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『宗教研究』新第8巻第4号(*62号)

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(1)

――目次――

1,

朝鮮巫人の入巫過程,秋葉隆,Takashi AKIBA,pp.1-26.

2,

「我の覚知」 Ātmabodha,金倉円照,Enshō KANAKURA,pp.27-44.

3,

倶舎論の心所説に関する研究,鈴木宗忠,Sōchū SUZUKI,pp.45-68.

4,

仏教における「信」の種々相,山辺習学,Shūgaku YAMABE,pp.69-81.

5,

イギリスにおける洗礼論の史的考察,朝日融溪,Yūkei ASAHI,pp.82-92.

6,

善無畏三蔵の名義は吐蕃語の音訳か,寺本婉雅,Enga TERAMOTO,pp.93-104.

7,

阿弥陀仏の名義について,西尾京雄,Kyōo NISHIO,pp.105-116.

8,

黒崎地方の旧切支丹,田北耕也,Kōya TAKITA,pp.117-132.

9,

マンダ教について,その概観及び研究の歴史と現状,森敬之,Takayuki MORI,pp.133-148.

10,

宗教起源説と至上神の問題,シュミツト著『比較宗教史綱要』について,宇野円空,Enkū

UNO,pp.149-153.

11,

『中世寺院経済史論』論評,阿部真琴,Makoto ABE,pp.154-162.

12,

幻影消滅の宗教,Wm.P.Montague, Belief Unbound の紹介,増谷文雄,Humio MASUTANI,pp.163-165.

13,

文化形相に基く葬儀の分析的研究,Bendann, Death Customs, 1930, New York,杉浦健一,Kenichi

SUGIURA,pp.166-178.

14,

新刊紹介,pp.179-192.

15,

彙報,pp.193-195.

16,

ジョージムア先生追懐(Professor Geroge Foot Moore),姉崎正治,Masaharu ANEZAKI,pp.1-2.

(2)

l

﹁如何にして巫になつたか﹂又は﹁何故に巫になつたか﹂といふ質問に対して、眞葦の答を輿へられる場合は比

較的少ない。何となればそれは巫自身の信仰の秘密を洩らすことであ少.また彼女或は彼の恥を語ることでもあ

り得るから。しかしながら、私がこれ迄逢った可なり多数の朝鮮巫人の中には、柏雷の信頼と親しみとを以て、

己れの心中を比較的正隙に語ってくれた者も少くない。私は今此等の人々の告白に依ってー彼等が巫人となつた

事情至ろの類型に橿介することが出来るやうに思ふ。併し勿論人が一定の行虜なり感度なりをとる場合に於て

必ずしもそれが単一なる動機のみに依るものでない以上、巫人が巫人であり始めた動機又は事情といふものもー

決して純一なる簡畢な概念にのみ節す.ることは出来ないことは明かであつて、寧ろそれは種々なる動機−種々な

る事情の複合的結果であることが、事葦として多いと見ねばなるまい。従って私が弦にいふ靡の三つの類型は、

謂はゞ研究の便宜上から設けた区分であつて、よ少適切には或は程度の問題であると云はねぼならぬかも知れな

い。

朝鮮巫人の入巫過程

朝鮮巫人の入巫過程

1.入巫の三類型、乳宗教的入巫の賓例、3.巫病せ人並祭、4.比較研究。 Jβ占

(3)

朝鮮巫人の入巫過程

さて第一の類型は巫職の世襲といふ場合であつて、之腋全鮮到る併に、殊に南鮮地方に甚だ曹通に見らる1現

象であるが、此の巫職の世襲といふ一つの融合制度に依って、巫家に生れた子女が多く巫人となるといふことで

ある。弦では何故に巫職が世襲されるかと云ふ問題には解れないのであるが、只その世襲の結果の一として、巫

人階級の政令的存立を明瞭にし.多くの場合それが特殊なる購民又は下屠階級を形成するために、他の敢曾的地

位を異にするものとの通婚を困難にすると同時に、他の職業に轄ずることに依って、其職業と結合せる他の融合

的地位を獲得するといふことも困難なる結果、ますく家職を俸承することになるらしい。

次に第二の類型として、必ずしも巫家に生れた着でなくとも、何等かの事情によつて特異の信仰の所有者とな

少、己れの欲すると香とに拘はらす、所謂神意に依って巫人となるといふ場合がある。而して葦は斯くの如き

が眞箕の巫人たるべき着であ少、多くの場合に於て其は他の場合の者に比して、其巫カの大なることを認めら

れ、従って其周囲に射する影響も強いのである。即ち卒然として紳の憑依せる此等の巫人は、其の明判︵吉富・ an︶即ち巫カの驚異すべき信頼の結果、門前市をなす状態であ少、而もそれは入巫後両三年間を以て信頼の最高 粘とするを普通とする。摸言すれば明判の神秘は歳月と共に衰ふるものと考へられる。併し乍ら.此の新入の巫

人の明判の偉大さが、必ずしも其融合的地位の高さを意味するものではないことは、吾々の注意に値する問題で

あつてー或地方に於ては一新くの如き新巫が勝て大巫︵警㌢mud邑として最上位の巫たる地位右得ると同時に 他の地方に於て1は、大巫たるものは常に世襲巫に限られて居て、新入の巫人は如何に其巫力の偉大なるにも拘は

らず之を新巫扁貞已芭として大巫の下位に置くからである。此の彼の場合は、恐らく巫家の家系そのものを董

Jβ♂

(4)

んずる一種の家族主義の結果であつて、個人の茸力如何が家系の重大性に打克ち得ない事情の下に存する現象で あらうと思はれる。 最後に私の第三の類型と考へるものは、同じく新入の巫人の中でも.必ずしも紳の憑依を以て主要なる事情と なさす.主として世俗的なる、殊に経済的利金を以て目的となす肝の巫人の場合である。例へば貧家に生れた女 子、夫や子供に先だ1れた不遇の寡婦などが、通常の労働に依っては糊口の道を見出し得ないとか、若しくは性 俄憤激逸にして、世俗的労働をなすことを欲せざる結果、怪しげなる巫人となるが如きであつて、甚しきに至っ ては、巫女の名の下に娼婦的行動を主とするものもあるやうである。尤も巫女と娼婦との閲係は、普通に考へら れるやうに表面的なものでは無くして、其問に所謂巫蝦としての内面的園係の存することを忘れてはならぬ。吾 層は今日現に巫家の娘が盛に妓生又は色酒家の女となる現象を見る。而して巫女の経済生活も亦︼種の水商棄的 な性質を多分にもつものであつて.時として身分不相應な収入があると同時に.彼女等の滑貴も亦、極めて不規 則に波手に行はれることも注意せねばなるまい。併し巫人の経碑生活そのものに就いては、別に一問題となすべ く充分の重要性をもつものと考へられるから、今玄に詳述することを避け、只単に若干の巫人が其巫的生活に入 る主要なる動機として、経済上の利金が考へられることを述べるに止める。ポゴラスは、所謂パレオ・サィペリ アン諸族の問に於て、単に巫衝の経済的利益のみに依って生活して居る巫人を見ず、彼等は只巫職を副次的に行 ︵一︶ って居るに過ぎないといふことを云って屠るが、朝鮮の巫人の中にも、巫職を以て副業として居るものが可な少 存するやうである。斯くの如きは勿論経済的動機が多分に働いて屠る場合が多いものと考へられる。 朝鮮巫人の入巫過鹿 J∂7

(5)

四 朝鮮巫人の入巫過程 さて以上三類の入巫の事情を、極めて簡単なる表現を以て携へるならば、第一の場合は巫犠の世襲といふ一種 の融合制度に従って入巫するものであるから、之を敢曾輸入巫又はより厳密には世襲的入巫と辞すべく、第二の 場合は偏に紳塞の憑依に依って入巫するものであるから、之を宗教的入巫又は降静的入巫といふことを得べく、 而して第lニの場合は主として経済的動機によつて巫となるものであるから、之を経済的入巫と呼び得るでもあら う。尤も此の最後の場合は必ずしも経臍的動機のみに依存するといふ繹ではなく、或隻剛述の如く巫女の名の下 に娼婦的行動に出づるとか、性憐情にして通常の労働を厭ふといふ様な、爵極的又は滑極的な他の動機によるも のも少くないのであるから、寧ろ之等を総括して世俗的入巫といふことが招来るかも知れないが、要するに斯か る特殊な場合と維、直接又は間接に経済的動機が働いて居るものと見られるから、今暫らく之を以て経済的入巫 の類型に入れることにしたい。 併しながら前にも簡単に解れた如く、此等三類の入巫が、厳密に純粋な形で存在することは寧ろ稀であると云 はねばならぬのであつて、私の所謂赦曾的入巫に依る世襲巫と推、それが竜も俗人と異なる無き、極めて正常凡 俗なる性格の持主である場合には、響へ其母が高名の巫女であ少、家代々の巫職を持つ家柄の着でありとする も、眞の巫人たり得ないのを寧ろ普通とする。私は嘗って京城の郊外に於て度々訪問した巫家の娘が、其母の行 ふ日々の巫事を暗んじて居るにも狗はらす、決して之を行ふことも無く、却つて母たる老巫は他の紳娘︵監nt邑︶ を二人迄取って、此の血詠無き而して紳線にょつて結合せる静娘遅から、静母ハSin・ぎOni︶と呼ばれることを見、血 線の娘に向つて﹁何故に巫女にならぬか﹂と質問したるに勤しては、﹁いくら自分がなりたいと思ってもなれるもの Jββ

