、マーガレット・フラ (Margaret
トヲンtンデンタl)スト
Fuller)らの超絶主義者たちと個人的な交流があったこと、超絶主義者たちが始めた実験農場ブ
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ルック・ファ‑ムに一時参加していたことなど、外的な関わり合いを指摘することができる。そ れだけではなく、たとえば『排文字』の有名な森の場面に見られる人間観・自然観は、エマソン などに比べてもはるかに異教的でありロマン主義的である。
ホ‑ソーンの作品の中には闇と光が交叉しており、闇が暗いだけに、束の間のものであれ光 は明るく輝きわたる。そして光が明るいだけに、闇はいっそう暗さをましている。 Richard H.
Fogle(なども論じているように、 「光と闇」というのがホーソ‑ンの作品の顕著な特徴であり、
主として闇の部分は彼のピュリタン的人間観を、光の部分は彼のロマン主義的人間観を示してい る。しかし、 「光と闇」、あるいは「光と陰(影)」の持つ意味は、それぞれの作品のコンテクストの 中で少しずつ内容が異なっている。天上的な神の摂理と罪深い人間存在の対比を示す「光と闇」、
人間本来の生命力とピュリタニズムの厳しい抑圧の対比を示す「光と陰」、神の摂理とも人間の 自己信頼とも無縁な、光も実体もない無意味な人間存在を示す「影」など、いくつかの型に分類 することができる。
ホ‑ソーンの作品におけるピュリタン的要素とロマン主義的要素というのは、人間存在の暗い 部分と明るい部分、否定的な部分と肯定的な部分を意味しており、ホーソーンの二面性は人間存 在に対する彼の二面的な見方を示している。ホーソーンは歴史的な資料を読みながらピュリタン 社会を描き、意識的・無意識的にロマン主義思想の影響を受けながら小説を書いたのであるが、
結果的には彼は自らの心をのぞき込み、そこにある光と闇の導くままに作品を書いた、と言って いいだろう。特に彼が孤独な修業時代に書きつづった諸短編に登場する罪深い人間の姿には、キ リスト教的原罪だけでは説明できない人間存在のむなしさが描かれている。人間の非存在感、孤 立感、存在の無意味さ、影の如き現世から意味のない死へと移行していく人間存在の不可思議さ の中に、ある種の現代性を見出すことも可能である。神を失なった20世紀人の姿を予見している
と見ることもできる(Jac Tharpe はホーソーンとカフカの世界の類似性を指摘している<4>¥/。
ホ〜ソ‑ンの作品は地理的・歴史的な特徴が濃厚であり、ピュリタニズムやニューイングラン ドの風土を十分理解することによってはじめて、その本質を理解することができると言われてい る。それはたしかに事実だが、彼の作品が扱っている問題は普遍的なものであり、深い洞察力を 持って描かれている。ホ‑ソーンが宗教家でも思想家でもなく小説家であり、するどい直感力と 感受性、豊かな想像力をもって、人間の心や魂について深く考え続けていたことが、彼の作品に 普遍性を与えているのであろう。彼は一つのドグマのために他の真理を切り捨てることはせず、
物事の表と裏を同時に暗示することのできる作家であった。彼の作品における暖昧性も、このよ うなところからきており、暖昧性(ambiguity)というより二面性(ambivalence)である。本 稿ではホ‑ソーンの代表作『緋文字』 (The Scarlet Letter, 1850)を通して、今まで述べてきた ようなホ‑ソーンの作品の特徴を明らかにしてみたい。 『緋文字』はピュリタン的色彩のもっと も濃厚な作品であり、 20世紀後半の日本人とはかけ離れた内容のものであると思われがちだが、
決してそうではない。われわれの解釈を十分に受け入れるだけの広さと深さを持った作品である。
1 ロマンスとしての『緋文字』
『排文字』には四人の主要人物が登場する。第‑は女主人公のヘスタ・プリン(Hester Prynne), 彼女は神と社会の錠にそむき、夫の不在中に若い牧師を愛して不義の子を生む。そのためピュリ
タン社会の罰を受け、生涯「姦通女」 (Adulteress)の印「A」の緋文字を胸につけて暮す。恥
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を外にさらしながらも、一種の威厳と尊大きを内に秘めている。第二は不義の相手ディムズデル (Dimmesdale),彼は徳の高い模範的などュリタン牧師であるため、自分の罪を公けにすること ができない。罪と偽善から生じる良心の珂責にさいなまれながら、外面的には、天使にも劣らぬ 清らかな牧師として敬愛されている。第三はヘスタの年老いた夫チリングワース(Chillingworth)。
彼は身元を隠して牧師に近づき、牧師の心に罪の印を捜し出そうとする。他人の心の聖域を犯す という罪に陥り、悪魔のような人間に変貌する。第四はヘスタの不義の子パール(Pearl)。彼女 は神と人間社会の錠の外に生れたために人間的な心を持たず、妖精か野性の動物のような子供で あったが、最後に父親の罪の告白と死によってあがなわれ、人間社会に帰属を許され、幸せな少 女に成長する。
四人の人物像は以上のような解説ではぼ説明し尽される。彼らは特定のキャラクターを持った 生きた人間というよりは、 「姦通」という罪の姿を、あるいは罪の結果を、さまざまな角度から アレゴリカルに描くために肉体を与えられて登場している、という印象を与える。作者は各人 物を罪との関わり合いを示す強烈なイメージを用いて描いているO ホ‑ソーンは自己の作品を Romanceと呼び、 Novelとはちがった効果を求めたが(5)、 『排文字』の単純さ、統一性、アレゴ
T)一性など、ロマンスの特徴を示している。
『排文字』を統一のとれた単純なアレゴリ一風のロマンスであると分類した上で、このロマン スにはいくつかの複雑で重要な問題が含まれており、見かけほど単純な作品ではないことを指摘 しなければならない。作品発表以後さまざまな解釈がなされてきた。それぞれの解釈はホ〜ソー ンの特徴を解明すると同時に、それぞれの批評家の立場や個性を示している。ロマンスとしての 単純さと明快さを持ち、同時に複雑な内容を持ったこの作品は、読者や批評家のさまざまな挑戦 を受けながら、その新鮮さを保ち続けている。ホーソーの代表作であるのみならず、すぐれた古 典としての資格を十分にそなえている。