(6)

ではない﹂と云ふ答を得た。而して其反面の意味は、如何に自分が欲しない場合でも、神様の自粛の央が立った 以上は、ならぬ繹には行かぬといふことであつて、現に其母の告白に依れぼ、何をすき好んで斯かる人々から嬢 まれる職業をするものがあらう、紳の御心にそむけぼ死なねぼならぬからといふことであつた。弦に生命を輿ふ る紳の信仰がある。 肝が不思議なことには巫家に生れた少女遷、殊に世襲的巫家の娘蓮の中には、甚だ屡々巫女的性格の所有者が 出て来るといふのが草葉であつて、吾々は其虚に一種の巫性邁停とでも云ふべきものがあるのでは無いかといふ ことを疑ふと同時に、幼少の時から巫的行事の中に成長する子女に射する窮境の影響といふことも考へさせられ る。そこで多かれ少かれ巫家の子女の中には、巫約束質堅早け又は養はれるものが出て来て、前述の如く極めて 正常凡俗なる子女のみを輿へられると云ふ、巫家にとつての危険は比較的少いやうである。加ふるに世襲的巫家 の子女は、其家業たる巫術が多く副業では無い展に、長じて他業に韓ずる興味も薄く、又英機曾にも恵まれない から.勢ひ経臍的にも巫人となるを得策とする渾であつて、斯くの如き巫職の世襲、如ち世襲的入巫の場合に於 ても、そこに全然経済的動機が働き得ないと云ふ渾では無く、殊に其宗教的性質に至っては、殆んど不可鉄の條 伴とも見るべきものであ少、時として何等巫的性質を有たない者が、単に世襲なるが故に巫職に入つたとして も、人々は之を以て眞聖なる巫人と観念すること少く、如何に巧に巫歌を唱ひ巫舞を演ずる者と鞋、所謂似而非 ︵二︶ の償聖的存在たることを免れない.而して之と同様のことが、第三の場合即ち経済的入巫に於ても云ひ得らる1 のであつて、之も亦原則として、何等かの程度に於て巫的性質の具有着たることを要し、少くとも外見上若干の 朝鮮巫人の入巫過程 五 J∂9

(7)

朝鮮巫人の入巫過程

巫性を有するかの如く装はねばならぬのである。従って青々は眞巫に謝して傾巫を区別する必要に迫られるので

あるが、其判別の葦際的横倉は巫祭に於ける降紳愚直の瞬間に存する。即ち畷巫にあつては、如何に巧に巫歌を

唱ひ、巫舞を漬するも、賽紳のクライマックスたる降紳の瞬間に於て、眞巫に見るが如き凄槍なる顔色と、爛々

たる眼光とを呈することが無いのである。而も幼時より巫家にあつて巫歌巫舞を習得せる所謂習業巫︵欝uヲm已・ 邑︶は、極めて巧妙なる歌舞の演者であゎ、屡々其は技巫︵内idでmud邑︶として、大監︵T甘冒︶侶夫︵Cbp夢色等の 技能的祭節を演じ、人々の峯経略欲求を満足せしむるものではあるが、巫カの偉大さを倍ぜらる1者は、決して 斯くの如き慣巫では無くして、却つて辻凄の合はぬ静託︵牢邑袈︶を口走少、曲節を無成して乱舞する新入の降紳 巫︵屠rim・mud邑︶に限らる1のである。

そこで此の降紳巫こそは葦に私の云ふ眞巫であり、私が琴一の類型として取扱って居る靡の、宗教的入巫に依

る巫人に外ならない。従って入巫の太質的なるものは此の宗教的入巫に存すると云ふことを得べく、所謂世襲的入

巫・経済的入巫に依る巫人も亦原則としては何程かの巫的性質壱必要とし、少くとも外見上若干の巫性の具有者

なるかの如く装ふことに依つて、慣巫たらねぼならぬといふ霹になる。そこで弦には、特に閑寂を宗教的入巫に限

って、降紳巫たる眞巫が入巫するに至る事情と過程とを、若干の資例に依って説明して見たいと思ふ。只序に注

意しなければならぬことは、現在朝鮮牛島に存在する幾萬の巫人の中で、眞巫と見るべきものが如何程あるかは

明かになし得ないが、日に月に切迫しっ1ある経済的事情と経済的観念の牽蓮とが、轟々多くの倍巫を出しつ1 あることは動かすべからぎる事案であ少、私共が見て以て眞巫となすもの1中にも、或は菓外なる喰はせ物があ J90

(8)

るかも知れないと共に、一波の人々の考ふる如く、巫女と云へぼ愚牒を証らかして金銭を取るものと云ふ繹にも

行かないといふことである。否、如何に経済的なる動機から出費した巫人と錐、少くとも其賽紳の時に於ては. 必ずや何程かの宗教的意識の下に行動しっ1あるものと見る方が、寧ろ事薫に近いと思はれる。伶叉巫職の世襲

そのものが、賢は巫系の神聖といふ一種の血の紳聖概念から費源したものであ少、巫人の経済的所得も同℃く紳

に捧げられたる浮財に其原型を見るのであるから、私の所謂世襲的入巫は勿論、経済的入巫と僻するものも亦其

静坐的意味に於ては、宗教的なる性質に遡ることを得るであらう。そこで謂ふ肝の宗教的入巫の葦例若干を述べ

る。

¢〟

第一例。巫女R、四十七歳、開城生、培物山在任、彼女の母は巫女ではなかつたが、彼女自身は巫家に嫁ぎ、 十五歳の時、姑が賽静︵穿−︶を行った晩に、其行事を夢に見た。何でも一人の恐ろしい人相の人が現はれて、静 前に供へた牛の頭を取って家の中に入h∴之整一つに割って屋根に投げ、叉之を下して、今度は牛頭の眞中に大 きな孔をあけて.それを彼女の涙に被らせた。此恐ろしい夢が覚めると、其晩から病み付いて大分苦しみ、翌朝

は顔が脹れ上つて見違へる様になり、何も食はずに沸騰した湯だけを飲んで居た。屏が姑は彼女が神懸りになる

筈は無いと云つて反謝し、病魔を夜はうとして二三回賽静を行ったが、病気は轟々烈しくなるばかりで、或日急に

外に飛出したくなり、直に飛出して家々を廻少、賽紳の金穀を乞ひ集めて、入巫の降紳祭をやり巫女になつた。

因に此地方では斯かる場合の賽紳を﹁巧言弓im﹂と搭し、之を行ふために家々を廻って金穀を乞ふことを﹁穿myOn 朝鮮巫人の入巫過程 七 J9J

(9)

朝鮮巫人の入巫過程 八 を廻る﹂と云ふ。彼女は現に或同姓の人の第二妾であわ∴妻妾同居して、五人の子女の母でもある。 第二例。巫女C、四十歳、語物山上の巫家に生れ、七十五歳の老母も、今命常山第一の老巫として彼女と共に 巫事に従って居る。丸顔の時突然病気になり、lニケ月の間何も食はす、只冷水ぼかり飲んで居た。そこで家人が 占をしてもらうと、紳懸りの徽侯があるといふことであつたが、貧乏な展に賽静をすることも出来ず、只簡単な 薙鬼萩の行事をやつて見たJけであるが、それで病気が直つてしまつた。肝が十三歳の時に又同じ病気に擢つ て、今度も二三ケ月の間冷水ばかり飲み一身醍が骨と皮ばかりになつて、起き上る力も無くなつてしまつた。す ると突然紳託ハ才訂且のやうな不思議な言を奪し、自分では何を云ったのか分らないが、後できくと﹁何虞へで も行かう。立派な巫女になるのだ﹂と云ふやうなこと皇一己つたらしい。そこで其儀家を飛出して所謂﹁穿竜。n﹂ に廻り、将軍堂の前で狂ひ踊つて其壊に卒倒したので、家人が凍て負うて蘇り、二三日すると病気は直った。そ れから健鹿醍になつたので、三月ぼかり経て十四歳の時に京城に嫁入した。肝が嫁入して八日目に叉飛出して家 に蘇り、再び紳託︵才訂m︶を下して踊少、内em誓nに廻って賽静の金穀を集め、入巫祭をやつたのであるが→言 ︵≡︶ 門︵欝︼ヨ。︶が開かないので巫女になれなかつた。其問暫くは離婚の問題などで苦労し、十八鹿の暗また婁病に 躍り、三度目の内emy。nをして入巫祭をやつたが、時宛も神事禁妊即ち巫祭禁歴の時代に雷り、静懸りにはなつ たもの\二弾歴が甚しくて巫事を行ふことが出来なかつた。仕方なしに常人の如く暮して居たが、其間の苦しみ は言葉には云hつくせない。越えて二十七歳の時、京城郊外漠江沿岸の、錦城堂の近くにある彿光寺に行つて最 後の入巫祭を行ひ、本営の巫女になることが出来た。 ∫タβ