『排文字』のどのような点が複雑なのだろうか? ホーソーンの作品の特徴を表わす言葉とし て「暖昧さ」という言葉がよく用いられるが、この作品にもその特徴が寂著に現われている。ピ
ュリタン的な「罪」がこの作品の主題であることはまちがいないが、罪と愛の問題がからみあっ て女主人公の中に示されているために、読者の主観によって時には正反対の印象を与えることに
なる。罪と愛が時には対立的に、時には一枚のコインの裏表として描かれている。同じように美 と真実が時には対立的に、時には同一のものとして描かれている。各人物を通して作者が何を伝 えようとしているかを分析した上で、最終的なテーマをさぐってみたい。
2 ヘスタの罪と愛
「姦通」をテーマにした文学作品は古今東西を問わず無数にあるが、 『緋文字』は他の姦通小 読‑たとえば『アンナ・カレーニナ』や『ボヴァリー夫人』‑とは全く異質な作品である。
ヘスタとディムズデルの不義の関係は小説の始まる以前の出来事であり、小説の中では恋愛場面 は皆無であるし、男女の愛についての言及はきわめて控え目である。それでは、もっぱら罪に対 する悔い改めと試練を通しての償いを描いた作品かと言えば、そうであるとも断定できない。女 主人公は最初から最後まで、ピュリタン道徳とはまったく異質な人間中心的な道徳の下に生きて いる。もちろん作者はヘスタのこの特質を手ばなしで肯定しているのではないが、否定的にのみ 描いているのでもない。作者は人間的な愛や生命力の中に美を認めているが、それが罪と結びつ
いた場合どうなるのか? 舞台は17世紀のニューイングランド(ボストン)であり、その土地の 道徳的規範に対しては女主人公も作者も純粋に第三者ではあり得なかった。
物語の冒頭でヘスタは「姦通」という大罪を犯した女として、胸に緋文字をつけ、不義の子を
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抱いて晒台の上に立たされる。彼女に非難と嫌悪の気持を投げつけるお上さん連中のきつく醜い 顔とは対照的に、日の光を受けてヘスタは美しく輝き、聖母の姿にさえ例えられている。彼女は 孤立しているが、それは極度の恥のためというより、尊大きのためとも受けとれる。ヘスタの美
しきに対して、彼女を弾劾する民衆の厳しさ、醜さ。牢獄の周辺におい茂る雑草の醜さに対して、
かたわらに咲く野バラの美しさ。これらの美と醜の対比は単なる情景描写以上の意味を持ってい る。 H. Waggonerはホ‑ソーン論̀5'の中で、物事の善悪、美醜の関係について次のように分析 している。薄の中にも natural good (beauty, health など)と moral and spiritual good (holiness)があり、悪の中にもnatural evil (ugliness, death など)と moral evil (sin)と がある。そして、野バラの美しさはmoralでもimmoralでもないが、たしかに肯定的な意味を 持つものである、と。ポーソーンは野バラとは対照的な醜い牢獄を、 「文明社会に咲いた黒い花
(the black flower of civilized society17')」と呼んでいる。
ニューイングランドにユートピア建設を夢みてやってきたピュリタンたちが、時を経ずして牢 獄と墓場を造ることになった、という『排文字』の冒頭の部分の文章は、人間の営みがいかに罪 深いものであるかを語っている。ホ〜ソーンの作品では「罪」という場合、強盗や殺人のような 世俗的な罪よりも、クエ‑カー教徒とか魔女などのような宗教的・道徳的な罪を指している。そ
して罪人よりもむしろ、他人の心の中をあばきたて、その罪を罰する権利を持っていると考えて いるピュリタンたちに批判が向けられている。 natural good と natural evilは美醜というはっ きりした形で現われるが、 moralとかimmoral,あるいはsin は何を基準に考えるかによって 内容が異なってくる。ヘスタの姦通のように、明らかな罪であったとしても、人間的な愛と美に 結びついた場合、それを肯定的に見るか否定的に見るか、暖昧にならざるを得ない. 『排文字』の 発刊当時、はなはだしく不道徳な小説だという非難もあった。今日の読者はそのような観点から この作品を攻撃する者はいないだろうが、不道徳であるとある種の人々を激怒させる要素がこの 作品の中にあるのは事実である。恐ろしい罪の意識と平行して、 Adulteryという言葉の持つぞ
っとするような美しきを晒台に立つ女主人公の中に感じずにはいられない。
さて、その後のヘスタのボストンでの生活は正に聖徒のそれを思わせるものであるが、この↑
スタの生き方についても議論すべき点は多い。ディムズデルとはちがって、ヘスタは堂々と罰を 受け、恥の苦しみに耐えることによって魂を清め、聖人のような風格を得るにいたった。彼女は 病んでいる者や苦しんでいる者にいつも援助の手をさし伸べる。そして歳月を重ねるうち、彼女 の胸の排文字の「A」はAble (有能な)の意味だと考えられるようになる。二人の男と比べる
と、ヘスタははるかに威厳に満ちている。このように忍耐と奉仕による罪の浄化が一方で語られ るが、作者は次のようにも言っている。 「実際には排文字は何らその役目を果していなかったの だ。 (The scarlet letter had not done it's office.181)」へスタは子供のパールが支えとなってど
うやらピュリタン社会に留まっているが、排文字の生み出す不思議な魔力によって社会から孤立 し、彼女の精神は荒野をさまよっていた。社会への復帰に望みをかけることのできないへスタは、
ピュリタン社会ではきわめて危険だと考えられていた急進的な自由思想にとりつかれたり、女性 の生き方や人間の生命について懐疑的になり、パールとともに今すぐ天国に行った方がいいので はないかという恐ろしい考えにさいなまれる。作者はこのような精神状態を「心の荒野」と呼び、
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それを憂い、不吉な行く末を警告しているO
『排文字』の中心部をなす森の場面(16章〜19章)において、ヘスタの心の荒野がいかなるも のであるかが、非常に鮮明に印象深く示される。作者はこの場面を陰欝な調子で書き出し、ヘスク が心に抱いていた計画を「またもや起ろうとしている悲しむべき秘密(some mournful mystery that was yet to happen'9り」と呼ぶこよにより、ヘスタの行動を否定的に描いている。しかし 場面が進行するにつれて、作者の姿勢が一面的でないことがわかる。ディムズデルに会うために
‑スタがパールを連れて森に出かけて行った時心に抱いていた決心、すなわち、チリングワース の魔手からディムズデルを救い、自分たちの愛を成就させ、パールに真の父親を与えるために、
ピュリタン社会から脱出しようとするへスタの決心に対して、作者がどのような見方をしている か非常に硬味である.作者は森の場面に闇と光を交互に投げかけることによって、この場面が持 つ二重の意味を伝えようとしているO森の場面の書き出しは陰欝で不吉な調子を帯びている。そ れだけに、ヘスタが胸の排文字を投げすて、灰色の帽子をとり去り、豊かな黒髪を肩にたらして ディムズデルにはは笑みかけた時、それに呼応するように、太陽が雲間を出て満目の光が森をつ つむ瞬間は、高らかな愛の勝利と受け取ることもできる。作者は次のように述べている。 「それ
はこの二人の魂の至福に対する森の自然の共感である。人間の法則を受けることもなく、より高 い真理にもまだ照らされていない、野性で異端な自然の共感である(Such was the sympathy
of Nature that wild, heathen Nature of the forest, never subjugated by human law, nor illumined by higher truth with the bliss of these two spirits/<10))J
野生で異端な森の自然、それは人間がキリスト教を知る以前に原始的な愛や生命力だけを基準 にして行動することを許されていた頃の姿を連想させる。ヘスタの心を支配していた法則は、そ ういう時代の人間にふさわしいものであったろう。あるいは逆に、新しく目覚めた女、ピュリタ ン的な古い道徳や過去の罪にしぼられず、力強い愛の力で新しい生活をきり開いてゆく女の生き 方を示すものである。チリングワースとの愛のない結婚生活こそ最もいとわしい罪であった、と ヘスタは考えている。そしてディムズデルに向って言う。 「わたしたちのした事には、それ自体 神聖なところがありました(What we did had a consecration of its own.(U)月と。これは今 日的な考えからすればよく理解できる。しかしピュリタン的見地からすれば、これほど罪深い考 えはない。親子三人でピュリタン社会を脱出し、大西洋のむこうに安住の地を見つけようとする 計画は、 ‑スタにとっては自然なものであり、彼女の本性に沿ったものである。彼女は七年間胸
に排文字をつけてピュリタン社会に留まった。この地を離れることもできたのだが、罪を犯した この地こそ彼女の居場所であり、また、愛する男がいる場所なのだ。しかし今、その男が復讐の 悪魔の毒牙にかかって、精神的にも肉体的にも破滅寸前にあるのを知って、彼女はニューイング ランドを去る決心をする。彼女の決心の最大の動機は愛する男のためであり、彼女の女としての 優しさと力強さを示している。それに彼女は元々ピュリタン社会とは異質の人間である。外の世 界に出れば罪と恥の屈辱も消えてしまい、彼女は自由になる。
ヘスタにとっては、この計画は肯定的・積極的な意味を持っていた。しかし、ディムズデル牧 師にとっては、それは全くちがった意味を持っていたのだ。次にアーサー・ディムズデルに焦点 を合わせて論じてみよう。
3 「秘めた罪」と「あぱく罪」
ディムズデル牧師のような男が、一時的な情熱のためとは言え、いかなる精神的飛躍の下に人妻 のヘスタと不義の関係を持ったか、読者にはほとんど想像がつかないほどである。その経過につ いては何も語られないままにこの小説は始まる。不倫の行為は一年以上も前になされたことであ
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り、赤ん坊という証拠だけが残っている。晒台に立つ罪の女に対して、 ‑だんと高いバルコニー から、共犯者の名を明かすよう忠告するというのが、牧師が読者に見せる最初の行為である。彼 自身の言葉を借りれば、 「罪に偽善の上ぬりをしている(to add hypocrisy to sin(12))」のだ。
読者は男の臆病さと偽善を非難せずにはいられないが、読者の非難などとは比べようもないほど 執劫で陰険な復讐者がすぐに登場する。永い問行く方の知れなかったヘスタの夫チリングワース である。チリングワースはヘスクがすでに胸に排文字をつけているという理由で、彼女には格別 の恨みも悪意も抱かず、ただ、彼の身元を明かさないことを約束させる。相手の男に対しては、
その男が罪を隠しているという理由で、ヘスタの夫は敵腐心と復讐心に燃える。秘めた罪が、そ れをあばこうとする新たな罪を誘発する。
最初チリングワースはディムズデル牧師が不義の相手だとは思っていなかったのだろう。しか し素性を隠して医師としてボストンの町に住みつき、健康の衰えた牧師に近づき、同じ屋根の下 で生活をしているうち、彼はこの清らかな牧師が父親か母親から「強い動物的な性質(a strong animal nature'13))」を受けついでいるのをかぎ出す。おだやかな友情と相互の尊敬というベール の下で、二人の男の魂の闘いが始まる。 「これは罪を扱った小説でも不義の愛を扱った小説でもな く、秘密を扱った小説である」とW. C.Brownellは述べている(14)。そのような観点からすれ ば、 『緋文字』の主人公は‑スタではなく、二人の男である。ディムズデルの方は、相手が敵であ るということは、ぼんやりした予感以上には気づいていない。ただひたすら秘められた罪に対す る良心の珂責に苦しんでいる。学者が本の中に真理をさぐり求めるように、医師は根気よく執劫 に牧師の心の中に罪の汚点をさぐり求める。友情を装いつつ他人の心の聖なる場所をあばこうと する陰険で冒涜的なチ1)ングワースの前では、ディムズデルは罪人ではなく、青白い聖人であり 被害者である。