(10)

第三例。巫女E、三十八歳.徳物山に生れそこに住む。二十九歳の時、徳物山の大洞紳祀のあつた陰の三月十 七日、紳事の行列が家々を訪れ廻る併の遊科︵ゴgp︶が行はれたが、斯かる紳の訪れに封する家々それくの停統 があつて、彼女の家の仕来りでは.改め女服を一着作って置いて高明︵試巴n竜芭 を祀少、遊科の行列が通る時 一 に、此紳衣を持出して紳遊憂させることになつて居た。併が、如何した謬であつたか、其昔日之をやらなかつ た。すると其夜十二時頃から.突然乳房が脹出して烈しく痛むと同時に、限の中に火の玉が樽がるやうな痛みを 費え、限を開くことが出来なくなつた。突然のことではあり、如何したのか分らなかつたが、別段家に巫女の系 統がある繹では無いから、多分普通の病気だらうと思って居た。それでも二三日したら少し痛みも去り漸次よく なつたところへ、翌月の四月十七日の塊に叉突然乳房が脹れて限が痛み出し、それから清けて一月程苦しんで、 五月十七日の晩に至少、急に紳託を下したのである。何でも其時母親に向つて烈しい勢で、﹁貴様は大洞紳祀の遊 科の時に、萬明の衣を出して遊ばせることを知って居りながら、如何して今年はだまつて居たのか﹂と怒鳴りつ けたそうである。そこで家では、気狂ひになつたと云って別に手首もしなかつたが、六月の七日に突然柑棚城陸 ︵試已邑垂n訂巴に行きたくなつて、山麓のその城睦まで行き、占盤︵警官冒︶を持って行ってそこに祀わ∴それか ら︵内e2苫n︶に廻って入巫祭を行ひ、巫女になつた。 第四例。巫女Ⅹ、七十六歳、京畿道楊州在任。十二歳の時病気になり、食慾無く一室に問籠って居たが、或夜 の夢に、視に あつたが、突然何となく招き誘はれるやうな気持になつて、赤裸のま1外に飛出して走り行き、二二重ばかり行 朝鮮巫人の入水過雀 九 ∫タ3

(11)

朝鮮巫人の入巫過程 一〇 った屏の一軒の田舎家の前にあつた漬菜の上にのぼり、手を打ち狂ひ踊つたま1そこに卒倒してしまつた。さて 其墳藁の中に、一個の明囲︵苫。已。︶即ち紳鏡と、一本の紳鈴とが降されてあつたが、それは葦は或る死巫の家 の前であつて、息子が亡隆の紳券をそこに際して置いたものであることを後になつて知った。彼女は今倫其明固 を身重︵ぎmj邑即ち巫の守護紳として、彼女の家にある紳堂に祀って居る。家人は後刻、彼女が突然見えなくな ったのに驚き、雪中の足跡をたづねて探し求め、牢死の状態にあつた彼女を見出したといふことである。 ● 第五例。巫女Ⅱ、六十五歳、慶鈴南道生、京城在任。父親は昌寧郡守をやつた程の両班であり、母親も巫女で は無かつたが、七歳の時突然山に登りたい衝動に騙られて、山中に入り谷間に下ると、偶然そこに埋められてあ ︵四︶ った析刀、紳紅及び紳鈴を費見して、家に経ち蹄つ宅両班である父親はいたく之を恥ぢて、析刀と紳紅とを毀 ち捨て1しまつたが、紳鈴だけほ今伶彼女の手許に秘蔵されて居る。私は一度彼女の戒する十教本の巫鈴の中に 古色蒼然たるそれを見る機曾を得たが.それにしても七歳の少女が、如何にして可なり重い析刀と鮮紅とを、此 紳鈴と共に山際の谷間から運んで充たものであるか、弦に既に彼女が幼にして異常見であつたことが境はれる。 何となれぼ彼女は今侍六十五歳の老躯を以て、今年二月厳冬の専を犯して徳物山に登り、山上の賂軍堂に賽紳の 舞樽を漬するだに驚くべきであるに、花は更たくる迄雄辟を揮ひ、翌朝は山路に疲れて眠る私選を揺り起こし て下山紆城、直に檀家に赴いて回程祭︵H等チk邑の準備を急ぐなど、所謂三つ鬼の魂を思はしむるものがあるか らである。そこで一旦幽閉されて居たが、時として狂気の如く飛出して歩き廻るので、九歳の時遽に家を追は れ、兄と共に徒歩京城迄廃って、静母を取わ∴虚主︵票j一l︶を祓ふ入巫の賽紳を行ってもらつて、巫女になつたと J‘凄

(12)

いふことである。因に鬼神が憑いて狂気の如くなることを﹁日管に感染れた﹂と云ひ、此の憑いた虚主計祓ふ行

事を虚主祭︵.票号粁鼻と僻する。

壁ハ例。巫女丁二ハ十飴歳、京城郊外在任。五六歳の頃から病身で、食物を取らず遊びもせず、殆ど水ばか少

飲んで居たが、十歳頃から漸く健康になつた。併し身醍が非常に将せて居て、屡々夢に胡鬼︵Ⅰ言u︺・山姥︵San・ 琶繋芦すY僻事︵才︼且等の紳婁を見るやうになり、脱が鎗くなつて常人と臭って居たといふことである。十五歳

の時紳塞が降る夢を見た時に、其紳助によつて病を治し悪魔を祓ふカを輿へられたやうな気持になつて、紳母に

就き自分の家で入巫の賽静をやつてもらつた。之を降紳祭︵恩rim女t︶と耕し、大監祭︵ぷ訂m皇ri︶に似た賽紳

であつて、自分も蹄つたが、困難なところは紳母が助けてくれた。それから修業中は随分苦しく、下絆のやうに

色々な仕事をする労ら稽古するのであるが、少し牧人があるやうになつてから、始めて徳物山に行ったのが二十

七歳の時である。それから三年に一回宛、今でも徳物山に行って賽紳をする。どうも山上に祀ってある樫璧賭事

の塞が、女を見たいと思召す時は、其女を病気にして召し寄せる泉持がする。斯かる際に山忙行って賽紳をする

と病気が直ると彼女は語った。

第七例。巫女E、二十二歳、平壌に生れそこに住む。未婚、十六歳の時、普通車校を卒業して女子高等普通草 枕の人草試験を受けI・・金棒すると同時に病気にな少、ぎttO賢已といふ鬼紳に憑かれて遠方のことがよく分り、

紳賂癒鬼の姿が限にちら付き、遠くの路傍で騒いで居る人草が聞え、杖戟の菅鏡鋲の響が耳について、切りに賽

紳の場所に行きたくな少、又野山に飛出したい気持がした。そこで占ひをして莫ふと巫女になる病気であること

朝鮮巫人の入巫過程 ユタ∂

(13)

朝鮮恋人の入巫過程

︼二

が分少、紳母に就いて大監祭をして踊った。如ち九月に病みついて、十月に入巫の大監祭をやり、十一月には占 卜を費えて之を始め、翌年二月には賽静をやれるやうになつたと云ふことである。著者は昨春平壌で、共同研究 者赤松博士と共に、彼女の物凄い降紳状態を目撃して、狂踏乱舞限の据はつた彼女の下唇が、重い紳虹の故に審 著して離れなかつた形相が、堅く脳裡に焼付けられて居る。 第八倒。男巫S、五十七歳、黄州在任、二男一女の父で、高名の劇︵謬訂p︶である。十九歳の時迄行商をして居 たが、或日山中を歩いて居ると、峯中から鈴の音が聞え、叉異様な物音がし始めて、それが三週間ぼかり頗き、 病気になつてしまつた。即ち左の手足が利かなくなり、精細に異状を呈して村中を狂ひ担ったのである。そこで 家人が心配して薬を飲ませてくれたが何の劾も無いので、牢安南道龍何に居るト人に占つて莫った肝が、三年前 から鬼神がついて居るから、早速賽静をして巫忙なれと云はれ、静母に就いて降紳祭哀して貰ひ.自分も踊つ た。それからすつと此紳母に就いて巫事を拳び、紳母の死後は、其紳服紳券等一切を倖へられて其後を継ぎ、今 鎗彼の紳堂には此等の聖物が大切に保存されて居るが、著者は之も赤松博士と共に具さに賓見することを得た。 そこで彼のいふ併に従へば、此等の聖券の中、最も大切なものは七星叙と静鈴とであ少、紳鏡は静昏の顔である といふことである。又死んだ巫の紳鏡又は静鈴は、生前之を俸ふべき紳娘又は静息ハ苧・鼓弓.i︶の無い場合には、 之を山中に埋めるのであるが、之を探し求めたものが眞の巫である。彼も亦或時、何となく何魔へか誘はれるや ぅな義持になり、垂中に鈴の音などが聞えて、外に出で、二里ばかり離れた供養谷と云ふ併に行って或場所を掘 ると、︼箇の小さい眞黒な静鏡と.一本の腐った鈴が出て禿た。其鈴は今も持って居るのであるが、之を彼の身 J9β