何かを隠すように、いつも胸に手を当てているディムズデルの姿は、短編"Minister's Black Veil" (1836)の牧師の姿を思い起こさせる.この牧師は素顔を見せるのを拒んで顔にベールを つけ、とうとうベールをつけたままこの世を去り、埋葬されるのである。彼の場合は、自分が罪
を隠すためにベールをつけているのだとすれば、他の人々だって同じようにベールをつけている ではないかと、罪の普遍性を指摘することができた。ディムズデルの場合は罪はより個人的で具 体的である。日夜その告白を願いつつも、発覚を恐れている。しかし黒いベールの牧師とはちが って、彼は精神的に孤立するとか、ぞっとするような外的変貌をきたしたりはしていない。反対 に良心の珂責がますにつれて、彼の説教は聴衆の間にさらに深い共感を呼びおこし、彼の名声は ますます高くなる。ホ‑ソーンは多くの作品の中で罪の恐ろしさをくり返し語っているが、罪は 愛と同じように人間仲間を結びつける一つの紅であるとも語っている。ディムズデルは秘めた罪 ゆえに、罪深い民衆の魂の指導者としてより大きな力を得る。ディムズデルはあくまでもオーソ ドックスな敬度な牧師である。ただひたすら罪の意識に苦しみ、さまざまな苦行によって精神と 肉体をさいなみ続ける。
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このように牧師は心に黒い罪を秘めながらも、青白い苦悩する聖人というイメージで描かれて いる。元来は被害者であったはずの医師の方が悪魔のイメージで描かれているO物静かな学者風 の容貌をしていた人物が、数年間で醜い邪悪な悪魔に変ってしまった。罪の意識でもがき苦しん でいる他人の魂を自分の研究の対象とするというのは、 HEthan Brand" (1850)の主人公が犯す 罪である。イーサン・ブランドはそのために心(heart)と頭(head)のバランスを失ない、人 類同胞に対する共感を失なってしまい悪魔に変貌する。チ')ングワースの場合は個人的な復讐が 動機となっており、悪魔的イメージは一段と強い。しかし彼の行為も彼のいとうべき性質のなせ
se
る業というより、どうしようもない運命的な力によるものだ。チリングワースはヘスタに向って 言う。 「これはわたしたちの運命だ。黒い花よ、好きに咲くがいい(It's our fate. Let the black flower blossom as it may!U5n」と。ディムズデルとチリングワースの葛藤‑罪を隠す者と罪をあぱく者の葛藤‑は、初めのう ちは互角だったが、やがて医師の方が優位に立ち、牧師の罪を確信するようになる。そして、あ るとき眠りこんでいる牧師の法衣の胸当てをおしあけ、そこにはっきりと罪の印を見つける(白 い肌の上に緋文字の「A」が浮き出ていたらしいが、その点はっきりしない。現実にそんなこと があるのか、どんな方法でそんな現象が起きたのか、すべて暖味なままである。このようなとこ ろにも『緋文字』のロマンス性が現われている)。その後、医師は牧師を窮地に追いこんでゆく。
肉体的に何か具体的な危害を加えるのではないが、チリングワースの悪意に満ちた零餌気がデリ ケートな牧師の精神と肉体に影響を及ぼし、破滅へと導くのである。
このような状況に陥ったディムズデルを救うために、ヘスタはニューイングランド脱出を決意 し、森の中で彼を待ちうげ、彼にその計画を話す。先に述べたように、この計画は彼女にとって はまことに自然な唯一の正しい道であった。ひたすら罪の重荷に苦しんできた牧師は、ヘスタか らチリングワースの正体を知らされると、自分よりもさらに罪深い男がかたわらにいたのを知り、
嫌悪感と絶望に身ぶるいする。そしてヘスタから励まされ、一時的に自己の罪の意識から解放さ れ、彼女の計画に同意する。先に一人で森を出て家に帰る途中、彼の気持は昂ぶり、さまざまな 冒漬的な誘惑を感じる。自分は気が狂ったのだろうか、森で悪魔に出会い、血でサインをしたの だろうか、と自問する。ヘスタにとっては正しい道も、牧師にとっては悪魔の誘惑であり、今一 つの破滅に導く道なのである。その上、彼らの計画を知ったチリングワースがわり込んでくる。
ヘスタの計画は最初から挫折する運命にあったのだ。暗い森の中で男と女は互いに身近な存在 として将来の生活を話し合ったが、数日後、明るい町の日ざしの日で、新しい知事の就任を祝う 華やかなパレードの場面で、 ‑スタは牧師が自分とは無縁の世界に住む人間だという思いにとら われる。森の中での魂の交流も束の間のまやかしにすぎなかったのだ。ヘスタは男に対して怒り を感じる。しかしディムズデル牧師としては、彼に可能な唯一の道、彼の本性に沿った道を選ぶし か方法がなかったのだ。彼は群衆の前でヘスタとパールを呼び寄せ、七年前にヘスタが立たされ
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た晒台に親子三人で登る。牧師は法衣の胸当てをひきちぎり、罪の印を民衆の目にさらす。彼は このようにしてチリングワースの魔手をのがれ、罪と屈辱をわが身に引き受けることによって最 後の勝利を得て、息絶える(to die this death of triumphant ignomityl16'),最後の審判の日に 親子三人で神の法廷に立つのだ、と言っていた牧師は、死に際にヘスタの問に答えて言う。 「未 来の世界で二人が永遠に結ばれることを望んでも無駄だ。自分たちが犯した罪はそれほど恐ろし いものだった」と。罪に対する当然の罰と苦しみ以外には神に対して何の慈悲も求めず、神の名 をはめたたえながら模範的などュリタン牧師としてディムズデルは死ぬ。存在理由の失せてしま