(14)

主である析刀大紳の前に祀った併が、其晩夢に山紳が顛はれてぅお前薩何故に山紳の輿へたものを身重大紳の前

に供へるのか﹂と怒つたので、それからは山紳をも祀るやうにして居るといふことでもあつた。更に又彼の語る

屏に依れば、昔は巫が死ぬと鏡や鈴を廃酸と共に埋めたので、曇った日や雨の日には、巫の塞の中から放談や鈴

や鏡鋲の音がしたと云はれ、巫にならうとして、恐々鏡や鈴を探しに山に入るものもあ少、又巫の墓を掘るもの

さへあつたが、今では此紳帯を責つて鏡に換へるやうになつてしまつたといふことでもある。彼と云っても賢は

無髭痩躯、此地方の婦人の如く薮に宇巾と呼ぶ白布を結び、殊に賽紳の時に雷つては、先づ女装して然る後に紳

衣を着ける彼であつた。

籍九例。男巫C、一一十三歳、京城に生れそこに住む。十七歳の時煙草草葉局の職工となつたが、十九歳の冬、

陰の十二月の或日、工場で仕事中急に病気になり、何も見えず機械の青も聞えなくなつて、只要は見えないが何

者かの聾が自分kついて来いと云ふのが聞えた。そこで人々が大騒ぎをして家に蹄してくれ、二十日同病泉をし て、輯と水だけを取h∴人に顔を合せることが厭であつたが.とうとう或雪の花の十時頃何者とも知れぬ野がし て、三角山︵京城の北に聾ゆる山︶に来いと云ふので、雪中山に至り恍惚として歩き廻って、翌朝蘇る時は精甜漸

く醒めて人の要が見えるやうになつて居た。併し猶病気を鋳け、五日目に虚主祭をやつたがよくならす、人が嫌

で一室に幽居し、後二回賽紳をして漸く健鹿を恢復した。虚主祭は自宅で洞内の巫女にやつて貰ったのであるが

乞粒に廻ることはせず、只、人々が虚主祭の噂を聞いて供物を持って来てくれたのである。

第十例。男巫S、二十歳、楊州生、京城在任。六歳の時病気にな少、物を食ふと油化不良で、冷水ばかり飲 朝鮮巫人の入巫過程 J9ア

(15)

高 朝鮮巫人の入牢過程 み、人間が汚ない感がして、花も眠られす搭せてしまつた。叉絶えず枚哉・銅拍子・笛などの音楽が聞え、人の 出入の足音などは耳に入らす、三年間苦しんで居たが、九歳の時何となく人に誘はれるやうな欝が聞え、葉を飲 . むと薗病気が悪くなつて、夢に馬に乗った人や、巡査の姿などが見え、船に乗ったゎ、天から下った縄・に縫って 天上に上る夢を見たりした。鈴音が硬ばつて物が言へないやうになつたが、斯かる状潜がニケ月許り績いた連 ● 句、突然宇を拍ちながら﹁天下大神地下大紳!﹂と叫んだ。又或時耳にいろくな草が問えて誘はれるやうな気持 にな少、聾に従って何鬼迄も行き、山中の或併まで行くと自然に止ま少たくな少、﹁こ1を掘れ!﹂といふ啓を聞 いたやうに思って足許を掘ったところが一倍の明画︵紳鏡︶が出て来た。開園は今命楊州の紳母の家の紳堂に祀つ てあるが、箕は病中此の巫女に、紳の停車をしなければ生命が危いと云はれたので、之を静母として虚主祭を行 ひ、柑の人々が噂を問いて作ってくれた米人袋を以て乞粒に廻少、降神祭をしたのである。偽称託を降したこと が評判にな少、諸方から占ひを頼まれて、占卜を始めたのも九歳の時である。彼も亦容貌感度表情・音聾極めて 女性的な彼であつて、羞恥の表情に身を曲げて答へる﹁はい﹂ハ穿M︶の∵語にも男とは思へぬ調子が含まれて居 る。 3 さて之等の箕例に於ける著者の知諦は、凡べて種々なる好機骨に於て、巫頻自身の口から比較的自然に聞いた 告白の中、最も代表的なものと考へられるものを選挿したのであつて、中には数回反香して話し合った結果のも のもあゎ、何れも相皆の好意と親しみとを以て話してくれたものであるから、大鰹に於て眞箕を告げられたもの Jタ∂

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●●し

と考へてょからうと思ふ。此横倉に於て之等匿名の人々に封して、其好意と誠貰とを感謝したい。弦に故らに匿

名の形をとつたのは、勿論現存する此等の人々の迷惑を慮ってのことである。

そこで寛例の示す肝によつて容易に知ることの出来る如く、私の所謂宗教的入巫の過程は、之を生理心理的に

戟察する時は−原則として幼少の頃一種の憂欝病に躍ることから始まるのであつて、それは早きは五六歳、遅き

も女子十五六歳男子十八九歳位の思春期に至る間に最も多く、第三側転見るが如き二十七歳にして急に乳と限と

を病むといふやうなのは、寧ろ特別な場合と見むことが出来よう。而して此の憂欝病の状態に於ける彼等の態度

は、何れも食を欲せす遊戯を好ますー人を避けて一室に幽居するを原則とし、好んで冷水を飲み、又稀に熱湯・

砂糖水若しくは味噌汁のみを噂む者もある。現に著者の知れる京城の或男巫の如きは、砂糖水の外何も口にしな

かつたと云つて居る。兎に角それは極端なる偏食の状憩に陥るのであつて、従って彼等の肉醍は甚しく辞せ衰

へl中には身を起すことさへ叶はぬ不清澄な滑趣的生活に入ると同時に二方に於て眼光が鎗くなり、顔面が凄 味を帯びて、異常なる措辞状態に傾き、突如として家を飛出して、或は赤裸のま1雪中を走力、叉山野を彷復し て、狂踏乱舞我を忘れて異常なる言葉を口走少−其極卒倒するものが多い。斯くてそれは可なり長い抑靡された

憂欝不括帝な陰性状懸から、急激に解放された爆発的活動の陽性状態に入り、其極往々俄然として深淵に入るが

如き過程を示す。而してそれは明かに一種の生理心理的異常であるから一之を以て巫病又は婁病と僻することが

︵五︶

出来るであらう。

併しながら、斯くの如き生理心理的異常は、之を宗教的意味に於て考へる時は、それは所謂鬼静が接いたと

朝鮮巫人の入巫過程 J99

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朝鮮巫入り入巫過程

か虚主にかぶれたとかいふことであつて、其病苦は決して単なる生理的苦痛では無く・屏謂煩惜の鬼にさいなま

る1併の宗教的苦悩であゎ、積れであつて、肝謂巫病の後期に於ける掌中に走行し、山野に彷復する状潜はー此

稜れたる鬼紳の苦悩を睨せんとして行ふ苦行の本質をもつものと孝へられる。而も斯くの如き苦行試練の最高頂

に於て、卒然として口走る言葉が神託であ少、たまく費見せらる1異物の中に浮き紳を見るのであつてー前述 の例に於ける紳鏡静鈴等を山中に得ることは、謂はゞ紳を賛見したことでありー此紳を身貢ぎmju︶鮎ち守護赫

として巫人の生活に入るのである。

そこで此の不浄なる虚壬を排ひ、清浄なる紳婁を招いて身重となす行事が、入巫祭である謬であるがー今少し

く仔細に之を考へる馬めに、一=ニの地方に於ける入巫祭の具醍的叙述を試みることにしたい。先づ前出の捻物山 に住む山の巫女のそれを見るに、巫病に犯されて最初の紳託即ち⋮amを下した者はl家を出で1所謂内eヨy。n に廻り.柑の家芸訪づれて金穀を集め、之によつて峯解︵属官i且と構する行事を行ふのであるが、其際紳 母は巫病にか1れる者の病魔を排ふ薦めに、密飯と僻する粟飯を投げつけ一文静Q来ます路を開く裳めに、都山 梼︵穿苧t琶i︶と名づくる布を裂く。

次に江華島の島の巫女の行ふ入巫祭を見ると、其は必ず二段の行事から成立して居って、初に紳母が虚壬を夜

ふ褒めに、巫病者に栗飯を投げつける虚主祭︵雲juを︶があゎ、次に常人は紳母に伴はれて柑の家々に乞粒に廻 ゎ1左足を躇み轟かしつ1璧ロを叫んで米宝金鋳を受け−之を以て降静祭ハ孝i弓粁ut︶を行って新巫となるのであ

る。而して之と大鰹趣を同じうする入巫祭は、第十例にあげた楊州の男巫の行ったものであるが・之は里の巫人謝

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Q入巫祭の一例と嘗ことが出誓う。聖彼も亦璧雪路要の二段の行革寡ち行ったのであろて・茎塔親

王祭に於ては、無茶苦茶の乱舞に共に集まれる人々の悪口を叫び、供物を破毀して乱暴するなど物凄き興奮に澤

し、紳母は縄を以て彼を挿し、桃の枝を以て之を打ち、粟飯を投げ付け、又狂鬼橋︵β看守雷i︶と辞する廃布を 裂いて虚主を沸ったのであるが、そこで彼は何魔とも無く歩き廻りたくなつて、己れの気の向くま1に人々の家 に入少、静母に紹介されて穀物を芙ひ、空白之を以て供物の餅を作少、彿事梼宣三甲t昆と稀する白木綿を裂き、 静刀を立て.静々の名を出づるに委せて呼び叫んだといふことである。

最後に文化の進んだ町の巫女の入巫祭を見る虜めに、京城に於けるそれを運べるならば、正式にはそれ竺一段

の行事を行ふのであつて、始めに虚王を梯ふ虚‡祭があ少.次に身重の紳婁を招く降醐祭があり.而して終に身王 の紳塞と他の諜静との融和を目的とする集紳祭ハ警・m。d手打呈かある。然るに今白此の三段の行事を正式に行ふ 者は革質稀であつて、多くは初めの虚主祭だけを以て之に代へ.入巫祭といへば虚玉東と呼ばる▲やうになつて

居る。如ち乞粒に依って得たる金穀を以て詞へた供物を紳前に供へ、先づ御母が通常の賽紳簡次による不苧カ

マン・進発の三祭節を行って、鈴鹿主カマンの一節を加へるのであるが、そこで入巫の候補者即ち巫病にかlれ る者が、拍手しっi踊り出すと.紳母は之に釆飯を投げ付け、叉威布及び白木綿を裂くこと徳物山の峯解の如くす る。而も此場合の裂布の行事は、﹁兢人橋曾nd弓t昆を裂く﹂と去って、虚主義って身が軽くなるやうにする

兜衛であると云はれて居る。命次に紳母が譲じめ巫病者に気付かれぬやうに隣家に行って、寧琴切琴寧坐早

大豆療豆轟・琴革水及び牛糞の十二品を、夫々十l面の紙包直して諦壇の前に並べ置き、其申の一つを取らせ 朝鮮韮人の入蛮程

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一入 朝鮮巫人の入巫過程 るのであるが、此場合に米又は水を取った者は併謂大巫になれるといふ紳卜である。それから常人が山姥︵評n白雪 n弓p︶をや少、次いで占盤︵只見草p呂︶に米を盛り、之を両手で持って賽紳に集まつた人々の前に行き、∴ふ米占 ひをして人々の道教を告げるのであるが、之は常人が身王の紳婁を得て、其碁敵を示すためであると云ふことで ある。然る後藤母は十二祭節の残部、後餞に至る迄を行って行事を終る。 今之等四つの入巫祭を比較して見るに、単に一回の垂解又は虚主祭のみに依っても入巫し得る、徳物山及び京 姉の略式の場合に於ては、共に先づ乞粒によつて先だ1れるが、江華島及び楊州の巫俗に見るが如く、必ず二段の 行事を必要とする場合に於ては、乞粒は虞主祭の後、降静祭の虜に行ふ形をとつて居る。又徳物山の峯解、京城 の虚主祭は、共に不浄なる﹁峯﹂又は﹁虚主﹂を沸ふために欝飯を投げ付ける行事があると共に、布を裂いて紳路を 開く行事がある。尤も京城の産室祭に於ける裂布の行事は.前述の如く﹁繰入梼﹂−鑑裂いて、虚主を祓ふことによ って身を軽くする意味であると云はれて居るが、それにしても之を梼︵ぎ芭といふ以上、之も亦紳賂を暗示する ものと考へぎるを得ない。即ち紳路を開いて静が来ますために虚王が祓はれると見るべきであらう。従って両者 は共に祓藤と招請との両面の儀鎧を乗ね具へ、巫病者につける不浄の鬼紳を排って、之に清浄なる紳婁をよらt むる行事と見ることが出来る。然る一に江華島及び楊州の入巫祭に於ては、以上の二面の行事、即ちデュルケムの ︵六︶ 所謂滑梅的儀経と療極的儀蕗とが、時を異にして明暗に分化せる形をとり、初の虚主祭に於ては、桃枝を以て打 ち賓飯を投げ付け鬼布を破って虚壬を去り、こ1吾々は苦行の要を見るに勤して、径の降紳祭にありては、只乞 粒に依って得たる金穀を供へ紳梼を開いて、身重の紳露を迎ふることになつて居る。更に又京城の正式入巫祭と 劇場

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1・ヽ

考へられるものに至ってはー虚主琴降紳祭・集紳祭三段の分化を途げて、初に虚主の祓轟あ少、次に身主の聖粥

あり−而して最後に諸紳を招いて之と身重大静との融和を固少、巫と紳界との融合を強むることを見る。

▲▲

さて最後に朝鮮巫人の入巫過程と、北方アジアのシャマニズム民族のそれとを比較することに依って、吾々は幾

多の問題を提供されるのであるが、今立に簡単にその一端を試みることにしよう。先づ所謂巫病靭とも搭すべき

ものl始まるのは、両者共に極めて若き頃、叉屡々少年期と成年期との境界をなす危険なる韓換堺、或は又成年

者にありては特別なる身心上の刺戟を受けたを場合、たとへば巫女に於ける婚姻の如き場合に於て最も多きこと

を見るべく、甚しき老齢に於て入巫せる例は殆んど之を聞かないのである。而もその巫病靭に於ける状潜も亦、

食慾減退、行動不括澄、異様なる眼光、人を避けて幽居する治療的生括よ聖卒然として走出、跳躍、山野に眠

る等の駄に於て.両者全く其規を一にすると思はれる。 今試みにシべワァ民族の三に就て具醍的記録を引用するならば、ヤクートのシャマン、チウスピサト︵天降少 の意︶と解する者はー二十歳の棒大病に羅つて、他人の見得ざる物を見、他人の聞き得ざるものを聞くやうにな

少、九年の間斯かる病苦に憾まされて居たがー彼は斯かることを人に話しても信用もせす、却って笑はれるだら

うと思って二切之を秘して居た。併が彼はょうく危篤の状悪に陥ったので、シ†マンの事を始めたところが、

漸次病気が直ってしまつた。尤も其後も暫らくシャマンの行事を行はないで居ると、矢張り病気になる傾向があ

るといふことを−シエロチ妄スキーに語って居る。シ言チ‡ウスキーが彼に逢った時は、既に六十歳の老邸で 朝鮮砿人の入巫過程 歌道

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朝鮮砿人のÅ巫海穫

二〇

ぁって、三三年の巫人生括を経た時で診るといふことであるが、小柄な帝せた、而も勇健的な、若い囁嘩囁美

男子であつたらうと思はせるやうな男で、老齢にも狗はらず巫的状態に入ると終夜踊少、其眼鱒狂人の知音表情

へ七︶ をもち、一種濁特な番と興奮とを挑管する轟戒をするといふことでもあつた。ポゴラスも亦チュクチーのシャマン に就て、其の眼光の異様に嘩けること、及び之を以て人々はシ十マンが暗中にも鬼賛Sp詳︶を見得るものと考へ ︵八︶ て居ることを述べて居る。伶ニオラ望はシべサア諾族の入巫過程を要約して、﹁巫病に羅つた者は、巫人になる 瞬問迄.甚お苦しい病的な心身の憾みを受けつ1暮らす。それは往々食慾を全く鉄き、人を速かわ−静軽過敏と

なタ、山野河遽に走り出で、時としては掌中に眠るが、斯かる孤寂の境に於て鬼紳と静秘なる曾請をなすのであ

︵九︶ る﹂と云つて居る。一 斯くて寄蒜朝鮮巫人の入巫過程壱、北方アジア諸民族のそれとの問にー其巫病的徴俵に閲する限わ1大鰹の 類似を見るのであるが、斯くの如き生理心理的共通性を別にして孝ふる時は−両者の間に叉若干の文化的差異の