ったチリングワースも、一年とたたないうちにこの世を去るのである。このようにディムズデル を中心に考えれば、 『排文字』は純粋にピュリタン的見地から描かれている。
以上見てきたように、 『緋文字』はヘスタを中心に考えるか、ディムズデルを中心に考えるか によって、異なったテーマを扱い、異なった結論に達しているかのようである。作品全体のテー マをさぐるために、 4ではもう一度ヘスタの側から問題を煮つめてみることにする。 2、 3と重 複するところもあるが、このように段階的に論じることにより、問題点がよりはっきりしてくる
と思う。
4 ヘスタの自己矛盾
結論を先に言えば、ヘスタの愛と勇気はたしかに賞讃すべきものだが、彼女が求めた新しい生 き方には内部矛盾があった。詳しいことは語られていないが、ヘスタはイギリスの今はおちぶれ た名門の家に生れ育ち、結婚前は世界知らずの無邪気な娘だったようだ。そして、年老いた学者 (チリングワースというのは偽名である)に求められて結婚し、従順な妻として、愛に満ちたも のではないにしても、静かな家庭生活をアムステルダムで送っていたO ニューイングランドに渡 り住むことになり、夫より一足先にヘスクは大西洋を渡る。ところが後から来るはずの夫が行方 不明となり、 ‑スタは一人淋しく見知らぬ町で暮すことになる。彼女は信心深い性格だったらし
く、その土地の牧師ディムズデルと交流を深めてゆく。そして魂の指導者としての牧師への敬愛 の気持が男女の愛に変ったのだろう。ヘスタはディムズデルを愛することによって人間として目 覚め、新たな観点から男女の問題を考えるようになった。愛のない結婚生活こそ罪深いものであ
り、真の愛であれば不義の愛にも神聖なところがあるのだ、と。
ヘスタは真の愛の対象として敬度などュリタンの牧師を選んだ。ディムズデルがあのように清 らかな真撃な性格の持主でなかったら、ヘスタは彼を愛することも人間として目覚めることもな かっただろう。ヘスタはディムズデルが罪を隠し、偽りの生活を続けている問は、遠くから見守 り、彼女自身は女であることをやめて、影のような立像のような人間に変ってしまう。しかし、
彼への愛は心の奥深くで生き永らえていたのだ。ディムズデルが復讐者の手の中で危機に瀕して いるのを知った時、彼女は女として蘇る。ヘスタは自分だけのためなら忍従の生活を続けただろ う。しかし愛する男を救済するため、彼女は積極的に行動する女、新しい女としてもう一度生れか わる。森の中でヘスタは叫ぶ。 「ふり返るのはよしましょう 過去はすぎ去ったのです(Let us not look back‑The past is gone/(17))J このような時、男に比べて女ははるかに自由であ
り、前進的である。ヘスタの愛と勇気はディムズデルにとって力強い支えとなり、森の場面の最 初の部分では幽霊のように青ざめていた彼も、ヘスタの力で人間らしい温かみをとり戻す。ディ
わたし
ムズデルは叫ぶ。 「私はもう一度喜びを感じるのか? ‑おお‑スタ、君は本物の天使よりもっ とすばらしい私の天使だ/(Do I feel joy again?‑‑‑0 Hester, thou art my better angel/118り」
この場面におけるへスタの救済者としての役割を否定することはできない。
しかし、同時に彼女は牧師の魂を破滅に導く誘惑者でもあるのだ。牧師にとってヘスタの申し 出はなぜ悪魔の誘惑なのか? 牧師がそれを「恐るべき罪」 (deadly sin)だと知った上で、幸福 への夢に打ちかてず、その道を選んだからだ、と作者は言っている。牧師はヘスクのように信念 を持つことができなかったのだ。ヘスタは牧師の安全と幸福を何よりも大事に考えている。しか
し彼女は自分の行為が二面的な意味を持っていることを十分には認識していない。ホーソーンの
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作品では、男の罪人たちはしばしば人間的な心を失なって悪魔的な存在になるのに対して、女た ち‑ヘスタやThe Blithedale Romance (1852)のゼノビアなど‑は、激しすぎる心に翻弄 されて心と精神のバランスを失ない、人生を見誤る。最終的な解決の道を選ぶのはやはりディム ズデルの方である。彼は晒台の上でヘスタに問いかける。 「わたしたちが森で夢みたことより、
この方がいいのではないか9 (Is not this better than we dreamed of in the forest?'19'月 と。
ヘスタは「わかりません、わたしにはわかりません」と言いながらも、男の決定に従うのみであ る。ディムズデルはある意味ではヘスタを裏切り、ピュリタン牧師として死ぬ道を選んだ。ヘス クはその男に対して一生忠実であり続ける。愛する男のために異端な新しい女としての道を歩も うとした‑スタは、同じ男のために、もっとも正統的な古い女としての道を歩むことになる。こ れはへスタの個人的な矛盾というより、女としての自己矛盾であろう。それにへスタは母親でも あり、娘のパールの魂の救療をも考えなければならない立場にあるのだ.次にパールについて検 討してみよう。
5 パールの役割
不義の子パールは、野や森の花や小鳥や動物たちと同じように人間の法則の外に生れた野性の 存在として、人間の心を持つことのできない妖精や悪魔の子として、一貫したイメージで描かれ ている。美しい刺繍をほどこしたまっ赤な洋服を着たパールは、ヘスタの胸の排文字が生きて動 きまわっているようなものである。町の老牧師ウイルソンはそのようなパールの姿を見て、 「パ
‑ルだって?‑ルビーだよ、むしろ‑いやサンゴだ‑いや赤いバラだ/ (Pearl?‑Ruby, rather/ or Coral/‑or Red Rose‑(20)‑)」と叫ぶ。しかし、この娘がパールと名づけられたのには 理由があるのだ。話が進行するにつれて、この野性の子供は両親を正しいキリスト教の道に導く 神の子としての役目を負わされていることがわかる。パールという清らかな名前こそ彼女にはも っともふさわしい。ヘスタは一度町のお偉方たちにパールを取上げられそうになる。デイムズデ ル牧師の口添えでその難を逃れるが、後でヘスタは、森の悪魔の許に行くように勧める女に向っ て、パールを取上げられたら、自分は進んで悪魔に魂を売っただろうと言うOパールのおかげで ヘスタはピュリタン社会の淀の中に留まっているのである。それに、この鬼っ子のようなパール が気まぐれに口にする意地の悪そうな言葉の中に、深い真実がこめられている。
その第‑の例として、真夜中に町の広場でヘスタ親子と牧師が偶然出会う場面がある。彼らは 手をとり合って晒台に登る。日中、群衆の前では罪を告白できないディムズデルが、まやかしの 行為として闇の中で排文字の女のかたわらに立つのである。この牧師に向ってパールはけたたま
しい笑い声をあげながら叫ぶ。 「牧師さんて勇敢じゃなかったわ‑牧師さんていいかげんだっ たわ。あしたの昼間、あたしの手と母さんの手を握るって約束してくれなかったわ‑(Thou wast not bold/ thou wast not true/‑ Thou wouldst not promise to take my hand, and mothers hand, t0‑morrow noontide.‑/(21))」と。昼と夜とでは行動のちがう大人の二面性を幼いパールは 厳しく批判している。
第二の例はもっと重要な意味を持っている。例の森の場面で、 ‑スタが罪の印の排文字を胸か らひきちぎって投げ捨てることにより、自由な女に変貌するところである。パールが本当に野性 の子供であるなら、その時森を包んだ日の光と同じように、母親の愛の勝利に共感を示してもい いはずである。ところがパールはそうはしなかった。緋文字のとれた母親にひどい拒絶反応を示
す。痛感玉を破裂させ、じだんだ踏んでわめきたてる。それこそ、悪魔の子のような様子を示す。
そして母親がもう一度排文字を胸につけるまでは、その気ちがいじみた行動をやめようとはしな い。しかし、ここでもパールの方が正しいのである。彼女は生れてこの方ずっと母親の緋文字を 見つづけてきたのだ。それに七年前に自分と母親を見捨てた男が、今さら自分たちの世界に侵入
してくるのを許せなかったのだろう。幼いパールに何もわかるはずはないが、本能が彼女にあの ような行動をとらせたのだ。新しく生きようとするへスタの願いは、まず第一に彼女の分身であ るパールによってはっきりと拒否される。その後パールはさらにはっきりと牧師への拒否反応を 示す。ディムズデルはヘスタに言われて我が子の額に接吻するが、パールは大急ぎで逃げ去り、
小川の水で接吻の跡を洗い流す。夜の闇の中や森の中だけで父親らしく振る舞うディムズデル、
何事かを隠すようにいつも胸に手を当てているディムズデル、ボストンの市民が群がる祝日の広 場ではそしらぬ顔をするディムズデルのことをパールは次のように批評する。 「牧師さんて何て 不思議な悲しい人なんでしょう。 (What a strange, sad man is he/ '"')」
このようにパールは大人の御都合主義や偽善を批判したり、いぶかしがったりしている。ヘス タは我が子の気まぐれな言動をあまり気にとめず、軽くたしなめているが、最後には、パールが 牧師に要求していた通りに、牧師は群衆の前でヘスタ親子の手をとって晒台に登ることになる。
そしてパールはようやく父親と和解する。ディムズデル牧師は罪を告白しおえた後、次第に弱っ ていく意識の中でパールに接吻を求める。
Pearl kissed his lips. A spell was broken. The great scene of grief, in which the wild infant bore a part, had developed all her sympathies; and as her tears fell upon her father's cheek, they were the pledge that she would grow up amid human joy and sorrow, nor for ever do battle with the world, but be a woman in it. Towards her mother, too, Pearl's errand as a messenger of anguish was all fulfilled.(23>
父親のざんげと死によってパールは同情心をそなえた子供として生れかわる。今後、人生の喜怒 哀楽を体験しながら、人生の闘争者になるのではなく、社会の一員として成長するだろう。それ のみならずパ‑ルは、その後ほどなくして死んだチリングワ‑スの遺言により、ニューイングラ
ンド第一の遺産相続人になるのである。チリングワースの悪魔的な罪も、これによって読者の目 にはいく分か緩和される。その後パールは母親とともにイギリスに渡り、成長して幸福な結婚を
し、やがて子供が生れたことが「結び」の章で語られる。パールはこれか ら先も神の光に照らさ れた道を歩むだろう。大人たちの苦しみと悲しみがパールを幸福な女にしたと考えることもでき るし、パールの存在が大人たちの罪をいく分かなりとも浄化したと考えることもできる。後日談 である「結び」の章を強調しすぎるとメロドラマ風になってしまうが、罪と呪いが解消し若い世 代の人間が幸福になるというのはThe House of the Seven Gables (1851)のテーマでもあり、
このような要素もホ〜ソーンの一つの特徴である0
6 伝説としての『緋文字』
若いパールは神の光に照らされた道を歩むことになったが、ヘスタの過去の罪はどうなったの
r排 文 字j論 31
か、「結び」の章を中心に検討した上で、現代人読者にとって『排文字』はどのような意味を持 つかを考えてみたい。
パールが成長した後へスタは一人ニュ‑イングランドに戻って来て、今度は自分の意志で再び 排文字を胸につけて暮し始める。そして、さまざまな悩みを持つ女たちの相談相手となりながら 孤独だが有意義な晩年を送る。ピュリタン的道徳と罪の意識にしめつけられた今のような男女の 関係が好ましいものだとはへスタは考えていない。そうかと言って、ヘスタ自身のように人間的 な愛の力のおもむくままに行動しても、悲惨な結果に終るだけである。いずれ新しい時代が到来 すれば、男女の関係も変るだろう。ヘスタは悩める女たちに向って次のように信念を語る。