存することを注意せねぼならぬ。先づ第一に考へられることは、朝鮮巫人の若干の者はー其長き巫病の不溶潜な

る滑極栂生括の後.卒然として走出跳躍等の極端なる活動をなすに際し一山中に入つて紳署を慮るといふ鮎であ

る○

鏡及び鈴が紳聖なる巫具として用ひられることは、勿論多くのシ十マニズム民族に見られる併であるが、之を特

に山中に入って求め、而も靡謂神懸りの状腰に於て之を蓉見すると云ふ現象は、少くとも此億の形では他の民族

には周かない所であって、恐らく庭朝鮮巫俗に於ける僻異の文化形腰と見ることが超兼よう。併し乍ら・少しく

ββ4

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此の巫俗の根底に棋はる信仰の本質を考へるならば、必ずしもそれは他民族の巫俗と全然其の信仰を異にするも のと云ふことも出来ない。何となれば、ザバイカルのツングースにありては、一人の死巫の婁が夢に現はれて、 ︵−○︶ 彼の後継者たらむことを告げると云ふことであるが、朝鮮巫人が紳界を山中に得るといふことは、箕は嘗って此 紳希を以て巫事を行へる巫人が.生前其後継者即ち紳娘又は紳息を得なかつたが侶に、之を後継者に譲ることを 得ず.死後之を山中の浮頓に隠し、又は恐らくは死巫と共に葬ったものでもあつて、死巫の婁は只管に其後継者 を求めて止まないと云ふ信仰に基づくからである。侍朝鮮巫人の紳碁に就ては、別に詳述する積りではあるが、 紳懸りになつた者の発見するそれは、多く紳鏡と紳鈴とであつて.静鏡は必ず凸面に限り、著者の威する二十飯 南の巫鏡中凸度の殴り高くない痢癖鏡若干と、著しく凸起せる数多の日月明固︵−︼き︼・壷yO已。︶と共に、一面の日 本古鏡があるが、後者は扁平なる日本鏡を懇々凸面にしたものである。而もこの鏡の光によつて鬼紳を排ふこと 巫鏡は静・巫鼠・静母等の顔であるといふ信仰が存すると共に、常人の中にも鏡を以て父母の傍となす思想があ り、日月明園の如きは日月七星の模様を有し、日月の如く長久なることを意味するものであるが、之に就て吾が 記紀に見ゆる天孫降臨の紳話を聯想することはいと畏しとするも、所謂﹁鏡は女の魂﹂であ少、鏡によつて日月を 意味する信仰は、北方アジアのシャマーーズム民族にも見らる1屏であつて、更にそれは古代支那鑑鋲の宗教的淵 源をも想はせるであらう。若し夫れ朝鮮巫人の静鈴が、其音によつて鬼紳を退け紳婁を招き、鈴の昔が即ち静の 御啓セもあるといふ概念に至っては、一居明かに北方アジア・シャマーーズム、又は日本の静鈴の思想と相通するも のがあると思はれる。而も斯かる紳鈴紳鈴を、生前に於て停承すべき静子を見出し得なかつた巫人が、死後之を 朝鮮あ人の入巫過程 曾αヲ

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二二 朝鮮巫人の入巫過程 山中に秘し墓に埋めたものを、所謂赫怒りになれる者が卒然として発見するといふことは、彼が永き苦行の生活 の後に来る紳の費見であらねばならぬ。そこで彼は虚主によつて凌されたる唇き己の不浄を況して、浮き紳婁の 憑らせ給ふ新しき自我に軽生する併の.入巫の儀蕗を行ふことに依って巫人としての生活に入る謬である。 次に他の若干の巫人の中には、跳舞して神託を下すに嘗って、拍手しっ1之を行ふものがあるが、之も亦少し く特異な巫俗と考へられないでもない。併し之を日本の神前拍手の風と考へ合せるならば、意外な鰭係を見出す ことが出来るかも知れないと同時に.舞踊に拍手を伴ふことは、別に朝鮮及び日本に特有な風とも思はれす、寧 ろ甚だ自然なる行動とも考へられるから、此鮎に執着することは.或は却って問題の本質を逸する恐が無いとも 限らない。暫らく疑を存して識者の敦を乞ひたいと思ふ。 さて最後に、朝鮮巫人の入巫祭そのものと、北方アジア・シャマニズム民族のそれとを比較すべきであるが、問 題が蝕すに複雑に陥ることを恐れて、弦には単にブザヤートのそれとの簡単な比較を試みることに止めて置く。 ブサヤートの入巫式は、周知の如く.湯の薄めである漁備儀式と、立粁祭である本儀式とから成立って居るが、 前者は一人の巫父と九人の巫子とが、泉−多くは三倍併のーから汲んで禿た清水に、薬草大牢牡山羊の耳の毛・ 角及び蹄の切層・生血などを入れて沸かし、之に樺の若木を根こぎにして作つた帯を浸して、巫たるべき少年の 背を打つ行事である。次に立粁祭たる本儀式は、内herege・kど︼空尉と稀せられ、矢張り一人の巫又と九人の巫子が、 巫たるべき少年を伴ふて柑を過少、戸毎に供物や贈物を受けて、儀式の用意を整へ、昔日は一本の最も太い根付 の樺木粁を竃の肝に立て\その椅が煙出の穴から出るやうにするが.之は巫が天に至る出汀む元すものである 2αヲ

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モ・ といふ。叉他の多数の樺木紆を天幕の前面に立て、之等の凡べてに通じて、主粁から青紅二本の紐を渡し之に依 て巫が精霊界に至る道を示すのである。そこで巫父は守護の荷室を呪呼し、少年も之を模し、更に玉梓を蓼ぢて ニー︶ 屋上に出で、聾高に精婁を呼ぶことを以て行事の頂粘とするのであるが、此の沸浮と招請と臥二段に分化した形 は、前述の江華島及び椅州の入巫祭に於て最も明確に認めた肝であ少、而もブリヤートの柑廻りと江華島及び楊 州の乞放とは、共に招迎降紳の行事の前、排浮逐郭の後に行はれることを見る。 只併し朝鮮の入巫祭に於ける梯浮の行事は欝飯を投げ付け、桃枝を以て打ち、麻布の鬼梼を破る等のことに俵 て行はる1に勤し、プリヤートのそれは湯の辞めであり.前者の招請降紳の押勝は布を裂くことによつて開か れ、それは紳橋であると信ぜらる1に勤して、後者の紳路は青紅二條の紐を停はり.立粁によつて静が降ると考 へらる。尤も立粁の風そのものは、清洲の樺木紳粁は云ふに及ばず、朝鮮にも、今更魂志馬韓停を引用する迄も 無く、現に各地の巫祭に静竿・紳将苧城陸苧旗竿等を立てる凪があり、臍州島に於ては、﹁二月朔日、辟徳金寧等 ︵一二︶ 地、立木竿十二、迎紳祭之﹂と構せられ、北鮮の巫女が静壇に教本の細長き棒を立て、之に紙片を結ぶと共に、 京城蓮に於ても亦、聖供の餅が方塔の如く堆高く積まれた上に、必ヰ二本又は数太の細長きもの、例へば造花・ 薯・匙等を挿すのであるが、之も亦高きより降る紳の路を意味する静狩の信仰に基づくものと考へられる。而し て其最も明艇なる救念は、死婁供養の巫祭に於ける鏡餅に挿す花に於て見ることが出来る。即ち巫女が之に魂紙 と辞する紙片を懸けて、死者の婁魂がそこに降れることを具鰹的に示すのであつて、而も一度巫女が其魂紙を取 って頭髪に挿しはさむや一基魂はそこで巫女に移ったのであるから、彼女は直に哀詞と鳴咽とを以て所謂﹁魂譜﹂ 朝鮮麗人の入韮過程 伽7

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朝鮮巫人の入盗過塵 二四 をなしー遺族の兢泣嵯峨哀切を棲むるの光景を展開すること、著者の屡々目撃せる屏である。従って入巫祭に於 ける供物の硫餅の上に挿す造花も亦、一種の紳竿と考へることが出来ると思ふ。 以上私は朝鮮巫人の入巫過程を考察するに常って、世襲的入巫・降静的入巫及び経臍的入巫の三類型を分ち、 尭最も本質的なるものと思はれる降紳巫の箕例若干を運べて、巫柄より入巫への生理心理的経路及び其宗教的意 味を考へ、進んで入巫の儀鎖そのものに閲しては、特に山・島・里の及び町の巫頻に就いて叙べ、更に之を北方 アジ7シャマ一芸ム民族の入巫過程並に其儀鎧と比較することを試みた絞りであるが、固より資料の不備.考察 の未熟なる結果、残されたる問題が砂くない。殊に最後の比較研究に至っては、文字通り其の一端に鮪れたゞけ であつて、之が詳細なる取扱に至つては∵他日資料の整備を期して行ふより外に途が無い。只大鰹に於て青々の 知り得たことは、朝鮮巫人の本質的入巫の過程はl巫病期に於ける虚壬の稜れに射する苦悩と試練との後にー忽 然として降る紳の憑依∵換言すれぼ身壬の秤量を管見することに依つて、静人の生活に入ることであつて、それ は賓に婁魂の革命であり、生命の更新であると云ふことが招来よう。 併し更に之を敢曾轟的意味に於て考へる時は、巫病期に於ける極端なる人間嫌の孤濁状悪より、突黎的に梅端 なる融合頗係に入る過程を示すのであつて、此鮎は従来のシヤマ一芸ム研究者の殆んど注意しなかつたことでも あ少、極めて興味ある問題ではあるが、今は之を巫の教育の問態と共に後日に謀ることにした。 − 昭和六・五・一八・京城lこて﹁靂−