atsomebrighterperiod,whentheworldshouldhavegrownripeforit,inHea一 vensowntime,anewtruthwouldberevealed,inordertoestablishthewhole relationbetweenmanandwomanonasurergroundofmutualhappiness‑‑‑The angelandapostleofthecomingrevelationmustbeawoman,indeed,butlofty, pure,andbeautiful;andwise,moreover,notthroughtheduskygrief,butthe etherealmediumofjoy,andshowinghowsacredloveshouldmakeushappy,by thetruesttestofalifesuccessfultosuchanend!(24)
「お互いの幸福が達成できるような、新しい男女関係が確立される時期がいずれやってくる。そ れは社会がもっと成熟し、天もそれを好むようになった時期であり、その時、天啓として新しい 真実が示されるだろう。その任務にたずさわるのは女であり、それも、崇高で純粋で美しく、そ れにもまして思慮分別のある女でなければない。影のような悲しみによってではなく、天上的な 喜びによって新しい真実を示し、それにふさわしい人生を送ることによって、神聖な愛がいかに 人々を幸せにしてくれるか示すのです」とヘスタは語っている。ヘスクが大きな試練のあとにた どりついたこの信念は、作者の信念であると考えていいだろう。ホ‑ソーンは、人間があくまで も神の道にそって、幸せな男女の関係を確立する口がくることを望んでいるようである。その任 務を果すことができるのは、ヘスタのような心の豊かな情熱的な女ではなく、心と頭のバランス のとれた清らかな賢明な女でなければならない、と言っている。ホーソーンの女性観の一面がこ こにあらわれている。
『排文字』の中で女主人公が体験した神の淀と人間的な愛の葛藤は、何の解決も与えられない ままに未来に引き渡されることになった。19世紀半ば、作者のホ‑ソーンが生きていた時代の女 たちはまだこの問題を解決していないようだ。TheBlithedaleRomanceの女主人公ゼノビア
‑超絶主義者のMargaretFullerをモデルにしたとも言われる‑は、ロマン主義的な時代
精神を身につけた「新しい女」のはずだが、男女の問題で心と頭のバランスを失ない、激情に押 し流されて悲惨な最期をとげる。ウーマン・リブとフリーセックスの時代と言われる現代の女た ちにとっても、この問題は決して解決ずみだとは言えない。
さて、ポーソーンは最後までヘスタの罪を否定的に描いている。歳月を経てヘスタが死んだ時、
彼女はディムズデルと同じ墓地に埋葬されはしたが、二つの墓は少し引き離され、死後も彼らの 魂が交わることは許されなかった、と述べている。そして「黒い紋地の上のAの緋文字(Ona FIELD,SABLE,THELETTERA,GULES)」という墓碑銘でこの作C3
PPはしめくくられている。周辺
の影よりももっと陰気な一点の光、それは排文字の放つ光であり、ヘスタの罪深い愛が放つ光で
もある。 「閥巨文字』は疑いもなく地獄の火に照らし出された物語である。そこに何らかの心を引 きたたせるような光を投げかけることは、私にはほとんど不可能であった」とホーソーンが述べ たことを、 Randall Stewartの『ホーソーン伝』は伝えている(25)。
ホーソーンはヘスタの中に新しい女としての可能性を示しながら、最後にはそれを否定してし まった。しかし現代人の読者としては、特にキリスト教的伝統の稀薄な環境に育った読者として は、森の中で‑スタが見せた人間の生命の輝きを簡単に忘れ去ることはできない。そこから次の ような新しい解釈が生れてくる。ヘスタの女としての勇気ある優しい行動は、相手の男からも作 者からも否定されてしまった。ヘスタ自身の内面にも自己矛盾があった。しかし、われわれはか えってそこに新しい人間の姿、苦悩しながらも道をきり開いていこうとする人間の姿を見るので ある。人間的な愛を求め、神と社会の淀に背いて罪を犯し、その罪の重荷に耐えて更に新しい道 を開こうとして挫折したヘスタ。彼女の行為は現世においても来世においても許されることなく、
罪だけが彼女の生きた証となるだろう。このようにヘスタの行為が否定されれば否定されるだけ、
われわれは彼女の姿の中に人間存在の悲劇性と英雄性を見るのである。 「アメリカン・ルネッサ ンス」を代表するもう一つの偉大な小説、メルヴィル(Herman Melville, 1819‑91)の『白 鯨』 {Moby‑Dick, 1851)のエイハブと同じように、ヘスタは近代的な自由な人間が生まれるため の捨て石となった悲劇的な主人公として、読者の心に強い感動を与えるのである。エイ‑ブは海 に出て自鯨に挑み、乗組員をまきぞえにして自滅する。ヘスタはピュリタン社会に留まって生き 永らえる。男と女のちがいはあるが、カルヴィニズムの神に対して人間の独立性を主張したとい う点で、両者の問に共通点を見出すことができるのではないだろうか? 作者のホーソーンはそ のような解釈には全面的には同意しないだろうが、われわれがそのような観点から『緋文字』を 読むことは不可能ではない。
筆者はヘスタを罪深い一人の女(a woman)として見てきたのではなく、原型的な女の運命を 生きた大文字の「女」 (Woman)として見てきた。ヘスタはイヴであり、形を変えてすべての女 の中に生きている。作者は『排文字』の最後の文章でこれを「伝説(legend)」と呼んでいるが、
『排文字』は単に17世紀ニューイングランドの伝説というだけではなく、全人類共通の伝説とし ての意味を持っている。先の章で筆者が『緋文字』をアレゴリー風のロマンスであると分類した のには、そのような意味もこめられていた。伝説(「神話」という言葉に置きかえてもいいだろ う)の女主人公であるヘスタは、今後どのように社会が変っていこうとも、それぞれの時代の読 者に「女」の一つの姿として強い印象を与え続けるだろう。
注
(1) Henry James, Hawthorne (Macmillan, 1879) p. 59 ff.
(2) Randall Stewart, The Scarlet Letter, A Norton Critical Edition(W. W. Norton & Cmopany, 1961) p. 346 (3) Richard H. Fogle, Hawthorne's Fiction, The Light & the Dark (University of Oklahoma Press, 1952) (4) Jac Tharpe, Nathaniel Hawthorne, Identity and Knowledge (Southern Illinois Press, 1967) p. 5 (5) Nathaniel Hawthorne, The House of the Seven Gables (Ohio State University Press, 1965) Preface (6) Hyatt H. Waggoner, Hawthorne (The Belknap Press of Harvard University Press, 1955) pp. 128‑
129
(7) Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter and Selected Tales (Penguin Books, 1970) p. 76 (8) Ibid., p. 184
(9) Ibid., p. 205
r排 文 字」論
Ibid., p. 220 (ll) Ibid., p. 212 Ibid.,p.94 Ibid., p. 150
W. C. Brownell, The Scarlet Letter, A Norton Cricital Editon, p. 246 Nathaniel Hawthorne, The Scarlet Letter and Selected Tales, p. 192 Ibid., p. 267
Ibid., p. 219 (1鴎Ibid., p. 219 Ibid., p. 266 (2① Ibid., p. 132 Ibid., p. 176 (2才Ibid., p. 244
餌Ibid., p. 268 幽Ibid., p. 275
Ranadall Stewart, Nathaniel Hawthorne, A Biography (Yale University Press, 1948) p. 97
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On The Scarlet Letter
Yasuko Tanimoto
Department of English Literature, Nara University of Education, Nara, Japan (Received May 1, 1979)
The Scarlet Letter (1850), Nathaniel Hawthorne's representative work, is an allegorical romance, which is rather pure and simple in the literary form with its allego‑
ncal figures and the persisting unity of imagery. But the meaning of the work is rather complicated and profound, and the final theme is ambiguous. The ambiguity comes from the author's ambivalent feeling toward puritanism of seventeenth century's New England and romantic tendencies of his own age. As a whole, The Scarlet Letter is a work deeply colored by the Puritanic pessimism about the dark side of human existence‑that is original sin. But we, readers of the twentieth century, who appreciate the heroine asHa new woman'and feel deep sympathy with her romantic view of life, find in this book more positive value and more light than the author intended there to be. In this article, I analyze various problems of The Scarlet Letter from the points of view of the principal characters, Hester Prynne, Arthur Dimmesdale, Roger Chillingworth, and Pearl, and show how these problems are connected with one another, and what is the author's attitude toward these problems. After that, I try further to seek the final theme that we can find in this romance of Puritan legend.