︵∴︶ ﹂ぎgOr琶,宅・当訂︵旨己邑訂e●The J塁−p巧○ユh句鼓評出舛EbitiOn試¢mOir O〓訂L㌻−馬山eS試u籍2n Oへ甥邑ul・已

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出istOrワ貞■−−宍戸p●無声 ︵エ︶ 赤松智城・挽近宗教撃親の研究。昭和四。三八二1六頁。 ︵三︶ 巫は恐ろLく雄丼でぁるみ常ミすろ。之に反Lて訴頼なろものほ言門が開かねもの写して巫−こなれない。 ︵誓 紳紅は朝鮮語でCindO㌣訂チa乱 ミ辞すろ竜の一種で、巫ほ之に米軍鋳を入れ紳の住み家ざ先す。 ︵五︶ 孫晋泰氏ほ﹁支那の巫に就いて﹂巫病ミいふ表現を用ひて居ろ。︵民俗撃、二ノ四、昭和五・四、一−一〇頁。︶ ︵六︶ せn斉訂i−ヱF一恵句OrmeS貯仏日en︷p首袋delp﹂コe出digie磨・巳Yre−11●F窃princip巴現邑itud罷rituel−em・ ︵七︶ C臣p︼ic訂︸芦A●Ab亀igin已Si訂riP−芝トp・−詔・ ︹入︶ 夢ぷ歪まーぅp●eit■−p・〓声 ︵九︶ ヨOr乱発︸¢.DeT許訂琵琶i昌岩∽bei densibir訂F昌く望kern・︼琵㌢S・芦 ︵岩︶ C岸p−i熟p−Op・Cぎp・−−可・ ︵二︶ Ibid●pp●−芸1¢・ ︵三︶ 東国奥地膵覚、三八、済州牧、風俗。 本稿は昭和五六年度帝国拳士院の学術研究補助わ受けて、共同研究者赤を智城博士ミ共lこ徒事ぜろ﹁朝鮮及び清洲に於 ける巫俗の研究﹂の一部であろ。伺資料の調査に患カぜられ㌣金東端君の螢を謝・し㌣い。 追記。巫病者が異能恢を恢復するにこは、偏lこ歌舞賽紳の露草な行ふ=ミlこ依るのであるから、巫病者に,して若L巫事を行 ふ︰ミを禁ぜられ大場合、又は自ら之を行ふ=ミを恥㌻嫌ふ場合にli病態は益々険悪lこ花る。本文第二例の巫女が紳事 禁雛嘗時の苦情は前に述べたが、相常の家庭lこ生れ圭子女が巫病に擢つ㌣場合にも、家人lミ多く彼にこ巫事を行l‡・しゆる こどな恥ぢて、之を零慶する結果益々病勢が完進する︰ミが多い。叉一旦巫事な始めて健康な復L㍗巫人も管らく之を 中止する時は、再び巫病豆犯富れる場合が歩くない。殊に=の=ざ托巫病快癒の後常人lこ琴して巫事わ靡・し王者に屡々 ■ 朝鮮巫人の入巫邁程 タ脚

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見る併であるが、中には自ら厭うて之を行はセい袋に病勢の進むものもある。 数日前著者ほ京城郊外−こ於て、或る高名の巫女を訪う吾が、彼女の夫は学つて男巫であつ圭のに、中頃lこLて之を厭 ひ、紳に仕へるこざな腰Lたゐで、宵苑九年間病床にあり、︼日一杯の朝鮮濁酒な取るだけで苧っどて生命を保つて居 るミいふこミである。私は影の如く衰へ㌣彼が時折人ね呼ぷ蟹を聞き、英姿わ瞥見する︰ざね得たが、此老巫覿の間lニ ー‡一人の息子があつて、巫病にかゝつt一少女を紳嬢写して養ひ、二人み夫婦にLて居るので、彼女の家には都食二人 の巫貌が居ろ諸でぁり、御堂も三室に分れて居ろ。殊に二妓の紳堂にほ彼女が十四歳¢時、降筆ま科する紳懸に発つ上殿 に書い圭ミいふ神学若干が祀つてあつわ。叉老巫白月も茸は相嘗の家に生れて、十五歳め時に嫉いだが、十七歳の時巫 病にかゝつ圭のを、家柄の関係上巫事を行ふこミが出来ず、二十六歳に至る迄昔Lんだ上、遂に夢中で家を飛出Lて大 株ミなり、魚攣して家に蓮ばれ、正義に返ろ時に突然御託を下して姑に怒鳴り付け、拍手踏舞Lて明かlこ紳懸の状態を 牢し上ので、ミう′\蝮入党を迫l‡れ、二十七歳の暗から巫事を始め、健康な恢復Lて現在の夫を迎へ㍗のであつた。 ︵昭和六・六・二一︶ 朝鮮巫人の入巫過程 ■ βJ∂

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吠梗多撃婆伽梵歌・サパー−シュアヅに掛する大部の証樺書以外に、商掲羅阿閣梨の著作として侍多数の作品が 俸へられてゐることは一般正良く知られてゐる事賢である。嘗てアウフレヒトはC邑竜C邑。胃mの中で無

慮三石穣以上の作品が商指揮に蹄せられてあることを指摘したがー無論其の中には彼自身も言へる如く重複もあ

るし叉到底全部を同蒜者に節することは不可能であらう。西暦完一〇年に南印度警ang冒で出版せられた 裔掲羅の著作集︵雰m。ri已買iぺn。⋮⋮。r打sOを㌢k邑ざ鼠竺主審から成立つてゐるが、編纂も組織的 で彼の著述︵或は著述と稀せられるもの︶を廉く研究するには今日の虞基礎的なものとして最も便利である。今其 の痴輯様式の概略を述べると、整容から第三巻までが吠檀多経の建坪、四番から十巷迄が渚サパ1;ユアヅの註 繹−十一巻十二審が婆伽梵歌の註繹、第十三巷がつ百官乳訂率冒腎畠及びS邑s音竃の註滞、弟十四番が尋e訂・ 急ぎ鼠及び盲de恥邑邑∵第十五番第十六番が小作品集−第十七第十八の二審が諸賢rpの集成、第十九希 二十が暫琶g−邑⊇と成ってゐるか即ち第一巻から第十三巷までは註辞書で残飯の七巻が猪立の著作を成してゐ

二七

﹁我¢先知﹂どm賢旨

﹁我の愛知﹂倉mabOdha

一 緒

金 倉 固 願

βJ虞

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る葬である。

孜.此の南洋辟の猪立の著作の中で.比較的に大部の物を除いて小作品と耕せられるもの、即ち前記著作集中 筋十五番第十六番に編入せられてある作品を中心に置いて考へると−其の中には︼ぎ旨d訂ud琵琶pのやうに二 五七囁もあつて相常に纏った物もあるが、又中にはAd乳首辟邑2や察息官許許などの様に僅芸囁から成

立つ断章も含まれてゐる。そして極少の特例を除けば全部が韻文職鷹迦であつて・前記二番の中に斯様な小作品

が三十二篇収戒せられてゐるのである。併し一般に小作品︵亨pk彗眉いもと言つても−必しも這の作品茫限定せ られて居ない許嫁には、プーナで出版せられた商掲経書作集中の小棒品集︵WOr訂○へ㌢訂r冨蔓inOrigi邑S守 ヨ資t−邑・コご︼5nOrWOrk仇−戸=這㌔−・=琵︶が前記の物と全く同一ではないことから知られる0即ち後者 では憎賢i好罵言とかH訂賢覧官bb思苫など凡そ五部の小作品を除いてゐる代りに∴き計巨象訂とか、断章や ぎt⊇の数種で全くス竺フンガム版中に存在しない物を加へて居少・加之ス!アンガム版では小作品とせられす して他の濁立巻本中に収められた5象邑合m阜ぷ乳e恥匡︸転忘呂a旦芸y守bb茸P︶5竃S註雷nぎ甲b.詳箋の捌

蓋をも此の中に収讃してゐるのである。そして全二審が三十篇に分割せられてゐる。

然らば斯様な出入は何に由来するのであらうか。既に述べたやうに、南掲羅の作品と解せられる物は三軍種以

上に捗るのであつて、其の著作集を編纂するに雷って若し著しく偽作の疑ある物も総て彼に蹄せられる物竺切

之を集成するといふ方針を探らず、一定の限度を立て通常の範囲内に編燈する事と成れぼ、勢ひ編輯者の意見に

従って取捨撰繹の行はれるの恩義であ少、従って二偶の濁立な編輯人の意見を代表する二何の著作集が内容に

﹁扱の聴知﹂ど邑Od訂 且ほ

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於て軌範を来すのも亦理の嘗然である。現に有名な腎毒監l暫t善官等訂の如きは其の性質から見て小作品集中 に、編入せらる可きであり乍ら其の中にも亦著作集の何虚にも牧容せられて無いのは、痴輯者が此の著を商弗羅 の眞作と認めなかつ挺明な逆接であつて、編纂に雷って眞偽の判断が一の標準と欝られてゐることは疑を容れ無 い。 斯様に考へて来ると、今此の濁立した著作集の中で、二偶の著作集に共些採録せられた小作品は一個の著作集 −︳■▼ に採録せられてゐるのみの物よりもー注意を要すべき物であると主張せられょう。尤も斯く言っても、それは相 射的のことで現に∴夢賢哲き忌の如きは一方にのみ扶持せられては居るけれども.他の理由から商掲羅の作品と も見られ得ることは、他で私が論許した通である︵曹辱雑誌四七五戟︶。併し真作か偽作かを決定する究極的な資 料の極めて乏しい南海羅の諸作品にあつては、ともかく印度土着の専門尊者が、夫々猿立して然も共に農作に近 い物と推定したと考へられる事は、更に進で研究に入る際に十分考慮を排ふ償植ある嫁併の一を給輿するものと 見て差問えない。 侶で今此鹿に問題とする﹁我の愛知﹂どmpb。d訂は如何かといふと、之はス!アンガム版では第十五番五五頁 から六六真に、ブーナ放ではl三頁から一八東に、共に採用せられてゐるのであつて、T一同●謬l鼻旨已旨旨箋と 声声字遥買ぇの夫々別個の編輯者が猫立して阿常梨の作品と認む可き物の一と虜した粘に於て意見の一致を見 た事を示してゐる。之は﹁我の愛知﹂が普通印度の畢界で裔掲操阿牌梨の眞件の︼であると認められてゐるとい 尊一 ふ断定の鹿野の左遭では無いとしても有力な一論鰯とは成り得るであらう。斯様に此の一篤は印度の革界で畢要 ﹁哉や発効﹂㌢さ賢d訂 2J∂

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﹁我の最知﹂ど臼ab。d㌢ 三〇 成せられてゐるのみでなく、西洋の印度拳者問に於ても亦早くから注意せられて居少、現代の有力な畢匠も商籍 藤の彩多な作品中から二三の眞作を指摘するに雷って、此の﹁我の費知﹂を其の中に算入するを常としてゐる程 である︵試p乱○邑−こndip−∽謬st二ワ一念ご﹂ヨnt讐itNGe邑icF訂︸戸S・長子ト姦し商掲羅の主著と言へば本文の努頭 に掲げた註繹書を無論指定す可きであるが、それ等は何れも柏常に大部の著述であ少、又註繹である以上、ギ一 夕一誌の如きは寧ろ猫立の著作と言ふ可きであるとはせられるけれども.或程度迄併託の原文に支配されるを免 れ無いのであつて、罵絆無く商掲羅自身の思想を経めて表現した物とは属し得ない映鮎を有してゐる。然るに証 群書以外の猪立の著述となると、斯様な映粘を有たず、作者は其の思想感情を自由に展布するから、却て彼自身 の面目を捕捉するに便利な鮎も存する。﹁我の螢知﹂の如き短篇では勿論彼の雄渾な鰹系の全豹を展望し難いけれ ども、極簡単な中に其の要黙の一斑を察知し得る特色を具備してゐるのである。斯様な理由からして、特に此の 短篇が語草者の注意を惹いたものと想像せられる。 ヰンテルー︻ツの印度文拳史に擦ると此の短篇は明治五年にせ一・Hal−が出版し、次に同九年にT・増・内ear昆がIP di呂Antiqu弓叫誌に英謬を萄表し、更にβぎ首rが同二十六年に廊霹出版したと記されてゐる。併し之等の労作 は印度拳蓉蓮史から勘へると概ね中期以前の産物であり、従って又我日本では随所に披見し得る程得易い文献で も無く成ってゐる。串ひ私は此の中で﹁印度古物誌﹂中のキブーツズの英霹を参照し得る便宜を有するので、前掲 のこの著作集中の原典を基絶とし、此の英繹を象著して愛に和詳を試み諸賢の是正を乞ふこととした。 以上で大粒﹁我の寛知﹂が如何なる種寮の文献であるかといふ事に就ての改備的任意を終ったからl次に原文 班

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rの和繹を提示し、最後に伶それを基礎として論義すべき粘を述べて此の一袋豪終り度い。 註−封P臣詩r瞥n呂l‡﹁我の愛知﹂を商掲羅の中心作品ミli燭光いが、彼に得ぜられる一作品写し、商掲羅訊の叙述に常つ て数回援引Lて此の作品の重要牲な具鰻的に申してゐろ︵印度哲撃史弟二巷四五〇貫及び索引AtmpbOd訂の下に示さ れ、し諮頁参照︶

我 の 覚 知

︵一︶ 此の﹁我の愛知﹂は、苦行によりて罪の滑えし人、寂静と成れる人、食なき人、解脱を望む人、斯かる人 人の考察す可き物として愛に詭示せらる。 ︵ニ︶ 発知は葦に他の手段よ少も直接解脱を得しむる唯一の手段たれぼな少。知なくして解脱の成就せざるは、 火なくして炊事し能はぎるが如し。 ︵三︶ 所業は無明に反せざるが故に、そは之を除き得ざらむ。唯だ明のみの無明を敬するは、光の重闇を破する が如し。 ︵一︶ ︵四︶ 葦に我が個別の如くなるは無知に基く。無知滅すれぼ猥一と成り自ら光照す。雲散じて太陽輝くに似た少。 ︵五︶ 無知に汚れし命我を、知の習修によりて汚れ無きものとせし後、知は自ら滑滅せむ。カタカ粉末の水を浮 むるが如し。 ﹁我の艶知﹂ふ宮中bOdぎ

二 餅

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﹁我¢龍知﹂ゝ.tm号d訂 三二 ︵六︶ 食恰等に満ちて輪廻は賞に夢に等し。其の閲兵箕なるかに顛はるれども、像むれば直に非有と成らむ。 ︵ヤ︶ 鼻球母を銀と見るが如く、誤って世界が眞箕と見らるる問は、一切の屏撼にして不二なる梵は知らるるこ となし。 ︵八︶ 質料因にして又全醍の支持たる最高紳に於て諾世界は生じ任し滅す。水に於て泡沫の生任滅するが如し。 ︵九︶ 眞賓知を本性とし内制者にして常任なる昆租奴に一切雑多の偶的穎現が想定せらる。黄金に涙顔等の個略 顕現が想定せらるる如し。 ︵岩︶ 彼感官の王︵茸嘗乳且 は虚峯の如く種々の限制を蒙り其の差別等の応分の如くに穎はる。限制滅すれば 猫︼たるべし。 ︵≡ 姓・名・階位等の差別は唯だ種々なる限制によりて我に附託せられしものなり。味色等の差別が水に附託せ らるる如し。 ︵三︶ 身はこれ元素の五分作用より生じ所業の薦集にして、苦楽受用の屏依と言はる。 ︵三︶ 細支は五風・意・畳・十根を具し、五分せる元素より生ぜず、受用の手段なり。 ︵一四︶ 原因限制は無始・無明・不可詭なりと言はる。三者組成の限制よ少も我は他な少と軽信すべし。 ︵芸︶ 絆我は五葦毒等と結合して恰も其より成れるかの如くに在少。透明なる水晶が青衣と結合して青色と見ら る1が如し。 ︵冥︶ 究理の打開力によ少て形皮等の葛篭と結合せる内部の浮我を沸別すべし。翔を為きて米を別つが如く。 βJβ

参照

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 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

七圭四㍗四四七・犬 八・三 ︒        O        O        O 八〇七〇凸八四 九六︒︒﹇二六〇〇δ80叫〇六〇〇

︵原著三三験︶ 第ニや一懸  第九號  三一六

Next, cluster analysis revealed 5 clusters: adolescents declining to have a steady romantic relationship; adolescents having no reason not to desire a steady romantic

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

2 学校法人は、前項の書類及び第三十七条第三項第三号の監査報告書(第六十六条第四号において「財

条第三項第二号の改正規定中 「